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2006年11月上旬
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月が替わったところで爆笑都市の本丸、インチキの牙城、うわっつらの総本山、われらが名張市役所にご挨拶を申しあげようと考えていたのですが、とりあえずご挨拶を申しあげる対象となるセクションが隠街道市(なばりかいどういち、とお読みください)とやらの準備でお忙しそうですからちょっとだけ先送りすることにいたしました。 隠街道市にエールを送る意味で昨日付中日新聞の伊東浩一記者の記事を引いておきましょう。
しかし、どうでもいいことだといえばどうでもいいことなのですが、なんかひっかかってしまいます。隠街道市というのが私にはどうもひっかかる。念のために記しておきますと、私はべつにコミュニティイベントを否定するものではありません。官と民とが協力して狭い世間で好きなように盛りあがっていただければそれでいいと思ってはいるのですが、しかし、しかしなあ。気になる点はやはり指摘しておいたほうがいいのかしら。 これは二年前、一昨年秋のことになりますが、伊賀地域を会場に催された「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」というなんちゃって事業の一貫として、わが名張市におきましてはからくりのまちってのをコンセプトにしたコミュニティイベントがくりひろげられました。からくりのまち、などというのはもちろんインチキです。うわっつらだけのものです。何の根拠もありません。ただの思いつきです。みたいなことはこの伝言板でしつこいくらいに指摘いたしましたからここにくり返しはしませんが、ばかというのはどうしようもないもので、たしか去年もまたからくりのまちがどうのこうのと寝言みたいなこと口走りながらイベントが実施されていたと記憶いたします。 そういえば、名張市がばかの本場であることを天下に知らしめた名張エジプト化事件において、ばかがご丁寧に掲示板「人外境だより」に名乗り出てくれたあの珍事に際しましても、つまりこれなわけなのですが── 最初に登場したばかの投稿はこんなものでした。
何が「ようこそからくりの町なばりへ」だばーか。ほんっとばか。「非日常世界」はてめーのおつむのなかだろうが。何が「からくりの町なばりを楽しみにしておき給え」だばーか。これはもう眼にしみるほどのばかである。 しかも昨年は事態がさらに悪化しており、肝心かなめのからくりにちなんだイベントはただのひとつもなかったのであった。気は確かかばかども。ばーか、やーい、うすらばーか、と私はその点をもこの伝言板で指摘したものであった。 さて今年である。からくりのまちというコンセプトはどこかへ行ってしまった。ようこそからくりのまちへ、などとほざいておったうすらばかどもはからくりのまちを簡単にほっぽり出してしまった。じつに無責任無節操な話である。理由はわからぬ。しかしそもそも名張はからくりのまちなどではまったくないのだから、そこらのうすらばかがでっちあげたインチキなどそうそう長続きするものではないのである。あたりまえであろう。それで今度はどんなインチキが企てられたのかというと、これが隠街道市なのであった。かのインチキ委員会、原理原則をきれいに踏みにじり理念信条など埃ほどももちあわせぬすっとこどっこい委員会、ほんとにプリンシプルなんてどこ探したって見あたらないのであるけれど、とにかくあの名張まちなか再生委員会がなぜか主催する隠街道市なのであった。 私はこのたびの新手のインチキがどのように企画されたのかはまったくあずかり知らないのであるけれど、ここで想像をたくましくしてみることにしよう。すなわちあのインチキ委員会は初瀬ものがたり交流館などというインチキ施設を整備したいらしいと私は聞き及ぶ。名張まちなか再生プランでは歴史資料館として利用されることになっていた細川邸という旧家を初瀬ものがたり交流館という何やら意味不明のしろものにしてしまうというのである。初瀬は初瀬街道の初瀬である。要するに連中はからくりのまちが失敗に終わったから今度は初瀬街道沿いのまちであるという珍しくも面白くもないコンセプトをもちだしてきて、隠街道市とかいうコミュニティイベントにおいて街道のイメージを前面に押し出してみることにしたというわけであろう。 しかもそこには当然のことながら初瀬ものがたり交流館におけるインチキ性を覆い隠すため、名張のまちと初瀬街道との関係性を強く訴えるという意図もこめられているのであろうけれど、なんのなんの、名張は初瀬街道に数多く存在していた宿場のひとつであったというだけの話である。それ以上でも以下でもない。初瀬街道との関係性をいくら強調してみたところで名張のまちのアイデンティティが明確になるわけではまったくない。何を考えておるのか。じつに底の知れた浅知恵である。相も変わらぬ猿知恵である。プリンシプルなき委員会、まことあわれなものよのう。 ですから私は名張まちなか再生委員会に対してはもうばかども好きにしろという言葉しかもちあわせてはいないのですけれど、隠街道市そのものの気にかかる点はやはり指摘しておいたほうがいいのかなとも思いますので、名張市役所にご挨拶を申しあげるまでのインターバルにそんな話題をつづろうかしら。
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本日も隠街道市関連の新聞記事からまいりましょう。昨日付毎日新聞に掲載された渕脇直樹記者の記事です。
それでは隠街道市の気になる点、たたたたたーっと書きつけることにいたします。何が気になるといって隠という用字、これがどうにもひっかかります。むろん些細なことである。取るに足りないことである。アナクロニズムの面白さをねらったものであろうと好意的に解釈できぬでもありません。じつにどうでもいいことなのである。だがしかし、伊賀地域を代表する知性として私は違和感をおぼえざるをえないのである。 まずこれをごらんいただきましょうか。あれはいつであったか、ちょうど一年ほど前のことでしたか、名張の歴史をテーマにした簡単な講演を依頼されたとき、会場での配付資料としてまとめた年表の一部です。
ごらんのとおりである。いわゆる記紀万葉をひもといてみますと、ナバリという地名には那婆理、名墾、隠といった漢字があてられています。表記は一定しておりませんでした。これが名張に落ち着いたのはいつのことであったのか。そんなことは誰にもわかりません。わかりませんが察しをつけることは可能です。引用の最後に出てきた風土記が編纂されたころのことではないかと考えられます。 続日本紀の現代語訳から和銅6年(713)の条を引きましょう。底本は宇治谷孟訳の講談社学術文庫『続日本紀(上)』。
文中の「史籍」がのちに風土記と呼ばれることになる地誌であり、編纂を命じたのは元明天皇でした。元明天皇だけに厳命しました、なんちゃって。ともあれ風土記の編纂は大和朝廷が諸国を支配し諸国から収奪するためのデータベースづくりであったという寸法なのですが、このとき当地でも伊賀国風土記が編まれ(むろん残ってはおりませんが)、ナバリなる地名に名張という表記が用いられたのではないかと推測されます。あおによし奈良の都の奈良時代から、名張と書くのがいわばオフィシャルな表記であったと見るべきでしょう。 ですから隠街道市、なんてこといわれると私の頭には違和感が虫のごとくもぞもぞと這いまわるわけです。名張が隠であった時代の街道といえば、続日本紀にも出てきましたけれどいわゆる五畿七道のうちの東海道、これが当時の街道でした(海道というのは地域名でもあり官道名でもあったわけですが)。都が大和にあった時代の東海道はまず伊賀に入って伊勢、志摩、尾張、三河とつづくルートであったとされています。 しかるに隠街道市における街道というのは江戸時代の初瀬街道のことなんですから話がややこしい。より厳密にいえば江戸時代には参宮の表街道という呼称が一般的で、初瀬街道が公称となったのは近代に入ってからのことなのですが、そのような些事はともかくとしても隠という文字と初瀬街道とを抱き合わせることにはやはりいささかの無理が感じられる。 むろん些細なことでしょう。取るに足りないことでしょう。アナクロニズムの面白さをねらったものであろうなと、はたして関係者にアナクロニズムという言葉の意味が理解できるのであろうかという一抹の不安をおぼえつつも、そんなふうに好意的に解釈することだって可能でしょう。しかも私には、名張のまちなかに初瀬ものがたり交流館たらいうインチキ施設をつくって税金を無駄づかいしなければならぬ関係者の苦衷もわからぬではない。そのためにコミュニティイベントを利用して名張のまちにおける街道のイメージを強調したいという策略も理解できぬではない。 しかし、しかしなあこらうすらばかども、きのうも記したことなれど、初瀬街道の宿場なんて普通にごろごろしておったのだぞ。早い話が名張から自動車で十五分かそこら走ってみなさいな。伊賀市の阿保には初瀬街道交流の館たわらや、なんていう施設があるではないか。ご存じないのであれば青山観光協会オフィシャルサイトのこのページをごらんなさい。 初瀬街道交流の館たわらやというのは阿保にあった旅籠を整備した施設であるらしく(私は行ったことないのであるが)、そうした由緒を示す参宮講の看板も展示されていると聞き及ぶ次第なのであるが、これから名張のまちなかに初瀬街道をテーマにした施設をつくってどうするの。何を展示するの。何がしたいの。だいたいがおまえらごとき歴史認識も歴史意識も何もないうすらばかがなーに調子こいてやがる。何が隠だ。何が初瀬街道だ。ちっとは勉強してきやがれ。などといってもしかたありません。なにしろ名張市議会には江戸時代は中世であるとじつに斬新なことを口走ってはばからぬ先生だっていらっしゃるくらいなんですから、この名張市で歴史認識だの歴史意識だのといった話が通用する道理がないではないかこのあんぽんたん。名張というところにはばかしかおらんのか実際。 さてそのばかの本場である名張市できょうとあす、田中徳三監督の自選作(らしいです)五本を一挙上映する映画祭が開催されます。
あす3日夜には田中監督を囲んだ大宴会も予定されているそうです。参加ご希望の方は名張市青少年センターの会場受付でその旨をお伝えください。たぶんご参加いただけると思います。
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きのうのつづきです。きのうは時間的なへだたりの問題について述べました。ナバリを隠と書いたのは古代における地名表記であり、初瀬街道というのは近世から近代にかけて存続した街道であるがゆえに、隠街道市というイベントの名前は私に違和感をおぼえさせるというおはなしでした。関係各位におかれては私の違和感など気にすることなくおおいに盛りあがっていただきたいものですが、きょうは空間的なへだたりをテーマにご機嫌をうかがいたいと思います。 ナバリが隠と表記されていたころ、その隠はいったいどこにあったのか。あすあさって隠街道市が盛大に催される名張旧町地区市街地、いわゆる名張まちなかではありません。名張川を越えたところでした。現在の地名でいえば箕曲中村のあたりだと考えられています。ですから隠街道市などというネーミングは、むろんそもそもの最初から単なる思いつきではあったわけでしょうが、それにしたって時間的にも空間的にも気絶するほど無茶苦茶な歴史認識にもとづいた思いつきであるというしかありません。 どこから説明すればいいのかと考えて、壬申の乱のことからはじめましょう。壬申の乱とは何か。ここに兄と弟がおりました。兄には男の子がおりました。兄は天皇でした。兄が病死したあとは男の子が天皇になりました。弟はその男の子、つまり自分の甥にあたる天皇を殺害してみずから天皇になりました。これが壬申の乱です。皇位継承をめぐって骨肉の争いがくりひろげられた古代最大の内乱です。兄は天智天皇で、弟は天武天皇。即位前の天武は大海人皇子と呼ばれておりました。出家して吉野に隠棲していたのですが、兄の死後、大津にいた甥を討つべく吉野から伊賀に入り、さらに東国にまわって豪族を糾合しながら大津に攻め入りました。きのう引用した年表からさらに引いておきましょう。
日本書紀によれば吉野を発った大海人は伊賀に入って隠の駅家を焼き払い、そのあと横河で占いをしました。駅家は「うまや」とも「えきか」とも読まれますが、情報伝達のため馬を常備して古代の官道に設けられていた役所だと思っておきましょう。横河というのは名張川のことです。つまり大海人皇子一行は吉野、隠の駅家、名張川というコースを進んだわけです。もしも隠の駅家が現在の名張まちなかの地にあったのであれば、一行は吉野、名張川、隠の駅家と進まなければなりません。しかしそうではなかった。なぜか。駅家が名張川の手前、現在の箕曲中村のあたりに存在していたからです。 隠の駅家があったと推測されるあたりには、いまではいくつもの大型店が建ち並んでいます。国道165号線の沿線です。大型店の建設に先がけて発掘調査が行われた際には、もしかしたら駅家に関連する遺物や遺構が発見されるのではないかと名張市教育委員会などの関係者が期待を抱いたものでしたが、残念ながらそうは問屋が卸してくれませんでした。しかし古代のナバリが名張川の西にあったことはまず確実で、郡家と呼ばれた名張郡の役所もまた箕曲中村に置かれていたと見られています。 ついでですから、きのうの年表からふたたび引いておきましょう。
大化の改新の詔で畿内の範囲が定められ、東は「名墾の横河」、すなわち名張川までと定められました。大和を中心にした畿内の東限が名張川で、そこまでがいわば首都圏だったわけです。名張川の東に位置している名張まちなかの地は、古代においてナバリと呼ばれた場所ではなく、そもそも畿内ですらなかったということになります。 さて、時間的にも空間的にもとんでもない歴史認識にもとづいてネーミングされ、そのコンセプトには初瀬ものがたり交流館の整備構想を正当化しようという悪辣な企みが秘められてもいる隠街道市はいよいよあした開幕いたしますが、本日はこちらが二日目を迎えます。
私はきのう会場に足を運んだのですが、観客の年齢層の高さに一驚を喫しました。
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ついにこの日がやってきました。とうとう開幕です。昨年6月26日の発足以来インチキにインチキを重ねて幾星霜、名張まちなか再生委員会が単なる思いつきでぶちかますコミュニティイベントがいよいよ幕を開けます。下の画像をクリックしていただくと名張市観光協会のオフィシャルサイトにある PDF ファイルが開きますので、プリントアウトして隠街道市のおともにどうぞ。 三日前の伝言にも記したことですけれど、私にはこの手のコミュニティイベントを否定するつもりはありません。官と民とが協力して狭い世間で好きなように盛りあがっていただければそれで結構。隠街道市というネーミングに異議を申し立てたいわけでもなく、ただ違和感があるというだけの話である。隠という文字をナバリと読ませることが面白いのであればいくらでもおつかいなさい。そこらの無知蒙昧な白色人種が意味を理解しないまま漢字一字のタトゥーを入れているようなものだと思えば気にもさわらぬ。尻とでも屁とでも好きな漢字を彫っておけ。 いやいや、タトゥーの話ではありません。隠街道市の話題なのですが、ですからまあ好きにやればよろしい。開幕初日くらいは笑って見すごしてやろう。いやいや、ですから私はコミュニティイベントそのものには何の文句もないのですが、名張まちなか再生委員会という名前の地域社会の害虫には困ったものだと思っており、しかし彼らに歴史認識や歴史意識を説いてみたとてせんかたあるまい。もはや相手にする気も失せた。せいぜい笑いものにしてやる程度のことである。だから好きにしろといってるわけなのですが、ともあれけさのところは隠街道市の盛況をお祈りしておきましょう。 時間がありませんのでまたあした。
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名張まちなか再生委員会が主催する隠街道市はきのうめでたく開幕いたしました。天候にも恵まれたようです。本日付中日新聞に掲載されている山田浩司記者の記事をどうぞ。
隠街道市はきょうで閉幕となりますが、来年もこの時期に似たようなコミュニティイベントが催されるのかどうかは不明ですし、開催されたとしても隠街道市という名称が継承されるのかどうか。名張市にはどうも無節操なところがあって、あんなに大騒ぎしたからくりのまちでさえわずか二年の命でしたから、隠だ街道だと歴史認識や歴史意識をいっさい等閑視していつまで浮かれつづけることができるのか、これも私には予測できません。隠街道市を体験したいとおっしゃる向きはきょうを逃せば二度とその機会がないかもしれません。どうぞお出かけください。何でもありの名張のまちへ。 何でもありというのはもちろん、中日新聞の記事にもありますとおり「ブドウやミカン、ダイコン、ネギ、サツマイモなどの農産物や、地酒、花、和菓子、みそ、木工製品など」が名張のまちに勢揃いしているという意味なのであって、名張市においてはルール違反も手続き無視もみんなOK、インチキだって何でもありだという意味ではありません。もとよりインチキはいまや名張まちなかの名物だといって差し支えないのですけれど、その手のおはなしは隠街道市が終わってからということにして、きょうのところは先日の年表を再度引用して歴史講座をつづけましょう。
年表の記載事項のうち、大化の改新と壬申の乱と風土記にかんする説明は終えております。本日はそれ以外について述べましょう。まずは──
稲置は「いなき」とも「いなぎ」とも読みますが、地方の官職名です。おそらく土地の豪族が任命されたのでしょう。稲など穀物の管理や収納を担当したと見られていますが、よくはわかりません。伊賀の国の三か所に稲置が置かれたというのですから、この三か所はすなわち穀倉地帯。須知は「すち」と読み、のちに矢川郷となりますが、宇陀川と滝川にはさまれた地域。那婆理はむろん「なばり」ですが、現在の名張まちなかの地ではなく名張川の対岸、箕曲中村を中心にした一帯。三野は「みの」で、かつての小波田村のあたりと見られています。須知と那婆理は名張郡、三野は伊賀郡に属しました。 この稲置の記事はナバリという地名の文献上の初見です。つまりナバリがはじめて歴史に登場したのがこの記事なのですが、じつは古事記の序文にもナバリのことが出てきます。太安万侶が奏上したこの序文には天武天皇の事蹟を紹介するくだりがあり、そこに壬申の乱のおりの名張川でのエピソードが語られています。ナバリという地名は明記されていないものの、 ──投夜水而知承基。 書き下し文にすると、 ──夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。 とあるのがそれなのですが(底本は岩波書店の日本古典文学大系『古事記 祝詞』)、水は「かわ」と読んで名張川のことだと考えられています。 古事記の現代語訳は何種類も出ていますが、福永武彦の訳を見てみましょう(底本は河出文庫『古事記』)。天武天皇の事蹟が述べられたパートです。
ごらんのとおり名張という地名が補われています。 ──また暗夜、伊賀の名張の横河に黒雲の起こるのを占われて、帝位を受け継がれることをお知りになりました。 これは隠の駅家を焼いたあとのエピソードで、日本書紀から書き下し文で引きますと(底本は日本古典文学大系『日本書紀 下』)、 ──横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。 隠の駅家を焼き払い、さて名張川を渡ろうとしたときのこと、夜空に黒雲が出現しました。天武天皇(この時点ではまだ天皇ではなくて大海人皇子だったわけですが)はこれを奇異なことに思い、得意の占いを試みました。陰陽道の占いです。と、天下はふたつにわかれるがついに天下を手中にするのは天武である、という卦が出たそうな。 しかし夜空の黒雲がはっきりと眼に見えるものであろうか、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。黒岩重吾もそう考えたのでしょう。壬申の乱を描いた長篇「天の川の太陽」には黒雲の合理的な解釈を見ることができます。引いておきましょう(底本は中公文庫『天の川の太陽(下)』)。文中の〓は木の横に式という字をならべた漢字で「ちく」と読みます。
夜空にかかる黒雲は、じつは燃えさかる隠の駅家からたなびいていた黒煙であった、というのが黒岩重吾の解釈です。 次にまいりましょう。
当麻真人麿は「たぎまのまひとまろ」と読みます。ほかにはいっさい名の見えない下級官僚で、それが持統天皇の行幸に供奉して都から伊勢に赴いたとき、都に残された妻が詠んだのがこの歌。万葉集の一巻と四巻になぜか重複して収録されています。私の夫はどのあたりを行くのだろう、おきつもの名張の山をきょうあたり越えているのだろうか、といった意味です。 谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」では主人公の家に飾られた菅楯彦の絵にこの歌が書き添えられていることになっていて、名張市民としてはなんとなく嬉しくなったり懐かしいような気分になったりする次第なのですが、名張まちなか再生委員会のみなさんにはそんなのはどうだっていい話でしょう。さいわいきょうもお天気はいいようだ。歴史のれの字も知らず歴史認識や歴史意識にもとんと縁のない名張まちなか再生委員会が主催する隠街道市、天罰がくだることなく盛況裡にフィナーレを迎えてくれることをお祈りしておきましょう。
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名張まちなか再生委員会主催の隠街道市(なばりかいどういち、とお読みください)はきのう終了いたしました。私も行ってまいりました。いつもはほとんど人通りのない、という表現がけっして誇張ではない名張のまちが、さすがににぎわっておりました。結構結構。写真をごらんいただきましょうか。 場所は本町。隠という文字を染め抜いたのれんが揺れ、隠街道市ののぼりが立つ町筋で、お餅つきが人気を集めていました。杵の動きにあわせて子供たちの掛け声が響いておりました。名張まちなかに子供の声がこだまするなどというのは、ふだんは絶対ありえないことではないかしら。写真左側の道路がかつての初瀬街道にして現在の本町通りなのですが、結構な人出であったことがおわかりいただけるのではないでしょうか。 さてお立ち会い、おとといきのうと隠街道市でにぎわったこの名張まちなかでこれまでにいったいどんなインチキが展開されてきたのか、ざっとふり返っておきたいと思います。 まずは一昨年。
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業自体がとてつもないインチキでした。どこがどうインチキであったのか、この伝言板でさんざっぱら指摘したことですからきょうのところは省略いたします。 いっぽうの名張地区既成市街地再生計画策定委員会は、委員の人選からしてインチキであったと私は思います。まちづくり推進協議会だの青年会議所だの老人クラブ連合会だの文化協会だの川の会だの商工会議所だの社会福祉協議会だの県民局だのPTA連合会だの市議会だの区長会だのといった諸団体関係機関から委員を寄せ集め、トップには大学の先生を連れてきていっちょあがり、みたいな手法はじつに旧態依然としています。どこに専門知識をもった委員がいるのか。専門知識どころかまともな見識さえもちあわせていない委員がいるのではないか。この委員会のどこに名張のまちの人たちの生の声が反映されるのか。単にうわっつらを整えただけでプラン策定能力にはおおいに疑問を抱かせる、ひとことでいえばインチキと呼ぶしかない人選であったと私には見受けられます。 つづいて去年。
インチキを指摘しておきましょう。細川邸を歴史資料館として整備するという構想そのもの、これが最大のインチキでした。なぜか。わざわざ施設をつくって展示すべき歴史資料などどこにも存在しないからです。私は名張まちなか再生委員会の事務局で歴史資料のリストを見せてくれるよう依頼したことがあるのですが、そんなリストは存在していませんでした。歴史資料のリストもないのに歴史資料館をつくるという構想が先行していた。これはインチキというしかない事態です。どうしてこんな構想が出てきたのか。 諸悪の根源は細川邸という旧家でしょう。 細川邸にはすでに住む人がなく、名張市が所有者と賃貸契約を結んで利用することが可能な状態になっています。とくに商工関係者のあいだには、この細川邸を何らかの施設として整備すれば名張のまちに殷賑がもたらされるのではないかという期待があったようです。しかし私には、そんなものはただの思い込みや勘違い、はっきりいえば妄想であるとしか見えません。そんな程度の施設整備で名張のまちがにぎわうわけがない、というのが私の意見です。 私の意見はどうでもいいとして、細川邸をどのように活用するかということが名張地区既成市街地再生計画策定委員会にとって最大の課題であり、名張まちなか再生プランの目玉であると目されていたはずです。それがどうして展示品なき歴史資料館といった構想に落ち着いてしまったのか。話はごく単純です。 委員会に知恵がなかったというだけの話です。 歴史資料館などという月並みきわまりない施設を思いつくことしか彼らにはできなかった。しかも驚くべきことに、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料」を展示する歴史資料館の構想をまとめあげる過程で、彼らはただの一度も名張市立図書館に足を運ぼうとはしなかった。図書館には郷土資料室もあれば乱歩コーナーもあります。歴史資料館をプランニングするならまず最初に足を運ぶべき場所は図書館のはずです。しかし名張地区既成市街地再生計画策定委員会はそうしなかった。彼らがどんな協議を行ったのかは私の知るところではありませんが、資料の存在を確認することすら怠っていたのですから、きわめて無責任な協議であったと見るしかありません。要するにインチキです。 ちなみにこの2005年、名張のまちは前年にひきつづいてからくりのまちでした。この年8月、当サイト掲示板「人外境だより」に「ようこそからくりの町なばりへ」とわざわざ投稿してくれた人があったほどです。 そして今年。
ここにもまたインチキが存在しています。名張まちなか再生プランにあった歴史資料館が初瀬ものがたり交流館に変更されてしまいました。そんな権限が名張まちなか再生委員会にはたしてあるのか。私にはないと思われます。にもかかわらずプランはごくあっさりと、市民には内緒のままで変更されてしまいました。それが名張まちなか再生委員会のインチキです。委員会のみならず、名張市という地方自治体によるインチキです。名張市という自治体においては決定という行為がほとんど重さを有しておらず、ひとえに風の前の塵におなじであるということでしょう。 むろんプラン自体は無茶苦茶なものでした。歴史資料もないのに歴史資料館をつくるという構想には無理がありすぎました。そんなプランを正式に決定してしまった名張市の不見識は誰にも否定できないところでしょう。しかしだからといって、市民のパブリックコメントまで募って正式に決定されたプランを勝手に変更していいわけがありません。初瀬ものがたり交流館の整備構想は、名張まちなか再生委員会のなかのごくわずかな人間が、ルールや手続きをいっさい無視して密室のなかでこっそりつくりあげたものであるというしかありません。 そこには市民のコンセンサスなどかけらも存在していません。 ただし名張まちなか再生委員会事務局の主張によれば、これはただの名称変更です。名張まちなか再生プラン記されていた歴史資料館には交流施設という側面もありましたから、より交流に主眼をおいた初瀬ものがたり交流館に名称を差し替えただけだとのことです。昔から名は体を表すといい、名詮自性ともいいますから、名称の変更には内容の変更がともなっていると見るのが一般的な認識であると思われるのですが、名張市役所ではこんなその場しのぎの遁辞が通用するものと考えられているようです。 隠街道市のインチキは先日来指摘してきたとおりであり、二年にわたってからくりのまちであった名張のまちはいきなり初瀬街道の宿場町という側面を強調されはじめました。初瀬ものがたり交流館のインチキを正当化するための悪辣な企みと見るべきでしょう。ただしきのう見てまわったかぎりでは、隠街道市には初瀬街道を連想させる演出は見あたりませんでした。しいていえば、江戸時代の道標の模型がひっそり立てられていた程度でしょうか。隠街道市というネーミングもまた、しょせんはうわっつらだけのものでした。 以上、名張まちなかで展開されてきたインチキにかんする所見の一端を申し述べました。それではいよいよあすあたり、インチキの牙城にしてうわっつらの総本山、われらが名張市役所にご挨拶を申しあげることにしましょうか。
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それでは名張市役所にご挨拶。私はさきほどこんなようなメールを市街地整備推進室あてに送信しました。
まったくひどい話である。何がひどいのかというと名張まちなか再生プラン、これがひどい。名張市役所というところにはその場しのぎと先送りで業務をこなしていればそれでよし、みたいな内規があるのかもしれませんが、そんなことやってるといつかまとめてつけを払わなければならなくなります。抜き差しならない状況に立ち至ります。そうなってから吠え面かいたって手遅れというものです。 ものごとというのは、熟慮すべきときに熟慮し、決断すべきときに決断しなければなりません。ところが名張市役所にはその場しのぎと先送りばかりが横行しているようで、名張まちなか再生プランに盛り込まれていた歴史資料館整備構想こそはその場しのぎの典型でしょう。熟慮のあとなどどこにも見えません。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はじつに無責任かつ適当に、歴史資料館でもつくっとけばいいんじゃね? みたいなその場しのぎの決定をくだしてしまいました。 先送りの例は名張市に寄贈された桝田医院第二病棟の扱いに見られます。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はその活用策をいっさい検討しませんでした。ですから名張まちなか再生プランでは桝田医院第二病棟のことに片言隻句もふれられておりません。ばかなのかこらうすらばかども。むろんばかなのであろう。うすらばかなのであろう。あの委員会には活用策を考える能力など蚤の脳みそほどもなかったのであろう。だから先送りするしかなかったのであろう。なんたる無能力、なんたる無責任。いったいどうなっておるのか名張市というところは。 しかし名張市民のみなさん、どうぞご心配なく。名張市には私がおります。私は名張まちなか再生プランを一読してなんじゃこりゃと天を仰ぎ、プランの致命的な不備二点を指摘するパブリックコメントを提出しました。不備二点というのは、歴史資料館の整備などというインチキが盛り込まれていることと、桝田医院第二病棟の活用策が盛り込まれていないことの二点です。しかしプランは名張地区既成市街地再生計画策定委員会の素案どおりに決定されてしまいました。名張市民のみなさん、力になれなくてすまんかったな。 それで結局どうなったか。歴史資料館ないしは初瀬ものがたり交流館をめぐる茶番劇はきのう記したとおりであって、市民のコンセンサスなんかどこ吹く風、初瀬ものがたり交流館などという必要もなければ意味もない(しいて探すならば名張まちなか再生のうわっつらを整えるという意味はあるでしょうが)施設が今年度中に整備されることになるようです。しかもなおかつそのうえに、驚くべきことにというべきか笑うべきことにというべきか判断に苦しむところではあるのですが、まったくおなじことがくり返されようとしているみたいです。そんな予感がしてなりません。ミステリー文庫の話です。 ミステリー文庫ってのはいったい何なのか。私には何もわからず、しかし名張市役所の内部ではそういった構想が動き出しているようで、げんに名張市立図書館にもなんたらかんたら話がもちこまれているらしいのですが、市立図書館嘱託としては狐につままれたような気分を抱かざるをえません。そこでとりあえず名張市役所の担当セクションにおうかがいを立ててみようと考え、本日付伝言冒頭のメールを送信いたしました次第です。この構想が名張まちなか再生プランの一環なのかどうかさえ私には不明ですから(プランにはミステリー文庫のみの字も記されていないのですが)、とりあえずプランを担当している市街地整備推進室にメールをお送りいたしました。さあどうなるのかな。 隠街道市の隠は隠蔽体質の隠ででもあったのか。とにかく名張市役所のみなさんや、一度でいいからいってごらん。手前どもは市民と情報を共有いたします、なんてせりふを吐いてごらん。私は名張市民のみなさんや全国のミステリファンのみなさんとともに、名張市のミステリー文庫構想とやらを厳しくあるいは温かく見守りたいと思います。おそらくは厳しさばかりがいや増すでしょうが。 話題を転じましょう。11月2日と3日に名張市で開催された「田中徳三映画祭2006」を報じる記事がきのうの毎日新聞に掲載されました。渕脇直樹記者の記事です。
3日夜には名張市内の会場で映画祭を記念する大宴会が開催され、もっとも遠来の参加者はなんとロサンゼルスにお住まいの日本人女性でした。市川雷蔵のファンクラブを仕切っていらっしゃる方だそうで、この映画祭のためにわざわざ帰国されたとのことでした。近鉄名張駅前のホテルに2日3日と二連泊して大宴会出席を果たした大阪府在住の男性もいらっしゃいました。参加者数は三十人あまりか。私はといいますとなにしろ伊賀地域を代表する知性なんですからいわゆる上座に陣取り、ていうか田中徳三監督ご夫妻のあいだにちょこんと坐ってゆっくりお酒をいただきました。
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おかしいなあ。お忙しいのかしら。ごく簡単な依頼だったはずなんだけど。きのう名張市役所市街地整備推進室あてに送信したメールの回答がまだいただけません。ミステリー文庫の担当室はどこですか、というきわめて単純な質問だったのですけれど、おかしいなあ。お忙しいのかしら。 ならば本日は名張市観光協会の話題にいたしましょう。毎度おなじみ、などといってるわりにはかなりご無沙汰していたのですが、2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド「【黒蜥蜴】 江戸川乱歩 第九夜」を閲覧してみましたところ、11月4日付のこんな投稿が眼につきました。
リンク先を見てみました。このページです。 たしかに変です。日本文に添えられた英語の訳文があきらかにおかしい。たとえば──
これに対応する英文はこうなっています。
乱歩スレ投稿番号706に記された推測にしたがって、ネット上の翻訳サービスをチェックしてみました。上に引用した日本文を Yahoo! 翻訳で英訳してみたとお思いください。驚くべし。そこに示された訳文は上に引用した英文と寸分たがわぬものではありませんか。 気は確かか名張市観光協会。ほんっとに大丈夫か。いやしくも社団法人のオフィシャルサイトがそこらの翻訳サービスから提供された怪しい英文をかけらの疑いもなく信用し、そのまま掲載しているということなのか。何のチェックも入らんのか。サイトをつくってるのは小学生か。信じられんな実際。唖然としてしまった私には笑うことさえできません。 試みに上に引用した英文を Yahoo! 翻訳で日本文に訳してみました。
ますます面妖な文章になってきましたので、ここにいたって私はようやく笑うことを得た次第なのですが、まったくひどい話である。サイトに英文が載ってるとかっこいいな、とか、海外から観光客が来てくれるかもしれないな、とか、そんなことをお考えになったのであるのかしら。それはそれで結構なのであるけれど、それならばちゃんとした英文を掲載しなければいかんがな。こんな無茶苦茶な英文載せたって、そんなことでは名張市観光協会の、というよりも名張市そのものの信用がますます失墜してしまうだけじゃがな。 これもまた要するにうわっつらなわけです。うわっつらを飾ってればそれでいいという名張市の体質がにじみ出ているとしかいいようがありません。実質や本質、中味、内容のことなんて誰も考えようとはしないわけです。こうなるともういっそアナーキーと表現してもいいような事態でしょう。アナーキー都市名張市。なんかかっこいいではありませんか。 ここで2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド投稿番号706の方にご指摘へのお礼を申しあげますとともに、名張市役所のみなさんにちょこっとお願いです。商工観光室の方でなくてもどなたでも結構ですから、このことを名張市観光協会のみなさんにひとことお伝えくださいな。 ついでですから市街地整備推進室のみなさんにもお願いしておきましょうか。お忙しいこととは思いますが、きのうメールをさしあげました件、なにとぞよろしくお願いいたします。
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いやびっくりしました。電光石火で修正されました。名張市観光協会オフィシャルサイトにある乱歩のページの話です。2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド「【黒蜥蜴】 江戸川乱歩 第九夜」にこのページの英文が変だ、との指摘が投稿されていると昨日この伝言板で話題にいたしましたところ、あっというまに英文が削除されてしまいました。 この画像はきのうの朝のものですからまだ英文が見えるのですが、画像をクリックして現在のページをごらんいただけばおわかりのとおり、日本文に添えられていたおかしな英文が消えております。 ただしよく見てみますと、下の画像は現在のページからキャプチャしたものですが── まだ英文が三センテンスほど残っております。名張市観光協会のみなさんや、これも削除しておかなければいかんがな。ついでにいっときますと、乱歩を紹介する文章の冒頭に、 ──明治27年(1895年)10月21日 とありますけれど、明治27年は1894年ですからこれも修正しておきましょう。それから典拠も示しておいたほうがいいのではないかしら。この「明治27年」から「その分野を確立した」までの文章は江戸川乱歩生誕地碑に刻まれた略歴の劣化コピーなのですが、その略歴はほぼまちがいなく乱歩本人が書いたものです。そこに値打ちがあるわけなんですから、典拠を示したほうが箔がつくことになるでしょう。 代表作として「人間椅子」「パノラマ島奇談」「黄金仮面」「怪人二十面相」「少年探偵団」「新宝島」があげられているのもじつはなんだか変なのであって、いくらなんでも「新宝島」はないでしょう。そんな作品は「SRマンスリー」乱歩特集号の「少年物10作」にも選ばれておりません。 ここで本日のアップデートに登場する日本経済新聞の記事から引いておくならば、有栖川有栖さん「おすすめ」の乱歩作品はこんな具合になっております。
「パノラマ島綺譚」が「短編」となっているのは編集部のミスだと思われます。 代表作なんて結局は個人の主観にもとづいて選ぶしかないものですから「新宝島」が入っていたって全然いいのではあるけれど、かりにも名張市観光協会のオフィシャルサイトに掲載するのであればもう少し妥当性というものに配慮することが必要でしょう。それに乱歩の代表作というのであれば名張市にはとっておきのネタがあります。乱歩生誕地碑に刻まれた略歴には、おそらく乱歩本人が選んだのであろうベスト作品がこんなぐあいに列記されてるわけです。
ですからこれをあげておくのが望ましい。というよりも、典拠を明示して略歴の全文を掲載しておけばそれでいいのではないかと私は思います。 ではここで、今回の一件から教訓を導いてみましょう。この一件はすなわち、 ──たったひとりの2ちゃんねらーが名張市観光協会を動かした。 と表現されるべき事態なのであって、話題としては古いけれども名張市版電車男か。いや全然ちがうか。とにかく天網恢々疎にして漏らさず、というほどのことではないけれど、サイト運営にご町内感覚となあなあ体質は禁物だという教訓が導かれてくるはずです。しかし名張市内にはこうした感覚と体質が充満しており、古い話になるのですけれど1998年、名張市立図書館の『江戸川乱歩執筆年譜』が完成したとき名張市のオフィシャルサイトにPRを掲載してもらったところ、問い合わせ先として記載された名張市立図書館の電話番号に市外局番が見あたらないという珍事が出来いたしました。絵に描いたようなご町内感覚だなや、と思った私はお役所というものへの不信をいよいよ深めた次第でした。 それからまた、コピー&ペースト症候群にはくれぐれも気をつけなければなりません。これも貴重な教訓でしょう。とはいえこの症候群は全国的に蔓延して猛威をふるっておりますから、名張市観光協会が手もなく感染してしまうのは無理もないことでしょうか。私の体験によりますと、いまや高校生でも調べものして文章をまとめさせるとネット上の情報をまんまコピー&ペーストしてくる例が珍しくありません。それにインターネットに限らずとも、たとえば名張まちなか再生委員会による初瀬ものがたり交流館なんて発想はコピー&ペーストだけで成立しているものであり、あっちこっちから適当な素材をコピーしてきて名張まちなかにペーストしただけでいっちょあがり、というような非常にいい加減な話であるわけです。なんかもう無節操きわまりない。 それはもう名張市という自治体はそもそも無節操なのである。 そんなことは名張市内を自動車で走ってみれば一目瞭然です。デベロッパーの意のままにあちらこちらの山を削って大規模住宅地を造成しつづけた無節操さは一瞥するだけで納得されることでしょう。しかしいまからそれを責めることはできません。そうした無節操さが地方都市の活力に直結していた時代があったわけです。人口が増える。税収が増える。公共施設が充実する。大型店が進出する。無節操さが名張市の発展とやらの牽引車になっていた。そんな時代はたしかにあったわけです。しかしいまやそんな時代ではありません。無節操さから脱却して新しい価値観や視点を身につけて、そのうえで名張市の将来を展望しなければならない時代なのである。 名張まちなかの再生なんてその最たるもののはずではないか。 日本人の無節操さがその絶巓を極めたバブルの時代には見向きもされず、ひっそりと取り残されて静かに眠っている名張のまちなかに、バブル期のものではない新しい価値観にもとづいて新たな価値を見いだし、新しい視点から新たな可能性を探ることで名張まちなかを生活の場として再生させる。それが名張まちなか再生プランの本義ではなかったのか。それがどうだ。どこに新しい価値観がありどこに新しい視点があるのか。プランの目玉であった細川邸の整備計画は眼もあてられぬほどのコピー&ペーストで、日本全国どこにでも転がっている歴史資料館という発想をそのままコピーしてきてペーストしただけのものだったではないか。それが無理だということになって練り直した初瀬ものがたり交流館構想と来た日には、伊賀市阿保にある初瀬街道交流の館たわらやをそっくりそのままコピーしたものだといわれてもしかたがないようなしろものではないのか。施設の概要がいっさい明らかにされていませんからただの臆測でこういうしかないわけなのですが。 そういえばまだ回答がありません。 私はおとといの朝、名張まちなか再生プランの担当セクションにミステリー文庫の担当室はどこですかというメールをお送りしておいたのですが、まーだ教えていただけません。名張市観光協会の迅速な対処にくらべてじつに悠揚迫らぬではないか。少しは悠揚迫ったらどうなの。もしかしたら名張市役所の内部には、私の相手はいっさいしないようにしましょう、なんて通達が出まわっているのかな。しかしそんなことをしておったら名張市役所のみなさんや、自分で自分のくびを絞めているようなものなのだということに早く気づかなければなりません。 ここで名張市発行「広報なばり」2006年7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」(テキスト版)から引いておきましょう。
今年7月の時点では「(仮称)乱歩文学館」とされていたものがミステリー文庫になったのでしょうか。それともそうではないのでしょうか。ミステリー文庫とやらは名張まちなか再生プランとは無関係な構想なのでしょうか。だいたいがいったいどこにつくられるのか。運営主体はどうなるのか。まさにミステリーというしかないのでごんすが、そのあたりのことをお聞かせいただかないことには名張市立図書館嘱託としての私の業務に支障が生じてしまいますので(げんに生じておるわけですが)、なんとかすみやかにお答えをいただきたいものでありんす。 それでは名張市観光協会の労をねぎらいつつ本日はこのへんで。
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それにしても情けない話である。 結局あれだけのことであったか。あわてふためきながら英文をいい加減に削除するだけで、あとは明治27年が1895年であるとする誤記を訂することさえできんのか。名張市観光協会にも困ったものだな。 まあほっといてやる。好きなだけ恥をさらしながら情報発信とやらに努めてなさい。 それにしても情けない話である。 そこらの小学校の学級委員会のほうがまだしっかりしておるのではないか。何かを決定するときには公正と公平を重んじ、ルールを守り手続きを踏んでことを進めるのではないか。考えるべきときには考えて、決めるべきときにはちゃんと決める。それができておるのではないかな。 それにひきかえどうよ名張市は。熟慮すべきときに熟慮せず、決断すべきときに決断しない。その場しのぎと先送りを重ねてきたあげくがこのざまではないか。11月7日付伝言にも記したことですけど、そろそろつけを払わねばならぬときなのではないか。せめてそこらの小学校の学級委員会程度にはしっかりしなければならんのではないか。ところがそれができぬというのであるからまことに情けない話である。 お聞きしたいことがあるからミステリー文庫とやらの担当セクションをお教えいただきたい。ただこれだけの質問にどうして答えられぬのか。内部事情だの守秘義務だのとうっかりしたこと口走ってんじゃねーぞこの隠蔽自治体。 いやいや、いきなり喧嘩腰になっちゃいけません。 「広報なばり」2006年7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」(テキスト版)にはどんなふうに書いてあるのかな。きのう引いたところを再度確認してみましょう。
なーにが「歴史文化の薫る空間づくり」だ。歯の浮くようなことさえずってんじゃねーぞこら。この構想にはインチキのにおいしかしておらぬではないか。 いやいや、いきなり喧嘩腰になっちゃいけません。 この記事によれば、今年度中に「(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事」と「(仮称)乱歩文学館基本計画策定」が実施されることになっています。今年度中というのは来年3月末までのことですから、指折り数えてもあと四か月あまり。できるのかな。初瀬ものがたり交流館がいったいどんな施設になるのやら、市民には現時点でもいっさい知らされてはいないのですけれど、あと四か月ほどでどうにかなるのかな。 なんだかずいぶんおかしいなと思われるのは、今年7月の時点でなお初瀬ものがたり交流館の名称に仮称という言葉が冠されていることでしょう。年度内に改修工事が実施される施設の名称が7月にまだ仮称だというのは、私にはどうにも解せない気がします。名張市というところはものごとを決定するのが嫌いなのかな。名称が仮称であるということは、すなわち施設の構想そのものにもいまだ曖昧なところがあるということなのかとも懸念される次第であるのですが、いまの段階でもやっぱり仮称のままなのかな。 よろしい。私がひとはだ脱ぎましょう。適切な名称を考えてさしあげます。名張市内にはすでに、 ──名張市総合福祉センターふれあい あるいは、 ──名張市武道交流館いきいき といった施設名が存在しておりますから、その流れを汲んで、 ──初瀬ものがたり交流館いんちき なんていうのがいいのではないかしら。きゃはは。 こら。へらへら笑ってる場合かこら。 いや喧嘩腰はいけません喧嘩腰は。 それにしても情けない話である。 このまま緘黙を貫くつもりなのかな名張市は。そんなことしたって意味はない。むしろ自分で自分のくびを絞めるようなものなのだと、きのうも私は記したではないか。まあいたしかたあるまい。そちらがちっとも教えてくれないのであれば、こちらから押しかけていって尋ねるだけの話である。 と書いていて思い出しました。こうした無反応にはたしかにおぼえがある。そんなふうに感じていたのですが、それを思い出しました。忘れもしない二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板、あそこで委員会に何を質問してもいっさい応答がなかったことを思い出しました。連中は緘黙を貫いたあげく言論封殺というとんでもない手段に打って出ました。掲示板をいきなり閉鎖し、過去ログも読めなくしてしまいました。いまの名張市の沈黙はあのときの沈黙とまったく同質のものである。 となるとお次は言論封殺か。 いやまさかそんなことはないでしょうけど、ないとは思いますけれど、とにかく黙りこくってるだけではどうにもなりゃしません。 結論はすでにはっきりしています。名張地区既成市街地再生計画策定委員会であれ名張まちなか再生委員会であれ、不勉強無教養不見識無責任なそこらのうすらばか何十人あつめてみたってろくなことにはならない。それが結論です。それは名張市役所のみなさんにも身にしみておわかりなのではないかしら。身にしみておわかりになっているのであったなら、さてこれからいったい何をしなければならんのか。たまりにたまったつけをどうやってお支払いになるのかな。 こらいいですか名張市役所のみなさんや、ことはきわめて重大なの。やはりうすらばかが寄り集まって税金いいだけどぶに捨ててくれた伊賀の蔵びらき事業とはわけがちがって、名張まちなかの再生となると名張のまちに形のあるものがつくられてしまいます。名張のまちの過去と未来に対する直接的な責任というものが生じてしまうわけです。取り返しはつきません。 そんな重大な問題をですよ、歴史認識にも歴史意識にもまったく縁のない連中が密室のなかで協議し、外部からの意見にはいっさい耳をかそうとしなかったというのが名張まちなか再生プランの実態なわけです。名張まちなかの歴史の最先端に立っているという歴史意識すらない連中が、隠という字をナバリと読んで面白がってる程度のおそまつきわまりない歴史認識にもとづいて、あろうことか名張のまちの歴史に重大な改変を加えようとしているわけなのね。しかもそれがどうやらすんなりとは進んでいないらしい。 そこへもってきてミステリー文庫です。これはいったい何なのかな。年度内に実施されるはずの「(仮称)乱歩文学館基本計画策定」はどうなったのかな。さっぱりわけがわからんからどうぞ教えてくださいな。私はそのようにお願いしようとしているだけなのですが。 まーったく情けない話である。
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