2006年11月上旬
1日 からくりのまちはどこへ行った 講演会:名張生誕の江戸川乱歩にちなみ
2日 ナバリという地名 大作家の愚痴今も
3日 隠があった場所 人気作家が語るミステリーの真髄
4日 いよいよ隠街道市の開幕です 横溝正史寄贈品展:横溝正史の世界にふれる
5日 隠街道市はきょう閉幕です トークショー「ミステリー小説講座」
6日 まちなかインチキ総集篇 盲獣
7日 名張まちなかインチキの予感 探偵小説の定義
8日 アナーキー都市宣言 宇宙怪人
9日 コピー&ペースト症候群に注意せよ よるの夢こそまこと
10日 あれもこんなような沈黙じゃった 塔上の奇術師
 ■11月1日(水)
からくりのまちはどこへ行った□ 

 月が替わったところで爆笑都市の本丸、インチキの牙城、うわっつらの総本山、われらが名張市役所にご挨拶を申しあげようと考えていたのですが、とりあえずご挨拶を申しあげる対象となるセクションが隠街道市(なばりかいどういち、とお読みください)とやらの準備でお忙しそうですからちょっとだけ先送りすることにいたしました。

 隠街道市にエールを送る意味で昨日付中日新聞の伊東浩一記者の記事を引いておきましょう。

【伊賀】 名張で4、5日に「隠街道市」 伊賀地域の物産を販売
 伊賀地域の物産品を販売する「隠(なばり)街道市」が11月4、5の両日、名張市の旧名張町地域一帯である。

 同市の官民共同組織「名張まちなか再生委員会」の主催。初瀬街道の風情が随所に残る旧名張町地域を舞台に地場産品の販売などをし、にぎわいを創出する。

 時間は両日とも午前9時半から午後3時半まで。丸之内の市総合福祉センターと新町の名張川川岸などに計約100店の模擬店が並ぶ。

 しかし、どうでもいいことだといえばどうでもいいことなのですが、なんかひっかかってしまいます。隠街道市というのが私にはどうもひっかかる。念のために記しておきますと、私はべつにコミュニティイベントを否定するものではありません。官と民とが協力して狭い世間で好きなように盛りあがっていただければそれでいいと思ってはいるのですが、しかし、しかしなあ。気になる点はやはり指摘しておいたほうがいいのかしら。

 これは二年前、一昨年秋のことになりますが、伊賀地域を会場に催された「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」というなんちゃって事業の一貫として、わが名張市におきましてはからくりのまちってのをコンセプトにしたコミュニティイベントがくりひろげられました。からくりのまち、などというのはもちろんインチキです。うわっつらだけのものです。何の根拠もありません。ただの思いつきです。みたいなことはこの伝言板でしつこいくらいに指摘いたしましたからここにくり返しはしませんが、ばかというのはどうしようもないもので、たしか去年もまたからくりのまちがどうのこうのと寝言みたいなこと口走りながらイベントが実施されていたと記憶いたします。

 そういえば、名張市がばかの本場であることを天下に知らしめた名張エジプト化事件において、ばかがご丁寧に掲示板「人外境だより」に名乗り出てくれたあの珍事に際しましても、つまりこれなわけなのですが──

 最初に登場したばかの投稿はこんなものでした。

新 怪人二十面相   2005年 8月 2日(火) 14時20分  [219.106.180.232]

ようこそ
からくりの町 なばりへ
僕の計画は、非日常世界をここにつくることです。
スフィンクスも怪人二十面相も、これから出てくるものも
非日常世界です。
君がこの掲示板で他人を名指しで、傷つけ遊んでいますが
僕は、そういう弱いものイジメなる遊びはしない。
これからも、からくりの町 なばりを
楽しみにしておき給え。
           新 怪人二十面相

 何が「ようこそからくりの町なばりへ」だばーか。ほんっとばか。「非日常世界」はてめーのおつむのなかだろうが。何が「からくりの町なばりを楽しみにしておき給え」だばーか。これはもう眼にしみるほどのばかである。

 しかも昨年は事態がさらに悪化しており、肝心かなめのからくりにちなんだイベントはただのひとつもなかったのであった。気は確かかばかども。ばーか、やーい、うすらばーか、と私はその点をもこの伝言板で指摘したものであった。

 さて今年である。からくりのまちというコンセプトはどこかへ行ってしまった。ようこそからくりのまちへ、などとほざいておったうすらばかどもはからくりのまちを簡単にほっぽり出してしまった。じつに無責任無節操な話である。理由はわからぬ。しかしそもそも名張はからくりのまちなどではまったくないのだから、そこらのうすらばかがでっちあげたインチキなどそうそう長続きするものではないのである。あたりまえであろう。それで今度はどんなインチキが企てられたのかというと、これが隠街道市なのであった。かのインチキ委員会、原理原則をきれいに踏みにじり理念信条など埃ほどももちあわせぬすっとこどっこい委員会、ほんとにプリンシプルなんてどこ探したって見あたらないのであるけれど、とにかくあの名張まちなか再生委員会がなぜか主催する隠街道市なのであった。

 私はこのたびの新手のインチキがどのように企画されたのかはまったくあずかり知らないのであるけれど、ここで想像をたくましくしてみることにしよう。すなわちあのインチキ委員会は初瀬ものがたり交流館などというインチキ施設を整備したいらしいと私は聞き及ぶ。名張まちなか再生プランでは歴史資料館として利用されることになっていた細川邸という旧家を初瀬ものがたり交流館という何やら意味不明のしろものにしてしまうというのである。初瀬は初瀬街道の初瀬である。要するに連中はからくりのまちが失敗に終わったから今度は初瀬街道沿いのまちであるという珍しくも面白くもないコンセプトをもちだしてきて、隠街道市とかいうコミュニティイベントにおいて街道のイメージを前面に押し出してみることにしたというわけであろう。

 しかもそこには当然のことながら初瀬ものがたり交流館におけるインチキ性を覆い隠すため、名張のまちと初瀬街道との関係性を強く訴えるという意図もこめられているのであろうけれど、なんのなんの、名張は初瀬街道に数多く存在していた宿場のひとつであったというだけの話である。それ以上でも以下でもない。初瀬街道との関係性をいくら強調してみたところで名張のまちのアイデンティティが明確になるわけではまったくない。何を考えておるのか。じつに底の知れた浅知恵である。相も変わらぬ猿知恵である。プリンシプルなき委員会、まことあわれなものよのう。

 ですから私は名張まちなか再生委員会に対してはもうばかども好きにしろという言葉しかもちあわせてはいないのですけれど、隠街道市そのものの気にかかる点はやはり指摘しておいたほうがいいのかなとも思いますので、名張市役所にご挨拶を申しあげるまでのインターバルにそんな話題をつづろうかしら。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 講演会:名張生誕の江戸川乱歩にちなみ──ミステリー作家・綾辻行人さん /三重 渕脇直樹

 こちらも地元ネタ。10月28日に開催された第十六回なぞがたりなばり講演会を報じる毎日新聞の記事です。

講演会:名張生誕の江戸川乱歩にちなみ−−ミステリー作家・綾辻行人さん /三重
 名張市生誕の推理作家、江戸川乱歩にちなんだ講演会「第16回なぞがたりなばり」(同市主催)が同市蔵持町里の市武道交流館で開かれた。江戸川乱歩賞選考委員で、新本格ミステリー作家の旗手とされる綾辻行人(ゆきと)さんが「江戸川乱歩にあこがれて」と題して講演し、約160人のミステリーファンが耳を傾けた。

 入場者百六十人というのはやや少ないような感じでしょうか。この記事にも見えるとおり有栖川有栖さんが飛び入りで参加してくださるというサプライズも用意されていたのですが、まあしかたないか。こんなもんか。


 ■11月2日(木)
ナバリという地名□ 

 本日も隠街道市関連の新聞記事からまいりましょう。昨日付毎日新聞に掲載された渕脇直樹記者の記事です。

隠街道市:江戸時代の民具、大正の写真展も−−4、5日に名張 /三重
 名張市の旧町(名張地区)の魅力を発信する「隠(なばり)街道市」の協賛イベントとして、「昔なつかし写真と民具展」が4、5の両日、同市中町の中町集議所で開かれる。同町の37世帯が所蔵する江戸時代から昭和にかけての着物や風景写真、家電製品など約200点が出品される。

 旧町の歴史に触れ、親しみを持ってもらおうと、同町住民で組織する実行委員会(角田勝委員長)が企画した。

 それでは隠街道市の気になる点、たたたたたーっと書きつけることにいたします。何が気になるといって隠という用字、これがどうにもひっかかります。むろん些細なことである。取るに足りないことである。アナクロニズムの面白さをねらったものであろうと好意的に解釈できぬでもありません。じつにどうでもいいことなのである。だがしかし、伊賀地域を代表する知性として私は違和感をおぼえざるをえないのである。

 まずこれをごらんいただきましょうか。あれはいつであったか、ちょうど一年ほど前のことでしたか、名張の歴史をテーマにした簡単な講演を依頼されたとき、会場での配付資料としてまとめた年表の一部です。

古墳時代中期
美旗古墳群の築造が始まる。名張地方では6世紀に前方後円墳が出現。「須知・那婆理・三野の稲置」(古事記)
645/大化元年
大化の改新。翌年正月の詔で畿内の四至を定める。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来」(日本書紀)
672/天武元年
壬申の乱。吉野を出た大海人皇子は6月24日、「隠の駅家を焼き」(日本書紀)、横河で占卜する
692/持統6年
当麻真人麿の妻の歌「わが背子は何処行くらむ奥つもの隠の山を今日か越ゆらむ」(万葉集)
713/和銅6年
諸国に風土記の編纂を命じ、郡郷名に好字を用いさせる

 ごらんのとおりである。いわゆる記紀万葉をひもといてみますと、ナバリという地名には那婆理、名墾、隠といった漢字があてられています。表記は一定しておりませんでした。これが名張に落ち着いたのはいつのことであったのか。そんなことは誰にもわかりません。わかりませんが察しをつけることは可能です。引用の最後に出てきた風土記が編纂されたころのことではないかと考えられます。

 続日本紀の現代語訳から和銅6年(713)の条を引きましょう。底本は宇治谷孟訳の講談社学術文庫『続日本紀(上)』。

五月二日 次のように命じた。

 畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・銅・彩色(絵具の材料)・植物・鳥獣・魚・虫などのものは、詳しくその種類を記し、土地が肥えているか、やせているか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異った事がらは、史籍に記載して報告せよ。

 文中の「史籍」がのちに風土記と呼ばれることになる地誌であり、編纂を命じたのは元明天皇でした。元明天皇だけに厳命しました、なんちゃって。ともあれ風土記の編纂は大和朝廷が諸国を支配し諸国から収奪するためのデータベースづくりであったという寸法なのですが、このとき当地でも伊賀国風土記が編まれ(むろん残ってはおりませんが)、ナバリなる地名に名張という表記が用いられたのではないかと推測されます。あおによし奈良の都の奈良時代から、名張と書くのがいわばオフィシャルな表記であったと見るべきでしょう。

 ですから隠街道市、なんてこといわれると私の頭には違和感が虫のごとくもぞもぞと這いまわるわけです。名張が隠であった時代の街道といえば、続日本紀にも出てきましたけれどいわゆる五畿七道のうちの東海道、これが当時の街道でした(海道というのは地域名でもあり官道名でもあったわけですが)。都が大和にあった時代の東海道はまず伊賀に入って伊勢、志摩、尾張、三河とつづくルートであったとされています。

 しかるに隠街道市における街道というのは江戸時代の初瀬街道のことなんですから話がややこしい。より厳密にいえば江戸時代には参宮の表街道という呼称が一般的で、初瀬街道が公称となったのは近代に入ってからのことなのですが、そのような些事はともかくとしても隠という文字と初瀬街道とを抱き合わせることにはやはりいささかの無理が感じられる。

 むろん些細なことでしょう。取るに足りないことでしょう。アナクロニズムの面白さをねらったものであろうなと、はたして関係者にアナクロニズムという言葉の意味が理解できるのであろうかという一抹の不安をおぼえつつも、そんなふうに好意的に解釈することだって可能でしょう。しかも私には、名張のまちなかに初瀬ものがたり交流館たらいうインチキ施設をつくって税金を無駄づかいしなければならぬ関係者の苦衷もわからぬではない。そのためにコミュニティイベントを利用して名張のまちにおける街道のイメージを強調したいという策略も理解できぬではない。

 しかし、しかしなあこらうすらばかども、きのうも記したことなれど、初瀬街道の宿場なんて普通にごろごろしておったのだぞ。早い話が名張から自動車で十五分かそこら走ってみなさいな。伊賀市の阿保には初瀬街道交流の館たわらや、なんていう施設があるではないか。ご存じないのであれば青山観光協会オフィシャルサイトのこのページをごらんなさい。

 初瀬街道交流の館たわらやというのは阿保にあった旅籠を整備した施設であるらしく(私は行ったことないのであるが)、そうした由緒を示す参宮講の看板も展示されていると聞き及ぶ次第なのであるが、これから名張のまちなかに初瀬街道をテーマにした施設をつくってどうするの。何を展示するの。何がしたいの。だいたいがおまえらごとき歴史認識も歴史意識も何もないうすらばかがなーに調子こいてやがる。何が隠だ。何が初瀬街道だ。ちっとは勉強してきやがれ。などといってもしかたありません。なにしろ名張市議会には江戸時代は中世であるとじつに斬新なことを口走ってはばからぬ先生だっていらっしゃるくらいなんですから、この名張市で歴史認識だの歴史意識だのといった話が通用する道理がないではないかこのあんぽんたん。名張というところにはばかしかおらんのか実際。

 さてそのばかの本場である名張市できょうとあす、田中徳三監督の自選作(らしいです)五本を一挙上映する映画祭が開催されます。

田 中 徳 三 映 画 祭 2006

日本映画の黄金時代を駆け抜けた
名匠・田中徳三の世界

会場名張市青少年センター
三重県名張市松崎町1325-1

入場料前売り2000円/当日2500円
両日共通券 前売り3000円/当日3500円

主催名張市社会教育振興会 名張市教育委員会
田中徳三映画祭2006実行委員会

問い合わせ先名張市青少年センター
電話:0595-64-3478
オフィシャルサイト:田中徳三映画祭2006

第1部 11月2日(木)

□□00分午後6時開場
□□00分午後7時トークショー
□□00分午後7時□田中徳三さん、藤村志保さん
□□00分午後8時「怪談雪女郎」上映

第2部 11月3日(金)

□□0分午前10時開場
□□0分午前11時「悪名」上映
□□午後0時45分トークショー
□□午後0時45分■田中監督、勝新を語る
□□午後1時40分「続・悪名」上映
□□午後3時25分「大殺陣 雄呂血」上映
□□午後5時05分トークショー
□□午後5時05分■田中監督、雷蔵を語る
□□00分午後6時「眠狂四郎 女地獄」上映

 あす3日夜には田中監督を囲んだ大宴会も予定されているそうです。参加ご希望の方は名張市青少年センターの会場受付でその旨をお伝えください。たぶんご参加いただけると思います。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 大作家の愚痴今も

 きょうも新聞記事です。宮崎日日新聞のオフィシャルサイトに掲載されました。「くろしお」というコラムの記事のようです。

大作家の愚痴今も
 推理作家の江戸川乱歩は1965(昭和40)年に70歳で没した。「生まれ変わったら何になりたい」と尋ねた編集者に「もう生まれるのは御免」と答え、閉口させている。

 同年に死去した谷崎潤一郎は戦後、狭心症に悩まされるようになり、死が現実として迫ってくるようになる。「青年時代の『死の恐怖』は多分に空想的、文学的なものであったが、70近い今日では死は…ひたすらに悲哀をもたらすのみであった」と嘆いている。

 高齢者の医療費負担増大を嘆じ、「2人の大作家が鬼籍に入り41年。高齢者の嘆きは今も変わらない」と結ばれているのですが、乱歩のくだりには事実誤認があるのかもしれません。

 「生まれ変わったら何になりたい」という質問は、おそらくは「新青年」昭和6年1月号のアンケート「打てば響く──一九三一年問答録」の設問のひとつが混同されているのではないでしょうか。『探偵小説四十年』から孫引きするならばこんな問答でした。

 ──(問)あなたが生れ替ったら(どうなさいます)

 ──(答)たとえ、どんなすばらしいものにでも、二度とこの世に生れ替って来るのはごめんです。

 たぶんこれではないでしょうか。乱歩がどこかの編集者と似たような会話を交わしたことなんかなかったのではないか。それにだいたい乱歩は高齢者をとりまく環境に不安を抱いていたわけではなく(昭和6年の1月といえば乱歩はまだ三十六歳でした)、世界に深く絶望してこんなふうに答えたのだと思うのですが。それにそもそも「愚痴」ってのはどうよ。

 とはいえ私のほうが事実誤認をしている可能性もあります。お心当たりの方はご教示ください。


 ■11月3日(金)
隠があった場所□ 

 きのうのつづきです。きのうは時間的なへだたりの問題について述べました。ナバリを隠と書いたのは古代における地名表記であり、初瀬街道というのは近世から近代にかけて存続した街道であるがゆえに、隠街道市というイベントの名前は私に違和感をおぼえさせるというおはなしでした。関係各位におかれては私の違和感など気にすることなくおおいに盛りあがっていただきたいものですが、きょうは空間的なへだたりをテーマにご機嫌をうかがいたいと思います。

 ナバリが隠と表記されていたころ、その隠はいったいどこにあったのか。あすあさって隠街道市が盛大に催される名張旧町地区市街地、いわゆる名張まちなかではありません。名張川を越えたところでした。現在の地名でいえば箕曲中村のあたりだと考えられています。ですから隠街道市などというネーミングは、むろんそもそもの最初から単なる思いつきではあったわけでしょうが、それにしたって時間的にも空間的にも気絶するほど無茶苦茶な歴史認識にもとづいた思いつきであるというしかありません。

 どこから説明すればいいのかと考えて、壬申の乱のことからはじめましょう。壬申の乱とは何か。ここに兄と弟がおりました。兄には男の子がおりました。兄は天皇でした。兄が病死したあとは男の子が天皇になりました。弟はその男の子、つまり自分の甥にあたる天皇を殺害してみずから天皇になりました。これが壬申の乱です。皇位継承をめぐって骨肉の争いがくりひろげられた古代最大の内乱です。

 兄は天智天皇で、弟は天武天皇。即位前の天武は大海人皇子と呼ばれておりました。出家して吉野に隠棲していたのですが、兄の死後、大津にいた甥を討つべく吉野から伊賀に入り、さらに東国にまわって豪族を糾合しながら大津に攻め入りました。きのう引用した年表からさらに引いておきましょう。

672/天武元年
壬申の乱。吉野を出た大海人皇子は6月24日、「隠の駅家を焼き」(日本書紀)、横河で占卜する

 日本書紀によれば吉野を発った大海人は伊賀に入って隠の駅家を焼き払い、そのあと横河で占いをしました。駅家は「うまや」とも「えきか」とも読まれますが、情報伝達のため馬を常備して古代の官道に設けられていた役所だと思っておきましょう。横河というのは名張川のことです。つまり大海人皇子一行は吉野、隠の駅家、名張川というコースを進んだわけです。もしも隠の駅家が現在の名張まちなかの地にあったのであれば、一行は吉野、名張川、隠の駅家と進まなければなりません。しかしそうではなかった。なぜか。駅家が名張川の手前、現在の箕曲中村のあたりに存在していたからです。

 隠の駅家があったと推測されるあたりには、いまではいくつもの大型店が建ち並んでいます。国道165号線の沿線です。大型店の建設に先がけて発掘調査が行われた際には、もしかしたら駅家に関連する遺物や遺構が発見されるのではないかと名張市教育委員会などの関係者が期待を抱いたものでしたが、残念ながらそうは問屋が卸してくれませんでした。しかし古代のナバリが名張川の西にあったことはまず確実で、郡家と呼ばれた名張郡の役所もまた箕曲中村に置かれていたと見られています。

 ついでですから、きのうの年表からふたたび引いておきましょう。

645/大化元年
大化の改新。翌年正月の詔で畿内の四至を定める。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来」(日本書紀)

 大化の改新の詔で畿内の範囲が定められ、東は「名墾の横河」、すなわち名張川までと定められました。大和を中心にした畿内の東限が名張川で、そこまでがいわば首都圏だったわけです。名張川の東に位置している名張まちなかの地は、古代においてナバリと呼ばれた場所ではなく、そもそも畿内ですらなかったということになります。

 さて、時間的にも空間的にもとんでもない歴史認識にもとづいてネーミングされ、そのコンセプトには初瀬ものがたり交流館の整備構想を正当化しようという悪辣な企みが秘められてもいる隠街道市はいよいよあした開幕いたしますが、本日はこちらが二日目を迎えます。

田 中 徳 三 映 画 祭 2006

日本映画の黄金時代を駆け抜けた
名匠・田中徳三の世界

会場名張市青少年センター
三重県名張市松崎町1325-1

入場料前売り2000円/当日2500円
両日共通券 前売り3000円/当日3500円

主催名張市社会教育振興会 名張市教育委員会
田中徳三映画祭2006実行委員会

問い合わせ先名張市青少年センター
電話:0595-64-3478
オフィシャルサイト:田中徳三映画祭2006

第1部 11月2日(木)

□□00分午後6時開場
□□00分午後7時トークショー
□□00分午後7時□田中徳三さん、藤村志保さん
□□00分午後8時「怪談雪女郎」上映

第2部 11月3日(金)

□□0分午前10時開場
□□0分午前11時「悪名」上映
□□午後0時45分トークショー
□□午後0時45分■田中監督、勝新を語る
□□午後1時40分「続・悪名」上映
□□午後3時25分「大殺陣 雄呂血」上映
□□午後5時05分トークショー
□□午後5時05分■田中監督、雷蔵を語る
□□00分午後6時「眠狂四郎 女地獄」上映

 私はきのう会場に足を運んだのですが、観客の年齢層の高さに一驚を喫しました。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 人気作家が語るミステリーの真髄

 きょうもまたまた新聞記事。厳密にいえば見開きをつかった読売新聞の企画広告で、10月14日に立教大学池袋キャンパスで催された「読売江戸川乱歩フォーラム2006」の内容が報じられています。

 記事として大沢在昌さんの基調講演「ミステリーと私」、大沢さんと福井晴敏さんによるトークショー「ミステリー小説講座」の要旨が掲載され、広告には光文社の『狼花』『月下の恋人』、講談社の『闇の底』『東京ダモイ』『三年坂火の夢』『翳りゆく夏』『亡国のイージス』『終戦のローレライ』『帰ってきたアルバイト探偵』がくつわを並べています。

基調講演「ミステリーと私」
大沢在昌
 現在私が理事長をやらせていただいている日本推理作家協会は、江戸川乱歩が推理小説家の勉強会として作った「土曜会」にはじまり、来年で60年になります。推理小説を書く、評論する、翻訳するなどの方々を中心に、現在会員が630名を超えております。

 まだまだつづくのですが、まあこのへんで。私はなんたらかんたらさせていただいている、という言葉に接すると途端に機嫌が悪くなりますのであしからず。あすはトークショーから引きましょう。


 ■11月4日(土)
いよいよ隠街道市の開幕です□ 

 ついにこの日がやってきました。とうとう開幕です。昨年6月26日の発足以来インチキにインチキを重ねて幾星霜、名張まちなか再生委員会が単なる思いつきでぶちかますコミュニティイベントがいよいよ幕を開けます。下の画像をクリックしていただくと名張市観光協会のオフィシャルサイトにある PDF ファイルが開きますので、プリントアウトして隠街道市のおともにどうぞ。

 三日前の伝言にも記したことですけれど、私にはこの手のコミュニティイベントを否定するつもりはありません。官と民とが協力して狭い世間で好きなように盛りあがっていただければそれで結構。隠街道市というネーミングに異議を申し立てたいわけでもなく、ただ違和感があるというだけの話である。隠という文字をナバリと読ませることが面白いのであればいくらでもおつかいなさい。そこらの無知蒙昧な白色人種が意味を理解しないまま漢字一字のタトゥーを入れているようなものだと思えば気にもさわらぬ。尻とでも屁とでも好きな漢字を彫っておけ。

 いやいや、タトゥーの話ではありません。隠街道市の話題なのですが、ですからまあ好きにやればよろしい。開幕初日くらいは笑って見すごしてやろう。いやいや、ですから私はコミュニティイベントそのものには何の文句もないのですが、名張まちなか再生委員会という名前の地域社会の害虫には困ったものだと思っており、しかし彼らに歴史認識や歴史意識を説いてみたとてせんかたあるまい。もはや相手にする気も失せた。せいぜい笑いものにしてやる程度のことである。だから好きにしろといってるわけなのですが、ともあれけさのところは隠街道市の盛況をお祈りしておきましょう。

 時間がありませんのでまたあした。

  本日のアップデート

 ▼2006年11月

 横溝正史寄贈品展:横溝正史の世界にふれる 原稿や愛用品40点──山梨市 /山梨 富田洋一

 「読売江戸川乱歩フォーラム2006」で催されたトークショーの件はあすに先送りして、本日は毎日新聞の記事です。

 横溝正史宅の書斎が東京から山梨に移築され、横溝正史記念館として整備されるのにともない、正史の遺族から山梨市に寄贈された原稿や愛用品などを紹介する展示会がはじまった、という記事です。

横溝正史寄贈品展:横溝正史の世界にふれる 原稿や愛用品40点−−山梨市 /山梨
 正史が師と仰いだ江戸川乱歩筆の扁(へん)額や愛用の文房具、映画化された作品のポスターや台本なども展示。正史執筆時の雰囲気を伝えようと座卓や火鉢、茶器なども置かれ、作品の世界観を感じさせる内容になっている。

 毎日新聞はどうやら、正史が乱歩を師と仰いでいた、と見るのが好きなようです。


 ■11月5日(日)
隠街道市はきょう閉幕です□ 

 名張まちなか再生委員会が主催する隠街道市はきのうめでたく開幕いたしました。天候にも恵まれたようです。本日付中日新聞に掲載されている山田浩司記者の記事をどうぞ。

【伊賀】 こんなにあるよ伊賀の物産 旧名張町一帯で「隠街道市」
 伊賀地域の物産品をPRする催し「隠(なばり)街道市」が四日、名張市の旧名張町地域一帯で始まった。

 地場産品のPRと、旧名張町地域の活性化を目的に、官民の共同組織「名張まちなか再生委員会」が主催した。

 新町の名張川川岸や丸之内の市総合福祉センターなどに、計約百店の模擬店がずらり。ブドウやミカン、ダイコン、ネギ、サツマイモなどの農産物や、地酒、花、和菓子、みそ、木工製品などを販売した。

 隠街道市はきょうで閉幕となりますが、来年もこの時期に似たようなコミュニティイベントが催されるのかどうかは不明ですし、開催されたとしても隠街道市という名称が継承されるのかどうか。名張市にはどうも無節操なところがあって、あんなに大騒ぎしたからくりのまちでさえわずか二年の命でしたから、隠だ街道だと歴史認識や歴史意識をいっさい等閑視していつまで浮かれつづけることができるのか、これも私には予測できません。隠街道市を体験したいとおっしゃる向きはきょうを逃せば二度とその機会がないかもしれません。どうぞお出かけください。何でもありの名張のまちへ。

 何でもありというのはもちろん、中日新聞の記事にもありますとおり「ブドウやミカン、ダイコン、ネギ、サツマイモなどの農産物や、地酒、花、和菓子、みそ、木工製品など」が名張のまちに勢揃いしているという意味なのであって、名張市においてはルール違反も手続き無視もみんなOK、インチキだって何でもありだという意味ではありません。もとよりインチキはいまや名張まちなかの名物だといって差し支えないのですけれど、その手のおはなしは隠街道市が終わってからということにして、きょうのところは先日の年表を再度引用して歴史講座をつづけましょう。

古墳時代中期
美旗古墳群の築造が始まる。名張地方では6世紀に前方後円墳が出現。「須知・那婆理・三野の稲置」(古事記)
645/大化元年
大化の改新。翌年正月の詔で畿内の四至を定める。「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来」(日本書紀)
672/天武元年
壬申の乱。吉野を出た大海人皇子は6月24日、「隠の駅家を焼き」(日本書紀)、横河で占卜する
692/持統6年
当麻真人麿の妻の歌「わが背子は何処行くらむ奥つもの隠の山を今日か越ゆらむ」(万葉集)
713/和銅6年
諸国に風土記の編纂を命じ、郡郷名に好字を用いさせる

 年表の記載事項のうち、大化の改新と壬申の乱と風土記にかんする説明は終えております。本日はそれ以外について述べましょう。まずは──

古墳時代中期
美旗古墳群の築造が始まる。名張地方では6世紀に前方後円墳が出現。「須知・那婆理・三野の稲置」(古事記)

 稲置は「いなき」とも「いなぎ」とも読みますが、地方の官職名です。おそらく土地の豪族が任命されたのでしょう。稲など穀物の管理や収納を担当したと見られていますが、よくはわかりません。伊賀の国の三か所に稲置が置かれたというのですから、この三か所はすなわち穀倉地帯。須知は「すち」と読み、のちに矢川郷となりますが、宇陀川と滝川にはさまれた地域。那婆理はむろん「なばり」ですが、現在の名張まちなかの地ではなく名張川の対岸、箕曲中村を中心にした一帯。三野は「みの」で、かつての小波田村のあたりと見られています。須知と那婆理は名張郡、三野は伊賀郡に属しました。

 この稲置の記事はナバリという地名の文献上の初見です。つまりナバリがはじめて歴史に登場したのがこの記事なのですが、じつは古事記の序文にもナバリのことが出てきます。太安万侶が奏上したこの序文には天武天皇の事蹟を紹介するくだりがあり、そこに壬申の乱のおりの名張川でのエピソードが語られています。ナバリという地名は明記されていないものの、

 ──投夜水而知承基。

 書き下し文にすると、

 ──夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。

 とあるのがそれなのですが(底本は岩波書店の日本古典文学大系『古事記 祝詞』)、水は「かわ」と読んで名張川のことだと考えられています。

 古事記の現代語訳は何種類も出ていますが、福永武彦の訳を見てみましょう(底本は河出文庫『古事記』)。天武天皇の事蹟が述べられたパートです。

 飛鳥の清原に大宮をつくられて、天下をお治めになりました天皇[天武天皇]の御世に至りますと、日継の御子として、早くも天に昇るべき竜のごとき帝王の徳をお示しになり、のちには雷が時を得て鳴るがごときご活躍をなさいました。先の天皇[天智天皇]の崩御ののちに、世に歌われた童謡をお聞きになり、また暗夜、伊賀の名張の横河に黒雲の起こるのを占われて、帝位を受け継がれることをお知りになりました。

 ごらんのとおり名張という地名が補われています。

 ──また暗夜、伊賀の名張の横河に黒雲の起こるのを占われて、帝位を受け継がれることをお知りになりました。

 これは隠の駅家を焼いたあとのエピソードで、日本書紀から書き下し文で引きますと(底本は日本古典文学大系『日本書紀 下』)、

 ──横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。

 隠の駅家を焼き払い、さて名張川を渡ろうとしたときのこと、夜空に黒雲が出現しました。天武天皇(この時点ではまだ天皇ではなくて大海人皇子だったわけですが)はこれを奇異なことに思い、得意の占いを試みました。陰陽道の占いです。と、天下はふたつにわかれるがついに天下を手中にするのは天武である、という卦が出たそうな。

 しかし夜空の黒雲がはっきりと眼に見えるものであろうか、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。黒岩重吾もそう考えたのでしょう。壬申の乱を描いた長篇「天の川の太陽」には黒雲の合理的な解釈を見ることができます。引いておきましょう(底本は中公文庫『天の川の太陽(下)』)。文中の〓は木の横に式という字をならべた漢字で「ちく」と読みます。

 藁葺の駅家は炎々と燃え続けている。

 大海人の一行はすでに横川の渡河地点で駅家を焼いた襲撃部隊を待っていた。現在の夏見廃寺の近くである。大海人は駅家の炎が黒煙を吐き出しているのを眺めていた。

 さだかではないが煙は二つに分れているようだった。大海人は、初めての襲撃に舎人達や従者達が昂奮しているのを感じた。

 「皆の者、あの煙を見よ、二つに分れておる、これは天下をとる卦である。一つはこちらの方に流れて来るようだ、これも占ってみよう」

 大海人は舎人達に燭をつけさせると、馬に乗せてあった荷物の中から〓を取って、回転させた。〓は楓子棗の心木で作られていた。中国から伝わった陰陽の占具である。大海人は兄の死も、この〓で占ったのだ。美濃王、馬来田、舎人達を始め、吉野から大海人に従った一行は息を呑み、大海人の手許を眺めていた。

 国栖人や狩人達は、初めて見る大海人の占に、眼を見張り、地面に正座して手を合せた。彼等にとって大海人は、天皇であると同時に神であった。

 心木の回転が止ると、大海人は瞑目した。

 大海人はかっと眼を見開くと立ち上り、夜空に拡がる黒煙に向って腕を伸した。

 「あの竜のような煙は、こちらの方に伸びておる煙の方が大きい。今、朕は心を籠めた占で知った、戦は朕の勝ちじゃ、天下、総てのものは朕のものになる」

 大海人を取り巻いていた一行は、声なき声でどよめき、鬼神のような凄じい眼をして腕を伸している大海人に、神を見たのだ。

 国栖人達は叩頭し、狩人達はこの暗闇なのに、太陽を拝むように手を合せていた。

 大海人は自分の宣託が、一行の勇気を倍加させることを充分計算していたのである。

 夜空にかかる黒雲は、じつは燃えさかる隠の駅家からたなびいていた黒煙であった、というのが黒岩重吾の解釈です。

 次にまいりましょう。

692/持統6年
当麻真人麿の妻の歌「わが背子は何処行くらむ奥つもの隠の山を今日か越ゆらむ」(万葉集)

 当麻真人麿は「たぎまのまひとまろ」と読みます。ほかにはいっさい名の見えない下級官僚で、それが持統天皇の行幸に供奉して都から伊勢に赴いたとき、都に残された妻が詠んだのがこの歌。万葉集の一巻と四巻になぜか重複して収録されています。私の夫はどのあたりを行くのだろう、おきつもの名張の山をきょうあたり越えているのだろうか、といった意味です。

 谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」では主人公の家に飾られた菅楯彦の絵にこの歌が書き添えられていることになっていて、名張市民としてはなんとなく嬉しくなったり懐かしいような気分になったりする次第なのですが、名張まちなか再生委員会のみなさんにはそんなのはどうだっていい話でしょう。さいわいきょうもお天気はいいようだ。歴史のれの字も知らず歴史認識や歴史意識にもとんと縁のない名張まちなか再生委員会が主催する隠街道市、天罰がくだることなく盛況裡にフィナーレを迎えてくれることをお祈りしておきましょう。

  本日のフラグメント

 ▼2006年10月

 トークショー「ミステリー小説講座」 大沢在昌、福井晴敏

 おとといのつづきになります。「読売江戸川乱歩フォーラム2006」で行われたトークショーの要旨です。冒頭を引いておきましょう。

福井 今、ミステリーと聞いて最初に思い浮かぶのは何かと統計を取ると、一番多いのはアニメの「名探偵コナン」ではないでしょうか。次が「金田一少年の事件簿」で、だいぶ後になってやっと小説が出てくる、そんな状況になっている気がします。アニメで楽しんだ後、またミステリーを活字で時間をかけて読む気になるかどうか。もちろん、第一線の作家たちが書いているミステリー小説はもっとリアリティもあり、人間心理などもきちんと描いてあるのですが、アニメの人気に反比例するように、ミステリー小説人気が落ちている気がします。

大沢 私は逆に、これでミステリーの時代がくるかなと思った。つまり、アニメで「犯人は誰だ」的なものに興味を持った人たちが、今度はミステリー小説に向かい、活字で読むともっとおもしろいと思ってくれればいいなと。でも確かに日本人は、消費行動が集中する傾向がある。アニメを第一ステップにして次に活字に行くのではなく、アニメで集中して全部消費しきってしまうのかもしれない。

 こんな感じでお商売の話ばかりがつづくのですが、文を商う文人としてあけすけに商売の話ができた、という点でも乱歩はこのおふたりのまぎれもない先達であったわけなのですから、みなさんあまり目くじらをお立てになりませんように。


 ■11月6日(月)
まちなかインチキ総集篇□ 

 名張まちなか再生委員会主催の隠街道市(なばりかいどういち、とお読みください)はきのう終了いたしました。私も行ってまいりました。いつもはほとんど人通りのない、という表現がけっして誇張ではない名張のまちが、さすがににぎわっておりました。結構結構。写真をごらんいただきましょうか。

 場所は本町。隠という文字を染め抜いたのれんが揺れ、隠街道市ののぼりが立つ町筋で、お餅つきが人気を集めていました。杵の動きにあわせて子供たちの掛け声が響いておりました。名張まちなかに子供の声がこだまするなどというのは、ふだんは絶対ありえないことではないかしら。写真左側の道路がかつての初瀬街道にして現在の本町通りなのですが、結構な人出であったことがおわかりいただけるのではないでしょうか。

 さてお立ち会い、おとといきのうと隠街道市でにぎわったこの名張まちなかでこれまでにいったいどんなインチキが展開されてきたのか、ざっとふり返っておきたいと思います。

 まずは一昨年。

2004年5月
三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が開幕しました。半年にわたるロングランの事業で、名張のまちではからくりをコンセプトにしたイベントがくりひろげられました。
2004年6月
名張地区既成市街地再生計画策定委員会が発足し、名張まちなか再生のための検討が始まりました。

 「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という事業自体がとてつもないインチキでした。どこがどうインチキであったのか、この伝言板でさんざっぱら指摘したことですからきょうのところは省略いたします。

 いっぽうの名張地区既成市街地再生計画策定委員会は、委員の人選からしてインチキであったと私は思います。まちづくり推進協議会だの青年会議所だの老人クラブ連合会だの文化協会だの川の会だの商工会議所だの社会福祉協議会だの県民局だのPTA連合会だの市議会だの区長会だのといった諸団体関係機関から委員を寄せ集め、トップには大学の先生を連れてきていっちょあがり、みたいな手法はじつに旧態依然としています。どこに専門知識をもった委員がいるのか。専門知識どころかまともな見識さえもちあわせていない委員がいるのではないか。この委員会のどこに名張のまちの人たちの生の声が反映されるのか。単にうわっつらを整えただけでプラン策定能力にはおおいに疑問を抱かせる、ひとことでいえばインチキと呼ぶしかない人選であったと私には見受けられます。

 つづいて去年。

2005年1月
名張地区既成市街地再生計画策定委員会が名張まちなか再生プランの素案を提出しました。新町に残る細川邸という旧家を歴史資料館として整備し、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示するほか、市民が関われる利用方法を工夫します」との構想が示されました。
2005年2月
名張まちなか再生プランの素案が公開され、市民のパブリックコメントが募集されましたが、素案は一言一句の変更もなく正式なプランとして決定されました。
2005年6月
名張まちなか再生委員会が設立され、プランを具体化するための検討がはじまりました。事業計画のうち歴史資料館の整備事業では、この年10月までに基本計画が策定され、翌年3月までに実施設計が行われることになっていましたが、いずれも実現されませんでした。

 インチキを指摘しておきましょう。細川邸を歴史資料館として整備するという構想そのもの、これが最大のインチキでした。なぜか。わざわざ施設をつくって展示すべき歴史資料などどこにも存在しないからです。私は名張まちなか再生委員会の事務局で歴史資料のリストを見せてくれるよう依頼したことがあるのですが、そんなリストは存在していませんでした。歴史資料のリストもないのに歴史資料館をつくるという構想が先行していた。これはインチキというしかない事態です。どうしてこんな構想が出てきたのか。

 諸悪の根源は細川邸という旧家でしょう。

 細川邸にはすでに住む人がなく、名張市が所有者と賃貸契約を結んで利用することが可能な状態になっています。とくに商工関係者のあいだには、この細川邸を何らかの施設として整備すれば名張のまちに殷賑がもたらされるのではないかという期待があったようです。しかし私には、そんなものはただの思い込みや勘違い、はっきりいえば妄想であるとしか見えません。そんな程度の施設整備で名張のまちがにぎわうわけがない、というのが私の意見です。

 私の意見はどうでもいいとして、細川邸をどのように活用するかということが名張地区既成市街地再生計画策定委員会にとって最大の課題であり、名張まちなか再生プランの目玉であると目されていたはずです。それがどうして展示品なき歴史資料館といった構想に落ち着いてしまったのか。話はごく単純です。

 委員会に知恵がなかったというだけの話です。

 歴史資料館などという月並みきわまりない施設を思いつくことしか彼らにはできなかった。しかも驚くべきことに、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料」を展示する歴史資料館の構想をまとめあげる過程で、彼らはただの一度も名張市立図書館に足を運ぼうとはしなかった。図書館には郷土資料室もあれば乱歩コーナーもあります。歴史資料館をプランニングするならまず最初に足を運ぶべき場所は図書館のはずです。しかし名張地区既成市街地再生計画策定委員会はそうしなかった。彼らがどんな協議を行ったのかは私の知るところではありませんが、資料の存在を確認することすら怠っていたのですから、きわめて無責任な協議であったと見るしかありません。要するにインチキです。

 ちなみにこの2005年、名張のまちは前年にひきつづいてからくりのまちでした。この年8月、当サイト掲示板「人外境だより」に「ようこそからくりの町なばりへ」とわざわざ投稿してくれた人があったほどです。

 そして今年。

2006年7月
名張市の広報紙「広報なばり」に「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」という記事が掲載されました。名張まちなか再生プランの進捗状況を市民に報告する内容です。歴史拠点整備事業では、

──旧細川邸を改修して「(仮称)初瀬ものがたり交流館」を整備します。旧家の風情を生かした魅力的な交流拠点として、企画展示・イベントなどを催し、多くの人に来館いただけるような施設づくりを目指します。

と説明されていました。名張まちなか再生プランで歴史資料館になるはずだった細川邸は、初瀬ものがたり交流館という施設として整備されることになっています。今年度中に「(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事」が実施されるとの文章も見えます。

2006年11月
名張まちなかで二日間にわたって隠街道市が開催されました。

 ここにもまたインチキが存在しています。名張まちなか再生プランにあった歴史資料館が初瀬ものがたり交流館に変更されてしまいました。そんな権限が名張まちなか再生委員会にはたしてあるのか。私にはないと思われます。にもかかわらずプランはごくあっさりと、市民には内緒のままで変更されてしまいました。それが名張まちなか再生委員会のインチキです。委員会のみならず、名張市という地方自治体によるインチキです。名張市という自治体においては決定という行為がほとんど重さを有しておらず、ひとえに風の前の塵におなじであるということでしょう。

 むろんプラン自体は無茶苦茶なものでした。歴史資料もないのに歴史資料館をつくるという構想には無理がありすぎました。そんなプランを正式に決定してしまった名張市の不見識は誰にも否定できないところでしょう。しかしだからといって、市民のパブリックコメントまで募って正式に決定されたプランを勝手に変更していいわけがありません。初瀬ものがたり交流館の整備構想は、名張まちなか再生委員会のなかのごくわずかな人間が、ルールや手続きをいっさい無視して密室のなかでこっそりつくりあげたものであるというしかありません。

 そこには市民のコンセンサスなどかけらも存在していません。

 ただし名張まちなか再生委員会事務局の主張によれば、これはただの名称変更です。名張まちなか再生プラン記されていた歴史資料館には交流施設という側面もありましたから、より交流に主眼をおいた初瀬ものがたり交流館に名称を差し替えただけだとのことです。昔から名は体を表すといい、名詮自性ともいいますから、名称の変更には内容の変更がともなっていると見るのが一般的な認識であると思われるのですが、名張市役所ではこんなその場しのぎの遁辞が通用するものと考えられているようです。

 隠街道市のインチキは先日来指摘してきたとおりであり、二年にわたってからくりのまちであった名張のまちはいきなり初瀬街道の宿場町という側面を強調されはじめました。初瀬ものがたり交流館のインチキを正当化するための悪辣な企みと見るべきでしょう。ただしきのう見てまわったかぎりでは、隠街道市には初瀬街道を連想させる演出は見あたりませんでした。しいていえば、江戸時代の道標の模型がひっそり立てられていた程度でしょうか。隠街道市というネーミングもまた、しょせんはうわっつらだけのものでした。

 以上、名張まちなかで展開されてきたインチキにかんする所見の一端を申し述べました。それではいよいよあすあたり、インチキの牙城にしてうわっつらの総本山、われらが名張市役所にご挨拶を申しあげることにしましょうか。

  本日のフラグメント

 ▼2006年9月

 盲獣 亜駆良人

 「SRマンスリー」乱歩特集号の売れ行きが好調のようで(といったって高の知れたものではありますが)、きのうも一件注文が寄せられました。購入希望は当方宛メールでどうぞ。料金は一冊五百円プラス送料。ご注文をいただけば郵便振替用紙を同封して特集号をお送りいたします。

 しかしこうなりますと、この特集号で選出された「10作×4部門」のうちわずか「人間椅子」だけをとりあげて紹介がおしまい、というのでは愛想というものがなさすぎる気がしてきました。さりとて紹介するとなると、待ちかまえているのはあちら立てればこちらが立たずの煩悶地獄。

 それで結局のところもう一篇、「長編10作」のうちの「盲獣」をとりあげることにいたしました。10月28日に催されたなぞがたりなばり講演会で、講師の綾辻行人さんが少年もの以外で最初に読んだ乱歩作品は「盲獣」であったと打ち明けていらっしゃったのがなんとなく印象に残っている、というのが選出理由です。

 しかし裏を返して言えば、このような主題こそ乱歩世界とも言えるのではないだろうか。一見エログロに見えるのだが、限度すれすれで踏み止まっている。このあたりが乱歩の乱歩たる所以だろう。それにしても、「鎌倉ハム大安売り」には乱歩自身も嫌気がさしたと言っているが、このことを乱歩が自作を嫌悪する癖とは思わず、常識人であった証拠ととるのは間違っていないような気がする。

 ■11月7日(火)
名張まちなかインチキの予感□ 

 それでは名張市役所にご挨拶。私はさきほどこんなようなメールを市街地整備推進室あてに送信しました。

 お世話さまです。市立図書館の中と申します。ミステリー文庫の担当室はどこになるのでしょうか。ご多用中恐縮ですが、お知らせいただければ幸甚です。

2006/11/07

 まったくひどい話である。何がひどいのかというと名張まちなか再生プラン、これがひどい。名張市役所というところにはその場しのぎと先送りで業務をこなしていればそれでよし、みたいな内規があるのかもしれませんが、そんなことやってるといつかまとめてつけを払わなければならなくなります。抜き差しならない状況に立ち至ります。そうなってから吠え面かいたって手遅れというものです。

 ものごとというのは、熟慮すべきときに熟慮し、決断すべきときに決断しなければなりません。ところが名張市役所にはその場しのぎと先送りばかりが横行しているようで、名張まちなか再生プランに盛り込まれていた歴史資料館整備構想こそはその場しのぎの典型でしょう。熟慮のあとなどどこにも見えません。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はじつに無責任かつ適当に、歴史資料館でもつくっとけばいいんじゃね? みたいなその場しのぎの決定をくだしてしまいました。

 先送りの例は名張市に寄贈された桝田医院第二病棟の扱いに見られます。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はその活用策をいっさい検討しませんでした。ですから名張まちなか再生プランでは桝田医院第二病棟のことに片言隻句もふれられておりません。ばかなのかこらうすらばかども。むろんばかなのであろう。うすらばかなのであろう。あの委員会には活用策を考える能力など蚤の脳みそほどもなかったのであろう。だから先送りするしかなかったのであろう。なんたる無能力、なんたる無責任。いったいどうなっておるのか名張市というところは。

 しかし名張市民のみなさん、どうぞご心配なく。名張市には私がおります。私は名張まちなか再生プランを一読してなんじゃこりゃと天を仰ぎ、プランの致命的な不備二点を指摘するパブリックコメントを提出しました。不備二点というのは、歴史資料館の整備などというインチキが盛り込まれていることと、桝田医院第二病棟の活用策が盛り込まれていないことの二点です。しかしプランは名張地区既成市街地再生計画策定委員会の素案どおりに決定されてしまいました。名張市民のみなさん、力になれなくてすまんかったな。

 それで結局どうなったか。歴史資料館ないしは初瀬ものがたり交流館をめぐる茶番劇はきのう記したとおりであって、市民のコンセンサスなんかどこ吹く風、初瀬ものがたり交流館などという必要もなければ意味もない(しいて探すならば名張まちなか再生のうわっつらを整えるという意味はあるでしょうが)施設が今年度中に整備されることになるようです。しかもなおかつそのうえに、驚くべきことにというべきか笑うべきことにというべきか判断に苦しむところではあるのですが、まったくおなじことがくり返されようとしているみたいです。そんな予感がしてなりません。ミステリー文庫の話です。

 ミステリー文庫ってのはいったい何なのか。私には何もわからず、しかし名張市役所の内部ではそういった構想が動き出しているようで、げんに名張市立図書館にもなんたらかんたら話がもちこまれているらしいのですが、市立図書館嘱託としては狐につままれたような気分を抱かざるをえません。そこでとりあえず名張市役所の担当セクションにおうかがいを立ててみようと考え、本日付伝言冒頭のメールを送信いたしました次第です。この構想が名張まちなか再生プランの一環なのかどうかさえ私には不明ですから(プランにはミステリー文庫のみの字も記されていないのですが)、とりあえずプランを担当している市街地整備推進室にメールをお送りいたしました。さあどうなるのかな。

 隠街道市の隠は隠蔽体質の隠ででもあったのか。とにかく名張市役所のみなさんや、一度でいいからいってごらん。手前どもは市民と情報を共有いたします、なんてせりふを吐いてごらん。私は名張市民のみなさんや全国のミステリファンのみなさんとともに、名張市のミステリー文庫構想とやらを厳しくあるいは温かく見守りたいと思います。おそらくは厳しさばかりがいや増すでしょうが。

 話題を転じましょう。11月2日と3日に名張市で開催された「田中徳三映画祭2006」を報じる記事がきのうの毎日新聞に掲載されました。渕脇直樹記者の記事です。

田中徳三映画祭:監督在住の名張で開く 多くのファンでにぎわう /三重
 ◇市川雷蔵や勝新太郎

 名張市在住の映画監督、田中徳三監督(86)の5作品を上映する「田中徳三映画祭2006」(同実行委員会など主催)が、同市松崎町の市青少年センターで開かれた。田中監督のトークショーやポスター展もあり、多くの映画ファンでにぎわった。

 田中監督は大阪市出身。1948年、大映京都撮影所に採用され、ベネチア国際映画祭グランプリの「羅生門」(50年、黒沢明監督)や、同映画祭銀獅子賞を受賞した「雨月物語」(53年、溝口健二監督)では助監督として携わった。

 映画祭では、田中監督が手がけた大映時代の49本の中から、代表作の勝新太郎主演の「悪名」(61年)や市川雷蔵主演の「大殺陣 雄呂血」(66年)などが上映され、「雄呂血」に出演した女優、藤村志保さんとの対談もあった。トークショーで田中監督は勝、市川の両スターの思い出を語り、来場者の質問にも答えた。

 3日夜には名張市内の会場で映画祭を記念する大宴会が開催され、もっとも遠来の参加者はなんとロサンゼルスにお住まいの日本人女性でした。市川雷蔵のファンクラブを仕切っていらっしゃる方だそうで、この映画祭のためにわざわざ帰国されたとのことでした。近鉄名張駅前のホテルに2日3日と二連泊して大宴会出席を果たした大阪府在住の男性もいらっしゃいました。参加者数は三十人あまりか。私はといいますとなにしろ伊賀地域を代表する知性なんですからいわゆる上座に陣取り、ていうか田中徳三監督ご夫妻のあいだにちょこんと坐ってゆっくりお酒をいただきました。

  本日のフラグメント

 ▼2006年9月

 探偵小説の定義 東坂博

 もうついでです。「SRマンスリー」乱歩特集号の「10作×4部門」、各部門一篇ずつ行っとくことにいたします。

 本日は「評論10作」から「探偵小説の定義」をとりあげましょう。選出理由はきわめて単純。ミステリー文庫なんてものを開設するためにはまず探偵小説を定義することが必要である、という一事です。ミステリー文庫関係者のみなさんはちゃんと定義できているのかな。

 日本のミステリ界では様々な論争が、それぞれの時代に起こった。最近では、『容疑者Xの献身』を巡る所謂「X論争」、過去には「名探偵論争」や、「探偵小説芸術論」も論じられてきた。議論の前提には、定義という厄介なものが必要である。全員が了解する共通認識がなければいつまでも議論は噛み合わない(共通認識があっても噛み合わないケースはあるが)。どういうものが推理小説か、という極めて初期レベルでの共通認識がなければならない。探偵小説、推理小説、ミステリと呼ばれるべきものの範囲について信頼できる定義が。そこで参考になるのが、今も語り継がれる乱歩の「探偵小説の定義」なのだ。

 「SRマンスリー」乱歩特集号の購入希望は当方宛メールでどうぞ。それにしても私はどうしてSRの会の代理店みたいな真似をしているのでしょうか。


 ■11月8日(水)
アナーキー都市宣言□ 

 おかしいなあ。お忙しいのかしら。ごく簡単な依頼だったはずなんだけど。きのう名張市役所市街地整備推進室あてに送信したメールの回答がまだいただけません。ミステリー文庫の担当室はどこですか、というきわめて単純な質問だったのですけれど、おかしいなあ。お忙しいのかしら。

 ならば本日は名張市観光協会の話題にいたしましょう。毎度おなじみ、などといってるわりにはかなりご無沙汰していたのですが、2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド「【黒蜥蜴】 江戸川乱歩 第九夜」を閲覧してみましたところ、11月4日付のこんな投稿が眼につきました。

706 :名無しのオプ:2006/11/04(土) 11:12:40 ID:V5+y8ys7

名張市観光協会の乱歩紹介、英語が変。
機械翻訳をコピペしたっぽい。

http://www.e-net.or.jp/user/n-kankou/edogawa.html

 リンク先を見てみました。このページです。

 たしかに変です。日本文に添えられた英語の訳文があきらかにおかしい。たとえば──

 日本の探偵小説を創始した作家江戸川乱歩は、明治27年(1894年)名張の町に誕生しました。生後まもなく転居したせいで、乱歩にとって名張は「見知らぬふるさと」でありつづけましたが、晩年になってようやく名張の地を踏むことができました。これをきっかけに、昭和30年(1955年)には名張市民の手で「江戸川乱歩生誕地」碑が建立されました。

 これに対応する英文はこうなっています。

 Writer Rampo Edogawa who founded a Japanese detective story was born (1894) in a town of Nabari in 1894. I was the cause that I moved after life soon and Nabari continued being "an unknown hometown", but it was later years and was able to finally step on the ground of Nabari for random walk. Triggered by this, "Ranpo Edogawa birth place" monument was erected by a hand of a citizen of Nabari-shi to (1955) in 1955.

 乱歩スレ投稿番号706に記された推測にしたがって、ネット上の翻訳サービスをチェックしてみました。上に引用した日本文を Yahoo! 翻訳で英訳してみたとお思いください。驚くべし。そこに示された訳文は上に引用した英文と寸分たがわぬものではありませんか。

 気は確かか名張市観光協会。ほんっとに大丈夫か。いやしくも社団法人のオフィシャルサイトがそこらの翻訳サービスから提供された怪しい英文をかけらの疑いもなく信用し、そのまま掲載しているということなのか。何のチェックも入らんのか。サイトをつくってるのは小学生か。信じられんな実際。唖然としてしまった私には笑うことさえできません。

 試みに上に引用した英文を Yahoo! 翻訳で日本文に訳してみました。

 日本の探偵小説を創立した作家Rampo江戸川は、1894年に名張の町で、(1894)として生まれました。私は私がすぐに人生の後、動かした原因でした、そして、名張は「未知の故郷」であり続けました、しかし、最近の年であって、乱歩のために名張を理由に最終的に踏み出すことができました。これによって引き起こされて、「江戸川乱歩出生場所」記念碑は、1955年に(1955)に名張市の住民の手によって建設されました。

 ますます面妖な文章になってきましたので、ここにいたって私はようやく笑うことを得た次第なのですが、まったくひどい話である。サイトに英文が載ってるとかっこいいな、とか、海外から観光客が来てくれるかもしれないな、とか、そんなことをお考えになったのであるのかしら。それはそれで結構なのであるけれど、それならばちゃんとした英文を掲載しなければいかんがな。こんな無茶苦茶な英文載せたって、そんなことでは名張市観光協会の、というよりも名張市そのものの信用がますます失墜してしまうだけじゃがな。

 これもまた要するにうわっつらなわけです。うわっつらを飾ってればそれでいいという名張市の体質がにじみ出ているとしかいいようがありません。実質や本質、中味、内容のことなんて誰も考えようとはしないわけです。こうなるともういっそアナーキーと表現してもいいような事態でしょう。アナーキー都市名張市。なんかかっこいいではありませんか。

 ここで2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド投稿番号706の方にご指摘へのお礼を申しあげますとともに、名張市役所のみなさんにちょこっとお願いです。商工観光室の方でなくてもどなたでも結構ですから、このことを名張市観光協会のみなさんにひとことお伝えくださいな。

 ついでですから市街地整備推進室のみなさんにもお願いしておきましょうか。お忙しいこととは思いますが、きのうメールをさしあげました件、なにとぞよろしくお願いいたします。

  本日のフラグメント

 ▼2006年9月

 宇宙怪人 谷口年史

 「SRマンスリー」乱歩特集号の「10作×4部門」、最後は「少年物10作」となります。

 「宇宙怪人」の選出理由は、ご町内感覚から抜け出せないみなさんに怪人二十面相のスケールの大きさを見習っていただきたいから、といったところでしょうか。

 しかも今回の陰謀は日本だけが舞台ではなく、世界を巻き込んだ気宇壮大な計画である。その超弩級の企みの裏にある目的、動機というのが、何と、××××のためだというのだから恐れ入る。これはもう江戸川乱歩だから、怪人二十面相だから許されるのに違いない。他の作家なら書かないし、書けない。

 ■11月9日(木)
コピー&ペースト症候群に注意せよ□ 

 いやびっくりしました。電光石火で修正されました。名張市観光協会オフィシャルサイトにある乱歩のページの話です。2ちゃんねるミステリー板乱歩スレッド「【黒蜥蜴】 江戸川乱歩 第九夜」にこのページの英文が変だ、との指摘が投稿されていると昨日この伝言板で話題にいたしましたところ、あっというまに英文が削除されてしまいました。

 この画像はきのうの朝のものですからまだ英文が見えるのですが、画像をクリックして現在のページをごらんいただけばおわかりのとおり、日本文に添えられていたおかしな英文が消えております。

 ただしよく見てみますと、下の画像は現在のページからキャプチャしたものですが──

 まだ英文が三センテンスほど残っております。名張市観光協会のみなさんや、これも削除しておかなければいかんがな。ついでにいっときますと、乱歩を紹介する文章の冒頭に、

 ──明治27年(1895年)10月21日

 とありますけれど、明治27年は1894年ですからこれも修正しておきましょう。それから典拠も示しておいたほうがいいのではないかしら。この「明治27年」から「その分野を確立した」までの文章は江戸川乱歩生誕地碑に刻まれた略歴の劣化コピーなのですが、その略歴はほぼまちがいなく乱歩本人が書いたものです。そこに値打ちがあるわけなんですから、典拠を示したほうが箔がつくことになるでしょう。

 代表作として「人間椅子」「パノラマ島奇談」「黄金仮面」「怪人二十面相」「少年探偵団」「新宝島」があげられているのもじつはなんだか変なのであって、いくらなんでも「新宝島」はないでしょう。そんな作品は「SRマンスリー」乱歩特集号の「少年物10作」にも選ばれておりません。

 ここで本日のアップデートに登場する日本経済新聞の記事から引いておくならば、有栖川有栖さん「おすすめ」の乱歩作品はこんな具合になっております。

筆者のおすすめ
「押絵と旅する男」(短編)
「パノラマ島綺譚」(短編)
「怪人二十面相」(少年探偵団シリーズ)
「孤島の鬼」(長編)
「幻影城」(評論)
=いずれも光文社文庫の江戸川乱歩全集などに収録。

 「パノラマ島綺譚」が「短編」となっているのは編集部のミスだと思われます。

 代表作なんて結局は個人の主観にもとづいて選ぶしかないものですから「新宝島」が入っていたって全然いいのではあるけれど、かりにも名張市観光協会のオフィシャルサイトに掲載するのであればもう少し妥当性というものに配慮することが必要でしょう。それに乱歩の代表作というのであれば名張市にはとっておきのネタがあります。乱歩生誕地碑に刻まれた略歴には、おそらく乱歩本人が選んだのであろうベスト作品がこんなぐあいに列記されてるわけです。

代表作
心理試験
人間椅子
パノラマ島奇談
陰獣
石榴
孤島の鬼
黄金仮面

 ですからこれをあげておくのが望ましい。というよりも、典拠を明示して略歴の全文を掲載しておけばそれでいいのではないかと私は思います。

 ではここで、今回の一件から教訓を導いてみましょう。この一件はすなわち、

 ──たったひとりの2ちゃんねらーが名張市観光協会を動かした。

 と表現されるべき事態なのであって、話題としては古いけれども名張市版電車男か。いや全然ちがうか。とにかく天網恢々疎にして漏らさず、というほどのことではないけれど、サイト運営にご町内感覚となあなあ体質は禁物だという教訓が導かれてくるはずです。しかし名張市内にはこうした感覚と体質が充満しており、古い話になるのですけれど1998年、名張市立図書館の『江戸川乱歩執筆年譜』が完成したとき名張市のオフィシャルサイトにPRを掲載してもらったところ、問い合わせ先として記載された名張市立図書館の電話番号に市外局番が見あたらないという珍事が出来いたしました。絵に描いたようなご町内感覚だなや、と思った私はお役所というものへの不信をいよいよ深めた次第でした。

 それからまた、コピー&ペースト症候群にはくれぐれも気をつけなければなりません。これも貴重な教訓でしょう。とはいえこの症候群は全国的に蔓延して猛威をふるっておりますから、名張市観光協会が手もなく感染してしまうのは無理もないことでしょうか。私の体験によりますと、いまや高校生でも調べものして文章をまとめさせるとネット上の情報をまんまコピー&ペーストしてくる例が珍しくありません。それにインターネットに限らずとも、たとえば名張まちなか再生委員会による初瀬ものがたり交流館なんて発想はコピー&ペーストだけで成立しているものであり、あっちこっちから適当な素材をコピーしてきて名張まちなかにペーストしただけでいっちょあがり、というような非常にいい加減な話であるわけです。なんかもう無節操きわまりない。

 それはもう名張市という自治体はそもそも無節操なのである。

 そんなことは名張市内を自動車で走ってみれば一目瞭然です。デベロッパーの意のままにあちらこちらの山を削って大規模住宅地を造成しつづけた無節操さは一瞥するだけで納得されることでしょう。しかしいまからそれを責めることはできません。そうした無節操さが地方都市の活力に直結していた時代があったわけです。人口が増える。税収が増える。公共施設が充実する。大型店が進出する。無節操さが名張市の発展とやらの牽引車になっていた。そんな時代はたしかにあったわけです。しかしいまやそんな時代ではありません。無節操さから脱却して新しい価値観や視点を身につけて、そのうえで名張市の将来を展望しなければならない時代なのである。

 名張まちなかの再生なんてその最たるもののはずではないか。

 日本人の無節操さがその絶巓を極めたバブルの時代には見向きもされず、ひっそりと取り残されて静かに眠っている名張のまちなかに、バブル期のものではない新しい価値観にもとづいて新たな価値を見いだし、新しい視点から新たな可能性を探ることで名張まちなかを生活の場として再生させる。それが名張まちなか再生プランの本義ではなかったのか。それがどうだ。どこに新しい価値観がありどこに新しい視点があるのか。プランの目玉であった細川邸の整備計画は眼もあてられぬほどのコピー&ペーストで、日本全国どこにでも転がっている歴史資料館という発想をそのままコピーしてきてペーストしただけのものだったではないか。それが無理だということになって練り直した初瀬ものがたり交流館構想と来た日には、伊賀市阿保にある初瀬街道交流の館たわらやをそっくりそのままコピーしたものだといわれてもしかたがないようなしろものではないのか。施設の概要がいっさい明らかにされていませんからただの臆測でこういうしかないわけなのですが。

 そういえばまだ回答がありません。

 私はおとといの朝、名張まちなか再生プランの担当セクションにミステリー文庫の担当室はどこですかというメールをお送りしておいたのですが、まーだ教えていただけません。名張市観光協会の迅速な対処にくらべてじつに悠揚迫らぬではないか。少しは悠揚迫ったらどうなの。もしかしたら名張市役所の内部には、私の相手はいっさいしないようにしましょう、なんて通達が出まわっているのかな。しかしそんなことをしておったら名張市役所のみなさんや、自分で自分のくびを絞めているようなものなのだということに早く気づかなければなりません。

 ここで名張市発行「広報なばり」2006年7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」(テキスト版)から引いておきましょう。

歴史拠点整備プロジェクト
 旧細川邸を改修して「(仮称)初瀬ものがたり交流館」を整備します。旧家の風情を生かした魅力的な交流拠点として、企画展示・イベントなどを催し、多くの人に来館いただけるような施設づくりを目指します。

 また、寄付いただいた、江戸川乱歩生誕地碑のある桝田医院第2病棟跡と、「(仮称)初瀬ものがたり交流館」とを有効活用することにより歴史文化の薫る空間づくりを行います。

〔17年度実施事業〕

・ 旧細川邸の老朽、危険部分の除去解体

・(仮称)初瀬ものがたり交流館基本計画の検討

〔18年度実施事業〕

・(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事

・(仮称)乱歩文学館基本計画策定

 今年7月の時点では「(仮称)乱歩文学館」とされていたものがミステリー文庫になったのでしょうか。それともそうではないのでしょうか。ミステリー文庫とやらは名張まちなか再生プランとは無関係な構想なのでしょうか。だいたいがいったいどこにつくられるのか。運営主体はどうなるのか。まさにミステリーというしかないのでごんすが、そのあたりのことをお聞かせいただかないことには名張市立図書館嘱託としての私の業務に支障が生じてしまいますので(げんに生じておるわけですが)、なんとかすみやかにお答えをいただきたいものでありんす。

 それでは名張市観光協会の労をねぎらいつつ本日はこのへんで。

  本日のアップデート

 ▼2006年11月

 よるの夢こそまこと/江戸川乱歩、探偵小説の父 有栖川有栖

 日本経済新聞の11月2日付夕刊に掲載されました、とのお知らせを Peter-Rabbit さんから掲示板「人外境だより」にいただいたのですが、ちょっと確認してみたところ当地には日経の夕刊は流通しておりませんでした。ちなみに当地には全国紙の夕刊も存在しておらず、朝夕刊の記事をまとめた統合版が毎朝配達されているばかり。新聞記事を追っかけるにもひと苦労いたします。

 そんなことはともかく、日経の夕刊が入手できなくて困惑しておりましたところ、Peter-Rabbit さんから紙面のスキャン画像をメールでお送りいただきました。やれ嬉しやありがたや。Peter-Rabbit さんにあらためてお礼を申しあげつつご紹介に移ります。

 有栖川有栖さんの連載「日本推理小説小史」の第一回。となると当然乱歩の出番です。結びの二段落をどうぞ。

 偉大なる父は、決まって色紙にこう書いた。「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」。探偵小説ファンなら誰もが知っているフレーズだ。乱歩にとっては、昼間の「ゆめ」より夜の「夢」の方が、くっきりと鮮やかだったのだろう。これは童心めいた美意識であると同時に、幻想こそが現実を創りだすという哲学でもある。

 ながらく「しょせんは探偵小説」と言われた。「たかが謎解きもの」「エログロ、猟奇趣味、低俗」「芸術性を欠いたなぐさみもの」と見下す人々に、乱歩は静かにノーと応えていたのだ。「よるの夢こそまこと」。探偵小説だから描けることがある、と。


 ■11月10日(金)
あれもこんなような沈黙じゃった□ 

 それにしても情けない話である。

 結局あれだけのことであったか。あわてふためきながら英文をいい加減に削除するだけで、あとは明治27年が1895年であるとする誤記を訂することさえできんのか。名張市観光協会にも困ったものだな。

 まあほっといてやる。好きなだけ恥をさらしながら情報発信とやらに努めてなさい。

 それにしても情けない話である。

 そこらの小学校の学級委員会のほうがまだしっかりしておるのではないか。何かを決定するときには公正と公平を重んじ、ルールを守り手続きを踏んでことを進めるのではないか。考えるべきときには考えて、決めるべきときにはちゃんと決める。それができておるのではないかな。

 それにひきかえどうよ名張市は。熟慮すべきときに熟慮せず、決断すべきときに決断しない。その場しのぎと先送りを重ねてきたあげくがこのざまではないか。11月7日付伝言にも記したことですけど、そろそろつけを払わねばならぬときなのではないか。せめてそこらの小学校の学級委員会程度にはしっかりしなければならんのではないか。ところがそれができぬというのであるからまことに情けない話である。

 お聞きしたいことがあるからミステリー文庫とやらの担当セクションをお教えいただきたい。ただこれだけの質問にどうして答えられぬのか。内部事情だの守秘義務だのとうっかりしたこと口走ってんじゃねーぞこの隠蔽自治体。

 いやいや、いきなり喧嘩腰になっちゃいけません。

 「広報なばり」2006年7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」(テキスト版)にはどんなふうに書いてあるのかな。きのう引いたところを再度確認してみましょう。

歴史拠点整備プロジェクト
 旧細川邸を改修して「(仮称)初瀬ものがたり交流館」を整備します。旧家の風情を生かした魅力的な交流拠点として、企画展示・イベントなどを催し、多くの人に来館いただけるような施設づくりを目指します。

 また、寄付いただいた、江戸川乱歩生誕地碑のある桝田医院第2病棟跡と、「(仮称)初瀬ものがたり交流館」とを有効活用することにより歴史文化の薫る空間づくりを行います。

〔17年度実施事業〕

・ 旧細川邸の老朽、危険部分の除去解体

・(仮称)初瀬ものがたり交流館基本計画の検討

〔18年度実施事業〕

・(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事

・(仮称)乱歩文学館基本計画策定

 なーにが「歴史文化の薫る空間づくり」だ。歯の浮くようなことさえずってんじゃねーぞこら。この構想にはインチキのにおいしかしておらぬではないか。

 いやいや、いきなり喧嘩腰になっちゃいけません。

 この記事によれば、今年度中に「(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事」と「(仮称)乱歩文学館基本計画策定」が実施されることになっています。今年度中というのは来年3月末までのことですから、指折り数えてもあと四か月あまり。できるのかな。初瀬ものがたり交流館がいったいどんな施設になるのやら、市民には現時点でもいっさい知らされてはいないのですけれど、あと四か月ほどでどうにかなるのかな。

 なんだかずいぶんおかしいなと思われるのは、今年7月の時点でなお初瀬ものがたり交流館の名称に仮称という言葉が冠されていることでしょう。年度内に改修工事が実施される施設の名称が7月にまだ仮称だというのは、私にはどうにも解せない気がします。名張市というところはものごとを決定するのが嫌いなのかな。名称が仮称であるということは、すなわち施設の構想そのものにもいまだ曖昧なところがあるということなのかとも懸念される次第であるのですが、いまの段階でもやっぱり仮称のままなのかな。

 よろしい。私がひとはだ脱ぎましょう。適切な名称を考えてさしあげます。名張市内にはすでに、

 ──名張市総合福祉センターふれあい

 あるいは、

 ──名張市武道交流館いきいき

 といった施設名が存在しておりますから、その流れを汲んで、

 ──初瀬ものがたり交流館いんちき

 なんていうのがいいのではないかしら。きゃはは。

 こら。へらへら笑ってる場合かこら。

 いや喧嘩腰はいけません喧嘩腰は。

 それにしても情けない話である。

 このまま緘黙を貫くつもりなのかな名張市は。そんなことしたって意味はない。むしろ自分で自分のくびを絞めるようなものなのだと、きのうも私は記したではないか。まあいたしかたあるまい。そちらがちっとも教えてくれないのであれば、こちらから押しかけていって尋ねるだけの話である。

 と書いていて思い出しました。こうした無反応にはたしかにおぼえがある。そんなふうに感じていたのですが、それを思い出しました。忘れもしない二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板、あそこで委員会に何を質問してもいっさい応答がなかったことを思い出しました。連中は緘黙を貫いたあげく言論封殺というとんでもない手段に打って出ました。掲示板をいきなり閉鎖し、過去ログも読めなくしてしまいました。いまの名張市の沈黙はあのときの沈黙とまったく同質のものである。

 となるとお次は言論封殺か。

 いやまさかそんなことはないでしょうけど、ないとは思いますけれど、とにかく黙りこくってるだけではどうにもなりゃしません。

 結論はすでにはっきりしています。名張地区既成市街地再生計画策定委員会であれ名張まちなか再生委員会であれ、不勉強無教養不見識無責任なそこらのうすらばか何十人あつめてみたってろくなことにはならない。それが結論です。それは名張市役所のみなさんにも身にしみておわかりなのではないかしら。身にしみておわかりになっているのであったなら、さてこれからいったい何をしなければならんのか。たまりにたまったつけをどうやってお支払いになるのかな。

 こらいいですか名張市役所のみなさんや、ことはきわめて重大なの。やはりうすらばかが寄り集まって税金いいだけどぶに捨ててくれた伊賀の蔵びらき事業とはわけがちがって、名張まちなかの再生となると名張のまちに形のあるものがつくられてしまいます。名張のまちの過去と未来に対する直接的な責任というものが生じてしまうわけです。取り返しはつきません。

 そんな重大な問題をですよ、歴史認識にも歴史意識にもまったく縁のない連中が密室のなかで協議し、外部からの意見にはいっさい耳をかそうとしなかったというのが名張まちなか再生プランの実態なわけです。名張まちなかの歴史の最先端に立っているという歴史意識すらない連中が、隠という字をナバリと読んで面白がってる程度のおそまつきわまりない歴史認識にもとづいて、あろうことか名張のまちの歴史に重大な改変を加えようとしているわけなのね。しかもそれがどうやらすんなりとは進んでいないらしい。

 そこへもってきてミステリー文庫です。これはいったい何なのかな。年度内に実施されるはずの「(仮称)乱歩文学館基本計画策定」はどうなったのかな。さっぱりわけがわからんからどうぞ教えてくださいな。私はそのようにお願いしようとしているだけなのですが。

 まーったく情けない話である。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 塔上の奇術師 江戸川乱歩

 ぼちぼちと、じつにぼちぼちとアップデートをつづけておりますポプラ社の文庫版少年探偵・江戸川乱歩。ようやく全二十六巻のうちの第二十巻にたどりつきました。年内にはすべての巻を記載することができるのではないでしょうか。

 それでは巻末解説から。じつに詩的なタイトルのもと、どきりとするような指摘が記されております。

解説 塔をめぐる夏
佐藤宗子
 さて、読後、一番印象に残るのはどこでしょうか。実は私は、子どもの頃に、丈吉君が時計の針に首を押さえられる場面は読んだことがあり、その挿絵をみたときのなまなましさをずっと覚えていました(年代からいって、発表の数年後に、どこかで積まれていた古雑誌を一冊たまたま読んだ、のだと思います)。今回初出誌を読み返して、ああこの絵だ、と思いがけぬ再会をしたわけです。なぜこの場面か。──少女たちが機転をきかせなかったら、四十面相はどうするつもりだったのか。今、読み返しても、それはわかりません。四十面相の心中は、作品のかげに隠されたままです。丈吉君の身体はどうなる、とふと想像するとき、殺人なしの探偵ゲームのはずの作品と思っていたのに、ここだけ、疑問と命にかかわる恐怖がいりまじり、ずきっと読者の安心感につきささります。その異様な不安が、幼い私の心にやきついたようです。