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2006年12月下旬
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ぴーッ。 こんな音がするばかりです。ストーブのスイッチをいくらオンにしてみても、 ──ぴーッ。 という音がしてそれっきり。うんともすんとも反応がありません。 さむッ。 もうきょうはさぼっちゃう。
思わず冬眠してしまいそうな寒さである。 |
きのうは失礼いたしました。けさは寒くはありません。以前使用していたストーブを代打に立てました。 ──ぴーッ。 という音だけがしてちっとも動かない現役のほうは二軍に落としました。ていうか電気屋さんに修理を頼みました。じき調整を終えて戻ってくるでしょう。 さて私はどんなおはなしをしていたのか。12月20日付伝言のおしまいのあたりからつづけます。 いい加減にしておけ。 もういい加減にしておけ。 不勉強無教養不見識無責任な官民双方のうすらばかどもがインチキかまして税金どぶに捨てるのはいい加減にしておけというのだ。 しまいにゃ怒るぞ。 以上、ふるさと振興基金活用事業のひとつとして乱歩関連イベントがスタートした1991年度からの十六年間を簡単に振り返ってみましたが、結局はイベントでしかありませんでした。この名張市においてはコミュニティイベントのレベルでしか乱歩という作家にアプローチすることができませんでした。地域社会のアイデンティティの拠りどころとして考える、なんてことは名張市における官民双方の精鋭のみなさんにはできぬ相談であったようです。 しかしそのいっぽう、 ──江戸川乱歩が愛した町に、 ──レッドカードの雨が降る。 でおなじみのランポーレ FC をはじめとして地域住民サイドには、乱歩という作家を名張のまちのアイデンティティの拠りどころにしたいという希求があることもたしかなようです。 さあ、いったいどうすればいいのかにゃ? といったようなことであったのですが、どうすることもできないでしょう。過去十六年を振り返ってみるとそういう結論にいたらざるをえません。 要するに名張市にとって乱歩はただのお飾りであった。自己宣伝のための素材にすぎなかった。そしてその自己宣伝すらまともにはできなかった。怪人二十面相のかっこうでそこらをうろうろするくらいが関の山であった。乱歩を自己宣伝の素材とする試みは「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が実施された2004年をピークとして展開されましたが、結局ろくなものはありませんでした。どんな成果も残されませんでした。むろん『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』という成果はありましたが、私はいま乱歩を素材とした地域振興や市街地再生といった面での成果を問題にしているのであり、『子不語の夢』はそんなことにはいっさい無縁です。で、乱歩を素材にして無理やりひねり出したはずのからくりのまちというコンセプトも、インチキの命は短くて、あっさりと翌2005年で命脈がつきてしまいました。名張市が乱歩にかんして無策無能であり無責任であることはこれでいよいよ明瞭になりました。 ていうかずーっと一貫して無策無能無責任だったわけです名張市は。とりあえずミステリ作家の講演会でもやっとけば、とか、しかしやっぱ乱歩記念館かな、とか、足の向くまま気の向くまま、その場その場の思いつきでうわっつらのことばっかやってきただけにすぎません。だからもう、 ──いい加減にしておけ。 ということでいいはずであり、 ──不勉強無教養不見識無責任な官民双方のうすらばかどもがインチキかまして税金どぶに捨てるのはいい加減にしておけというのだ。 ということにならなければおかしいはずなのですが、しかし名張まちなか再生委員会のみなさんが、あの乱歩のらの字も知らないみなさんが来年3月末までに桝田医院第二病棟の活用策をまとめてくれるというのですから、まことに遺憾なことながら不勉強無教養不見識無責任な官民双方のうすらばかどもがインチキかまして税金どぶに捨てることになってしまうのであろうなと懸念される次第です。まったく往生際の悪いやつらだ。桝田医院第二病棟なんてほんとにこれでいいのよ。 しかるに十七年目の2007年度には桝田医院第二病棟に乱歩文学館だかミステリー文庫だかが建設されてしまうことになるのかな。 そんなことでいいのかにゃ? やめとけこらばか。
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寒い寒いといってるあいだに12月も23日。恒例の年末進行であわただしくなってまいりました。 23日といえば実相寺昭雄監督の遺作となった「シルバー假面」の公開日です。オフィシャルサイトをのぞいてみたら「Trailer」がアップロードされておりました。石橋蓮司さんが白塗りでカリガリ博士を演じているのがいかにもきわものっぽくていい感じです。お暇な方はダウンロードしてじっくりどうぞ。 さあ、どうよ。 どうよったってどうにもなるもんじゃありませんけど、とにかく私はちゃんとしたことをやる気がないのなら名張市立図書館は乱歩から手を引くべきであると考えておりました。ですから名張商工会議所がなばり OLD TWON 構想をまとめるに際しては、細川邸は「名張の町家」という施設にして柔軟につかいまわす、市立図書館乱歩コーナーにある乱歩の遺品や著作は細川邸の蔵で展示する、一画に乱歩の生家を復元する、というプランを提言したわけです。そのうえで乱歩コーナーは閉鎖してしまい、名張市立図書館は乱歩とは無縁な図書館になってしまう。それでいいであろう、と。 それが2003年のことだったのですが、なばり OLD TWON 構想は結局のところ何の動きも見せず、2004年は「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」でてんやわんや、いっぽうで名張まちなか再生プランの策定がはじまり、2005年に入ってプランの素案が発表されました。プランに眼を通した私はその低劣な内容に一驚を喫し、こんなプランはものにならぬと瞬時に判断したのですけれど、それと同時にこの名張まちなか再生プランに連動させれば名張市立図書館が乱歩にかんして質の高いサービスを提供できるようになるかもしれないとも考えました。 それを可能ならしめるために、私はパブリックコメントを提出したわけです。 といったところでこちらをどうぞ。
さあ、どうよ。 『乱歩文献データブック』にまったく予想もしていなかった反響が続々と寄せられたのは、名張市立図書館が江戸川乱歩リファレンスブックによって示した方向性が間違っていなかったということでしょう。その方向性を追求してゆけばインターネットを活用した質の高いサービスが当然求められてくるはずなのですが、名張市にはそれができない。できないというのなら乱歩から手を引いてしまえ。私はそんなふうに考えていたのですが、2005年になってわずかな光明を見いだしました。 光明というのはいうまでもなく名張まちなか再生プランであり、私は質の高いサービスを実現するべくパブリックコメントのなかに名張市立図書館ミステリ分室構想を盛り込んでみたのですが、光明はごくあっさりと、あっというまに消えてしまいました。 さあ、どうよ。 |
2006年もいよいよ暮れ方。この際ですからもう少し行っときたいと思います。名張にとって乱歩とは何か、ですとか、名張市は乱歩にかんして何をしてきたのか、ですとか、そういったことを確認考察してきた次第なのですが、名張まちなか再生プランに関連して私が見つけたわずかな光明もすでに消えてしまった2006年の末つ方、それでもなおしつこくももう少し、おなじテーマでつづりたいと考えております。ただしこのあとは消えてしまった光明に主眼を置くことになるでしょう。 それはさておき今夜はクリスマスイブです。私はひとあし早くきのうの夜にサンタさんのかっこうをして親戚のお子供衆にプレゼントをくれてやったのですけれど、あすはクリスマスであさってはただの火曜日。まことに勝手ながらあすとあさっての更新は都合によりお休みすることにいたします。 それでは12月27日水曜日の朝にまた。
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おかげさまでこの時期恒例の年末進行もピークを過ぎました。無事に復帰いたしました。今年も残すところあと五日となり…… などと悠長なことをいってる場合ではありません。一日遅れのクリスマスプレゼントになるだろうと目されていた名張毒ぶどう酒事件の再審開始、あろうことか名古屋高等裁判所によって取り消されてしまったではありませんか。名古屋高裁が奥西勝死刑囚の第七次再審請求を受け、再審の開始を決定したのは昨年4月5日のことでした。それが検察側の異議申し立てをそのまま認め、一転して再審決定を取り消したというのですからただごとではありません。名張まちなか再生委員会以上にぶれまくっておる。異常事態だというしかないでしょう。 きのう午前11時57分の共同通信による第一報がこれです。 こうあります。
新たに提出された証拠は採用せず、状況証拠と自白だけで充分OK、という寸法です。そんなばかな話はないでしょう。いったいいつの時代の話か。推定無罪の原則はどこへ行ったのか。 毎日新聞は社説でとりあげてます。
それでは奥西勝死刑囚の場合はどうであったか。「被疑者が取り調べの苦痛から逃れようとしたりして、自身に不利な自白をするケース」であったのかどうか。 事件の発生は四十五年前、昭和36年3月28日のことであった。名張市内の葛尾公民館で三奈の会という生活改善クラブの総会が開かれ、女性用に出されたぶどう酒を飲んだ十七人のうち五人が死亡した。ぶどう酒には農薬が混入されていた。死者のなかには奥西さんの妻と愛人が含まれていた。 3月29日。奥西さんは警察の取り調べを受けた。刑事が家にやってきて、参考人調書を取っていった。警察は惨劇の舞台となった総会の出席者全員から事情を聴取しており、この時点で奥西さんに疑いの眼が向けられていたわけではなかった。 3月30日。警察での取り調べがはじまった。むろん任意によるものだが、断れるものではない。警察の車が毎朝奥西さんを迎えに来て、夜遅く自宅に送り届けた。警察は奥西さんと妻および愛人との関係に強い関心を抱いていた。三人の関係は集落内では周知の事実であり、事情聴取の段階で複数の住民がそれを証言していた。しかし奥西さんは当初、愛人との関係を否定していた。捜査本部はそのことに不審を抱いた。 3月31日。奥西さんは犯人かもしれない人物として、集落内のある主婦の名前をあげた。捜査本部は奥西さんへの疑惑をさらに深め、愛人との関係を軸に追及すれば奥西さんを落とせると判断した。 4月1日。捜査本部に三重県警のエースと呼ばれていた警部補が加わった。追及は厳しさを増した。愛人との関係も含め、知っていることを洗いざらい話さなければ家に帰さない。奥西さんは警部補からそういわれた。奥西さんには家に帰らなければならない理由がふたつあった。自宅の精米機に水を入れてすぐ動かせるように準備してあったのだが、そのままにしておくと錆びついてしまう。もうひとつの理由は盗電だった。奥西さんは自宅の電線に細工を施し、電気の使用量をごまかしていた。そろそろ電力会社がメーターの検針にやってくるころだから、その前に細工をもとどおりにしておかなければならない。奥西さんは供述をはじめた。愛人が原因で夫婦仲が悪くなり、口喧嘩が多くなっていたことや、事件直前に公民館で妻がしゃがみ込んで何かしている姿を目撃したことなどを話した。供述を終えて警察の車で自宅に帰ったが、刑事はそのまま家にあがってきて、徹夜で奥西さんを監視した。 4月2日。秘密にされていたはずの前日の供述内容が、毎日新聞にスクープされた。社会面トップに「三重毒酒事件“妻が農薬入れた”/奥西元会長が供述/「やったな」と瞬間思った/シットから無理心中か」との見出しが躍った。奥西さんの妻が愛人を殺して自分も死ぬために、総会でふるまわれるぶどう酒に農薬を混入したとする捜査本部の推定も記されていた。報道合戦に拍車がかかり、奥西さんの家には早朝から記者が詰めかけた。午前8時、奥西さんは警察から来た迎えの車に乗り込んだ。眼の周囲には疲労と苦悩を物語る黒いくまが浮かんでいた。 以上、江川紹子さんの『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』(2005年7月、新風舎文庫)にもとづいて奥西勝さんの取り調べ状況を要約しました。江川さんの記述は奥西さんの手記と弁護人への手紙、公判での証言などをもとに再現されたものです。 『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』の画像はこれです。クリックすると版元の紹介ページが開きます。 以下、原文を引用いたしましょう。文中の千鶴子は奥西さんの妻、ユキ子は愛人、辻井は警部補の名前なのですが、登場する人名は奥西勝さん以外いずれも仮名となっております。
4月2日午前8時30分にはじまった二十時間におよぶ取り調べで、奥西さんは自分が犯人であると認めるにいたりました。『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』にもとづいていうならば、犯人であると強引に認めさせられたということになります。これはもちろん奥西さんの主張にもとづいた記述であり、奥西さんがうそをついている可能性もないわけではありません。しかし奥西さんが取り調べの途中で犯行否認に転じ、以来一貫して無実を主張しているのはたしかな事実です。 『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』には、いったん犯行を認めた奥西さんがあとになってそれを否認しても、取り調べではいっさいとりあげられることがなかったとも記されています。
名古屋高等裁判所は奥西勝さんの自白は信頼できるとしていますが、そんなことは全然あるまい。これはやはり「被疑者が取り調べの苦痛から逃れようとしたりして、自身に不利な自白をするケース」のひとつではなかったのか。私はそのように愚考いたします。 あすにつづきます。
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本日は2ちゃんねるからまいります。たーっと調べてみたところこんな感じでした。 まず12月26日火曜日午前10時29分11秒に「【名古屋高裁】名張毒ぶどう酒事件、再審決定を取り消し」というスレッドが立てられました。 つづいて午前11時15分38秒には「名張毒ぶどう酒事件、検察の主張を認めて再審決定を取り消し。」が。 アクセスしていただければおわかりのとおり、これらふたつのスレッドはすでにあっさり過去ログ倉庫に格納されております。 まだ生きているスレッドはと見てみると、12月25日月曜日午後0時11分50秒の「【どう見ても冤罪】名張毒ぶどう酒事件の再審、26日に判断」。 もうひとつ、12月27日水曜日午後0時23分4秒の「【名張毒ぶどう酒事件】「犯人は奥西死刑囚以外にいない」「生きたいために無実を訴えてるだけ」 再審取り消しに遺族ら地元関係者」というのもありました。 全国紙の社説も見てみましょう。毎日新聞のものはきのう引きましたので省略。引用は最初の段落だけにしておきます。全文はリンク先でどうぞ。
お次はブロック紙。
地方版の記事に転じますが、これも引用は冒頭の一段落のみ。いずれも12月27日付です。
読売新聞にも関連記事が掲載されたはずなのですが、すでに消えてしまっておりました。 さて、きのうの伝言では江川紹子さんの『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』にもとづき、自白の信憑性はどうよ、みたいなことを考えてみました。きょうになってネット上を検索していたら「名張毒ブドウ酒事件、異議審の決定理由要旨」というこんなページがひっかかってきて── 名古屋高裁による再審請求棄却決定の理由が要約されているのですが、ここにはこう記されています。
一面的なのはどっちかな。自白が完全に「任意」のものであったかどうかはおおいに疑問であり、「証拠物や客観的事実に裏打ちされて信用性が高い」とはいうけれど唯一の物証である農薬の瓶は未発見、自白と客観的事実との齟齬はごろごろしております。自白の「変遷」は信憑性に疑問を抱かせるに充分なものであると考えられますし、それとは別に住民の証言がまたころころと変遷しており、あたかも奥西さんを犯人に仕立てあげるために口裏を合わせたかのような観すらあることは『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』を一読すれば知ることができます。 『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』から自白の信憑性にかんするくだりを引いておきましょう。
自白には名古屋高裁の主張する「信用性」なんてかけらほどもない。私はそのように愚考いたします。 つづいて状況証拠の問題ですが、名古屋高裁の判断はこんな感じです。
本気か。「妻と愛人を殺害する動機」なんてものがほんとに存在していたのか。自白によれば奥西さんは妻および愛人との三角関係を清算するために毒殺事件を起こしたわけなのですが、そんなことは普通ありえないのではないかしら。 妻子ある男が妻以外の女と情を通じることならざらにあります。そうした関係を清算する必要に迫られる場合だって少なからずあるでしょう。しかしだからといって、妻と愛人をふたりとも殺してしまえばすっきりするじゃん、などと思いついてしまう男がいるものなのか。子供がふたりいる三十五歳の男が(長女のほうは事件の起きた春に小学校入学を控えていたそうですが)、いくら血迷ったとしても妻と愛人もろともに自分が住む集落の主婦全員を鏖殺してしまおうなどというだいそれた発想にいたるものなのかどうか。清算というなら妻か愛人かの二者択一に結論を出せばいいだけの話なのであって、ねちねちと計画を練って大量殺人をくりひろげる必要などまったくなかったのではあるまいか。 三角関係という状況はたしかに存在しており、死亡した五人のなかに奥西さんの妻と愛人が含まれていたのも事実ではありますが、そんな状況がいったい何を証拠だてているというのか。わが身を省みていうならば男というのは結構ずるいものですから、三角関係に波風が立ったとてきのうまでそうであったようにきょうもまただらだらと状況が継続すればそれでよろしく、決定的な清算なんてことはとりあえず先送りにしてしまう。 それに『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』には、 ──後に勝の弁護団が、全証拠の中から名張、大和双方の葛尾部落での婚外関係を集めたところ、九人の男性が十三人の女性と関係を持っていた。実に二戸に一人以上が三角関係を持っていたことになる、と弁護団は主張する。 とも書かれており、この弁護団による調査結果が事実をどこまで反映しているのかは不明ながら(こんな立ち入った質問に住民がすらすら答えたはずがないとも思われるのですが)、事件が起きた集落のみならず日本の山村には似たような関係がごろごろしていたものと推測されますから(赤松啓介の著作をご連想ください)、奥西さんの三角関係だってどうということもないごく一般的な光景だったはずであり、そんな関係が殺人によって清算されるという発想はそもそもどこからも湧いてくることがなかったのではないか。 ではここで、当サイトに掲載している亡父の随筆「折々の記」の一節をお読みいただきましょう。
ここに出てくる薬屋さんは二年か三年ほど前に廃業してしまったのですが、奥西さんが事件の四、五日前、葛尾の集落から名張のまちにバスで赴いてコンドームを購入したのはまぎれもない事実です。『名張毒ブドウ酒殺人事件 六人目の犠牲者』ではふれられていませんでしたけれど、私には事件関連のほかの書籍に記されているのを読んだ記憶があります(立ち読みだったので引用できませんけれど)。 さてこれはどういうことか。事件数日前というのですから、自白によれば奥西さんはすでに犯行を決意していたことになります。妻と愛人を殺害する計画を胸に秘めていた男が何用あってコンドームを買わなければならなかったのか。むろん第三の女がいたとか、あるいは捜査の手が薬局にまでおよぶことを想定した偽装工作であるとか、そんな可能性もないわけではありません。しかし小説であればともかく、現実の名張毒ぶどう酒事件にそれをあてはめるのはいかさま無理な話でしょう。 ですから結局のところ、名古屋高裁の「状況証拠によって犯人と認定した確定判決の判断は正当だ」という主張には、私はちっともまったく毛筋ほども同意できないというしかありません。
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メディアというのはせわしないもので、名張毒ぶどう酒事件再審決定取り消しの話題はあっというまに過ぎ去ってしまい、きょうはどこにも見あたりません。 2ちゃんねるではきのうの午後11時32分46秒、「【名張毒ぶどう酒事件】「犯人は奥西死刑囚以外にいない」「生きたいために無実を訴えてるだけ」 再審取り消しに遺族ら地元関係者★2」が立てられましたが、なにしろ四十五年も前の事件ですから2ちゃんねらーのみなさんもあれこれと揣摩憶測をならべることしか思いつかないみたいです。 それで結局のところ、自白の信用性を認め状況証拠にもとづく推定の正当性を評価した名古屋高裁の主張とはまったく逆に、自白は信用できず状況証拠にはそもそも意味がない、と私には見受けられます。物証や証言などの証拠にいたっては最初からぐだぐだで、その証拠能力をくつがえす新しい証拠が提示され、いったんは新証拠の明白性を認めて再審の開始を決定したにもかかわらず、名古屋高裁はここへ来てその決定が誤りであったとの見解を示した。これはどう考えてもおかしい。あんないい加減な自白や状況証拠を判断材料としているのがまずおかしいし、新しい証拠の明白性をしりぞけているのもおかしい。だいたいおなじ高裁が一年あまりのときをへだてて正反対の結論にいたっているのがおかしい。 しかしこんなところでおかしいおかしいといってたってしかたありません。新聞報道によれば弁護団は来年1月4日に最高裁へ特別抗告し、最高裁がそれを認めた場合は名古屋高裁で再審が開始されますが、棄却した場合には再審は開かれないとのことです。一日も早い再審の開始を祈るしかありません。それにしてもなんともいやーな気分の歳末になってしまいました。気分がどうこういうよりも、この国はどんどんどんどんおかしくなっているのではないかという不安が募ってなりませぬ。 さて、昭和36年3月28日午後8時50分ごろ、名張市葛尾の住民から名張警察署に名張毒ぶどう酒事件の発生を知らせる電話が入り、現場近くの開業医は往診中で連絡が取れないと伝えられた名張署は警察医とともに現場に急行したのですが、この警察医というのが桝田敏明先生。すなわち名張市に寄贈された桝田医院第二病棟のもともとの所有者でいらっしゃったお医者さんだったのですが、桝田病院第二病棟にはどうやらこんな碑を建てるしかないようで── 天国の桝田先生は第二病棟をめぐる笑止千万なドタバタ劇をどんな顔して眺めていらっしゃることでしょう。 といったところで名張毒ぶどう酒事件の話題はひとまず終えて、あすはまた桝田医院第二病棟や細川邸がなんとも宙ぶらりんな状態で新年を迎えようとしている名張まちなかのおはなしに復しましょうか。
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おおみそかになってしまいました。きのうの朝は手ひどい二日酔いでグロッキー(グロッキーという言葉も最近とんと耳にしませんが)、サイトの更新をお休みしてへばっておりました。けさはきのうよりかなりまし、みたいな感じです。 毎度おなじみ2ちゃんねるのこのスレでは── ぶどう酒に混入された農薬はじつは催淫剤であったとする奇説まで飛び出しております。2ちゃんねらーのみなさんの揣摩憶測にはじつに端倪すべからざるものがあるようです。 といったところで本日もあっさりおしまいといたします。今夜はあまり飲みすぎないようにして、あすの朝はすっきりした気分で新年のご挨拶を申しあげたいと思います。 それでは一年間のご愛顧を感謝しつつ。
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