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2006年12月中旬
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11日 ▼名張にとって乱歩とは何かリターンズ ▼新文芸日記 昭和七年版
12日 ▼歳末トイレ事情 ▼探偵好きな薬剤師から 13日 ▼1991年からの十六年を振り返る 1 ▼乱歩の生地 14日 ▼1991年からの十六年を振り返る 2 ▼展望 三重の文芸 15日 ▼中井英夫の奇妙な比喩 ▼江戸川乱歩「D坂の殺人事件」 東京・団子坂 16日 ▼1991年からの十六年を振り返る 3 ▼一般質問 17日 ▼1991年からの十六年を振り返る 4 ▼表紙の写真 18日 ▼1991年からの十六年を振り返る 5 ▼乱歩・横光・観阿弥〜あやしの世界〜 19日 ▼1991年からの十六年を振り返る 6 ▼怪映画事件 20日 ▼1991年からの十六年を振り返る 7 ▼近来の会心事 |
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予定より一日早くお休みを切りあげて復帰いたしました。 名張にとって乱歩とは何か、リターンズ。 どうしてリターンしたのかというと、忘れものを届けにきました、ってやつですか。乱歩が生まれたまちである、という歴史的事実が名張のまちのアイデンティティの拠りどころになるのかどうか。まち BBS「○名張市について書き込んでみましょう PART5○」のスレ立て第一声や名張のまちで製造販売されているお菓子とお酒を例にあげつつ考察してみた次第でしたが、ひとつ忘れていたものがありました。 名張市に拠点を置くサッカーの社会人チーム、その名も M. I. E. ランポーレ FC です。オフィシャルサイトはこちらですが、下の画像のほぼ中央、選手の写真が掲載されたエリアには、ページを開くとまず名張のまちと乱歩生誕地碑の映像が現れます。 ごらんいただけましたか。名張のまちと乱歩生誕地碑が映し出されたそのあとに、こんなコピーが出てきました。 ──江戸川乱歩が愛した町に、 いい。これはなかなかいい。乱歩が生まれた、ではなくて、乱歩が愛した、とあえていいきっているところが高得点。ただしこれにつづく、 ──サッカーの音がする。 というのはちょっと腰砕けでしょうか。サッカーの音、というフレーズが明瞭なイメージを結びません。一考あってしかるべきであったかと思われますが、とにかくこの名張市ではサッカーチームのネーミングにおきましても、それがたとえトイレの洗剤を連想させるものではあるにせよ、乱歩の名前がこのようにしっかりと活用されているわけです。乱歩が名張のまちのアイデンティティの拠りどころであるという市民サイドの判断がここにも示されているといっていいでしょう。 ここで掲示板「人外境だより」にかんするお知らせです。11月4日付伝言に「掲示板のファイル名を変更する」という作業がうまくできないと記しましたところ、それはこういうことなのではないかとメールでアドバイスしてくださった方もあったのですが、プロバイダからのメールですべて判明しました。「人外境だより」に投稿するといったんこんな画面が現れるのですが── 私はこのお姉さんのおしりの画像を掲載したページのファイル名に手を加えることを失念しておったわけです。うーん、ばか、と自省しつつ新しい掲示板をアップロードいたしました。といったって見た目にはまったく変化がないのですが。 新掲示板の URL は http://www.e-net.or.jp/user/stako/dayori.html となっております。 投稿が一件もないのではやや寂しいような感じがしましたので、怪人19面相君がおおいに楽しませてくれた去年の夏のやりとりを「エジプトの怪人たち」からまるごと転載してみました。加えまして、怪人19面相君たちとおなじようなにおいのする投稿も二件、こちらは今年9月のものですが、たまたま保存してあった過去ログからひろっておきました。 去年の8月25日付の投稿で、私は怪人19面相君にあててこう記しています。
「名張エジプト化事件も、君が関係しているほかの事件も」といいますのは、おなじにおいのする一連の騒動、つまりおととしの秋に名張のまちがなぜかからくりのまちになってしまい、そこに怪人二十面相がうろうろ出没したりしてくりひろげられた「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のフィナーレイベントあたりからひきつづく名張のまちを舞台にした動きのことを指しているのですが、怪人19面相君に宣言したとおり私はそれを「すっかり一網に解決してしまう」ことができたのでしょうか。 解決も何もむこうが勝手に自壊したというか自滅したというか、私にはどうもそんな印象があります。からくりのまちというコンセプトはとっくの昔に弊履のごとく打ち捨てられてしまいましたし、名張はじつはエジプトであるというアイデンティティクライシスの症例みたいな活動をしていた団体ももはや存在していないのではないかしら。そして諸悪の根源である名張まちなか再生プランときたら、いまではなんだかわけがわかんないことになっている感じです。 名張市発行「広報なばり」7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」によれば──
こんな段取りになってるわけですけど、細川邸を改修して初瀬ものがたり交流館とやらにする工事はほんとに平成18年度中、つまり来年3月末までに実施されるのかな。そのための予算は組まれているはずなのですが、だからといって無理やりそれを執行してしまうのはよろしくないのではないかしら。ていうか絶対だめだと思う。しかしそれ以前に初瀬ものがたり交流館とやらの構想は、正式な発表がありませんからはっきりしたことはいえないのですけれど、いまだきちんと決められてはいないのではないかという気がします。 なーにをやっておるのか。2004年6月の第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会から数えればもう二年半が経過したことになるのですが、それでもなお結論が出ていないというのであればじつに情けない。嘆かわしい。ランポーレ FC のコピーをもどいていえば、 ──江戸川乱歩が愛した町に、 ──決定力不足の風が吹く。 といったところでしょうか。うーん。決定力不足の風、というのもイメージが曖昧か。それならいっそ、 ──江戸川乱歩が愛した町に、 ──レッドカードの雨が降る。 ではどうであろうか。これはいい。レッドカードの雨、というのがまざまざと眼に浮かんでくるような気がいたします。名張のまちに降りそそぐ百千のレッドカード、響きわたる嘲笑、こそこそと逃げ隠れする名張まちなか再生プラン関係者。ああ、眼に見えるようだ。 そんなことはともかくとしてこの名張市におきましては、二年半もの時間をかけてまったく無駄な協議検討が進められてきたということになります。二年半だぞ二年半。ずいぶんと非効率な話ではあるのですが、これが五年であろうと十年であろうと、まともな結論はいっさい出ないことでしょう。出るわけがない。ですからいまや名張まちなか再生プランは自壊しつつあるというか自滅しつつあるというか、むこうが勝手にぼろぼろになっている。私の眼にはそんなふうに映っているわけで、これでは「すっかり一網に解決してしまう」も何もないではありませんか。 ことほどさように名張まちなか再生プランの欺瞞性はいまやすっかり明らかなのですが、それでも2006年度に「(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事」が実施されるということは決定を見ているようですから、もしも市民のコンセンサスなどかけらもない初瀬ものがたり交流館とやらの改修工事が実際にはじまってしまうとしたら、それはもうその時点で完全な失政ということになってしまうでしょう。そんなことではいかんではないか。2008年度にも赤字再建団体に転落しようかと報じられている名張市には、あらかじめ失政であるとわかっている事業に税金つぎこむような余裕はとてもありません。いやいくらお金があったって失政はいけませんけど、いまの名張市はどんな状態? こんな状態。毎日新聞オフィシャルサイトの熊谷豪記者の記事です。
来年から三年間で二十一億円の財源不足か。細川邸を改修して不要不急の施設整備を進めてる場合ではまったくない。なにしろ名張市議会議員の先生方のあいだにだって、名張市の財政状況に鑑みて自分たちの物見遊山ではなかった行政視察を控えてはいかがなものかという声が出ているほどです。おなじく毎日新聞の渕脇直樹記者の記事をどうぞ。
市議会議員の物見遊山ではなかった行政視察は控えましょう、という声は出るには出たけどすぐ消えた、といったあんばいであったようです。にしても、百聞は一見しかず、というのはたしかにそうではありましょうけど、ここに節穴と呼ぶしかない眼のもちぬしがいると仮定して、その人間に百聞をしのぐ一見がはたして可能かどうか、ということも考えてみないといかんのではないかな。 いやいや、そんなことはまあどうだっていいか。暗い話題ばかりがつづきましたからここらでひとつ明るいニュースを。朝日新聞オフィシャルサイトの「トップ掲載写真」に12月6日、名張市のニュースがとりあげられました。 しっかし伊賀牛集団「部位3」ってか。なーんかめまいがしてきた。
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どうにも片づかない。歳末だというのになかなか片づきません。 私がお休みをとって何をじたばたしていたのかというと、いわゆる資料整理です。乱雑に放置してあったコピーのたぐいを片づけていた、いや片づけようとしていたのですが、なんか収拾がつかんなと諦めて一日早くお休みから復帰した次第でした。ほんとになかなか片づかない。 どうして急に整理をはじめたのかといいますと、年内に便器設置工事を実施することになったからです。 と書いても何のことだかおわかりにならないでしょうけれど、私は昨年、自己破産を記念して書斎と暗室に本棚をつくりつけることにしました。暗室というのは書斎に隣接した部屋で、かつては写真現像を行っていたのですが近年はデジタル写真一辺倒ですから暗室として使用することはなくなり、お察しのとおり物置みたいになっておりました。で、ここに書棚と便器を据えつけたら面白いのではないかと考えた次第です。書棚のほうはとっくに工事が終わったのですが、延び延びになっていた便器の設置工事を年内にやってしまうと大工さんからいきなり連絡が入りましたので、ならば暗室内を片づけねばならない。連絡があった翌々日から一週間、サイトの更新をお休みして一気に片づけてしまおうと私はもくろみました。 ここでひとこと説明しておきましょうか。自己破産した人間が以前の家に住みつづけているのはおかしいではないか、住まいは競売にかけられるのではないか、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。むろん本来はそうなのですが、競売を逃れることも可能です。といったって違法脱法はいっさいなく、なにしろ弁護士の先生から指南してもらったとおりにしたのですからジャスティスとフェアネスは完璧です。どっかの委員会とは大違いである。 どうやったの? とお思いの方もあるいはおありか。もしかしたら自己破産予備軍の方もいらっしゃるか。そこでもう少しくわしく説明を加えておきますと、不動産屋さんに競売対象となる土地建物の評価額を見積もってもらう。その金額で誰かしら第三者に土地建物を買い取ってもらう。そのお金をそのまま管財人に渡してしまう。つまり競売で生じる財産をあらかじめ差し出してしまうわけで、こうやると自分の家に(正確にいうとすでに私の家ではないわけですが)住みつづけることができるという寸法です。自己破産予備軍の方はどうぞ参考にしてください。 さてそれでお片づけの話なのですが、書斎のほうも暗室のほうも、本のかたちをしたものはほぼ片づいておりました。並べてある順番にはまだ気に入らぬ点もあったけれど、本は書棚に並んでいた。しかし今年の6月、筑摩書房版現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也を購入したおかげでまたえらいことになってしまった。全九十七巻はとりあえず暗室に押し込むしかなかったのですが、しかしこの暗室の床には本のかたちをしていない資料、すなわち雑誌だの新聞の切り抜きだのパンフレットだのコピーだのがあるいはキングクリアファイル差し替え式にはたまた大型封筒にでなければ段ボール箱にぶちこんだまま雑然と積みあげてありました。そうした資料類は『江戸川乱歩年譜集成』編纂のためにも必要で、いつか整理はしなければならんなとは思っていたのですが、便器設置工事がいい機会だ、だーっと整理してしまおうと私は決意したわけね。 とにかくコピーだの何だのを収納するケースが必要だと考え、自己破産した落魄の身で近鉄百貨店桔梗が丘店の百円均一ショップに赴いて適当なのをごそっと買い込んで整理をはじめてみたのですが、どうにもはかどってくれません。理由のひとつはコピーのたぐいについつい読みふけってしまうことです。古いものになるともう十年以上も前にコピーしたものですから、内容をほとんど忘れていて読んでみるとなんだか新鮮。眼を通しているあいだに時間が経過してしまいます。 そういえば、と感慨にふけったりもしてしまいます。ちょうど十年前、1996年の年末は『乱歩文献データブック』の追い込みにおおわらわであったな。お正月の3日には神戸の知人宅で大宴会を開くのが恒例であったのだが、それも欠席してお正月休み返上で索引をつくっていたような記憶があるな。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。 そうかと思うと段ボール箱の底のほうからオレンジ色の表紙のキングクリアファイルが出てきて、開いてみたら江戸川乱歩リファレンスブックのプロトタイプとでも呼ぶべき目録のコピーがファイリングされていました。中島河太郎先生の「江戸川乱歩研究文献目録」、島崎博さんの「江戸川乱歩参考文献目録」、秋田稔さんの「乱歩研究参考文献」、浜田雄介さんの「江戸川乱歩研究文献目録」、林雅彦さんの「文庫本で読む江戸川乱歩作品一覧」、古俣裕介さんの「江戸川乱歩文献案内」、島崎博さんの「江戸川乱歩書誌」、新保邦寛さんの「江戸川乱歩の作品一覧と書誌」、『鬼の言葉』巻末の「江戸川乱歩著書目録」、島崎博さんの「『ロック』総目次」といったところが次々に出てきてなんだか懐かしい。『乱歩文献データブック』編纂の最初の作業は中島先生の「江戸川乱歩研究文献目録」をワープロソフトに落とし込んでゆくことであったなあ。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。 そうかと思うときちんとファイルしてなくてただ挟んであるだけの書類なんてのも出てきて、これは何かと見てみると、 「4月22日・23日 上京日程等」 ああこれも懐かしい。こんなものが残っておったのか。1996年の春、『乱歩文献データブック』の予算が正式にゲットできたので平井隆太郎先生と中島河太郎先生にご挨拶にあがったときの出張の日程表ではないか。それによると4月22日月曜の午前8時28分発名古屋行き近鉄特急で名張を出発し、午後2時に平井先生のお宅(むろんいわゆる乱歩邸)、午後4時には日本推理作家協会事務局にお邪魔している。その夜は平河町にある月やま会館というところで一泊し、翌日午前11時に浅草の雷門で中島河太郎先生にお目にかかった。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。 そうかと思うと感熱紙のインクがすっかり褪色したファクスの束が見つかり、『江戸川乱歩執筆年譜』編纂に際して山前譲さんから送っていただいたファクスがごっそり。当時の私は山前さんとは一面識もなかったのですが、それにしてはずいぶん厚かましくあれはどうよこれはどうよとお尋ねしていたようで、ほかにも旺文社図書室だの毎日新聞東京本社情報調査部だのから届いたファクスが色褪せながら残っている。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。 新潮社資料室からお送りいただいたファクスから画像二点、資料として記録しておきたいと思います。資料室スタッフの方から頂戴したファクスの文面によれば、私は「別冊小説新潮」の昭和36年10月15日発行分の巻号数はどうよとか、「日の出」の昭和8年12月号ならびに12年8月号に乱歩が連載を開始するにあたっての作者の言葉みたいなのは載ってないかとか、そんなような細かいことをあれこれお訊きしてお手数をおかけしていたわけですが、「日の出」にかんしては「予告の文章はありませんが、別紙のようなはさみ込みの次号の予告がありました」とのことで、お送りいただいた次号予告の乱歩作品がこの二点でした。 「日の出」昭和8年12月号に掲載された「黒蜥蜴」の予告です。 こちらは昭和12年8月号。乱歩はこの挟み込み予告を『貼雑年譜』にスクラップしているのですが、何かを勘違いしたらしく昭和14年のページで扱っています。むろん新潮社資料室のデータが正しくて、これは「日の出」五周年記念号の予告ですから「日の出」の創刊が昭和7年であること、そして「妖星譚」と並んで予告されている木々高太郎の「糸の瞳」が「日の出」昭和12年9月号に掲載されていることからも、乱歩が勘違いしていたことは明らかです。みたいなことを必死になって考えていたのが十年前であったなあ。ファクスの日付は7月3日金曜日とあります。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。 まだまだ出てくる。オレンジ色の表紙のキングクリアファイルには目録のコピー以外に横溝正史全集の月報第一号、昭和45年1月に出たものですがそれも入っていて、これはたしか悪の結社畸人郷の先達からいただいたものであった。 そうかと思うと日本経済新聞に掲載された奥田継夫さんの「不思議なムード漂う『乱歩文献』」のコピーもあって、名張市立図書館の『乱歩文献データブック』を紹介していただいております。この本を読んで複雑で不思議な気分になったと書き出されているのですが、つづくパートは引用しましょう。
内容はまったく忘れ果てていたのですが、私はヴィム・ヴェンダース監督と並び称されているではありませんか。なんかかっこいいなあ。 そうかと思うとネット上の記事をプリントアウトした鷲田小彌太さんの「読書日記」。検索してみたらネット上に今も存在していてすなわちこのページなのですが、関連箇所を引いておきます。
田畑稔さんのご実家である洋品店はいわゆる名張まちなかにあったのですが、かなり以前に営業をおやめになったと思います。名張まちなかはいったいどうなってしまうのか。なにしろ現在ただいまは、 ──江戸川乱歩が愛した町に、 ──レッドカードの雨が降る。 さのよいよい、みたいな感じであるのだからなあ、と暗鬱な気分をおぼえながらこの記事のデータを本日、遅ればせながら「RAMPO Up-To-Date」の1998年に記載いたしました。 そうかと思うと朝日新聞三重版のコピーもありました。藤田明さんの「展望 三重の文芸」です。
ありがたいお言葉をたまわっております。ほんとに名張市立図書館は公共図書館の範を示しておるわけなのですが、図書館はただの無料貸本屋であると信じて疑わぬ名張市役所のみなさんにはそんなことはとても理解できぬのであろうな。やっとれんぞ実際。よーし。あしたっからまた官民双方のうすらばかども思いっきり叩きまくってやることにするか。 そんなこんなで私の書斎に隣接する書庫つきトイレ、あるいはトイレつき書庫に便器を設置する工事はたぶん年内に終了するはずなのですが、コピーのたぐいは工事のあいだだけどっかほかの場所にどさどさと移動し、工事が終わったらまた書庫つきトイレあるいはトイレつき書庫に運び込んでぼちぼち整理するしかないだろうなという結論に達した次第です。
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さあばんばん行きましょう。 資料を整理していたらこんなものが出てきました。名張市で1992年3月に催された「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」のリーフレットです。 タイトルの下にはこう書かれてあります。
今年度というのは1991年度のことなのですが、その年度がもう終わろうかというころになって「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」の旗のもと、「講演&映画のミステリーイブニング」「乱歩・ミステリー展」「乱歩ビデオ映画会」「ランラン乱歩ウォークラリー大会」といったイベントが開催されました。私はいまだ名張市立図書館の嘱託ではなく、そもそもこの手のイベントなんて頭からばかにしておりましたので、どんな催しがくりひろげられたのかはまったく知りません。ただ、 ──なーにがランラン乱歩だばーか。 と思ったことは記憶しております。 1994年になるとこんなリーフレットが登場しました。10月から11月にかけて「ミステリー夢ロマン・なばり '94」というイベントが展開されたのですが、この年は乱歩生誕百年にして名張市制施行四十周年の年であり、この乱歩がらみのイベントには結構お金がかけられていたようです。もしかしたらそこらの広告代理店にいいだけぼったくられていたのかもしれません。 私はまだ市立図書館嘱託ではなく、ただし図書館の懇請を受けて乱歩作品を題材にした読書会の講師を務めておりましたので、このイベントでも10月22日の土曜日、 「江戸川乱歩は三度死ぬ」 というおちゃらけたタイトルの読書会をやっております。リーフレットには劇団「座・名張少女」が朗読を担当とあり、そういえば地元劇団の女優さん何人かに乱歩作品を朗読してもらったことを思い出します。たぶん「盲獣」も読んでもらったはずで、おそらくそのせいなのでしょう、この読書会には「高校生以上の年齢の方にかぎります」という参加制限が設けられておりました。おかげさまで高校生の入場者はひとりもなかったと記憶いたしますが。 私の読書会は午前の開催で、午後にはおなじ会場で山村正夫さんが、 「江戸川乱歩の人物像」 というテーマで演壇に立たれました。私は自分の出番を終えていったん自宅に帰り、山村さんの講演をぜひとも拝聴しなければなとは思いつつ、いま思い出したところによればこの日はたぶん巨人 vs 西武の日本シリーズが開幕した日でしたからテレビでずるずる観戦してしまいました。山村さんの講演会には足を運べませんでした。お聴きしておけばよかったと悔やまれてなりません。しかしその当時には自分が図書館の嘱託になるとか『江戸川乱歩年譜集成』を編纂する羽目になるとか、そんなことは夢にも思っておりませんでしたからまあついつい。 そんなこんなで乱歩生誕百年の年が終わりました。私はこの年度まで二年間だけという約束で図書館の読書会を引き受けておりましたので、その翌年の1995年度にもまた読書会の予算がつけられており、私が講師を担当しなければならぬことになっていると知らされて激怒しました。うわっつらのことでお茶を濁すのはいい加減にしろ、市民相手の読書会などという程度の低いことばかりやっておるのではない、名張市立図書館にはほかにしなければならぬことがあるではないか、どうしてうわっつらのことだけでことたれりとするのだおまえたちは、と怒りまくりましたところ、何をすればいいのかわかりませんという答えが返ってきました。 そのあたりのことは「乱歩文献打明け話」の第三回「わが悪名」から引いておきましょう。
自分でもばかか、と思います。私はまるでばかみたいにおなじことしかいっていません。おまえら乱歩乱歩というのであればまず乱歩作品を読みやがれ。それしかいっておらぬ。「わが悪名」からさらに引きますと──
これも飽きるほど指摘してきた。「思いつきでしかないうわべばかりの乱歩関連事業」なんてやめてしまえと、そんなことに税金をつかうなと、私はいくたび指摘したことか。どれほど主張してきたことか。 ──名張市は乱歩から手を引け。 そればかりずーっと主張してきたわけです。
乱歩の著作や関連文献を専門的に集めている図書館なんて名張市立図書館だけなのである。それが名張市という自治体の独自性でもあるのである。その収集資料にもとづいてサービスを展開すればいいだけの話ではないか。しかしそんなことは無理であろう。お役人にはとてものことにできぬ相談であろう。それならやってあげる、と私が意を決して名張市立図書館の嘱託を拝命したのは1995年10月のことでした。 まず『乱歩文献データブック』をつくることにして、監修をお願いした平井隆太郎先生と中島河太郎先生にお目にかかってご挨拶を申しあげたのがきのうも記しましたとおり1996年の4月下旬。その年の暮れから翌年のお正月にかけて『乱歩文献データブック』の詰めの作業に追われていた私は、名張市長による1997年の年頭記者会見の新聞記事を読んで唖然となった。
これは1997年1月18日付伊和新聞の記事なのですが、よくもこれだけちゃらいことがほざけたものである。何の成算もなく乱歩記念館をつくろうなどと口走り、それが無理となったら大嘘こいて自分を正当化する。2002年1月の伊和新聞の記事を読んだ私はまたしても激怒することになるのですが、くわしくはこのページで2002年1月1日付伝言あたりからお読みください。 それでまたしても、ほんとにまたしてもというしかない事態ではあるのですが、この名張市という自治体では名張まちなか再生プランに関連して、しかしプランにはひとことも書かれていない乱歩文学館だかミステリー文庫だかの構想が取り沙汰されているわけです。その取り沙汰も話がいっこうにまとまらなくていつのまにか終わってしまったのかもしれませんけど、ほんとにもういい加減にしておかなければならんぞ。
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きのうのつづきです。 「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」が開催された1991年度から数えて十六年。
こんなぐあいにぶちあげられた「地域の新たな文化の創造」というのはむろんごく適当なお題目であったにしても、十六年にわたる名張市の乱歩関連事業はどのような成果をもたらしたのでしょうか。 とはいえ、今年度まで一貫して継続されてきた事業は日本推理作家協会の協力を得て開催しているミステリ講演会だけ。第十六回目となった今年度の講演会は10月28日に催されましたが、10月29日付伝言に私はこんなことを記しておりました。
財政難というのはある意味無策無能のまたとない免罪符なんですから、お金がないから何もできませんといってしまえばそれでまるく収まるのではないかと私は考えます。おとといの中日新聞の記事によれば、どうやらほんとにそうなってしまいそうな予感もいたしますし。
見直しが進められているという百九十一の事業にミステリ講演会が含まれているのかどうか、私にはわかりません。しかし含まれていてしかるべきであろうとは考えます。ちゃらちゃらしたうわっつらのことばっかやってないで、この際ですからもう少し本質的なことに眼を向けるべきであろうと考える次第です。しかし無理か。いくらいってみても無駄なのか。ばかなのか。ばかなのだ。 結論としてはそういうことであろう。ばかなのだ。十六年が二十六年であろうと三十六年であろうと、名張市というのはそういうところなのである。本質には眼を向けずうわべばかりを飾りたがる。ろくに乱歩作品も読まず乱歩という作家を知ろうともしないまま乱歩関連事業に税金をつかいたがる。それによってきょうびの言葉でいえばシティセールスが果たせると勘違いしている。 ならばこの十六年間の成果はどうよ。1991年度から十六年が経過して、「いろいろなイベントを通して地域の新たな文化の創造に努めます」とぶちあげたお題目の成果はどうなのよ。いい機会だからきっちり検証してもらいたいものである。いい機会といえばまさしくこれはいい機会なのである。私は12月3日付伝言に、 ──名張にとって乱歩とは何か。英知を結集していまそれを考えなければ、二度と機会はないでしょう。これは天が与えたもうた千載一遇の好機であるに相違ない。この機を逸することなく今度こそ本気で真剣に乱歩のことを考えなければ、ほんっともうだめよ名張市。 と記しました。桝田医院第二病棟の寄贈を受け、その活用策を見いださなければならないいまこそが好機である、乱歩のことを真剣に考える好機である、といった意味だったのですけれど、財政難だって好機ではあるでしょう。うわっつらを飾り立てる予算がないのだから乱歩関連事業の本質にしっかり眼を向けざるを得ないわけです。いまはそういうチャンスなわけです。ピンチというやつには必ずチャンスの芽が潜んでいるものです。 私は12月4日付伝言にこう記しました。
これもまたあたりまえの話ではあるのですが、こんなことすら名張市にはできないはずです。乱歩にどう向き合うのかと問いかけてみたところで、そもそもそれを考える能力が名張市にはありません。もっと具体的なことをいえば、そんなことを考えるセクションが名張市役所には存在していません。これまでずーっとそうであったとおりに、その場その場の脊髄反射めいた事業を思いつくことならばなんとか可能でも、極端な例をあげればそうだ、乱歩記念館をつくればいいじゃんみたいな脊髄反射ならばなんとか可能であっても、乱歩のことを真剣に考えるなどという芸当は初手からできない相談です。だって乱歩のことを何も知らないのだもの。だから桝田医院第二病棟の問題だってとどのつまりは結局のところ、こんなふうなことにしてしまうしか手がないのではないか。 まことに遺憾ながら名張市という自治体の貧しい実態に鑑みるならば、恥を忍んでこんな結論を出すしかないのではないかいなと私は思う。しかしいま重要なのはとにかく結論を出すことなのであって、決定すべき問題をずるずるずるずると先送りしてしまうお役所体質はもうだめなのね。禁じ手といたします。桝田医院第二病棟をどうするのか。つまりは乱歩という作家をどうするのか。チャンスなんだからそれを思案してみなさいね。たまには考えてみましょうね、たまには決めてみましょうね。何も考えられず何も決められないのは眼に見えているのだけれど、とにもかくにもそんなふうにお願いしたい気持でいっぱいな私なのね。
あすにつづきます。がんがんつづきます。 |
きのうのつづきに行こうと思っていたのですが、きのうのつづきはあしたに延期いたします。 それで本日は何を記すのか。12月10日に書こうと考えていた話題です。12月10日、すなわち中井英夫の命日。その日のネタにしようともくろみながら肝心の10日には更新をお休みしていたうっかり者が五日遅れで記します。 11月23日、ある方からメールで中井英夫にかんするご教示をたまわりました。つまりその時点で12月10日にはこのネタで行こうと考えたわけなのですが、そんなことはともかくとしてどんなことをお知らせいただいたのか。 『新青年』研究会の「『新青年』趣味」第十一号は中井英夫と森下雨村の特集でした。発行は三年前、2003年の12月31日。むろん私も所有しております。ていうか、お休み中に資料を整理していたら段ボール箱のなかから何冊かまとまってどさどさ出てきました。 この号には私の「中井英夫という名前」という駄文が掲載されているのですが、それを読んで気がついたことがあるから教えてあげよう、というのが11月23日に頂戴したメールの用件でした。 私が何を書いていたのかというと、中井英夫の奇妙な比喩についてでした。『幻想博物館』の冒頭、「火星植物園」の一行目に見える比喩です。書店の店頭で何気なく手にとってこの比喩を眼にした私は、おおげさにいえば胸騒ぎのようなものをおぼえてしまいました。 古い本でかなり汚れてもいるのですが、これがそのとき購入した『幻想博物館』です(画像は函)。奥付の発行日は1972年1月12日。中井英夫というのは当時の私にとって未知の名前でした。それで冒頭の一行というのが、 ──灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。 この比喩はどうも腑に落ちない、と私は思いました。曇天が垂れる、という表現はわからなくもない。曇り空が重く垂れ籠めてくる。それはわかる。しかし魚の尾が垂れるというのはどういうことか。鮮明なイメージは結ばれません。尾が垂れるというのだからこの魚はすでに死んでいるのか。死んでテーブルの上に置かれた魚の尾がテーブルのへりから垂れているのか。私は『幻想博物館』を手にしたまま、その先を読み進むこともならずにそんな疑問をもてあましていました。 いま思い出したのですが、私はこの文章を一時期、 ──曇天の縁(へり)は、魚の尾のように垂れた。 と誤って記憶していました。死んで横たえられた魚の尾がテーブルのへりから垂れている、というイメージがそれだけ強かったということでしょう。 奇妙な比喩から生まれたその疑問は、私にぼんやりとした予感を抱かせました。この比喩の先にはこれまでに読んだこともないような小説世界がひろがっているのではないか、という予感です。未知の作家による未知の世界、それがこの本には描かれているはずだ。私はそんな胸騒ぎをおぼえました。 みたいなことをちょこっとだけ、私は「『新青年』趣味」第十一号の「中井英夫という名前」に記したのでしたけれど、11月23日に届いたメールには、この奇妙な比喩は葛原妙子の歌を圧縮したものだろう、との推測が記されておりました。こんな歌です。 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし 1964年刊行の『葡萄木立』に収録された一首で、中井英夫がこの圧縮を意図的に行ったのか、あるいは歌は忘れ去られイメージだけ残像のように記憶されていたものを散文化したのか、それは断定できかねるが、酷似のさまは紛れようもない、というのがご教示の概要で、何かのご参考になればと思ってお知らせいたす次第です、と結ばれたメールを拝読した私は、やっぱりそうだったのかと胸のつかえがおりたような気になりました。 私の場合は順序が逆になります。「火星植物園」が先、葛原妙子があと、ということです。だから私は、 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし という一首を眼にしてすぐ、「火星植物園」のあの比喩はこの歌にもとづいていたのかと察しをつけることができました。奇妙な比喩の印象はそれほどに強烈だったという寸法です。中井英夫ファンの知人にこの発見を教えて自慢したことがあるような気もするのですが、そのうちだんだん記憶が曖昧になってしまい、情けないことに葛原妙子の歌であったかどうかさえ判然とはしなくなってきて、「『新青年』趣味」の原稿を書いたときに確認してみようかなとも考えたのですが、といったあたりはご教示いただいた方へのお礼のメールから引用しておきましょう。文中、「○○」とあるのは個人名の伏せ字です。別に伏せ字にすることもないのですけれど、なんか秘密めかしたほうが面白いようにも思われまして。
それで結論といたしましては、 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし これはわかる。「坂の上」や「垂れしとき」という限定があり、「いふべし」という意志がありますから、曇天が魚になるという比喩は理解できる。しかし、 ──灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。 これではやっぱりわからない。奇妙な比喩というしかなく、私の頭は1972年1月の本屋さんに戻ってしまうしかありません。 だからこそこの比喩は、中井英夫が連作第一作目の冒頭で読者にいきなり投げつけた手袋のようなものではなかったのかと私は愚考いたします。つまり、これを読んで葛原妙子の歌を思い出さないようなやつはおれの読者になる資格がない、と中井英夫はひそかに宣告していたのではないかと推測される次第なのですが、これはやっぱり穿ちすぎというものなのでしょうか。
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もとの話題に戻ることといたしますが、その前にひとつだけお知らせを。 本日深夜、乱歩が幽霊になって登場するドラマがテレビ朝日で放映されるそうです。四話完結の「拝み屋横丁顛末記」。オフィシャルサイトをごらんください。 第三話「東子に異変! この幽霊、江戸川乱歩?」は本日深夜1時55分からの放送です。サイトの「あらすじ」を引いておきましょう。
登場人物のひとりが女流ミステリ作家という設定なんですから驚くにはあたらないのかもしれませんが、それにしてもテレビドラマで、 「この人、江戸川乱歩なのよ」 というせりふが通用してしまうのは凄いと思います。これがたとえば、 「この人、丹羽文雄なのよ」 なんてことであってはドラマが停滞してしまう。まず、 「丹羽文雄って誰よ」 という返しがあって、せりふのやりとりで丹羽文雄のことを説明する必要が生じてくるはずなのですが、 「この人、江戸川乱歩なのよ」 ということなのであればこれはもう、一同あっけにとられたあとですんなりと次の展開に進めます。そうなるかどうかは実際に見てみなければわかりませんが、あいにくなことにこのドラマ、当地では放送されないみたいです。どなたか心ある方はお手数ながら録画しておいていただけませんでしょうか。 ちなみに東子というミステリ作家に扮するのは和希沙也ちゃんなのですが、私はオフィシャルサイトに掲載された写真を眺めていて自分にはいまだに和希沙也ちゃんと大久保麻梨子ちゃんの見分けがつかないようだということを発見してしまいました。まことに困ったものである。 さて、そんなような次第でポピュラリティという一点においてはいまや漱石の塁を摩す勢いのわれらが乱歩なのですが(ほんとは漱石なんて軽く凌駕してるさと私は思うのですけれど、ここは謙虚にこう書いておこう)、この十六年間における乱歩をめぐる最大のトピックは何といっても乱歩邸の土地建物が蔵書ぐるみで立教大学に譲渡されたという一事でしょう。それでそのとき名張市は? 12月13日付伝言でお知らせしましたそのとおり、前名張市長が「仮称・乱歩記念館建設」というプランをぶちあげたのは1997年1月のことでした。しかし話はこれだけ。何の動きもありませんでした。あとになって名張市役所で確認したところでは、 「あの乱歩記念館構想を受けて動いた職員はひとりもいなかったのではないか」 との答えが返ってきました。まあそんなようなことであろう。 二年が経過して1999年。この年6月の豊島区定例会で区長が乱歩記念館の整備構想を明らかにしました。「広報としま」7月5日号には区長が定例会で行った所信表明の要旨が掲載されており、こんなくだりを見ることができます。
この「広報としま」も先日の資料整理中に出てきたものなのですが、豊島区が乱歩記念館建設に乗り出すらしい、豊島区の広報にそれが発表されたらしい、と聞き及びましたので私は豊島区役所の広報担当セクションに電話を入れ、かくかくしかじかとお願いして郵送していただいたのがこの1999年7月5日号でした。むろん図書館長にもこの広報を示し、前々年に乱歩記念館構想をぶちあげた前市長のもとにもこの情報が届くように手配はしたのですが、何の動きもありませんでした。 しかし財政難を理由に豊島区は乱歩記念館建設を断念し、乱歩邸が立教大学に譲渡されることになったのは2001年11月のことでした。明ければ2002年。前名張市長は何をほざいたか。2002年1月付伝言から引きましょう。1月1日付伊和新聞に掲載されたインタビューの一部です。
大嘘ぶっこいてんじゃねーぞこのえふりごき、と私は思った(ちなみに「えふりごき」というのは当地の言葉ではありません。東北地方の言葉でしょう。あのあたり出身の女の子から私は昔こういわれたことがありました)。そして、この発言が虚偽であることを証明するのは容易である、とも思いました。「市教委を通して連絡を取っていました」というのが事実なのかそうではないのか、名張市教育委員会の教育長に確認すればすぐにわかるはずです。それで私は当時の教育長に質問の文書を提出しました。2002年1月付伝言から引いておきます。
結局は前市長が大嘘をついていたという事実を前教育長に証言していただくことができたのですが、えらく時間がかかってしまいました。そうこうしているうちに四年に一度の市長選挙に突入してしまい、前市長は残念ながら落選してしまわれましたので、前市長の虚偽を徹底的に追及してやろうという私のもくろみはうやむやのうちに終わってしまう結果となりました。 なーんかばかなことばっかやってますけど。
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新宿の路上でポリ袋に入った切断死体が見つかった。こんなニュースに接しましたのでさっそく2ちゃんねるのニュース速報+板をのぞいてみました。と、きのうの午前11時39分16秒に「【社会】東京・新宿の路上にビニール袋入り首と手足の切断された男性遺体」というスレッドが立てられている。もしかしたら、とかすかな期待を抱きながらレスを順番に読んでゆく。 案の定──
こんなのがキテター。やっぱ乱歩のポピュラリティは圧倒的ではないか、とか不謹慎ながらも嬉しくなってしまったのですが、このスレではこんなレスも見つかりました。
蜘蛛男より先に金田一さんが登場しておったわけです。ちょうど市川崑監督のリメイク版「犬神家の一族」が封切られた日ですから無理もないか。 いっぽうこちら朝日新聞のオフィシャルサイト。これもリメイク版犬神家がらみか、「金田一耕助と鬼頭早苗─岡山・笠岡」という記事が掲載されておりました。 乱歩の名前も出てきます。
あちゃー。明智小五郎は金田一耕助に人気で及ばんのか。うーむ。反省しなければ。 とはいえ何を反省しなければならんのか、そのあたりがどうもよくわかりません。もとの話題に戻りましょう。 四年に一度の名張市長選挙を目前に控えた2002年の4月1日、乱歩邸は立教大学の管理下に入りました。やれやれ、と思った乱歩ファンはさぞ多かったことでしょう。著書や蔵書をはじめとした乱歩の遺産が散逸してしまうおそれがなくなったからです。 2002年は乱歩がいわゆるふるさと発見を果たしてから五十周年という節目の年でした。ですからそれを記念して旭堂南湖さんの探偵講談を池袋で公演したりなんやかんや、そういえば平井隆太郎先生の前で南湖さんに「魔術師」のさわりを演じていただいたのは乱歩邸の立教大学への移管を目前に控えたこの年3月のことであったと記憶しますが、それからまた2002年度は『江戸川乱歩著書目録』が予算化された年でもありましたからその編纂作業も忙しく、さらにそういえば成田山書道美術館で小酒井不木宛の乱歩書簡が展示され、日ごろお世話になっているみなさんと会場に足を運んで書簡全点に眼を通した私は、これはなんとか公刊しなければならんな、しかし商業出版社の食指は動かぬことであろうから、やっぱ公共事業か、名張市民の税金で書簡集を出すしかないか、と決意したところがその直後に名張市が財政非常事態を宣言、こうなると公費で書簡集なんて話はとても無理かと落胆したりなんやかんや、こうして振り返ると2002年という年には私の頭のなかで乱歩関連プロジェクトがあれもこれもと同時進行していたわけです。よくできたものだ。 明けて2003年。名張市においてまたも乱歩記念館の話が鎌首をもたげました。今度の火元は名張商工会議所で、新町の細川邸を乱歩生誕記念館にしたいのだが、ついては、との相談が私のもとにもちこまれました。名張商工会議所がなばり OLD TOWN 構想なるものをまとめていた最中のことで、私は関係者にそんなことはするべきではありませんと縷々説明、その甲斐あってなばり OLD TOWN 構想から乱歩生誕記念館というコンテンツを削除していただくことを得ました。 2003年10月付伝言からなばり OLD TOWN 構想関係者の方にお出しした手紙の内容を転載しておきます。
驚くべきことに、これはこのまま名張まちなか再生プラン関係者への進言としても有効です。私という人間はほんとにばかみたいにおなじことしかいってないわけなのですけれど、それはむこうだっておなじことでしょう。なばり OLD TOWN 構想であれ名張まちなか再生プランであれ、細川邸をなんとか活用したいのだがうまい方法が見つからぬという堂々めぐり。乱歩生誕記念館がいいとか歴史資料館がいいとか初瀬街道ものがたり交流館がいいとかいろいろ思いつきはするものの、思いつきだけにすぐうたかたと消えてしまう。 いやいや、初瀬街道ものがたり交流館の構想がうたかたと消えてしまったのかどうかはよくわからないのですけれど、細川邸の活用策はいまだ決定されていないと見るしかないでしょう。これは12月11日付伝言にも記したことですが、2004年6月の第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会から数えればもう二年半、二年半もかけてまーだ決定にいたらないというのであればこれは明らかに異常事態であるというしかありません。いいおとなが寄ってたかっていったい何をしておったのか。この失われた二年半をどうしてくれるのよ。 2003年10月付伝言からなばり OLD TOWN 構想関係者宛の書簡をもう一通引いておきます。
あまり踏み込んだことは記しておりませんけれど、細川邸の活用策というのであればこんなところでいいのではないかと私は考えておりました。かっこつける必要なんかまったくない。乱歩だ歴史だ文化だ民俗だとラベリングを先行させてかっこつけようとするのは得策ではありません。そんなことしたら一発でつまずいてしまいます(げんに名張まちなか再生プランがそうだったわけですが)。だから「名張の町家」というなんだか曖昧な、といってしまうと聞こえが悪いですからフレキシブルなといいかえておきますが、フレキシブルでもっと身近な、生活に密着した施設にするのが肝要である。それでもって資料だ展示だ陳列だとかっこつけることは考えず、人を集めようと思ったら手っ取り早く「食」ですがな、と私は提案しておったわけです。 そしてとにかく重要なのはスピードである。歴史がどうの交流がこうのとばかがうわっつらのかっこつけてる暇なんかどこにもないのだ。ていうか、なかったのだ。ところがばかというのはまったくばかなもので、掲示板「人外境だより」から引いてみますと──
2005年の8月といえば、6月26日に名張まちなか再生委員会が発足してから一か月あまり。名張まちなか再生プランに盛り込まれた歴史資料館構想なんて実現できるわけがない、と委員会メンバーもようやく気がついたころだったでしょうか。歴史のれの字にも文化のぶの字にも縁のないうすらばかが歴史や文化に拘泥したあげく自縄自縛におちいって、自分たちは歴史や文化を語れる「域」にはございませんと正直に打ち明けたのがこの投稿です。 そしていたずらに時間だけが経過していったのである。 ばーか。
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名張商工会議所のなばり OLD TOWN 構想はさてどうなったのか。どうにもなりませんでした。発表はされたのですが、具体的な動きは何もありませんでした。よくあることです。 ちなみにこの構想のネーミング、old ってのはどうよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。たしかにあまりぱっといたしませんけれど、ここには新しいものだけをよしとしてきた価値観からの脱皮を図ろうとする意図がかいま見える、というふうに理解しておくべきでしょう。無価値なものとされてきた名張のまちの古さにこそ着目すべきである、みたいな。だから old よりは mature のほうがふさわしいのかもしれません。アメリカあたりのアダルト系サイトで mature nude などとカテゴライズされることがあるあの mature です。 きのう転載した書簡にも記してありましたとおり私はこの構想に対して、乱歩生誕記念館はつくっちゃだめ、乱歩がらみで何かをつくるのであれば生家を復元するべき、細川邸に歴史だなんだとごたいそうな看板を掲げるのは禁物、「名張の町家」という名前にしてとりあえず食べものを提供しながらフレキシブルにつかいまわしてみれば? みたいな提案をしたわけなのですが、細川邸にかんする提言は容れられなかったと記憶します。 私は構想の関係者に対して書簡のみならず口頭でも、名張のまちという面を基準にして考えることが必要であり、細川邸という点だけでなくほかの空き家や空き店舗も順次活用してゆくべきであるとか、教育委員会に働きかけて市内各地の小学生が名張のまちに足を運ぶ機会を設けるべきであるとか、いまとなってはあまり思い出せないのですけれどいろいろと提言はいたしました。いずれもうたかたと消えてしまったわけですけど。 ところで私はたったいま、「mature な町家」という語呂あわせを思いついてひとりで受けてしまったのですが、たいして面白くもありませんですかそうですか。 しかし煎じつめればたった一軒の mature な町家、これが諸悪の根源なわけなのであって、一軒の町家を活用すれば名張のまちが再生できるという勘違いに端を発したこのどたばた騒ぎはいったいどうよ。やれなんとか構想だほれかんとかプランだと大風呂敷をひろげまくったあげくがこのざまである。なばり OLD TOWN 構想も名張まちなか再生プランもただの町家を再利用するにあたって歴史がどうの資料がこうのと大上段に構えていたのがちゃんちゃらおかしい。ばか特有の思考パターンである。歴史のれの字も知らぬうすらばかが歴史に拘泥したあげく自縄自縛におちいって、しまいにゃ逆ギレしてこんなことをほざくにいたるわけなのである。
じつに不憫なものである。どうしたうすらばか。覚悟を決めて糾弾してみろばーか。 そして翌年、ということは2004年。いうまでもなく「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の年です。やれやれ。ほんとにやれやれ。うすらばかがあっちこっちから大量発生しやがってまあ。 そうだったであろうがばーか。
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2004年の5月から11月まで、えんえん半年の長きにわたって三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がくりひろげられました。1991年からの十六年間を振り返った場合、乱歩生誕百年にして名張市制施行四十周年の年であった1994年をも軽くしのいで、この2004年こそは名張市において乱歩の名前がもっとも大きく喧伝された年であったということができるでしょう。聞くところによればこの年、名張市は怪人二十面相の衣装をなんと二十着もどーんとお誂え。 あ。頭が痛くなってきた。血税三億円をきれいにどぶに捨てたあの事業のことは思い出すだけであほらしさのあまり頭が痛くなってくるようなので、先日来たらたらと進めている資料整理の経過報告とまいります。 コピーのたぐいが異常に多くてやんなってるところなのですが、そうこういいながらも乱歩の手になる随筆や評論のたぐいはほぼ整理することができました。つまり大正14年の「前田河広一郎氏に」から昭和54年の「カー問答」(むろん再録)まで、国立国会図書館のコピーサービスを利用したりあちらこちらでコピーしてきたり、それからまたいろんな方から頂戴したものも含めて手許にあった新聞や雑誌や書籍のコピーをすべてキングクリアファイル差し替え式にファイリングしました。ファイルは全六冊。 コピーのなかには『江戸川乱歩執筆年譜』を刊行した時点では不明だった初出誌紙もあります。たとえば昭和5年、乱歩は野村胡堂が報知新聞に連載していた「身代わり紋三」の推薦文を発表しています。しかし刊本『江戸川乱歩執筆年譜』の段階では初出が判明しておりませんでした。 乱歩自身はこの短い文章のことを記録しておらず、私は新保博久さんと山前譲さんの編による『江戸川乱歩 日本探偵小説事典』でこの推薦文のことを知ったのですが、同書でも初出データは、 ──『日曜報知』昭和五年 とあるだけでした。 『江戸川乱歩執筆年譜』編纂中に山前譲さんにお訊きしたところでは、掲載紙はどうも日曜報知ではないらしいとのことだったのですが、しかしそれ以上のことはわからない。それならやはり報知新聞か、と思って刊本『江戸川乱歩執筆年譜』でも当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」でも、昭和5年の「不明」の項にこんなふうに記載しておくしか手はなかった。
この初出が判明しました。えらいことです。普通ならありえないことなのですが、こういうデータを調べあげてコピーをお送りくださった方がいらっしゃるわけです。それももう結構以前のことであったというのに、いまごろになってえらいことです、などと書きつけている私はなんと怠惰な愚か者であることか。 そんなことはともかくとしてこの「本当の面白さ」、初出は昭和5年10月23日に出た「東京通信」百八十三号で、発行所は東京本郷の大日本雄弁会講談社。「東京通信」というのはいまでいう PR 誌のようなものらしく、昭和5年といえば野間清治が報知新聞を買収した年ですから、野間清治ひきいる大日本雄弁会講談社が報知新聞のことを PR していてもまったく不思議ではありません。 そしてもうひとつ、この号には甲賀三郎の「江戸川乱歩の『吸血鬼』」という推薦文も掲載されていました。「吸血鬼」もやはり報知新聞に連載された作品で、この文章は平凡社版乱歩全集第十二巻の「批評集(その十二)」に収められているのですが、その末尾には、 ──(昭和六年度『日曜報知』より) と記されているだけです。冒頭はこんな感じ。 ──涙香以来三十年の長い間、我々が待ち焦れてゐた素晴らしい探偵小説が、たうとう報知新聞によつて出現した。 「吸血鬼」の連載開始は昭和5年9月のことですから、この手のいわゆる提灯記事は連載がはじまってまもなく発表されたはずなのだがとは思いつつ、初出がつきとめられませんでしたので刊本『乱歩文献データブック』には昭和6年の「不明」の項に記載しておくしかありませんでした。 その後、講談社の資料室にもぐりこませてもらって雑誌の調査をしていたとき、「講談倶楽部」昭和5年12月号にこの文章が再録されていることを発見しました。そこで当サイト「乱歩文献データブック」では刊本の記載を改め、昭和5年の「不明」の項にこんなぐあいに配してありました。
しかしいまや初出データが明らかになりましたので、遅ればせながら「江戸川乱歩執筆年譜」の昭和5年10月にはこんなふうに記すことを得ました。
そして「乱歩文献データブック」の同年同月にはこんなあんばいに。
いやーすっきりした。とても気持ちがいい。こういったデータが判明すると私はほとんど快感にうち顫えてしまうのですが、それにしてはコピーを頂戴してからサイトに記載するまでの長きにわたる空白はいったいどうよとわれながら思います。思うのではありますけれど、しかし世の中というやつはいろいろあってなかなかあれなのでありますから、ご教示をたまわった方にあらためてお礼を申しあげますとともに、記載遅延の段はなにとぞご寛恕たまわりますよう願いあげます。
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伊賀地域を舞台に三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が展開された2004年の6月、第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会が開かれ、名張まちなか再生プランの検討がはじまりました。それ以来きょうまでの二年半は、まさしく失われた二年半と呼ぶしかない不毛の二年半でした。二年半です二年半。二年半もかかってまともにものが決められないというのはただごとではありません。程度が悪いにもほどがある。 ここできのうのつづきに入りますが、刊本『江戸川乱歩執筆年譜』の段階では発行日を確定できておらず、のちに初出誌のコピーを頂戴して初出データが明らかになった随筆があと二点ありました。 ひとつは昭和11年11月のこれ。
もうひとつが昭和26年1月のこれ。
ご教示のおかげをもちまして、それぞれ次のとおり確定することができました。
「とっぷ」の発行所は、「とっぷ」発行所、となっています。
「人世」の発行所は文芸会館人世坐。発行者はおなじみ三角寛です。 三角寛といえば少し前、先々月10月のことですが、『サンカの真実 三角寛の虚構』という文春新書が出ました。著者の筒井功さんによれば、三角寛によって提示されたサンカ像はほんのわずかな取材にもとづいただけの「捏造」であり「虚構」であり「虚妄」であり、「きっちりと否定しておく」べきインチキだったということになります。 インチキという言葉で思い出しました。名張まちなか再生プランの話題に戻りましょう。プランの策定がはじまったのは2004年6月。おなじ年の11月に乱歩生誕地碑の建つ桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されました。翌2005年1月、名張まちなか再生プランの素案がまとめられ、新聞報道によって私はそれを知りました。2月、名張市議会重要施策調査特別委員会が開かれました。議案のひとつに「名張地区既成市街地再生計画『名張まちなか再生プラン』(案)について」があげられていると名張市のオフィシャルサイトで告知されておりましたので、私はその委員会を傍聴しました。 意外だったのは、桝田医院第二病棟の活用策がプランにまったく記されていないことでした。私はそれを知りたくて委員会を傍聴したのですから、なんじゃこりゃ、と思わざるをえませんでした。そのかわり、というのもおかしな話ですが、プランには細川邸を歴史資料館として整備するというインチキが盛り込まれていました。わざわざ施設を整備して展示しなければならぬ歴史資料などどこにもないというのにいったい何を考えておるのか、と私はあきれ、しかもその歴史資料館では「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示する」とありましたから、おいおいおまえらいい加減にせんかとも思いました。 そして2005年3月、私は名張まちなか再生プランに対するパブリックコメントを提出しました。 コメントの主旨は、細川邸は名張市立図書館ミステリ分室にする、桝田医院第二病棟には乱歩の生家を復元する、というものでした。細川邸の活用にかんして、私はそれまでの考えを改めることにしました。それまでの考えというのは2003年に名張商工会議所がなばり OLD TOWN 構想をまとめたときに提案したもので、12月18日付伝言にも記しましたとおり、 ──細川邸に歴史だなんだとごたいそうな看板を掲げるのは禁物、「名張の町家」という名前にしてとりあえず食べものを提供しながらフレキシブルにつかいまわしてみれば? といったことです。ごちゃごちゃ考える必要はありません。細川邸をどうすればいいか、なんてのはものの五分もあれば結論が出るテーマです。必要なことを調べたり細部を肉づけしたり、そんなことにいくら時間がかかったとしても二日か三日、よほど余裕を見ることにしても一週間もあれば充分のはずです。一週間で決められることを二年半かかってまだ決められないとはいったいどういうことなのか。 そんなことはともかく、私は細川邸を「名張の町家」という名称の施設として柔軟に活用すべきだと提言しておりました。なばり OLD TOWN 構想の関係者、ありていにいってしまえば名張商工会議所の会頭ですが、私は会頭さんに名張の町家には市立図書館に展示している乱歩の遺品や著書を移管するべきだろうとも提案しました。乱歩関連アイテムは乱歩が生まれた新町に展示されているのが自然ですし、細川邸には蔵があるとのことでしたからそれを利用すれば面白い展示が可能ではないかとも考えた次第です。そして名張市立図書館の乱歩コーナーは閉鎖してしまう。市立図書館は乱歩の看板をおろしてしまう。それがベストの選択だろうと考えていたわけです。 12月13日付伝言にも記したことですが、乱歩にかんして何をすればいいのかわからない、と図書館がいうから私は具体的な方向性を示してやった。それは江戸川乱歩リファレンスブック全三巻(追加一巻鋭意編纂中、ただしモチベーション低下中)を見れば一目瞭然であろう。しかし名張市にはリファレンスブック三巻のデータをインターネット上に公開することさえできないのである。そんなばかな話はあるまいと私には思われるのですが、財政難だから予算がつかないといわれてしまえばしかたがありません。ただしそれならとっとと手を引いてしまえ。収集資料にもとづいて質の高いサービスを提供するという図書館本来の任務が果たせないというのであれば、名張市立図書館は乱歩のことから手を引いてしまえばいいのである。なまじ乱歩コーナーなどというものを開設しているから話がややこしくなる。何もやる気がないのなら乱歩コーナーなんか畳んでしまい、遺品や著書のたぐいは新町の細川邸をリフォームした名張の町家に展示すればいいではないか。そしてその横に乱歩の生家を復元すればよかろう。それならば図書館が収集資料にもとづいて質の高いサービスを提供する必要なんていっさいなくなる。楽ではないか。万々歳ではないか。 それが2003年という時点での私の考えでした。しかし2004年になって桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されましたので、私は考えを改めました。先述のとおり、細川邸は名張市立図書館ミステリ分室にする、桝田医院第二病棟には乱歩の生家を復元する、というプランに変更しました。それを2005年3月にパブリックコメントとして提出したのですが、名張まちなか再生プランは名張地区既成市街地再生計画策定委員会がまとめた素案のまま正式に決定されてしまいました。 それにしてもあの名張まちなか再生プランというインチキはいったい何だったのであろうか。細川邸を歴史資料館にしろなどというインチキはむろんプランを策定した連中がばかだからこそ出てきたものであり、より具体的にいえばそこらのばかがばかでないふりをしようとして歴史という言葉をもてあそんだ結果あんなインチキが生まれたわけなのであるけれど、そんなインチキをそのまま鵜呑みにしてしまった名張市も名張市である。しかも天下無敵の責任回避体質がなせるところとはいえ、そこらのうすらばか集めた委員会をふたつもつくって話をすっかり複雑にしてしまい、いっぽうの委員会が策定したプランをもういっぽうの委員会が頭から無視して初瀬ものがたり交流館だ乱歩文学館だミステリー文庫だと市民のコンセンサスなどおかまいなしにただの思いつきで勝手千万なことを口走る。 その結果いまではどうにも収拾がつかぬありさまではないか。 いい加減にしておけ。 もういい加減にしておけ。 不勉強無教養不見識無責任な官民双方のうすらばかどもがインチキかまして税金どぶに捨てるのはいい加減にしておけというのだ。 しまいにゃ怒るぞ。 以上、ふるさと振興基金活用事業のひとつとして乱歩関連イベントがスタートした1991年度からの十六年間を簡単に振り返ってみましたが、結局はイベントでしかありませんでした。この名張市においてはコミュニティイベントのレベルでしか乱歩という作家にアプローチすることができませんでした。地域社会のアイデンティティの拠りどころとして考える、なんてことは名張市における官民双方の精鋭のみなさんにはできぬ相談であったようです。 しかしそのいっぽう、 ──江戸川乱歩が愛した町に、 ──レッドカードの雨が降る。 でおなじみのランポーレ FC をはじめとして地域住民サイドには、乱歩という作家を名張のまちのアイデンティティの拠りどころにしたいという希求があることもたしかなようです。 さあ、いったいどうすればいいのかにゃ? ここで『江戸川乱歩執筆年譜』の話題に戻りますと、昭和6年12月にこんなデータがありました。
これは『探偵小説四十年』巻末の「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」にも、 ──○近来の快心事(ルブラン新訳)(読売新聞、十二月十六日) と録されているのですが、このたびの資料整理中、昭和6年12月16日付読売新聞のコピーを眺めていて記載の誤りに気がつきました。「快心」は正しくは「会心」でした。どっちでもいいようなことではありますが、紙面では「会心」となっておりますのでこんなあんばいに訂しておきました。
どうも申しわけありませんでした。
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