2006年12月中旬
11日 名張にとって乱歩とは何かリターンズ 新文芸日記 昭和七年版
12日 歳末トイレ事情 探偵好きな薬剤師から
13日 1991年からの十六年を振り返る 1 乱歩の生地
14日 1991年からの十六年を振り返る 2 展望 三重の文芸
15日 中井英夫の奇妙な比喩 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」 東京・団子坂
16日 1991年からの十六年を振り返る 3 一般質問
17日 1991年からの十六年を振り返る 4 表紙の写真
18日 1991年からの十六年を振り返る 5 乱歩・横光・観阿弥〜あやしの世界〜
19日 1991年からの十六年を振り返る 6 怪映画事件
20日 1991年からの十六年を振り返る 7 近来の会心事
 ■12月11日(月)
名張にとって乱歩とは何かリターンズ 

 予定より一日早くお休みを切りあげて復帰いたしました。

 名張にとって乱歩とは何か、リターンズ。

 どうしてリターンしたのかというと、忘れものを届けにきました、ってやつですか。乱歩が生まれたまちである、という歴史的事実が名張のまちのアイデンティティの拠りどころになるのかどうか。まち BBS「○名張市について書き込んでみましょう PART5○」のスレ立て第一声や名張のまちで製造販売されているお菓子とお酒を例にあげつつ考察してみた次第でしたが、ひとつ忘れていたものがありました。

 名張市に拠点を置くサッカーの社会人チーム、その名も M. I. E. ランポーレ FC です。オフィシャルサイトはこちらですが、下の画像のほぼ中央、選手の写真が掲載されたエリアには、ページを開くとまず名張のまちと乱歩生誕地碑の映像が現れます。

 ごらんいただけましたか。名張のまちと乱歩生誕地碑が映し出されたそのあとに、こんなコピーが出てきました。

 ──江戸川乱歩が愛した町に、

 いい。これはなかなかいい。乱歩が生まれた、ではなくて、乱歩が愛した、とあえていいきっているところが高得点。ただしこれにつづく、

 ──サッカーの音がする。

 というのはちょっと腰砕けでしょうか。サッカーの音、というフレーズが明瞭なイメージを結びません。一考あってしかるべきであったかと思われますが、とにかくこの名張市ではサッカーチームのネーミングにおきましても、それがたとえトイレの洗剤を連想させるものではあるにせよ、乱歩の名前がこのようにしっかりと活用されているわけです。乱歩が名張のまちのアイデンティティの拠りどころであるという市民サイドの判断がここにも示されているといっていいでしょう。

 ここで掲示板「人外境だより」にかんするお知らせです。11月4日付伝言に「掲示板のファイル名を変更する」という作業がうまくできないと記しましたところ、それはこういうことなのではないかとメールでアドバイスしてくださった方もあったのですが、プロバイダからのメールですべて判明しました。「人外境だより」に投稿するといったんこんな画面が現れるのですが──

 私はこのお姉さんのおしりの画像を掲載したページのファイル名に手を加えることを失念しておったわけです。うーん、ばか、と自省しつつ新しい掲示板をアップロードいたしました。といったって見た目にはまったく変化がないのですが。

 新掲示板の URL は http://www.e-net.or.jp/user/stako/dayori.html となっております。

 投稿が一件もないのではやや寂しいような感じがしましたので、怪人19面相君がおおいに楽しませてくれた去年の夏のやりとりを「エジプトの怪人たち」からまるごと転載してみました。加えまして、怪人19面相君たちとおなじようなにおいのする投稿も二件、こちらは今年9月のものですが、たまたま保存してあった過去ログからひろっておきました。

 去年の8月25日付の投稿で、私は怪人19面相君にあててこう記しています。

 つまり、いつかも明智小五郎のセリフをもじって伝言板に書いたけど、

 「いずれ君を捕らえる時には、名張エジプト化事件も、君が関係しているほかの事件も、すっかり一網に解決してしまうつもりだよ」

 と僕は考えているわけさ。

 今回の事件はおそらく、名張のまちで現在ひそかに進行しているある陰謀の一端だろうと、僕はそんなふうに睨んでいる。

 「名張エジプト化事件も、君が関係しているほかの事件も」といいますのは、おなじにおいのする一連の騒動、つまりおととしの秋に名張のまちがなぜかからくりのまちになってしまい、そこに怪人二十面相がうろうろ出没したりしてくりひろげられた「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のフィナーレイベントあたりからひきつづく名張のまちを舞台にした動きのことを指しているのですが、怪人19面相君に宣言したとおり私はそれを「すっかり一網に解決してしまう」ことができたのでしょうか。

 解決も何もむこうが勝手に自壊したというか自滅したというか、私にはどうもそんな印象があります。からくりのまちというコンセプトはとっくの昔に弊履のごとく打ち捨てられてしまいましたし、名張はじつはエジプトであるというアイデンティティクライシスの症例みたいな活動をしていた団体ももはや存在していないのではないかしら。そして諸悪の根源である名張まちなか再生プランときたら、いまではなんだかわけがわかんないことになっている感じです。

 名張市発行「広報なばり」7月23日号の「検証 名張のまちなか再生は進んでいるのか?」によれば──

〔18年度実施事業〕

・(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事

・(仮称)乱歩文学館基本計画策定

 こんな段取りになってるわけですけど、細川邸を改修して初瀬ものがたり交流館とやらにする工事はほんとに平成18年度中、つまり来年3月末までに実施されるのかな。そのための予算は組まれているはずなのですが、だからといって無理やりそれを執行してしまうのはよろしくないのではないかしら。ていうか絶対だめだと思う。しかしそれ以前に初瀬ものがたり交流館とやらの構想は、正式な発表がありませんからはっきりしたことはいえないのですけれど、いまだきちんと決められてはいないのではないかという気がします。

 なーにをやっておるのか。2004年6月の第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会から数えればもう二年半が経過したことになるのですが、それでもなお結論が出ていないというのであればじつに情けない。嘆かわしい。ランポーレ FC のコピーをもどいていえば、

 ──江戸川乱歩が愛した町に、

 ──決定力不足の風が吹く。

 といったところでしょうか。うーん。決定力不足の風、というのもイメージが曖昧か。それならいっそ、

 ──江戸川乱歩が愛した町に、

 ──レッドカードの雨が降る。

 ではどうであろうか。これはいい。レッドカードの雨、というのがまざまざと眼に浮かんでくるような気がいたします。名張のまちに降りそそぐ百千のレッドカード、響きわたる嘲笑、こそこそと逃げ隠れする名張まちなか再生プラン関係者。ああ、眼に見えるようだ。

 そんなことはともかくとしてこの名張市におきましては、二年半もの時間をかけてまったく無駄な協議検討が進められてきたということになります。二年半だぞ二年半。ずいぶんと非効率な話ではあるのですが、これが五年であろうと十年であろうと、まともな結論はいっさい出ないことでしょう。出るわけがない。ですからいまや名張まちなか再生プランは自壊しつつあるというか自滅しつつあるというか、むこうが勝手にぼろぼろになっている。私の眼にはそんなふうに映っているわけで、これでは「すっかり一網に解決してしまう」も何もないではありませんか。

 ことほどさように名張まちなか再生プランの欺瞞性はいまやすっかり明らかなのですが、それでも2006年度に「(仮称)初瀬ものがたり交流館改修工事」が実施されるということは決定を見ているようですから、もしも市民のコンセンサスなどかけらもない初瀬ものがたり交流館とやらの改修工事が実際にはじまってしまうとしたら、それはもうその時点で完全な失政ということになってしまうでしょう。そんなことではいかんではないか。2008年度にも赤字再建団体に転落しようかと報じられている名張市には、あらかじめ失政であるとわかっている事業に税金つぎこむような余裕はとてもありません。いやいくらお金があったって失政はいけませんけど、いまの名張市はどんな状態?

 こんな状態。毎日新聞オフィシャルサイトの熊谷豪記者の記事です。

名張市:人件費4億5000万円削減 来年度から3年間で /三重
 名張市の亀井利克市長は8日、来年度から3年間で職員給与を総額4億5000万円カットする方針を明らかにした。12月定例市議会で、柳生大輔議員(民主クラブ)の一般質問に答えた。

 市の財政見通しでは、07〜09年度の3年間で21億円の財源が不足する。このため、人件費は伊賀南部消防組合と伊賀南部環境衛生組合を含まない市(11月20日現在、職員数811人)だけで4億5000万円削減する方針。

 来年から三年間で二十一億円の財源不足か。細川邸を改修して不要不急の施設整備を進めてる場合ではまったくない。なにしろ名張市議会議員の先生方のあいだにだって、名張市の財政状況に鑑みて自分たちの物見遊山ではなかった行政視察を控えてはいかがなものかという声が出ているほどです。おなじく毎日新聞の渕脇直樹記者の記事をどうぞ。

名張市議会:「百聞は一見にしかず」 行政視察、隔年実施案を見送り /三重
 議会改革を検討している名張市議会の議会運営委員会(柳生大輔委員長)は5日、一部会派が提案していた同委員会の行政視察の隔年実施案を見送った。来年度以降も現行通り、毎年実施する方針。

 同市議会事務局によると、議会運営委員会は議会運営の先進地視察を目的に毎年、委員ら議員8人と随行の市職員2人がおおむね2泊3日の日程で県外を視察し、年間約120万円の予算を計上している。今年度は4月に1泊2日で松山市議会を視察し、約52万円を支出した。しかし、市は厳しい財政状況にあることから、公明、共産の両会派が隔年実施を提案した。

 この日、出席した委員からは「資料はインターネットでも得られるが、百聞は一見しかずということもある」(柳生委員長)などの異論が出され、現行の維持が決まった。

 市議会議員の物見遊山ではなかった行政視察は控えましょう、という声は出るには出たけどすぐ消えた、といったあんばいであったようです。にしても、百聞は一見しかず、というのはたしかにそうではありましょうけど、ここに節穴と呼ぶしかない眼のもちぬしがいると仮定して、その人間に百聞をしのぐ一見がはたして可能かどうか、ということも考えてみないといかんのではないかな。

 いやいや、そんなことはまあどうだっていいか。暗い話題ばかりがつづきましたからここらでひとつ明るいニュースを。朝日新聞オフィシャルサイトの「トップ掲載写真」に12月6日、名張市のニュースがとりあげられました。

 しっかし伊賀牛集団「部位3」ってか。なーんかめまいがしてきた。

  本日のフラグメント

 ▼1931年11月

 新文芸日記 昭和七年版

 11月16日付伝言でとりあげました北村薫さんの「虚栄の市」。作中で女性運転手のベッキーさんがこんなことをいってました。

 ──あの、たまたま眼にしたのですけれど、今年出た日記帳に『新文芸日記』というのがございます。月ごとに題辞を作家が書いております。一月巻頭が島崎藤村。十二月を菊池寛が書いております」

 どんな作家が題辞を書いていたのかは『貼雑年譜』で確認することができますが、それがどんな題辞であったのかを知ることはできません。

 お休みのあいだに手許に山をなす、いうのはおおげさですが、溜まりに溜まって未整理だったコピーのたぐいをお片づけしていたら、ある方から『江戸川乱歩著書目録』編纂中に頂戴した『新文芸日記 昭和七年版』のコピーが出てきました。

 毎月の題辞をひとまとめにしたページがありましたので、それをご紹介しておきましょう。

毎月の題辞の読み方
(一月) 行きかふ年もまた旅人なり。──芭蕉の言葉をしるす──(島崎藤村)
(二月) 春あさみせどの水田のさみどりのねぜりは馬にたべられにけり。(北原白秋)
(三月) 恐ろしさ身の毛もよだち美しさ歯の根も合はぬ五彩のオーロラの夢をこそ。(江戸川乱歩)
(四月) 薔薇ならば花開かん。(佐藤春夫)
(五月) 気自持者則不惑。(吉田絃二郎)
(六月) 銀座夜の九時、なんにも不買、珈琲だけ飲む気の安さ。(長谷川伸)
(七月) うつし世のありなし事をつゞりつゝ四十路の老いとなりにけるかな。(加藤武雄)
(八月) 苦しみぞ、物かげに終れば、天使高らかに「始め!」と叫ばん。──ユーゴーの言葉──(白井喬二)
(九月) 蟻台上に餓えて月高し。(横光利一)
(十月) 勉強。(直木三十五)
(十一月) 詩筆四十のたそがれに、寂しいかなや白き米、仏陀の如く燦として。(西條八十)
(十二月) 人生行路難山にあらず水にあらずたゞ人情反覆の間に在り矣。(菊池寛)

 乱歩ひとり突出している観があります。恐怖と美へのただならぬ憧憬において。文学者というのは本来こういったものなのではないか、という気がします。


 ■12月12日(火)
歳末トイレ事情 

 どうにも片づかない。歳末だというのになかなか片づきません。

 私がお休みをとって何をじたばたしていたのかというと、いわゆる資料整理です。乱雑に放置してあったコピーのたぐいを片づけていた、いや片づけようとしていたのですが、なんか収拾がつかんなと諦めて一日早くお休みから復帰した次第でした。ほんとになかなか片づかない。

 どうして急に整理をはじめたのかといいますと、年内に便器設置工事を実施することになったからです。

 と書いても何のことだかおわかりにならないでしょうけれど、私は昨年、自己破産を記念して書斎と暗室に本棚をつくりつけることにしました。暗室というのは書斎に隣接した部屋で、かつては写真現像を行っていたのですが近年はデジタル写真一辺倒ですから暗室として使用することはなくなり、お察しのとおり物置みたいになっておりました。で、ここに書棚と便器を据えつけたら面白いのではないかと考えた次第です。書棚のほうはとっくに工事が終わったのですが、延び延びになっていた便器の設置工事を年内にやってしまうと大工さんからいきなり連絡が入りましたので、ならば暗室内を片づけねばならない。連絡があった翌々日から一週間、サイトの更新をお休みして一気に片づけてしまおうと私はもくろみました。

 ここでひとこと説明しておきましょうか。自己破産した人間が以前の家に住みつづけているのはおかしいではないか、住まいは競売にかけられるのではないか、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。むろん本来はそうなのですが、競売を逃れることも可能です。といったって違法脱法はいっさいなく、なにしろ弁護士の先生から指南してもらったとおりにしたのですからジャスティスとフェアネスは完璧です。どっかの委員会とは大違いである。

 どうやったの? とお思いの方もあるいはおありか。もしかしたら自己破産予備軍の方もいらっしゃるか。そこでもう少しくわしく説明を加えておきますと、不動産屋さんに競売対象となる土地建物の評価額を見積もってもらう。その金額で誰かしら第三者に土地建物を買い取ってもらう。そのお金をそのまま管財人に渡してしまう。つまり競売で生じる財産をあらかじめ差し出してしまうわけで、こうやると自分の家に(正確にいうとすでに私の家ではないわけですが)住みつづけることができるという寸法です。自己破産予備軍の方はどうぞ参考にしてください。

 さてそれでお片づけの話なのですが、書斎のほうも暗室のほうも、本のかたちをしたものはほぼ片づいておりました。並べてある順番にはまだ気に入らぬ点もあったけれど、本は書棚に並んでいた。しかし今年の6月、筑摩書房版現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也を購入したおかげでまたえらいことになってしまった。全九十七巻はとりあえず暗室に押し込むしかなかったのですが、しかしこの暗室の床には本のかたちをしていない資料、すなわち雑誌だの新聞の切り抜きだのパンフレットだのコピーだのがあるいはキングクリアファイル差し替え式にはたまた大型封筒にでなければ段ボール箱にぶちこんだまま雑然と積みあげてありました。そうした資料類は『江戸川乱歩年譜集成』編纂のためにも必要で、いつか整理はしなければならんなとは思っていたのですが、便器設置工事がいい機会だ、だーっと整理してしまおうと私は決意したわけね。

 とにかくコピーだの何だのを収納するケースが必要だと考え、自己破産した落魄の身で近鉄百貨店桔梗が丘店の百円均一ショップに赴いて適当なのをごそっと買い込んで整理をはじめてみたのですが、どうにもはかどってくれません。理由のひとつはコピーのたぐいについつい読みふけってしまうことです。古いものになるともう十年以上も前にコピーしたものですから、内容をほとんど忘れていて読んでみるとなんだか新鮮。眼を通しているあいだに時間が経過してしまいます。

 そういえば、と感慨にふけったりもしてしまいます。ちょうど十年前、1996年の年末は『乱歩文献データブック』の追い込みにおおわらわであったな。お正月の3日には神戸の知人宅で大宴会を開くのが恒例であったのだが、それも欠席してお正月休み返上で索引をつくっていたような記憶があるな。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。

 そうかと思うと段ボール箱の底のほうからオレンジ色の表紙のキングクリアファイルが出てきて、開いてみたら江戸川乱歩リファレンスブックのプロトタイプとでも呼ぶべき目録のコピーがファイリングされていました。中島河太郎先生の「江戸川乱歩研究文献目録」、島崎博さんの「江戸川乱歩参考文献目録」、秋田稔さんの「乱歩研究参考文献」、浜田雄介さんの「江戸川乱歩研究文献目録」、林雅彦さんの「文庫本で読む江戸川乱歩作品一覧」、古俣裕介さんの「江戸川乱歩文献案内」、島崎博さんの「江戸川乱歩書誌」、新保邦寛さんの「江戸川乱歩の作品一覧と書誌」、『鬼の言葉』巻末の「江戸川乱歩著書目録」、島崎博さんの「『ロック』総目次」といったところが次々に出てきてなんだか懐かしい。『乱歩文献データブック』編纂の最初の作業は中島先生の「江戸川乱歩研究文献目録」をワープロソフトに落とし込んでゆくことであったなあ。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。

 そうかと思うときちんとファイルしてなくてただ挟んであるだけの書類なんてのも出てきて、これは何かと見てみると、

 「4月22日・23日 上京日程等」

 ああこれも懐かしい。こんなものが残っておったのか。1996年の春、『乱歩文献データブック』の予算が正式にゲットできたので平井隆太郎先生と中島河太郎先生にご挨拶にあがったときの出張の日程表ではないか。それによると4月22日月曜の午前8時28分発名古屋行き近鉄特急で名張を出発し、午後2時に平井先生のお宅(むろんいわゆる乱歩邸)、午後4時には日本推理作家協会事務局にお邪魔している。その夜は平河町にある月やま会館というところで一泊し、翌日午前11時に浅草の雷門で中島河太郎先生にお目にかかった。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。

 そうかと思うと感熱紙のインクがすっかり褪色したファクスの束が見つかり、『江戸川乱歩執筆年譜』編纂に際して山前譲さんから送っていただいたファクスがごっそり。当時の私は山前さんとは一面識もなかったのですが、それにしてはずいぶん厚かましくあれはどうよこれはどうよとお尋ねしていたようで、ほかにも旺文社図書室だの毎日新聞東京本社情報調査部だのから届いたファクスが色褪せながら残っている。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。

 新潮社資料室からお送りいただいたファクスから画像二点、資料として記録しておきたいと思います。資料室スタッフの方から頂戴したファクスの文面によれば、私は「別冊小説新潮」の昭和36年10月15日発行分の巻号数はどうよとか、「日の出」の昭和8年12月号ならびに12年8月号に乱歩が連載を開始するにあたっての作者の言葉みたいなのは載ってないかとか、そんなような細かいことをあれこれお訊きしてお手数をおかけしていたわけですが、「日の出」にかんしては「予告の文章はありませんが、別紙のようなはさみ込みの次号の予告がありました」とのことで、お送りいただいた次号予告の乱歩作品がこの二点でした。

 「日の出」昭和8年12月号に掲載された「黒蜥蜴」の予告です。

 こちらは昭和12年8月号。乱歩はこの挟み込み予告を『貼雑年譜』にスクラップしているのですが、何かを勘違いしたらしく昭和14年のページで扱っています。むろん新潮社資料室のデータが正しくて、これは「日の出」五周年記念号の予告ですから「日の出」の創刊が昭和7年であること、そして「妖星譚」と並んで予告されている木々高太郎の「糸の瞳」が「日の出」昭和12年9月号に掲載されていることからも、乱歩が勘違いしていたことは明らかです。みたいなことを必死になって考えていたのが十年前であったなあ。ファクスの日付は7月3日金曜日とあります。ああ、なんだかずいぶん昔のことのような気がするなあ。

 まだまだ出てくる。オレンジ色の表紙のキングクリアファイルには目録のコピー以外に横溝正史全集の月報第一号、昭和45年1月に出たものですがそれも入っていて、これはたしか悪の結社畸人郷の先達からいただいたものであった。

 そうかと思うと日本経済新聞に掲載された奥田継夫さんの「不思議なムード漂う『乱歩文献』」のコピーもあって、名張市立図書館の『乱歩文献データブック』を紹介していただいております。この本を読んで複雑で不思議な気分になったと書き出されているのですが、つづくパートは引用しましょう。

 複雑な気持といったのは伊賀の名張はぼくの第二の故郷で、新制中学第一期生としてここで『怪人二十面相』にわくわくした一方、『陰獣』など、少年には理解不能な短編も読んだ。何ということのない疎開先の家に乱歩の本があったのも、彼がここ生まれだったからだろう。この本によると、乱歩作品の文献点数は、『二銭銅貨』発表の大正十二年以来、開戦敗戦の二年をのぞく七十二年間に三千八百三十二点に達している。こんな事の他、さまざまな貴重な発見もできるが、緻密な仕事と造本の美しさが光っていて、本造りにかかわった編集子(中相作)の息吹きが伝わってくる。

 きけば、装丁用紙書体に至るまで「メジャーとちがう本造りを志向した」とのこと。この言葉は大阪ヨーロッパ映画祭のために年末に来日していたヴィム・ヴェンダース監督の「ハリウッドとはちがう映画を勇気を持って作り続ける」と、軌を一にしている。

 内容はまったく忘れ果てていたのですが、私はヴィム・ヴェンダース監督と並び称されているではありませんか。なんかかっこいいなあ。

 そうかと思うとネット上の記事をプリントアウトした鷲田小彌太さんの「読書日記」。検索してみたらネット上に今も存在していてすなわちこのページなのですが、関連箇所を引いておきます。

 絶好調。28枚書く。昼、郵便物の中から、『江戸川乱歩執筆年譜』(名張市立図書館・1998/3/31)が届いていた。注文しようとして忘れていたのを、残部があったのか、講読案内があって、妻が発注してくれたもの。「江戸川乱歩リファレンスブック」の2で、1は『乱歩文献データブック』(97/3/31)。書誌音痴だから、どれほどの価値があるかわからないが、眺めているだけで、面白い。きれいだ。乱歩狂いの中澤千磨夫は、もっているかな、もっていないだろうなー。

 名張は、私の最強敵、田畑稔(広島経済大学)の生まれ故郷。富山大学の助教授の席を放って左翼運動に邁進しようとして、私同様「中折れ」、しかし、私とは違って左翼思想を固守している、超頭脳明晰な怪人である。最近『マルクス・カテゴリー事典』(青木書店)という、まことに恵まれることのない損な仕事を編著で仕上げた。学生時代、よく名張の田畑の実家(洋品店)を訪れた。すぐとなりの赤目の瀧で、泳いだことが、事実だったのか、夢想だったのかわからないほど遠い過去になっている。

 もっとも、1975年から83年まで、津と大阪に通うという理由で、名張から5キロくらいの伊賀神戸(上野市)に在住したから、乱歩なのでもある。そういえば、乱歩を世に「送り出した」『新青年』の若き編集者、横溝正史原作の映画「病院坂の首縊りの家」の撮影舞台が伊賀上野だった。いまはどうしているか、桜田淳子が大人になりきれない演技をして、妙に新鮮だった。

 田畑稔さんのご実家である洋品店はいわゆる名張まちなかにあったのですが、かなり以前に営業をおやめになったと思います。名張まちなかはいったいどうなってしまうのか。なにしろ現在ただいまは、

 ──江戸川乱歩が愛した町に、

 ──レッドカードの雨が降る。

 さのよいよい、みたいな感じであるのだからなあ、と暗鬱な気分をおぼえながらこの記事のデータを本日、遅ればせながら「RAMPO Up-To-Date」の1998年に記載いたしました。

 そうかと思うと朝日新聞三重版のコピーもありました。藤田明さんの「展望 三重の文芸」です。

 昨年の『乱歩文献データブック』に引き続き、名張市立図書館が『江戸川乱歩執筆年譜』を公刊した。一九二三年から四十三年間にわたる文業の詳細な目録。作者自編の書誌以降、何回か増補されたものも出ているが、更に手を加えた形。二百七十余ページの内容に関し、編者の中相作(名張)が初めに問題点や苦労を語るが、これはこれで興趣尽きぬ一つのエッセーである。乱歩コーナーを持つところからの出版、またも公共図書館の範を示した。

 ありがたいお言葉をたまわっております。ほんとに名張市立図書館は公共図書館の範を示しておるわけなのですが、図書館はただの無料貸本屋であると信じて疑わぬ名張市役所のみなさんにはそんなことはとても理解できぬのであろうな。やっとれんぞ実際。よーし。あしたっからまた官民双方のうすらばかども思いっきり叩きまくってやることにするか。

 そんなこんなで私の書斎に隣接する書庫つきトイレ、あるいはトイレつき書庫に便器を設置する工事はたぶん年内に終了するはずなのですが、コピーのたぐいは工事のあいだだけどっかほかの場所にどさどさと移動し、工事が終わったらまた書庫つきトイレあるいはトイレつき書庫に運び込んでぼちぼち整理するしかないだろうなという結論に達した次第です。

  本日のアップデート

 ▼1931年11月

 探偵好きな薬剤師から 横溝正史

 きのうにつづいて日記シリーズをと考えて昭和三年版『文芸自由日記』の、これもまた『江戸川乱歩著書目録』編纂中に頂戴し、このお休み中に整理されるはずであったコピーを引っ張り出してきました。

 この日記では当時の花形作家がアンケートに回答しており、乱歩のそれは全集にも収録されておりませんからかなりの珍品、と思っていたのですが『貼雑年譜』を開いてみたらちゃんとスクラップされていますから珍しくもないか。

 そこできのうの『新文芸日記 昭和七年版』に立ち戻り、「コースの変遷」と題されたコラムに横溝正史が寄せた文章から引いてみます。この文章は「乱歩文献データブック」にはひろっておりませんでしたので、遅ればせながら増補いたしました。

 その頃、同じく「新青年」に奇妙な探偵ものを発表してゐた江戸川乱歩氏が大阪に来てゐられ、大阪に探偵小説を流行させようとした。氏は探偵もの好きの私といふ人間が大阪にゐる事を新青年の森下雨村氏に聞かれ、私を訪ねて下さつた。で私も加はり「探偵趣味の会」といふのが生れてなかなか盛になつた。私はそのうち薬学校卒業して神戸で薬剤師になりすましてゐた。

 しかしこれも珍しくないといえばまことに珍しくない話題であったか。読者諒せよ。


 ■12月13日(水)
1991年からの十六年を振り返る 1 

 さあばんばん行きましょう。

 資料を整理していたらこんなものが出てきました。名張市で1992年3月に催された「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」のリーフレットです。

 タイトルの下にはこう書かれてあります。

 今年度から「ふるさと振興基金」活用事業の1つとして、名張生まれの推理作家 江戸川乱歩に始まるミステリーの世界をテーマにいろいろなイベントを通して地域の新たな文化の創造に努めます。

 今年度というのは1991年度のことなのですが、その年度がもう終わろうかというころになって「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」の旗のもと、「講演&映画のミステリーイブニング」「乱歩・ミステリー展」「乱歩ビデオ映画会」「ランラン乱歩ウォークラリー大会」といったイベントが開催されました。私はいまだ名張市立図書館の嘱託ではなく、そもそもこの手のイベントなんて頭からばかにしておりましたので、どんな催しがくりひろげられたのかはまったく知りません。ただ、

 ──なーにがランラン乱歩だばーか。

 と思ったことは記憶しております。

 1994年になるとこんなリーフレットが登場しました。10月から11月にかけて「ミステリー夢ロマン・なばり '94」というイベントが展開されたのですが、この年は乱歩生誕百年にして名張市制施行四十周年の年であり、この乱歩がらみのイベントには結構お金がかけられていたようです。もしかしたらそこらの広告代理店にいいだけぼったくられていたのかもしれません。

 私はまだ市立図書館嘱託ではなく、ただし図書館の懇請を受けて乱歩作品を題材にした読書会の講師を務めておりましたので、このイベントでも10月22日の土曜日、

 「江戸川乱歩は三度死ぬ」

 というおちゃらけたタイトルの読書会をやっております。リーフレットには劇団「座・名張少女」が朗読を担当とあり、そういえば地元劇団の女優さん何人かに乱歩作品を朗読してもらったことを思い出します。たぶん「盲獣」も読んでもらったはずで、おそらくそのせいなのでしょう、この読書会には「高校生以上の年齢の方にかぎります」という参加制限が設けられておりました。おかげさまで高校生の入場者はひとりもなかったと記憶いたしますが。

 私の読書会は午前の開催で、午後にはおなじ会場で山村正夫さんが、

 「江戸川乱歩の人物像」

 というテーマで演壇に立たれました。私は自分の出番を終えていったん自宅に帰り、山村さんの講演をぜひとも拝聴しなければなとは思いつつ、いま思い出したところによればこの日はたぶん巨人 vs 西武の日本シリーズが開幕した日でしたからテレビでずるずる観戦してしまいました。山村さんの講演会には足を運べませんでした。お聴きしておけばよかったと悔やまれてなりません。しかしその当時には自分が図書館の嘱託になるとか『江戸川乱歩年譜集成』を編纂する羽目になるとか、そんなことは夢にも思っておりませんでしたからまあついつい。

 そんなこんなで乱歩生誕百年の年が終わりました。私はこの年度まで二年間だけという約束で図書館の読書会を引き受けておりましたので、その翌年の1995年度にもまた読書会の予算がつけられており、私が講師を担当しなければならぬことになっていると知らされて激怒しました。うわっつらのことでお茶を濁すのはいい加減にしろ、市民相手の読書会などという程度の低いことばかりやっておるのではない、名張市立図書館にはほかにしなければならぬことがあるではないか、どうしてうわっつらのことだけでことたれりとするのだおまえたちは、と怒りまくりましたところ、何をすればいいのかわかりませんという答えが返ってきました。

 そのあたりのことは「乱歩文献打明け話」の第三回「わが悪名」から引いておきましょう。

 名張市立図書館には乱歩読書会のほかにするべきことがある、と私には思われた。しかし何をしていいのか判らない、というのが当の図書館の答えであった。判らないといわれたって、私には何とも申しあげようがない。そんなことは私には関係のない話だからである。むろん私とて、頼まれれば読書会の講師くらいお引き受けせぬわけではないが、それは乱歩生誕百年の飾り物という意味において協力したに過ぎない。これ以上、市立図書館の運営に深入りしなければならぬ道理はないであろう。名張市立図書館が乱歩に関する知識や見識を持ち合わせていないのは図書館自身の責任であり、さらに煎じつめれば名張市教育委員会や名張市の責任であって、私にはまったく関係のない話なのである。

 読者は私が行政に対して非協力的であるとお感じかもしれぬが、少なくとも乱歩に関しては、名張市や名張市教育委員会に協力したいという気は私にはなかった。名張市や名張市教育委員会が乱歩に関して何をやってきたか、あるいは乱歩に関してどの程度に無知であるか、充分に弁えているからである。この際だから申しあげてしまうが、私には名張市が手がけてきた乱歩関連事業のすべてに関して、ひとつの大きな疑義があった。それは、名張市には乱歩に対する敬愛の念があるのだろうかという疑問である。

 もしも名張市が乱歩をテーマに事業を展開するのであれば、それらの根幹には乱歩に対する敬愛の念が存在しているべきではないのか。むろんこれは私の個人的な意見であって、敬愛の念など必要ないという見解もあっていいだろう。乱歩が名張で生まれたのは事実なのだから、乱歩作品や乱歩その人に関する知識など関係なしに、乱歩の名前を名張市の自己宣伝に利用すればいいではないか、といった考えも否定されるべきではないだろう。しかし私は、そうした見解に与する気は毛頭ないし、それに荷担するのなどは真っ平御免なのである。

 自分でもばかか、と思います。私はまるでばかみたいにおなじことしかいっていません。おまえら乱歩乱歩というのであればまず乱歩作品を読みやがれ。それしかいっておらぬ。「わが悪名」からさらに引きますと──

 あだしごとはさておき、要するに私は、江戸川乱歩という作家に関しては、もはや名張市や名張市教育委員会に何の期待もしていないのである。どんな事業をやってほしいとも思っていないのである。むろん私には、これまで乱歩関連事業に携わってきた市職員諸君を批判する気はまったくない。彼らの労苦を多とするにいささかも吝かではない。どうもご苦労さまでしたと心から申しあげたい。しかし、乱歩に対する敬愛の念や乱歩に関する知識もなしにお役所が乱歩関連事業を手がけることに対しては、やはり批判の目を向けざるを得ないのである。

 だから私は、これは前回も書いたことだが、名張市はもう乱歩から手を引いてはどうかと思っている。乱歩という郷土出身作家に本気で取り組む気がないのなら、思いつきでしかないうわべばかりの乱歩関連事業など、いくら積み重ねてもあまり意義はないのではないかと愚考している。

 これも飽きるほど指摘してきた。「思いつきでしかないうわべばかりの乱歩関連事業」なんてやめてしまえと、そんなことに税金をつかうなと、私はいくたび指摘したことか。どれほど主張してきたことか。

 ──名張市は乱歩から手を引け。

 そればかりずーっと主張してきたわけです。

 しかし、ここで問題になるのは名張市立図書館の存在である。名張市が乱歩から手を引いたとしても、名張市立図書館が乱歩から手を引くことはできぬ相談であろう。なぜなら市立図書館は、昭和四十四年の開館以来、一貫して乱歩の著書や関連資料の収集をつづけているからである。これは貴重な財産であって、死蔵しておくわけには行かぬ性質のものである。そして私が、図書館には読書会以外にするべき仕事があるのではないかと指摘したのは、まさにこれらの収集資料を念頭に置いてのことだったのである。

 収集資料を活用することすら考えず、どうして市民相手の読書会などという子供騙しでお茶を濁そうとするのか、えーい、いったい図書館は何を考えておるのか、と気の短い私は逆上し、名張市立図書館の職員を叱り飛ばした。別にその職員が憎かったわけではなく、私の怒りは図書館なり教育委員会なり名張市に向けられたものであったのだが、矢面に立つことになった職員はさぞやいい迷惑だったことであろう。あとになって私は彼に、ある酒席でそのときのことをお詫びしたのだが、われながら本当に難儀な性分ではある。

 乱歩の著作や関連文献を専門的に集めている図書館なんて名張市立図書館だけなのである。それが名張市という自治体の独自性でもあるのである。その収集資料にもとづいてサービスを展開すればいいだけの話ではないか。しかしそんなことは無理であろう。お役人にはとてものことにできぬ相談であろう。それならやってあげる、と私が意を決して名張市立図書館の嘱託を拝命したのは1995年10月のことでした。

 まず『乱歩文献データブック』をつくることにして、監修をお願いした平井隆太郎先生と中島河太郎先生にお目にかかってご挨拶を申しあげたのがきのうも記しましたとおり1996年の4月下旬。その年の暮れから翌年のお正月にかけて『乱歩文献データブック』の詰めの作業に追われていた私は、名張市長による1997年の年頭記者会見の新聞記事を読んで唖然となった。

 富永英輔名張市長は十日、年頭の記者会見をした。「憲法五十周年の節目の年であり、地方分権、住民自治のあり方を軸とした事業展開をする。市勢は発展運、私は持続運の年、新年なので夢のある話を」と自画自賛めいた前置きをして、情報公開条例の年内制定などを語った。

 夢のある話とは、仮称・乱歩記念館建設─伊賀地区広域市町村圏で策定した地方拠点都市の基本計画に組み入れられており、具体策は乱歩の子息・平井隆太郎立教大名誉教授や記念館建設推進協議会と連携して検討する。十年後の計画期限までに実現したいという。

 これは1997年1月18日付伊和新聞の記事なのですが、よくもこれだけちゃらいことがほざけたものである。何の成算もなく乱歩記念館をつくろうなどと口走り、それが無理となったら大嘘こいて自分を正当化する。2002年1月の伊和新聞の記事を読んだ私はまたしても激怒することになるのですが、くわしくはこのページで2002年1月1日付伝言あたりからお読みください。

 それでまたしても、ほんとにまたしてもというしかない事態ではあるのですが、この名張市という自治体では名張まちなか再生プランに関連して、しかしプランにはひとことも書かれていない乱歩文学館だかミステリー文庫だかの構想が取り沙汰されているわけです。その取り沙汰も話がいっこうにまとまらなくていつのまにか終わってしまったのかもしれませんけど、ほんとにもういい加減にしておかなければならんぞ。

  本日のフラグメント

 ▼1985年11月

 乱歩の生地 中島河太郎

 「婦人公論」の臨時増刊に掲載された随筆です。お休み中にコピーのたぐいを整理していて見つけました。

 まず冒頭の二段落を。

 今年は江戸川乱歩の没後二十年にあたる。せんだって三重県名張市の教育長と図書館長が上京して、新築計画中の図書館に江戸川乱歩記念室を整備したいという意向を洩らされた。

 四日市市立図書館の丹羽文雄記念室や、彦根市立図書館の船橋聖一記念文庫がお手本らしいが、実は名張の計画は一度頓挫している。

 四日市の丹羽文雄といえばつい先日、四日市市立博物館に丹羽文雄記念室がオープンしたそうです。12月5日付毎日新聞の写真入り記事「丹羽文雄記念室:四日市市立博物館に完成 当時の家再現──9日から公開 /三重」をどうぞ。

 名張市立図書館は中島先生の「乱歩の生地」が発表された翌々年にあたる1987年の7月、丸之内から桜ヶ丘に移転しました。それに際して館内に江戸川乱歩コーナーが設けられたのですが、移転改築を検討していた段階で当時の教育長と図書館長が中島先生から何かしらアドバイスを頂戴したということでしょう。

 この随筆には昭和30年の乱歩生誕地碑建立のことも記されているのですが、

 ──私が訪ねたのはその十数年後だが、病院と人家に囲まれた上に雑草に埋もれて、惨憺たる有様だった。

 なんか中島先生からお叱りを受けているような気になってしまいますけれど、この文章の言外にはまずまちがいなく、生誕地碑の周辺を「惨憺たる有様」のままに放置している行政の怠慢と無策無能への批判がこめられているように見受けられます。

 それで結びの段落。冒頭にあった「実は名張の計画は一度頓挫している」というのはどういうことであったのか。

 昭和四十四年に名張では乱歩記念館建設の会を発足させた。私が名張の町を歩いていたら、図書館の入口の横に「江戸川乱歩文庫」の看板を見つけた。中に入ったらわずか数十冊の著書がケースに収められていた。乱歩顕彰に異議はないが、今度こそは充実したものであってほしい。

 名張市は昭和44年にも乱歩記念館をつくるとかいっときながら結局は「頓挫」してしまいました。いわば前科があったわけです。ですから「今度こそは充実したものであってほしい」ということになるのですけれど、この文章の言外に今度もどうせろくなものにはならぬであろうなという中島先生の諦めを見たは僻目か。

 しかしほかのことはともかく中島先生に監修をお願いした名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック全三巻(追加一巻鋭意編纂中)だけは、三巻目の『江戸川乱歩著書目録』をごらんいただくことはかないませんでしたけれど、名張市の「乱歩顕彰」として中島先生に対しても胸を張れるものであったと私は思います。


 ■12月14日(木)
1991年からの十六年を振り返る 2 

 きのうのつづきです。

 「乱ラン名張ミステリーフェスティバル」が開催された1991年度から数えて十六年。

 今年度から「ふるさと振興基金」活用事業の1つとして、名張生まれの推理作家 江戸川乱歩に始まるミステリーの世界をテーマにいろいろなイベントを通して地域の新たな文化の創造に努めます。

 こんなぐあいにぶちあげられた「地域の新たな文化の創造」というのはむろんごく適当なお題目であったにしても、十六年にわたる名張市の乱歩関連事業はどのような成果をもたらしたのでしょうか。

 とはいえ、今年度まで一貫して継続されてきた事業は日本推理作家協会の協力を得て開催しているミステリ講演会だけ。第十六回目となった今年度の講演会は10月28日に催されましたが、10月29日付伝言に私はこんなことを記しておりました。

 さてその名張市で昨28日、第十六回なぞがたりなばり講演会が催されました。日本推理作家協会の協力を得て開催している秋の恒例行事なのですが、おそらくは今年が最後になるはずです。だって名張市にはお金がないんだもの。ばかは多いがお金はない。だからもうやめてしまえばいいではないか。予算額はきわめて小さいものであるけれど、乱歩を利用した自治体の人気取りイベント、なんてものはもういい加減にしてはどうかと私は思う。これを機に名張市は乱歩から手を引きますと、官民双方ばかばかりでどいつもこいつもろくに乱歩作品を読んでもおらぬていたらくですからもう乱歩からは手を引きますと、きっぱり宣言してしまえばすっきりするのではないかと私は思う。

 財政難というのはある意味無策無能のまたとない免罪符なんですから、お金がないから何もできませんといってしまえばそれでまるく収まるのではないかと私は考えます。おとといの中日新聞の記事によれば、どうやらほんとにそうなってしまいそうな予感もいたしますし。

【伊賀】 市単独191事業見直しへ 名張、予算削減で財源不足補う
 名張市の亀井利克市長は、市財政の窮状を踏まえ、これまで市単独で実施してきた107の事務事業と84の補助金の削減や廃止を検討していることを明らかにした。来年度は予算額を本年度比で平均3割、3億2000万円分削減を目指す。市議会定例会一般質問で明らかにした。(伊東浩一)

 2007年度から09年度までの市の中期財政見通しでは、3年間で21億円の財源不足が見込まれる。このため、市独自に実施したり、国や県基準に市費を上乗せしたりしている“名張ならではの行政サービス”も切り込みの対象とした。

 見直しが進められているという百九十一の事業にミステリ講演会が含まれているのかどうか、私にはわかりません。しかし含まれていてしかるべきであろうとは考えます。ちゃらちゃらしたうわっつらのことばっかやってないで、この際ですからもう少し本質的なことに眼を向けるべきであろうと考える次第です。しかし無理か。いくらいってみても無駄なのか。ばかなのか。ばかなのだ。

 結論としてはそういうことであろう。ばかなのだ。十六年が二十六年であろうと三十六年であろうと、名張市というのはそういうところなのである。本質には眼を向けずうわべばかりを飾りたがる。ろくに乱歩作品も読まず乱歩という作家を知ろうともしないまま乱歩関連事業に税金をつかいたがる。それによってきょうびの言葉でいえばシティセールスが果たせると勘違いしている。

 ならばこの十六年間の成果はどうよ。1991年度から十六年が経過して、「いろいろなイベントを通して地域の新たな文化の創造に努めます」とぶちあげたお題目の成果はどうなのよ。いい機会だからきっちり検証してもらいたいものである。いい機会といえばまさしくこれはいい機会なのである。私は12月3日付伝言に、

 ──名張にとって乱歩とは何か。英知を結集していまそれを考えなければ、二度と機会はないでしょう。これは天が与えたもうた千載一遇の好機であるに相違ない。この機を逸することなく今度こそ本気で真剣に乱歩のことを考えなければ、ほんっともうだめよ名張市。

 と記しました。桝田医院第二病棟の寄贈を受け、その活用策を見いださなければならないいまこそが好機である、乱歩のことを真剣に考える好機である、といった意味だったのですけれど、財政難だって好機ではあるでしょう。うわっつらを飾り立てる予算がないのだから乱歩関連事業の本質にしっかり眼を向けざるを得ないわけです。いまはそういうチャンスなわけです。ピンチというやつには必ずチャンスの芽が潜んでいるものです。

 私は12月4日付伝言にこう記しました。

 そろそろつけを払わなければならぬ。長きにわたる過去の怠慢と無策無能とを名張市はいまこそきれいに清算しなければならぬ。桝田医院第二病棟の寄贈を契機として、それはもうどうあっても乱歩のことを真剣に考えなければならぬのである。名張のまちに生まれた乱歩という作家とどう向き合ってゆくのか。名張のまちの再生に乱歩をどう関連づけるのか。乱歩のことにどんなふうに税金をつかってゆくのか。その方向性をくっきりと明示しなければならぬ。

 これもまたあたりまえの話ではあるのですが、こんなことすら名張市にはできないはずです。乱歩にどう向き合うのかと問いかけてみたところで、そもそもそれを考える能力が名張市にはありません。もっと具体的なことをいえば、そんなことを考えるセクションが名張市役所には存在していません。これまでずーっとそうであったとおりに、その場その場の脊髄反射めいた事業を思いつくことならばなんとか可能でも、極端な例をあげればそうだ、乱歩記念館をつくればいいじゃんみたいな脊髄反射ならばなんとか可能であっても、乱歩のことを真剣に考えるなどという芸当は初手からできない相談です。だって乱歩のことを何も知らないのだもの。だから桝田医院第二病棟の問題だってとどのつまりは結局のところ、こんなふうなことにしてしまうしか手がないのではないか。

 まことに遺憾ながら名張市という自治体の貧しい実態に鑑みるならば、恥を忍んでこんな結論を出すしかないのではないかいなと私は思う。しかしいま重要なのはとにかく結論を出すことなのであって、決定すべき問題をずるずるずるずると先送りしてしまうお役所体質はもうだめなのね。禁じ手といたします。桝田医院第二病棟をどうするのか。つまりは乱歩という作家をどうするのか。チャンスなんだからそれを思案してみなさいね。たまには考えてみましょうね、たまには決めてみましょうね。何も考えられず何も決められないのは眼に見えているのだけれど、とにもかくにもそんなふうにお願いしたい気持でいっぱいな私なのね。

  本日のアップデート

 ▼1997年8月

 展望 三重の文芸 藤田明

 名張市における1991年度以来の乱歩関連事業だけでなく、1995年度以来のわが嘱託人生を振り返ってみたいと思います。

 お休み中にお片づけしていたら未整理の新聞もいろいろと出てきました。たとえば1997年6月8日日曜日付毎日新聞東京本社版なんてのが一面から二十八面までワンセット見つかって、ああこれは読書面で『乱歩文献データブック』をとりあげてもらった日の新聞だ。

 文化面のベタ記事にでもしてもらえたら凄いことだな、と考えて日刊各紙東京本社の文化部に『乱歩文献データブック』を一部ずつ献呈したのではありましたが、まさかこんなに大きく扱ってくれるとは夢にも思っておりませんでした。なにしろ毎日新聞の読書面です。記事は全国に流通したわけです。

 ちょっと問題があるなとは認識しつつも、あえて紹介記事のスキャン画像を掲載しておきましょう。良心の呵責から画像はやや小さめにいたします。

 この記事を見たときにはほんとに驚きました。

 ──乱歩生誕の地である三重県名張市の市立図書館がまとめた豪華な書誌。

 みたいなことも紹介されていて、名張市民のひとりとして驚くとともにむろん嬉しくありがたくも思いました。名張が乱歩の生誕地であると全国的にPRしてもらったわけですから、この記事一本の広告宣伝効果は結構なものだったのではないかしら。少なくとも「伊賀の魅力を全国発信」とかいいながら全国紙の伊賀版にしか記事が載らなかったどっかの三億円事業とは比べものにならないはずです。

 そうかと思うと朝日新聞の三重版も出てきました。藤田明さんの「展望 三重の文芸」で『乱歩文献データブック』をとりあげていただいた紙面です。

 名張市立図書館の『乱歩文献データブック』も公的機関による積極的刊行の一例だろう。江戸川乱歩がデビューした大正十二年以来の関係文献を二百ページ以上にわたって目録化。乱歩研究に一石を投じる壮大な一冊であり、全国発信の意義は大きい。公共図書館は貸出冊数などに目を奪われがちだが、このような独自の企画力を問われる時期に来ていよう。事にあたった中相作(名張)の文章も、なかなかである。

 12月12日付伝言ではおなじく藤田さんによる、

 ──乱歩コーナーを持つところからの出版、またも公共図書館の範を示した。

 との『江戸川乱歩執筆年譜』評を引用いたしましたが、まさに「公共図書館の範」と呼ぶべき「全国発信」であると、手前味噌ながら私はあえていいたい。

 うわっつらのことに「目を奪われ」るばかりで「独自の企画力」などきれいにもちあわせていないみなさんや。月並みなハコモノつくってりゃそれで満足だというあれなみなさんや。私はみなさんにあえていいたい。

 ──やーい。ばーか。

 と。

 あすにつづきます。がんがんつづきます。


 ■12月15日(金)
中井英夫の奇妙な比喩 

 きのうのつづきに行こうと思っていたのですが、きのうのつづきはあしたに延期いたします。

 それで本日は何を記すのか。12月10日に書こうと考えていた話題です。12月10日、すなわち中井英夫の命日。その日のネタにしようともくろみながら肝心の10日には更新をお休みしていたうっかり者が五日遅れで記します。

 11月23日、ある方からメールで中井英夫にかんするご教示をたまわりました。つまりその時点で12月10日にはこのネタで行こうと考えたわけなのですが、そんなことはともかくとしてどんなことをお知らせいただいたのか。

 『新青年』研究会の「『新青年』趣味」第十一号は中井英夫と森下雨村の特集でした。発行は三年前、2003年の12月31日。むろん私も所有しております。ていうか、お休み中に資料を整理していたら段ボール箱のなかから何冊かまとまってどさどさ出てきました。

 この号には私の「中井英夫という名前」という駄文が掲載されているのですが、それを読んで気がついたことがあるから教えてあげよう、というのが11月23日に頂戴したメールの用件でした。

 私が何を書いていたのかというと、中井英夫の奇妙な比喩についてでした。『幻想博物館』の冒頭、「火星植物園」の一行目に見える比喩です。書店の店頭で何気なく手にとってこの比喩を眼にした私は、おおげさにいえば胸騒ぎのようなものをおぼえてしまいました。

 古い本でかなり汚れてもいるのですが、これがそのとき購入した『幻想博物館』です(画像は函)。奥付の発行日は1972年1月12日。中井英夫というのは当時の私にとって未知の名前でした。それで冒頭の一行というのが、

 ──灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。

 この比喩はどうも腑に落ちない、と私は思いました。曇天が垂れる、という表現はわからなくもない。曇り空が重く垂れ籠めてくる。それはわかる。しかし魚の尾が垂れるというのはどういうことか。鮮明なイメージは結ばれません。尾が垂れるというのだからこの魚はすでに死んでいるのか。死んでテーブルの上に置かれた魚の尾がテーブルのへりから垂れているのか。私は『幻想博物館』を手にしたまま、その先を読み進むこともならずにそんな疑問をもてあましていました。

 いま思い出したのですが、私はこの文章を一時期、

 ──曇天の縁(へり)は、魚の尾のように垂れた。

 と誤って記憶していました。死んで横たえられた魚の尾がテーブルのへりから垂れている、というイメージがそれだけ強かったということでしょう。

 奇妙な比喩から生まれたその疑問は、私にぼんやりとした予感を抱かせました。この比喩の先にはこれまでに読んだこともないような小説世界がひろがっているのではないか、という予感です。未知の作家による未知の世界、それがこの本には描かれているはずだ。私はそんな胸騒ぎをおぼえました。

 みたいなことをちょこっとだけ、私は「『新青年』趣味」第十一号の「中井英夫という名前」に記したのでしたけれど、11月23日に届いたメールには、この奇妙な比喩は葛原妙子の歌を圧縮したものだろう、との推測が記されておりました。こんな歌です。

 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし

 1964年刊行の『葡萄木立』に収録された一首で、中井英夫がこの圧縮を意図的に行ったのか、あるいは歌は忘れ去られイメージだけ残像のように記憶されていたものを散文化したのか、それは断定できかねるが、酷似のさまは紛れようもない、というのがご教示の概要で、何かのご参考になればと思ってお知らせいたす次第です、と結ばれたメールを拝読した私は、やっぱりそうだったのかと胸のつかえがおりたような気になりました。

 私の場合は順序が逆になります。「火星植物園」が先、葛原妙子があと、ということです。だから私は、

 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし

 という一首を眼にしてすぐ、「火星植物園」のあの比喩はこの歌にもとづいていたのかと察しをつけることができました。奇妙な比喩の印象はそれほどに強烈だったという寸法です。中井英夫ファンの知人にこの発見を教えて自慢したことがあるような気もするのですが、そのうちだんだん記憶が曖昧になってしまい、情けないことに葛原妙子の歌であったかどうかさえ判然とはしなくなってきて、「『新青年』趣味」の原稿を書いたときに確認してみようかなとも考えたのですが、といったあたりはご教示いただいた方へのお礼のメールから引用しておきましょう。文中、「○○」とあるのは個人名の伏せ字です。別に伏せ字にすることもないのですけれど、なんか秘密めかしたほうが面白いようにも思われまして。

 「『新青年』趣味」の原稿を書いたときにも、この際だから確認してみようかと考えないでもなかったのですが、あまり時間がなかったせいもあって断念してしまいました。あのとき調べておきさえすれば、○○さんでさえお気づきでなかった両者の酷似について書き記すことができたのに、となんだか残念なような気もいたします。

 中井さんはたぶん、葛原さんの歌を本歌として、自覚的意図的にあの比喩をお書きになったのではないかと私には思われます。連作短篇の第一作の一行目で、自身の短篇作法を人知れず宣言したのがあの比喩なのではなかったか、と見るのは穿ちすぎというものでしょうか。

 それで結論といたしましては、

 ──坂の上にしづかなる尾を垂れしとき秋の曇天を魚といふべし

 これはわかる。「坂の上」や「垂れしとき」という限定があり、「いふべし」という意志がありますから、曇天が魚になるという比喩は理解できる。しかし、

 ──灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。

 これではやっぱりわからない。奇妙な比喩というしかなく、私の頭は1972年1月の本屋さんに戻ってしまうしかありません。

 だからこそこの比喩は、中井英夫が連作第一作目の冒頭で読者にいきなり投げつけた手袋のようなものではなかったのかと私は愚考いたします。つまり、これを読んで葛原妙子の歌を思い出さないようなやつはおれの読者になる資格がない、と中井英夫はひそかに宣告していたのではないかと推測される次第なのですが、これはやっぱり穿ちすぎというものなのでしょうか。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 江戸川乱歩「D坂の殺人事件」 東京・団子坂/これはまあ、なんという事件だ! 安岡崇志

 このところ日本経済新聞夕刊の乱歩文献を一手引き受けでお知らせくださっている Peter-Rabbit さんからまたしても記事のスキャン画像をお送りいただきました。

 文学作品の舞台となったスポットを訪ねて歩く「文学周遊」という連載の一篇。団子坂にわずかに残る昔日のおもかげが紹介されていますが、ここには冒頭二段落を。

 江戸川乱歩の作品は題名に妙味がある。『D坂の殺人事件』も。もし「団子坂殺人事件」だったらどうか。サド・マゾ趣味の「狂態が漸次倍加され」「ついにあの夜、この、彼らとても決して願わなかった」結末にいたる事件の猟奇性は示唆されないだろう。

 同じ大正時代に刊行された『東京景物詩』で北原白秋は「S組合」「H分署」と一部をイニシャルにした言葉を使い都会の空気を詩に漂わせた。『D坂』も同じ効果をあげている。「行きつけの喫茶店で、冷しコーヒーを啜る」都会にしか存在しない高等遊民が語り手の新奇な探偵小説に似つかわしい。

 たしかに地名をイニシャルで表記すると都会的な(あるいは無国籍な、というべきでしょうか)雰囲気が漂いはじめます。

 ところで私は12月2日付伝言でブルボン小林さんの『ぐっとくる題名』をとりあげた際、関連してこんなことを記しました。

 ──このDはDではじまるほかの言葉をも連想させる、という説があって、D坂のDは Death のD、Detective のD、Destiny のDでもあるのだ、みたいなことをどこかで読んだ記憶があるのですが、いったいどこで見かけたのか、さっぱり思い出せません。うーん、ばか。

 ばかはばかなりに精進に励みまして、どこで見かけたのかを思い出すことができました。先日、暗室のなかでコピーのたぐいを整理している最中、作業がいやになって手近な書棚にある文庫本をぱたぱた片づけていたときに(つまりコピーを整理するより書棚を整理するほうがまだ楽なわけで、ついついコピーから本に逃避してしまうことになるのですが)、種村季弘編『日本怪談集 下』という河出文庫を見つけたわけです。このアンソロジーには「人間椅子」が収録されているのですが、それに附された無署名のルーブリックにこうありました。

 ──代表作に、『屋根裏の散歩者』『パノラマ島奇談』、ポーの「モルグ(死体置場)街の殺人」をもじった題の、おそらくは D = death の意味も含ませた「D坂の殺人事件」など。

 たしかにこのルーブリックが私の記憶の源泉であることに間違いはないのですが、Detective のDとか、Destiny のDとか、そんなことはどこにも記されておりませんでした。私が勝手に妄想をふくらせませただけの話であったようです。どうも申しわけありません。しかし Detective とか Destiny とかを併置したほうが面白いのではないかしら。乱歩にポーのモルグ街をもじる意図があったかどうか、ちょっと微妙だなという気がすることも附記しておきましょう。

 もうひとつ附記しておくならば、出版社品切れとなっていた『ぐっとくる題名』は別のルートで入手できましたとのことで(どういうルートなんだかよくわかりませんが)、新刊書店でめでたく購入することができました。気になるお値段は本体七百二十円。


 ■12月16日(土)
1991年からの十六年を振り返る 3 

 もとの話題に戻ることといたしますが、その前にひとつだけお知らせを。

 本日深夜、乱歩が幽霊になって登場するドラマがテレビ朝日で放映されるそうです。四話完結の「拝み屋横丁顛末記」。オフィシャルサイトをごらんください。

 第三話「東子に異変! この幽霊、江戸川乱歩?」は本日深夜1時55分からの放送です。サイトの「あらすじ」を引いておきましょう。

何の変哲もない普通の商店街。しかし裏道を抜けると、霊を成仏させる「拝み屋横丁」がある。

正太郎(中尾明慶)、文世(うじきつよし)、三爺(二葉しげる・仲俊二・松木ぽん太)が横丁で暇を持て余していると、そこへ東子(和希沙也)の編集担当の小林(川村雅彦)が現れる。

小林「東子先生がおかしいんです」

小林によると、東子は締切を守るどころか作品を量産しているらしい。

一同「たしかに、おかしい…」

横丁の面々は東子の部屋へ。すると、部屋にいたのは、平井太郎と名乗る書生姿の幽霊(IZAM)だった!

文世「幽霊は夜店のミドリガメじゃないんですよ。そんな面白半分に連れて来て…」

三爺「元のところに返してくるんじゃ」

東子「嫌だ! こんなお宝渡すもんですか!」

正太郎「え、お宝…?」

東子「…この人、江戸川乱歩なのよ」

一同、あっけにとられて…!

 登場人物のひとりが女流ミステリ作家という設定なんですから驚くにはあたらないのかもしれませんが、それにしてもテレビドラマで、

 「この人、江戸川乱歩なのよ」

 というせりふが通用してしまうのは凄いと思います。これがたとえば、

 「この人、丹羽文雄なのよ」

 なんてことであってはドラマが停滞してしまう。まず、

 「丹羽文雄って誰よ」

 という返しがあって、せりふのやりとりで丹羽文雄のことを説明する必要が生じてくるはずなのですが、

 「この人、江戸川乱歩なのよ」

 ということなのであればこれはもう、一同あっけにとられたあとですんなりと次の展開に進めます。そうなるかどうかは実際に見てみなければわかりませんが、あいにくなことにこのドラマ、当地では放送されないみたいです。どなたか心ある方はお手数ながら録画しておいていただけませんでしょうか。

 ちなみに東子というミステリ作家に扮するのは和希沙也ちゃんなのですが、私はオフィシャルサイトに掲載された写真を眺めていて自分にはいまだに和希沙也ちゃんと大久保麻梨子ちゃんの見分けがつかないようだということを発見してしまいました。まことに困ったものである。

 さて、そんなような次第でポピュラリティという一点においてはいまや漱石の塁を摩す勢いのわれらが乱歩なのですが(ほんとは漱石なんて軽く凌駕してるさと私は思うのですけれど、ここは謙虚にこう書いておこう)、この十六年間における乱歩をめぐる最大のトピックは何といっても乱歩邸の土地建物が蔵書ぐるみで立教大学に譲渡されたという一事でしょう。それでそのとき名張市は?

 12月13日付伝言でお知らせしましたそのとおり、前名張市長が「仮称・乱歩記念館建設」というプランをぶちあげたのは1997年1月のことでした。しかし話はこれだけ。何の動きもありませんでした。あとになって名張市役所で確認したところでは、

 「あの乱歩記念館構想を受けて動いた職員はひとりもいなかったのではないか」

 との答えが返ってきました。まあそんなようなことであろう。

 二年が経過して1999年。この年6月の豊島区定例会で区長が乱歩記念館の整備構想を明らかにしました。「広報としま」7月5日号には区長が定例会で行った所信表明の要旨が掲載されており、こんなくだりを見ることができます。

今回、西池袋の故江戸川乱歩の旧宅を活用した「記念館」の開設に向け、区としての取り組みを検討します。

 この「広報としま」も先日の資料整理中に出てきたものなのですが、豊島区が乱歩記念館建設に乗り出すらしい、豊島区の広報にそれが発表されたらしい、と聞き及びましたので私は豊島区役所の広報担当セクションに電話を入れ、かくかくしかじかとお願いして郵送していただいたのがこの1999年7月5日号でした。むろん図書館長にもこの広報を示し、前々年に乱歩記念館構想をぶちあげた前市長のもとにもこの情報が届くように手配はしたのですが、何の動きもありませんでした。

 しかし財政難を理由に豊島区は乱歩記念館建設を断念し、乱歩邸が立教大学に譲渡されることになったのは2001年11月のことでした。明ければ2002年。前名張市長は何をほざいたか。2002年1月付伝言から引きましょう。1月1日付伊和新聞に掲載されたインタビューの一部です。

 ──乱歩邸は残念な話になりましたね。

 市長 ちょっと豊島区(東京)が横暴すぎた。私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました。ところが、豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまったため手を引いた。ところが財政難で豊島区が断念。ご存じの結果となった。といって当市が11億円かけて邸宅まで買い、資料室も経営する訳にもいかずあきらめざるを得なかった。小分けして頂ければ有り難かったのですがね。

 大嘘ぶっこいてんじゃねーぞこのえふりごき、と私は思った(ちなみに「えふりごき」というのは当地の言葉ではありません。東北地方の言葉でしょう。あのあたり出身の女の子から私は昔こういわれたことがありました)。そして、この発言が虚偽であることを証明するのは容易である、とも思いました。「市教委を通して連絡を取っていました」というのが事実なのかそうではないのか、名張市教育委員会の教育長に確認すればすぐにわかるはずです。それで私は当時の教育長に質問の文書を提出しました。2002年1月付伝言から引いておきます。

 平素は市立図書館の運営に特段のご高配をたまわり、あらためてお礼を申しあげます。また昨年九月と十一月にはご多用のところお時間を頂戴し、まことにありがとうございました。重ねて謝意を表します。

 本年一月一日付の「伊和新聞」(第三二六四号)二面に掲載された名張市長のインタビュー記事に不可解な箇所がありますので、事実関係を貴職にお尋ね申しあげる次第です。
 関連箇所を引用いたします。

 ──乱歩邸は残念な話になりましたね。

 市長 ちょっと豊島区(東京)が横暴すぎた。私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました。ところが、豊島区が本宅や蔵書・調度品など貴重な資料を含め、まとめて11億円で購入するという条件を整えてしまったため手を引いた。ところが財政難で豊島区が断念。ご存じの結果となった。といって当市が11億円かけて邸宅まで買い、資料室も経営する訳にもいかずあきらめざるを得なかった。小分けして頂ければ有り難かったのですがね。

 ──それで今後は。

 市長 いろんな展示会などをするとき、立教大に資料をお借りするような交渉があろうかなと思っています。ただ、有り難いことに、慶応大学の推理小説クラブと言うか、ミステリークラブが毎年名張で研修会を開いており、そのOBたちが将来、自分たちの蔵書を全部名張へ寄付しようと意思統一されている。中には価値の高いものもあるでしょう。そういう中で、新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています。

 上記の市長のご発言には、豊島区の乱歩記念館構想に関して明らかな事実誤認が見られますが、それは別にして、「私は蔵だけ頂こうと、ひそかに平井先生(平井隆太郎・立教大名誉教授=江戸川乱歩の長男)と市教委を通して連絡を取っていました」という点、ならびに「新たな江戸川乱歩にちなんだミステリーの拠点を作りたいと思っています」という点の二点についてお尋ねいたします。

 まず、市長が市教委を通して平井隆太郎先生と連絡を取っていらっしゃったというのは、事実なのでしょうか。私は聞き及んでおりませんし、昨年十一月一日に貴職からお話をうかがった際にも、そうした事実は話題にのぼりませんでした。また十二月二日から四日まで上京して平井隆太郎先生にお会いしたときにも、北田藤太郎初代市長が乱歩記念館のことでご遺族に申し入れを行ったという事実は平井先生から教えていただきましたが、それ以降、名張市からは乱歩記念館あるいは乱歩邸の土蔵に関していっさい連絡がなかったとの由でした。市教委が平井先生と連絡を取っていたという事実は、果たして存在するのでしょうか。貴職ご就任以前のことかもわかりませんが、そうした事実があったのかどうか、ご確認のうえご教示いただきたく存じます。

 つづいてミステリーの拠点づくりの件ですが、市長のご発言にもありますとおり、市立図書館は慶応大学推理小説同好会OB会からご蔵書の寄贈をいただいております。しかし、それに基づいて市立図書館をミステリーの拠点にする計画は存在しません。市教委にはそうした構想が存在するのでしょうか。存在するのであればお示しいただきたいと思います。なお、ミステリーの拠点に関して附記しますと、中島河太郎先生が生前贈与された蔵書を基に平成十一年四月、ミステリー文学資料館(東京都豊島区池袋三−一−二、光文社ビル内)が開設されており、市長がどのようなプランをおもちかは存じませんが、ミステリー文学資料館と同様の施設を名張市につくる必要はないと考えます。

 以上二点、市立図書館嘱託として職務に携わるうえで、また今後、市立図書館が江戸川乱歩に関わる事業を進めるうえにおいても、きわめて重要な問題であると判断されますので、公務ご多忙のおりからまことに恐縮ではありますが、あえてお尋ねする次第です。ご回答をお待ちいたします。

  平成十四年一月五日

 結局は前市長が大嘘をついていたという事実を前教育長に証言していただくことができたのですが、えらく時間がかかってしまいました。そうこうしているうちに四年に一度の市長選挙に突入してしまい、前市長は残念ながら落選してしまわれましたので、前市長の虚偽を徹底的に追及してやろうという私のもくろみはうやむやのうちに終わってしまう結果となりました。

 なーんかばかなことばっかやってますけど。

  本日のアップデート

 ▼2005年1月

 一般質問

 「広報としま」とおなじ大型封筒からは名張市の広報紙も出てきました。この封筒は広報紙専用、と決めていたみたいです。すっかり忘れておりましたけど。

 2005年1月に発行された名張市議会の「市議会だより」に掲載された記事です。前年12月定例会の一般質問の要旨が報告されています。憤怒の形相で記録しておくことにいたしました。

無会派田郷誠之助

乱歩の世界の町づくり

 答弁 桝田医院寄贈活用

 「乱歩が生きた時代展」は充実した内容だった。これら資料の展示・陳列が、今後とも公開できる場が必要だ。乱歩の世界を演出できる町づくりを。

 「伊賀の蔵びらき」事業にあわせて市制50周年記念事業を実施、特に「名張の乱歩」の顕彰に重点をおいた。この顕彰事業を一過性に終わらせないためにも、今回好評だった、怪人二十面相による、名張観光の今後の広域発信を考える。また、乱歩生家のあった桝田医院からこの度、敷地と建物の寄贈を受けたので、この機会に乱歩記念館として活用するべく検討に入る。あわせて、乱歩の世界を演出できる町づくりに努める。

 質問にある「乱歩が生きた時代展」は2004年11月に「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の一環として開催されたイベントですが、あれはそもそも2003年1月に豊島区が開催した「江戸川乱歩展 蔵の中の幻影城」の展示品を拝借して催したものですから、「これら資料の展示・陳列が、今後とも公開できる場が必要だ」ということにはなりません。

 そんなことはともかく、この答弁をいまの段階で検証してみましょう。

 「今回好評だった、怪人二十面相による、名張観光の今後の広域発信を考える」

 考えた結果どうなったのか。この年7月には名張市議会議員の先生方が大挙して大阪に赴かれ、怪人二十面相のいでたちで名張市の観光PRに努めてくださったのですが、あの試みもあれっきりであったみたいです。PRの効果が全然なかった、ということでしょうか。とにかく広域発信はまったくできていないように見受けられます。

 「乱歩生家のあった桝田医院からこの度、敷地と建物の寄贈を受けたので、この機会に乱歩記念館として活用するべく検討に入る」

 いまだ検討中のようです。はたして乱歩記念館が必要なのか、ということをまず検討しなければならぬのではないか、と私などには思われる次第なのですが。

 「乱歩の世界を演出できる町づくりに努める」

 努めた形跡はいささかも見られません。いや、もしかしたらこれなんかが「乱歩の世界を演出できる町づくり」の一環であったのかな。

 いやいや、そんなあほな。いくらなんでもそんなあほなことが。

 以上、2004年12月定例会における理事者側答弁を簡単に検討してみましたが、いまにいたっても何ひとつ前進していることはない、といったところでしょうか。名張のまちをどうするとか、乱歩をどうするとか、そういった重要なテーマをコミュニティイベントのレベルで検討したってどうにもなりゃせんぞ実際。


 ■12月17日(日)
1991年からの十六年を振り返る 4 

 新宿の路上でポリ袋に入った切断死体が見つかった。こんなニュースに接しましたのでさっそく2ちゃんねるのニュース速報+板をのぞいてみました。と、きのうの午前11時39分16秒に「【社会】東京・新宿の路上にビニール袋入り首と手足の切断された男性遺体」というスレッドが立てられている。もしかしたら、とかすかな期待を抱きながらレスを順番に読んでゆく。

 案の定──

123 :名無しさん@七周年:2006/12/16(土) 11:54:11 ID:qZsRVk240

「蜘蛛男」キター

 こんなのがキテター。やっぱ乱歩のポピュラリティは圧倒的ではないか、とか不謹慎ながらも嬉しくなってしまったのですが、このスレではこんなレスも見つかりました。

24 :名無しさん@七周年:2006/12/16(土) 11:42:04 ID:lEcUlGbe0

金田一さん、事件ですよ!

 蜘蛛男より先に金田一さんが登場しておったわけです。ちょうど市川崑監督のリメイク版「犬神家の一族」が封切られた日ですから無理もないか。

 いっぽうこちら朝日新聞のオフィシャルサイト。これもリメイク版犬神家がらみか、「金田一耕助と鬼頭早苗─岡山・笠岡」という記事が掲載されておりました。

 乱歩の名前も出てきます。

 シャーロック・ホームズとエルキュール・ポワロは、独身で恋愛の形跡に乏しい。ホームズの作者コナン・ドイルがある俳優に「ホームズに恋をさせてくれ」と頼まれて困った、という話を江戸川乱歩が「魔術師」で書いている。その乱歩による明智小五郎が金田一に人気で及ばないのは、助手の文代と結婚したことも一因ではないか。

 あちゃー。明智小五郎は金田一耕助に人気で及ばんのか。うーむ。反省しなければ。

 とはいえ何を反省しなければならんのか、そのあたりがどうもよくわかりません。もとの話題に戻りましょう。

 四年に一度の名張市長選挙を目前に控えた2002年の4月1日、乱歩邸は立教大学の管理下に入りました。やれやれ、と思った乱歩ファンはさぞ多かったことでしょう。著書や蔵書をはじめとした乱歩の遺産が散逸してしまうおそれがなくなったからです。

 2002年は乱歩がいわゆるふるさと発見を果たしてから五十周年という節目の年でした。ですからそれを記念して旭堂南湖さんの探偵講談を池袋で公演したりなんやかんや、そういえば平井隆太郎先生の前で南湖さんに「魔術師」のさわりを演じていただいたのは乱歩邸の立教大学への移管を目前に控えたこの年3月のことであったと記憶しますが、それからまた2002年度は『江戸川乱歩著書目録』が予算化された年でもありましたからその編纂作業も忙しく、さらにそういえば成田山書道美術館で小酒井不木宛の乱歩書簡が展示され、日ごろお世話になっているみなさんと会場に足を運んで書簡全点に眼を通した私は、これはなんとか公刊しなければならんな、しかし商業出版社の食指は動かぬことであろうから、やっぱ公共事業か、名張市民の税金で書簡集を出すしかないか、と決意したところがその直後に名張市が財政非常事態を宣言、こうなると公費で書簡集なんて話はとても無理かと落胆したりなんやかんや、こうして振り返ると2002年という年には私の頭のなかで乱歩関連プロジェクトがあれもこれもと同時進行していたわけです。よくできたものだ。

 明けて2003年。名張市においてまたも乱歩記念館の話が鎌首をもたげました。今度の火元は名張商工会議所で、新町の細川邸を乱歩生誕記念館にしたいのだが、ついては、との相談が私のもとにもちこまれました。名張商工会議所がなばり OLD TOWN 構想なるものをまとめていた最中のことで、私は関係者にそんなことはするべきではありませんと縷々説明、その甲斐あってなばり OLD TOWN 構想から乱歩生誕記念館というコンテンツを削除していただくことを得ました。

 2003年10月付伝言からなばり OLD TOWN 構想関係者の方にお出しした手紙の内容を転載しておきます。

 前文略させていただきます。

 過日はお忙しいところ「なばり OLD TOWN」構想についてご説明をいただき、ありがとうございました。あの席でも申しあげましたとおり、構想のなかの乱歩生誕記念館プランに関しては当方からお話しすべきことが少なからずあると判断されますので、僭越ながら構想を協議する場にぜひ一度お招きいただきたく、また構想の新聞発表は当分のあいだ見合わせていただきますよう、あらためてお願い申しあげます。

 本日は、お招きいただいた協議の場でお話し申しあげようと思っていることを取り急ぎ文書でお伝えするため、書状をお送り申しあげる次第です。

 結論から申しあげますと、この乱歩生誕記念館プランには残念ながら賛成いたしかねます。もしもプランがこのまま公表され、実施に移されるとしても、プランへの協力はいっさいいたしかねますので、その旨ご承知おきいただきたいと存じます。

 八月二十一日に名張市立図書館へおいでいただいたおり、乱歩の遺産を継承した立教大学が旧乱歩邸土蔵を改修し、立教学院創立百三十周年にあたる来年、乱歩資料館(仮称)として公開する見込みになっていることはお話し申しあげましたし、それとは関係なく、名張市に乱歩記念館に類する施設を建設することの愚もご説明申しあげたはずです。名張旧町地区に乱歩をテーマとした記念館を建設したところで、それが観光あるいは集客の核施設には決してなり得ないということも、他都市の事例を挙げてお知らせ申しあげたはずです。

 「なばり OLD TOWN」構想そのものについて私見を差し挟むことは控えますが、これも図書館でお話しいたしましたとおり、名張旧町地区を再生するための最大のテーマは「生活」であると私は思っております。名もない人々があの狭いまちで喜怒哀楽とともに重ねてきた生活と、それが集積された結果である豊かな歴史と文化を再確認することなしに、旧町地区が再生することはあり得ません。旧町地区の再生は、何よりも生活の場としての再生であるべきだと愚考いたします。過去から現在を経て未来につづく「生活」を視野に入れることなく、単に施設や店舗を整備するだけの表面的な処方を施したところで、旧町地区の再生はおぼつかないのではないでしょうか。

 乱歩の話題に戻りますと、やはり図書館で申しあげたことですが、乱歩は名張旧町地区で生まれた人間のひとりであるというに過ぎません。旧町地区再生を図るうえで得がたい要素とはなり得ますが、あくまでも副次的な要素に過ぎないということをご理解いただきたいと思います。乱歩をテーマにした施設を整備して旧町を再生するのではなく、旧町全体を生活の場として再生させるためのひとつの要素として、乱歩という作家を利用していただくようお願いしておきます。この点、図書館でみなさんのご了解をいただけたものと思っていたのですが、説明が至らなかったのかもしれません。あらためてお願い申しあげておきます。

 「なばり OLD TOWN」構想に描かれた乱歩生誕記念館について申しますと、いったい何を展示するのか、将来にわたってどのように運営されるのか、もっとも肝要な施設の基本がまったく検討されていないように推測されます。施設さえつくってしまえば内容や運営はどうにでもなるとお考えでしたら、それは大きな間違いです。あまりにも無責任な話です。乱歩の名を冠した展示施設が、単なる思いつきに基づいてたいした予算をかけることもなく完成し、運営に意を用いることもなくろくに入場者もないまま存続するとなれば、天国の乱歩にも全国の乱歩ファンにも名張市の市民に対しても、何の申し開きもできない事態に立ち至るものと予想されます。

 失礼なことを申しあげてしまえば、みなさんは乱歩作品をお読みになったことがなく、乱歩がどういう作家であったかもご存じない方々です。そういう人間が乱歩に関して喋々し、乱歩の名前を利用しようとすることのおこがましさについて、私はひとことも申しあげておりません。みなさんに広い視野と高い見識があれば、乱歩に関する知識の欠落はいくらでも補うことができるからです。しかし、無礼を承知で敢えて申しあげますと、この乱歩生誕記念館プランからはみなさんの視野や見識をうかがうことができません。

 みなさんが名張旧町地区再生のために乱歩という作家を有効に利用してくださるのであれば、私は協力を惜しむものではありません。お役に立てることを嬉しく思います。ですから私は、ご自宅にお邪魔したおり、名張旧町地区にかつてたしかに存在した生活を現代に再現する手だてとして、乱歩生家を復元して公開することを提案した次第です。乱歩生誕記念館などという陳腐なプランは、乱歩のことなど何ひとつ知ることなく、名張旧町地区への愛着も持ち合わせていない人間が考え出したものに相違ないと思われますが、そんなプランと乱歩生家の復元とを一緒にしていただいては困ります。

 くわしいことはまた、みなさんお集まりの協議の場であらためて申しあげたいと思います。僭越なことをお願いして恐縮ですが、私にも自分が生まれた名張旧町地区への愛着はあり、そこに集積された歴史と文化も人並みには理解しているつもりでおります。再生のための協力を惜しむものではないことを、重ねてお約束申しあげる次第です。ご高配をたまわりますよう、よろしくお願い申しあげます。

草々

  二〇〇三年十月八日

 驚くべきことに、これはこのまま名張まちなか再生プラン関係者への進言としても有効です。私という人間はほんとにばかみたいにおなじことしかいってないわけなのですけれど、それはむこうだっておなじことでしょう。なばり OLD TOWN 構想であれ名張まちなか再生プランであれ、細川邸をなんとか活用したいのだがうまい方法が見つからぬという堂々めぐり。乱歩生誕記念館がいいとか歴史資料館がいいとか初瀬街道ものがたり交流館がいいとかいろいろ思いつきはするものの、思いつきだけにすぐうたかたと消えてしまう。

 いやいや、初瀬街道ものがたり交流館の構想がうたかたと消えてしまったのかどうかはよくわからないのですけれど、細川邸の活用策はいまだ決定されていないと見るしかないでしょう。これは12月11日付伝言にも記したことですが、2004年6月の第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会から数えればもう二年半、二年半もかけてまーだ決定にいたらないというのであればこれは明らかに異常事態であるというしかありません。いいおとなが寄ってたかっていったい何をしておったのか。この失われた二年半をどうしてくれるのよ。

 2003年10月付伝言からなばり OLD TOWN 構想関係者宛の書簡をもう一通引いておきます。

 前文略。先日はありがとうございました。いつもお邪魔してばかりのうえに、おみやげまでいただいて恐縮しております。

 さっそくですが、お申しつけの施設名の件、「名張の町家(まちや)」ではいかがでしょうか。今回のプランの基本は、名張に残る旧家の文化財的な価値を認め、それを保存することにあると思われますので、施設名にもそうした価値判断を反映させることが必要であると愚考いたします。ただし、資料館や展示館といった堅苦しい名称は避け、市民にも観光客にも親しんでもらえる名前を採用するべきだと考えます。

 もうひとつ、施設名に乱歩、歴史、文化、民俗といった言葉を使用して施設内容を限定してしまうのは、このプランに限っていえば得策ではありません。「名張の町家」と命名することで、施設運営の自由さが保証されるのではないでしょうか。

 また、施設内で飲食ができるかどうかは、人を集める大きなポイントになると判断されますので、開設当初から名張の「食」を提供する態勢が整っていることが望ましいと思われます。

 なお、インターネットで「町家」を検索すると、町家の利用や再生などさまざまな事例を知ることができます。一度ご覧になることをお勧めいたします。

 取り急ぎ用件のみ記しました。今後ともよろしくお願いいたします。

草々

  二〇〇三年十月十五日

 あまり踏み込んだことは記しておりませんけれど、細川邸の活用策というのであればこんなところでいいのではないかと私は考えておりました。かっこつける必要なんかまったくない。乱歩だ歴史だ文化だ民俗だとラベリングを先行させてかっこつけようとするのは得策ではありません。そんなことしたら一発でつまずいてしまいます(げんに名張まちなか再生プランがそうだったわけですが)。だから「名張の町家」というなんだか曖昧な、といってしまうと聞こえが悪いですからフレキシブルなといいかえておきますが、フレキシブルでもっと身近な、生活に密着した施設にするのが肝要である。それでもって資料だ展示だ陳列だとかっこつけることは考えず、人を集めようと思ったら手っ取り早く「食」ですがな、と私は提案しておったわけです。

 そしてとにかく重要なのはスピードである。歴史がどうの交流がこうのとばかがうわっつらのかっこつけてる暇なんかどこにもないのだ。ていうか、なかったのだ。ところがばかというのはまったくばかなもので、掲示板「人外境だより」から引いてみますと──

新 怪人二十面相   2005年 8月 3日(水) 11時18分  [219.106.181.254]

名張市市議会議員諸氏へ
歴史や文化はこの域でないと語るなと
見受けられるような主、
又 筆の力で他人様を平然と傷つけられるこころの主、
さらに、いささか古い話ではあるが
天王寺のカラオケの如き精神の主の話など
いらぬことで、それよりもササヤカニ生きている
一般庶民を助けてあげ給え。

新 怪人二十面相

 2005年の8月といえば、6月26日に名張まちなか再生委員会が発足してから一か月あまり。名張まちなか再生プランに盛り込まれた歴史資料館構想なんて実現できるわけがない、と委員会メンバーもようやく気がついたころだったでしょうか。歴史のれの字にも文化のぶの字にも縁のないうすらばかが歴史や文化に拘泥したあげく自縄自縛におちいって、自分たちは歴史や文化を語れる「域」にはございませんと正直に打ち明けたのがこの投稿です。

 そしていたずらに時間だけが経過していったのである。

 ばーか。

  本日のアップデート

 ▼1999年12月

 表紙の写真

 これも資料整理中に見つかりました。以前ちょっとした必要があって探したときにはお約束のように出てこなかったものでしたが。

 私はそのあたりの事情にはまるで暗いのですが、国際的な組織であるロータリークラブの大きな大会が名張市で開催されたとき発行された月刊の広報誌、とでも紹介すればいいのか、「1999−2000年度ガバナー月信」に掲載されました。表紙がこれです。

 最終ページに「表紙の写真」というコーナーがあって、表紙の写真は名張市立図書館の乱歩コーナーに展示された乱歩の遺品である、みたいなことが記されているのですが、乱歩のことはこんなふうに説かれています。

 昔、忍者。今、探偵。DNA の関係は定かでないが、我が国に探偵小説の分野を確立した江戸川乱歩は、忍者のふるさと伊賀・名張の出生である。

 本名、平井太郎。1894年(M27)10月21日、三重県名張市(当時町)新町193で、繁男の長男として生まれた。父は郡役所の書記で27歳、母きくは18歳であった。

 余談ながら、こうした広報誌に乱歩のことがとりあげられていることから判断いたしますに、名張ロータリークラブもまた乱歩という作家は名張のまちのアイデンティティの拠りどころになりうるとお考えのようです。

 それでこの引用で何が重要なのかといいますと、「新町193」という地番まで記されている点です。さすがの乱歩も自分の生家が新町の何番地にあったのかまでは知りませんでしたし、私も知りませんでした。

 この広報誌が出たとき、ロータリークラブ関係者の方にこの番地の根拠は何ですかと尋ねてみましたところ、当時の教育委員長だった辻敬治さんに調べていただいたとのことでした。

 それなら確実だろうと思い、何かのときにはこの広報誌を見れば乱歩生家の番地がわかるということはおぼえていたのですが、いざ探すとなると出てこない。お約束のように出てこない。

 やはりたまには資料整理をしておくことが必要なようです。


 ■12月18日(月)
1991年からの十六年を振り返る 5 

 名張商工会議所のなばり OLD TOWN 構想はさてどうなったのか。どうにもなりませんでした。発表はされたのですが、具体的な動きは何もありませんでした。よくあることです。

 ちなみにこの構想のネーミング、old ってのはどうよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。たしかにあまりぱっといたしませんけれど、ここには新しいものだけをよしとしてきた価値観からの脱皮を図ろうとする意図がかいま見える、というふうに理解しておくべきでしょう。無価値なものとされてきた名張のまちの古さにこそ着目すべきである、みたいな。だから old よりは mature のほうがふさわしいのかもしれません。アメリカあたりのアダルト系サイトで mature nude などとカテゴライズされることがあるあの mature です。

 きのう転載した書簡にも記してありましたとおり私はこの構想に対して、乱歩生誕記念館はつくっちゃだめ、乱歩がらみで何かをつくるのであれば生家を復元するべき、細川邸に歴史だなんだとごたいそうな看板を掲げるのは禁物、「名張の町家」という名前にしてとりあえず食べものを提供しながらフレキシブルにつかいまわしてみれば? みたいな提案をしたわけなのですが、細川邸にかんする提言は容れられなかったと記憶します。

 私は構想の関係者に対して書簡のみならず口頭でも、名張のまちという面を基準にして考えることが必要であり、細川邸という点だけでなくほかの空き家や空き店舗も順次活用してゆくべきであるとか、教育委員会に働きかけて市内各地の小学生が名張のまちに足を運ぶ機会を設けるべきであるとか、いまとなってはあまり思い出せないのですけれどいろいろと提言はいたしました。いずれもうたかたと消えてしまったわけですけど。

 ところで私はたったいま、「mature な町家」という語呂あわせを思いついてひとりで受けてしまったのですが、たいして面白くもありませんですかそうですか。

 しかし煎じつめればたった一軒の mature な町家、これが諸悪の根源なわけなのであって、一軒の町家を活用すれば名張のまちが再生できるという勘違いに端を発したこのどたばた騒ぎはいったいどうよ。やれなんとか構想だほれかんとかプランだと大風呂敷をひろげまくったあげくがこのざまである。なばり OLD TOWN 構想も名張まちなか再生プランもただの町家を再利用するにあたって歴史がどうの資料がこうのと大上段に構えていたのがちゃんちゃらおかしい。ばか特有の思考パターンである。歴史のれの字も知らぬうすらばかが歴史に拘泥したあげく自縄自縛におちいって、しまいにゃ逆ギレしてこんなことをほざくにいたるわけなのである。

怪人19面相   2005年 8月 4日(木) 0時23分  [220.215.2.92]

猟奇作家ファンの方々には、はたまたSM小説をこよいなく愛される諸兄もよくお聞きください。中さんに忠告です。私はアナタにキチガイ呼ばわりされた一人です
まずあなたにその非礼に対する謝罪を求めます。
差別発言により個人を中傷し侮辱した貴様を絶対許しません。法的処置も辞しません、サイバーテロリストの貴様に屈することは致しませんので覚悟の程よろしくお願いいたしましてまずは、挨拶とさせていただきます。
また幼稚な書き込みとか云々申されてるお方様、中氏の言動行動をわかられて申されているのでしょうか?議員を冒涜し個人を誹謗し差別し、自らを肯定するためならば手段を選ばない彼の行動は異常なのですよ!いっときますがその書き込みは私ではございませんので誤解なされぬように。
不快な思いをしているのは私たちなのですよ、今まで黙っていましたが、新怪人20面相なる方の書き込みを見て黙っていられなくなりました。
馬鹿はほっとくつもりで見過ごしていましたがもう我慢なりません、、、、、、
『覚悟を決めて貴様を糾弾してやるので首を洗って待っていろ。自慰野郎』

 じつに不憫なものである。どうしたうすらばか。覚悟を決めて糾弾してみろばーか。

 そして翌年、ということは2004年。いうまでもなく「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の年です。やれやれ。ほんとにやれやれ。うすらばかがあっちこっちから大量発生しやがってまあ。

 そうだったであろうがばーか。

  本日のフラグメント

 ▼2004年

 乱歩・横光・観阿弥〜あやしの世界〜

 資料を整理していたらこんなものまで出てきました。A4サイズの用紙十三枚をたばねて綴じた文書です。

 いわゆる企画書ってやつですか。むろん「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のものです。面白いからフラグメントとしてひろっておきます。

 この文書によりますと、あの事業では当初、伊賀地域にゆかりがある乱歩、横光、観阿弥の三人をまとめてとりあげることになっていたみたいです。

 事業テーマは、

 ──秘蔵の文学を「知る・感じる・広げる」

 事業目的は、

 ──乱歩・横光・観阿弥をランドマークとした伊賀の地域活性化と全国への情報発信を目的とする。

 それでもってまあじつにいろいろなプランが列挙されてはいるのですが、ほとんどすべてがうたかたと消え、実際に乱歩関連事業として実施されたのは、この企画書にはあげられていなかった『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の刊行と、この企画書で「乱歩モダンミュージアム」とされているのがその原型とおぼしい「乱歩が生きた時代展」の開催くらいなものだったでしょうか。あともうひとつ、「乱歩・横光を『能』で舞う」という企画が新作狂言「押絵と旅する男」の上演につながったのかな。

 企画内容の検討は2002年にはじまっておりますが、なんとか委員会たらいうものによる検討たらいうものはしょせんは時間と経費の無駄づかいにすぎない、という事実がこの企画書によっても如実に証明されているというしかないでしょう。じつに首尾一貫した話です。

 「乱歩関連」と題された文章から引用してみましょう。

 江戸川乱歩は芭蕉、観阿弥と並ぶ伊賀の大きな地域資源の一つです。乱歩は日本に推理小説という新しい小説のジャンルを切り開き、今も多くの読者にその作品は読み継がれています。しかし、そんな乱歩について、この地域からその全体像を把握し、全国に発信できるような事業をしたことがあったでしょうか。この地域に住む我々自身に、平素乱歩に対する意識・関心が薄いように思われます。

 又、乱歩が活躍した大正末期から昭和三十年代の時代は、現代日本の原風景の時代、現代人が忘れかけようとしているロマンの時代でもあります。今、全てがデジタル化された時代であるからこそ、人間の心の中になつかしいもの、アナログライクなものを求める心理があり、それは乱歩の世界とも妙に合致するものです。又、乱歩の人と作品は勿論、彼の趣味や興味の多面性、多様性、マニアックさは、現代人にも通ずる多くの要素を持ち合わせています。そのモダニズム(西洋指向)は、若い世代の人々にも共感を得ることができるものと思われます。正に「秘蔵のくに」伊賀を象徴するような人物が、この江戸川乱歩なのです。

 見事なまでの大風呂敷シンドロームではありますけれど、三重県がこの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という愚劣な事業で税金を気前よくどぶに捨ててくれたそのおかげで、名張市の財政非常事態宣言によって一時は目の前が真っ暗になっていた私も無事に『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の予算を手にすることができたわけなんですから、その点にかんしては事業関係者のみなさんにお礼を申しあげておきましょうか。


 ■12月19日(火)
1991年からの十六年を振り返る 6 

 2004年の5月から11月まで、えんえん半年の長きにわたって三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がくりひろげられました。1991年からの十六年間を振り返った場合、乱歩生誕百年にして名張市制施行四十周年の年であった1994年をも軽くしのいで、この2004年こそは名張市において乱歩の名前がもっとも大きく喧伝された年であったということができるでしょう。聞くところによればこの年、名張市は怪人二十面相の衣装をなんと二十着もどーんとお誂え。

 あ。頭が痛くなってきた。血税三億円をきれいにどぶに捨てたあの事業のことは思い出すだけであほらしさのあまり頭が痛くなってくるようなので、先日来たらたらと進めている資料整理の経過報告とまいります。

 コピーのたぐいが異常に多くてやんなってるところなのですが、そうこういいながらも乱歩の手になる随筆や評論のたぐいはほぼ整理することができました。つまり大正14年の「前田河広一郎氏に」から昭和54年の「カー問答」(むろん再録)まで、国立国会図書館のコピーサービスを利用したりあちらこちらでコピーしてきたり、それからまたいろんな方から頂戴したものも含めて手許にあった新聞や雑誌や書籍のコピーをすべてキングクリアファイル差し替え式にファイリングしました。ファイルは全六冊。

 コピーのなかには『江戸川乱歩執筆年譜』を刊行した時点では不明だった初出誌紙もあります。たとえば昭和5年、乱歩は野村胡堂が報知新聞に連載していた「身代わり紋三」の推薦文を発表しています。しかし刊本『江戸川乱歩執筆年譜』の段階では初出が判明しておりませんでした。

 乱歩自身はこの短い文章のことを記録しておらず、私は新保博久さんと山前譲さんの編による『江戸川乱歩 日本探偵小説事典』でこの推薦文のことを知ったのですが、同書でも初出データは、

 ──『日曜報知』昭和五年

 とあるだけでした。

 『江戸川乱歩執筆年譜』編纂中に山前譲さんにお訊きしたところでは、掲載紙はどうも日曜報知ではないらしいとのことだったのですが、しかしそれ以上のことはわからない。それならやはり報知新聞か、と思って刊本『江戸川乱歩執筆年譜』でも当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」でも、昭和5年の「不明」の項にこんなふうに記載しておくしか手はなかった。

本当の面白さ──「身代り紋三」のこと
報知新聞

 この初出が判明しました。えらいことです。普通ならありえないことなのですが、こういうデータを調べあげてコピーをお送りくださった方がいらっしゃるわけです。それももう結構以前のことであったというのに、いまごろになってえらいことです、などと書きつけている私はなんと怠惰な愚か者であることか。

 そんなことはともかくとしてこの「本当の面白さ」、初出は昭和5年10月23日に出た「東京通信」百八十三号で、発行所は東京本郷の大日本雄弁会講談社。「東京通信」というのはいまでいう PR 誌のようなものらしく、昭和5年といえば野間清治が報知新聞を買収した年ですから、野間清治ひきいる大日本雄弁会講談社が報知新聞のことを PR していてもまったく不思議ではありません。

 そしてもうひとつ、この号には甲賀三郎の「江戸川乱歩の『吸血鬼』」という推薦文も掲載されていました。「吸血鬼」もやはり報知新聞に連載された作品で、この文章は平凡社版乱歩全集第十二巻の「批評集(その十二)」に収められているのですが、その末尾には、

 ──(昭和六年度『日曜報知』より)

 と記されているだけです。冒頭はこんな感じ。

 ──涙香以来三十年の長い間、我々が待ち焦れてゐた素晴らしい探偵小説が、たうとう報知新聞によつて出現した。

 「吸血鬼」の連載開始は昭和5年9月のことですから、この手のいわゆる提灯記事は連載がはじまってまもなく発表されたはずなのだがとは思いつつ、初出がつきとめられませんでしたので刊本『乱歩文献データブック』には昭和6年の「不明」の項に記載しておくしかありませんでした。

 その後、講談社の資料室にもぐりこませてもらって雑誌の調査をしていたとき、「講談倶楽部」昭和5年12月号にこの文章が再録されていることを発見しました。そこで当サイト「乱歩文献データブック」では刊本の記載を改め、昭和5年の「不明」の項にこんなぐあいに配してありました。

『吸血鬼』 甲賀三郎
日曜報知
講談倶楽部12月号「報知新聞に現れた傑作『吸血鬼』を読む」(抜粋)−1930/『江戸川乱歩全集12』「『吸血鬼』」平凡社−1932

 しかしいまや初出データが明らかになりましたので、遅ればせながら「江戸川乱歩執筆年譜」の昭和5年10月にはこんなふうに記すことを得ました。

本当の面白さ──「身代り紋三」のこと
東京通信183号 23日

 そして「乱歩文献データブック」の同年同月にはこんなあんばいに。

江戸川乱歩の『吸血鬼』 甲賀三郎
東京通信183号 23日
講談倶楽部12月号「報知新聞に現れた傑作『吸血鬼』を読む」(抜粋)−1930/『江戸川乱歩全集12』「『吸血鬼』」平凡社−1932

 いやーすっきりした。とても気持ちがいい。こういったデータが判明すると私はほとんど快感にうち顫えてしまうのですが、それにしてはコピーを頂戴してからサイトに記載するまでの長きにわたる空白はいったいどうよとわれながら思います。思うのではありますけれど、しかし世の中というやつはいろいろあってなかなかあれなのでありますから、ご教示をたまわった方にあらためてお礼を申しあげますとともに、記載遅延の段はなにとぞご寛恕たまわりますよう願いあげます。

  本日のアップデート

 ▼1932年8月

 怪映画事件 江戸川乱歩

 これもまたコピーを頂戴いたしました。昭和7年8月5日発行の「面白誌」に掲載されています。表紙の絵は田河水泡が描いていて、やはり大日本雄弁会講談社が出した PR 誌のようなもののようです。

 なかに「講談倶楽部」9月特大号の広告ページがあり、そこに乱歩が森下雨村の「呪の仮面」の推薦文を寄せています。私は「呪の仮面」を読んだことがないのですが、このページに記された惹句によれば、

 ──謎の紳士、怪映画、令嬢と快青年を捲き込んで大事件続々起る!

 そして乱歩の推薦文、といってもほんとに乱歩が書いたのかどうかはわかりませんが、ともあれ引用してみましょう。

 江戸川乱歩氏曰く──

 森下雨村氏は人も知る如く、日本の探偵小説壇を作り上げた私達の先輩だ。その雨村氏が半生の蘊蓄を傾けて、探偵小説を書始めたのだ。面白くなければ嘘である。

 森下雨村は前年12月に博文館を退社しており、昭和7年は作家専業になったいわば仕切り直しの年。乱歩は「講談倶楽部」9月特大号にも「呪の仮面」の推薦文「雨村氏登場」を寄せているのですが、この「怪映画事件」もまた雨村にエールを送るべく乱歩みずから筆をとったものだと私は思いたい。


 ■12月20日(水)
1991年からの十六年を振り返る 7 

 伊賀地域を舞台に三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が展開された2004年の6月、第一回名張地区既成市街地再生計画策定委員会が開かれ、名張まちなか再生プランの検討がはじまりました。それ以来きょうまでの二年半は、まさしく失われた二年半と呼ぶしかない不毛の二年半でした。二年半です二年半。二年半もかかってまともにものが決められないというのはただごとではありません。程度が悪いにもほどがある。

 ここできのうのつづきに入りますが、刊本『江戸川乱歩執筆年譜』の段階では発行日を確定できておらず、のちに初出誌のコピーを頂戴して初出データが明らかになった随筆があと二点ありました。

 ひとつは昭和11年11月のこれ。

ビイ玉
トップ ?日

 もうひとつが昭和26年1月のこれ。

活弁志願記
人世1月号 ?日

 ご教示のおかげをもちまして、それぞれ次のとおり確定することができました。

ビイ玉
とっぷ11月号(10号)1日

 「とっぷ」の発行所は、「とっぷ」発行所、となっています。

活弁志願記
人世1月号(20号)4日

 「人世」の発行所は文芸会館人世坐。発行者はおなじみ三角寛です。

 三角寛といえば少し前、先々月10月のことですが、『サンカの真実 三角寛の虚構』という文春新書が出ました。著者の筒井功さんによれば、三角寛によって提示されたサンカ像はほんのわずかな取材にもとづいただけの「捏造」であり「虚構」であり「虚妄」であり、「きっちりと否定しておく」べきインチキだったということになります。

 インチキという言葉で思い出しました。名張まちなか再生プランの話題に戻りましょう。プランの策定がはじまったのは2004年6月。おなじ年の11月に乱歩生誕地碑の建つ桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されました。翌2005年1月、名張まちなか再生プランの素案がまとめられ、新聞報道によって私はそれを知りました。2月、名張市議会重要施策調査特別委員会が開かれました。議案のひとつに「名張地区既成市街地再生計画『名張まちなか再生プラン』(案)について」があげられていると名張市のオフィシャルサイトで告知されておりましたので、私はその委員会を傍聴しました。

 意外だったのは、桝田医院第二病棟の活用策がプランにまったく記されていないことでした。私はそれを知りたくて委員会を傍聴したのですから、なんじゃこりゃ、と思わざるをえませんでした。そのかわり、というのもおかしな話ですが、プランには細川邸を歴史資料館として整備するというインチキが盛り込まれていました。わざわざ施設を整備して展示しなければならぬ歴史資料などどこにもないというのにいったい何を考えておるのか、と私はあきれ、しかもその歴史資料館では「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示する」とありましたから、おいおいおまえらいい加減にせんかとも思いました。

 そして2005年3月、私は名張まちなか再生プランに対するパブリックコメントを提出しました。

 コメントの主旨は、細川邸は名張市立図書館ミステリ分室にする、桝田医院第二病棟には乱歩の生家を復元する、というものでした。細川邸の活用にかんして、私はそれまでの考えを改めることにしました。それまでの考えというのは2003年に名張商工会議所がなばり OLD TOWN 構想をまとめたときに提案したもので、12月18日付伝言にも記しましたとおり、

 ──細川邸に歴史だなんだとごたいそうな看板を掲げるのは禁物、「名張の町家」という名前にしてとりあえず食べものを提供しながらフレキシブルにつかいまわしてみれば?

 といったことです。ごちゃごちゃ考える必要はありません。細川邸をどうすればいいか、なんてのはものの五分もあれば結論が出るテーマです。必要なことを調べたり細部を肉づけしたり、そんなことにいくら時間がかかったとしても二日か三日、よほど余裕を見ることにしても一週間もあれば充分のはずです。一週間で決められることを二年半かかってまだ決められないとはいったいどういうことなのか。

 そんなことはともかく、私は細川邸を「名張の町家」という名称の施設として柔軟に活用すべきだと提言しておりました。なばり OLD TOWN 構想の関係者、ありていにいってしまえば名張商工会議所の会頭ですが、私は会頭さんに名張の町家には市立図書館に展示している乱歩の遺品や著書を移管するべきだろうとも提案しました。乱歩関連アイテムは乱歩が生まれた新町に展示されているのが自然ですし、細川邸には蔵があるとのことでしたからそれを利用すれば面白い展示が可能ではないかとも考えた次第です。そして名張市立図書館の乱歩コーナーは閉鎖してしまう。市立図書館は乱歩の看板をおろしてしまう。それがベストの選択だろうと考えていたわけです。

 12月13日付伝言にも記したことですが、乱歩にかんして何をすればいいのかわからない、と図書館がいうから私は具体的な方向性を示してやった。それは江戸川乱歩リファレンスブック全三巻(追加一巻鋭意編纂中、ただしモチベーション低下中)を見れば一目瞭然であろう。しかし名張市にはリファレンスブック三巻のデータをインターネット上に公開することさえできないのである。そんなばかな話はあるまいと私には思われるのですが、財政難だから予算がつかないといわれてしまえばしかたがありません。ただしそれならとっとと手を引いてしまえ。収集資料にもとづいて質の高いサービスを提供するという図書館本来の任務が果たせないというのであれば、名張市立図書館は乱歩のことから手を引いてしまえばいいのである。なまじ乱歩コーナーなどというものを開設しているから話がややこしくなる。何もやる気がないのなら乱歩コーナーなんか畳んでしまい、遺品や著書のたぐいは新町の細川邸をリフォームした名張の町家に展示すればいいではないか。そしてその横に乱歩の生家を復元すればよかろう。それならば図書館が収集資料にもとづいて質の高いサービスを提供する必要なんていっさいなくなる。楽ではないか。万々歳ではないか。

 それが2003年という時点での私の考えでした。しかし2004年になって桝田医院第二病棟が名張市に寄贈されましたので、私は考えを改めました。先述のとおり、細川邸は名張市立図書館ミステリ分室にする、桝田医院第二病棟には乱歩の生家を復元する、というプランに変更しました。それを2005年3月にパブリックコメントとして提出したのですが、名張まちなか再生プランは名張地区既成市街地再生計画策定委員会がまとめた素案のまま正式に決定されてしまいました。

 それにしてもあの名張まちなか再生プランというインチキはいったい何だったのであろうか。細川邸を歴史資料館にしろなどというインチキはむろんプランを策定した連中がばかだからこそ出てきたものであり、より具体的にいえばそこらのばかがばかでないふりをしようとして歴史という言葉をもてあそんだ結果あんなインチキが生まれたわけなのであるけれど、そんなインチキをそのまま鵜呑みにしてしまった名張市も名張市である。しかも天下無敵の責任回避体質がなせるところとはいえ、そこらのうすらばか集めた委員会をふたつもつくって話をすっかり複雑にしてしまい、いっぽうの委員会が策定したプランをもういっぽうの委員会が頭から無視して初瀬ものがたり交流館だ乱歩文学館だミステリー文庫だと市民のコンセンサスなどおかまいなしにただの思いつきで勝手千万なことを口走る。

 その結果いまではどうにも収拾がつかぬありさまではないか。

 いい加減にしておけ。

 もういい加減にしておけ。

 不勉強無教養不見識無責任な官民双方のうすらばかどもがインチキかまして税金どぶに捨てるのはいい加減にしておけというのだ。

 しまいにゃ怒るぞ。

 以上、ふるさと振興基金活用事業のひとつとして乱歩関連イベントがスタートした1991年度からの十六年間を簡単に振り返ってみましたが、結局はイベントでしかありませんでした。この名張市においてはコミュニティイベントのレベルでしか乱歩という作家にアプローチすることができませんでした。地域社会のアイデンティティの拠りどころとして考える、なんてことは名張市における官民双方の精鋭のみなさんにはできぬ相談であったようです。

 しかしそのいっぽう、

 ──江戸川乱歩が愛した町に、

 ──レッドカードの雨が降る。

 でおなじみのランポーレ FC をはじめとして地域住民サイドには、乱歩という作家を名張のまちのアイデンティティの拠りどころにしたいという希求があることもたしかなようです。

 さあ、いったいどうすればいいのかにゃ?

 ここで『江戸川乱歩執筆年譜』の話題に戻りますと、昭和6年12月にこんなデータがありました。

近来の快心事[世界的探偵小説の唯一人者 モーリス・ルブランを語る]
読売新聞 16日

 これは『探偵小説四十年』巻末の「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」にも、

 ──○近来の快心事(ルブラン新訳)(読売新聞、十二月十六日)

 と録されているのですが、このたびの資料整理中、昭和6年12月16日付読売新聞のコピーを眺めていて記載の誤りに気がつきました。「快心」は正しくは「会心」でした。どっちでもいいようなことではありますが、紙面では「会心」となっておりますのでこんなあんばいに訂しておきました。

近来の会心事[世界的探偵小説の唯一人者 モーリス・ルブランを語る]
読売新聞 16日

 どうも申しわけありませんでした。

  本日のフラグメント

 ▼1931年12月

 近来の会心事 江戸川乱歩

 この文章は初出以来ただの一度も再録されておりませんので、一部を引用しておきたいと思います。

 なんでもモーリス・ルブランの書きおろし長篇が読売新聞に連載されることになり、それに先がけて乱歩、甲賀三郎、馬場孤蝶、浜尾四郎の四人が露払い役としてルブラン讃を寄せております。

 しかしルブランの書きおろしが読売に連載されたことなんてなかったのではないでしょうか。少なくとも私は聞いたことがありません。何かの事情で企画が流れてしまったのかもしれません。

 ともあれ乱歩のルブラン讃から。

 ルブランは一八六四年生れだから、もう七十歳に垂んとする老人であるが、しかもなほ青年の心を以て筆を執つてゐるのは驚くべきだ。彼は年齢に於て現存探偵作家の大元老であるのみならず、その人気に於ても世界の第一人者だ。彼の作品はあらゆる国語に訳され〔、〕地球の隅々まで行渡つてゐる。

 ルブランは探偵小説に全く新しい形式を創造した。ドイル以来の正統派作風とは大いに異り、しかも単なる冒険奇怪小説とも全く選を異にしてゐる。私は嘗て云つたことがある。東西古今の探偵小説中その作風の最も模倣しにくいものは、ポオと、チエスタートンと、そしてルブランであると。このことは、ルパン誕生以来二十幾年、あの大人気にも拘らず、彼の作風を模倣し得たものが一人もないのでも分ると思ふ。彼の如く大衆的であつて、しかも彼の如く特異なる構想力を有する作家は、探偵小説史上恐らく前例がないであらう〔。〕

 文中、「選を異にしてゐる」は「趣を異にしてゐる」の誤植だろうと思われます。

 その模倣しにくいルブランを模倣して「怪人二十面相」を書くことになろうとは、このときの乱歩は想像もしていなかったことでしょう(ただし「黄金仮面」は書き終えてましたけど)。

 「彼の如く大衆的であつて、しかも彼の如く特異なる構想力を有する作家」というのは乱歩自身にもあてはまる評言であるようにも思われ、だとすれば乱歩はここで作家としての自身の理想を、ポーでもチェスタートンでもなくルブランに仮託して語っているとも見受けられます。