2006年10月下旬
21日  週末芸人オンステージ 横溝さんを偲んで
22日 週末芸人オフステージ 夜光人間
24日 ふうふういってる休み明け 夭折した浪漫趣味者・渡辺温
25日 緊急告知、大宴会のお知らせです 初の乱歩特集を編んだ・大慈宗一郎
26日 またしても地域限定のお知らせです 名編集長交友録・九鬼紫郎
27日 緊急大宴会をあすに控えて 『めどうさ』に託した情熱・阿知波五郎
28日 緊急大宴会の朝に寄せる 影絵に浮かぶ名張の歴史
29日 緊急大宴会を終えて遅く起きた朝に 「理想を追うということ」追補
30日 サンデー先生特別講義(1) 江戸川乱歩の10作×4部門
31日 サンデー先生特別講義(2) 人間椅子
 ■10月21日(土)
週末芸人オンステージ□ 

 こうなりますと週末芸人とでもいえばいいのか。先日のお寺での先生にひきつづき、本日は伊賀市阿保にあります青山ホールというところでコンサートの司会をつとめることになっております。なんかもう引く手あまたでああ忙しい。

  本日のアップデート

 ▼1982年12月

 横溝さんを偲んで 平井隆太郎

 これもまた、これもまたしてもご教示に与った一篇で、横溝正史の逝去から一年後、水谷準の編によって刊行された『横溝正史追憶集』に収録されました。私家版です。

 ほかにも乱歩関連の文章が収められているかもしれぬと考え、『横溝正史追憶集』を「日本の古本屋」で検索してみましたところノーヒット。Google 検索では Yahoo! オークションなるものがひっかかってきて、何? なんだと? 五万円とか四十万円とかだと? 入手はとても無理なようです。

 物心ついてから横溝さんと始めて話(?)をしたのは多分私が中学生の頃で、詳しいことは忘れたが、何でも吉祥寺の駅で森下雨村さんが郷里の高知へ戻られるのを見送った時のことである。当時の中央線はまだSLが走っていたと見えて、丁度日の暮れたホームで見送ったあとの立ち話に気笛の音が大変物悲しくひびいていた。横溝さんが人の旅立ちを見送るのは淋しいなあと述懐されたのを受けて、私が小生意気に合槌ちを打ったのである。勿論いわゆる会話ではなかったが、横溝さんの人柄に親しみを覚えるようになった一つのキッカケにはなったようである。

 その前後、吉祥寺のお宅にはしばしばお訪ねしていた筈だが、もはやさだかな記憶はない。しかし、横溝さんのご一家と何度か井の頭公園を散策したことは当時の写真もあるので確かである。

 戦後に健康も回復され岡山から東京に戻られたが、お目に掛かる機会は多くなかった。横溝さんの外出恐怖症が原因と伺っていたが、それでも父の晩年にはしばしば私共の家に来訪された。孝子夫人の附添い、酒を満たした水筒持参というのがおきまりのスタイルで、私もお相伴で話を聞かせて戴いたものである。

 私が西ドイツから帰国した頃、父は数ヶ月後の死をひかえて衰弱し切っていたが横溝さん御夫妻が見舞いに来訪され、父がもう書く元気がないと呟いたのを「乱歩がそんなことでは駄目だ、もう一度元気になれ」と励まされたときのまな差しがひどく悲しげであって、森下さんの帰郷を見送ったときの横溝さんの姿がフト思い合わされたことを覚えている。


 ■10月22日(日)
週末芸人オフステージ□ 

 おかげさまで昨日、伊賀市阿保にあります青山ホールというところで開催されましたコンサートの司会役、無事につとめてまいりました。客層が異様なほどの高年齢でしたので、はたして自分のトークが通用するのかしらと懸念されぬでもなかったのですが、なんのなんの大の大受けでめでたしめでたし。本日は休養といたします。

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 ▼2005年2月

 夜光人間 江戸川乱歩

 ポプラ社の文庫版少年探偵シリーズも数えて第十九巻。このあたりになると乱歩ファンでさえどんな事件が描かれていたのかよく記憶しておらず、タイトルからしてたぶん光る人間が出てくる作品であったのだろうなと推量できる程度のことであるのかもしれません。

 例によって巻末解説から引きましょう。やはり光る人間が出てくるおはなしのようで、しかしじつはそれで充分、それだけで充分に堪能でき、だからこそ乱歩なのだと納得される、そういった作品であろうと推測される次第なのですが、一度再読してみなければ。

解説 謎解きの解放感
石井直人
 おそろしさといえば、わたしは、小学生時代に、エドガー・アラン・ポー(江戸川乱歩というペンネームは、この作家の名前をもじったものだそうです)の恐怖小説によって、いやというほど味わわせてもらいました。とりわけ、『赤死病の仮面』と『アッシャー家の崩壊』。この二作は、恐怖感というよりも嫌悪感といってよく、鳥肌どころか翌日から発熱して寝込んだほどでした。けれども、おかしなことに、小学生時代の読書で思い出に残る本は? と聞かれると、このポーなのです。それほど物凄かったということでしょう。

 わたしにとって、江戸川乱歩の『少年探偵団』は、もう少しちがう感じでした。おそろしいだけではなく、うつくしかったのです。この『夜行人間』でも、少年探偵団の仲間が森の中ではじめて怪物をまのあたりにするくだりは、こんなふうです。

 「黒ビロードの闇の中に、ピカピカと銀色に光る人間。それが空へ空へとのぼっていくのです。なんという、美しさでしょう。ぞっとするほど、こわくて、美しい光景です。/少年たちは、息もつまる思いで、それを見つめているのでした。

 鳥肌が立つのは。おそろしいときばかりではありません。文学であれ、音楽であれ、あるいは、身近な人間の小さなしぐさにであれ、深く感動したときは、息がつまり、体がふるえ、肌がおののくのだといわねばなりません。「こわくて、うつくしい光景」。こういう感覚がありうるのだということを、おそらく、わたしは、江戸川乱歩から教わったのだと思います。


 ■10月24日(火)
ふうふういってる休み明け□ 

 きのうはよんどころない事情で伝言をお休みしてしまいました。よんどころないといってもたいしたことでは全然なく、ご心配にはおよびません。それにしてもなんだか忙しいなと茫然としているあいだに10月21日の乱歩のお誕生日も過ぎてしまい、きょうはもう24日です。ふうふういってるところへ英訳本『Black Lizard and The Beast in the Shadows』も到着したのですが、そんなこんなはまたあすにでも。

  本日のアップデート

 ▼1989年11月

 夭折した浪漫趣味者・渡辺温 鮎川哲也

 9月2日付伝言からスタートした(というほどご大層なものでもありませんが)鮎川哲也『幻の探偵作家を求めて』総ざらいのつづきです。続篇の『こんな探偵小説が読みたい』を虱潰しにします。1992年に晶文社から出た本ですが、いまでも新刊で入手することが可能です。

 『こんな探偵小説が読みたい』の収録は十二篇。光文社から出ていた「EQ」の1989年7月号から1991年5月号にかけて連載されました。第三回の渡辺温篇では鮎川哲也が渡辺啓助にインタビュー。乱歩の名前も出てきますものの、ごく断片的な記述だったので『乱歩文献データブック』には採っておりませんでしたが、考え直して拾っておくことにいたしました。

 乱歩が訳したことになっている改造社版世界大衆文学全集の『ポー、ホフマン集』は、啓助と温の兄弟が「弟と二人でポーを訳さなきゃならないということで、本を二つにピッと切って、こっちは弟というふうにしてやったのです」というよく知られたエピソードも語られていますが、ここには乱歩の代作の話題を。

 「温さんがポーの翻訳をなさった話はうかがいましたけど、乱歩さん名義の小説かなにかで代作をなさったということはありませんか」

 これは松村氏の質問。ついでに触れておくと松村喜雄氏は江戸川乱歩氏の甥にあたる。氏が評論や随筆のなかで「乱歩が」と呼び捨てにするのはそうした事情からで、「まさか『叔父さんが』というわけにもいかないし、考えた末に『乱歩が』といってるんですよ」と語ったことがある。

 「あの頃の『新青年』は代作時代というか、皆やってました」

 そう語る渡辺啓助氏の処女作「偽眼のマドンナ」は当時の人気俳優だった岡田時彦の名で発表された。おなじ号の『新青年』に鈴木伝明の「幽霊嬢」が載っているが、これもしかるべき作家による代作なのだろう。

 「温さんが『新青年』以外の雑誌に代作を発表されたことはないでしょうか。

 と、松村氏の追究がつづく。やっといつものペースを取り戻したようだ。

 「といいますのは、その時代に、いま残っている乱歩さんの作品以外に、乱歩さん名義のふしぎな小説が何本かあるんですよ。それであるところで、渡辺温さんが代作なさったのではないかと噂されているわけです。そういう話をお聞きになっていませんか」

 「聞きませんね。でも、そのくらいのことはやりかねないですね。ぼくも何度か他人名義で翻訳をしましたから。『新青年』に載せるためにね」

 渡辺温が乱歩の小説を代作した、なんてことはなかったと私は思います。乱歩は温を回顧して、相手が自分よりひとまわりも若く、生活様式もちがっていたせいで「私交」が乏しかったと述べています。「私のところへ来訪されたのも一度か二度、それも『新青年』記者として原稿依頼の用件であったと思う」という接点の少なさです。

 渡辺温の博文館入社は昭和2年、啓助とともに乱歩名義でポー作品を翻訳したのが翌3年(刊行はその翌年ですが)、いったん退社して作家生活に入ったものの昭和4年には「新青年」の編集に舞い戻り、昭和5年2月10日には不慮の事故で死亡しているのですから、乱歩名義の「ふしぎな小説」が温の代作であるなどという「噂」は取るに足りぬものだというしかないでしょう。


 ■10月25日(水)
緊急告知、大宴会のお知らせです□ 

 身辺の慌ただしさも一段落したところで英訳本『Black Lizard and The Beast in the Shadows』の話題でも、と考えていたのですが、恐縮ながらまたしても地域限定の話題です。

 10月28日の土曜日、名張市武道交流館いきいきにミステリ作家の綾辻行人さんをお迎えして開かれる第十六回なぞがたりなばり講演会がお開きになってから、名張市内の会場で大宴会を催すことになりました。私は全然知らなかったのですが、そんなようなことが決定しておるそうです。けさ届いたメールでおまえが幹事をやるようにと悪の結社畸人郷の関係者の方から厳しいお申しつけがありました。知らんがな、と私はいいたい。

 しかしそんな薄情なこともいってられません。わざわざ名張くんだりまでおいでくださるとおっしゃるのですから四の五のいわず大宴会を開催することにして、綾辻さんの講演会は午後1時開場、4時15分終了の予定ですから、大宴会は午後5時開始といった見当でしょうか。ただし今回の講演会は今夏誕生したばかりの施設、それも近鉄名張駅からはいささか遠い施設が会場となりますので、とりあえず会場をご案内申しあげておきましょう。下の画像をクリックしていただきますと、名張市オフィシャルサイトに掲載された大きな地図が飛び出します。

 当日は会場と名張駅東口のあいだにシャトルバスが運行されるそうで(時刻表は名張市オフィシャルサイトのこのページでどうぞ)、復路の便の名張駅到着は午後3時55分、4時40分、5時10分となっておりますから、午後5時開宴では早すぎるか。午後5時10分、名張駅集合ということにしておくか。しかし問題は会場であって、よく考えてみたら参加者数も不明なのだから予約の入れようがないではないか。知らんがなほんまに、と私はいいたい。

 いいたいけれどそんなこともいっておられず、もう時間的余裕もないことですから(なにしろしあさってのことです)、会場未定のままで集合の場所と時刻を告知しておきたいと思います。

第16回なぞがたりなばり講演会記念大宴会

2006年10月28日(土曜日)

ゲスト草上仁さん

テーマ『文章探偵』の謎を語る

集合場所近鉄名張駅東口

集合時刻午後5時10分

会場未定

会費時価

 ごらんいただきましたとおり、大宴会のゲストは名張市にお住まいのSF作家、草上仁さん(ゲストといえども割り勘ですが)。今春刊行されて話題を呼んだミステリ小説『文章探偵』(版元オフィシャルサイトの紹介ページはこちら)の謎を語っていただきます。

 と書いていて遅ればせながら気がついたのですが、10月28日といえば名張のまちはお祭り騒ぎ。名張市平尾に鎮座する宇流冨志祢神社(社名は「うるふしね」とお読みください)の例大祭の日ではありませんか。そういえばきのう高校の授業で名張のまちを生徒といっしょにぶらぶら歩いてみたところ、まちなかにはいまこんなポスターがでかでかと。

 つまり10月28日土曜日の名張市では、お祭りと講演会と大宴会とをまとめてお楽しみいただけるという寸法です。どちらさまもぜひどうぞ。大宴会には悪の結社畸人郷に所属していない善良なみなさんもふるってご参加ください。ただし畸人郷メンバー以外の方は、お手数ながら当方宛メールでご出席の旨お知らせいただければ幸甚です。

  本日のフラグメント

 ▼1990年3月

 初の乱歩特集を編んだ・大慈宗一郎 鮎川哲也

 やはり『こんな探偵小説が読みたい』収録の一篇。「EQ」の連載第五回ですが、これは『乱歩文献データブック』に記載しておりました。

 とはいえ内容的にはそれほど乱歩に関係があるわけではなく、タイトルに「乱歩」の文字が入ると記事そのものの印象がぐーんと強烈になる、という見本のようなものかもしれません。

 大慈宗一郎と乱歩ないしは探偵文壇とのかかわりは、彼自身が「同人誌探偵文学からシュピオまで」と題して「日本推理作家協会会報」の1983年3月号から三回にわたって連載したエッセイを読むとよくわかります(と記憶しております)。

 ここには翻訳家の伴大矩と乱歩のかかわりについて述べられたあたりを引いておきましょう。

 伴氏は神田一ツ橋のビルの地階にあった日本公論社から、矢つぎ早にヴァン・ダインの後期の長編を出して本格好きの読者をよろこばせてくれた人だが、この頃、『和蘭陀靴の秘密』の訳稿を江戸川氏のもとに持ち込んで序文を書いてもらおうとした話がある。江戸川氏は粗雑な訳文に首をかしげ、結局ことわったそうだ。伴氏は翻訳工房のはしりだったという説があって、原書を幾つかにちぎって学生たちに訳させたというから、訳文がへただったこともうなずける。

 ■10月26日(木)
またしても地域限定のお知らせです□ 

 英訳本『Black Lizard and The Beast in the Shadows』が届いたと思ったら今度は「SRマンスリー」の最新号が到着しました。「江戸川乱歩&乱歩賞」を特集した充実の一冊です。しかし、しかしながら本日もまた地域限定の話題になってしまうのをいかにせん。

 まずは10月24日付毎日新聞の記事をどうぞ。熊谷豪記者の記事です。

隠街道市:名張の宿場町の風情楽しんで 旧町で特産物販売や資料展示−−来月 /三重
 奈良と伊勢神宮を結ぶ初瀬街道の宿場町として栄えた名張市の旧町(名張地区)の風情を楽しんでもらおうと、11月4、5の両日、「隠(なばり)街道市」が旧町で開かれる。旧町の商店や集議所が会場となり、約100団体が特産物を販売する他、歴史資料を展示する。

 旧町の活性化に取り組む官民共同組織「名張まちなか再生委員会」(田畑純也委員長)が主催する。

 つまり11月の4日と5日、名張市で「隠街道市(なばりかいどういち)」というコミュニティイベントが開催されるわけです。いわゆる旧町地区、名張まちなかを会場に、特産物の販売や歴史資料の展示が行われるそうです。で、この二日がかりのイベントを主催するのがなッ、なんと名張まちなか再生委員会だというではありませんか。

 ああ、懐かしのインチキプラン、懐かしのインチキ委員会。じつに懐かしい気がするではないか名張まちなか再生委員会。元気にしておったのか。結構結構。私はいまや名張まちなか再生委員会にはどんな接点も有しておらず、この委員会がいいようにルールや手続きを無視してインチキを重ねたところでもはや知ったことではない。いまさら事務局に足を運んでおまえらどうしてこんな無茶苦茶ばっかかましてやがるんだと正当な批判を展開することもなければ、委員会の気が遠くなるほどの無能と不見識に腹を立てることもない。好きにしろばーか、てなものなのではあるけれど、しかし困った。どうにも困った。何が困ったのかというと、名張まちなか再生委員会の名前を眼にするや反射的におちょくらずにはいられない体質になってしまった私がここにいる。ご期待の向きもおありでしょうからちょこっとおちょくっておくことにいたしますが、どうもすまんな名張まちなか再生委員会の諸君。

 偉いッ。

 諸君は偉いッ。

 君たちはずいぶん偉くなった。たいしたものだ。

 名張まちなか再生委員会の諸君はしばらく見ないあいだにものの道理というやつをわきまえてくれたらしい。身の程や身の丈、あるいは分際という言葉が理解できたらしいではないか。長足の進歩である。私も一時は本気で心配したものだ。歴史のれの字も乱歩のらの字も知らぬ諸君が歴史資料館だの乱歩記念館だのと気のふれたようなことをさえずっていたときには、私は本気でこいつら正気かと心配になった。気は確かかと不安になった。しかしそれも過去の話だ。肝腎の名張まちなか再生プランの具体化はすっかり放棄してしまい、お役所のお先棒をかつぐことにみずからのレゾンデートルを見いだしたというわけか。なーにが協働だばーか、とは私はいわぬぞ。結構である。重畳である。コミュニティイベントの仕切り程度のことならば諸君にだって可能であろう。要するに「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」みたいなものなのであるからな。その手のことなら諸君のおはこだ。ご町内感覚となあなあ体質で狭い世間をせいぜいにぎやかにしてくれたまえ。

 およばずながらこのサイトでも宣伝につとめておこう。

 この画像をクリックすると名張市観光協会オフィシャルサイトにある「隠街道市」の PDF ファイルが開きます。ぜひごらんください。

 しかし、しかし変だな。名張まちなか再生委員会というのはこんなコミュニティイベントを主催するための組織だったのであろうか。こんなことでいいのであろうか。念のために委員会の規約を確認してみよう。昨年6月26日の委員会設立総会で決定された規約である。

(目的及び設置)
第1条 名張まちなか再生プランの基本目標である名張の原風景と人情が息づく魅力あるまちをテーマに、名張地区既成市街地の再生を多様な主体の協働により推進していくことを目的として名張まちなか再生委員会(以下「委員会」という。)を設置する。

(所掌事項)
第2条 委員会は、名張まちなか再生プランの実現を目指し、名張地区のまちづくり活動を継続かつ円滑に運営するために、調査、企画及び計画の立案並びにプロジェクト及び事業の具体化、推進、調整を図るものとする。

 うーん。ようわからん。いくら読んでもこの委員会が何をしようというのか、はっきりいって理解が届かぬ。お役所の作成する文章というのはどうしてこんなにわかりにくいのか。あんまりわかりにくいものだから私はなんだか腹が立ってきたではないか。いかんいかん。いまさら名張まちなか再生委員会相手に腹を立ててみたとてどうにもなりはせぬ。しかし、しかしなあ。

 ともあれ11月4日と5日の「隠街道市」、お近くのみなさんはどんどんにぎにぎしくお運びください。名張のまちには例によって怪人二十面相が出没するのかな、それとももうしないのかな。私にはそのあたりの事情がさっぱりわかりませんし、残念ながらエジプトの絵ももうないけれどまあどうぞ。

  本日のアップデート

 ▼1990年11月

 名編集長交友録・九鬼紫郎 鮎川哲也

 これも『乱歩文献データブック』には採らなかったものですが、ついでに拾っておきましょう。

 本稿をまとめるに当たって九鬼氏に改めて電話をかけた。

 「そうです。甲賀全集は恩返しとして企画し実現しました。センカ紙の時代でしたから紙質のわるい本だったのが残念ですが。あの頃は世間の人が探偵小説に飢えていたせいでしょうか、よく売れました。これは湊書房という豊橋の出版社からの依頼でしてね。呑み友達の安藤君が編集部にいて、社長が何か本をだしたいというのを聞いて、わたしに話を持ち込んだのです。江戸川先生にその話をしますと大変よろこんで下さいましてね。一緒に近所に住む甲賀先生の上のお嬢さんをお訪ねして、出版の許可をいただいたものです、未亡人はまだ疎開先においでだったので。全十巻にまとめました」

 この九鬼紫郎の回想には、『探偵小説四十年』の次のくだりが照応しています。

 ──湊書房から「甲賀三郎全集」十巻が刊行されたのは昭和二十二年から二十三年にかけてであった。この全集の発行については、かつて甲賀君の弟子のような立場にあった九鬼紫郎(前名、澹)君が大いに努力し、名目上は私の監修、九鬼君の編纂ということになっていたけれど、一切の仕事は九鬼君が引き受けて、献身的に働いたのである。終戦直後の出版界は、現在に比べて発行部数も多く、印税の支払いも間違いがなかったので、新円切換で誰しも無一物になっていたあの当時のことだから、甲賀君の遺族は、この全集によって大いに幸いしたのである。

 さらにつけ加えておくならば、九鬼紫郎が甲賀三郎全集の話を乱歩のもとにもちこんだのは昭和21年6月17日のことでした。こんなような些細な事実も『江戸川乱歩年譜集成』をひもとけば一目瞭然、たなごころを指すようにして知ることができます。『江戸川乱歩年譜集成』が完成しないことにはひもとくことなどできぬわけなのですが。


 ■10月27日(金)
緊急大宴会をあすに控えて□ 

 まずお知らせ。このほど発行されました「SRマンスリー」の乱歩特集号、一冊あたり五百円プラス送料でどなたにも入手していただけるそうです。ご希望の方はSRの会事務局へどうぞ。といったって事務局の連絡先がわかりません。とりあえず当方宛メールで入手希望をお寄せいただきましょうか。

 ついでにもう一件。一昨日緊急告知いたしました10月28日の(つまりあしたのことですが)第十六回なぞがたりなばり講演会記念大宴会、関西地区のミステリファンの方から参加希望がちらほらと寄せられております。当日の名張市では綾辻行人さんと草上仁さんのおはなしがダブルで堪能できるといやもうたいへんな評判なんだかどうだかは不明です。名張市内からの参加者は私以外にゼロなのですが、乱歩がどうのミステリがこうのとほざくのであれば名張市役所の関係者だの名張まちなか再生委員会のメンバーだのはいつまでも閉鎖的排他的になっておらずにこういう場に顔を出してミステリファンのみなさんのご厚誼を頂戴すればいいではないか。そんなやつはおらんか。おらぬであろうな。このあんぽんたんめ。ともあれ参加希望は当方宛メールでお寄せください。

 ああ、また名前が出てしまいました。きのう軽くおちょくるだけでおしまいにしようと考えていたのですが、名前が出てしまったのですからしかたありません。こら元気かインチキ委員会、名張まちなか再生委員会の能なしども、地域社会に巣くう害虫どもこら元気かと申しておるのだ、みたいなことを私はいっさい申しません。名張まちなか再生委員会のみなさんどうもご苦労さまです。隠街道市の準備万端まことにご苦労さまでございます。隠街道市というのもまたなんともインチキくさいネーミングだと思われますが、べつにかまいません。みなさんの存在自体がインチキなわけなんですから、いくらでも好きなだけインチキかましてくださいな。

 私はきのう名張まちなか再生委員会の規約を引用して考えてみたのですけれど、つまりこれなわけなんですが──

(目的及び設置)
第1条 名張まちなか再生プランの基本目標である名張の原風景と人情が息づく魅力あるまちをテーマに、名張地区既成市街地の再生を多様な主体の協働により推進していくことを目的として名張まちなか再生委員会(以下「委員会」という。)を設置する。

(所掌事項)
第2条 委員会は、名張まちなか再生プランの実現を目指し、名張地区のまちづくり活動を継続かつ円滑に運営するために、調査、企画及び計画の立案並びにプロジェクト及び事業の具体化、推進、調整を図るものとする。

 この規約のどこをどう読めば名張まちなか再生委員会が隠街道市の主催団体になることが可能なのか。むろん名張まちなか再生ブランの目玉事業である細川邸の整備とプランのどこにも書かれていない桝田医院第二病棟の活用とはとてものことに委員会の考えが及ばぬ難題。だからせめてお役所のお先棒かついでコミュニティイベントの仕切りを担当するというのはそれはそれでいい。民の立場に立つ人間がどうしてこうも簡単かつ無批判に唯々諾々と官のお先棒をかつげるのかと、私は「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に際しておおいに疑問に思い驚き呆れしまいにゃ絶望的な気分になったものであったが、それはそれでしかたあるまい。名張まちなか再生委員会がお役所のお先棒をかついだりコミュニティイベントを主催したりすることはそれはそれでいいとしてみてもだな、世の中には原理原則というものが存在しているということを忘れるな。とくに税金の具体的なつかいみちを考えるにあたって原理原則を踏みにじってはいかんのであると私は思う。名張まちなか再生委員会が遵守すべき原理原則はまず第一に委員会の規約そのものであり、それは市民に対する委員会のいわば約束なのであるけれどその規約に照らして名張まちなか再生委員会が隠街道市の主催団体になることがはたして可能なのかどうか。

 といったようなことを私は考えてみようとしたのであったけれど、それは毛筋ほどの意味もないことであった。委員会の諸君に規約だのへったくれだのはまったく無縁なのである。彼らは完全に自由なのである。規約なんかには縛られぬ。ルール無用で手続き無視というのが彼らの常道なのである。いくらなんでもそれはあるまい、そんなことがまかり通っていいわけがない、と見えることでも名張まちなか再生委員会の諸君にかかれば掟破りの原爆頭突き(いささか脈絡不明ながら大木金太郎さんのご冥福をお祈りしたいと思います)、朝飯前でやってくれるのだから私は何度も驚かされた。ただしそのインチキぶりは私がこうやってことあるごとに全国発信しておるわけなのであるからして、このサイトの常連閲覧者のみなさんには名張まちなか再生委員会? ああ、あのインチキ委員会、みたいな認識はすっかり定着しているのではないかしら。だから関西地方のミステリファンがつどう第十六回なぞがたりなばり講演会記念大宴会には、委員会の諸君はやはり顔をお出しにならぬほうが賢明なのかもしれません。ま、好きになさい。

  本日のアップデート

 ▼1991年5月

 『めどうさ』に託した情熱・阿知波五郎 鮎川哲也

 連載「続・幻の探偵作家を求めて」の最終回。

 乱歩の書簡が紹介されているので拾っておくことにしました。阿知波五郎が京都で「めどうさ」という同人誌を発行したときのものです。

 この雑誌が発行されると聞いて、東京側の作家から寄せられたハガキが残っている。

 阿知波さんが椿(八郎)、本間(田麻誉)の諸君と雑誌を出されるという通知を受けた。学者にして随筆の大家、又一くせある人々の放談雑誌とあっては、さだめし特徴のあるものが出ることと楽しみにしています。一寸内容の見当がつかないので、とりあえず発刊を祝して一筆。

江戸川乱歩

 「めどうさ」の創刊号は昭和27年7月15日の発行。「江戸川乱歩執筆年譜」によれば「ことば」というタイトルで諸家の文章が収録されており、そこに乱歩も名を連ねているのですが、もしかしたらこのはがきの文面がそのまま掲載されているのかもしれません。調べてみればわかることですが。いますぐには調べられませんが。


 ■10月28日(土)
緊急大宴会の朝に寄せる□ 

 英訳本『Black Lizard and The Beast in the Shadows』の話も「SRマンスリー」乱歩特集号(入手希望は当方宛メールでどうぞ)の話もどっかへ飛んでいってしまい、いよいよ大宴会の朝を迎えました。

 2004年と2005年にはたしか「からくりのまち」だったはずなのですが、今年はなぜか「隠(なばり)」ということになってしまっている名張のまちで宇流冨志祢(うるふしね)神社例大祭が営まれるきょう10月28日、こんな催しがみなさんをお迎えいたします。

講演会と大宴会のお知らせ

2006年10月28日(土曜日)

第16回なぞがたりなばり講演会
講師
綾辻行人さん
テーマ
江戸川乱歩にあこがれて
会場
名張市武道交流館いきいき
名張市蔵持町里2928
電話:0595-62-4141
日程
午後1時00分 開場
午後1時30分 開演(講演、質疑応答)
午後3時30分 終演予定
午後3時45分 サイン会
午後4時15分 終了予定
詳細
名張市オフィシャルサイト

第16回なぞがたりなばり講演会記念大宴会
ゲスト
草上仁さん
テーマ
『文章探偵』の謎を語る
会場
未定
集合
午後5時10分 近鉄大阪線名張駅東口
会費
時価

 つづきまして掲示板「人外境だより」から転載。

Peter-Rabbit   2006年10月26日(木) 9時 7分  [124.84.156.231]

サンデー先生

24日の日経新聞朝刊の文化欄で「影絵に浮かぶ名張の歴史」という題で角田勝氏の記事が出ておりましたね。サンデー先生の協力なども詳しく書かれておりました。


サンデー先生   2006年10月27日(金) 9時17分  [220.215.61.248]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  Peter-Rabbit 様
 ご無沙汰いたしました。お知らせありがとうございます。
 24日の火曜日は私が週に一度、三重県立名張高等学校で先生をつとめる日にあたっており、先生としての私はできるだけ校外学習にもちこんで生徒たちに名張のまちを歩かせることにしているのですが、24日にはたまたま角田勝さんのお店の前を通りかかかりましたので、ああここで休憩させてもらおうと生徒とともにどやどや押しかけましたところ、きょうの日経に出たものですと「影絵に浮かぶ名張の歴史」のコピーを頂戴いたしました。全国紙の地方版に出た記事とはわけがちがいますから、角田さんのもとには遠方のお知り合いから日経を見たという電話が入ったりもしておりました。
 この記事、乱歩の関連文献として「RAMPO Up-To-Date」に記載したものかどうか、いささか迷っていたのですが(乱歩のことがちょこっとしか出てきませんので)、ご投稿をいただいてやはり記録しておくべきであろうと結論しました。あすにでもアップデートいたします。どうもありがとうございました。

 そんなこんなで──

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 影絵に浮かぶ名張の歴史 江戸川乱歩誕生の物語など、夫婦で企画・上演 角田勝

 日本経済新聞の「文化」欄に掲載されました。

 筆者は伊賀まちかど博物館(というのがあるわけです。民家や商店の一画を利用してコレクションの展示なんかが行われております。言論封殺先進県たる三重県の企画によるもので、乱歩ファンのみなさんにはすでにおなじみ乱歩ゆかりの清風亭もやはり伊賀まちかど博物館です)の一館、はなびし庵の館長さん。本業は酒屋さんにしてオフィシャルサイトはこちら

 このはなびし庵、地域の歴史に材をとった影絵を呼びものにしており、この文章ではその来歴やねらいや舞台裏が紹介されているのですが、乱歩の名が出てくる段落を引用いたしましょう。

 私たち夫婦で企画を立て、小野さんをはじめ、郷土史に詳しい中相作さんらの協力を得て作った。名張弁のナレーションが必要な時は、近くの洋品店の奥さんに手伝ってもらったこともある。名張出身の江戸川乱歩の誕生と成長をコミカルに描いた「乱歩誕生」は、乱歩研究家の中さんが脚本を書き、名張高校の生徒たちが声優を務めた。

 文中の小野さんは影絵づくりのベテランにして独自の妖精画もお描きになる女性で、阪神大地震に遭遇して住む家を失い、夫婦で名張市に転居してこられたのですが、現在は名張をあとにしてあれは四国のどこであったか、平家の亡霊が出てきそうなあたりにある海沿いの土地で息子さんとともにお住まいであると聞き及びます。

 名張高校というのはいま全国で話題沸騰の必修科目履修漏れ問題にはたぶん完全に無縁なきわめて健全な高校なのですが、この影絵「乱歩誕生」の声優は校内オーディションを実施して決定いたしました。なかには声優志望の女の子もいて、学業のかたわら大阪にある声優養成所に通ったりもしておりました。きょうびの高校生というのは結構しっかりしているものです。

 私はというと「郷土史に詳しい」人であったり「乱歩研究家」であったりするらしく、まあひとことでいえば伊賀地域を代表する知性なのですから何かと忙しい。しかしそういう立場の人間なのですから協力の要請があればそれなりに本分を尽くすことにはしており、あるときは影絵の台本を書き、あるときは高校の教壇に立ち、あるときはお寺の本堂で寺子屋の先生をつとめ、先日などはコンサートの構成演出司会を一手に引き受け、だいたいが図書館の嘱託だって頼まれたからやっているというだけの話なのであり、それにつけても不可解なのは名張まちなか再生委員会という名のインチキ委員会である。伊賀地域を代表する知性がわざわざこちらからおまえらは相当なばかなんだから基本的なところだけでも教えてやろうと親切に協力を申し出てやったというのに、つまりこいつらに任せておいたらとんでもないことになる、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」みたいな一過性のイベントに税金を無駄づかいするというのであればまだしも、税金をつかって名張のまちに妙なものをつくろうというのであるから見過ごしにはできぬ、こんなうすらばかどもに好きにさせておいていいのか、いやいけない、そんなことはいけない、くそったれどもしばき倒してくれるとばかり協力を申し出てやったというのに何なんだあのうすらあんぽんたんどもは。

 いやいや、そんな話はいまはどうだっていいでしょう。名張まちなか再生委員会のみなさんが主催される隠街道市の成功を心からお祈り申しあげておきましょう。ははは。やーい。ばーか。

 ここでひとこと書き添えておきますと、以前からこの伝言板で表明しておりますとおり、これは名張まちなか再生委員会事務局にきっちり申し伝えたことでもあるのですが、いまの私は名張まちなか再生委員会に対してどんな協力もする気はありません。よほど思案にあまることがあるのであれば話くらいは聴いてやらぬでもありませんが、あんなうすらばかどもまともに相手にするつもりはまったくありません。笑いものにならいくらでもしてやりますけど。ははは。やーい。ばーか。


 ■10月29日(日)
緊急大宴会を終えて遅く起きた朝に□ 

 さあこらインチキ野郎ども、名張まちなか再生委員会という名のうすらばかども、地域社会の害虫ども、きょうもおまえらがどんなにばかなのかを全国発信してやるからありがたく思いやがれ、などと私はいいません。そんなこというつもりは全然ないにもかかわらず、当サイト閲覧者の方から名張まちなか再生委員会というのはそんなにばかなのですか、どんなばかなのかと考えているうち私は名張まちなか再生委員会にすっごく興味を抱いてしまいました、とのメールを頂戴いたしました。どうやら人気がうなぎのぼりのようでほんとによかったなあ名張まちなか再生委員会のみなさんや。恥も外聞もなくさんざっぱらインチキかましつづけてきた甲斐があったというものではないか。心からありがたく思わなければならんぞ。

 しかしよく考えてみたら名張まちなか再生委員会には限りません。

 ばかが見たけりゃ名張へおいで

 右も左もばかばかり

 はあちょいなちょいな

 と歌の文句にもありますとおり、それはもう名張市というところはばかを豊富に取り揃えております。よりどりみどりの状態です。はあちょいなちょいな。とはいえこんなのは決して自慢できることではありません。読者諸兄姉がお住まいの地域にだってばかはおそらく充満していることでしょう。ばかが充ち満ちていることでしょう。名張市なんてまだかわいいほうかもしれません。まったく困ったものですなあ。

 さてその名張市で昨28日、第十六回なぞがたりなばり講演会が催されました。日本推理作家協会の協力を得て開催している秋の恒例行事なのですが、おそらくは今年が最後になるはずです。だって名張市にはお金がないんだもの。ばかは多いがお金はない。だからもうやめてしまえばいいではないか。予算額はきわめて小さいものであるけれど、乱歩を利用した自治体の人気取りイベント、なんてものはもういい加減にしてはどうかと私は思う。これを機に名張市は乱歩から手を引きますと、官民双方ばかばかりでどいつもこいつもろくに乱歩作品を読んでもおらぬていたらくですからもう乱歩からは手を引きますと、きっぱり宣言してしまえばすっきりするのではないかと私は思う。

 お隣の伊賀市では行政評価の結果が発表され、市主催の植樹祭や市民大学講座など三十七の事業が廃止されるべきだとの判断が示されたそうです。昨日付中日新聞の原田晃成記者の記事をどうぞ。

【伊賀】 伊賀市が初の行政評価 植樹祭など37事業廃止を
 伊賀市は、昨年度に実施済みの事業と、本年度と来年度に始める事業を対象に実施した「行政評価システム」の結果を、27日の市議会議員全員懇談会で明らかにした。実施は今回が初めてで、成果や費用対効果の面から、37の事業を来年度以降は廃止すべきだとしている。

 行政評価システムは、市自治基本条例に基づき、市の事業の必要性や有効性、効率性などを検証し、翌年度の施策に反映させる制度。職員に事業遂行への責任を自覚させる意識改革と、税金の用途を市民に公表するのが狙いだ。

 行政評価は結構なことであるとは思いますけれど、しかしこんなものはあくまでもお役所の内部における評価でしかありませんから、ないよりましだがろくなものではないであろう。私は伊賀市の事情をまったく知りませんゆえ単なる臆測でものをいうわけなのですが、伊賀市の職員のみなさんもたぶんおそらくばかなのではないかしら。なにしろ私の知る公務員というのは公務員のくせに「公」という概念からおよそほど遠い人種なのである。そういう人種をばかというのである。そうした認識にもとづいて判断することが許されるのであれば、伊賀市職員のみなさんもきっとばかなのであるにちがいない。そんな連中に公正で冷静な行政評価なんてできない相談であろう。ごくごくうわっつらの評価しかできぬであろう。

 事情は名張市だって似たようなものでしょうから、なぞがたりなばり講演会という事業を正当に評価できる人間なんて名張市役所にはひとりもおらんのではないかと私には思われます。そこで伊賀地域を代表する知性がただひとこと、あの講演会はもう廃止してしまってはいかがなものかとあえて書き記しておく次第です。

 そんなことはともかくきのうの講演会のことですが、まず会場が不評でした。会場はここだったわけですが。

 なにしろ駅から遠い。徒歩三十分はかかるでしょうか。施設は立派なのに椅子が安物だ、もうちょっとなんとかしろというご批判も頂戴いたしました。はあちょいなちょいな。講演では講師の綾辻行人さんが乱歩へのリスペクトを捧げた自作として「フリークス」と「暗黒館の殺人」とをあげていらっしゃいました。私はどちらも未読なれど、前者に登場する「J・M」は「孤島の鬼」の諸戸丈五郎のイニシャルをそのまま使用したものだそうです。

 つづきまして第十六回なぞがたりなばり講演会記念大宴会の報告です。愛媛県、兵庫県、大阪府、奈良県からご参加をいただき、近鉄名張駅西口から徒歩一分の居酒屋が開店前だったにもかかわらず無理やりあがりこんで盛りあがりました。自腹ゲストの草上仁さんをはじめとして総勢は九人。悪の結社畸人郷の悪の巨頭が草上さんの『文章探偵』を持参してサインをもらっていらっしゃった姿が印象的でした。

 ひきつづいては11月25日、神戸を舞台に大宴会が開催されます。10月は名張で乱歩、11月は神戸で正史、とおぼえておくといいでしょう。詳細は「番犬情報」でどうぞ。

  本日のアップデート

 ▼2006年5月

 「理想を追うということ」追補 EQ3

 「SRマンスリー」5月号に掲載されました。筆者名の「3」は正しくはローマ数字です。

 現在も誌上で展開されているらしい筆者と田中幸一さんとの論争の一篇ですが、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の脚註に対する批判が含まれております。ただし単純な事実誤認が見られましたのでSRの会事務局に訂正をお願いしておきましたところ、7月号に EQ3さんご本人による訂正文が掲載されました。ところが7月号を手にしたのがつい最近のことでしたゆえ、お知らせするのがいまになってしまったなり。

 では、事実誤認を訂したうえで引用いたします。

 『子不語の夢』における村上裕徳氏の文を見てみましょう。乱歩の「心理試験」に対する国枝史郎の批判を紹介し、「心理試験が法律上、指紋のような決定的証拠でないことが国枝の最後の砦であったと思われる。血液反応は決定的証拠でないから、物的証拠として不適格と言ったのと同様であった」と書き、「乱歩はこうした探偵小説に愛情を持たない高圧的批評を絶対に許さない性格であった」と決めつけています。

 しかし、「法律上は決定的証拠でない」というのは、まぎれもなく、「心理試験」への鋭い批判になっています。というのも、本作の犯人は、心理試験を欺くために策を弄しているからです。“決定的な証拠にならない心理試験のために必死に特訓をする犯人”というのは、不自然と言わざるを得ません。これは、“指紋が証拠にならない時代において、罪を他者に転嫁するために偽造指紋を利用する犯人”を思い浮かべてもらえれば、納得がいくと思います。ある意味では、国枝史郎は、都筑道夫の批判を──必然性もないのにトリックを弄する犯人への批判を──先取りしたとも考えられるではないですか。にもかかわらず村上氏は、(おそらく)そこまで考えずに、自分の物差しだけで、国枝史郎の文に対して、浅い読みを当てはめてしまったのです。

 事務局にはできれば村上裕徳さんの反論も読みたいものだとお伝えしておいたのですが、いまだ実現していないようです。連絡先が不明なのかな。


 ■10月30日(月)
サンデー先生特別講義(1)□ 

 10月もあしたでおしまいか。よーし。ここはひとつ今月いっぱい、毎日のように笑いものにされてお気の毒といえばお気の毒な名張まちなか再生委員会のみなさんに特別サービスとしゃれこみましょう。10月15日、伊賀市上野寺町の大超寺で開催された寺子屋歴史講座の講演要旨をまとめる必要が生じましたのであわただしく書き記した次第なのですが、これも世のため人のため、名張まちなか再生委員会に捧げる意味で掲載しておきます。委員会のみなさんはこれを読んでよくお勉強するように。

田中善助翁と「新しい時代の公」(1)
 田中善助は実業家。安政5年(1858)伊賀上野に生まれ、金物商田中善助の養子となった。新田開発、発電所建設、鉄道敷設、産業振興などの事業に天与の才幹を発揮し、伊賀地域に近代の開幕を告げた。卓越した趣味人としても知られ、雅号は鉄城。昭和21年(1946)3月28日、87歳で死去。葬儀は31日、大超寺で営まれた。

 地域の個性を活かして独自の産業と文化をつくりあげることをめざした田中善助の生涯は、市民の社会参加による地域主義の実現に貴重な示唆をもたらす。昭和19年刊行の自伝『鉄城翁伝』は、財団法人前田教育会が平成10年に出版した『田中善助伝記』に収録されている。

 田中善助と現代

 田中善助の生涯が記された自伝『鉄城翁伝』をひもとくと、目次を眺めるだけで善助の多岐にわたる業績を知ることができる。「電気の善助さん」として名を馳せた水力発電所の建設をはじめとして、若いころの月ヶ瀬保勝会設立、風景保護請願提出、治水と開墾、上野公園整備、さらに壮年期の伊賀鉄道敷設から最晩年の榊原温泉復興に至るまで、地域社会の発展のために身を挺した善助の業績は枚挙にいとまがない。

 しかし田中善助は、伊賀に近代をもたらした過去の人物として私たちの前に存在しているのではない。現代に生きる私たちは、善助の市民精神と行動原理を知ることによって、地域社会の課題に向き合うための大きな力を得ることができる。善助が何を考え、どう行動し、何をなしとげたのか、なしとげられなかったのか。それをつぶさに検証することで、私たちは田中善助からバトンを引き継ぐことができる。

 自治体の提唱

 三重県は県政運営の指針となる総合計画「県民しあわせプラン」を策定し、その基本として「新しい時代の公」という概念を提示している。「新しい時代の公」は「従来私的なことと考えられがちだった地域のための自発的な活動を『公』を担う活動として位置づけ、社会全体で支えるための仕組みであり、県民と行政が共に『公』を担うというものです」と説明されているが、何が述べたいのかいささか理解しづらい。

 伊賀市の新市建設計画「まちづくりプラン」にも、基本理念として「市民自身が、あるいは地域が自らの責任のもと、まちづくりの決定や実行をしていきます」との文言が見られる。三重県と伊賀市のこれらの提唱からは、地域社会のさまざまな課題を一手に引き受けてきたこれまでの行政運営を、いまや自治体自身が否定しようとしているという事実が浮かびあがってくる。

 公益という観点

 住民が行政にすべてを委ねてきたいわゆるお任せ民主主義から脱却し、そこに住む人間自身の社会参加によって地域社会づくりを進めたいという自治体の呼びかけが、「新しい時代の公」という言葉にはこめられていると見える。だが現実には、松尾芭蕉生誕360年記念事業の例からも知れるとおり、官と民による「協働」の試みはいまだ着実な成果をもたらすに至っていない。

 その理由のひとつは、地域住民が「公」という概念を理解できていないことに求められる。田中善助はつねに公益という観点に立ってすべての事業を企画し、実現していったが、私たちもまたそれぞれの立場で、それぞれの能力に応じて、それぞれの主体性に基づきながら、田中善助のように公益とは何かということについて考えつづけなければ、「新しい時代の公」が実現される日はいつまで待っても訪れない。

 美しい国

 三重県史編纂グループがまとめた『発見!三重の歴史』という本が刊行された。古代から現代まで三重県の歴史にまつわる120の話題が収録されているが、田中善助は日本で最初に風景保護の必要性を訴えた人物として紹介されている。

 明治25年、35歳の善助は日本の風景が開発と欧化によって破壊されてゆくことを憂慮し、帝国議会に「風景保護請願」を提出した。請願自体は可決されるに至らなかったが、これをきっかけに名所旧跡などを保護する動きが始まったという。現代の私たちが景観保護の必要性に気づいたのは、まだ最近のことに過ぎない。この点でも、私たちは善助が直面した問題にあらためて向き合い、善助のバトンを引き継いでいるといえる。

 善助は「風景保護請願」の理由書で、日本の美しい風景が日本人の優美な性情を育んだと指摘し、日本人の心を美しいまま受け継いでゆくために風景の保護が必要であると説いている。善助は日本を美しい国と規定し、その美や伝統を守るために腐心した。日本の首相が「美しい国」をつくると宣言し、教育の基本に日本の伝統と文化への回帰を盛り込もうとしていることを、天国の善助はどんな気持ちで眺めているのか。

 近代化への異議

 田中善助は、日本の近代化の初期の段階でその方向性に異議を唱えた人物と見なすことができる。善助もむろんヨーロッパの科学技術に学ぶことはしたが、日本人の優美な性情、美しい風景、伝統や文化は世界に誇れるものと認識していた。日本という国を成熟した国家と位置づけ、けっして自虐的になることなくヨーロッパに向き合っていたといえる。こうした傑出した近代人が伊賀の地に生まれていたという事実を、私たちは誇りのひとつとするべきだろう。

 風景保護から自然保護に目を転じると、善助の請願から20年ほどあとになって、紀州の南方熊楠が自然保護の観点から神社合祀反対運動を起こした。集落単位に存在していた小さなやしろを統合して神社は1村に1社と決め、全国の神社を系列化して中央集権制度に利用しようとする国の方針に、熊楠は真っ向から反対し、生涯でただ1度、社会に直接関わる運動に立った。

 森の世界観

 集落の神社は住民の自治の拠点であり、それがなくなることでコミュニティが破壊されることを熊楠は懸念した。また、鎮守の森の消滅によって生態系が破壊されることも心配した。森がなくなり、その森に住んでいた鳥がよその土地に移ると、害虫が多く発生して農作物に被害を与える。自然の破壊が人間の生活や心に甚大な影響を及ぼすことを予見して、熊楠は神社合祀反対運動に挺身していった。

 熊楠が守ろうとした森は、そのまま日本人の精神性のよりどころでもある。木や草や鳥、獣、虫から微生物にいたるまで、無数の生命が生きる場である森には、キリスト教的な人間中心主義は生まれえない。自然は人間の従属物であり、人間は自然を自由に支配できるとするキリスト教的な自然観が大きな行きづまりを見せている21世紀、田中善助や南方熊楠が風景保護や自然保護で提示したアジア的な世界観こそが、重要な意味をもって私たちの目に映ってくる。

(つづく)

 これはあくまでも要旨ですから、実際にはこれほど理路整然と話が展開されたわけではありません。横光利一の「旅愁」に出てくる古神道のことを話しながらありゃりゃ、よく考えてみたらここはお寺ではないか、お寺で神道の話もなあと結構焦りながらそれならばと仏教に敬意を表してキリスト教的世界観の批判に話柄を転じたことを恥ずかしさとともに私はいま思い出す次第なのですが、横光のことは割愛しました。ギャグのたぐいもすべて省略いたしましたが、

 ──松尾芭蕉生誕360年記念事業の例からも知れるとおり、官と民による「協働」の試みはいまだ着実な成果をもたらすに至っていない。

 と惨憺たる結果に終わった官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のことはちゃんとおはなししております。三重県知事によって「新しい時代の公」のモデル事業と位置づけられながらものの見事に失敗に終わり、ただ三億円をどぶに捨てただけの話であったなんちゃって事業の関係者はせめてあの失敗から何かを学んでくれたのかな。何も学んではおらんのだろうな。ああ悲しい。先生は悲しいぞ。

 ──その理由のひとつは、地域住民が「公」という概念を理解できていないことに求められる。

 とも先生は話した。二〇〇四伊賀びと委員会であれ名張まちなか再生委員会であれ、おまえらはどうしてそれほど公という概念から遠いところに立っておるのか。ばかでもいい。まぬけでもいい。あほうでもよろしい。とにかく公金つかって何かをやるのであれば、公ないしは公益というものについてちっとは考えをめぐらせてみてくれんかね。この爆笑都市名張市においてはたとえば名張のまちにエジプトの絵を掲げることが公益につながると認識され、そんなとんでもない事業の費用の一部が公金によってまかなわれたりしているのであるが、ばかかこら。おまえらの公はいったいどこにあるのだ。おまえらの公益はどこにあるというのだ。ばかなことをいうものじゃない。ばかがばかなこというのはあたりまえの話ではあるのだけれど、しかし先生は悲しい。先生は悲しいぞ。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 連続企画・SRの10冊 ウルトラ特別編 江戸川乱歩の10作×4部門

 「SRマンスリー」9月号に掲載されました。全二十四ページのうち十五ページがあてられ、長篇、短篇、少年物、評論の四つの部門でベストテンが選ばれています。その四十作にSRの会メンバーが短評というかコメントというか讃辞というか、とにかく文章を寄せていらっしゃいます。

 しかし、しかしまいった。その四十作それぞれの文章のなかからどれを選んでここに紹介するべきなのか。私はおおいに悩ましい。あちら立てればこちらが立たず、私はさっきからほとほと困惑しております。ていうかそれ以前にえらいミスに気がついてしまいましたので、本日はとりあえずそのお詫びをひとこと。

 SRの会事務局から慫慂を受けて寄稿した拙文の冒頭から引きます。

黄金のスーパー・サブ四作
 ベストに選ばれることはまずあるまい。しかし乱歩を語るには欠かせない。乱歩の本質がかいま見える。そんなスーパーサブ作品、本誌編集部からご指名をいただきましたので、四つの分野別にセレクトしてみます。

 私は事前にお送りいただいてあった「10作×4部門」のリストに眼を通し、そこにあげられていない作品のなかから「闇に蠢く」「人でなしの恋」「魔法人形」「もくず塚」の四作を選んでよしなしごとを記したはずであったのですが、9月号をじっくり眺めてみると「10作×4部門」にはちゃんと「魔法人形」が入っているではありませんか。あーりゃりゃ。

 いやー、まいった。まいったまいった。SRの会のみなさんどうも申しわけありません。ご寛恕ください。


 ■10月31日(火)
サンデー先生特別講義(2)□ 

 きのうのつづきです。

 この講演要旨は二回連載の原稿として執筆いたしましたので、当サイトへの掲載も二回にわけて行いました。二回目の原稿を書くときには講演から十日ほどたっており、なんだか記憶があやふやだったのですが、まあいたしかたありません。

田中善助翁と「新しい時代の公」(2)
 金物商田中善助

 田中善助は安政5年(1858)、上野相生町の竹内家に長男として生まれた。幼名は覚次郎。家業は下駄屋だったが、覚次郎は汚い下駄の修理をしている父親の姿を見て情けなく思い、下駄屋のあとを継ぐのはいやだといいだした。江戸へ行きたい、ロンドンへ行きたいと途方もないことまでいう。思いあまった父親が新町で金物屋を営んでいた義弟に相談してみたところ、義弟に子供がなかったことから、覚次郎を義弟夫婦の養子にする話がまとまった。

 義弟夫婦は金持ちだし、金物屋は下駄屋よりもきれいだからと父親に説得され、明治5年(1872)、覚次郎は15歳で田中家の養子に入った。田中善助商店の仕事を手伝い、とくに養母からは厳しくしつけられた。22歳のとき養父が死んだため、覚次郎は田中善助商店のあるじとして金物商を営み始めた。相続した家督は予想外に少なかったが、上野一の商人をめざして商いに精を出した。

 新興商人として

 近世初期、藤堂藩は商業保護を目的として、伊賀国内の商業地を上野、阿保、名張の3か所に限定した。上野の町では本町、二之町、三之町のいわゆる三筋町に商店が軒を連ねた。井原西鶴の「好色一代男」に奈良の遊郭で遊んでいた伊賀上野の米屋が描かれているが、三筋町にはそうした羽振りのいい商人も存在した。いっぽう三筋町以外の枝町で禁を破って商いをするものも現れ、こそこそ商売することから「こそ商」と呼ばれた。三筋町の商人がその取り締まりを藩に願い出ることもあった。

 明治時代に入って藩による禁制が無効となり、三筋町以外の新興商人も自由に商売ができるようになった。善助は米や油などの生活必需品を扱う特権商人ではなく、ランクの低い新興商人のひとりに過ぎなかったが、伊賀では販売されていなかった金物を扱うなど、新興商人らしい商才を発揮して資産を増やしていった。

 有料道路の試み

 当時、上野にとって最大の動脈は大和街道だった。津から加太峠を越えて上野に入り、さらに西に進んで京都府相楽郡に至る。上野から京阪方面へ出荷された米や茶などは、大和街道を通って大河原の船場か笠置の船問屋まで送られ、そのあとは木津川と淀川の水運を利用して輸送された。大和街道は険しい坂道がつづき、荷物は牛馬の背に載せるしか方法がなかった。上野の特権商人たちは上野から笠置まで荷車が通れる新道を開くことを決め、大和街道道路改良社を組織、資金を借り入れて工事に着手した。

 明治16年(1883)、長田と笠置のあいだに大和街道の新道が完成した。商人たちはこの新道の利用者から料金を徴収し、借入金の返済にあてることを目論んでいた。新道の2か所には料金所も設けられたが、案に相違して通行料は徴収できなかった。荷車の車夫は料金所の手前で旧道に入って険しい坂道を通行し、料金所を過ぎたところでまた新道に姿を現した。日本初の有料道路ともいえる試みは失敗に終わったかに見えた。

 善助の名案

 田中善助もまた、金物商として運送の不便に悩んでいた。大和街道の通行料が得られないという話を聞き、それを自分の問題として解決法を探した。道路で通行料を徴収するのではなく、運送店が荷物の運搬を請け負った時点で、運賃に通行料を加算して徴収することを思いついた。運送店には手数料が支払われる。善助がこのアイデアを道路改良社の関係者に伝えると、さっそく改良社の会合が開かれた。善助はその席で質問を受けた。

 「道銭を負担するのは上野の商人だ。彼らの承諾が必要になるが、その点はどうする」

 「上野の主だった商人で上野商会という組織をつくり、道銭の負担について協議し、決定してもらえればいいかと思います。商人の団結が必要です」

 善助の提案は全面的に採用され、翌年上野商会が結成された。善助はその才覚によって上野の町の特権商人に存在を認められ、事業家としての非凡な才能を見せ始めた。

 病気療養と風流

 体調のすぐれない日がつづくようになった。医師の診断を受けると、貧血と胃弱による衰弱だという。大病というわけではないが、病気療養が必要になり、大阪の北浜に宿をとって養生につとめることにした。宿の主人が骨董好きだったことから、善助も興味を覚え、古道具屋回りに楽しみを見いだした。療養中に善助は30歳を迎えた。回復が思うに任せないこともあって、風流の道に生きようかとも考えた。

 そのころ、養母が茶道を始めた。茶席でつかっていた炭の芳香に気づいた宗匠が、どこの炭かと尋ねた。善助は月ヶ瀬で買ってきたと答えた。あとで調べると梅の木の炭だった。月ヶ瀬の梅は烏梅という紅染めの材料に使用されていたが、鉱物染料の登場で需要が激減した。そのため梅の老木を切り倒し、桑や茶を植えて生計の足しにしているという。伐採された梅が炭に焼かれていた。

 保勝会の結成

 古くから梅の名所として聞こえた月ヶ瀬の梅林が、村民の手で破壊されようとしている。それを知った田中善助は、さっそく梅林保護のための行動を開始した。月ヶ瀬まで徒歩で足を運び、村長をはじめとした関係者を説得した。梅林保護を目的とした月ヶ瀬保勝会を結成し、そのための費用に私財を投じた。明治24年(1891)、善助は34歳になっていた。

 保勝会の趣旨は村民には理解されなかった。梅林がすべて私有地であったことから、保勝会には梅の木の伐採を禁ずる権限さえなかった。しかし月ヶ瀬の梅林保護に奔走したことが、善助に景観保全の必要性を痛感させ、帝国議会に風景保護請願を提出させた。月ヶ瀬という地域の問題をそのまま全国的な問題としてとらえ、問題解決のため必要と思われる行動にすみやかに打って出た点に、田中善助の高い見識と柔軟な発想が認められる。

 善助のバトン

 田中善助は境界をものともせずに飛び越え、関係者に連帯の輪を広げてゆく。上野の人間にとって月ヶ瀬の問題は他人ごとでしかない。県境の向こうの話でしかない。しかし善助はみずからが向き合うべき問題であると認め、自身にかかわりのあることとして主体的にその解決に奔走する。すべてを公益という観点から観察し、月ヶ瀬が梅の名所として発展するのは上野の町の公益にもつながると判断して、邪念なく一直線に問題解決に身を挺してゆく。

 「新しい時代の公」を実現するために、私たちは善助からまずそのことを学ばなければならない。地域社会の問題にどう主体的に向き合うか、その解決のために他人とどう連帯するか、公益という観点から問題を正しく認識できるかどうか。それを確認することによってようやく、私たちは田中善助のバトンをこの手に受け継ぐことができる。

(おわり)

 そういった次第なんですから、公益のこの字も念頭にありゃしなかったいまはなき二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんも、その残党として伊賀地域各地で何かしらよからぬことに携わっている芭蕉チルドレンのみなさんも、それからもちろんわれらが爆笑都市名張市の名張まちなか再生委員会のみなさんも、インチキかまして調子こいてる暇があったらひとつ確認してみなさい。

 みなさんは地域社会の問題にどう主体的に向き合っているのか、その解決のために他人とどう連帯しているのか、公益という観点から問題を正しく認識することができているのか。ぜーんぜんできてないじゃありませんか。先生はほんっとに悲しい。

 みなさんがやったのは、あるいはやっているのは、やろうとしているのは、田中善助とはまったく正反対のことばかりではないか。たとえばここに名張まちなかの再生という問題がある。その問題の本質がみなさんには理解できているのかな。うわっつらのことしか見えていないのではないのかな。みなさんに主体性はあるのかな。官民の協働というお題目のかげで相も変わらぬ責任放棄、主体性の問題なんておよそ考えたことすらなく、他者との連帯などはもとより不可能、おなじ穴のむじなだけが寄り集まって閉鎖的排他的な委員会をつくるしか能がないから善助のように軽やかに境界を飛び越えるなんてことは逆立ちしたってできまいて。まったくどうしようもないなこのすっとこどっこいども。先生は呆れ返るぞ。

 なんてこといっててもしかたありません。名張まちなか再生委員会に捧げる特別講義は本日で終了し、月が替わったあすあたりからいよいよ爆笑都市の本丸、インチキの牙城、うわっつらの総本山、われらが名張市役所にご挨拶を申しあげることにでもしましょうか。

  本日のフラグメント

 ▼2006年9月

 人間椅子 河田陸村

 きのうのつづきです。

 「SRマンスリー」9月号に掲載された「江戸川乱歩の10作×4部門」のなかからどれを紹介するべきか、きのうも記しましたとおりあちら立てればこちらが立たず、悩みに悩んだすえようやく「人間椅子」に決定しました。

 理由のひとつは筆者がSRの会の会長でいらっしゃること。なにしろ会長さんなんですからこの選出にはほかの会員からよもや文句も出るまいて、と判断いたしました。結構あざとい選出であるといえるかもしれません。

 もうひとつの理由があります。あれは10月10日のことでしたが、高校の授業で生徒全員に「人間椅子」全文のコピーを配って黙読してもらったところ(こんなことやっていいのか、とは思いますけど)、男の子も女の子も身をよじるようにして気色悪がったり怖がったりしておりましたので、私はとても嬉しかった。だからここもやはり「人間椅子」で行っとこうかと考えた次第です。

 それでは「10作×4部門」のうち「短篇10作」の「人間椅子」から引用いたします。

 昭和三十年代、乱歩邸の応接間に背もたれのバカでかいアームチェアがあった。それを見て「これが人間椅子に違いない」と囁き合った覚えがある。青いビロード張りのイスで、人一人が隠れられそうなサイズだった。

 その後、あの応接は新築されたばかりと知った。イスも古びてはいなかった。でも、訪問者で「アッ、人間椅子」と思った人はたくさんいたはずだ。