2007年5月中旬
11日 本日は新刊二点のお知らせ
江戸川乱歩年譜集成 乱歩讃 川口松太郎
12日 えきべんいかーっすかえきべーん
江戸川乱歩年譜集成 プラトン社の軌跡 小野高裕
15日 事実誤認の松太郎
江戸川乱歩年譜集成 江戸川乱歩と美少女 川口松太郎
 ■5月11日(金)
本日は新刊二点のお知らせ 

 乱歩の未発表小説「薔薇夫人」が収録されるってんで乱歩ファンの前評判も高かった光文社文庫『江戸川乱歩と13の宝石』が出ました。きのう出ました。ミステリー文学資料館の編による「宝石」アンソロジー。乱歩が編集にあたった「宝石」から乱歩のルーブリックつきで名品佳品がピックアップされております。とりあえず版元のサイトの紹介ページをどうぞ。

 新刊のお知らせをもうひとつ。といったって私もまだ現物を手にしてはいないのですが、名古屋にある風媒社という出版社から小松史生子さんの『乱歩と名古屋』が出ました。出ているはずです。まだ出てないかもしれませんが、だとしてももう出ます。こちらもとりあえず版元のサイトの紹介ページをごらんください。ローカル出版社ですから流通面にやや不安があるのですが、このページから直接申し込めば確実にゲットできますなも。ゲットしないとだちかんがね。

 きょうのところはこんなところで。

 8月8日
乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第五回例会に出席する。
〇五四 乱歩書簡 八月九日
江戸川乱歩 
 昨夜例会を開きました。川口君の世話で探偵活動写真 through the Dark 八巻の映写あり、来会者七十名盛会でした。小倉から加藤重雄君も来会しました。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日
加藤重雄、生没年不詳。
『貼雑年譜』に例会の記事のスクラップがある。
貼雑年譜
大正十四年度 
 乱歩による書き込み
 十月号「苦楽」 編輯日誌
 スクラップされた記事の抜粋
 八月八日
 探偵趣味の会が大阪毎日新聞社の楼上に開かれる。江戸川乱歩、春日野両氏の肝入りに依つて、探偵小説同好の士及び探偵小説作家、飜訳家、新聞雑誌記者などを会員に、仲々の盛会である。今夜は日米映画の好意に依つてメトロゴールドウヰンの「暗黒」と云ふ探偵映画の試写を見せたりした。会費五十銭でアイスクリーム、紅茶活動といふお添物があつて、夕涼みがてらのお遊びには持つて来いである。来月は友達を誘ひ合はして出掛ける事とする。
初出・ 底本 貼雑年譜 第一分冊 東京創元社 2001年3月16日
川口松太郎が「乱歩讃」で探偵趣味の会の第一回会合としているのはこの日の例会か。
乱歩讃
川口松太郎 
 ところがその時分、大阪毎日に星野龍猪、和気律次郎と云ふ二人の探偵作家がゐて、これ又探偵小説隆盛を計らうと云ふ野心に燃えてゐるのであつたから、これが乱歩と結び合つて大毎に『探偵趣味の会』と云ふグループをでつち上げた。
 主として大毎関係の人材に乱歩が加はり、一般来会者をも歓迎する形式にして、大毎のホールにその第一回を開いた。来会者から五十銭くらゐの会費を取ると云ふので余興に活動写真を見せたが、たしかユナイトにあつたアルセーヌ・ルパンだとおぼえてゐる。
初出 新青年 昭和10年1月号 16巻1号 1935年1月1日
底本 
「新青年」復刻版 昭和10年合本1 本の友社 1992年2月25日
 きょうはこれです。いよいよきちがひじみてきました。

 5月1日付伝言に記しました川口松太郎の「乱歩讃」。「新青年」の昭和10年1月号に掲載された随筆ですが、乱歩らによって探偵趣味の会が結成され、

 ──(d)その第一回の催しを大毎のホールで開いた。来会者から会費五十銭を徴収し、余興にルパンの映画を観た。

 といったようなことが記されていました。上に引用したのがその原文。

 で、これはおそらく大正14年8月8日に開かれた第五回例会のことなのであろうと判断いたしました。『子不語の夢』収録の7月7日付乱歩書簡によれば、川口松太郎をはじめとしたプラトン社の面々が探偵趣味の会に加わったのは7月4日の第四回例会。つづく第五回に松太郎の世話で MGM 映画「暗黒」を観たと見るのが自然でしょう。松太郎は「暗黒」ではなくて「ユナイトにあつたアルセーヌ・ルパン」だったとしていますが、あいつのいってることはあんまりあてにならんのだ。


 ■5月12日(土)
えきべんいかーっすかえきべーん 

 本日はぱんぱかぱーん、みんなのあこがれ住民監査請求のおはなしとまいります。

 事実関係をふり返ってみますと、あれは4月25日のことでございました。私が名張市役所一階の市民情報相談センターで「公文書公開請求書」三枚を提出いたしましたのは。

名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの平成17・18両年度議事録のうち、細川邸の整備にかかわりのあるすべての文書

名張まちなか再生委員会の平成17年度予算執行実績のうち「(測試)細川邸実施設計委託料」にかんするすべての文書

名張まちなか再生委員会の平成18年度予算執行実績のうち「(測試)名張まちづくり塾」にかんするすべての文書

 以上の三件を請求したのでございましたが、担当セクションから電話で連絡が入り、名張市役所に足を運びましたのは5月9日水曜日のこと。「名張まちなか再生委員会歴史拠点整備プロジェクトの平成17・18両年度議事録のうち、細川邸の整備にかかわりのあるすべての文書」は問題なく議事録のコピーを入手でき、費用は百三十円でございました。つまり議事録は十三枚あって、コピー代が一枚十円という計算でございます。まだ仔細には眼を通していないのでございますが、なにしろ眼光紙背に徹するこの私、近くじっくり読み込むことになりましょう。

 残る二件はなんだか大変であるらしく、ぜーんぶコピーするとなると作業がえらいことなんです、と名張まちなか再生委員会事務局スタッフから示されたリストがまずこれ。

「細川邸実施設計委託(契約先:尾形建築事務所)」に関するすべての文書
1)細川邸改修他工事実施設計業務委託「入札仕様書」 40枚程度
2)細川邸改修他工事実施設計業務委託「参加申請書」 4枚程度
3)細川邸改修他工事実施設計業務委託「落札決定通知書/入札書」 6枚程度
4)細川邸改修他工事実施設計業務委託「契約締結」 45枚程度
5)管理技術者等通知書 1枚
6)監督員通知の提出について 1枚
7)建築士法第24条の5の規定に基づき委託者に交付する書面の書式について 1枚
8)設計業務等完成通知書 1枚
9)検査(検収)調書 1枚
※「成果品」については、改修工事の一般競争入札前であるため公開することができない。

 以前から記しておりますそのとおり、この実施設計そのものに問題を見いだすことは不可能でしょう。むろん問題はある。おおいにある。細川邸をどういう施設とするのかをいまだに決定できていない迷走ぶりと、にもかかわらず細川邸の実施設計を済ませてしまった跛行ぶり。現在にいたるまでのプロセスには黙視しがたい問題が明らかに存在しており、こんなインチキなやり方で税金の具体的なつかいみちを決められてたまるかってんだべらぼうめ、とは思うのですが、そしてこれは私ひとりの見解ではなくてまっとうな市民感覚というものを想定しそれを基準として考えてみてもてやんでえべらぼうめ、ということになってしまうはずだと思われはするのですが、しかしながらそういったプロセスの問題を住民監査請求という手法で追及することはおそらく無理であろうと判断される。

 具体的にどんな公文書があるのか、上のリストを示されてみると、こんな文書をチェックしたところで意味はあるまいとつくづく了解されましたので、合計すれば百枚程度になるこれらの公文書に関しては公開請求を却下してまいった次第です。

 つづいて「(測試)名張まちづくり塾」の件です。名張まちづくり塾? これなーに? と思ったのは4月16日、名張まちなか再生委員会事務局にまとめてもらった2006年度の予算執行実績に眼を通したときのことでした。名張まちづくり塾とやらに関して三重大学と契約が結ばれ、百四十九万九千円の税金が支払われておりました。

議事5関連資料:平成18年度(執行実績)
内容
契約者
契約額
(測試)名張地区既成市街地空間デザイン方針等検討業務委託
・「桝田医院第2病棟」跡地整備実施計画等
・「桝田医院第2病棟」解体除却設計
・公共サイン実施計画等
・まちなか再生事業総括執行管理支援
・季節伝統行事を活かしたまちなか再生事業の企画・検討支援
(株)都市環境研究所
8,001千円
(測試)名張まちづくり塾
国立大学法人三重大学
1,499千円
事務費
 
160千円
合計
9.660千円

 まーったくあんな駅弁大学いったいどこがありがたいのか。いや駅弁であろうがコンビニ弁当であろうがそんなことはどうでもいいのだが、とにかくどうして大学というものをここまでありがたがるのか、どうもよくわからんなと思いながら公文書公開を請求したところ、5月9日に示された公文書のリストがこれであった。

「名張まちづくり塾(契約先:三重大学)」に関するすべての文書
1)「受託研究申込書」の提出について 10枚程度
2)受託研究(三重大学)契約の締結について 5枚程度
3)受託研究完了報告書 70枚程度
4)検査(検収)調書 1枚

 私はこのうち受託研究完了報告書の公開を請求してまいりました。それ以外の三点は却下ね。

 ここでふり返っておきますならば、名張まちなか再生プランが策定されたのは2004年度のことでした。名張地区既成市街地再生計画策定委員会のみなさんにプランをまとめていただいたわけですね。2005年度にはそのプランを具体化するために名張まちなか再生委員会が発足いたしました。細川邸をどうするこうするという協議検討も進められたのですが、2007年度にいたってもその結論は出ておりません。

 ちなみに公文書公開請求にもとづいてもらってきた名張まちなか再生委員会の議事録を見てみますと、2005年6月26日に発足したこの委員会、同年7月29日の会合でこんなことを決定しておりました。

・細川邸は、歴史資料館ではなく“(仮称)初瀬街道からくり館”を基本テーマとする。

 名張まちなか再生プランにあった歴史資料館構想は弊履のごとく棄てられておる。しっかしからくりかよ。初瀬街道からくり館かよ。正気か。気は確かか。どーしよーもねーなーまったく。

 とはいえ名張まちなか再生委員会だけを責めるわけにもまいらぬでしょう。まず責められるべきはプランをまとめた名張地区既成市街地再生計画策定委員会なのであって、展示すべき歴史資料など存在していないにもかかわらず細川邸を歴史資料館にするなどというリフォーム詐欺みたいなプランを策定してんじゃねーぞばーか。しかしだからといってプランを勝手に変更するのはまずかろう。ルールや手続きといったものがここまで踏みにじられていいわけがない。だから私は事務局に対して、プランの目玉である細川邸整備の基本方針を変更するというのであれば名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集してプランを練り直させろと申し出たのですが、聞き入れられることはありませんでした。

 それでこの名張まちづくり塾なのですが、いったいどんな研究をしていただいたのかということは受託研究完了報告書のコピーを頂戴すれば一目瞭然でわかるはずなのですが、5月9日に事務局スタッフから聞かせてもらったところでは、細川邸の実施設計に関するあれこれや細川邸を運営する NPO の結成に関するあれこれを研究していただいたとのことでした。ですから細川邸の実施設計、事務局で確認したところでは2月8日に契約が締結され3月末にはもう完成というなんだか猛スピードで大江健三郎賞はみたいな勢いでしあげられた実施設計には、この名張まちづくり塾の研究成果が盛り込まれているとのことでございましたが、私がどうも変だなと思いますのは、名張地区既成市街地再生計画策定委員会のトップと名張まちづくり塾のトップが、なぜか同一人物でいらっしゃるということなのでございます。これは絶対に変でござんす。そうざんしょ?

 つまり名張地区既成市街地再生計画策定委員会のいちばん偉い方と名張まちづくり塾のいちばん偉い方とが、ともに三重大学という駅弁大学のおなじ先生でいらっしゃるわけなのね。なんか変じゃね? 細川邸を歴史資料館にするなどという知的怠惰まるだしのプランをまとめた委員会の、ということはそもそもプランを策定する能力などないのであろうと判断するしかない委員会のトップ、細川邸に関して端的にいってしまえば何の役にも立っていただけなかった委員会のトップの先生にですよ、名張市はまたどうしてわざわざ百四十九万九千円もの税金を支払って名張まちづくり塾なんてものをやっていただかなければならなかったのかしら。どうしてここまで癒着しなければならんのかしら。どうもようわからん。まあ名張まちづくり塾の受託研究完了報告書、コピーが手に入ったらじっくり拝見することにいたしましょう。眼光は紙背に徹するぞ。

 といったようなことでございまして、ぱんぱかぱーん、みんなのあこがれ住民監査請求はいったいどうなってしまうのか、私にもとんとわからぬきのうきょうでございました。えー、駅弁いかがですか駅弁。えきべんいかーっすかえきべーん。

 4月9日
川口松太郎、乱歩に手紙を出し、「苦楽」への小説執筆を依頼する。『貼雑年譜』に手紙のスクラップがある。
貼雑年譜
大正十四年度 
 乱歩による書き込み
 「苦楽」編集主任川口松太郎君ノ手紙
 スクラップされた手紙の抜粋
 あなたが江戸川乱歩のペンネームで新青年にお書きなさる新探偵創作小説は続けて愛読してゐました。
 それとなくお宅を調べてゐましたが宇野浩二さんからお聞きしましたのでこんなお願ひを致します。
初出 貼雑年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻 講談社 1989年7月25日
底本 
貼雑年譜 第一分冊 東京創元社 2001年3月16日
川口松太郎、二十五歳。この春、「苦楽」編集長に就任した。
プラトン社の軌跡
小野高裕 
 大正一四年春、川口松太郎は『苦楽』編集長に就任する。山名によれば「久保田万太郎氏の推薦で」ということだが、川口自身はこの辺りの経緯については触れていない。ともあれ『苦楽』四月号の奥付には、「編集人 川口松太郎」の名前が記され、意欲満々の編集後記が彼の筆でしたためられている。これを期に、『苦楽』の表紙は従来のファッションプレートから山名文夫のイラストに変わり、内容もまた若い川口編集長の手でてこ入れされていく。
初出・底本 モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代 著:小野高裕、西村美香、明尾圭造 淡交社 2000年6月20日
乱歩、川口松太郎の依頼に応諾する。
探偵小説四十年 「苦楽」と川口松太郎
大正十四年度 
これは「新青年」以外の雑誌からの二番目の註文で、(一番目は野村胡堂氏の「写真報知」であった。そのことは前項に詳記してある)その上「苦楽」が今いうような新鮮な感じの雑誌だったから、川口君の手紙は大いに私を喜ばせた。
初出 宝石 昭和26年3月号 6巻3号 連載:探偵小説三十年 第1回 原題:「苦楽」と川口松太郎君 1951年3月1日
底本 
探偵小説四十年(上) 江戸川乱歩全集第28巻 光文社 光文社文庫 2006年1月20日
〇二六 乱歩書簡 四月二十四日
江戸川乱歩 
 「ドラツグの人体模型」のは苦楽に書かうかと存じます。併しどう考へても探偵趣味が乏しくなり相で困つて居ります。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 編:浜田雄介 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日
 きょうも川口松太郎です。『モダニズム出版社の光芒 プラトン社の一九二〇年代』の第一部「プラトン社の軌跡」からフラグメントを引いてみました。

 東京で関東大震災に遭った川口松太郎は小山内薫の世話で大阪のプラトン社に入り、やがて大正13年1月に創刊された「苦楽」の編集長になります。それが大正14年春のことだというのですから、乱歩に手紙を出して原稿を依頼したのは就任直後のことなのであった。

 それでまたしても5月1日付伝言に記しました松太郎の「乱歩讃」。あそこには乱歩に会った松太郎が探偵小説を流行させたいという乱歩の熱意に感じ入り、乱歩を中心に探偵作家を糾合する計画をたてて、

 ──(b)その第一回会合を六甲の苦楽園で催した。ひどい雨で参会者は少なく、松太郎と乱歩のほかには三人くらい。なかに横溝正史がいて、初対面だというのに「苦楽」の編集方針に辛辣な批評を加えた。

 といったようなことが記されていたのですが、これは8月25日に苦楽園ホテルで開かれた会合のことなのかもしれません。こうした会合が開かれたことは『子不語の夢』収録の8月26日付乱歩書簡で確認できるのですが(ただし「苦楽園ホテル」とあるべきところ翻刻テキストは「芝東園ホテル」となっておりまして、えーっと、ドンマイドンマイ)、しかし松太郎はこれ以前に横溝正史と初対面を果たしているはずですからやっぱちがうのか。

 『モダニズム出版社の光芒』によりますと、大正15年1月に創刊された「演劇・映画」の編集長も兼務していた川口松太郎は二誌の編集拠点が大阪から東京へ移転されることになったのを機に、なぜかプラトン社を去ってしまいます。時期がいつなのかはわかりませんが、「演劇・映画」大正15年7月号の編集後記を書いたのがどうやら最後の務めであったらしい。

 大正15年、乱歩は「苦楽」1月号から「闇に蠢く」を連載し、しかし4月号と7月号を休載して11月号を最後に中絶してしまう結果になるのですが、この中絶には松太郎の退社がぼんやりとした影を落としていたのかもしれません。

 にしても川口松太郎というのはどうにも事実誤認の多い男であったようで、『モダニズム出版社の光芒』によれば自分がプラトン社を辞めた年をまちがえて記憶していたり、あるいは誰でも気がつくようなとんでもない矛盾を自伝的事実として平気で書き記してあったりするそうで、しっかりしてくれ松太郎。


 ■5月15日(火)
事実誤認の松太郎 

 すっかりご無沙汰してしまいました。といっても13日と14日、わずかに二日お休みしただけなのですが、いやもう大変であった。大変であったというかいまも大変なのですが、12日の土曜日からこちら老犬の介護という重大問題にふりまわされて昼も夜もない状態になってしまいました。あーふらふらする。

 おとといの朝に書きかけてそのままになっていた「江戸川乱歩年譜集成」の話題、なんとか書きあげてアップデートいたします。

 大正14年のページをご閲覧いただいた方からメールでアドバイスを頂戴しました。日付に曜日を入れてはどうか、というものです。

雑誌や書籍の発行日にはあまり意味がないでしょうが、例えば探偵趣味の会に曜日をつけると以下のようになります。

大正14年
4月11日(土) 大阪毎日新聞社探偵小説同好者が会合を開き、探偵趣味の会が発足する。
5月17日(日) 乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第二回会合に出席する。
6月6日(土) 乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第三回会合に出席する。
7月4日(土) 乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第四回例会に出席する。
8月8日(土) 乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第五回例会に出席する。

会合は土曜日に開かれていて、大阪毎日新聞社関係者や第三回に出席した府警察関係者などは、半ドンで参加しやすかったのではないか、第二回だけは「歎きのピエロ」の活動写真を見る時間を確保するためにわざわざ日曜日に集合したのではないか、といった読み方ができておもしろいと思います。

 なるほどこれは妙案。さっそく曜日を入れてみました。いよいよきちがひじみてきて大喜びしております。

 ちなみに曜日の確認ならこのサイトの「万年カレンダー」が便利です。何かのおりにはお試しください。

 サイトといえばもうひとつ、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の訂正表のページがあることも教えていただきました。皓星社のページです。

 教えていただきましたというか、私もこのページのことを知っていたはずなのですが、なんかあれこれむかついて記憶を抑圧してしまっていたのかもしれません。「山中」→「こちら」、「芝東園ホテル」→「苦楽園ホテル」も訂正されております。

 といったところで川口松太郎です。事実誤認の松太郎、誤認の松、誤認松、誤認松の一生、小倉生まれで玄界育ち、何をばかなこといってんだかよくわかりませんが、松太郎には「江戸川乱歩と美少女」という随筆があって、ここには大正14年7月24日の金曜日、乱歩とともに名古屋を訪ねた日のことが記されています。「小説新潮」の昭和54年5月号に掲載されたもので、1979−1925=54、つまり五十四年も前のことを思い出して書かれた随筆ですから、内容にさほどの信は置きがたいような気もします。

 たとえば乱歩とともに不木を訪ねた経緯はどう記されているのかといいますと、まず守口の乱歩を訪ねて原稿を依頼し、「苦楽」に「屋根裏の散歩者」を書いてもらったとあるわけです。しかし乱歩が最初に「苦楽」に書いたのは「夢遊病者彦太郎の死」でした。「屋根裏の散歩者」は「新青年」に載った作品なのですが、しかし松太郎はその苦楽版「屋根裏の散歩者」が大好評だったのでプラトン社の社長がおおいに喜び、ぜひ一席設けたいと提案したところ乱歩はそれを断って小酒井不木先生に会わせていただきたいと願い出たといいます。実際には乱歩はこの年1月に不木と会ってますからそんな申し出をするわけがなく、そもそもこのときのゆくたては『子不語の夢』の7月16日付乱歩書簡にこうありますから──

 色々御骨折り下さいました短篇集漸く出来上りましたから一部御目にかけます。実は出来上りましたら持参の上御礼に参上致し度いと心構えて居りましたのですが、父の病気が二三日来殊に悪く一寸家を明けることが出来ませんので、様子を見た上、若し出来れば数日中に一度お伺ひする積りで居ります。

 父親の繁男が小康を得たので不木を訪ねたということだったはずです。

 ほかにも、乱歩を世に送り出した編集者が横溝正史だったとしているのはむろん森下雨村の誤り。しかもその正史が東京から名古屋にやってきてこの日の会合に加わっていたというのですからしっかりしてくれ松太郎といいたくもなるのですが、「江戸川乱歩と美少女」を書いたときの松太郎は七十九歳という高齢でしたから、多少の誤認を責めるのはいかさま酷というものでしょう。むしろおぼつかない記憶を頼りによくぞ大正14年7月24日金曜日の乱歩の姿を書きとどめておいてくれたと、私は川口松太郎に感謝しなければならぬはずです。

 この随筆は「忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと」という連載の一篇で、ネット検索で調べてみると講談社から1983年に単行本が出ています。ほかにも乱歩のことが書かれているかもしれないな、とか思って「日本の古本屋」で検索するとヒットは十数件。なかに名古屋の御器所というところで営業している古本屋さんがあって、御器所となればこれは小酒井不木のお導きであろうとありがたく『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと』を注文し、つい先日届いたのを見てみると「江戸川乱歩と美少女」は収録されておりません。巻末に「連載のなかから著者自選により収録いたしました」と記されていて、つまり乱歩の登場した回はあっさり割愛されているわけです。なんだ、不木のお導きもたいしたことないな、とか思いながら読んでみるといろんな作家のエピソードが満載でなかなか面白い。

 「片岡鉄兵その他」には横光利一が欧州旅行に出かけたときの送別会なんてのが描かれていて──

 そんなことでその夜は散会になり横光は翌日横浜からたって行った。横光は私より一つ上、川端は同年だから鉄兵が最年長だ。横光は私にむかって、
 「君は作品より人間の方がいい、いい人間は作品のつまらぬ傾向がある。気をつけろ」
 と注意したことがある。みごとに当ったような気がしていまだに気になる。口かずは少なく無口なくせにいい出すとずばりと鋭いことをいう。我々はそれを横光のお筆先といったものだ。彼の死後に三重県選出の代議士斎藤昇が、
 「横光さんは伊賀の上野中学を卒業している。お母さんは伊賀出身なので横光さんの記念碑を造りたいが骨を折ってくれませんか」
 とたのみに来た。横光は元来大分県人なのだが父の仕事の関係で伊賀の県立学校を出ている。私は早速川端に電話をしてその斡旋をたのんだところ、川端は喜んで承知して伊賀に記念碑を建て「蟻台上に飢えて」という横光の色紙の文字を碑面にうつしその費用も寄進している。私も幾分負担して碑は今も伊賀の上野にあり、その除幕式には川端がわざわざ上野まで行ってくれた。そういう点で川端は仁義に厚い人だった。斎藤代議士も今は故人になったが彼のおかげで友人の記念碑が出来てよかったと思っている。

 ゆくりなくも松太郎と伊賀とのささやかな関わりが判明して、松太郎というのは案外いいやつだったのかもしれんなと思ったりする。

 7月24日 金曜日
乱歩、川口松太郎とともに名古屋を訪れ、小酒井不木と会う。
〇四七 乱歩書簡 七月二十五日
江戸川乱歩 
 昨日は多勢にておしかけ大変御馳走になりまして恐縮の至りで御座います。
 お蔭様で、大変愉快でした。国枝、松原両君にもお逢ひ出来ましたし、甚だ有意義な聯盟の内相談も纏り、一夜の会合にしては可也の収穫で御座いました。御礼申上げます。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 編:浜田雄介 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日
国枝史郎、三十六歳。本田緒生、二十五歳。
〇四八 不木書簡 七月二十六日
小酒井不木 
 川口君の御骨折で国枝氏にも御目にかゝることが出来、大衆作家聯盟の下相談の出来たことは全くの掘出しものです。松原君は家へ帰つて御父さんに叱られたさうです。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 編:浜田雄介 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日
川口松太郎、この日のことを「苦楽」十月号で記事にする。『探偵小説四十年』に引用、『貼雑年譜』にスクラップがある。
貼雑年譜
大正十四年度 
 乱歩による書き込み
 「苦楽」十月号 川口松太郎君記
 スクラップされた記事の抜粋
 [見出し]
 名古屋の会
 [本文]
 予め手紙で往復があつたので小酒井さんも国枝さんも僕たちの出かけてゆくのを待つて居て下すつた。何時も何時も用事は手紙ばかりで、名古屋と云へば大阪からは三時間で行かれる身が雑務に追はれ勝ちのお目にかゝる機会もなく、とうとう延々になつて漸く今日、お互ひがお互ひの顔を初めて見合せる段取になつたのである。
 晩になつてから、名古屋ホテルの一室で夕食の卓子を囲みながら、雑誌のはなし、読物のはなし、探偵小説のはなし、文壇のゴシツプなぞ、話はそれからそれへとつきて行かない。
初出・ 底本 貼雑年譜 第一分冊 東京創元社 2001年3月16日
川口松太郎、この夜のことを五十四年後に随筆に書く。
江戸川乱歩と美少女
川口松太郎 
 その頃の名古屋ホテルは現在のような大建築ではなく、納屋橋近くの横町にひっそり建っている木造二階建てで、明治初期の古色蒼然たる古ホテルだ。その古めかしさに風情があって愛好する人多く、私も乱歩も好きだった。医学者で作家の小酒井不木と時代小説作家国枝史郎とが現地参加、大阪からは乱歩と私、東京からは横溝正史、今では堂々たる老大家の横溝がまだ二十二、三歳の青年で、私が一つか二つ上だったと思う。大正十四年の初夏だから今より五十五年前のこと、夢のように古い話だが生きているのは横溝と私だけ、横溝も中年期には弱かったが闘病に成功して命を取りとめ老いて益々人気盛んである。
 この時の座談会では乱歩が大はしゃぎで、食事をはさんでのおしゃべりが十時頃までつづき、探偵小説の分野を大きく拡げたい野心と理想とで話は容易につきなかった。残念なのはその当時座談速記というものがまだなく、折角の名論も記録をとどめる方法を知らず、私なぞも喜んで話の中へ入ってしまい、記事にして発表する編集者の商魂を忘れたほどの青二才だった。
 やがて話もつきて小酒井・国枝の両氏は帰宅し、私たちはそれぞれの部屋へ引き取ったが、話の面白さに昂奮してベッドへ入っても仲々寝られそうもない。そこへフロントから電話がかかって、
 「恐れ入りますがちょっと下まで降りて来て頂けませんか」
 というのだ。
 「用事は何?」
 「江戸川先生に御面会のお方なのです」
 「そりゃア非常識じゃないか、今、何時だと思う、人を訪問する時間じゃない、断り給え」
 と怒ってやるとフロント係はさもさも困ったように、
 「私も再三申上げたのですが、どうしてもお帰りになりません、困ってしまいましたので」
 「どういうお方なのだ」
 「はい、もしよかったらそちらまで上って頂きましょうか」
 「いやそれも困る、今時分に迷惑だが仕方がない、そこまで行くよ」
 腹を立てながら階下へ降りて行くと、ホールにも既に人影はなくあたりはしんとしている。係と思ったのはホテルのマネージャーで、その前に一人の少女が立っている。
 「誠に申しわけありません、このお方なのです」
 ちょっと意外だった。夜中の面会強要とはどんな奴かと思ったが、仲々の美少女で態度もきちんとしている。
 「このような時間に申しわけありません、もっと早く着く筈なのにバスの故障で二時間も待たされてしまいました。江戸川先生が名古屋へお見え下さる事は滅多に望めませんので失礼を顧みずうかがいましたが、御不礼がすぎるようでしたら今夜はあきらめます、家が遠方なので明日出直すのもむずかしく、今晩はホテルの部屋を取って明朝お目にかからせて頂きとうございますが、いかがでございましょう」
 名古屋訛りが可愛らしいほど、挨拶もはっきりして単なる面会強要ではない。
 「江戸川先生をご存じなのですか」
 「いえお目にはかかりませんがお手紙を頂いた事がございます」
 「では先生はあなたを知ってるんですね」
 「さアおぼえていて下さいますか、心もとのうございます」
 恥かしそうな目をしていう。ちょっと見ると十八、九の少女だが話し出すと言葉の様子が二十二、三か、色の白い目鼻だちのきっぱりとした美人だ。相手が真面目なので、
 「少しお待ちなさい、乱歩先生は不眠症だからまだ起きているかも知れない、見て来て上げましょう」
 おせっかいにも二階の乱歩の部屋をたしかめに行った。少女が美しく可愛らしかったので可哀そうになったのだ。乱歩はまだ起きていて、
 「寝られそうもないので一杯飲もうかと思っているところだ」
 という。
 「可愛い少女が会いたいといってフロントへ来ているのだがどうしましょう」
 「困るねこんな時間に」
 「あなたに手紙を頂いた事があるといってましたよ、大分前らしいけれど」
 「おぼえないな」
 「服装もちゃんとしているし言葉づかいも丁寧で、いいかげんの者とは思えない、会ってお上げなさいな」
 「いやにすすめるじゃないか」
 「ホテルの部屋もちゃんと取っていて、今夜が失礼のようでしたら明朝お目にかからして下さいというのだもの、断われませんよ」
 「じゃアまア連れて来給え、可愛い少女というのも悪くないから、その代り君も立ち合うんだぜ」
 笑いながら承知し、おせっかいの私は少女を部屋へ連れて行った。夜中の初対面で挨拶はぎこちなかったが、話をしている内に乱歩も思い出したらしい。少女は古い手紙の一通と、小型の外国雑誌とを手提げの中から取り出した。手紙は乱歩のものに違いなかったが、外国雑誌にはポウの自筆書簡と肖像とが掲載されていて、
 「これはアラン・ポウのラブレターだそうです、英文ですけれども、先生に差上げたいと思って持ってまいりました」
 という。乱歩はすっかり喜んでしまってむさぼるように英文雑誌を読み出した。そうなればこっちの用は終ったのも同じなので部屋へ引き取って寝てしまったが、そのあと、乱歩と少女がどんな話をしたか、どんな事が起ったか聞きもせず乱歩も話さず、翌日の朝は勤めがあるため早い汽車で大阪へ帰る私と、昼近くまで寝ている乱歩とは別行動だった。彼はその後も「苦楽」のために「人間椅子」その他の名作を書いてくれて守口のお宅へも再三うかがって話し合ったが、ある日にふっと、
 「名古屋で夜中に訪ねて来た娘さんがいたね」
 と彼の方からいい出した。
 「ええ、あの少女はあれからどうしました」
 「少女じゃないよ、もう好い年の人で、名古屋では相当有名な金持のお嬢さんなんだ、名古屋の文学少女たちが同人雑誌を出していて、彼女も一作を書いている、読んでくれといって置いて行ったが小説は駄目だ、ものにならない」
 「でも美人でしたね」
 「うんあの翌日、八勝館へ連れて行かれて昼飯を御馳走になったが、今考えて見ると金持ちの不良だな、僕だから無事だったが、君だったら危険だった」
 「危険結構だ、金持ちの娘で美人で文学好きの不良と来れば申し分なしだ、残念な事したな」
 「今からでも遅くない。訪ねて行ったらどうだ」
 「いや彼女の目標は江戸川乱歩だ、僕なぞ歯牙にかけないでしょう、あの時に持って来た英文雑誌はどうしました」
 「あれは嬉しかったよ、ポウの自筆書簡は初めてだし、それがラブレターなんだから尚面白かった」
初出・底本 小説新潮 昭和54年5月号 33巻5号 連載:忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと 第28回 1979年5月1日
 しっかし大丈夫か松太郎。むろん大丈夫ではなかったのであろうな七十九歳の松太郎の記憶は。なにしろ横溝正史が途中で消えている。小酒井不木と国枝史郎が家に帰り、松太郎と乱歩がそれぞれの部屋へ引き取ったことは記されているけれど、横溝正史はいったいどうした。天に消えたか地に潜ったか、真珠郎のごとく忽然と姿を消してしまっているではないか。いやまあいいけど。老人の記憶に文句をつける気はさらさらないけど。

 それでも簡単に疑問を呈しておくならば、「名古屋では相当有名な金持のお嬢さん」が名古屋ホテルから「家が遠方」であったりするか? 「バスの故障で二時間も待たされて」いたというけれど松太郎たちの「おしゃべりが十時頃までつづき」というのだから二時間待たされなかったとしても名古屋ホテル到着は早くても午後8時過ぎ、それってやっぱ非常識な話でおかしくね? それにだいたいこのお嬢さんは乱歩が名古屋に来るってことをどこで知ったのよ? 謎はいろいろあってなんだかなあという気はしますけど、とりあえずフラグメントとして掲載しておくことにいたします。