2007年5月上旬
1日 フラグメント忍法帖 誤認でニンニン
2日 フラグメント忍法帖 東上と下阪の謎
3日 フラグメント忍法帖 寡黙それとも饒舌
4日 神戸文学館で『真珠郎』をどうぞ
5日 タルホとフラグメント
7日 タルホフラグメントから Rampo Fragment へ
江戸川乱歩年譜集成 「鏡」 探偵趣味の会
8日 名張市からプレゼントのお知らせです
RAMPO Up-To-Date 漱石、龍之介、賢治、乱歩、そして謎解き 四季が岳太郎
9日 ある山中における重大で特異な数日間の記憶
RAMPO Up-To-Date 日本ミステリー生誕の地 陳舜臣
10日 ある山中における「屋根裏の散歩者」擱筆の日
江戸川乱歩著書目録 タルホ事典
 ■5月1日(火)
フラグメント忍法帖 誤認でニンニン 

 月が替わりましたところで「江戸川乱歩年譜集成」におけるフラグメントその他の説明をば。

 日付
事項
引用文のタイトル
引用文の執筆者 
 引用文の本文
典拠

 これが記載の基本スタイルとなります。日付と事項というのは、要するに何月の何日にこれこれこういうことがありましたという説明です。いわば年譜の本文。

 そのあとに引用すべき文献があれば引用する。『探偵小説四十年』からの引用は「引用文のタイトル」とあるところに「探偵小説四十年」というタイトルと引用したパートの章題とを記し、「引用文の執筆者」のエリアにはそれが『探偵小説四十年』の何年度に記されているのかを明記する。例をあげればこんな感じ。

探偵小説四十年 名古屋と東京への旅
 大正十四年 
 その日は名古屋に一泊することなく、夜の汽車ですぐ東上したと覚えているが、それでも小酒井邸に五六時間はいて、いろいろ探偵小説の話をしたわけだが、どんな話が出たかは今少しも記憶がない。
初出 新青年 昭和25年4月号 31巻4号 連載:探偵小説三十年 第7回 1950年4月1日
底本 
探偵小説四十年(上) 江戸川乱歩全集第28巻 光文社 光文社文庫 2006年1月20日

 初出や底本といった典拠の記載はいささか煩瑣ではありますが、なにしろリファレンスブックなんですからリファレンスのためのデータとして煩をいとわず明示しておく。

 それからもうひとつ、年譜本文の記載がこんなふうになってるものもあります。

 日付
事項

 私の使用しているブラウザで行頭二字下げくらいに見える見当にページを設定してあるのですが、これは『探偵小説四十年』以外の文献にもとづいた事項であることを示しています。手っ取り早く例を引くならば──

 1月7日
小酒井不木、乱歩に葉書を出し、年頭に書簡で伝えられた来意に応諾する。
〇〇九 不木書簡 一月七日
小酒井不木 
 近くに東上のよし是非御立寄り下さい(。)御待ちして居ます。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日

 これは『探偵小説四十年』ではなくて『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』に依拠した記載事項ですから、年譜本文の段落が二字下げとなっている。

 それでこの例でいえば「近くに東上のよし是非御立寄り下さい(。)御待ちして居ます」というのがフラグメント。こんなのいちいち引用しなくてもとお思いの方もいらっしゃいましょうが、そもそも私は引用という行為が大好きで、それにたとえば不木なら不木という執筆者ないしは不木が執筆した文章に対してできるだけ誠実でありたいと考えておりますので、ならば不木が記したそのままを引用するのが望ましい。

 逆にいいますと、この場合の「小酒井不木、乱歩に葉書を出し、年頭に書簡で伝えられた来意に応諾する」という年譜本文、これは私の書いた文章なのですが、これがなんかやだ、という気がする。理想をいえば『江戸川乱歩年譜集成』にはただフラグメントのみが隙間なく整然と美しく並んでいて編纂者たる私の文章など一行も見あたらず、しかし年譜を通読するとその背後に編纂者の意志や企図や批評や見識といったものが、いや自分で見識といってしまってはまずいですけど、そうしたものが確乎として存在していることがうかがえる。そういうのがなんかかっけー、とか私は思いますので、自分の文章が出てくるのはなんかやだ、という気がしてくるわけなのですけれど、さすがに編纂者が年譜本文を書かないわけにはまいりますまい。

 それにしても私はどうしてこんなことを考えてしまうのか。つらつら案じますに伊賀の忍びの伝統ででもあるのでしょうか。忍びも達人の域に達すると自身の気配を完全に消し去り、ひとつの虚無と化して任務を遂行すると伝えられるわけなのですが、そういうのがほんとかっけーなと私は思う。しかし伊賀の忍びも最近はずいぶんと相場を下げているようで、あれは上忍とか中忍とか下忍とかいうのではなくてたぶん愚忍とか痴忍とかいうのでしょうけど、やれ忍者議会じゃほれ手裏剣対決じゃと何かにつけてメディアに露出したがるのが伝統に生きる忍びの眼には見苦しい。しかし伊賀上野観光の PR なんだそうですから、まあどうぞお好きにというしかありません。おーい、愚忍だか痴忍だか知らんけど今度ゴルフやるときは地震の起きない日を選ぶんだぞー。

 それでフラグメントを寄せ集めてみますといろいろなことがわかってきて面白い。面白いというよりは、乱歩先生だいじょうぶっすかー、みたいな心配さえおぼえないではありません。つまり乱歩の事実誤認がやたら判明してくるわけです。

 『探偵小説四十年』の大正14年度における事実誤認といいますと、いまやよく知られたところでは名古屋駅置き引き事件があります。乱歩は小酒井不木をはじめて訪ねたおり名古屋駅で置き引きに遭ったと記しているのですけれど、それはじつは一年後の大正15年1月に起きた事件なのであった。置き引きに遭ったというだけでもまぬけなのに事件発生の年までまちがえて、いやいや、私だっておととしの秋に JR 山手線の始発列車内で置き引きに遭ったまぬけですから偉そうなことをいうのはやめておきましょう。

 ほかにはたとえば西田政治と横溝正史にはじめて会った日の日付に事実誤認があります。これを最初に指摘したのはおそらく脚註王村上裕徳さんによる『子不語の夢』の脚註で、乱歩が正史からもらった葉書に「昨日は失礼致しました」とある「昨日」を初対面の日だと誤解したことが躓きの石となったわけなのですが、正史のいう「昨日」は探偵趣味の会の最初の会合が開かれた日のことであり、三人の初対面はそれ以前のことでなければおかしいというのが真相なわけです。

 ところでこの初対面の日のことは西田政治と横溝正史の両人もそれぞれに書き記していて(ふたりとも日付に関しては乱歩の事実誤認を踏襲しているのですが)、フラグメントばかの私はそれらをしっかり記載しました。そのひとつ、西田政治の「乱歩さんと私」には当然『探偵小説四十年』からは知りえない事実がつづられています。たとえば乱歩が手紙でまず政治に声をかけ、政治が援軍として正史を呼びつけたらしいことがわかりますし、三人とも和服であったとか話し合ったあと三人で元町通りを歩いたとかいったディテールが鮮明になってきて、編纂者たる私には乱歩の年譜がいきいきとした精彩を帯びてくるように感じられる。しかし政治は「何分にも三十年前のことで記憶が薄れている」とも書いていて、編纂者たる私はがっくり肩を落としたりもする。

 ほかにもいろいろあります。これは今回はじめて気がついたことで、乱歩先生だいじょうぶっすかーと思うと同時におれの頭もあんまり大丈夫じゃねーなーと実感させられた誤認がひとつ。それを明らかにしたフラグメントは「新青年」大正14年3月号の森下雨村による編集後記「編輯局より」でした。

 大正14年1月中旬、乱歩は名古屋の不木を訪ねたあと東上し、森下雨村ら「新青年」関係者と対面します。『探偵小説四十年』には日付はいっさい記されていないのですが、この「編輯局より」には乱歩の歓迎会が1月16日に開かれたと記されていて、これは得がたい記録である。みたいなことは「編輯局より」を引用してこの伝言板の「本日のアップデート」に記しもいたしましたが、この「編輯局より」にはもうひとつ大切な事実が記録されていました。

 因に二月号掲載の「心理試験」は英訳して、英米の探偵雑誌へ発表するつもりで、牧逸馬氏の手で目下飜訳中である。

 あッ、と年譜編纂者たる私は叫んだ。『探偵小説四十年』にはどう書いてあるか。牧逸馬が英訳していたのは「心理試験」ではなくて「D坂の殺人事件」であったと書いてある。また事実誤認なのである。乱歩は逸馬からの手紙を引いて──

 大正十四年一月十九日附「(前略)お作の英訳は昨夜から少しづつ手をつけてをります。何しろ不完全な私の語学力には、荷が勝ちすぎてゐるのでございますから、果してうまく御名作の意を伝へることが出来るや否やを疑ひます。ですが、私としてはこれほどの名誉はございません。少し永くかかっても出来るだけ忠実ないいものを typeout したいと存じます。(後略)」

 お作の英訳というのは、私の「D坂の殺人事件」の英訳のことである。それはあの短篇を書いた直後、私が上京したのを機会に、探偵作家の会合があって、その席上、森下雨村氏が、英訳してあちらの雑誌へ送って見ようではないかといい出され、ちょうど牧逸馬君がアメリカに永くいて英文が達者だったので、同君を煩わすことになったのである。

 ありえない。こんなことはありえない。「D坂の殺人事件」は「新青年」の大正14年新春増刊号に掲載された作品で、実際の発売日は前年12月初旬ですから脱稿は秋ごろのことと考えられます。だったら「あの短篇を書いた直後、私が上京したのを機会に、探偵作家の会合があって」なんてことはありえません。上の引用箇所は光文社文庫版全集『探偵小説四十年(上)』の103ページにあるのですが、95ページに乱歩はその歓迎会のことをこんなふうに書いてるわけ。

この辺は記録が残っていないのでウロ覚えだが、その晩集ったのは、たしか森下さんのほかに、田中早苗、延原謙、甲賀三郎、牧逸馬(林不忘)、松野一夫の諸君だったと思う。皆初対面であったが、会って見ると、甲賀君の顔には見覚えがあった。

 大正14年1月にはじめて会った牧逸馬に大正13年の秋に会ってるわけがありません。

 こうなると私には、乱歩がいったいまたどうして「心理試験」ではなく「D坂の殺人事件」が翻訳されたと(結局は翻訳されずじまいだったわけですが)思い込んでいたのか、それが気になってくる。どのような無意識の動きが乱歩をそんな誤謬に導いたのか。うーん。ようわからん。

 しかし乱歩先生だいじょうぶっすかー、という以上に『探偵小説四十年』におけるこんな明らかな矛盾にさえ気がつかなかった私はめいっぱい大丈夫ではないであろう。だいたいちょっと考えてみれば、「D坂の殺人事件」が翻訳にふさわしい作品でないことくらいすぐに察しがつきそうなものではないか。タイトルにアルファベットが入っているからなんとなくモダンな印象があるけれど、障子の格子の隙間から太い棒縞の浴衣がちーらちらなんて、そんな話が欧米向きか?

 それでもってまだある。まだあるのじゃ。乱歩の事実誤認らしきものはまだあるのじゃよ皆の衆。私はなんだか泣きたいような気分なのですが、情け容赦なく『探偵小説四十年』から引きましょう。探偵趣味の会について述べられたパートです。

 大正十四年四月ごろだったと思う。大阪毎日新聞社会部副部長の星野龍猪君(筆名、春日野緑、ルブランの保篠龍緒君とは別人)から突然、探偵趣味についてお話ししたいからという誘いの手紙が来た。大毎といえばつい此間まで私のいた新聞社であり、私は広告部の一平社員であったのに、星野君は副部長というのだから、敬意を表して、私の方から大毎へ出かけて行き、同君と初めて話し合った。そして、その席で、一つ探偵趣味の会を作ろうじゃないかと相談がまとまったのである。

 ここでフラグメント忍法、春日野緑の「乱歩君の印象」の術。昭和2年に発表された文章です。

 私が乱歩君にあつたのは余り前の事ではない、一昨年の冬頃だつたらう『二銭銅貨』などで乱歩君の名が知られるやうになり探偵小説も飜訳から次第に創作の時代へ移らうとしつゝある時であつた。あひたいという手紙を受けとつて、一夜私の家でおめにかゝつたのである。

 話がぜんっぜんちがうじゃん。乱歩は春日野緑から誘いがあって大阪毎日新聞社を訪ねたと記し、春日野のほうは乱歩から手紙が来て自宅で会ったとしている。春日野は二年前のこと、それにひきかえ乱歩は二十五年前のことを回想しているのですから、たぶん春日野のいってることが事実なのかなという気はするけれど、しかしそんな曖昧な根拠で乱歩が誤認していたと断ずるのはなんだかしのびない。

 そこでまたフラグメント忍法、今度は乱歩自身のフラグメント「探偵趣味の会を始める言葉」の術。「『探偵趣味の会』」というタイトルで「新青年」大正14年6月号に発表された文章です。

 探偵小説の同好者が集って、話し合ったり、色々な催しをやったりするのは面白いことに相違ない。私は兼てからそんな会を作りたいと思っていた。東京では森下さんなんか中心になって、既に度々やっていられる様だが、地方にいる私には、その都度それに参加する訳にも行かぬ。

 だが、聞く所によると、阪神地方には可也同好者があり、新青年の寄稿家なども多い様だ。一つ東京の向うを張って、こちらでも探偵小説同好者の会を始めてはどうだろう。そんな風に考えたものだから、その道では先輩の大阪毎日新聞の星野龍猪君に相談して見た。ところが、同君も大いに賛成して。新聞社にも数人同好者があるから、一つやろうじゃないかということになった。

 乱歩先生はこのように「星野龍猪君に相談して見た」とお書きじゃ。乱歩先生のほうから話をもちかけたのじゃな。ただしこの点は、春日野緑から誘われて会ったその席で、乱歩先生のほうから『探偵小説四十年』にあるごとく「一つ探偵趣味の会を作ろうじゃないか」と切り出したということであったのかもしれぬ。じゃがそれにしても、最初に会いたいという手紙を出したのがどちらであったのか、会った場所が大阪毎日新聞社だったのか春日野緑宅だったのか、そしてその時期は大正14年の4月だったのか春日野のいう「冬頃」であったのか。わからんことはたくさんあるのじゃ。

 ここでふと気になって、私は中島河太郎先生の『日本推理小説史』をひもといてみました。第二巻の第七章「探偵趣味の会」には、ああ、やっぱりこんなふうに記されているではありませんか。

 十四年四月ごろ、大阪毎日の社会部副部長の星野龍猪(筆名春日野緑)から、乱歩に探偵小説について話をしたいという申し入れがあった。当時星野は探偵小説の翻訳をやっていたので、乱歩の名を知っていたのである。

 中島先生は『探偵小説四十年』に全面的に依拠して筆を進めていらっしゃったようです。それはまあ当然といえば当然のことなのですが、なんだかほんとにどうよまったく。

 ほかに傍証はないものか。私はほとんど涙目になって川口松太郎の「乱歩讃」を読んでみました。「新青年」の昭和10年1月号に掲載された随筆です。『探偵小説四十年』にも引用されておりますので、光文社文庫版上巻の146、147ページをお読みください。

 それでもってこれがまた傍証というかなんというか、事実関係をいっそう複雑にこんがらがらせてくれるフラグメントなのであった。「江戸川乱歩年譜集成」の大正14年のページでこの随筆をどう扱うべきか、私はいまだ思案に暮れておるわけなのですが、とりあえず記された事実を追ってみると──

 (a)「苦楽」の編集者だった松太郎、守口に住んでいた乱歩をいきなり訪問した。探偵小説を流行させたいという乱歩の熱意に感じ入り、乱歩を中心に探偵作家を糾合する計画をたてた。

 (b)その第一回会合を六甲の苦楽園で催した。ひどい雨で参会者は少なく、松太郎と乱歩のほかには三人くらい。なかに横溝正史がいて、初対面だというのに「苦楽」の編集方針に辛辣な批評を加えた。

 (c)当時、大阪毎日の星野龍猪と和気律次郎も探偵小説を隆盛に導きたいとの野心に燃えていた。これが乱歩と結んで探偵趣味の会を結成した。

 (d)その第一回の催しを大毎のホールで開いた。来会者から会費五十銭を徴収し、余興にルパンの映画を観た。

 最後の(d)は『探偵小説四十年』の引用では省略されているのですが、まず(a)から見てみます。松太郎から乱歩へのファーストコンタクトは一通の書状で、『貼雑年譜』にスクラップされた封筒には乱歩による「大正十四年四月九日」という書き込みがあります。用件は「苦楽」への執筆依頼、「成る丈け早くお願ひいたしたいのですけれど、御諾否を伺はせて下さいまし」とありますから、松太郎が乱歩を訪ねたのは4月9日からまもなくのことであったと考えられます。

 (b)の日付も不明ですが、雨だったというのですから梅雨のことか。

 (c)にある探偵趣味の会が発足したのは4月11日。

 (d)に第一回の催しとあるのはどの催しのことか。探偵趣味の会の第一回の会合は(c)の4月11日なのですが、この日のことを指しているのではないでしょう。松太郎が乱歩に手紙を出したのは4月9日のことですから、その翌々日の11日にはまだ対面も果たせていなかったにちがいない。大毎のホールで開いたというのですから、松太郎が10月25日に苦楽園で催された探偵ページェントと勘違いしていたということもありえないでしょう。

 いやしかし、しかしどうも、どうもこれは、いやしかしどうもこれでは、ふと気がつくと私はいまやそこに確実に勘違いや事実誤認が存在しているということを前提として人の文章を読んでいるではありませんか。なーんかやな性格。


 ■5月2日(水)
フラグメント忍法帖 東上と下阪の謎 

 なーんかやな性格、ていうかこれが伊賀の忍びの本性なわけです。たとえ親子兄弟のあいだがらであっても相手を絶対に信用しない猜疑心のかたまりのような人間でなければ優秀な忍びにはなれません。ですから私も『江戸川乱歩年譜集成』の編纂にあたっては乱歩の述べているところをそのまま鵜呑みにすることなどけっしてなく、債鬼のように仮借ない資料批判を血も涙もなく展開したいと念じている次第なのですが、性格がいよいよ悪くなってしまいそうではある。

 それでなくても私は「『新青年』趣味」第十二号の「脚註王の執筆日記【完全版】」において、かの脚註王村上裕徳さんから、

 ──ボクは、中さんは、そうとうにイケズや、思います。

 とのご託宣をたまわった人間なのであるが(「いけず」の語義は Yahoo! 辞書のこのページでどうぞ)、『江戸川乱歩年譜集成』編纂者として余儀なくいけずの王道を究めることになるのであろうかしら。

 とはいえ、たとえばきのうの伝言をお読みいただいた乱歩ファンのみなさんには、『探偵小説四十年』の徹底した資料批判が必要であるという事実はご理解いただけたのではないかと拝察いたします。徹底した資料批判、なんてことになるともとより私の手には余る作業だといわざるを得ず、それにだいたいが天国の乱歩からも、

 ──いけず……。

 とかいわれたりしそうな気がしてなんかやだ。

 いや。

 いやいや。

 天国の乱歩が私にむかって、

 ──いけず……。

 などというわけがありません。ある意味聖典視されてまったく無批判な引用や孫引きがあっちこっちで行われている『探偵小説四十年』ではあるけれど、たとえば大正14年度の記述内容ってのは結局どんなものなのかというと、五十五歳の人間が二十五年前、自分が三十歳だった当時を回想した文章であるに過ぎません。手許に『貼雑年譜』をはじめとした参照資料があったとしても、勘違いや事実誤認、記憶の錯誤や修正はいくらでも生じてくるのが当然でしょう。だから私は天国の乱歩から、おかげで昔のことがよくわかったと感謝されこそすれ、

 ──いけず……。

 などといわれねばならぬ道理はないのである。そのはずである。そのはずではあるのであるが、まあいいか。

 それでは伊賀の忍びにしてフラグメントばかでもある『江戸川乱歩年譜集成』編纂者がきのうにつづいてお届けするフラグメント忍法帖第二弾。本日は東上と下阪の謎に迫ります。いや迫ったりはできません。謎を提示してみるだけです。

 大正14年1月、乱歩は大阪から上京しました。『探偵小説四十年』にはただ「一月中旬」とあるだけで、日付は明らかではありません。しかし「新青年」大正14年3月号に掲載された森下雨村の編集後記「編輯局より」によりますと、「新青年」関係者が乱歩を歓迎する小宴を催したのは1月16日のことであった。これはきのうも記しました。

 乱歩はその小宴が東京に着いた日の「翌晩か翌々晩」のことであったとしています。ここでは翌々晩であったと仮定しましょう。関係者に連絡する時間も必要なら関係者にだって都合というものがあったでしょうから、一日あけて翌々晩のことであったと見ておく。すると乱歩の動きはこうなります。

東上と下阪のスケジュール
1月13日 大阪から名古屋へ。小酒井不木宅を訪れる。夜の汽車で東上。
1月14日 東京に到着。博文館を訪れて森下雨村に会う。
1月15日
1月16日 「新青年」寄稿家による歓迎会。甲賀三郎、牧逸馬らに会う。
1月17日
1月18日
1月19日
1月20日
1月21日
1月22日
1月23日
1月24日 東京から下阪。小酒井不木に手紙を出す。

 なんとも空白の多いスケジュールです。ちなみに1月24日という日付がどこから出てきたのかというと、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』収録の「〇一〇 乱歩書簡 一月二十四日 封筒便箋4枚」にこうあるからです。

 本日帰阪致しました。

 先日は御立寄りしまして長生〔ママ〕したばかりでなく、御馳走にまでなりまして、大変失礼致しました。御礼申上げます。

 東京では、森下氏、馬場氏、星野氏などに逢ひ、文壇の人では宇野浩二氏など訪ねました。宇野氏は最近「新趣味」の探偵小説から得たヒントにより新聞に続きものゝ探偵小説を書く由です。何でも「二人の青木愛三郎」を敷衍した様なものだ相です。

 1月24日付の書簡に「本日帰阪致しました」と書かれているのですから、これは真に受けるしかないでしょう。ほんとはもっと早く帰ってたんだけど不木に礼状を出すのを忘れていて、あわてて書こうとしたのだけれど帰阪から何日もたってからの手紙では人としていかにも実がない、誠が感じられぬ、だから嘘ついて24日に帰ったことにしとこっと、みたいなことであった可能性もないではないけれど、しかしそんなことまで疑いはじめたら際限というものがなくなってしまいます。それに乱歩はたいへん律儀な人でしたから、帰阪したその日に関係者への礼状をしたためたはずである。ここはいくら伊賀の忍びとて乱歩の言を信じることにして、だからこの空白の多いスケジュールはどうよということになる。

 不木宛書簡に名の見える馬場孤蝶、星野龍緒と東京で対面したことは『探偵小説四十年』には記されていないのですが、このふたりと宇野浩二でわずか三人。不木宛書簡にはほかに誰を訪ねたとも書かれていませんから、東京で会った探偵小説ないしは文壇の関係者はこれだけであったとして、たとえば14日に森下雨村、15日に馬場孤蝶、16日に星野龍緒、その夜には「新青年」の寄稿家、17日に宇野浩二といった日程で面会してゆけば四日間でこなせるスケジュールなのである。

 と書いて気がついたのですが、「新青年」大正14年3月号の「編輯局より」にはこうありました。

 江戸川乱歩君の上京を機とし、一月十六日の晩に、江戸川の橋本に探偵小説同好者の集りを催した。会する者、田中早苗、延原謙、春田能為、長谷川海太郎、松野一夫の諸君、それに編輯同人の神部君と自分、全部で八人の小さい集りであつた。(星野、浅野、妹尾、坂本の諸君は通知が間に合はず、或は事故のため欠席)

 欠席だった「星野」というのは星野龍緒のことでしょうから、乱歩は16日には星野に会っておらず、17日以降に対面を果たしたということになるでしょう。しかしそんなのは些細な問題であって、早ければ17日には用事が済んでいたはずなのに、乱歩の帰阪が24日になったのはいったいなぜなのか。

 宇野浩二の証言を見てみましょう。乱歩が菊富士ホテルへ訪ねてきたときのことが、宇野の「日本のポオ──江戸川乱歩君万歳」にはこんなふうに描かれています。

その時彼は懐から一冊の雑誌を出して、「ところで、自分はかういふものを書いてゐるものだが、読んで見てほしい」といつた。現在は大阪在に住んでいる、そして一両日前に東京へ来たのであるが今夜にも帰るつもりであるといつて、彼は雑誌(新青年)を残して帰つて行つた。

 これは大正15年の1月、つまり乱歩の訪問から一年後に書かれた随筆なのですが、ここにある「一両日前に東京へ来たのであるが今夜にも帰るつもりである」という乱歩の言にもとづいてスケジュールを組み直してみると、雨村と会った日の翌々晩ではなくて翌晩に歓迎会が開かれたことにして──

東上と下阪のスケジュール
1月14日 大阪から名古屋へ。小酒井不木宅を訪れる。夜の汽車で東上。
1月15日 東京に到着。博文館を訪れて森下雨村に会う。
1月16日 馬場孤蝶に会う。夜は「新青年」寄稿家による歓迎会。甲賀三郎、牧逸馬らに会う。
1月17日 星野龍緒に会う。宇野浩二に会う。夜の汽車で下阪。
1月18日 大阪に到着。

 これならば乱歩の言のとおりということになるだろう。しかし乱歩の帰阪は18日ではなく24日なのである。『子不語の夢』にそう書いてあるのである。

 あ。

 もしかしたらあれか。

 『子不語の夢』に誤植があるのか。

 それとも乱歩書簡をちゃんと判読できてないのか。

 そんなことも私は考えた。『子不語の夢』でお骨折りいただいたみなさんにはほんとに申しわけない話であるけれど、伊賀の忍びは猜疑心のかたまり、どうぞ許してくださいな、と心で詫びながら『子不語の夢』附属 CD-ROM に収められた乱歩書簡の写真を見てみると、そこにはちゃんと、

 ──廿四日

 とあるではないか。『子不語の夢』スタッフのみなさん、疑ったりして本当にすみませんでした。

 もうひとつの手がかりとして宇野浩二の手紙があります。これは『探偵小説四十年』にも引用されていて、光文社文庫版全集上巻の113、114ページをお読みいただきたいのですが、そこにこうあります。

 今日又、お送り下さった雑誌のお作も拝見しました。(註、D坂の殺人事件)お断り書きにあるやうに、終ひの方が少し略され過てゐるのを残念に思ひます。だけど構想としては面白いものだと思ひました。

 これは1月26日付の書簡で、『貼雑年譜』にもスクラップされており、日付はたしかに「二十六日」です。事実関係を推測してみますに、乱歩は東京で菊富士ホテルに宇野浩二を訪ね、「心理試験」が掲載された「新青年」を手渡した。そして大阪に帰ってから、今度は「D坂の殺人事件」が掲載された「新青年」を添えて礼状を送った。帰阪は1月24日。その日のうちに礼状を書いたとして、24日に大阪で投函された郵便物が26日に東京に到着するのかどうか。当時の郵便事情がよくわかりませんからなんともいえませんが、不可能なことではないのではないか。もしも不可能なのであれば、乱歩の帰阪は24日よりも前であったということになります。

 いや、いやいや、乱歩が「D坂の殺人事件」の載った「新青年」を東京滞在中に送っていたという可能性もあるのですから(げんに小酒井不木には東京からも手紙を出していたことが『子不語の夢』で確認されます)、1月26日付の宇野浩二の手紙もたいした手がかりにはならないか。うーん。まいった。

 ですから結論といたしましては、不木への手紙にあるとおり帰阪はやはり1月24日のことで、となると乱歩は東京に十日間も滞在していたということになります。何をやっていたのか。博文館に足を運んで森下雨村と探偵小説談義に花を咲かせるとか、そんなことをしていれば時間はすぐに過ぎてしまうでしょうけれど、乱歩はむしろ早く大阪に帰りたかったのではあるまいか。「新青年」の寄稿家に知己ができ、探偵小説の隆盛を実感し、自分が探偵作家として大きな期待を寄せられているという事実も肌身に感じたことでしょうし、敬愛する宇野浩二に会うこともできたわけですから、かくなるうえは早くうちに帰って「赤い部屋」を書こうっと、今度はプロバビリティの犯罪だもんねー、とか思って大阪まで矢のように帰ってゆくのがふつうではないのかしら。だというのに東京で何をぐずぐずしていたのか。

 あるいはまあ、宇野浩二に別れを告げて菊富士ホテルを出たあと、東京駅にむかう途中である不思議な事件に遭遇し、それを解決するために東京にとどまりつづけたなんてことがあったりしたら面白いとは思うのですが、実際にはそんな小説みたいなことあるはずもないしなあ。やっぱもちまえの放浪癖で、都会の雑沓をあてもなくふらふらしたりなんかしてたのかしら。


 ■5月3日(木)
フラグメント忍法帖 寡黙それとも饒舌 

 まいった。むろん「江戸川乱歩年譜集成」のことでまいってるわけですが、フラグメントをたったかたったか掲載してゆくとだんだんえらいことになってくる。

 けさなど大正14年の5月14日にいきなり、

 ── ヘンリー・ライダー・ハガード、六十八歳で死去。

 なんてのが出てまいりまして、こういう歴史事象が前後の脈絡とは関係なしに不意に顔を出してくるのが年譜というものの面白いところなのですが、違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。

 しかしそんなのはフラグメントの問題ではありませんからこの際どうだってよろしい。問題なのはフラグメントが増えてくるとトリビアルなところばかりが眼につくようになってしまい、年譜としてのおおまかな流れが見えにくくなってくるようだという一事です。これはいささかまずいか。

 問題を回避する方法はあります。フラグメントの本文を隠してしまうことです。すなわち大正14年のページには年譜本文とフラグメントのタイトルならびに執筆者名だけを記すことにして、そのタイトルをクリックするとブラウザの別ウインドウが開き、その時点ではじめてフラグメントの本文が読めるようになる。そうしておけば問題はクリアされることでしょう。フラグメント忍法のうち火遁の術でも水遁の術でもなく、ウインドウ遁とか窓遁の術といったことになるのでしょうか。その場合、フラグメントなんてたいていは短い文章なのですから、別ウインドウは小さなサイズで開くようにするのがおしゃれである。これは可能です。そのように設定すればいいだけの話です。

 しかし私にはその方法がわからない。新たに開かれるウインドウのサイズは縦が何ピクセルで横が何ピクセルと設定するのはごく簡単なことであるはずなのに、その方法がわからない。サイト構築ソフトのヘルプを開いてあっちこっち眺めてみても、いったいどういった項目を参照すれば自分が知りたい操作方法にたどりつけるのか、それさえわからなくて朝から途方に暮れてしまう。するうち私は、いや待てよ、と思い返す気になりました。年譜本文とフラグメントとは、あくまでも同一のページの上で緊密に照応し合っていなければまずいのではないか。

 フラグメントってのはいったい何か。『探偵小説四十年』の記述を、ということは年譜本文の記述を相対化するための素材である。読みたいときだけ読めるというのではまずいのではないか。意地の悪い奥方のようにいつも年譜本文にぴったり寄り添っていないことには、年譜本文だけが事実としてひとり歩きし誰かと浮気してしまうことになるのではないか。

 例として大正14年4月の年譜本文を引いてみましょう。

 (a)乱歩、春日野緑(星野龍猪)から手紙で誘われ、大阪毎日新聞社を訪ねて面会する。その初対面の場で、探偵趣味の会を結成する相談がまとまる。

 (b)乱歩、森下雨村に手紙で探偵趣味の会のことを伝える。京阪神に住む探偵小説同好者の名前と住所を問い合わせ、京都の山下利三郎、神戸の西田政治と横溝正史を教えられる。

 (c)乱歩、神戸で西田政治と横溝正史に会い、探偵趣味の会に入会することの承諾を得る。

 以上三件、いずれも日付は不明、じつは4月のできごとであったかどうかも怪しいのですけれど、乱歩は、

 ──大正十四年四月ごろだったと思う。

 としてこれら一連の歴史事象が4月ごろに生起したと記しています。

 さらに年譜本文をたどってゆくと、4月11日に大阪毎日新聞社で探偵趣味の会が発足したという記述にぶつかります。この日付はたしかな日付です。『探偵小説四十年』にも引かれているとおり小酒井不木の書簡でそれが証明できますし、例の横溝正史の葉書も傍証になります。

 ここで人は何を思うか。上に引いた(a)から(c)までのできごとはほんとに大正14年4月のことなのか。どうもそうとは思えない。ていうか絶対にちがうと思う。あれだけのできごとが4月の上旬だけに収まってしまうはずがない。ならばいつなのか。それを考える手がかりこそがフラグメントなのであって、たとえば4月9日付の不木宛乱歩書簡にはこうあります。

 大分以前に阪神の同好者の雑談会をやり度いと思立ち、二三の人々にも逢つて話して居たのですが、最近それが具体化して、明後日「大阪毎日」の楼上で十人計りの同好者が集つて話し合つて見ることになりました。

 「二三の人々」というのは春日野緑、西田政治、横溝正史のことでしょう。ならば「逢つて話して居た」「大分以前」というのはいつのことか。春日野緑のフラグメント「乱歩君の印象」を見てみる。

 私が乱歩君にあつたのは余り前の事ではない、一昨年の冬頃だつたらう『二銭銅貨』などで乱歩君の名が知られるやうになり探偵小説も飜訳から次第に創作の時代へ移らうとしつゝある時であつた。

 「一昨年」というのは大正14年のこと、その「冬頃」というのですから1月か2月か、そういった見当になるでしょう。そのころに何があったか。今度は乱歩自身のフラグメント、1月24日付不木宛書簡を見てみます。東京から帰阪した日の手紙です。

 京阪神地方には大分同好者がある由で、主な人の名前なども聞いて参りましたから、いづれ往来して好きの道を語り合ひ度く思つて居ります。

 つまり乱歩は1月に上京したおり、森下雨村から京阪神の探偵小説同好者の名前やたぶん住所も教えられていたわけです。ところが『探偵小説四十年』にはこんなぐあいに書かれている。

 ──そのとき、私は「新青年」編集長の森下さんに手紙を出して「探偵趣味の会」のことを報じ、京阪神の同好者の氏名住所をたずねたが、それに対して、森下さんから、たしか京都の山下利三郎、神戸の西田政治、横溝正史の三君の住所を知らせて下さったのだと思う。

 これは春日野緑と初対面を果たしたあとの、つまり大正14年4月ごろのアクションとして回想されていることなのですが、事実とは相当に異なっているのではあるまいか。ならば事実はどうであったか。推測してみますに、乱歩は1月24日に東京から帰ってきた。「赤い部屋」の執筆という当面の課題をこなしながら、いっぽうで「好きの道を語り合」うべくまず春日野緑にコンタクトを取り、つづいて雨村から知らされたアドレスを頼りに西田政治に手紙を出した。そういったところなのではなかったかしら。

 ですから上に掲げた年譜本文のうち、4月ごろのことだったという(a)はそもそもそんな事実があったかどうかさえ疑わしく、実際は春日野緑の「乱歩君の印象」にあるごとく、乱歩が春日野に連絡してまだ寒い時期に春日野宅で初対面を果たしたものとおぼしい。つづく(b)だって、何もその時点で雨村に手紙を出して京阪神地方に住む探偵小説同好者の住所氏名を問い合わせる必要はなかったであろうと思われますし、それが4月のことであったはずもない。そして(c)、政治正史との初対面ももとより4月11日のことではなく、たぶん2月か3月のことであったはずである。どっちかっていったら2月かな。

 みたいなことを人は想像するわけである。「江戸川乱歩年譜集成」の大正14年のページの閲覧者は必ずそのような思いを馳せるはずなのである。ただしそれは年譜本文とフラグメントとが同一ページ上で緊密に照応し合っている場合の話であって、大正14年のページに年譜本文とフラグメントのタイトルおよび執筆者名のみが記載され、フラグメントの本文がウインドウ遁とか窓遁の術で隠されてしまっているのであれば、人はそこまで緻密な想像力を働かせて年譜を読み込んでくれないのではあるまいか。

 したがいまして当面の結論としては、大正14年のページに年譜本文とフラグメントを同時に存在させたままで作業を進めることとしたい。とりあえず1月から12月まで一貫したページをつくってしまってから、そのあとでいろいろあれこれ細かい点について考えることといたします。

 それともうひとつ、私にはフラグメントが年譜のおおまかな流れを見えにくくしてしまうという問題以外にもうひとつ気になることがあって、それは年譜編纂者がここまで寡黙であっていいのかどうかということである。必要最小限の言葉で年譜本文を記述し、あとはフラグメントを配置してさあどうよと、年譜本文とフラグメントの照応からいろいろなことを読み取ってくださいなと、それは読者の作業ですと、そういって収まり返っているだけでいいのかどうか。年譜本文とフラグメントの照応性に読者の注意を喚起する、みたいなことをもっと心がけたほうがいいようにも思われる。

 たとえば西田政治、横溝正史の両人とはじめて会ったのは大正14年4月11日であったとするのは明白に乱歩の事実誤認なんですから、年譜本文でもそれは指摘してある。しかし確たる根拠はないけれどこれはこう考えたほうが自然なんじゃないのとかおそらく乱歩の勘違いなんじゃないのとか、そういったことは読者の判断に委ねることにしてあって年譜本文ではいっさい言及していない。それでいいのか。あるいはもうちょっと注意喚起が必要なのか。この伝言板に記したごとく小酒井不木と乱歩の初対面はいつであり乱歩の東京滞在は何日間であり、あるいは乱歩は宇野浩二に「新青年」のこの号を手渡しこの号を郵送していたのである、みたいなことをたったかたったかと書き連ねてゆくと驚くべし、年譜本文が『子不語の夢』の脚註のようなものに化してしまう虞が多分にある。それではまずかろう。あの脚註は脚註だからあれでいいのであるけれど、『江戸川乱歩年譜集成』の本文があんなになってはよろしくない。

 私は伊賀の忍びとして峻険な崖の上でひとり風雪に耐えている松の木のように寡黙でありたいと念じているのですが、里の木に羽を休める小雀みたいにもう少し饒舌になったほうがいいのかな。

 なーんか悩ましい話ですけどここでお知らせ。ミステリー文学資料館のオフィシャルサイトがリニューアルされましたのでぜひアクセスを。光文社のサイトから独立し、権田萬治さんの「館長ブログ」も掲載。

 6月には資料館の新しい企画として土曜講座「ミステリーの書き方」全五回がスタートするそうで、講師は新保博久さん。詳細はサイトで直接どうぞ。


 ■5月4日(金)
神戸文学館で『真珠郎』をどうぞ 

 けさは「江戸川乱歩年譜集成」にまったく手をつけておらんのですが、むろんこんな日があってもよろしい。

 きょうのところは神戸文学館で昨日開幕した企画展「探偵小説発祥の地 神戸」のお知らせを「番犬情報」でごらんいただければそれでよろしい。

 神戸文学館のオフィシャルサイトはこちら。

 私はまだ足を運んでおりませんので展示内容をつまびらかには承知していないのですが、正史の著書では昭和12年に六人社から出版された『真珠郎』が、なんてったって乱歩への献呈署名入りとあってひときわ異彩を放っているものと思われます。この『真珠郎』、自慢じゃないけど名張市立図書館の蔵書なり。

 名張市立図書館もたまには世間のお役に立っておるというわけなのですが、いくらなんでももうそろそろ乱歩と無縁な図書館にならなければならんわけで、関係者全員がそれを願っているものと推測される次第なのですが、あ、そういえば、

  ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 の件、名張市教育委員会の教育次長とやらもまったく困ったものであって、そろそろ名張市役所に凸して凹ってやろうかなと思っても連休であったか。へっ。へへっ。へへへっ。


 ■5月5日(土)
タルホとフラグメント 

 いつか宝塚版黒蜥蜴に関連して記したことですが、私は稲垣足穂の「美しき穉き婦人に始まる」を読むまで「穉」という漢字があることを知りませんでした。同様に『タルホフラグメント』という本を読むまでは、断片や断章を意味する「フラグメント」という言葉を知らなかったのであろうなと振り返られます。

 『タルホフラグメント』は大和書房から出ていた「夢の王国」というシリーズの一冊で、いまは手許にありません。このシリーズのなかで私が現在も所蔵しているのは、どうやら中井英夫の『黒鳥の囁き』だけみたい。1974年5月30日発行のそれを引っ張り出してきて巻末のシリーズ一覧を見てみると、『タルホフラグメント』はこんなぐあいに紹介されていました。

 益々聖者の貌を著しく現わしてきたタルホの現在──桃山の暮しからモナリザの秘密まであます所なく伝えるフラグメント集成。

 ああそうか、やっぱりな、と納得されるところがありました。何が納得されたのか。自分がこんなフラグメントばかになってしまったのは、やっぱ足穂の影響なのかな、といったようなことでした。

 いや、ここで訂正を入れておきましょう。私は先日来自分のことを「フラグメントばか」と称してまいりましたが、僭越ながら「フラグメントきちがひ」とあらためることにいたします。ばかというのは単なるばかなのですが、きちがひとなるとなにしろ気がふれているのですからたいしたものです。常人にできないことはばかにもできませんが、きちがひというのは常人にできないことでもへたすりゃ平気でやってしまう。そういったいわゆるものぐるいへのあこがれをこめて、私はきょうから「フラグメントきちがひ」を僭称することにしたい。どうして「きちがい」ではなく「きちがひ」なのかというと、歴史的かなづかいで表記したほうが気のふれ方に品が感じられるという理由によります。向後万端よろしくお願いいたします。

 おととい、大阪にある旭屋書店のあれは本店か、曾根崎の店に立ち寄ってみたところ、雑誌「ユリイカ」のバックナンバーを平積みにしたコーナーがありました。「ユリイカ」という雑誌が名張市内の本屋さんに置かれてあるのかどうか、あらためて考えてみるとよくわからないのですが、とにかくそんなのが出ていたことなどまるで知らなかった去年の9月臨時増刊号《総特集 稲垣足穂》、眼についたので手に取ってみました。

 目次をながめてちょっとだけ愕然としました。名も知らぬ書き手がたくさん並んでいるからです。むろん松岡正剛さんを筆頭に見なれた名前もあるものの、どちらさまで? と尋ねたくなるような名前がそこここにある。ですから最初は購入する気もありませんでした。しかしそのうち食指が動いて、巻末に年譜と書誌が掲載されているから資料として手許に置いておくかとか、江戸川乱歩リファレンスブックの装幀をお願いしている戸田勝久さんの絵も収録されていることだしとか、あがた森魚さんが荒俣宏さんと対談しているのがなんか楽しみなような気もするしとか、そんなことをみずからにいいきかせながら購入した次第でした。気になるお値段はなんと二千二百円。

 巻末の書誌はとりあえず、キネマクラブの編による「稲垣足穂著書目録」が有用。おととし出版されたちくま文庫の稲垣足穂コレクションの内容を確認することができました。というのもこのコレクション、当地の本屋さんではまったく見かけなかったような気がするからで、乱歩に関連のある作品も収録されているのだろうなと気にかかりながら、むろん大阪の本屋さんに立ち寄ったとき手に取ってみればいいのですが、そのときにはそんな文庫本のことなどきれいに忘れ果てているから始末が悪く、ときどき思い出しては、あ、いつか内容を確認しなくちゃなと思いつつおとといまでむなしく日々を過ごした私であった。

 稲垣足穂コレクションから著書目録をさかのぼってゆくと、あ、これはいかん、みたいな本にもぶつかります。1975年に潮出版社から出た多留保集別巻『タルホ事典』に乱歩の「萩原朔太郎と稲垣足穂」が収録されておるではないか。まいったな。この本のことは「江戸川乱歩著書目録」に記載してない。不備である遺漏である欠陥である。書棚をぐるーっと見てみたら多留保集はただ『びっくりしたお父さん』があるだけというていたらく。そこで私はついさっき、この本は手許に置いておきたいからとみずからにいいきかせつつ、「日本の古本屋」を検索してもっとも安価な『タルホ事典』を発注したのであるけれど、気になるお値段は三千六百七十五円もするのであった。

 おなじくキネマクラブの編による「彼自身による稲垣足穂」は面白い試みで、足穂自身によってくり返し語られた生涯のあれこれの日々を、「全集から部品を拾い集め組み立てられたセイントタルホの縮尺模型〔スケールモデル〕」としてまとめた年譜です。まさしくフラグメントの集成であって、フラグメントきちがひたる私にはとても興味深く、またおおいに参考にもなりましたが、ちょっとした事実誤認がありましたので意地が悪いようなれど指摘しておくことにいたしましょう。

 「大正十五年・昭和元年(一九二六年) 二十六歳」の項に、

 ──江戸川乱歩と知り合う。

 とあるのは誤りで、足穂と乱歩の初対面はおそらく昭和6年の秋であろうと推測されます。

 事実関係の流れをごくあっさりと見ておきますと、昭和6年10月15日、萩原朔太郎と乱歩がはじめて会う。朔太郎、乱歩の人柄を好ましく思い、足穂に乱歩を紹介する。ですから足穂が乱歩と知り合ったのは昭和6年10月15日よりもあと、ただし足穂はこの「彼自身による稲垣足穂」によれば昭和7年の1月か2月に明石に帰省、「美しき穉き婦人に始まる」の日々がはじまるといったゆくたてとなります。

 それからまた、『探偵小説四十年』には、

 ──私の家内が早稲田大学の裏で下宿屋をやっているころで、稲垣君がその下宿屋へ遊びに来たのが最初であった。

 とあり、足穂の「旅順海戦館と江戸川乱歩」には、

 ──朔太郎は、なんでも現存の秘密なマッサージ倶楽部についてたずねるために、戸塚緑町に下宿屋をひらいていた乱歩を訪れ、先方の人柄が気に入ったと云って、自発的に私に紹介状を書いてくれたのだった。

 とあります。この下宿屋の廃業は昭和6年11月のことで、東京日日新聞の11月24日付夕刊に「探偵作家の名物下宿もこれでなくなつた」と報じられていますから、足穂と乱歩の初対面は昭和6年の10月下旬か11月上旬または中旬といったところになるでしょうか。

 それがどうして「彼自身による稲垣足穂」において大正15年のことと誤認されたのかというと、おそらくは『探偵小説四十年』の大正15年度に「萩原朔太郎と稲垣足穂」の章が置かれているからでしょう。こういう誤認を防ぐ意味でも一日も早く「江戸川乱歩年譜集成」を完成させねばならんわけですが、大正14年のページにはけさも手をつけなんだ私である。いかんいかん。こんなことではいかんのであるが、世間が大型連休だと思うとどうも気がゆるんできて、きのうも真っ昼間から知人とビールを飲んだりしてどうもいけません。

 ともあれ、『江戸川乱歩年譜集成』をフラグメントの集成として構成するという発想は、その淵源をたずねれば足穂の「一千一秒物語」なのではないかしらと、この「ユリイカ」の臨時増刊号をながめていた私はなんとなくそんな気がしてきました。だからどうだということもないのですが、フラグメントきちがひの自己分析はまあそういったことなのである。


 ■5月7日(月)
タルホフラグメントから Rampo Fragment へ 

 ありゃりゃありゃりゃ、と思ってるあいだにきのうで大型連休が終わってしまいました。思い起こせば4月27日、

 ──『江戸川乱歩年譜集成』の刊行へむけてそろそろ当サイト「江戸川乱歩年譜集成」を充実させてゆく必要があるのじゃが、はてさてその方途は、みたいなことをちょこっと試行錯誤してみたい。

 と宣言して私は連休に突入したのですが、いまだに試行錯誤が終わりません。きのうなんか更新をお休みして四苦八苦していたというのにどうよこの決定力不足。

 とりあえずニュースを一件。乱歩がらみのニュースを検索しておりましたところ、goo のニュースサイトでひっかかってきたのが4月27日付の goo ランキング「じっくり読みたい、日本を代表する近代作家ランキング」。

 トップは不動の漱石、二位がやや意外ながら宮沢賢治、そのあと芥川、太宰と順当につづいて、われらの乱歩が三島をおさえて堂々の五位、それから康成、鴎外、遠藤周作、井上靖というのがベストテン。二十位までに稲垣足穂の名前は見あたりません。

 調査対象は goo リサーチ登録モニター千人あまりとのことですが、「じっくり読みたい」というのですからじつはまだ読んだことがないけど一度は読んでみたい作家を適当にあげてみましたという回答も少なからずあったのではないか。武者小路実篤や有島武郎あたりがランクインしているところから推測するに、そーいや中学校の国語の教科書で見かけたよなー、みたいな感じで名前をあげたモニターもあったにちがいないと思われます。まあどうでもいいけど。

じっくり読みたい、日本を代表する近代作家ランキング
5位に入った推理作家の《江戸川乱歩》も注目したい作家の1人。名探偵・明智小五郎が快刀乱麻で事件を解決する『D坂の殺人事件』など大人向けの探偵小説や、そのスピンオフ作品である少年探偵団シリーズの生みの親としてあまりにも有名です。子どものころに『怪人二十面相』をはじめとする少年探偵団シリーズを読んで胸を躍らせていた人も少なくないのでは?
goo ニュース 2007/04/27/09:30

 乱歩の五位が妥当なところかどうか、私にはもうひとつよくわかりません。ポピュラリティならいまや漱石の塁を摩し、いやポピュラリティという一点でならすでに漱石を凌駕しているとさえ私には見える当節の乱歩なのですが、五位というのはどういうことか。まあどうでもいいけど。

 問題なのはフラグメントです。フラグメントきちがひの私はこのサイトで乱歩に関するフラグメントをどんなぐあいに扱ってゆけばいいのか、この伝言板と「江戸川乱歩年譜集成」の作成をどう連動させてゆけばいいのか、それを考え抜いたあげくの単なる思いつきでとりあえずこんなふうなことを試みてみました。

 5月17日
乱歩、大阪毎日新聞社で開かれた探偵趣味の会の第二回会合に出席する。
〇三二 乱歩書簡 五月十八日
江戸川乱歩 
 「趣味の会」昨夜開きました。「歎きのピエロ」の活動写真を見物したあとで、松竹座の地下室食堂で話しました。第一回に集つた人の外に、新聞社からと電報通信社からと一名づゝ同好者が来ました。初会十一人でした。
初出・底本 子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集 浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会/皓星社 2004年10月21日
『貼雑年譜』に会合を報じる新聞記事がある。
貼雑年譜
大正十四年度 
 「鏡」 探偵趣味の会
スクラップ 
 「探偵趣味の会」第二回の集まり前回の課題「鏡」を各自創作してもちよつた
 ▽鏡にがい骨の笑顔が映る──Y博士の恐怖を描いたもの(神戸横溝生)
 ▽猫の嫌ひな男が夜金庫に映る夜光時計の光りを猫の片眼と思ひちがつてピストルを放ち誤つて妻を殺す(大阪井上君)
 ▽断崖から見た男の胸にバラの花がさしてあつたと思つたのは実は男の姿が池に映つてゐたものでバラの花は丁度男の胸のところへ映つてゐた(大阪井上勝君)
 ▽花嫁が抱いてゐた写真をどこへしまふかと思つてふすまの孔から見たのが、鏡に映つたものを見てゐたゝめにたんすのひきだしを間違へてトンデもない悲劇を起す(大阪江戸川乱舞君)
 ▽「懐中鏡を帯の間にはさんでおくと魔よけになる」といふ話を中心に二組みの夫婦を描いた小品(春日野緑君)
初出 貼雑年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻 講談社 1989年7月25日
底本 
貼雑年譜 第一分冊 東京創元社 2001年3月16日
貼雑年譜
大正十四年度 
 十四年六月二日 大阪毎日新聞
書き込み 
 「乱舞」ハ誤植デアル
初出 貼雑年譜 江戸川乱歩推理文庫特別補巻 講談社 1989年7月25日
底本 
貼雑年譜 第一分冊 東京創元社 2001年3月16日
 まあざっとこんな感じ。何から何まで試行錯誤の途中であるとご承知おきください。すべてはいまだ「試み」です。

 大正14年5月17日、探偵趣味の会の第二回会合が開かれました。それを伝える乱歩書簡は数日前に掲載したのですが、『貼雑年譜』にある大阪毎日新聞の記事をフラグメントとして本日追加してみました。

 第二回会合がいつ開かれたのか、大毎の記事には記されていないのですが、不木宛乱歩書簡と照合すると5月17日であったと知ることができます。

 大毎の記事は『探偵小説四十年』にも引用されているのですが、乱歩は引用文に平気で手を加えるくせがありますので、あえて原文を引いてみました。

 気がかりが二点。

 乱歩はこの会合で披露した創作をふくらませてこの年12月の「映画と探偵」創刊号に「接吻」を発表しています。ならば「接吻」の題材はこの第二回会合のときになんとかかんとかといった回想があってもいいように思われるのですが、そんなものはどこにも見あたりません。もしかしたら乱歩はそのことをすっかり忘れていて、「探偵小説三十年」執筆に際して大毎の記事に眼を通したあとでもなおそれに気がつかなかった、といったことなのかもしれません。大正14年や15年あたりのこととなると、乱歩はなかば他人の自伝を書いているようなもどかしさをおぼえつつ筆を進めていたのではなかったか。私にはどうもそんなふうに思われてきました。

 それが気がかりの一点目。つまり乱歩の記憶の曖昧さがいよいよ気になってきたということと、もうひとつの気がかりは先日もふれた読者の注意喚起という問題です。

 「花嫁が抱いてゐた写真をどこへしまふかと思つてふすまの孔から見たのが、鏡に映つたものを見てゐたゝめにたんすのひきだしを間違へてトンデもない悲劇を起す」という文章を読んで「接吻」を連想するのは乱歩の読者ならあたりまえのことで、そんなことをいちいち年譜編纂者が書き記す必要はないであろうとは思うのですが、インターネット上の「江戸川乱歩年譜集成」においては乱歩のことをよく知らない閲覧者に対してもっと親切であるべきだという気もいたします。さあどうするの、というのが気がかりの二点目です。


 ■5月8日(火)
名張市からプレゼントのお知らせです 

 本日はお知らせ一件。名張市のオフィシャルサイトに「名張を舞台にしたミステリ『北斗七星の迷宮』を無料でおわけします」という告知が掲載されております。

 SR の会のみなさんには懐かしく思い出していただけるでしょうか。乱歩生誕百年に沸いた1994年、名張市で開催された「ミステリー夢舞台・名張」。乱歩賞作家の石井敏弘さんが名張を舞台に書きおろしたミステリ小説を読み、名張のまちなかを歩いて謎を解こうという催しがあったみたいなのですけれど、その『北斗七星の迷宮』を無料でプレゼントいたします(郵送代は負担してね)、という太っ腹な企画です。

 「北斗七星の迷宮」が大幅に改稿され、「うつし世は悪夢」と改題されて、今月中旬にふくろう出版から刊行される『ノー・ソリューション』に収録されるのを機に企画されたプレゼントらしいのですが、そういえば私は「推理小説が解けない!答えは WEB で!の本登場」(4月26日付アメーバニュース)というニュースも眼にしておりました。詳細は名張市のページからふくろう出版のオフィシャルサイトへジャンプしてご確認ください。どうして名張市が提灯持ちををしなければならんのか、いささか理解に苦しまないでもありませんけど、探偵小説の興隆を願ってというような高邁な理念でもあるのかな。

関連書籍
漱石、龍之介、賢治、乱歩、そして謎解き 四季が岳太郎
4月15日 杉並けやき出版(発売:星雲社)
著:四季が岳太郎
関連箇所
第三部 「J・ミステリー」の不可思議
 序章 日本の推理作家、名探偵の名前尽くし
 第一章 乱歩の幻影
  その一 明智小五郎の犯罪(D坂の殺人事件の顛末)
  その二 第三の屋根裏の散歩者
 「RAMPO Up-To-Date」に本日掲載したものですが、この手のネタもとりあえず Rampo Fragment として扱ってみることにいたします。

 「はじめに」によれば、「物語の不十分さや過ちを指摘したり、または、物語が包含するちょっとした謎を解明したり、あるいは、新たな結末を付記したりする」一冊。タイトルにはきのうとりあげた goo ランキング「じっくり読みたい、日本を代表する近代作家ランキング」ベストファイブのうち太宰治をのぞく四作家があげられていますが、ほかにも雨月物語や南総里見八犬伝、ミステリ作品では「獄門島」「占星術殺人事件」「誰もがポーを愛していた」「五十円玉二十枚の謎」といったあたりが俎上に載せられています。

 乱歩作品ではD坂と屋根裏が登場するのですが、フラグメントは「明智小五郎の犯罪(D坂の殺人事件の顛末)」から引用。タイトルから知れるとおり明智はこの事件で犯罪を犯していたというのが著者の説くところで、ネタバレにならない程度に引きましょう。

 ところが、物語では、明智の言うとおりに蕎麦屋の主人が犯行を認め自首したということで物語の結末がつけられている。このことを理解するには、明智が説明した一部分、蕎麦屋の主人と古本屋の女房が男女の関係にあり、蕎麦屋の主人が古本屋の女房を殺したと思ってしまうような状況も起こっていたと解釈すべきだろう。けれど、スイッチの件や、目撃者の証言をあわせ考えれば、その現場に、明智も行ったのだ。

 著者の分析と考察を知りたいとおっしゃる方はお買い求めまたはお立ち読みをどうぞ。本体千と二百円。


 ■5月9日(水)
ある山中における重大で特異な数日間の記憶 

 しかし川口というのもいい加減な男ではないか。川口ってのは川口松太郎のことなんですけど、大正14年の「苦楽」10月号に堂々と事実誤認を記しておる。それが乱歩の誤認のもとになっている。困ったやつだ。

 江戸川乱歩君が名古屋の小酒井不木氏をお訪ねすると云ふ好い道連れが出来て、暑い盛りの八月のある日、僕たちは梅田発の三等特急へ乗つた。

 これが「苦楽」10月号に掲載された松太郎の「名古屋の会」という記事の書き出し。乱歩はこれにもとづいて、

 ──「夢遊病者」を書いた大正十四年八月には、川口君と一緒に名古屋に旅行をして、小酒井さんに会ったりしている。

 と『探偵小説四十年』に記しているのですが、これがまちがいです。松太郎と乱歩が不木を訪ねたのは8月ではなくて7月24日のことでした。『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の7月25日付乱歩書簡でそれが確認できます。

 乱歩の場合はしかたあるまい。二十五年も前のことを思い出しながら「探偵小説三十年」をつづっていたのだから、7月だったか8月だったかそんなことがわかろうはずはなく、手許に残っている当時の資料を信じるしかないのである。しかし松太郎はどうよ。「名古屋の会」の原稿を書いたのは名古屋を訪れてから一か月もたってないころのことであったと推測されるのだが、それで7月と8月をまちがえるか。

 まちがえるかもしれんな。人の記憶なんてまったくあてにならないものだということが、『探偵小説四十年』を鬼のごとき実証主義者の眼で読んでゆくとよくわかるというそれ以前に、自身の日常をふり返っても記憶というものの頼りなさ恃み甲斐のなさは私にはたいへんよく理解できる。

 しかし『探偵小説四十年』にはくっきりとした輪郭をもって回想されている場面もあって、大正14年のことでいえば「父の死」にこんなシーンがあります。三重県関町あたりの山中で療養していた父親を訪ねたときの描写です。

 母は父につき添って、その一軒の小屋を借り、自炊をして、二人きりで、二三カ月暮らしていたように記憶する。すぐ前の渓流が、いつもすがすがしい音を立てていた。鶯の声も聞えた。上流には、翠巒が重畳し、白い小みちの砂は、しっとりと沈んで、ひいやりとした山気が立ちこめていた。まるで別荘住いのようなものであった。

 渓流のせせらぎ、鶯のさえずり、緑なして幾重にもつらなる山々、踏みしめれば少しだけ沈む砂地の小道、身を押し包んでくるような冷たい山気。そういったディテールが鮮明に描かれているのは、死とむきあっている父親を山中に訪ねるという、いってみれば人生における重大な、そしてこの場合はかなり特異な数日間が乱歩の記憶に深く刻まれていたからにほかならないでしょう。記憶そのものが歪曲されている可能性も少なからずありますが、乱歩はこの山中の光景をきわめて印象深いものとして明瞭に想起することができたのだと思われます。

 「江戸川乱歩年譜集成」の大正14年度に日々ぼちぼちと掲載しているフラグメントから判断いたしますに、父親の繁男が三重県の山中で療養生活に入ったのは4月上旬、たぶん6日か7日のことで、乱歩がはじめてそれを見舞ったのが4月下旬、あるいは中旬か。

 6月には6日に探偵趣味の会の第三回会合が開かれますが、そのあと乱歩はふたたび父のもとを訪れます。まだ完成していなかった「屋根裏の散歩者」の原稿を持参したことは『探偵小説四十年』にも書かれていて──

 それが三分の二ほど書けたときに、山の中の父のところへ行かなければならぬ用件が出来た。どうしても延ばすことが出来なかった。しかし、父のところから帰ってから書くのでは、「新青年」の締切に間に合わない。私は仕方がないので、書きかけの原稿を持って山へ旅立った。そして、父の病室の隣りの部屋で、机もないので、赤茶けた古畳の上に腹這いながら、「屋根裏」の終りの方を書き上げ、大いそぎで、山の下の町から郵送した。

 「山の中の父のところへ行かなければならぬ用件」というのは何であったか。繁男に坐椅子をもっていったのではないかと思われます。繁男が乱歩に宛てた6月4日付書簡が『貼雑年譜』にスクラップされているのですが、そのなかで繁男は背もたれの角度を変えられる坐椅子が欲しいと訴えている。病状がいよいよ悪くなったとも書いてある。乱歩は一日も早く繁男の願いを叶えてやりたいと思ったはずで、坐椅子と原稿を携えて三重県鈴鹿郡坂下村、現在の亀山市関町坂下にむかったのではなかったか。

関連文献
日本ミステリー生誕の地 陳舜臣
探偵小説発祥の地 神戸
5月3日 神戸文学館
企画・構成:神戸探偵小説愛好會
 きょうも「RAMPO Up-To-Date」で行っときます。

 神戸文学館で5月3日開幕した企画展「探偵小説発祥の地 神戸」のパンフレットに掲載されました。冒頭の段落から引いてみます。

 神戸は日本のミステリーが産声をあげた土地といってよいだろう。モダン好みの雑誌『新青年』は大正九年に創刊されていた。もちろん発行所は東京である。海外に目をむけている青年層を読者に想定した雑誌であった。そのころ大阪の守口にいた江戸川乱歩は、同好の士と連絡をとりたいと思って、『新青年』の編集長の森下雨村に手紙をかいた。森下はそれにたいして、神戸在住の西田政治と横溝正史の住所をしらせたのである。

 まあこういった感じです。『探偵小説四十年』に全面的に依拠した記述で、大正14年4月11日に乱歩が神戸を訪れて西田政治と横溝正史に会い、

 ──彼らはそこで「探偵趣味の会」をつくった。誕生の日も場所もちゃんとわかっている。

 といったことになるのですが、多くを語ることはいたしますまい。そんなことより早く「江戸川乱歩年譜集成」を完成させて本にしなくっちゃ。しかし大仕事だぞ実際。

 ここでお知らせ一件。神戸文学館で6月2日、神戸探偵小説愛好會の野村恒彦さんによる講演「昭和50年代の横溝正史ブームを再検証する」が行われます。開演は午後2時。聴講無料。詳細は神戸文学館オフィシャルサイトでどうぞ。


 ■5月10日(木)
ある山中における「屋根裏の散歩者」擱筆の日 

 ではここで大正14年6月、乱歩が「屋根裏の散歩者」の原稿を携えて三重県鈴鹿郡坂下村の父親のもとを訪ねたときのスケジュールを推測してみます。坂下村滞在がもっとも長かった場合を考えます。

父を訪ねた山中行のスケジュール
6月04日 繁男、乱歩に手紙で病状を報告、坐椅子が必要なことを伝える。
6月05日 乱歩、繁男の書簡を落掌か。
6月06日 乱歩、探偵趣味の会第三回会合に出席。
6月07日 乱歩、坂下村を訪れるか。
6月08日
6月09日
6月10日
6月11日 乱歩、「屋根裏の散歩者」の原稿を発送か。同時に不木宛の葉書を投函か。
6月12日 不木、坂下村から出された乱歩の葉書に返事を出す。宛先は守口町の住居。
6月13日 乱歩、父母とともに守口町へ帰る。

 滞在がもっとも長かった場合、乱歩は6月7日に坂下村に入り、13日に守口の住まいへ帰宅したということになります。帰宅の日は確定ということでいいと思われます。『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』の6月15日付乱歩書簡でそれが確認されます。

 ここで『子不語の夢』についてひとこと。p.87から p.91にかけて「〇三七 乱歩書簡 六月十五日 封筒便箋6枚」が収録されているのですが、p.88の九行目にこうあります。

 一昨日父を伴つて山中へ参りました。そして先生の御はがき拝見致しました。

 しかしこれ、正しくはこう読むべきかと判断されます。

 一昨日父を伴つてこちらへ参りました。そして先生の御はがき拝見致しました。

 「山中」ではなくて「こちら」が正しいのではないか。つまり『子不語の夢』の翻刻テキストは誤りだと思われます。

 とはいえ私は書簡翻刻スタッフを責めているわけではまったくなく、読めない字なんてごろごろあってあたりまえなのであるから、そんなことで非難してくるやつがいるのならいくらでも相手になってさしあげましょう。むしろ私は『子不語の夢』の編集段階で、判読困難な文字があったときにはそれを脚註で明示する、つまりこの場合には「山中」という語に「この字をなんと読めばいいのかじつはよくわかりません。とりあえず『山中』と読んでおくことにいたしました。どんな字なんだかは附属の CD-ROM で書面を直接確認してたもれ」といったような脚註を附してはどうかという提案を思いつけなかった自分を責めたい。そうすりゃ翻刻スタッフの精神的負担を軽減することができたであろうものをと、スタッフ各位に心のなかで詫びを入れながら、むろん『子不語の夢』をお買い求めくださったみなさんにもひそかにお詫びを申しあげつつ話を進めます。

 それでこの6月15日付乱歩書簡、「一昨日父を伴つて山中へ参りました」ではおかしいわけです。意味が通りません。もともと山中にいた繁男をそれ以上どこの山中へ連れてゆくというのか。そしてその山中になぜ不木の葉書が届いていたのか。それで CD-ROM を確認してみたところ、「山中」ではなくてどうやら「こちら」らしいなということが判明いたしました。「こちら」とはむろん守口町外島六九四番地。

 15日付書簡で「一昨日父を伴つてこちらへ参りました」というのですから、乱歩が両親とともに守口に帰ったのは13日のことであったはずです。

 6月12日、不木は坂下村から届いた乱歩の葉書に返事を出しています。乱歩が「先生の御はがき拝見致しました」というのはこの返信のことで、たぶん不木のことですから乱歩の葉書が届いたその日のうちに返事を書いたものと思われます。乱歩がその葉書を出したのは11日のことであったと仮定してみましょう。『探偵小説四十年』には「屋根裏の散歩者」を書きあげたあと「大いそぎで、山の下の町から郵送した」とありますから(むろん乱歩のこの記憶があてにならないという可能性もありますけど)、このとき不木宛の葉書も同時に投函された可能性が高い。つまり「屋根裏の散歩者」の擱筆は6月11日のことではなかったかというひとつの推測が成立することになります。

 『探偵小説四十年』の記述を見るかぎり、「父の死」を書いた時点で乱歩の記憶からは両親とともに守口へ帰ったという事実がすっぽり欠落していたとおぼしいのですが、いずれにしてもなんとも気の重い山中行ではあったわけで──

 私の手控えによると、それから九月に父が死去するまでに、「百面相役者」「一人二役」「人間椅子」の三篇を書いているわけだが、父の病気と結びつくのは、「屋根裏」だけである。そういう惶しい書き方をしたのと、あの山の中のすがすがしい、しかし絶望的な空気が、私に強い印象を残したものであろう。

 絶望的な空気、と乱歩は書いています。乱歩は繁男が滞在していたあやしげな療養先で、そこの主宰者である行者みたいな人物と話し合いもしたことでしょう。『子不語の夢』の6月19日付乱歩書簡には「父は関の方でも見はなされまして」と記されていますから、その行者からもう治る見込みはないといったことを伝えられたのかもしれません。まさに絶望的。これまでは「絶望的な空気」という類型的表現をすらすら読み流していた私ですけれど、こうして眼光紙背に徹する実証主義者の眼で『探偵小説四十年』と『子不語の夢』とを読んでみますと、乱歩が訪れた山中は文字どおり絶望的な空気のなかに封じ込められていたということが実感され、こちらまでなんだか暗澹悄然としてしまいます。

 これではまるで伊藤整の「生物祭」ではないか、と思った私は書棚からすっかり変色した新潮文庫『イカルス失墜』を引っ張り出してきました。「生物祭」の結びの段落を引いてみましょう。

 「峰子に電報を打っておいで」とその日の午後、医者の帰ったあとで母が私に言った。程近い町に嫁いでいる姉のところへ、私は郵便局で電報を書いていた。「チチキトクスグコイ」それが全く無意味な片仮名の一列であるように局員に受け取られると私は外へ出て周囲の真蒼な山々を眺めた。処々に白と赤の花をつけて、遅い春の緑が、この町の周囲を一面に埋めていた。それの吐き出す息づまるような酸素が谷底の町のほうへ重々しく停滞して、それに耐えぬものは死なねばならないようであった。

 『探偵小説四十年』に見える山中の描写はずいぶん冷ややかでどこか神韻渺々といった印象がありますが、6月もなかばの三重県の山中となると実際にはまさしく生物祭、植物から禽獣から微生物のようなものにいたるまで、それはもうおびただしい生命が貪婪なまでにあふれ返っていたことでしょう。山からおりて関の町の郵便局で原稿を発送したあと、乱歩もまた青々と息づくような山々を眺め、明るく輝く6月の空を仰いで(むろん雨の日だった可能性もあるのですが、私のなかの詩人が大正14年6月11日の関の空はまぶしいほどに晴れていたと私に告げるわけです)、祭典のような生の横溢に包まれているがゆえに死なねばならぬ者とそれを見守る者との絶望の深さをつくづくと思い知らされたのかもしれません。

 ──かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり

 といった感じででもあったでしょうか。前登志夫さんの歌ですけど。詩っていうのはまあこういうものですけど。

 ここらで話題を変えましょう。いよいよ来週に迫った「その時歴史が動いた」の乱歩篇は、NHK オフィシャルサイトの予告ページも動いて乱歩の写真が登場しました。

 ここで名張市民のみなさんに残念なお知らせです。私は4月22日付伝言に、

 ──おかげさまで名張もちょこっと取材していただいて、近所の猫や里山の狸の公衆トイレも兼ねた公園として整備されることになるかもしれない桝田医院第二病棟と江戸川乱歩生誕地碑、さらにはインチキにインチキを重ねたあげく何になるのかいまだに決まっていない細川邸の前の死に絶えたような新町通りなんかもちらっとごらんいただけるはずです。どうぞお見逃しなく。

 と記した次第でしたが、二日ほど前に NHK スタッフのお姉さんから電話で連絡があり、名張での取材分は尺の都合で放映できなくなった、つまり5月16日放送の「その時歴史が動いた」には名張はちらっとも映らないことになったとのお知らせをいただきました。名張市民のみなさんにはなんだか残念なことになってしまいましたが、まあいたしかたないでしょう。私はいいんです。名張市内をちょっと案内するだけで NHK のロゴが入った有田焼製ステープラーを頂戴し、有田焼だけにやや重量もあってペーパーウエイトとしても重宝しておりますので、名張が映ろうが映るまいがそんなこたどうだってかまわない。それにまあ乱歩と名張とはそもそもほとんど無縁なわけですから、「その時歴史が動いた」の乱歩篇に名張が出てこないのはあたりまえっちゃあたりまえ。そんなぐあいにご理解いただければ幸甚です。

 名張市民のみなさんにお知らせといえば、名張市に対して過日提出した公文書公開請求の第一陣をきのう市役所でもらってきたのですけれど、くわしいことはまたいずれ。

タルホ事典 多留保集
▲収録
昭和五十年十月十日 潮出版社
著:稲垣足穂(著者代表)
E氏との一夕/萩原朔太郎と稲垣足穂
「E氏との一夕」は稲垣足穂との対談 4刷(昭和61年6月25日)
 きょうは「江戸川乱歩著書目録」で行っときます。

 古本屋さんに注文してあった『タルホ事典』が届きました。『乱歩文献データブック』をつくったときには「E氏との一夕」がこの本に収録されていることを押さえてあったのですが、『江戸川乱歩著書目録』編纂時には『タルホ事典』のことをきれいに失念しておりました。なんともお恥ずかしい。

 しかし困った。フラグメントとしてどこから何を引けばいいのか。えーい、こうしてやる。『タルホ事典』には足穂夫人のエッセイも収録されているのですがその一篇、お酒を飲んだ足穂の酒仙惑乱ぶりを夫人が冷静かつユーモラスに、愚かであることへの尽きせぬいとおしさをこめてつづったエッセイの一篇から、ほんとはもう少し引けばいいのですけれど時間がなくなってきましたので結びだけ引用。

 足穂夫人と長い泥酔からようやくしらふに戻った足穂との会話です。

酒を呪う
稲垣志代 
 「あなた、出てゆく、出て行く言うてはったが、どこへ行くのか、アテがあったの?」
 「この世の者と思うとるか!」

 いいなあ。すごくいいなあ。

 本日のアップデートはもうひとつ、読売新聞オフィシャルサイトの「「人世横丁」半世紀、激動の歩み一冊に 商店会、店主らの証言集め」ってのもあります。私はこの記事で紹介されている冊子が欲しくて人世横丁商店会のサイトにきのう問い合わせのメールを出してみたのですが、現時点では何の音沙汰もありません。