2008年2月中旬
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YouTube の乱歩、本日は宝塚、ほぼ一年前のステージです。ほぼ一年前というよりも、私の場合はちょうど一年前ということになります。昨年2月11日の日曜日、宝塚大劇場で観劇した宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」の画像が見つかりました。登場するのは、昨年12月に宝塚を退団した春野寿美礼さん扮する明智小五郎と、桜乃彩音さん演じる本邦演劇映画史上もっとも穉き(「穉き」は「いとけなき」とお読みください)黒蜥蜴。黒蜥蜴とのやりとりのあと、明智が音吐朗々と主題歌「プロポーズ」を歌っております。 おつぎのウェブニュースは名張の話題となっております。一年前にもひどい状態でしたが、一年という月日の流れを経過してもっともっとひどい状態となっております。はっきりいってもうわけがわかりません。
わけがわからないといえば、わけのわかんない投稿が殺到してこちらもわけのわかんない状態になっておりました掲示板「人外境だより」、しばらくほったらかしにしてあったのですが、 さきほど復旧作業を行いましたのでお知らせ申しあげます。 |
YouTube の乱歩、本日は連続テレビアニメ「わんぱく探偵団」のオープニングをごらんいただきます。1968年の2月1日から9月26日まで毎週木曜、全三十五話がフジテレビ系列で放映されました。番組の詳細は虫プロダクションオフィシャルサイトの「わんぱく探偵団」で知ることができます。 この動画の関連動画というやつをぼんやり眺めておりましたところ、びっくりしたことに「少年ジェット」が見つかりました。少年ジェットがスクーターにまたがってシェーンといっしょに走ってるシーンが出てきました。いやシェーン、元気であったか、きょうもコマーシャルの時間には首に買いものかごぶらさげてエスビーカレーを買いにゆくのか、おまえはほんとにお利口だなあ、とか思いながらしみじみ感慨深く見ておりますと、犬っころが無心に駈けているただそれだけのシーンだというのに不覚にも落涙しそうになってしまいました。とにかく見てやってくださいなシェーンの全力疾走を。 それならばもしかしてあれもあるかも、と検索してみたらちゃんとあったではありませんか「まぼろし探偵」。オープニングの背景には桑田次郎さんの漫画が使用されていて実写シーンはないのですが、キャストとして藤田弓子さんや吉永小百合さんの名前を発見することができますし、音楽関係のスタッフに日野皓正さんの名前があったのも驚きでした。 げんきなしょーねんまぼろしたーんーてー、とか頑是なく歌っていた子供のころが懐かしいですなあご同輩。 つづきまして光文社文庫の新刊のお知らせ、といったって先月の新刊ですけど。
乱歩目線のアンソロジー、とでもいった面白い趣向の一冊ですけど(もう一冊、「文学派」のほうも刊行されるそうです)、当サイトご閲覧の諸兄姉にはとっくに購入済みだとおっしゃる方も多かろうと拝察いたします。くだくだしい紹介は省略して、私はこれから YouTube で月光仮面とか七色仮面とか遊星王子とかナショナルキッドとか実写版鉄腕アトムとか…… |
ぼーくはむてーきだー、てつわんあーとーむー、とか歌いながら YouTube で実写版「鉄腕アトム」を見ておりましたら、思いがけず志波西果の名前に接しました。とりあえずごらんいただきましょう。オープニングの最後、長靴から勢いよく火を噴きながら空を飛ぶアトムの姿を背景に、まごうかたなき「監督 志波西果」のクレジットが登場します。 志波西果は昭和2年に公開された乱歩原作映画「一寸法師」のメガホンを取った監督で、とはいっても植村鞆音さんの『直木三十五伝』によれば「撮影中、志波が日本プロダクションに逃亡し、後半を直木が監督した」という騒動もあったらしいのですが(「逃亡」という言葉がただならぬ感じです)、ともかく乱歩にゆかりのあった人物です。しかしざっと調べてみても消息をたどることができません。Wikipedia の「志波西果」から引用しましょう。
ごらんのとおり行方不明の扱いで、「その後の消息を知る者はだれもいない」という記述は大陸に散ったかとの印象さえ抱かせます。ていうか、生歿年月日がもうはっきりと「1900年12月17日−1937年12月」とされております。このあたりの典拠を脚註で確認しておきましょう。
ところが実際には戦後まで生き延びていて、この実写版「鉄腕アトム」は昭和34年3月7日から翌35年5月28日まで毎日放送が制作し、フジテレビ系列で放送されたとのことなのですが、志波西果はその監督を担当していた。YouTube にある第十三話「バラン団の最後」が放送されたときには五十九歳だった計算になります。同名異人という可能性もないわけではありませんが、同一人物だと見てまちがいないのではないでしょうか。ただしそのあとのことはさっぱりわからず、やはり「その後の消息を知る者はだれもいない」ということになってしまうわけなのですが。 やっべーなー、乱歩に全然関係ないところでレトロスペクティブに実写版アトムを見ているつもりがいつのまにか乱歩の掌に戻ってしまってるおれって何? 何かの罰ゲーム? とか思いながら毎度おなじみ YouTube の乱歩、めぼしいものが底をついてしまったようですので、あまり珍しくもない映像でとりあえずお開きといたします。天知茂が明智小五郎に扮したテレビドラマのシリーズです。 さて、2ちゃんねるのミステリ板「【緑衣の鬼】 江戸川乱歩 第十一夜」と文学板「【明智】江戸川乱歩【怪人二十一面相】」の双方で踵を接するようにして案内されておりましたので、すわこそとばかりに週刊「日本の100人」の最新号「江戸川乱歩」を購入するべく当地の本屋さんに足を運んだのですが、なぜか売り切れとのことでした。取り寄せを依頼しましたから現物を手にするのは少し先のことになります。 そのかわりというわけでもないのですが、「荷風!」という雑誌が池袋界隈を特集しておりましたので買ってまいりました。乱歩はごくあっさりと登場するだけなのですが、一応「RAMPO Up-To-Date」には記録いたしました。
あとついでに買った本は、牧薩次『完全恋愛』(マガジンハウス)、眉村卓『司政官 全短編』(創元 SF 文庫)、関川夏央『現代短歌 そのこころみ』(集英社文庫)といったあたりか。 |
本日は川村二郎さんの訃報を記録いたしました。
全国紙ブロック紙ローカル紙、訃報は各紙で報じられましたが、北海道新聞のものが心に残りました。
この段落に深い印象をおぼえた次第です。 川村さんは昭和3年、愛知県生まれ。乱歩と同じ愛知県立第五中学の卒業生で、乱歩を正面から論じた文章はなかったように思いますが、講談社の江戸川乱歩推理文庫第五十九巻『奇譚/獏の言葉』で、なぜか「巻末エッセイ・乱歩と私」を執筆していらっしゃいます。大きな声ではいえませんけど、あの文庫版乱歩全集は編集がやや杜撰で、巻末エッセイもそれ以前に講談社から出ていた乱歩全集のものをそのまま流用している巻があり、それはまあ月に五冊とかそれくらいのペースで配本されていましたからそういうことにもなったのでしょうけれど、とにかくなんだかなあという感じではありましたから、とくに乱歩と深いかかわりがあったわけでもないと思われる川村さんが、なぜか巻末エッセイをお書きになっていたのはかなり意外なことでした。 いま読み返してみますと、川村さんの巻末エッセイ「大先輩乱歩」には、川村さんの世代の(という限定は必要ないかもしれませんけど)知識人あるいは読書家が乱歩という作家にどう接近しどう遠ざかり、再会したのち乱歩をどのように位置づけたのか、そうした軌跡の一典型をうかがうことができるように思われます。やや長くなりますが、慎んで引用。
それはまあ、そのとおりだろうと思います。しかしまあ、乱歩作品には乱歩作品なりの「言葉の輝き」もまた存在するのではないかと、そのように愚考される次第でもあるのですが、そんなことはともかくとして、川村二郎さんのご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。 |
じつにひさかたぶりに「乱歩文献データブック」を増補しました。1976年6月発行の「映画芸術」に掲載された対談です。さる方からコピーを頂戴いたしました。
この年6月に公開された日活映画「江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者」をめぐる対談。この田中登監督作品については日本映画データベースの「江戸川乱歩猟奇館 屋根裏の散歩者」をごらんください。 対談の冒頭、種村季弘さんの第一声。
引用者註1、たぶん「陰獣」ではなくて「盲獣」だと思います。引用者註2、「いうが」は正しくは「いうのが」でしょう。 愛想がなくて申しわけありませんが、本日はこれにておしまい。 |
やあ、親愛なる読者諸兄姉。みなさんは安河内五郎君をご記憶でしょうか。さよう。「科学画報」大正15年8月号の Q&A コーナーに「鏡張りの大きな球形の室」という質問を寄せ、それを読んだ乱歩に「鏡地獄」を書かしめた福岡県立鞍手中学校の生徒のことです。くわしくは伝言録の昨年10月24日付伝言「「鏡地獄」をめぐる発見」、翌25日付「ドグラマグラったり諸戸道雄ったり」あたりをお読みください。 ネット検索で安河内五郎という人名を調べてみましたところ、日本における電気ショック療法の第一人者であった医学者が同姓同名であったことが判明し、その医学者が九州大学で研究活動をつづけていたらしいこともわかりましたので、伝言にはこのような推測を記しておいた次第です。
この推測は正しかったようです。「安河内五郎君」はやはり「安河内五郎先生」その人でした。どうしてそんなことが断言できるのかといいますと、この伝言をお読みくださった安河内先生のご遺族から、メールで丁重なご挨拶をたまわったからです。ちょっと冷や汗。 安河内先生は2002年4月、九十歳でお亡くなりになったそうですが、たしかに鞍手中学校のご出身で、ですから「科学画報」の投稿は少年時代の安河内先生の手になるものと考えてまちがいないようです。中学時代から医学を志していらっしゃったかどうかはわかりませんが、秀才どころか天才と称された麒麟児で、九州大学医学部に進学。そのあと医学部で助教授をしていらっしゃったのですが、えーっと、なんですか結婚式で仲人が新郎を紹介しているみたいな感じになってきましたけど、大牟田の三井三池炭鉱で起きた炭塵爆発事故をきっかけに大牟田労災病院の院長として赴任され、CO2 中毒患者の治療にあたられたといいます。 先生の個人情報にかんすることをあれこれ書き記すのも憚られますが、乱歩に「鏡地獄」の火種を提供した少年の消息ということになると乱歩ファンなら思わず身を乗り出してしまう話題でしょうから、もうちょっとつづけることにして、上の引用のあと、私は調子に乗ってこんな推測も記したものでした。
これがとんでもない与太でした。実際には、安河内五郎先生は乱歩作品が大好きでいらっしゃったとのことです。いやお恥ずかしい。かなり冷や汗。 つづきはまたあしたということにして、「RAMPO Up-To-Date」には本日、1月に出たこれを記録いたしました。
もちろん「鏡地獄」も収録されております。 |
つづきはまたあした、とかいいながらきのうは伝言をサボってしまいました。なんかもうへろへろなのですが、おとといからきのうにかけてのことはブログのほうの本日付エントリ「田中監督を名張で送る会」でお読みください。しかしこんなことではほんとにいかんぞ。 いかんといえば掲示板「人外境だより」、ちょっと目を離しているあいだにスパム投稿で埋めつくされてしまいました。これはいけません。どっかのばかが自動投稿プログラムを使用してばかなことかましてやがるのだと思われますが、とりあえずきょうのところは放置といたします。 それで安河内五郎先生のおはなしですが、電気ショック療法の第一人者ということになれば、動物実験などはおそらく日常茶飯事であったにちがいありません。私の頭にはきわめてクールな医学者像が浮かんできて、というよりはもうはっきりと、頭のなかに諸戸道雄がくっきりとした像を結んでしまいました。「孤島の鬼」から引用しましょう。底本は光文社文庫版全集。
完全にこのイメージです。動物実験を行う医学者となれば、私にはこのシーンにおける諸戸道雄の姿しか浮かんできません。ですから安河内先生もきっと冷徹犀利ないわゆる理系のインテリで、小説なんてものはまともに相手にしない人だったのではないかと想像された次第だったのですが、ご遺族からお知らせいただいたところはまったくちがっておりました。だから私のいうことなどいちいちうかうか真に受けてくれるなということなのですが、おとといも記しましたそのとおり、安河内先生は乱歩が大好きでいらっしゃったそうです。 しかも、ただお好きだっただけではありません。驚くべきことに安河内先生は、まだ小学生だったお嬢さんに、江戸川乱歩は面白いぞという言葉とともに、講談社版の歿後第一次乱歩全集、あの真っ暗な装幀の乱歩全集をプレゼントなさったということです。なんと感動的な話であることか。こんな嬉しくなるような話はめったにあるものではありません。これはいい。ほんとにいい話だと思います。乱歩ファンなら狂喜乱舞して快哉を叫ぶべき話だと思います。小学生の娘に乱歩全集を買い与える父親。これはいい。娘をもつ父親というのはすべからくこうあるべきだという気さえするほどです。 つづきはまたまたあしたということにして、「RAMPO Up-To-Date」には本日、秋田稔さんの不定期刊個人誌「探偵随想」を記録いたしました。
創刊四十五周年記念号です。つまり、探偵小説四十年ならぬ探偵随想四十五年。営々孜々とした歩みにはひたすら頭をさげるしかありません。 |
掲示板「人外境だより」のお手入れは依然として手つかずの状態ですが、小西昌幸さんからご投稿いただきながらスパム投稿によって押し流されてしまった辻真先さんの講演会のお知らせ、本日「番犬情報」のほうに掲載いたしました。どうぞごらんください。しかし、番犬がいなくなったのに番犬情報ってのもなんだかなあ。いやいやそんなことより、きょうはこれだけで失礼いたします。なんともどうも。 |