昭和2・1927年

1月
1月か2月
平凡社社長の下中彌三郎が支配人とともに訪問、現代大衆文学全集への参加を要請した。承諾はしたが、企画が実現するかどうか半信半疑だった。探偵小説四十年「円本時代」]

2月
2月10日 日曜日
春陽堂から出版された探偵趣味の会編『創作探偵小説選集 第二輯』の発行日。「鏡地獄」が収録された。
2月20日 木曜日
「東京朝日新聞」で「一寸法師」が完結。「大阪朝日新聞」は翌二十一日に完結した。
「一寸法師」執筆中、休筆することを決意した。作品の中絶も考えたが、許されなかったので、苦しい思いをして完結させた。探偵小説四十年「放浪記」]

3月
3月1日 火曜日
「新青年」三月号(第八巻第四号)の発行日。「パノラマ島奇譚」を休載。
この号から横溝正史が編集長となり、森下雨村は「文芸倶楽部」の担当となった。新青年「編輯局から」Fragment]/森下雨村「御挨拶」Fragment
3月20日 日曜日
春陽堂から出版された創作探偵小説集第七巻『一寸法師』の発行日。
3月
筑土八幡町から東京市外戸塚町下戸塚六二に転居、筑陽館という下宿屋を営んだ。隆、隆太郎との三人暮らしで、女中二人を雇った。昭和三年三月までここに住んだ。貼雑年譜「転居と放浪」]
「一寸法師」と「パノラマ島奇譚」の原稿料を貯えた二千円あまりを元手に、家内で商売を営むことにし、おでん屋、鯛焼屋、撞球屋などいろいろ考えたが、下宿屋に落ち着いた。新聞の三行広告を頼りに周旋屋を訪ね、早稲田大学正門前の筑陽館を権利金二千二百円で入手した。三階建てで和室十五部屋、上等の下宿屋ではなかったが、地の利のおかげで開業するとたちまち満室になった。田舎から女中を呼んで、隆に采配を振るわせた。健康を害したため小説の執筆を当分休む旨を附記した「転居御通知」の葉書を印刷、知友に送った。探偵小説四十年「放浪記」]
3月24日 木曜日
小酒井不木に手紙、新しい境地を探すために休筆することを伝え、「転居御通知」の葉書を同封。子不語の夢「一〇四 乱歩書簡 三月二十四日」
3月25日 金曜日
聯合映画芸術家協会の映画「一寸法師」が千代田館で封切られた。監督は志波西果と直木三十五。明智小五郎に石井漠、一寸法師に栗山茶迷が扮した。日本映画データベース「一寸法師」Web
「一寸法師」は名古屋の港座でも封切られた。子不語の夢「一〇五 不木書簡 三月二十五日」
「一寸法師」映画化は松竹と直木三十五の聯合映画芸術家協会から申し込みがあったが、松竹は一寸法師の役者を見つけられず、沙汰止みになった。聯合映画芸術家協会は九州で活動弁士をしていた栗山茶迷を見つけ出し、映画を完成させた。探偵小説四十年「「一寸法師」」]
「一寸法師」撮影中、志波西果が日本プロダクションに逃亡したため、後半は直木三十五が監督した。植村鞆音「直木三十五伝」]
3月27日 日曜日
小酒井不木に手紙、二十五日付不木書簡への返信。子不語の夢「一〇六 乱歩書簡 三月二十七日」
3月
この月、東京に妻子を残し、あてもなく旅に出た。約一年のあいだ、東京市内や近国、信州、新潟から魚津、千葉半島、伊勢から紀州、京都、大阪、名古屋などを放浪した。山国の温泉に一か月逗留したり、魚津へ蜃気楼を見にゆき、その帰りに親不知子不知の宿屋に宿泊したり、新潟の町をうろついたり。上州では天勝一座の興業を見、そのままその町に滞在、翌日に町の古本屋で中江兆民『一年有半』を買って読み、文楽の人形が見たくなって大阪に行った。浅草公園の五重塔のあたりに部屋を借りて、朝から晩まで浅草公園をぶらつき、上野の不忍池のそばの宿屋に滞在したこともあった。探偵小説四十年「放浪記」

4月
4月1日 金曜日
「新青年」四月号(第八巻第五号)の発行日。「パノラマ島奇譚」の第五回が掲載され、完結。新青年「編輯局から」Fragment
4月
隆太郎が鶴巻小学校に入学。探偵小説四十年「昭和二年度の主な出来事」]

5月
5月16日 月曜日
波屋書房から出版された世界探偵文芸叢書第六編『闇に蠢く』の発行日。
5月24日 火曜日
帝国劇場で上演中の小酒井不木作「龍門党異聞」を森下雨村、甲賀三郎ら二十人あまりで観劇。小酒井不木のために寄せ書きを書いた。新青年「近事一束」Fragment

6月
6月
この月から日本海沿岸地方、千葉県海岸などを放浪した。新潟では菊池寛や村山知義らと行き会った。駅から菊池寛が出てきたときには、文壇の関係者に会うのが厭だったので茶屋の便所に隠れた。探偵小説四十年「放浪記」
6月8日 水曜日
小酒井不木に葉書、足尾の山へ行っていたこと、行く先のあてがないことを伝えた。子不語の夢「一一〇 乱歩書簡 六月八日」

10月
10月5日 水曜日
平凡社から出版された現代大衆文学全集第三巻『江戸川乱歩集』の発行日。
現代大衆文学全集は白井喬二が作家と出版社のとりまとめ役を引き受けたが、乱歩が旅に出たせいで連絡がとれず、乱歩の巻は第三回配本の予定が第六回となった。十六万数千部が売れた。探偵小説四十年「円本時代」
10月
この月から十一月にかけて約二か月、関西を放浪した。文楽の人形と落語の桂春団治を見ることと、井上勝喜に会うことを目的に大阪へ行った。井上と文楽を見物し、春団治が京都の寄席に出ていたので、井上と京都まで聞きにいった。山下利三郎の案内で一夜を過ごし、京都に住んでみたくなって、鴨川べりの宿屋に腰を据えた。一か月ほど京都に滞在し、上島統一郎、加藤重雄、一条栄子らに会った。長谷川伸、志波西果ら映画関係者にも会った。大阪の春日野緑、宝塚の土師清二も訪ねた。探偵小説四十年「放浪記」
京都の宿では十日ほど扁桃腺で寝込み、近所の医師の来診を受けたが、山下の勧めで大きな病院で受診したところ、蓄膿症にかかっていることを指摘された。探偵小説四十年「山下利三郎」

11月
11月
宿は京都市丸太町橋西詰、山水館旅館。十一月ごろ、一か月ほど滞在した。貼雑年譜「京阪地方住居移転地図」
十日ほど扁桃腺で寝込み、近所の医師の来診を受けたが、山下の勧めで大きな病院で受診したところ、蓄膿症にかかっていることを指摘された。探偵小説四十年「山下利三郎」
11月2日 水曜日
小酒井不木が乱歩に手紙、国枝史郎と相談して小説を合作することになり、乱歩の意見を求めた。子不語の夢「一一三 不木書簡 十一月二日」
11月
小酒井不木の二日付の手紙が京都の宿に転送されてきた。合作の話には賛成しにくいと思ったが、収入が得られるという誘惑もあった。二、三日後、名古屋の不木を訪ね、二人で国枝史郎を訪問、一応は辞退したが、両人から説き伏せられて合作に加わることにした。国枝と懇意で宝塚に住んでいた土師清二と京都に滞在中だった長谷川伸も勧誘することになり、京都に戻って二人を訪問、快諾を得た。探偵小説四十年「合作組合「耽綺社」」
11月10日 木曜日
小酒井不木が乱歩に葉書、十一月十五日に合作を始めるため、十四日夜までに名古屋に来るよう依頼した。探偵小説四十年「合作組合「耽綺社」」
11月17日 木曜日
名古屋市七本松の寸楽園で開かれた「新青年」主催の座談会に出席。ほかに小酒井不木、国枝史郎、長谷川伸、山下利三郎、横溝正史が参加。「名古屋新聞」にはこの日から二十三日まで宿泊し、脚本「残されたる一人」と長篇小説「巨人の反射鏡」を執筆したと報じられたが、実際には二、三日だった。乱歩と長谷川、土師は大須ホテルに宿泊した。探偵小説四十年「合作組合「耽綺社」」]
横溝正史も大須ホテルに宿泊し、枕を並べて寝た。寝物語にひとつ作品ができていると口を滑らせたが、満足できない作品だったため、横溝が寝入ってからその原稿をホテルの便所に捨て、翌朝それを告白した。同じ着想を一年半後にあらためて書き、「押絵と旅する男」として発表した。探偵小説四十年「「押絵」と「蟲」」]

12月
12月
隆が病気になったとの電報を受け、帰宅した。隆は胆石の発作を起こしていた。子不語の夢「一一五 不木書簡 十二月八日」「一一六 不木書簡 十二月十四日」]
12月7日 水曜日
耽綺社の第二回会合が寸楽園で開かれた。乱歩は欠席したが、残り四人に喜多村緑郎もまじえ、二日がかりで脚本「残されたる一人」を修正した。子不語の夢「一一五 不木書簡 十二月八日」
12月15日 木曜日
東京放送局の「探偵小説の夕」に出演した。森下雨村「探偵小説について」、甲賀三郎「面白い探偵小説」のあと、乱歩、甲賀、横溝正史、水谷準、大下宇陀児による「探偵小説が出来るまで」。探偵小説四十年「探偵作家総出演の放送」
12月18日 日曜日
「サンデー毎日」第六年第五十五号の発行日。耽綺社の合作脚本「残されたる一人」が掲載された。

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