RAMPO Entry 2009
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2009年6月11日(木)

雑誌
文學界 7月号
7月1日 文藝春秋 第63巻第7号
A5判 360ページ 本体952円
夙川事件 −谷崎潤一郎余聞− 小林信彦
小説 p64−85

 「創作」と銘打たれていますから小説にカテゴライズしましたが、宝石社勤務時代を回顧するエッセイとも読め、「回想の江戸川乱歩」の番外篇と位置づけることも可能でしょう。タイトルから容易に察しがつくとおり、渡辺温が昭和5年、谷崎潤一郎の家へ原稿依頼に赴いた帰りに西宮市夙川の踏切で事故死した「事件」がモチーフ。「宝石」の編集部で結局は実現することのなかった谷崎と乱歩の対談が企画されていた昭和34年、戦前の博文館で編集者として鳴らした真野律太が宝石社で校正の仕事に就いていたという探偵文壇意外史めいたエピソードが紹介されたあと、「新青年」を手がかりとして読者の前に夙川事件がゆっくりと姿を現してくるのですが、ここには乱歩が登場するシーンを引用いたします。
 
夙川事件 −谷崎潤一郎余聞−

小林信彦  

 乱歩が会社に姿を現わすのは、月に一、二度だった。
 宝石社と呼ばれるその小さな建物は、虎ノ門の交差点から遠くない西久保巴町の片隅にあって、辛うじて空襲による焼失をまぬがれたように見えた。一階が営業で、二階が応接室、三階に編集と経理の部屋があった。
 とはいえ、建物は二階建てであり、三階は木造で、つけ足したものである。特に編集部には本や古原稿が溢れ、数人の人間で一杯になった。
 私の机もその中の一つで、アメリカの推理小説雑誌の日本版の編集をするのが仕事だった。私は二十六歳であり、助手としてもっと若い青年が雇われていた。他に校正係が二人いたが、この二人は私の雑誌のみならず、社の柱である「宝石」の校正も担当していた。
 「先生がお呼びです」
 営業の女性の声で私は立ち上り、部屋を出て、狭い木造の階段を降りた。江戸川乱歩に会うとなると、やはり緊張を覚える。
 背広姿の乱歩は眼鏡越しに私を見た。六十代半ばの彼は高血圧と蓄膿症に悩まされていた。いつも憂鬱そうにみえるのは降圧剤の副作用のせいといえよう。
 「ああ」
 と言ってから手元の書類を古いテーブルに置いて、目を通しておいて欲しい、と呟くように言った。
 タイプで打たれたそれはアメリカの出版エージェントからのものだった。昭和初期のものと思われる古めかしい椅子に腰をおろして、ゆっくり読むと、日本人の手になる読物をのせてもよいが──とまず断って、雑誌全体の四分の一ならば、と但し書きが付いていた。
 「それでいいかね」
 「はい、これなら……」
 軽く頭を下げた。
 アメリカの推理小説雑誌の日本語版はすでに二種類出ている。もう一誌出すのなら、日本人によるコラム、読み易い雑文がなかったら、勝負にならないというのが私の考えだった。
 乱歩が〈編集に乗り出〉したと私は書いたが、おそらく最初はもっと楽天的だったのだと思う。
 いざとりかかってみると、以前から原稿料の支払いが遅れがちだったり、良い原稿が集まらず、持ち込みの原稿をのせがち──といった実態が明らかになってきた。毎月、小さな新聞広告も出さないわけにはいかない。〈老大家〉が雑誌編集に乗り出したことは大新聞の話題になり、私もそれから毎号買うようになったのである。
 ある時、池袋の自宅の応接間だったと思うが、
 「おれが手がけたら、もっと売れると、自惚れていたんだよ」
 自嘲的に口にしたことがある。
 やはり、そうだったのか、と私は思った。

 
 ラストではちょっとした一人二役が明かされて、やはり小説ならではの余韻を残す、といったことになるのかもしれません。サブタイトルには「谷崎潤一郎余聞」とありますが、「『新青年』余聞」でも通用しそうな一篇。「文學界」は一冊千円もしますから、乱歩ファンは立ち読みをどうぞ。
 
 文藝春秋:文學界
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