ごみ大爆発の三重県と合併大分裂の伊賀七市町村がなあなあ感覚でお贈りするなんちゃってイベント
|
![]() |
ええよござんしょ、血税三億円かけて伊賀を必ずメジャーにしてみせますとも、と伊賀びとは誓った
|
2004年は伊賀が熱いぜ
|
生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】
|
江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業(続)
|
▼最新記事(その17)へゆく |
最終更新●
|
||
|
その13 ● イラクに先がけて引き継ぎを行いました |
2004年5月3日 ▲
|
いよいよ5月、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業があと二週間ほどで開幕します。そんなこととはまったく関係なしに、東京で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)に関する打ち合わせを行い、イラクの主権移譲に一か月ほど先がけて、書簡集刊行へ向けた準備作業の実務を出版社側に引き継いでまいりました。以下、関係各位に電子メールでお送りした報告を転載いたします。 |
お世話さまです。どちらさまもお元気のことと存じます。4月24日、『新青年』研究会の例会で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の打ち合わせを進めていただきました。その報告も含め、書簡集刊行準備の進捗状況をお知らせいたします。世間はゴールデンウイークだと申しますのにまあ何をやっておりますのやら。なお、この報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。 http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1.html#anchorkura13 ■今後の作業について ■『新青年』研究会例会の発表について ■書簡集の打ち合わせについて ■書簡の画像について ■阿部さんのご質問について ■ふたたび今後の作業について 以上、取り急ぎお知らせしました。ひきつづいてよろしくご協力をたまわりますよう、お願い申しあげます。 |
その14 ● 5月17日に出版社と契約を結ぶ予定です |
2004年5月7日 ▲
|
まずお知らせです。
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001】」のページがやたらたらたら長々しくなってきましたので、年度替わりを機に【001−1】と【001−2】に分割しました。いまご覧のページが2004年度分すなわち【001−2】となっております。 それでは、書簡集刊行でご協力いただくみなさんにお送りした本日付メール、事業進捗状況の報告のため全文を転載いたします。 |
お世話さまです。浜田さん、本多さん、小松さん、メールありがとうございました。その後の動きなどについてお知らせいたします。なお、例によってこの報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。 http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1-2.html#anchorkura14 ■分担金について ■契約について 以上二点、取り急ぎ記しました。よろしくお願いいたします。 |
その15 ● 皓星社への実務委託が正式決定しました |
2004年5月25日 ▲
|
「その14」に記しましたとおり5月17日午後、名張市役所で書簡集刊行に関する打ち合わせを行いました。例によってご協力いただくみなさんにお送りした本日付メールを転載し、報告といたします。 |
遅くなりました。取り急ぎお知らせいたします。5月17日、名張市役所で皓星社と二〇〇四伊賀びと委員会との話し合いが行われ、『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の編集から出版、献本、販売までを一括して同社に手がけていただくことが正式に決定しました。以下、当日の模様を会場別にかいつまんでご報告申しあげます。なお、例によってこの報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。 http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1-2.html#anchorkura15 ■清風亭 ■名張市役所 ■中むら ■dur 以上です。書簡集刊行まであと五か月ほどとなりました。みなさんそれぞれにご多用のことと存じますが、なにとぞよろしくお願い申しあげます。三重県知事になりかわってお願いを申しあげる次第です。 |
その16 ● あっというまに一年七か月が過ぎました |
2006年1月2日 ▲
|
いやすまん。すまんかった。不肖サンデー、心からお詫びを申しあげます。三重県が天下に誇った官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」はとっくの昔に終了し、伊賀地域住民にはもはやすっかり忘れられてしまっているのですが、江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業では2004年10月21日を期して『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を無事刊行。本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞にダブルノミネートされながら双方とも受賞に至らず、関係者一同涙に暮れたものでありましたが、いっぽうで刊行事業が奇跡のような文化事業としていまや伝説のごとく語り継がれ始めているというのに、経過報告がまったくできておらなかった。じつにすまんかった。
顧みれば一年七か月ものブランクがあるわけですが、本日はとりあえず文書二点の画像を掲載して報告といたします。 |
|
それともうひとつ、2005年12月28日付朝日新聞名古屋本社版夕刊学芸面、「東海の文芸 05年回顧」に掲載された清水良典さんの「商業的成功とは別の価値確立を」の引用を、2006年1月1日付人外境主人伝言から転載しておきましょう。 |
代わりに記念となる出版物を挙げるなら、小酒井不木と江戸川乱歩の往復書簡集『子不語の夢』(皓星社)だろう。三重県出身の乱歩、そして愛知県蟹江町出身の不木は、大正時代末期の探偵小説黎明期に互いに励ましあい議論を重ねた盟友だった。二人の出身地の文化事業の連携企画として昨冬刊行された本書は、一級の研究者が贅沢に工夫を盛り込んだ結果、学術的な資料としても理想に近い出来栄えとなった。活字や CD-ROM に収録された図版から、若い二人の意気込みや苦悩が生々しく浮かび上がった。 |
その17 ● 手抜きみたいですけど完結といたします |
2006年3月9日 ▲
|
またしてもあっというまに時間が経過してしまいました。前回の報告から二か月あまり、いつまでたらたらしてもいられませんので、江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業の報告を進めます。
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」はおととしの11月に終了しており、いまごろになってこんな報告を発表するのはあまりにも間の抜けた話ではあるのですが、一応のけりはつけておかなければなりません。 とはいっても2月25日から3月8日まで、伝言板にたらたら書き記してきたところをそのまま転載して報告とするだけの話で、いかにも手抜きじゃが諒とされたい。 転載開始。 |
|
といった次第で、村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」はわずか一日だけ「本日のアップデート」の話題にしてすませてしまうにはあまりにも惜しい素材であり、さらには当事者のひとりとしていささかの説明を加えたほうが「『新青年』趣味」第十二号読者の一助になるかとも愚考されましたゆえ、こうしてスピンオフさせることにいたしました。 と書きつけてはみましたものの、残念ながら本日は時間がありませんので、いわば予告篇だけでおいとませねばならぬのを遺憾といたします。 ちなみに本日のタイトル「踊る脚註王」には、とくに深い意味はありません。村上さんは『子不語の夢』巻末の執筆者紹介によれば「主に舞踏を中心とする舞踏批評家」でいらっしゃいますので(しかしそれにしても、舞踏批評家が舞踏を中心とするのはあたりまえのことであって、それにまた主にというのは要するに中心とするということであって、何となく、この辺が、オカシイ感じがしますが……、これをイケズと呼ぶのでしょうか)、なんとなく「踊る脚註王」というフレーズが思い浮かんだ次第です。 当サイトご閲覧の諸兄姉はとっくの昔にお申し込みのことと拝察いたしますが、「脚註王の執筆日記【完全版】」が読めるのは「『新青年』趣味」第十二号だけ。まだの方はこのページをご覧のうえ、いますぐご注文ください。 |
村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」について、つまりは『子不語の夢』という一冊の本について記そうとすると、いまだ心にさざなみが立つのをおぼえます。腹が立ったり鬱陶しかったりしたあれこれがよみがえってきて、とても平静ではいられなくなります。 私には上っ面だけきれいごと並べてことを収める趣味はありませんから(そんなことしてしれっと喜んでる手合いがまたじつにたくさんいるわけですが)、歯の浮くような美辞麗句でもって『子不語の夢』の刊行事業を語ることなどとてもようしませんし、そもそも三重県だの伊賀地域だの名張市だのの貧しい内実、端的にいってしまえばここいらではどいつもこいつもばかなのであるという実情は私がおりにふれて指摘しているとおりなのですから、三重県が手がけたこのいわゆる文化事業を(いうまでもないことであるとは思いますが、私は「文化」という言葉、とくにそこらのお役人連中が口にする「文化」という言葉をこのうえないほど嫌っております。文化という言葉を耳にすると思わず猟銃に手が伸びる、とうそぶく男が出てきたのはルース・レンデルの小説であったでしょうか)きれいごとでうわべだけ飾ってもそんなものはまったく無効だというしかないでしょう。 ですから何も斟酌することなくありのままを記せばいいようなものではあるのですが、私がなぜ怒ったのか、どうして鬱陶しいなと思ったのか、その理由ないしは対象を記すのは悪口を並べることにほかならず、具体的にいえば刊行を請け負ってくれた出版社を批判することになってしまいます。むろん『子不語の夢』は無事に刊行されましたし、出版社にはいろいろ無理難題も聞いてもらっておおきに感謝はしているのですが、上梓にいたるまでのプロセスを思い起こすとやはり心の湖面には志賀の都のごときさざなみの縮緬皺。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】」の報告がお正月以来ふたたび停滞しているのも、悪口や批判を記すことに私自身どうにも嫌気がさしているからなのだとお思いください。しかし報告はしなければならんのであるが。それにしてももうおととしの話なのであるが。 ぶつぶついってないで話を進めますと、『子不語の夢』に脚註を入れるのは私の当初からの念願で、念願というかそれはもう当然のことで、もともと公開を前提にしていない書簡を公刊するのであるから読者のためには書簡本文を脚註によってフォローしたほうが親切であろうし、それならば無味乾燥で通り一遍の脚註では面白くなかろう。スタッフがそれぞれの判断で署名入りの脚註を入れるのも一興であって、そうすると可能性としてはひとつのフレーズに二様三様の解釈が生まれることもあり、いやこうなるとそれぞれが誰の所見であるかを明記した多元的な脚註というのはなかなかに画期的な試みではないのか、などと私は夢見る少年のように考えておりました。 『子不語の夢』は三重県が三億円をどぶに捨てることになるであろうと事業実施のはるか以前から容易に推測された「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の予算をぶんどって刊行するものであり、その意味では乞食のお祭りにわいわいと参加するようなものにほかなりませんでしたから、乱歩と不木の往復書簡というじつに堅苦しい素材を取り扱うにあたっても、むしろ内容には柔軟で面白く読めるところがあったほうがお祭りらしいのではないかと愚考された次第です。 さてそれで、当初は私が『子不語の夢』の編集を担当するつもりでいたのですが、ある出版社が名乗りをあげてくれましたので、編纂刊行の実務をすべて丸投げいたしました。その時点では脚註担当者として村上裕徳さんに白羽の矢を立てておりましたし、ほかのスタッフの脚註も入れるという構想も伝えたうえでの丸投げです。ところが、編集作業がなかなか前に進みません。私以外のスタッフはほとんど東京圏に集中しており、情報交換はおもにメールによって行っていたのですが、編集部がスタッフをリードして作業を進めているという気配がまったく伝わってこない。いくら丸投げしたとはいえ、いや丸投げした身であるからこそ、私はよけいに心配をおぼえました。 編集部はいったい何をしておるのか、と私はいぶかったものでしたが、そしてそのときにはそんな事実を夢にも知らなかったのですが、編集作業が遅々として進行しないのもまさしく道理、あとで知らされたところによれば、私が丸投げした出版社には編集部が存在していませんでした。あー驚いた驚いた。おまえはまたどうしてそんなところに丸投げしたのかと詰問されれば自身の不明を恥じるしかないわけなのですが、とにかくそういうことでした。むろん私とてその出版社の社長さんに、 「おたくの会社はつぶれませんか」 とその場で張り倒されてもしかたのないような質問をするところまでは行ったのですが、「おたくの会社に編集部はありますか」と訊くことまではできませんでした。出版社というやつには編集部がもれなくついているものと思っていたからです。 なかなか脚註の話題にたどりつけませんが、実際じつにいろんなことがあり、それでも「脚註王の執筆日記【完全版】」に記されているとおり、2004年の7月31日には村上さんの脚註も半分くらいは仕上がったというところまでこぎつけていただきました。8月に入って、できあがっていたところまでの脚註第一稿がスタッフ全員にメールで配信されました。調べが届かないため村上さんからスタッフに、 ──ヘルプ。 という応援要請が記されているところもあり、それならいっそと考えた私は、この名張人外境に脚註原稿をすべて掲載した非公開ページをアップロードしました。スタッフ全員がこの非公開ページを閲覧できるようにしたうえで、村上さん執筆分に対するヘルプ、フォロー、あるいはツッコミ、そうしたものがあれば私あてにメールで送ってもらう。私は送られたテキストデータを村上さんの脚註に対照させる形でこのページに掲載する。それでスタッフ全員が脚註のチェックを進める。そんな段取りで作業は着々と進行することになりました。 この非公開ページから最初の脚註とそれに対する私のフォローを引いておきます。
といったような次第であって、『子不語の夢』スタッフが村上さんの脚註原稿にどのように向き合ったのか、これでよくおわかりいただけたのではないかと思います。 |
実証狂ってネーミングはいかにも垢抜けねーよなーとは思うのですが、実証鬼、実証魔、実証魔人、実証怪人、いろいろ考えてみたもののこれといった名前が浮かんできません。「実」だの「証」だのという漢字の意味が「鬼」や「魔」や「怪」のそれに明らかにそぐわないせいでしょう。そこでとりあえず実証狂ということにしてみました。むろん私のことです。 村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」においてはほとんど実証主義の権化と化している私なのですが、それはたまたまそうなっただけの話であって、といいますのも、村上さんの脚註原稿はスタッフおよび院外団による衆人環視のなかでチェックが進められたことはきのうお知らせしたとおりなのですが、私はできるだけ出しゃばらないよう身を慎み、主観によって左右されることのないいうならば歴史的事実のみを指摘することにしておりましたので、その事実の重みが村上さんをして「中さんの実証主義は主観の相違で逃げ切れなさそうなので」と観念させる結果を招いたのであると判断されます。 とはいえ、私が狂人のごとき実証主義者たらんとしているのは間違いのないところなのですから、私が提出したわずかなフォローの文章からそのあたりを正当に見抜かれたのは、やはり村上さんの眼力であるというべきでしょう。ただし、村上さんが「脚註王の執筆日記【完全版】」で指摘していらっしゃる実証主義は畢竟するに乱歩の記したところを永遠不変のメートル原器とする思想のことであるようで、しかし私の実証主義はむしろ乱歩をこそ対象とするものです。乱歩という永久に実証しえない対象にあえて実証主義によって肉薄するのが私の念願なのであって、それはなぜかというならば、実証主義の超越はその絶巓を極めることによってのみ可能だからなのである。 あ、なんか話題が『江戸川乱歩年譜集成』のほうにずれこんでる。というか、なんか書くことがだんだん村上さんに似てきている。恐るべし村上マジック。充分留意しながらもう少し「脚註王の執筆日記【完全版】」の話題をつづけましょう。 『子不語の夢』の脚註には私の名前が二回登場します。最初眼にしたときにはちょっとまずいなと思ったのですが(どうしてそんなことを思ったのかは後日述べます)、いやまあこれも面白いかと考え直し、そのままにしておきました次第。そのうちの一箇所、大正14年4月24日付乱歩書簡にある作品タイトル「虎」の脚註を例にとって、脚註の生成過程をご覧いただきましょう。
上の引用の左側が村上さんによる第一稿、右側が私のフォローなのですが、村上さんから、 ──逃げ道三方を、ひとつひとつ逃げられんようにフタをしてから、オズオズと「何となく、この辺が、オカシイ感じがしますが……」と、メイッパイ、ボケかまして攻めて来んのが中相作のヤリクチ。 と評された私のいやらしさがよくにじみ出ております。こうしたプロセスを経て最終的にどんな脚註が仕上がったのか、それは『子不語の夢』の七〇、七一ページでご確認ください。 |
さてそういった次第で、『子不語の夢』の脚註づくりはIT時代(という言葉も最近とんと耳にしなくなりましたが)にふさわしくインターネットを活用して進められました。じつはひとつだけ問題があって、それは関係者のなかでただひとり肝腎かなめの脚註王だけがインターネットにノータッチな人であるという一事だったのですが、スタッフおよび出版社の尽力でこの問題もクリアしてもらい(たぶん脚註チェック用非公開ページに掲載されたヘルプやフォローをいちいちプリントアウトして脚註王のもとへ謹んでお届けする、といった作業が行われたのだと推測されます)、脚註王による脚註がいよいよ脱稿となりました。 もしも自分が編集者であったなら、と私は思っておりました。この脚註原稿によって編集者魂にめらめらと火をつけられたことであろうな、と。よーし、いっちょ本気でしごいてやろうじゃないの、と。 つまり脚註原稿が完成したあとは情け容赦のない斧鉞を加えて決定稿を仕上げるべく、脚註担当者と編集者とのガチンコの丁々発止がくりひろげられるのであろうなと私は考えておりました。とにかく分量が尋常ではなく、当の脚註王も「脚註王の執筆日記【完全版】」の脚註で『子不語の夢』脚註原稿の長々しさに関してこんなことを打ち明けていらっしゃいます。
あ、「スカイキッド」が「スカイキット」になってる、誤植だ、とお思いになった方、あなたはたぶん思慮が浅い。関西地方の言葉ではこうした場合、最後の音節にある濁点が突如消えてしまうという現象が発生しないでもありません。それを鬼の首でも取ったみたいに誤植だ誤植だと騒ぎ立ててみなさい。それこそ脚註王の思うつぼです。しかしほんとに誤植かもしれんのだが。 それから「ケンケン笑いがシトなりますね」というところ、ちょっとわかりづらいでしょうか。「シト」から「死と」や「死都」を連想した向きもおありかと思われますが、「しとなる」は「しとうなる」、つまり「したくなる」の意です。七つの顔をもつ名探偵多羅尾伴内の決めぜりふに出てくるフレーズを「正義と真実の人」だと勘違いしている人も多いかもしれぬが、あれは正しくは「正義と真実の使徒」であって、いやいかんいかん、いつのまにか脚註王的トリビアに走ってしまっているではないか。にしてもケンケン笑いから殿山泰司へとアナロジーの連鎖を架け渡す早業は、これはもう脚註王における作家的想像力のなせるところだといっていいでしょう。 |
しかし実際には、村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」に記されているとおり、脚註王による尋常ならざる分量の脚註は、 ──それがホトンド全部、ボツにもならんと印刷されてしもたんです。 脚註王も驚かれたことでしょうけれど、私もまたひっくり返りました。編集部なき出版社ゆえの悲喜劇ということなのでしょうが、脚註担当者と編集者との丁々発止というプロセスがすっ飛ばされ、出版社は限られた紙幅に脚註をぎゅうぎゅう押し込むことに汲々として、それでもあがってきた第一校を見てみると、本文は終わっているのに脚註ばかりがえんえん延びつづけ、仕方ありませんから脚註だけを二段に組んでレイアウトしてみました、みたいなページまで出現しているありさまでした。 さすがにこれではまずかろう、ということになったのかどうか、僻遠の地にいた私にはつぶさにはわからねど(というよりも記憶が怪しくなっているのですが)、この時点でようやくスタッフおよび出版社と脚註王との話し合いが行われ、なんとか最終的な形態に落着したのであった、と思います。 脚註王による『子不語の夢』の脚註は、原稿量をべつにして考えてもおよそ破天荒な逸品でした。はじめて眼にしたときにはずいぶん驚かされたものでしたが、読んでみると基本的にはすこぶる面白く(基本的には、などと書くとまたイケズのそしりを頂戴するのでしょうけれど)、そうした面白い脚註を目指してくれた村上裕徳さんの心意気と気合がたいへん嬉しいものに思われましたし、それにまた先日も記しましたとおり、『子不語の夢』の刊行は私にとって三重県民の血税三億円をどぶに捨て去るお祭り騒ぎに身を投じることにほかなりませんでしたから、脚註王における常識的世界からの逸脱ぶりはそれにうってつけのものであるとも判断されました。 『子不語の夢』が刊行されたあとこの脚註のことでごちゃごちゃいってくるやつが出てきたら、おそれおおくも三重県知事になりかわってまずおれが一発かましてやらねばならんな。私はそのように決意していたのでしたが、それはまったくの杞憂に終わり、脚註王の脚註は江湖の読書子に圧倒的な好評をもって迎えられました。第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考でも、たとえば藤田宜永さんの選評を「オール讀物」2005年7月号から引用いたしますと、 ──『子不語の夢』は注釈が非常に面白かった。注釈でこんなに愉しんだのは生まれて初めてである。この部分だけで一冊の本になっていたら受賞したと思う。 とまで絶讃していただきました次第。ただしこの選評、このあと、 ──他の選考委員から、誰に賞を渡すのか分からない作品という意見が出て、受賞は見送られた。 とつづくのですが、あーこれこれそこの日本推理作家協会、おまえらどうして絶望的なまでに判断力を欠如させたうえにみずからそれを暴露して恬として恥じるところのない手ひどいばかったれ連中を選考委員にするのじゃ、ふざけてんじゃないわよ、ええかげんにしなはれ、ばーか、みたいな啖呵を一度でいいから切ってみたいと思うのですが、いやじつにどうもまあなかなか。日本推理作家協会のますますの発展を祈念いたします。 |
脚註王村上裕徳さんも第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考には不審不満がおありのようで、「脚註王の執筆日記【完全版】」のイントロダクションにはこんなことが記されています。
前後の脈絡がようわからんゆう人は「『新青年』趣味」第十二号を購入して全文読んでくれたらええんです。 さるにても、古来あてとふんどしは向こうからはずれると相場が決まっているわけですが、本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞のダブル落選は想定の範囲外。脚註王もお書きのとおり、天城一さんの本格ミステリ大賞受賞は『子不語の夢』スタッフからも余裕でかつまた心から祝福された慶事であったのですが、あてにしていた日本推理作家協会賞の選考結果はにわかには信じがたいものでした。あきれかえって口もきけないものでした。しかし致し方ありますまい。選考委員がきわめてナイーブであったのだと諦めて(ここはもう完全に、選考委員がとんでもないばかばかりであったのだと諦めて、という意味だとご理解ください)、先に進みましょう。 しかし先に進むといっても、「脚註王の執筆日記【完全版】」に関する補足説明、いうならば脚註に脚註を重ねる作業はおおむね終わってしまいました。その先が何になるのかというと、じつはこれからが本題というべきかもしれないのですが、あすにつづきます。 |
『子不語の夢』は三重県が2004年度に実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の一環として刊行されました。刊行のためにぶんどった予算は総額三億円のうち五百五十万円でした。 この長ったらしい名前の事業が完全なる失敗に終わったというのはいまや衆目の一致するところであって、伊賀地域住民のなかにはいまでも私の顔を見かけるとこの事業の批判を厳しく展開してくださる方があります。今年に入ってからでもつい先日、といっても先月のことですが、おまえが「伊賀百筆」に発表した事業批判は面白かった、じつは自分もあの事業にちょっとだけかかわったのであるが、それはもうひどいものであった、と打ち明け話を聞かせてくださる方があり、といっても酔っぱらって聞いていたものですから仔細には思い出せぬのですが、事業の一環としてビデオ作品を公募する企画があった、しかしふたを開けてみると悲しいことに作品がほとんど集まらず、したがってそこらの中学生か高校生が撮影した屁でもないようなビデオが堂々の入賞、むろん入賞作品の発表と表彰も行われたのであるが、審査員を務めた旧上野市出身のNHKプロデューサーだかディレクターだかは気に入らないことがあったらしく途中でぷいと帰ってしまって、しかもそのときの入場者数ときたらあなた、 「あの蕉門ホール借り切ってたったの十六人ですよ。たった十六人」 その十六人もすべて入賞者の関係者なのであったそうな。 まったく何をやっておったのか。とにかくひどい事業でしたが、官民双方のばかが寄ってたかってどぶに捨ててしまった三億円のうち、じつに微々たる額ではありましたが五百五十万円の血税を有効に活用できたのは喜ばしい。伊賀地域や三重県にとっても喜ぶべきことであったと思います。 この五百五十万円は全額、一円も残さず出版社に支払いました。内訳は1月2日に「江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業(続)」でお知らせしましたが、下の画像のとおりです。 おもだったところをあげておきましょう。
ほかは書簡の撮影費、乱歩が製本してあった不木書簡の解体修復費など。五百五十万円で千部を発行し、うち六百六十部は全国の図書館や研究者などに献本しました。書店でも販売しましたが、それによって発生する利益は『子不語の夢』の発行者だった乱歩蔵びらき委員会には無関係、つまり本がいくら売れても委員会には一円も入ってこないということにしました。その主たる理由は、委員会は事業が終われば消滅してしまいますからお金の受け皿がなくなってしまう、二〇〇四伊賀びと委員会の内部にはこの事業で利益を発生させることを疑問視する声もあった(むろん疑問視しない声もあったのですが)、といったところです。 さてそれで、脚註王の話題にこと寄せてお知らせ申しあげてきましたとおり、この出版社には編集部がありませんでしたから編集作業がなかなか進行しませんでした。私は編集業務を出版社に丸投げして高みの見物を決め込んでいたのですが、そんなこともしていられなくなって、たとえば脚註チェック用の非公開ページを開設してスタッフに提供したこともまたお知らせしたとおりです。 結局、いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。 |
いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。 ならばいかにすべきか。要するに編集部が機能しないのですからその点をなんとかせにゃなりません。 善後策を思案した結果、監修をお願いしていた浜田雄介さんに編者にまわっていただくことで衆議が一決しました。それはいいのですがその余波として、スタッフに名を連ねていなかった私が監修者としてしゃしゃり出ることになってしまいました。こいつぁ痛かった。 むろん私とて自己顕示欲や功名心や名誉欲は人並みにもちあわせているつもりなのですが、それが素直には発動しない傾きがあるようです。自分自身を強引に前へ押し出すことに抵抗を感じる。いわゆる上昇志向であるとか、もっと大きくいえば野心であるとか、そういったものが私にはやや稀薄なのではないかしらん。出世栄達はわがことにあらずという感じがどこかにあって、漱石風な〓徊趣味に親近感をおぼえる。そこらのお姉さんと愉しくお酒を飲むことができればそれで機嫌がいい。紅旗征戎わがことにあらず。時節柄の定番曲でいえば「仰げば尊し」の「身を立て名をあげ」という歌詞に対してはいたって冷笑的である。身なんか立てなくていいんだし、名なんかあげなくたって全然OKなんだぜと、お若い衆にどうしていってやれんものかと思う。だいたいが名前なんてのはたぶん何かをなした結果としてあがったり残ったりするものであって、名をあげたり残したりすること自体のために血道をあげるのはずいぶん暑苦しいことではないか。とにかく私はそんなことのために一生懸命にはなれぬのである、というのはいわゆる負け犬の遠吠えにすぎないのかもしれませんが、とにかく私はそんなふうに考える。 (上の段落にある「〓」は「低」のにんべんがぎょうにんべんになっている文字です) しかし、そういったいってみればアジア的な謙譲の精神はべつにしても、私には『子不語の夢』という本に自分の名前を出したくない理由がありました。当初は自分が編集するつもりでいましたから、その場合にはどうしたって名前を出さなければならなかったのですが、編集作業を出版社に丸投げすることができたのですから、しめしめ、こいつぁ好都合だぜ、てなもんでした。脚註王村上裕徳さんの脚註に自分の名前が二箇所出てくるのを発見し、先日も記したとおりちょっとまずいなと思ったのも同様の理由によっているのですが、村上さんがわざわざこうやって名前を出してくれたのだから、陽の当たる表舞台にはけっして姿を現さぬ伊賀の忍びがかすかに足跡を残しておくのもおつりきではないかと考え直した次第でした。 三重県が税金三億円をどぶに捨てた官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」においては、ぶっちゃけていえば協働だの全国発信だのの旗のもとに浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(あいうえおで頭韻を踏んでみました)乞食根性がうずまいていました。官民双方の乞食のみなさんは一円でも多く自分の懐にかき集めるために眼の色を変え、そのくせ懐にいくら入ったのかをいっさい明らかにしようとせず、しかもそのことに何の疑問もおぼえないってんですから公金を費消する立場の人間に当然要求される倫理や道徳なんてどこ捜してもありゃしません、とにかく三億円をきれいにどぶに捨ててくれたわけですね。乞食のみなさんが。 で私は、そうした乞食のみなさんとは一線を画したかった。それはたしかに三億円に群がってそのうちの五百五十万円で『子不語の夢』を刊行するのではあるけれど、五百五十万円のうちの一円だって自分のものにはしたくない。ぶんどってきた予算のいくばくかを環流だかキックバックだか名目はどうあれ自分の懐に入れてしまうような、そんな浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(もう一度踏んでみました)真似はしたくなかった。 しかし『子不語の夢』という本に私の名前が出てくるとなると、当然のことながら労務に対する報酬が発生することになります。たとえ一円も受け取らなかったにしても、人は私がこの事業によっていくらかの金銭を手にしたと認識してしまうかもしれません。 それじゃなんだか垢抜けねーな、と私は思い、だからこそ『子不語の夢』に自分の名前が出てこないのはじつに望ましいことであったわけです。おれは乞食じゃねーんだッ、と叫ぶかわりに、伊賀の忍びの秘術を尽くして完全に姿をくらましてしまうことが私の念願でした。 |
こと志と異なり、私は『子不語の夢』という本に監修者として名前を連ねることになってしまいました。忍びの術がまだまだ未熟であったということか、とにかくそうせざるを得ない状況になってしまいました。ですから結局、じつに不本意なことながら、監修者としての報酬を手にすることにもなってしまったわけです。 北川正恭さんとおっしゃる前知事が決定し、野呂昭彦さんとおっしゃる現知事がそれを継承した、三重県民の血税三億円(厳密にいえば、三億円のうちの二億円は三重県が、残り一億円は伊賀地域旧七市町村がもちだした税金です)をばらまく愚策のその結果、私の懐にもわずかながらお金が転がりこんできたわけです。 しゃれにならんな、と私は思いました。私はあくまでも清廉潔白、みそぎを終えた巫女のごとくに汚れを知らぬ身で「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を批判しているつもりであったのに、巫女さんはいつのまにか春をひさいでおった。いやいや、私は春をひさぐ女性のことを大事にしたいと思っている人間であるのだし、そもそも巫女と売春には古来密接な関連があるのだからそれはいい。それはいいのであるけれど、しかし難儀じゃ、こんなことではおれはもうそこらの乞食と選ぶところがないではないか。くっそー。 こら北川。 こら野呂。 これもみんなおまえらのせいだ。名張市立図書館にその人ありと謳われたカリスマがおまえらのせいでいまや乞食だ。人生裏街道の枯落葉だ。やってらんねーなーまったく。おまえらが無節操に金をばらまいて県民に媚びを売ろうとするからこんなことになるのだ。いくらばらまいたって伊賀地域住民なんてみんなばかなんだから税金をどぶに捨てることにしかならんということすらわからんばかであったかおまえら。 こら北川。 こら野呂。 もっとまじめにやれ。 とここまで書いてみて、これがはたして合理的な説明になっているのかどうか、若干の疑念を抱かないでもないのですが、話の流れとしてはまさにこのとおりなのですから仕方ありません。編集部の不在をフォローするため、監修者だった浜田雄介さんが編者になり、何者でもなかった私は監修者になった。そして私は監修者としての報酬を手にした。そういうことです。 そしてその報酬は、私をおおきに困らせました。自己破産のペナルティとして郵便物がすべて管財人経由となっていた時期のことで、報酬が入った現金書留もまた管財人の弁護士事務所を経て届けられてきたのですが、私は封を切りもせずそこらにほっぽり出しておきました。封を切ったらふらふらつかってしまうことでしょうし、ただの私利私欲で消費してしまったらおれはほんとに乞食ではないか、しかしあまり偽善的な使途ってのもまた気色が悪いものだし。 ちょうどそのころ、『子不語の夢』を刊行した乱歩蔵びらき委員会の後継組織として乱歩蔵びらきの会というのが発足することになり、いっそそこに全額寄付してしまうかとも考えてみたのですが、結成総会に顔を出してみたところ、うーん、なんかちがう、という感じがしたので思いつきは却下、現金書留は未開封のまま私の手許にとどまりつづけ、そんなものがあったということも忘れがちになっていたころ、『子不語の夢』増刷分の報酬というのが届きました。 いやまいったな、と私は思い、困惑はその極に達したのですが、そうした状態を見澄ましでもしたかのように、低い声で悪魔が囁きかけてきました。悪魔の誘惑に負けた私は、二通の現金封筒を勢いよく開封し、中身を取り出し、紙幣もコインもすべて財布にぶちこんでしまいました。まだつい最近のことです。こーりゃいまのうちにパソコン買い換えとかなきゃならんぞと意を決したときのことです。報酬はもとよりパソコンを購入できるほど多くはなく、せいぜいが常用しているアプリケーションソフトの最新版を買い揃えているうちいつのまにかなくなってしまう程度、しかも私は、いやいいんだいいんだ、新しいパソコンとソフトはいずれも『江戸川乱歩年譜集成』をつくるための不可欠のツールなんだからこれでいいんだ、これこそが生きたつかいみちというものではないか、はっはっは、おれは何もやましいことはしておらんぞ、おどおどする必要なんかどこにもないじゃないか、まったくおわらいぐさだぜ、はっはっは、とみずからにいいきかせもしたのですけれど、それでも私が悪魔の囁きに耳を傾けてしまい、そのせいで清廉潔白たらんとしていた心がぽっきり折れる結果になってしまったのはまぎれもない事実です。うーん、まいった。 まいったけれど仕方がない。ここで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に携わった乞食のみなさんにご挨拶を申しあげておきましょう。 ──やあみんな。きょうから僕も君たちの仲間だ。よろしく引き回してくれたまえ。 あずかり知らぬところで三億円をどぶに捨てられてしまった三重県民ならびに伊賀地域旧七市町村住民のみなさんには心からなる謝辞を。 ──右や左の旦那様、毎度おありがとーごぜーやす。 |
ともあれそういった次第で、私はなんとか『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』に関する報告を終えることができました。終えることができたように思います。えらく強引なようなれど、そういうことにしてしまいます。 先日も記しましたとおりこの本のことを記すのはなんとも気が重い作業で、それでも村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」が発表されたのを得がたい奇貨として、脚註王の話題に無理やりこじつけたどさくさまぎれ、血税三億円のうちの五百五十万円のうちのごくごくわずかな金額がゆくりなくも自分の懐に入ってしまった事実を告白することができた次第なのですが、考えてみれば私は『子不語の夢』のために結構身銭も切ってきたのであって、それは手にした報酬のどう少なめに見積もっても数倍には相当するのではあるまいか、だからべつに卑屈になることもないんだとみずからにいいきかせ、心根のまっすぐな乞食としてこれからも生きてゆきたいと思います。 思い起こせば私には反省すべき点が多々あり、とくにスタッフ各位にはお願いした仕事以外のすったもんだによる精神的負担や心労、ありていにいえばはらわたの煮えくりかえるような思いを押しつける結果になってしまったであろうことは私の不明と不徳のいたすところであったとしかいいようがないのですが、とにかく『子不語の夢』をなんとか上梓できたというその一事に免じて、スタッフ一同のご諒恕を乞いたいと思う次第です。 さらに思い起こせば2002年の春、なんとも懐かしい気分で胸がいっぱいになりますが、成田山書道美術館に足を運んで不木宛乱歩書簡をまのあたりにし、これはなんとか本にしなければならんだろう、しかし商業出版社には無理だろうからやはり官の出番か、採算や効率が足かせになって民には不可能だというのなら官の出番ではないか、よーし、すまんな名張市民諸君、市民生活には何のかかわりもない乱歩と不木の書簡集に君たちの税金をつかわせてもらうぞ、と考えていた矢先に名張市が財政非常事態宣言を発してしまいましたので私は途方に暮れたものでしたが、それだけに三重県がうまいぐあいにばらまきの愚策を展開してくれたのはまことに好都合なことでした。残りの二億九千万円あまりがきれいにどぶに流れたのだとしても、『子不語の夢』を刊行できただけでも「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を実施した意義はあったのだと、そのように書いておいてやるから泣くな乞食ども。 ともあれ、スタッフ各位はもとより無理難題を聞き届けていただいた出版社も含めて、関係各位にあらためてお礼を申しあげておきたいと思います。 そして、脚註王。 「『新青年』趣味」第十二号に掲載された「脚註王の執筆日記【完全版】」によれば、われらが脚註王は現在ただいま富士山の見える辺土で悠々自適の明け暮れとの由。インターネットにノータッチどころかいまやパソコンにもノータッチ、原稿はすべて手書きという生活でいらっしゃるとも聞き及びます。 私は村上裕徳さんに脚註王日記のブログを開設してもらいたいものだと考えていたのですが、そしてそうなれば必ずや、悪の結社畸人郷の両巨頭を筆頭に熱心なファンが続々と生まれるであろうにと推測されもする次第なのですが、そうは問屋が卸さぬようです。惜しむべし惜しむべし。惜しみてもなおあまりある富士の星影。 脚註王の隠遁生活が夕映えのような穏やかな感情に包まれたものであることを、そして脚註王がいつの日かふたたびわれわれの前にその勇姿を現してくれることを切に願いながら、乞食天国伊賀の国からお別れを申しあげます。 |
転載終了。
転載したところをざっと読み返してみたのですけれど、不肖サンデーよくもまあこのようなくだらないことを毎日飽きもせず偉そうに綴っていられるものであると、いっそ感心してしまいます。 『子不語の夢』刊行事業のみならず「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業そのものの総括もしておきたいところなのですが、事業批判はこれまでにもうさんざっぱら、いやというほど展開してまいりましたのでいまは差し控えておきましょう。 しっかしまあこのなんちゃって事業、結局は私が当初危惧したとおりに進行し、しかのみならず私がアドバイスしたのとは逆のほうへ逆のほうへと舵が切られて、とどのつまりは眼もあてられぬ惨状を呈しながら幕が引かれた次第でしたが、おそろしいことに誰ひとりその責任をとろうとせず、きれいごとだけ並べてよかったよかったと最後の最後までなあなあ体質がフルスロットルであったのは笑止千万。つくづくあきれかえってしまいます。 いやいや、きれいに終わってくれたのであればまだいいのですけれど、負の遺産ってやつですか、伊賀地域にはよくないものが残されました。昨年9月15日伝言の「アンパーソンの掟」から引いておきましょう。 |
もしも『ふしぎとぼくらは何をしたらよいかの百科事典』の編集部から依頼があれば、俺は「芭蕉さんの子供たち」の項をこんなふうに執筆することだろう。 ── 二〇〇四年、三重県が伊賀地域で実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を契機として発生した市民層。中心をなすのは事業に直接携わった地域住民で、閉鎖性と排他性を特徴とし、独創性や先進性には乏しく、責任の所在を極力曖昧にしながら、公共概念にはまったく無縁なプランに公金を費消するために活動する。事業終了後も伊賀地域各地に散らばり、事業の悪弊を持続させる潜勢力となった。…… 野呂昭彦という知事はあの事業を指して、みずから提唱する「新しい時代の公」のモデルケースだと評した。新しい時代の公、という言葉が正確に何を意味しているのか、残念ながら俺には不明だ。とはいえあの事業に、現時点で「公」と呼ばれているものの貧しい内実が示されていたことは間違いのないところだろう。当節の官民合同だの協働だのといったものからは、じつは肝腎の公共概念がすっぽり抜け落ちている。それが現在ただいまの「公」の姿なのだという認識に立脚しているのだとすれば、知事の言はまさしく正鵠を射ていることになる。 そして芭蕉さんの子供たちは、公共概念の不在には何の疑問も抱くことなく、それぞれの「公」に携わる。官民合同の名のもとに、正当な判断や正規の手続きなど端から無視して、いや、そうした判断や手続きの重要性に顧慮することさえ知らず、ただ自分たちの手で公金を費消することのみに狂奔し、すっかり味を占めてしまった子供たち。彼らはお役所の無責任や怠慢と強力なタッグを組みながら、地域社会に着実に地歩を占めてゆく。後顧の憂いという言葉は、どうやら「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のためにこそあったものらしい。 |
げんに名張市では、芭蕉チルドレンすなわち芭蕉さんの子供たちの手によって、公益の名のもとに公益とは何の関係もない名張エジプト化計画が進められたり、古い民家を利用して歴史資料なき歴史資料館を建設するリフォーム詐欺が企まれたり、つくづくあきれかえらざるを得ないことがごくごく普通にまかり通っている次第です。いやはや。
不肖サンデー、不本意ながらこの先もなべての愚かしいものを相手にした不毛の戦いをつづけねばならんのかしら。『江戸川乱歩年譜集成』の調査編纂に身を挺さなくちゃなんないっていうのにさ。 完 |
生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】
|
||
開設日
|
2004年5月7日 | |
開設者
|
中 相作 NAKA Shosaku | |
御意見無用
|
名張人外境 | |
E-Mail
|
stako@e-net.or.jp |