ごみ大爆発の三重県と合併大分裂の伊賀七市町村がなあなあ感覚でお贈りするなんちゃってイベント
ええよござんしょ、血税三億円かけて伊賀を必ずメジャーにしてみせますとも、と伊賀びとは誓った
2004年は伊賀が熱いぜ
生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】
江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業(続)
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最終更新2006年 3月 9日 (木)
その13 ● イラクに先がけて引き継ぎを行いました
2004年5月3日 
いよいよ5月、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業があと二週間ほどで開幕します。そんなこととはまったく関係なしに、東京で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)に関する打ち合わせを行い、イラクの主権移譲に一か月ほど先がけて、書簡集刊行へ向けた準備作業の実務を出版社側に引き継いでまいりました。以下、関係各位に電子メールでお送りした報告を転載いたします。
 お世話さまです。どちらさまもお元気のことと存じます。4月24日、『新青年』研究会の例会で『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の打ち合わせを進めていただきました。その報告も含め、書簡集刊行準備の進捗状況をお知らせいたします。世間はゴールデンウイークだと申しますのにまあ何をやっておりますのやら。なお、この報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。
http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1.html#anchorkura13

今後の作業について
書簡集刊行のための準備作業は、今後は皓星社(アドレス下記)が中心になって進められることになります。4月24日の例会でも申しあげましたとおり、今回の私の役どころは、書簡集を書籍の形にして世に流通させるべく、どこかから予算を調達してくることであると任じております。すでに予算の目処がつき、ご協力をいただくスタッフの顔ぶれも確定し、書簡所蔵者からスキャン作業の承諾を得ることもでき、こちらが担当すべき作業はひとまず片づいておりますので、今後の実務は皓星社編集部にお任せする次第です。書簡集の内容や造本につきましても、当方の意図するところをスタッフのみなさんにお伝えし、お酌み取りいただけたものと思っております。よろしくお願いいたします。
http://www.libro-koseisha.co.jp/

『新青年』研究会例会の発表について
例会は4月24日、豊島区民センターで開かれました。出席者は、阿部崇、小松史生子、佐藤健太、中相作、浜田雄介、本多正一、村上祐徳(五十音順、書簡集関係者のみ)。阿部さんの発表「『小酒井不木より江戸川乱歩への書簡』について」では、乱歩を庇護しようとする不木の意志が書簡の文言に基づいて具体的に論述され、それを受けた小松さんからは不木の乱歩萌え(!)に関する指摘もあって、まことに興味深いものでした。当方が至った結論は、諸戸道雄は小酒井不木である、といったことになるでしょうか。ともあれ、書簡集に書き下ろしていただくお二人のご論考を楽しみにしております。存分に腕を揮っていただければと思います。なお、『新青年』研究会オフィシャルサイト(アドレス下記)の「トピックス」に、4月24日の例会の報告が掲載されています。
http://members.at.infoseek.co.jp/sinseinen8/

書簡集の打ち合わせについて
例会では書簡集の打ち合わせも行い、本文の組版における段落内の折り返しの問題などを話し合っていただきましたが、造本や体裁の大枠を早急に決める必要があるようです。書簡集の書名はとりあえず『乱歩不木往復書簡集』に落ち着きましたが、これも最終的な決定ではありません。いずれにせよ今後は、皓星社編集部が中心になって検討と決定を進めていただきたいと思います。

書簡の画像について
ここで書簡の画像に関して記しておきますと、書簡集のメインはあくまでも書簡の画像であり、それを活字に起こしたテキストはサブに過ぎないというのが当方の見解です。要はこれまで埋もれていた資料を公刊することにあるのですから、資料としての書簡画像が収録されるのは当然だろうと考えます。書簡画像そのものに資料的価値が認められるわけではありませんが、筆跡という情報を資料として提供することには意義があるでしょうし、すべての文字を完全に判読するのは不可能でしょうから、判読できない文字をそのまま読者に示すことも必要かと思います。書簡画像全点の収録は、コマーシャルベースのみを考えれば難しい話ですが、書簡集刊行が税金でまかなわれるいわば公共事業である以上、商業出版物には望み得ない徹底性を盛り込むことも考慮されるべきかと愚考します。とはいえ、予算の制約があることですから出版社サイドに無理難題を押しつけることはできませんが(ですから皓星社には、とりあえず書簡画像は口絵で扱うだけにして造本や体裁の大枠を決め、発行部数や単価を割り出していただくようお願いしてあるのですが)、影印本であれ CD-ROM であれ、できれば書簡全点の画像を収録することが望ましいとの見解を記しておきたいと思います。

阿部さんのご質問について
阿部さんから4月27日付メールで、「旧字→新字の混在はどうするか?」「行末の句読点省略、句読点代わりのスペースはそのまま残すのか?」とのご質問をいただきました。みなさんそれぞれに阿部さんへの返信をお送りかと思いますが、私の見解は、前者はすべて新字、後者はいずれも句読点を補う、といったことになります。もっともこれは、書簡画像を全点収録できるのかどうかによっても左右される問題であると思います。

ふたたび今後の作業について
乱歩書簡は、茨城県在住の書簡所有者の方から、書簡を印刷所まで持参していただき、お立ち会いの上でスキャン作業を進めることの承諾を得ています。不木書簡は、紙資料修復工房(アドレス下記)の手で『小酒井不木より江戸川乱歩への書簡』の現物を確認してもらい、解体が可能かどうかの結論を出してもらうことが先決になります。紙資料修復工房と乱歩のご遺族からは、そうした確認作業に関するOKをいただいております。いずれにせよ、乱歩書簡と不木書簡の双方、日程を調整してスキャン作業を進めなければなりません。だいたいの日程が決まった段階で、私から書簡所有者などの関係者に対し、皓星社編集部への実務の引き継ぎをお知らせすることにします。なお、書簡の画像を全点収録することが不可能になったとしても、この機会に全点のスキャン画像を確保する作業は進めておくべきだと思います。
http://www.padocs.co.jp/

 以上、取り急ぎお知らせしました。ひきつづいてよろしくご協力をたまわりますよう、お願い申しあげます。

その14 ● 5月17日に出版社と契約を結ぶ予定です
2004年5月7日 
まずお知らせです。

生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001】」のページがやたらたらたら長々しくなってきましたので、年度替わりを機に【001−1】と【001−2】に分割しました。いまご覧のページが2004年度分すなわち【001−2】となっております。

それでは、書簡集刊行でご協力いただくみなさんにお送りした本日付メール、事業進捗状況の報告のため全文を転載いたします。

 お世話さまです。浜田さん、本多さん、小松さん、メールありがとうございました。その後の動きなどについてお知らせいたします。なお、例によってこの報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。
http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1-2.html#anchorkura14

分担金について
「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業では、二〇〇四伊賀びと委員会から各事業者に交付される予算が「分担金」と称されています。乱歩と不木の書簡集刊行事業には五百五十万円の分担金が交付されますが、事業主体である「乱歩蔵びらき実行委員会」から「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会事務局に「分担金申請書」が提出され(4月30日締切でした)、それを受けた事務局は審査を経て「交付決定通知書」を発行、そのあと請求や支払いが行われるというおそろしく面倒な手続きを踏むことになっています。この事業は意味もなく組織が複雑で、それゆえ手続きも煩瑣になってしまうのですが、分担金に関する手続きは順調に進行しているとお思いください。

契約について
浜田さんにご心配をおかけしている委託ないしは契約の件ですが、この連休中に皓星社の佐藤さんからお電話をいただき、5月17日の月曜日、社長さんともども名張までおいでいただくことになりました。連休明けの昨6日、二〇〇四伊賀びと委員会の事務局に電話を入れ、書簡集刊行事業関係スタッフに顔を揃えてもらうよう手配しましたので、17日には契約などの手続きを進めることができるはずです。この契約を終えたあと、お手伝いいただくみなさんと皓星社とのあいだで、それぞれの作業に関する契約が、いや契約というと堅苦しくなってしまいますが、浜田さんのおっしゃる「皓星社から各メンバーに対し文書による依頼」が行われることになると思います。なお皓星社には、この機会に蟹江町歴史民俗資料館で乱歩書簡のスキャンも済ませてもらうことになっています。

 以上二点、取り急ぎ記しました。よろしくお願いいたします。

その15 ● 皓星社への実務委託が正式決定しました
2004年5月25日 
その14」に記しましたとおり5月17日午後、名張市役所で書簡集刊行に関する打ち合わせを行いました。例によってご協力いただくみなさんにお送りした本日付メールを転載し、報告といたします。
 遅くなりました。取り急ぎお知らせいたします。5月17日、名張市役所で皓星社と二〇〇四伊賀びと委員会との話し合いが行われ、『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の編集から出版、献本、販売までを一括して同社に手がけていただくことが正式に決定しました。以下、当日の模様を会場別にかいつまんでご報告申しあげます。なお、例によってこの報告は当方のサイトにも掲載いたしますので(アドレス下記)、よろしくご了承ください。
http://www.e-net.or.jp/user/stako/kurabiraki1-2.html#anchorkura15

清風亭
名張市鍛冶町にある乱歩ゆかりの料亭で、東京からおいでいただいた皓星社の藤巻修一さん(社長)と佐藤健太さん(営業部)を囲み、うな重、う巻き、肝吸いの三点セットをぱくつきながら顔合わせ。総勢八人ほどでしたが、自己紹介などを済ませました。昼食代千五百円は割り勘としました。

名張市役所
三〇四会議室で話し合い。出席は皓星社のお二人と、二〇〇四伊賀びと委員会から伊賀びと委員会名張連絡会会長の北村嘉孝さん(自営業)、乱歩蔵びらき委員会代表の的場敏訓さん(自営業)、委員会事務局の古川明郎さん(三重県職員)と名和健治さん(名張市職員)ら総勢十人であったかと記憶します。まず不肖サンデーが、成田山書道美術館に乱歩書簡が展示された一昨年春から現在までの経緯を説明。つづいて話し合いに入りましたが、眼目は皓星社への実務委託を二〇〇四伊賀びと委員会が承認することにあり、伊賀びと委員会関係者がその名を耳にしたこともなかったであろう東京の出版社にいわゆる随意契約の形で発注する話がすんなりまとまりました。まずは重畳。書簡集刊行事業に交付される分担金五百五十万円はすべて同社に支払われることになり、近く正式な契約が交わされます。また、書簡集の発行は乱歩蔵びらき実行委員会、発売は皓星社、発行日は2004年10月21日とすることなども決まりました。具体的な内容についてはほとんど話題になりませんでしたが、書簡集をできるだけ広く行きわたらせたい、書簡の画像はすべて収録したい、という要望二点をあらためて皓星社側にお伝えしておきました。

中むら
近鉄名張駅西口前の居酒屋に皓星社のお二方と三人で。この席では、書簡集のパブリシティなどの面倒も見ていただけると、社長さんからありがたいお言葉を頂戴しました。週刊ブックレビュー紙の対談で書簡集をとりあげてもらうことも可能だとのことでしたので、それならば紀田順一郎先生とわれらが浜田雄介さんに対談をお願いしてはどうかと勝手な提案をしておきました。

dur
名張市桔梗が丘二番町にあるカラオケスナックに三人でなだれ込みました。浅田という店に行ったはずなのですが、なんか様子が変でした。入ってみると代替わりしていて、このdurという店は4月にオープンしたばかりとのこと。フィリッピーナはべらせて楽しくお酒を飲んだのですが、じつに申し訳ないことに私はすっかりご馳走になってしまい、受注の世話をした見返りに業者から饗応を受けるという典型的な悪の構図を体現してしまいました。いかんいかん。翌日、お二方は岩田準一の日記の関係で鳥羽へ、そのあと小酒井不木の書簡の関係で蟹江町へ足を運ばれました。概略は皓星社ホームページの「営業日誌」に記されています(アドレス下記)。
http://www.libro-koseisha.co.jp/cgi-bin/libro/imgboard/imgboard.cgi

 以上です。書簡集刊行まであと五か月ほどとなりました。みなさんそれぞれにご多用のことと存じますが、なにとぞよろしくお願い申しあげます。三重県知事になりかわってお願いを申しあげる次第です。

その16 ● あっというまに一年七か月が過ぎました
2006年1月2日 
いやすまん。すまんかった。不肖サンデー、心からお詫びを申しあげます。三重県が天下に誇った官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」はとっくの昔に終了し、伊賀地域住民にはもはやすっかり忘れられてしまっているのですが、江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業では2004年10月21日を期して『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』を無事刊行。本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞にダブルノミネートされながら双方とも受賞に至らず、関係者一同涙に暮れたものでありましたが、いっぽうで刊行事業が奇跡のような文化事業としていまや伝説のごとく語り継がれ始めているというのに、経過報告がまったくできておらなかった。じつにすまんかった。

顧みれば一年七か月ものブランクがあるわけですが、本日はとりあえず文書二点の画像を掲載して報告といたします。

事業報告
会計報告
それともうひとつ、2005年12月28日付朝日新聞名古屋本社版夕刊学芸面、「東海の文芸 05年回顧」に掲載された清水良典さんの「商業的成功とは別の価値確立を」の引用を、2006年1月1日付人外境主人伝言から転載しておきましょう。
 代わりに記念となる出版物を挙げるなら、小酒井不木と江戸川乱歩の往復書簡集『子不語の夢』(皓星社)だろう。三重県出身の乱歩、そして愛知県蟹江町出身の不木は、大正時代末期の探偵小説黎明期に互いに励ましあい議論を重ねた盟友だった。二人の出身地の文化事業の連携企画として昨冬刊行された本書は、一級の研究者が贅沢に工夫を盛り込んだ結果、学術的な資料としても理想に近い出来栄えとなった。活字や CD-ROM に収録された図版から、若い二人の意気込みや苦悩が生々しく浮かび上がった。
その17 ● 手抜きみたいですけど完結といたします
2006年3月9日 
またしてもあっというまに時間が経過してしまいました。前回の報告から二か月あまり、いつまでたらたらしてもいられませんので、江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業の報告を進めます。

「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」はおととしの11月に終了しており、いまごろになってこんな報告を発表するのはあまりにも間の抜けた話ではあるのですが、一応のけりはつけておかなければなりません。

とはいっても2月25日から3月8日まで、伝言板にたらたら書き記してきたところをそのまま転載して報告とするだけの話で、いかにも手抜きじゃが諒とされたい。

転載開始。

 ■ 2月25日(土)

  本日のアップデート

 ▼2005年11月

 脚註王の執筆日記【完全版】 村上裕徳

 ついに出た「『新青年』趣味」第十二号に掲載されました。『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』で脚註を担当された村上裕徳さんの日記です。2004年の7月31日から9月3日まで、脚註執筆に明け暮れた夏の日々のあれこれがウンディーネのようにうねくる文体で書き留められ、読むものを飽きさせません。

 『子不語の夢』の脚註に関して、当サイトご閲覧の諸兄姉にいまさらの喋々は不要でしょう。関西にお住まいで古くから村上さんをご存じのある方をして、

 ──あいつが命の残り火をかきたてるようにして書いている姿が眼に浮かんで感動した。今度は横溝正史関係でああした仕事をさせてやりたいものだ。

 といわしめた怒濤の脚註が、その舞台裏をここにあらわにいたしました。

 恥ずかしながら私が登場している日の記述を引いておきます。

八月三〇日

 朝九時一五分です。起きたとこです。ずいぶん添削を受けたので。泣いちゃいそうです。中さんの実証主義は主観の相違で逃げ切れなさそうなので、かなり梃子摺りそうです。ウー、わんわん。

 この日記本文にもまた脚註が附されています。ついでですから脚註も引いておきましょう。うー、わんわん。

八月三〇日

中さんの実証主義 逃げ道三方を、ひとつひとつ逃げられんようにフタをしてから、オズオズと「何となく、この辺が、オカシイ感じがしますが……」と、メイッパイ、ボケかまして攻めて来んのが中相作のヤリクチ。何となく、ヨイショされとんかな思てるうちに、王手かけられとりました。ボクは、中さんは、相当にイケズや、思います。

 脚註の舞台裏どころか私の人間性までもが白日のもとにさらされてしまっている「『新青年』趣味」第十二号、詳細はこのページでどうぞ。


 ■ 2月26日(日)
踊る脚註王

 といった次第で、村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」はわずか一日だけ「本日のアップデート」の話題にしてすませてしまうにはあまりにも惜しい素材であり、さらには当事者のひとりとしていささかの説明を加えたほうが「『新青年』趣味」第十二号読者の一助になるかとも愚考されましたゆえ、こうしてスピンオフさせることにいたしました。

 と書きつけてはみましたものの、残念ながら本日は時間がありませんので、いわば予告篇だけでおいとませねばならぬのを遺憾といたします。

 ちなみに本日のタイトル「踊る脚註王」には、とくに深い意味はありません。村上さんは『子不語の夢』巻末の執筆者紹介によれば「主に舞踏を中心とする舞踏批評家」でいらっしゃいますので(しかしそれにしても、舞踏批評家が舞踏を中心とするのはあたりまえのことであって、それにまた主にというのは要するに中心とするということであって、何となく、この辺が、オカシイ感じがしますが……、これをイケズと呼ぶのでしょうか)、なんとなく「踊る脚註王」というフレーズが思い浮かんだ次第です。

 当サイトご閲覧の諸兄姉はとっくの昔にお申し込みのことと拝察いたしますが、「脚註王の執筆日記【完全版】」が読めるのは「『新青年』趣味」第十二号だけ。まだの方はこのページをご覧のうえ、いますぐご注文ください。


 ■ 2月27日(月)
脚註王と仲間たち

 村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」について、つまりは『子不語の夢』という一冊の本について記そうとすると、いまだ心にさざなみが立つのをおぼえます。腹が立ったり鬱陶しかったりしたあれこれがよみがえってきて、とても平静ではいられなくなります。

 私には上っ面だけきれいごと並べてことを収める趣味はありませんから(そんなことしてしれっと喜んでる手合いがまたじつにたくさんいるわけですが)、歯の浮くような美辞麗句でもって『子不語の夢』の刊行事業を語ることなどとてもようしませんし、そもそも三重県だの伊賀地域だの名張市だのの貧しい内実、端的にいってしまえばここいらではどいつもこいつもばかなのであるという実情は私がおりにふれて指摘しているとおりなのですから、三重県が手がけたこのいわゆる文化事業を(いうまでもないことであるとは思いますが、私は「文化」という言葉、とくにそこらのお役人連中が口にする「文化」という言葉をこのうえないほど嫌っております。文化という言葉を耳にすると思わず猟銃に手が伸びる、とうそぶく男が出てきたのはルース・レンデルの小説であったでしょうか)きれいごとでうわべだけ飾ってもそんなものはまったく無効だというしかないでしょう。

 ですから何も斟酌することなくありのままを記せばいいようなものではあるのですが、私がなぜ怒ったのか、どうして鬱陶しいなと思ったのか、その理由ないしは対象を記すのは悪口を並べることにほかならず、具体的にいえば刊行を請け負ってくれた出版社を批判することになってしまいます。むろん『子不語の夢』は無事に刊行されましたし、出版社にはいろいろ無理難題も聞いてもらっておおきに感謝はしているのですが、上梓にいたるまでのプロセスを思い起こすとやはり心の湖面には志賀の都のごときさざなみの縮緬皺。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】」の報告がお正月以来ふたたび停滞しているのも、悪口や批判を記すことに私自身どうにも嫌気がさしているからなのだとお思いください。しかし報告はしなければならんのであるが。それにしてももうおととしの話なのであるが。

 ぶつぶついってないで話を進めますと、『子不語の夢』に脚註を入れるのは私の当初からの念願で、念願というかそれはもう当然のことで、もともと公開を前提にしていない書簡を公刊するのであるから読者のためには書簡本文を脚註によってフォローしたほうが親切であろうし、それならば無味乾燥で通り一遍の脚註では面白くなかろう。スタッフがそれぞれの判断で署名入りの脚註を入れるのも一興であって、そうすると可能性としてはひとつのフレーズに二様三様の解釈が生まれることもあり、いやこうなるとそれぞれが誰の所見であるかを明記した多元的な脚註というのはなかなかに画期的な試みではないのか、などと私は夢見る少年のように考えておりました。

 『子不語の夢』は三重県が三億円をどぶに捨てることになるであろうと事業実施のはるか以前から容易に推測された「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の予算をぶんどって刊行するものであり、その意味では乞食のお祭りにわいわいと参加するようなものにほかなりませんでしたから、乱歩と不木の往復書簡というじつに堅苦しい素材を取り扱うにあたっても、むしろ内容には柔軟で面白く読めるところがあったほうがお祭りらしいのではないかと愚考された次第です。

 さてそれで、当初は私が『子不語の夢』の編集を担当するつもりでいたのですが、ある出版社が名乗りをあげてくれましたので、編纂刊行の実務をすべて丸投げいたしました。その時点では脚註担当者として村上裕徳さんに白羽の矢を立てておりましたし、ほかのスタッフの脚註も入れるという構想も伝えたうえでの丸投げです。ところが、編集作業がなかなか前に進みません。私以外のスタッフはほとんど東京圏に集中しており、情報交換はおもにメールによって行っていたのですが、編集部がスタッフをリードして作業を進めているという気配がまったく伝わってこない。いくら丸投げしたとはいえ、いや丸投げした身であるからこそ、私はよけいに心配をおぼえました。

 編集部はいったい何をしておるのか、と私はいぶかったものでしたが、そしてそのときにはそんな事実を夢にも知らなかったのですが、編集作業が遅々として進行しないのもまさしく道理、あとで知らされたところによれば、私が丸投げした出版社には編集部が存在していませんでした。あー驚いた驚いた。おまえはまたどうしてそんなところに丸投げしたのかと詰問されれば自身の不明を恥じるしかないわけなのですが、とにかくそういうことでした。むろん私とてその出版社の社長さんに、

 「おたくの会社はつぶれませんか」

 とその場で張り倒されてもしかたのないような質問をするところまでは行ったのですが、「おたくの会社に編集部はありますか」と訊くことまではできませんでした。出版社というやつには編集部がもれなくついているものと思っていたからです。

 なかなか脚註の話題にたどりつけませんが、実際じつにいろんなことがあり、それでも「脚註王の執筆日記【完全版】」に記されているとおり、2004年の7月31日には村上さんの脚註も半分くらいは仕上がったというところまでこぎつけていただきました。8月に入って、できあがっていたところまでの脚註第一稿がスタッフ全員にメールで配信されました。調べが届かないため村上さんからスタッフに、

 ──ヘルプ。

 という応援要請が記されているところもあり、それならいっそと考えた私は、この名張人外境に脚註原稿をすべて掲載した非公開ページをアップロードしました。スタッフ全員がこの非公開ページを閲覧できるようにしたうえで、村上さん執筆分に対するヘルプ、フォロー、あるいはツッコミ、そうしたものがあれば私あてにメールで送ってもらう。私は送られたテキストデータを村上さんの脚註に対照させる形でこのページに掲載する。それでスタッフ全員が脚註のチェックを進める。そんな段取りで作業は着々と進行することになりました。

 この非公開ページから最初の脚註とそれに対する私のフォローを引いておきます。

江戸川乱歩・小酒井不木往復書簡集 注釈

村上裕徳

大正12年7月
乱 大12・7・1
* 「二銭銅貨」アト 大正十二年四月号「新青年」。執筆期は大正十一年九月という。稿料は一枚一円で、当時の新人としては「ひどく廉いというほどではなかった」という乱歩評。当時の菊池寛のような大家で一枚五円から六円だったという。この乱歩の原稿料も「D坂―」や「心理試験」の頃には二円に上がる。 執筆期『貼雑年譜』によれば、九月二十六日から数日間で大正五年の日記帳の余白に下書き。「新青年」掲載時には末尾に「一一・一〇・二」とあり、これは脱稿の日付でしょう。[8月18日/中]

 といったような次第であって、『子不語の夢』スタッフが村上さんの脚註原稿にどのように向き合ったのか、これでよくおわかりいただけたのではないかと思います。


 ■ 2月28日(火)
脚註王 vs 実証狂

 実証狂ってネーミングはいかにも垢抜けねーよなーとは思うのですが、実証鬼、実証魔、実証魔人、実証怪人、いろいろ考えてみたもののこれといった名前が浮かんできません。「実」だの「証」だのという漢字の意味が「鬼」や「魔」や「怪」のそれに明らかにそぐわないせいでしょう。そこでとりあえず実証狂ということにしてみました。むろん私のことです。

 村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」においてはほとんど実証主義の権化と化している私なのですが、それはたまたまそうなっただけの話であって、といいますのも、村上さんの脚註原稿はスタッフおよび院外団による衆人環視のなかでチェックが進められたことはきのうお知らせしたとおりなのですが、私はできるだけ出しゃばらないよう身を慎み、主観によって左右されることのないいうならば歴史的事実のみを指摘することにしておりましたので、その事実の重みが村上さんをして「中さんの実証主義は主観の相違で逃げ切れなさそうなので」と観念させる結果を招いたのであると判断されます。

 とはいえ、私が狂人のごとき実証主義者たらんとしているのは間違いのないところなのですから、私が提出したわずかなフォローの文章からそのあたりを正当に見抜かれたのは、やはり村上さんの眼力であるというべきでしょう。ただし、村上さんが「脚註王の執筆日記【完全版】」で指摘していらっしゃる実証主義は畢竟するに乱歩の記したところを永遠不変のメートル原器とする思想のことであるようで、しかし私の実証主義はむしろ乱歩をこそ対象とするものです。乱歩という永久に実証しえない対象にあえて実証主義によって肉薄するのが私の念願なのであって、それはなぜかというならば、実証主義の超越はその絶巓を極めることによってのみ可能だからなのである。

 あ、なんか話題が『江戸川乱歩年譜集成』のほうにずれこんでる。というか、なんか書くことがだんだん村上さんに似てきている。恐るべし村上マジック。充分留意しながらもう少し「脚註王の執筆日記【完全版】」の話題をつづけましょう。

 『子不語の夢』の脚註には私の名前が二回登場します。最初眼にしたときにはちょっとまずいなと思ったのですが(どうしてそんなことを思ったのかは後日述べます)、いやまあこれも面白いかと考え直し、そのままにしておきました次第。そのうちの一箇所、大正14年4月24日付乱歩書簡にある作品タイトル「虎」の脚註を例にとって、脚註の生成過程をご覧いただきましょう。

乱 大14・4・24
* 「虎」アト おそらく、後の「陰獣」のこと。このタイトルは女性的性格の猫をあらわすらしく、正史の証言によれば、原稿を貰った後で、表題を、もっとインパクトのあるものに変えるように依頼し、その題が「陰獣」であったという。前の題を正史は覚えていないが、おそらく、それが「虎」だったのであろう。 「虎」「探偵小説十年」に「疑惑」は「初め『虎』という題をつけるつもりであった。主人公に虎の夢を見させるという様なことであったと思う」とあります。三月二十日付書簡に「疑惑」というタイトルが見え、「嫌疑者が三四人あって」と構想も記されていますから、この四月十四日付書簡に「虎」とあるのが「疑惑」のことなのかどうか、「探偵小説十年」の記述が乱歩の記憶違いである可能性も否定できませんが、「陰獣」の原題が「虎」であったと見るのはいささか早計ではないでしょうか。陰獣は本来猫のことだと乱歩は書いていますが、同じネコ科の動物でも、虎のイメージは「陰獣」という作品にはそぐわない気がします。とはいえ、書簡に「虎」を長篇にしたいと書かれていることもあって、「虎」イコール「陰獣」説も頭から否定されるべきではありません。ですから脚注では、「虎」に関する「探偵小説十年」の記述にも触れておいていただければと思います。なお、六月十五日付書簡脚注で指摘されているフロイト的な父殺しのモチーフは、「疑惑」(乱歩が初めてフロイトの理論に言及したという点でも注目されるべき作品だと思います)や「夢遊病者の死」でもより自覚的かつ直截に扱われていると思われます。[8月13日/中]

 上の引用の左側が村上さんによる第一稿、右側が私のフォローなのですが、村上さんから、

 ──逃げ道三方を、ひとつひとつ逃げられんようにフタをしてから、オズオズと「何となく、この辺が、オカシイ感じがしますが……」と、メイッパイ、ボケかまして攻めて来んのが中相作のヤリクチ。

 と評された私のいやらしさがよくにじみ出ております。こうしたプロセスを経て最終的にどんな脚註が仕上がったのか、それは『子不語の夢』の七〇、七一ページでご確認ください。


 ■ 3月2日(木)
脚註王のケンケン笑い

 さてそういった次第で、『子不語の夢』の脚註づくりはIT時代(という言葉も最近とんと耳にしなくなりましたが)にふさわしくインターネットを活用して進められました。じつはひとつだけ問題があって、それは関係者のなかでただひとり肝腎かなめの脚註王だけがインターネットにノータッチな人であるという一事だったのですが、スタッフおよび出版社の尽力でこの問題もクリアしてもらい(たぶん脚註チェック用非公開ページに掲載されたヘルプやフォローをいちいちプリントアウトして脚註王のもとへ謹んでお届けする、といった作業が行われたのだと推測されます)、脚註王による脚註がいよいよ脱稿となりました。

 もしも自分が編集者であったなら、と私は思っておりました。この脚註原稿によって編集者魂にめらめらと火をつけられたことであろうな、と。よーし、いっちょ本気でしごいてやろうじゃないの、と。

 つまり脚註原稿が完成したあとは情け容赦のない斧鉞を加えて決定稿を仕上げるべく、脚註担当者と編集者とのガチンコの丁々発止がくりひろげられるのであろうなと私は考えておりました。とにかく分量が尋常ではなく、当の脚註王も「脚註王の執筆日記【完全版】」の脚註で『子不語の夢』脚註原稿の長々しさに関してこんなことを打ち明けていらっしゃいます。

切るしかしかたがありませんが…… この頃、ボクは、切られることを予測して、メイッパイ長文にして、ムダな枝葉を、あらかじめタクサン付けておく、という作戦に入っていたのでした。それがホトンド全部、ボツにもならんと印刷されてしもたんです。『スカイキット・ブラック魔王』のケンケン笑いがシトなりますね。殿山の泰ちゃんみたいに。

 あ、「スカイキッド」が「スカイキット」になってる、誤植だ、とお思いになった方、あなたはたぶん思慮が浅い。関西地方の言葉ではこうした場合、最後の音節にある濁点が突如消えてしまうという現象が発生しないでもありません。それを鬼の首でも取ったみたいに誤植だ誤植だと騒ぎ立ててみなさい。それこそ脚註王の思うつぼです。しかしほんとに誤植かもしれんのだが。

 それから「ケンケン笑いがシトなりますね」というところ、ちょっとわかりづらいでしょうか。「シト」から「死と」や「死都」を連想した向きもおありかと思われますが、「しとなる」は「しとうなる」、つまり「したくなる」の意です。七つの顔をもつ名探偵多羅尾伴内の決めぜりふに出てくるフレーズを「正義と真実の人」だと勘違いしている人も多いかもしれぬが、あれは正しくは「正義と真実の使徒」であって、いやいかんいかん、いつのまにか脚註王的トリビアに走ってしまっているではないか。にしてもケンケン笑いから殿山泰司へとアナロジーの連鎖を架け渡す早業は、これはもう脚註王における作家的想像力のなせるところだといっていいでしょう。


 ■ 3月3日(金)
脚註王の栄光の日々

 しかし実際には、村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」に記されているとおり、脚註王による尋常ならざる分量の脚註は、

 ──それがホトンド全部、ボツにもならんと印刷されてしもたんです。

 脚註王も驚かれたことでしょうけれど、私もまたひっくり返りました。編集部なき出版社ゆえの悲喜劇ということなのでしょうが、脚註担当者と編集者との丁々発止というプロセスがすっ飛ばされ、出版社は限られた紙幅に脚註をぎゅうぎゅう押し込むことに汲々として、それでもあがってきた第一校を見てみると、本文は終わっているのに脚註ばかりがえんえん延びつづけ、仕方ありませんから脚註だけを二段に組んでレイアウトしてみました、みたいなページまで出現しているありさまでした。

 さすがにこれではまずかろう、ということになったのかどうか、僻遠の地にいた私にはつぶさにはわからねど(というよりも記憶が怪しくなっているのですが)、この時点でようやくスタッフおよび出版社と脚註王との話し合いが行われ、なんとか最終的な形態に落着したのであった、と思います。

 脚註王による『子不語の夢』の脚註は、原稿量をべつにして考えてもおよそ破天荒な逸品でした。はじめて眼にしたときにはずいぶん驚かされたものでしたが、読んでみると基本的にはすこぶる面白く(基本的には、などと書くとまたイケズのそしりを頂戴するのでしょうけれど)、そうした面白い脚註を目指してくれた村上裕徳さんの心意気と気合がたいへん嬉しいものに思われましたし、それにまた先日も記しましたとおり、『子不語の夢』の刊行は私にとって三重県民の血税三億円をどぶに捨て去るお祭り騒ぎに身を投じることにほかなりませんでしたから、脚註王における常識的世界からの逸脱ぶりはそれにうってつけのものであるとも判断されました。

 『子不語の夢』が刊行されたあとこの脚註のことでごちゃごちゃいってくるやつが出てきたら、おそれおおくも三重県知事になりかわってまずおれが一発かましてやらねばならんな。私はそのように決意していたのでしたが、それはまったくの杞憂に終わり、脚註王の脚註は江湖の読書子に圧倒的な好評をもって迎えられました。第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考でも、たとえば藤田宜永さんの選評を「オール讀物」2005年7月号から引用いたしますと、

 ──『子不語の夢』は注釈が非常に面白かった。注釈でこんなに愉しんだのは生まれて初めてである。この部分だけで一冊の本になっていたら受賞したと思う。

 とまで絶讃していただきました次第。ただしこの選評、このあと、

 ──他の選考委員から、誰に賞を渡すのか分からない作品という意見が出て、受賞は見送られた。

 とつづくのですが、あーこれこれそこの日本推理作家協会、おまえらどうして絶望的なまでに判断力を欠如させたうえにみずからそれを暴露して恬として恥じるところのない手ひどいばかったれ連中を選考委員にするのじゃ、ふざけてんじゃないわよ、ええかげんにしなはれ、ばーか、みたいな啖呵を一度でいいから切ってみたいと思うのですが、いやじつにどうもまあなかなか。日本推理作家協会のますますの発展を祈念いたします。


 ■ 3月4日(土)
脚註王のあてとふんどし

 脚註王村上裕徳さんも第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考には不審不満がおありのようで、「脚註王の執筆日記【完全版】」のイントロダクションにはこんなことが記されています。

何かエエモン貰ろとる可能性も有るんで(貰えんかったんですー!)、仮に貰えんでも(二コとも落ちよったんですー !! )、そういうヨタ話を紹介するはずです(最初の本格ミステリ大賞は、対抗馬が天城センセやから、ワイら若輩もんが出る幕やナイ! ヒッチコックのアカデミー賞の特別賞とオンナシやから、ボクが選考票持ってても天城センセに一票入れまっせ! 状態でした。ヨッシャ、ヨッシャ、二コとも貰ろたらバチあたるがな……、これでエエネン状態でした。トコロガ、協会賞も落ちたんで、それでは話がチャウやないか! と別に根まわしをしたわけじゃないんですが、ひとりでツッコミを入れているようなワケで、選考評読んでも、井上ひさしはテキストをチャンと読んどらんし、何かホメ殺しでナブラレとるような気がしますです。はい)。

 前後の脈絡がようわからんゆう人は「『新青年』趣味」第十二号を購入して全文読んでくれたらええんです。

 さるにても、古来あてとふんどしは向こうからはずれると相場が決まっているわけですが、本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞のダブル落選は想定の範囲外。脚註王もお書きのとおり、天城一さんの本格ミステリ大賞受賞は『子不語の夢』スタッフからも余裕でかつまた心から祝福された慶事であったのですが、あてにしていた日本推理作家協会賞の選考結果はにわかには信じがたいものでした。あきれかえって口もきけないものでした。しかし致し方ありますまい。選考委員がきわめてナイーブであったのだと諦めて(ここはもう完全に、選考委員がとんでもないばかばかりであったのだと諦めて、という意味だとご理解ください)、先に進みましょう。

 しかし先に進むといっても、「脚註王の執筆日記【完全版】」に関する補足説明、いうならば脚註に脚註を重ねる作業はおおむね終わってしまいました。その先が何になるのかというと、じつはこれからが本題というべきかもしれないのですが、あすにつづきます。


 ■ 3月5日(日)
評判最悪、伊賀の蔵びらき

 『子不語の夢』は三重県が2004年度に実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の一環として刊行されました。刊行のためにぶんどった予算は総額三億円のうち五百五十万円でした。

 この長ったらしい名前の事業が完全なる失敗に終わったというのはいまや衆目の一致するところであって、伊賀地域住民のなかにはいまでも私の顔を見かけるとこの事業の批判を厳しく展開してくださる方があります。今年に入ってからでもつい先日、といっても先月のことですが、おまえが「伊賀百筆」に発表した事業批判は面白かった、じつは自分もあの事業にちょっとだけかかわったのであるが、それはもうひどいものであった、と打ち明け話を聞かせてくださる方があり、といっても酔っぱらって聞いていたものですから仔細には思い出せぬのですが、事業の一環としてビデオ作品を公募する企画があった、しかしふたを開けてみると悲しいことに作品がほとんど集まらず、したがってそこらの中学生か高校生が撮影した屁でもないようなビデオが堂々の入賞、むろん入賞作品の発表と表彰も行われたのであるが、審査員を務めた旧上野市出身のNHKプロデューサーだかディレクターだかは気に入らないことがあったらしく途中でぷいと帰ってしまって、しかもそのときの入場者数ときたらあなた、

 「あの蕉門ホール借り切ってたったの十六人ですよ。たった十六人」

 その十六人もすべて入賞者の関係者なのであったそうな。

 まったく何をやっておったのか。とにかくひどい事業でしたが、官民双方のばかが寄ってたかってどぶに捨ててしまった三億円のうち、じつに微々たる額ではありましたが五百五十万円の血税を有効に活用できたのは喜ばしい。伊賀地域や三重県にとっても喜ぶべきことであったと思います。

 この五百五十万円は全額、一円も残さず出版社に支払いました。内訳は1月2日に「江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業(続)」でお知らせしましたが、下の画像のとおりです。

 おもだったところをあげておきましょう。

『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』制作費内訳
組版・印刷・製本
1,575,000
CD-ROM 製作
1,500,000
原稿料・装丁料
1,000,000

 ほかは書簡の撮影費、乱歩が製本してあった不木書簡の解体修復費など。五百五十万円で千部を発行し、うち六百六十部は全国の図書館や研究者などに献本しました。書店でも販売しましたが、それによって発生する利益は『子不語の夢』の発行者だった乱歩蔵びらき委員会には無関係、つまり本がいくら売れても委員会には一円も入ってこないということにしました。その主たる理由は、委員会は事業が終われば消滅してしまいますからお金の受け皿がなくなってしまう、二〇〇四伊賀びと委員会の内部にはこの事業で利益を発生させることを疑問視する声もあった(むろん疑問視しない声もあったのですが)、といったところです。

 さてそれで、脚註王の話題にこと寄せてお知らせ申しあげてきましたとおり、この出版社には編集部がありませんでしたから編集作業がなかなか進行しませんでした。私は編集業務を出版社に丸投げして高みの見物を決め込んでいたのですが、そんなこともしていられなくなって、たとえば脚註チェック用の非公開ページを開設してスタッフに提供したこともまたお知らせしたとおりです。

 結局、いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。


 ■ 3月6日(月)
乞食万歳、伊賀の蔵びらき

 いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。

 ならばいかにすべきか。要するに編集部が機能しないのですからその点をなんとかせにゃなりません。

 善後策を思案した結果、監修をお願いしていた浜田雄介さんに編者にまわっていただくことで衆議が一決しました。それはいいのですがその余波として、スタッフに名を連ねていなかった私が監修者としてしゃしゃり出ることになってしまいました。こいつぁ痛かった。

 むろん私とて自己顕示欲や功名心や名誉欲は人並みにもちあわせているつもりなのですが、それが素直には発動しない傾きがあるようです。自分自身を強引に前へ押し出すことに抵抗を感じる。いわゆる上昇志向であるとか、もっと大きくいえば野心であるとか、そういったものが私にはやや稀薄なのではないかしらん。出世栄達はわがことにあらずという感じがどこかにあって、漱石風な〓徊趣味に親近感をおぼえる。そこらのお姉さんと愉しくお酒を飲むことができればそれで機嫌がいい。紅旗征戎わがことにあらず。時節柄の定番曲でいえば「仰げば尊し」の「身を立て名をあげ」という歌詞に対してはいたって冷笑的である。身なんか立てなくていいんだし、名なんかあげなくたって全然OKなんだぜと、お若い衆にどうしていってやれんものかと思う。だいたいが名前なんてのはたぶん何かをなした結果としてあがったり残ったりするものであって、名をあげたり残したりすること自体のために血道をあげるのはずいぶん暑苦しいことではないか。とにかく私はそんなことのために一生懸命にはなれぬのである、というのはいわゆる負け犬の遠吠えにすぎないのかもしれませんが、とにかく私はそんなふうに考える。

 (上の段落にある「〓」は「低」のにんべんがぎょうにんべんになっている文字です)

 しかし、そういったいってみればアジア的な謙譲の精神はべつにしても、私には『子不語の夢』という本に自分の名前を出したくない理由がありました。当初は自分が編集するつもりでいましたから、その場合にはどうしたって名前を出さなければならなかったのですが、編集作業を出版社に丸投げすることができたのですから、しめしめ、こいつぁ好都合だぜ、てなもんでした。脚註王村上裕徳さんの脚註に自分の名前が二箇所出てくるのを発見し、先日も記したとおりちょっとまずいなと思ったのも同様の理由によっているのですが、村上さんがわざわざこうやって名前を出してくれたのだから、陽の当たる表舞台にはけっして姿を現さぬ伊賀の忍びがかすかに足跡を残しておくのもおつりきではないかと考え直した次第でした。

 三重県が税金三億円をどぶに捨てた官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」においては、ぶっちゃけていえば協働だの全国発信だのの旗のもとに浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(あいうえおで頭韻を踏んでみました)乞食根性がうずまいていました。官民双方の乞食のみなさんは一円でも多く自分の懐にかき集めるために眼の色を変え、そのくせ懐にいくら入ったのかをいっさい明らかにしようとせず、しかもそのことに何の疑問もおぼえないってんですから公金を費消する立場の人間に当然要求される倫理や道徳なんてどこ捜してもありゃしません、とにかく三億円をきれいにどぶに捨ててくれたわけですね。乞食のみなさんが。

 で私は、そうした乞食のみなさんとは一線を画したかった。それはたしかに三億円に群がってそのうちの五百五十万円で『子不語の夢』を刊行するのではあるけれど、五百五十万円のうちの一円だって自分のものにはしたくない。ぶんどってきた予算のいくばくかを環流だかキックバックだか名目はどうあれ自分の懐に入れてしまうような、そんな浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(もう一度踏んでみました)真似はしたくなかった。

 しかし『子不語の夢』という本に私の名前が出てくるとなると、当然のことながら労務に対する報酬が発生することになります。たとえ一円も受け取らなかったにしても、人は私がこの事業によっていくらかの金銭を手にしたと認識してしまうかもしれません。

 それじゃなんだか垢抜けねーな、と私は思い、だからこそ『子不語の夢』に自分の名前が出てこないのはじつに望ましいことであったわけです。おれは乞食じゃねーんだッ、と叫ぶかわりに、伊賀の忍びの秘術を尽くして完全に姿をくらましてしまうことが私の念願でした。


 ■ 3月7日(火)
清廉潔白、伊賀の蔵びらき

 こと志と異なり、私は『子不語の夢』という本に監修者として名前を連ねることになってしまいました。忍びの術がまだまだ未熟であったということか、とにかくそうせざるを得ない状況になってしまいました。ですから結局、じつに不本意なことながら、監修者としての報酬を手にすることにもなってしまったわけです。

 北川正恭さんとおっしゃる前知事が決定し、野呂昭彦さんとおっしゃる現知事がそれを継承した、三重県民の血税三億円(厳密にいえば、三億円のうちの二億円は三重県が、残り一億円は伊賀地域旧七市町村がもちだした税金です)をばらまく愚策のその結果、私の懐にもわずかながらお金が転がりこんできたわけです。

 しゃれにならんな、と私は思いました。私はあくまでも清廉潔白、みそぎを終えた巫女のごとくに汚れを知らぬ身で「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を批判しているつもりであったのに、巫女さんはいつのまにか春をひさいでおった。いやいや、私は春をひさぐ女性のことを大事にしたいと思っている人間であるのだし、そもそも巫女と売春には古来密接な関連があるのだからそれはいい。それはいいのであるけれど、しかし難儀じゃ、こんなことではおれはもうそこらの乞食と選ぶところがないではないか。くっそー。

 こら北川。

 こら野呂。

 これもみんなおまえらのせいだ。名張市立図書館にその人ありと謳われたカリスマがおまえらのせいでいまや乞食だ。人生裏街道の枯落葉だ。やってらんねーなーまったく。おまえらが無節操に金をばらまいて県民に媚びを売ろうとするからこんなことになるのだ。いくらばらまいたって伊賀地域住民なんてみんなばかなんだから税金をどぶに捨てることにしかならんということすらわからんばかであったかおまえら。

 こら北川。

 こら野呂。

 もっとまじめにやれ。

 とここまで書いてみて、これがはたして合理的な説明になっているのかどうか、若干の疑念を抱かないでもないのですが、話の流れとしてはまさにこのとおりなのですから仕方ありません。編集部の不在をフォローするため、監修者だった浜田雄介さんが編者になり、何者でもなかった私は監修者になった。そして私は監修者としての報酬を手にした。そういうことです。

 そしてその報酬は、私をおおきに困らせました。自己破産のペナルティとして郵便物がすべて管財人経由となっていた時期のことで、報酬が入った現金書留もまた管財人の弁護士事務所を経て届けられてきたのですが、私は封を切りもせずそこらにほっぽり出しておきました。封を切ったらふらふらつかってしまうことでしょうし、ただの私利私欲で消費してしまったらおれはほんとに乞食ではないか、しかしあまり偽善的な使途ってのもまた気色が悪いものだし。

 ちょうどそのころ、『子不語の夢』を刊行した乱歩蔵びらき委員会の後継組織として乱歩蔵びらきの会というのが発足することになり、いっそそこに全額寄付してしまうかとも考えてみたのですが、結成総会に顔を出してみたところ、うーん、なんかちがう、という感じがしたので思いつきは却下、現金書留は未開封のまま私の手許にとどまりつづけ、そんなものがあったということも忘れがちになっていたころ、『子不語の夢』増刷分の報酬というのが届きました。

 いやまいったな、と私は思い、困惑はその極に達したのですが、そうした状態を見澄ましでもしたかのように、低い声で悪魔が囁きかけてきました。悪魔の誘惑に負けた私は、二通の現金封筒を勢いよく開封し、中身を取り出し、紙幣もコインもすべて財布にぶちこんでしまいました。まだつい最近のことです。こーりゃいまのうちにパソコン買い換えとかなきゃならんぞと意を決したときのことです。報酬はもとよりパソコンを購入できるほど多くはなく、せいぜいが常用しているアプリケーションソフトの最新版を買い揃えているうちいつのまにかなくなってしまう程度、しかも私は、いやいいんだいいんだ、新しいパソコンとソフトはいずれも『江戸川乱歩年譜集成』をつくるための不可欠のツールなんだからこれでいいんだ、これこそが生きたつかいみちというものではないか、はっはっは、おれは何もやましいことはしておらんぞ、おどおどする必要なんかどこにもないじゃないか、まったくおわらいぐさだぜ、はっはっは、とみずからにいいきかせもしたのですけれど、それでも私が悪魔の囁きに耳を傾けてしまい、そのせいで清廉潔白たらんとしていた心がぽっきり折れる結果になってしまったのはまぎれもない事実です。うーん、まいった。

 まいったけれど仕方がない。ここで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に携わった乞食のみなさんにご挨拶を申しあげておきましょう。

 ──やあみんな。きょうから僕も君たちの仲間だ。よろしく引き回してくれたまえ。

 あずかり知らぬところで三億円をどぶに捨てられてしまった三重県民ならびに伊賀地域旧七市町村住民のみなさんには心からなる謝辞を。

 ──右や左の旦那様、毎度おありがとーごぜーやす。


 ■ 3月8日(水)
脚註王の隠遁

 ともあれそういった次第で、私はなんとか『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』に関する報告を終えることができました。終えることができたように思います。えらく強引なようなれど、そういうことにしてしまいます。

 先日も記しましたとおりこの本のことを記すのはなんとも気が重い作業で、それでも村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」が発表されたのを得がたい奇貨として、脚註王の話題に無理やりこじつけたどさくさまぎれ、血税三億円のうちの五百五十万円のうちのごくごくわずかな金額がゆくりなくも自分の懐に入ってしまった事実を告白することができた次第なのですが、考えてみれば私は『子不語の夢』のために結構身銭も切ってきたのであって、それは手にした報酬のどう少なめに見積もっても数倍には相当するのではあるまいか、だからべつに卑屈になることもないんだとみずからにいいきかせ、心根のまっすぐな乞食としてこれからも生きてゆきたいと思います。

 思い起こせば私には反省すべき点が多々あり、とくにスタッフ各位にはお願いした仕事以外のすったもんだによる精神的負担や心労、ありていにいえばはらわたの煮えくりかえるような思いを押しつける結果になってしまったであろうことは私の不明と不徳のいたすところであったとしかいいようがないのですが、とにかく『子不語の夢』をなんとか上梓できたというその一事に免じて、スタッフ一同のご諒恕を乞いたいと思う次第です。

 さらに思い起こせば2002年の春、なんとも懐かしい気分で胸がいっぱいになりますが、成田山書道美術館に足を運んで不木宛乱歩書簡をまのあたりにし、これはなんとか本にしなければならんだろう、しかし商業出版社には無理だろうからやはり官の出番か、採算や効率が足かせになって民には不可能だというのなら官の出番ではないか、よーし、すまんな名張市民諸君、市民生活には何のかかわりもない乱歩と不木の書簡集に君たちの税金をつかわせてもらうぞ、と考えていた矢先に名張市が財政非常事態宣言を発してしまいましたので私は途方に暮れたものでしたが、それだけに三重県がうまいぐあいにばらまきの愚策を展開してくれたのはまことに好都合なことでした。残りの二億九千万円あまりがきれいにどぶに流れたのだとしても、『子不語の夢』を刊行できただけでも「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を実施した意義はあったのだと、そのように書いておいてやるから泣くな乞食ども。

 ともあれ、スタッフ各位はもとより無理難題を聞き届けていただいた出版社も含めて、関係各位にあらためてお礼を申しあげておきたいと思います。

 そして、脚註王。

 「『新青年』趣味」第十二号に掲載された「脚註王の執筆日記【完全版】」によれば、われらが脚註王は現在ただいま富士山の見える辺土で悠々自適の明け暮れとの由。インターネットにノータッチどころかいまやパソコンにもノータッチ、原稿はすべて手書きという生活でいらっしゃるとも聞き及びます。

 私は村上裕徳さんに脚註王日記のブログを開設してもらいたいものだと考えていたのですが、そしてそうなれば必ずや、悪の結社畸人郷の両巨頭を筆頭に熱心なファンが続々と生まれるであろうにと推測されもする次第なのですが、そうは問屋が卸さぬようです。惜しむべし惜しむべし。惜しみてもなおあまりある富士の星影。

 脚註王の隠遁生活が夕映えのような穏やかな感情に包まれたものであることを、そして脚註王がいつの日かふたたびわれわれの前にその勇姿を現してくれることを切に願いながら、乞食天国伊賀の国からお別れを申しあげます。

転載終了。

転載したところをざっと読み返してみたのですけれど、不肖サンデーよくもまあこのようなくだらないことを毎日飽きもせず偉そうに綴っていられるものであると、いっそ感心してしまいます。

『子不語の夢』刊行事業のみならず「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業そのものの総括もしておきたいところなのですが、事業批判はこれまでにもうさんざっぱら、いやというほど展開してまいりましたのでいまは差し控えておきましょう。

しっかしまあこのなんちゃって事業、結局は私が当初危惧したとおりに進行し、しかのみならず私がアドバイスしたのとは逆のほうへ逆のほうへと舵が切られて、とどのつまりは眼もあてられぬ惨状を呈しながら幕が引かれた次第でしたが、おそろしいことに誰ひとりその責任をとろうとせず、きれいごとだけ並べてよかったよかったと最後の最後までなあなあ体質がフルスロットルであったのは笑止千万。つくづくあきれかえってしまいます。

いやいや、きれいに終わってくれたのであればまだいいのですけれど、負の遺産ってやつですか、伊賀地域にはよくないものが残されました。昨年9月15日伝言の「アンパーソンの掟」から引いておきましょう。

 もしも『ふしぎとぼくらは何をしたらよいかの百科事典』の編集部から依頼があれば、俺は「芭蕉さんの子供たち」の項をこんなふうに執筆することだろう。

 ── 二〇〇四年、三重県が伊賀地域で実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を契機として発生した市民層。中心をなすのは事業に直接携わった地域住民で、閉鎖性と排他性を特徴とし、独創性や先進性には乏しく、責任の所在を極力曖昧にしながら、公共概念にはまったく無縁なプランに公金を費消するために活動する。事業終了後も伊賀地域各地に散らばり、事業の悪弊を持続させる潜勢力となった。……

 野呂昭彦という知事はあの事業を指して、みずから提唱する「新しい時代の公」のモデルケースだと評した。新しい時代の公、という言葉が正確に何を意味しているのか、残念ながら俺には不明だ。とはいえあの事業に、現時点で「公」と呼ばれているものの貧しい内実が示されていたことは間違いのないところだろう。当節の官民合同だの協働だのといったものからは、じつは肝腎の公共概念がすっぽり抜け落ちている。それが現在ただいまの「公」の姿なのだという認識に立脚しているのだとすれば、知事の言はまさしく正鵠を射ていることになる。

 そして芭蕉さんの子供たちは、公共概念の不在には何の疑問も抱くことなく、それぞれの「公」に携わる。官民合同の名のもとに、正当な判断や正規の手続きなど端から無視して、いや、そうした判断や手続きの重要性に顧慮することさえ知らず、ただ自分たちの手で公金を費消することのみに狂奔し、すっかり味を占めてしまった子供たち。彼らはお役所の無責任や怠慢と強力なタッグを組みながら、地域社会に着実に地歩を占めてゆく。後顧の憂いという言葉は、どうやら「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のためにこそあったものらしい。

げんに名張市では、芭蕉チルドレンすなわち芭蕉さんの子供たちの手によって、公益の名のもとに公益とは何の関係もない名張エジプト化計画が進められたり、古い民家を利用して歴史資料なき歴史資料館を建設するリフォーム詐欺が企まれたり、つくづくあきれかえらざるを得ないことがごくごく普通にまかり通っている次第です。いやはや。

不肖サンデー、不本意ながらこの先もなべての愚かしいものを相手にした不毛の戦いをつづけねばならんのかしら。『江戸川乱歩年譜集成』の調査編纂に身を挺さなくちゃなんないっていうのにさ。

生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001−2】
開設日
2004年5月7日
開設者
中 相作 NAKA Shosaku
御意見無用
名張人外境
E-Mail
stako@e-net.or.jp