横山岳 薮蛇記

 江美国境横山岳の網谷に、登山道が開かれていなかったころの、それはそれは昔の話である。

 夏山が終わり、カネはないが時間だけは腐る程あった私は、後輩のMを誘って横山岳の網谷を登ることにした。
剱に登るわけでなし、京都から朝出日帰りとタカを括っていたので、谷の入り口に着いた時は、夏の日はすっかり真上にあった。滝見の道が途切れ、沢筋にはいると、少々甘く見ていたかと後悔もすこしあったが、何しろ鼻息の荒い年頃である、そのままヌルヌルのチャートの谷筋をドンドン詰めた。「ここで引き返しては、国鉄運賃を回収できんわ」と考えていた。さすがに薮の横山だけあって、夕方ようやく頂上に着いた時はすっかりあたりは薄暗くなっていた。

 頂上はまるで、まだ見ぬニューギニアのジャングルのように薮が濃く、景色も何もあったものではない。木登りすれば景色が見えるかな、と近くのブナの低めの木に手をかけた、まさにそのときだった。よもや、我々の「本日の運勢が」かくまで暗転するとは、その瞬間まで夢にも思わなんだ。曲がった幹の窪みに、何やら黒っぽいゴムヒモのようなものが置いてある。「何だろう?こんなところに林業資材を放置しやがって」と目をこらしてみた。
そこにいるではないか、トグロを巻くヘビが。

 がーん! 薮から蛇たァこのことかぇ!?

 と言ったかどうかも、動転のあまりいまだに記憶が白い。ヘビは長〜いトモダチ、なんて追い回していたこの私も、薄暗い中、この溺れるばかりの濃い薮の中で、鼻先間近のヘビには震えがくるほどだった。ましてや、種類の確認をする余裕などまったくなかった。

 もうそれからは、どこもかしこもヘビの住処に思え、こけつまろびつ、肩で息をしながら、(例えは悪いが)あたかも座頭の伊勢参りのごとく、暗い三高尾根の薮をこぎ下った。「登って降りて、4時間がいいとこだな、ランプはいらんな」という判断がアダであった。(ただし、ランプはヘビを見つける結果になったのかもしれないが....)
 鳥越峠に着いた頃は、あたりはとっぷり闇に包まれ、薮の隙間越しに星だけがキラキラまたたいていた。ただし、もうこの頃は、ヘビの恐怖よりも、暗闇のジャングルから、娑婆への生還が最大の課題となっていた。

 杉野の村の灯りだけを頼りに、暗闇のコエチ谷を、体で地形を確かめながら下降した。初めての谷を下るのに、闇夜でランプも持たずというのは、情けないものだ。死にたくはないが、どうにでもなれという気になった。この時の我々の格好、濡れ鼠の泥まみれは、あたかもニューギニア原住民の戦化粧にも似ていただろう。平地で見れば少なくとも大笑いの種くらいにはなったことは確実だ。
 とにもかくにも、ほうほうの体で無事杉野の村にたどりついたが、このとき林道でMに、このことはくれぐれも内密にな!と釘を刺すことだけは忘れなかった。
 当然のことながら木之本行きの最終バスはとっくの昔に出た後だった訳で、村の親切な家に泣きついて泊めてもらった。泥どろの学生を泊めてくれた杉野さんお変わりありませんか?その節はお世話になりました。
 翌日も良く晴れた日だったが、朝から我々の心は晴れなかった。装備を調べると、大事な物を無くしていたことが判明したのだ。部で買ったばかりの「高価なナイロンザイル」だ。ザックの上に括り付けたままで、あわてて下りはじめたからだ。当然残りの夏休みは、 Mとともにザイルの弁償のためのバイトに露と消えた。

 これ以降、夏の薮山は私にとってトラウマとなったのです。だからいまだに、暑い時期に横山岳へ登る人の気がしれません。