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2004年3月
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●3月1日(月) けふもウェブ日記といふものをしてみむとてするなり。
きょうは人名をイニシャルにしてみんとてしましたが、恩師のお名前だけは敢えてご紹介しておきましょう。H先生は濱川勝彦先生で、『論攷横光利一』は2001年3月30日、和泉書院発行の近代文学研究叢刊24、本体七千円。 それでは濱川勝彦先生渾身のライフワークが一日も早く完成することを祈りつつ。 |
●3月2日(火)
いかんいかん。 こんなことではいかん。 あるところにこんな掲示板があって下記のごとき投稿が、なんてことを知らされたものですからもうたまりません。とても辛抱できません。
悪い癖でいきなりおちょくりに走ってしまいました。
いかんいかん。こんなことをやっておってはほんとにいかん。 |
●3月3日(水)
それにしてもいったい何なんでしょうかあの「【関西】上野市ってどうよ!? PART 13【東海】」たらいう掲示板は。 おまえらこそどうよ!? と私は思わず訊き返してしまいそうです。 いや全然大丈夫ッすよ、とかいわれても全然大丈夫そうに見えないから俺はおまえらにおまえらこそどうよと尋ねているわけなのだが、そんなの大きなお世話ッすよ、とかいうのかなおまえらは。 この「【関西】上野市ってどうよ!? PART 13【東海】」とかいう掲示板におきましてはきのうの朝に私が投稿して以降、「悪いのは、伊賀びと委員会とやら」、「人の意見を抹殺する委員会のホームページなんか信用できねえ。掲示板を閉鎖されて逆に不信感が倍増したよよ・・・・」 との発言を寄せられた方もあり、掲示板「人外境だより」への投稿から推測いたしますに名張人外境関係者が投稿して速攻で削除されるという一幕もあったみたいですから、私もいまひとたび押っ取り刀で駈けつけて、眉間に冴ゆる三日月は天下御免の向こう傷、一瞥にては不審者なれど人呼んでサンデー先生、たれ一人知る者もなきカリスマと知っての狼藉か、それならば諸羽流正眼崩し剣の舞、ひとさし舞って進ぜよう、と破邪の一刀を振り翳したいところなのですが、「邪」と呼べるほどのものなどどこにも見当たらないから困ってしまいます。 さらには「○名張市について書き込んでみましょう PART 3○」なんて掲示板があるという通報も届いておりまして、なんかもうどうだっていいやばーか。達者で暮らせばーか。 そんなことよりこの私、久方ぶりにて二〇〇四伊賀びと委員会のオフィシャルサイトにメールをお送りいたしました。
さて諸羽流正眼崩し剣の舞、第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会の席上で見事ひとさし舞うことができますかどうですか。 |
●3月4日(木)
もういいもういい。ほんとにもうどうだっていいんだ低能どものことなんか。と申しておりますのにまたまた通報があり、「★★三重県青山町について語れゴルァ★★」とかいう掲示板を知りました。名張市の東に隣接するのが青山町なのですが、何がゴルァだばーか。
とはいえ、「【関西】上野市ってどうよ!? PART 13【東海】」たらいう掲示板で知人お二方の投稿が抹殺されたことを確認いたしましたので、ここはひとことあってしかるべきかと判断し、諸羽流正眼崩し剣の舞というほどのものではありませんが、ちょこっと投稿してきた次第です。
これも削除されてしまうのかしらん。 それから、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会事務局からは、3月中に開催されるはずの第三回委員会に関してまだ回答を頂戴しておりません。 連中はその場その場の思いつきですべてのことを運んでおりますから、第三回委員会なんて結局開催されないのではないかと私は踏んでおります。 昨年12月の第二回委員会で野呂昭彦知事から見事一本取られた私が雪辱を期して血のにじむような修練を積み重ね、第三回委員会では一撃必殺の「伊賀百筆」第十三号を振り翳して諸羽流正眼崩し剣の舞をひとさし舞って進ぜるつもりでいることは連中にもおわかりでしょうから、敢えてそのような場を設けるのはいかがなものか、どうせ委員会開いたって議案なんて何ひとつないんだし、さりとて開催しないとなるとまたあの莫迦からひどいこといわれるに決まっているからなあ、と気を揉んでいただいているのだとしたら心苦しい限りなのですが、とにかくさっさと返事しろゴルァ。 |
●3月5日(金)
花の分別盛りがそんなとこでなーに莫迦なことやってんだと大評判の「【関西】上野市ってどうよ!? PART 13【東海】」掲示板、さすがにあほらしくなりましたのでとっととおいとましてまいりました。
一方、こんなふうにあっさりと不問に附すことなどとてもできない「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会の事務局からは、いまだひとことの回答もありません。どうなっておるのか。どうなっておるのか。どうなっておるのか。 お話ころっと変わりましてあす6日のことですが、ギャラリーオキュルス(東京都港区高輪3-10-703、電話03-3445-5088、地図)で開催中の「永遠の薔薇──中井英夫へ捧げるオマージュ展」に足を運ぶことにしておりますので、夕刻からはたぶん中井英夫オマージュ展開催記念大宴会になだれ込むものと予想されますものの、会場などはまったくの未定。参加ご希望の方は適当な時刻にギャラリーオキュルスへおいでください。 こんないい加減なことでいいのかと本人も悩んでいるということはここに附記しておきたいと思います。私は午後3時にはギャラリーオキュルスに到着している予定ですので、なんでしたら上記の電話番号にお電話をどうぞ。 |
●3月6日(土)
二〇〇四伊賀びと委員会事務局からメールを頂戴しました。
3月下旬ということは、要するに県や市町村の定例会が終わってからということでしょうか。ちなみに三重県議会は19日、名張市議会は24日に閉会の予定。いずれにいたしましても、第二回委員会同様なんかどさくさまぎれみたいな日程だなと思われてなりません。二〇〇四伊賀びと委員会のオフィシャルサイトでは告知されないみたいですし。 さて本日、私はアーチストでもないのに午後3時ごろからギャラリーオキュルス(東京都港区高輪3-10-703、電話03-3445-5088、地図)に詰めております。夕刻からは適当なお店を見つけて大宴会になだれ込むはずです。どうぞお気軽にご参加ください。 といった次第で留守になりますので、拙宅の番犬には「留守と言え。ここには誰も居らぬと言え。五億年経ったら帰って来る」とでも申し伝えておきましょうか。 |
●3月8日(月)
五億年もたたないうちに東京から戻ってまいりましたが、けさはうっかり寝過ごしてしまいました。またあした、ということにいたします。 |
●3月9日(火)
けさは「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001】」のページに新稿を書き込むだけでおしまいとなりました。ごくごく一部の方からご好評をいただいている東奔西走ウェブ日記東京篇はまたあすにでも。 |
●3月11日(木)
何があったというのでしょうか。われらが三重県伊賀県民局の局長さん、朝日新聞にいいように叩かれてます。 9日夜に開かれた伊賀六市町村による法定合併協議会の内容を報じる記事が、けさの全国紙地方版に掲載されました。他紙にはそんな気配は見られないと思うのですが、朝日の伊賀版には「県民局長に抗議/島ケ原村議長」との見出しが大きく躍り、県民局長の存在が前面に押し出されています。
事情をご存じない方には何のことだかおわかりにならないでしょうが、伊賀市の合併問題が相変わらず揉めつづけているわけで、それはもう国から押しつけられた合併そのものがどだい無茶苦茶な話なんですし、話を進めているのがまた市町村長だの市町村議会議員だのといった程度の低い連中なんですから、大揉めに揉めるのも無理からぬ話ではありましょう。 そこでわれらが高杉局長、事態収拾のために一計を案じてお手のものの裏工作を試み、そのうえで在任特例の適用という裏ワザを提案したのはよかったのですが、そのせいで事態がかえって混乱してしまったらしく、頭に来た委員の口から9日夜の協議会で裏工作の経緯が暴露されてしまったということのようです。 それにしても朝日の記者さんは何をかっかとしていらっしゃるのか。かっかとしたあまり「種を巻いた」なんて誤変換にも気づかないありさまとお見受けする次第なのですが、ここまで調子の高い批判記事には往々にして、余人には窺い得ない記者個人の意趣返しの意味がこめられている場合があるのだということを私は知っております。今回はいったいどうなのかな。 ま、田舎の莫迦の話はどうだっていいとして、東奔西走ウェブ日記東京篇、二日目に突入いたします。
時間がなくなってしまいました。つづきはまたあした。 |
●3月12日(金)
二〇〇四伊賀びと委員会事務局から昨日メールが届き、第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会の日程を下記のとおりお知らせいただきました。ひきつづき「事業説明会および交流会」なんてのも開かれるそうです。
たぶん関係者のほぼ全員が内心ではこんな組織は無駄だ形骸だ屋上屋を架すものだと勘づいているはずなんですが(いくら莫迦でもその程度の判断はできるだろうと思われます)、にもかかわらず事業推進委員会は蛙の面に小便めいてしゃあしゃあと開かれ、ご丁寧に会費千円のパーティまで催されるそうです。 せっかくですから28日には委員会にもパーティにものこのこと顔を出し、関係各位からいいように小突き回されてこようっと。知事にもお会いできるはずだから、『江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(仮題)の序文執筆をお願いしてこようっと。手みやげは「伊賀百筆」第十三号か。思いきり張り倒されるであろうなきっと。 さて東奔西走ウェブ日記東京篇、二日目の下でがんす。
東京都現代美術館を出たあとは大幅に割愛しましたでがんす。のぞみ車中で読んだ本のことなど材料はありますものの、記したところであまり面白いものになるとも思えませぬゆえ。それでは。 |
●3月13日(土)
突然ですが、鳥羽の乱歩館(たぶん正式名称にあらず)は3月20日オープンの予定が4月1日に延期されたそうです。地元商工会議所が中心となり、鳥羽みなとまち文学館の新施設として整備が進んでいるらしいのですが、詳細はいまだ不明。何かわかりましたらまた。ともあれエイプリルフールの日が待たれます。 といったところで本日は。 |
●3月14日(日)
土曜か日曜には、あるいは土曜も日曜も、名張をあとにしてあちらこちらをうろうろするという週が先週まで四週もつづいてしまいました。 私は生来ひきこもりを好み、いってみれば書は捨てない街には出ない、死んでも荒野はめざさない、なーにが深夜特急か、みたいな人間なのですが、犬と戯れながら安穏にひきこもってばかりもいられないのが浮き世のつらいところです。 今週の土日は比較的のんびりできますので、きのうはパソコンの前に腰を据えてホームページのお手入れに取りかかったのですが、いざ始めてみるとあれもしなければこれもしなければと頭が混乱してしまい、結局あれもこれもすべて中途半端なままに投げ出してしまう仕儀となりました。ひきこもりもなかなか大変です。
さて本日も鳥羽のお話。 昨日付中日新聞の伊勢志摩版に「乱歩の鳥羽15カ月」と題した岩田貞雄さんのエッセイが掲載されました。 紙面のコピーをファクスでお送りいただいた方があり、さっそく目を通したのですが、乱歩の『貼雑年譜』と岩田準一の日記に基づいて両者の交流を跡づけた内容で、とくに準一の日記はいまだ公刊されるに至っておりませんから、これまで知られていなかった事実も紹介されていてすこぶる興味深い。 たとえば、当時の鳥羽には鳥羽キリスト教会なるものがあって、インテリ青年のサロンとなっていたそうです。
平井太郎は雄弁な思想家であった、というのはあるいは意外な指摘かもしれません。乱歩は鳥羽時代、仕事に嫌気がさして壁に「アインザムカイト」などと書きながら押し入れにひきこもっていただけではなかったのだ、と印象を新たにする乱歩ファンも少なくないのではないかと思われます。 もう少し引きましょう。大正7年の話です。
自分の小説を朗読したというのですから、乱歩は鳥羽時代にも習作を試みていたのでしょうか(学生時代の習作を朗読した可能性もあるわけですが)。さらには文士劇の肝煎りも務めていたようで、こうなりますと後年の乱歩が素人芝居に打ち興じたのも、もしかしたら雀百まで踊りを忘れずみたいなことであったのかもしれません。 ところが翌大正8年の1月末、乱歩は突然鳥羽を去って上京してしまいます。準一の1月22日の日記には「平井さんが東京へ行かれることを聞いて驚く」。学問の夢断ちがたく、押し入れひきこもり青年は勇躍東京をめざしたのでありましたという一席でした。 |
●3月15日(月)
またしても鳥羽のお話です。 きのう岩田貞雄さんの「乱歩の鳥羽15カ月」から引用した岩田準一の日記に「平井さんは自分の小説を朗読してくれた」というくだりがありました。 私はこの「自分」を乱歩のことだと思い、乱歩は鳥羽時代にも習作を試みていたのかとの疑問を呈した次第ですが、じつはこの「自分」は準一のことであるとご遺族からご叱正をいただきました。準一は日記を記すに際して「自分」という一人称を用いていたようです。 岩田準一の日記が一日も早く公刊されることを願いつつ、ここに早とちりな誤読を謹んで訂しておく次第です。準一の日記は地域の近代史における第一級の資料でしょうから、鳥羽市の税金で出したっていいように思われるのですが。まあよその市のこととやかくいったって仕方ありませんが。 さらに鳥羽の話題。 鳥羽の坂手島出身だった乱歩夫人隆子が坂手島で小学校の先生をやっていたときの教え子だったはずなのだが、と乱歩と関係があるんだかないんだかいずれとも断じがたい嶋谷自然という画家の展覧会が愛知県西春日井郡春日町のはるひ美術館で開かれます。開幕は4月3日。ということは愛知県海部郡蟹江町で小酒井不木生誕地碑が除幕される日にあたりますから、ついでに足を運ぶかな。詳細は近く番犬情報でお知らせいたします。 さて昨日、私は名張市立図書館に出たり入ったりして『江戸川乱歩著書目録』(のことを話題にするのは久方ぶりのような気がしますが)の送付作業に精を出し(まだこんなことをやってるわけですが)、全国の都道府県立図書館に発送する手配をようやく済ませました。これで贈呈分の発送は一応すべて終了することになります。 ですからもうしばらくしたら、北は北海道から南は沖縄まで全国どこの都道府県立図書館でも『江戸川乱歩著書目録』を閲覧できるようになりますし、地域の公立図書館にリクエストすれば都道府県立図書館のものを借りることも可能になります。名張市立図書館はとうとう日本の公共図書館を制覇してしまいました。やれめでたいな。 それからまた数日前には知人からメールでこんな写真が届き、『江戸川乱歩著書目録』が東京の古本屋さんに並んでいるところを確認することを得ました(写真の前列左から三冊目)。どうして早々と古本屋さんに出回っているのかというと、たぶんこの古本屋さんが名張市立図書館から『江戸川乱歩著書目録』を直接購入してくれたからだと思うのですが、詳しいことは調べてみないとわかりません。 まだ買いそびれてるとおっしゃるあなた、このページをよくお読みのうえ早めにご注文をどうぞ。まだまだ売れ残っておりますが。 |
●3月16日(火)
『江戸川乱歩著書目録』に話題を転じるつもりだったのですが、よく考えてみたら私はいまだまともにこの本を繙いたことがなく、それどころか自分の手許にはまだ一冊も置いていないというありさまです(目録で調べたいことがあったら手許に残しておいた色校正で代用しております)。 じっくり繙いたりしてもしもミスに気がついたら僕は憂鬱になってしまうな、というのがその理由で、刊行後半年ほどはこうした状況がつづくのではないかと予想されます。ですからギムレットにも話題にするにも早過ぎる、とだけ申しあげて(ハードボイルドだど)、さらに話題を転じることにいたします。 先日上京したおり乱歩ご遺族へのご報告は済ませてきたのですが、名張市民へのご報告をすっかり忘れておりましたので、その報告を以下に。
学校法人立教学院創立百三十周年記念事業の一環として今年9月、乱歩にちなんだツアーが行われます。ツアーは一泊二日、東京から乱歩ゆかりの鳥羽と名張を訪れるもので、立教大学の担当者の方が3月4日、その協力要請のために名張市をご訪問くださいました。市役所で市長にご挨拶いただき、ツアーの簡単な打ち合わせも済ませました。清風亭の料理をご賞味いただき、二銭銅貨煎餅をお持ち帰りいただきました。 ツアーの詳細は未定ですが、立教大学の記念すべき催しに名張市が微力ながら協力できるのは光栄なことであり、市民各位に謹んでご報告申しあげる次第です。 詳細はなぜかウェブ日記にて。
先日、3月7日午後、東京から帰るのぞみの車中で缶ビールを飲みながら、八重洲ブックセンターで購入したばかりの『座談会昭和文学史 第三巻』(集英社)を読んでいたときのことです。小森陽一さんの「いわゆる研究の世界でいえば、大学の教師として松本清張に関して一九七〇年代から持続的に研究している人は、立教大学の藤井淑禎さんたった一人です。何を研究するかということ自体、見事な東京帝国大学系の枠組みができています」という発言にぶつかって、私はいささか驚きました。「立教大学の藤井淑禎さん」こそ、上記ウェブ日記のF先生にほかならなかったからです。 |
●3月17日(水)
なんてこといってたらきのう、F先生から文春新書『清張ミステリーと昭和三十年代』(平成11年3月20日第一刷、本体六六〇円)のご恵投をたまわってしまいました。 なんともご丁寧なことで恐縮しているのですが、新刊で出たとき購入して拝読しておけばよかった。そうすりゃ先日もF先生と少しは実のあるお話ができたものを、といささか悔やんでいる次第です。 名張市民各位も乱歩ばっかり読んでないで(たぶんお読みではないでしょうが)、たまには清張作品も手に取ってみましょう。私もこれで高校を卒業するころまでは、乱歩よりは清張をはるかによく読んでいたものです。 カッパ・ノベルスの『Dの複合』は新刊として刊行されるや否や、アズスーンアズってやつで購入した記憶がありますし、家には「昭和史発掘」のシリーズも揃っておりました(亡父はどうやら清張ファンだったようです。若き日には結構なマルキストだったらしい亡父は、プロレタリア文学のひとつの到達点を清張に見ていたのかもしれません)。 とりとめもないことを記してしまいました。ホームページのお手入れは相変わらず遅々としております。本日はこのへんで。 |
●3月18日(木)
『座談会昭和文学史 第三巻』(2003年11月30日第一刷、集英社)の第13章「大衆文学 戦後編」から引きます。座談会参加者は佐高信、関川夏央、井上ひさし、小森陽一のみなさん。
ルサンチマンが犯罪につながるという清張作品の小説的仕掛けには現在もなお日本人の意識状況に通用するリアリティを感じる(小森)、清張作品には人間は汚れているという信念を感じる(関川)、といった発言を受けて、ヨーロッパ旅行に同行したおり飛行機のなかで目撃した清張のエピソードが語られるのですが(井上)、清張はスチュワーデスに、 「君、日本の大会社の社長がこのファーストクラスに乗るだろう。大社長が君たちを口説かないかね? パリへ着いたら一晩つき合ってくれとか言わないかね?」 「いいえ、そんなことありません」 「いや、絶対言っているはずだ」 としつこく尋ねたそうです。
「別冊シャレード」80号《山沢晴雄特集 #7》(2004年1月25日、甲影会)の「『悪の扉』を開く」で天城一さんは、社会派推理小説全盛の煽りを喰って山沢さんの「悪の扉」が出版の機会を失った事実に触れ、 「清張の志した社会派推理小説は、最近になって、高村・宮部の両女流作家の出現によって満たされていると思いますが、社会派の名で呼ばれないのが不思議です」 とも記していらっしゃるのですが、ここに並び称された高村薫さんは「小説新潮」臨時増刊《警察小説大全集》(平成16年3月1日)の「警察小説を解剖する」で、事件や犯罪を主題にした小説が書きにくくなってきたと打ち明けています。「書きにくい事件とは何か。一言で言えば、物語性のない事件ということです」 高村さんはみずからを「本格推理の作家さんたちのように、乱歩的なあるいは横溝的なグランド・ミステリーを書く能力はありません。私はどこまでも、同時代の足元の社会しか眺められないような、そういう頭の持ち主です」と規定し、一方で乱歩や正史の探偵小説は閉じられた「村社会」を舞台とするものであるとして、「新本格」と呼ばれる当代の作家たちもまた「新しい想像上の村社会をつくり出」すことによって作品を書いていると指摘します。 そして村社会ではない同時代の社会では、「私たち一般社会は、世の中の物事を脈絡のある一つの物語としてしか理解できないような頭を持っております。それを普通、常識と呼んでおります。小説もまた、そうした常識的な脈絡があってこそ成立するもの」であるにも関わらず、いまや犯罪からは物語性が失われつつあり、そのことが自分を犯罪小説から遠ざけてしまったのだと高村さんは告白します。
「物語性のない、ただただ残酷な事実」であるふたつの事件の報に接して、高村さんは「立ちすくんだ」といいます。
この「警察小説を解剖する」は昨年11月8日、高村さんが名張市主催の「なぞがたりなばり」で行った講演の内容に手を加えてまとめられたもので(私はたまたま二〇〇四伊賀びと委員会主催の伊賀学講座に講師として招かれ、いつものことですが嘲笑的なことばかり喋って聴講者の顰蹙を買うのに忙しかったせいで、高村さんの講演は拝聴できませんでした)、「いずれにしても、今日は乱歩生誕の地で、あらためて現代の事件に向き合うことの困難を深く考えさせられているところです」と結ばれています。 |
●3月19日(金)
虚構の村社会を再生産しつづける作家はともかく(むろん虚構の村社会にも同時代の影は否応なく落ちているはずですが)、犯罪小説の書き手として同時代に自覚的に正対しようとする作家はいまやこれほど切迫した地点に立たされているのか、と私などごく脳天気に驚いてしまうわけですが、高村薫さんが「現代の犯罪を小説にするということは、もともと物語性を持たない青少年の即物性、これを物語にするということだ」とその不可能性に困惑している現代の「物語」も、いずれ新しい書き手によって紡ぎ出されることになるのかもしれません。そうした「物語」に自分が興味を持てるかどうか、私にはあまり自信がないのですが。 一方、通りすがりのスチュワーデスにも物語を見出そうとした松本清張は(しかしたかがスッちゃん相手に一晩三十万はないがな実際、と私は思いますが)時代と寝ることにおいてきわめて幸福な作家だったわけであり、藤井淑禎さんは『清張ミステリーと昭和三十年代』(平成11年3月20日第一刷、文春新書)で、清張と昭和30年代イコール高度成長期の「両者ががっぷり四つに組むことで、昭和三十年代の清張ミステリーは、かつてどんな文学も、どんなミステリーも足を踏み入れたことがないような、未開の領域へと歩を進めることになったのである」と指摘しています。
もしかしたらあなた、清張作品を読み返してみようかな、なんて気になってませんか。じつは私もそうなんですが、うちの本棚には清張の本がほとんど見当たらぬ状態ですし、いま清張ミステリーを読んだとしたらおそらく、こんな動機で人が人を殺すものかいなと、高度成長期の「物語」に違和感を覚えてしまうのではないかとも懸念される次第です。とりあえず高村ミステリーを手に取って、ごくごく近い過去の「物語」を点検してみることにいたしますか。 |
●3月20日(土)
なんのかんのいってるうちにもう春分の日か。春彼岸か。東大寺二月堂のお水取りも終わったか。世界平和、国家安泰、 万民豊楽。なんてこといいながらおいとまいたします。またあした。 |
●3月22日(月)
どうもすいません。ちょっと弱っておりますが、あすあたり本復の見込み。 |
●3月23日(火) ふらふらしてるあいだに3月も下旬を迎え、三重県の平成16年第一回定例会は19日に閉会、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の予算が原案どおり可決されたようです。 名張市の定例会はあす24日が最終日で、上程された予算案はすべて承認される見込み。伊賀地域のほかの市町村でもいっせいに新年度予算が成立し、これで正式に「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の予算が認められることになります。 伊賀市の合併問題ではあいかわらずごたごたがつづいており、きのうの上野市議会合併特別委員会にはわれらが伊賀県民局の高杉勲県民局長が出席、過日の裏工作に関する弁明を行ったようです。 伊賀快適生活応援サイト「YOU」に掲載されたニュース「高杉県民局長 議員の任期延長に理解求める 上野市議会合併特別委」から引きますと──
なんかいつまでも寒いし莫迦ばかりだし、ほんとにいやになってしまいますが、そういえば今月28日には第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会と事業説明会および交流会が開かれることになっておりますものの、その案内状がまだ届けられぬのはどうしたことでしょうか。事業説明会および交流会の出欠は22日までに事務局へ返答しなければならぬはずなのですが、きょうはもう23日ではありませんか。 あ。 無視しやがった。 俺のこと無視しやがった。事業に関してもっとも深い認識に達している俺のことを莫迦どもが無視しやがった。しかしまあいいか。案内状なしで押しかけるだけの話か。 あ。 「伊賀百筆」はどうした。 七十七ページにわたる事業批判を掲載した「伊賀百筆」第十三号を事業推進委員会メンバーへの手みやげとして持参しなければならぬのだが、まだできぬのか。まだ発行されぬのか。 いかん。どうもいかん。どうも調子があがらんぞ。 |
●3月24日(水)
このところどうも調子が出ないな、何やっても集中できなくてすぐいやになってしまうし、と思っていたのですが、もしかしたら風邪を引いたのかもしれないなと気づきました。風邪だとすれば症状は軽いのですが、やはり気分はすっきりしません。 伊賀地区広域市町村圏事務組合のオフィシャルサイトで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の市町村事業が発表されました。名張市の事業はこのページに掲載されております。事業はふたつで、いずれも乱歩がらみ。お役人衆が人のふんどしで相撲を取っていることが見え見えの事業です。 ひとつは名張市役所企画財政部総合企画室、もうひとつは名張市教育委員会文化振興室の担当ですから、ちょうどいいや、このふたつの事業を「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」のとっこに取ってやろうかと私は思いつきました。 「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業を批判する「じゃーん。しょうもないことに税金つかうのはやめましょうキャンペーン」が一段落したあとで、まともに乱歩作品を読んだことのある職員がひとりもいない名張市の乱歩関連事業を批判する「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」に着手するつもりだったのですが、もう味噌もくそも一緒にして叩いてやるか。いや、味噌なんてどこにもなくて目路の限りはくそばかりか。くそ。 それにしても調子があがらん。困った困った。 |
●3月25日(木)
調子が戻ってきました。かなり戻ってきました。やはり風邪であったのかもしれません。 左の告知板にも記しましたとおり、28日の日曜には「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会が開かれ、ひきつづき事業説明会ならびに交流会なんてものも催されますから、なんとかこの日までには本調子に戻っていたいものです。 それにしても結局のところ、何をどういったって何もどうにもならぬということがあらためて実感されました。先日来いささか調子を落としておりましたので「なんかいつまでも寒いし莫迦ばかりだし」と軽く流してしまう結果となったのですが、あらためて記しておきましょう。 「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会はまったく必要のない組織です。事業においては二〇〇四伊賀びと委員会がすべての責任と権限を担えばいいだけの話です。知事をトップに据え、過去二回の委員会以外には実質的に何の活動もしていない事業推進委員会など、どこからどう見ても無用の長物というしかないものです。事業そのものも税金の無駄づかいなのですが、事業実施のためにまったく不必要な組織を発足させて無駄づかいに輪をかける。そんなことやってて何が面白いってんだ関係各位。いくらお役人の第一義が責任回避であり、組織をできるだけ複雑にして責任の所在を曖昧にしてしまうのがお役所の常套であるとはいえ、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」は官民合同で行われる事業なんですから、事業推進委員会を不用意につくってしまうことで官民合同を謳ってはおりますがじつはお役所純正ですという烙印を事業にべったり捺してしまったのはいかにも不注意不手際でしたな関係各位。ま、何から何までお役所名物なあなあ感覚でことを進めてるからこんなざまになるわけです。 さいわいなことに二〇〇四伊賀びと委員会のみなさんは温厚な人たちばかりのようですから(あるいは、ものごとを深く考える習慣のない人たちばかりのようですから、と申しあげるべきでしょうか)、みずからの自立性や主体性が事業推進委員会によって損なわれていることなどてんで意に介していらっしゃらないみたいですが(あるいは、そんなことにはまったく気がついていらっしゃらないみたいですが、と申しあげるべきでしょうか)、そんな態度でいるから今度みたいなことが起きるわけです。
今度みたいなことというのは、伊賀市の合併問題に三重県伊賀県民局長が賢しらに容喙してきたことを意味しています。合併を協議している六市町村の自立性や主体性なんてものには微塵も配慮することなく、たかが県民局長風情がいったい何様のつもりの差し出口か。もとはといえば合併協議に加わっている六市町村関係者が驚くほど情けない連中で、だからこそ県職員が身のほども弁えず図に乗って思いあがった裏工作に手を出してしまうことになるのだが、そもそも県の関係者も市町村の関係者も地域社会の自立性や主体性なんてものをまともに考えたことなどないのではないか。それはそうであろう。長きにわたる中央支配に慣れきった連中に自立性や主体性を求めるのは無理であろう。そもそもこの問題ではかつて伊賀地域七市町村の議員によって伊賀市を考える議員の会なるものが組織されて協議を始めたのだが新聞で報道される協議内容はじつに幼稚雑駁、こんなことではたまったものではないと思った俺は「四季どんぶらこ」に寄稿した漫才で伊賀市を考える議員の会をあざ笑いこきおろしこんな連中に合併を協議する資格はないのではないかと疑義を呈して、その会の代表であったK・K氏(といっても金田一耕助氏にはあらず。葛原香積氏とおっしゃる上野市議会議員の方であった)に「四季どんぶらこ」を送りつけて文句があったらいつでもかかってこいと挑発もしてみたのだが何の返答もなかったのは2000年秋のことであった。その当時から伊賀地域(のみならず日本全国どこへ行っても事情は相似ておろうが)の合併協議は地域社会の自立性や主体性などどこ吹く風と胡乱の言辞を弄することに終始していたと推測され、世の中そういった連中の同類ばかりで占められているということなのか、俺が「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業における伊賀地域の自立性はどうした主体性はどうしたと吼えまくったときにもそこらのあほはみんな知らん顔しとりましたですばい。 うーむ。やはりまだ本調子ではないようです。大丈夫なのかしらこの私。 |
●3月26日(金)
年度末であわただしい時期ですが、上野市ではきょう26日が3月定例会の最終日、市町村合併に関する議案の再審議と採決が行われることになっております。いっぽう名張市では昨25日、4月1日付の人事異動が発表され、わが名張市立図書館の館長も異動することになりました。在任二年のあいだに各位からたまわりましたご厚情に対し、僭越ながら当方からも謝意を表する次第です。しかしやれやれ、また初期化かよ。乱歩とはまったく無縁だった館長にうわべだけでも乱歩のことを知ってもらい、あっちこっちに出向いてもらったりなんやかんやで江戸川乱歩コーナーを開設している図書館の館長であることを身にしみて自覚してもらい、さてようようこれから名張市立図書館のホームページに江戸川乱歩アーカイブを構築する覚悟があるのか、館長が替わったらプランは立ち消えといったことでは困るのだが、だいたいお役所が乱歩のことを手がけるのは無理ではないか、みたいな話を本格化させたうえで「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」に移ろうと考えていたのですが、辞令一枚であっさり初期化されてしまいました。4月1日にはまた乱歩にまったく無縁な館長をお迎えして乱歩をめぐる現在の状況を理解してもらったうえで名張市立図書館が乱歩に関して何をやればいいのかということを…… えーいッ。頭が痛いわいッ。 |
●3月27日(土)
上野市議会は昨日無事閉会、合併に関する議案も可決され、これで今年11月には伊賀地域七市町村のうち名張市を除く六町村が合併して伊賀市の誕生を見ることになります。 伊賀快適生活応援サイト「YOU」に掲載されたニュースから引いておきましょう。
これにより今年11月からは、伊賀市と名張市を合わせたエリアが伊賀地域と呼ばれることになります。ちょっとややこしい話です。ともあれ、中央支配に慣れきって国の意向をひたすら拳拳服膺し、深いこと何も考えずに市町村合併を推進なさったみなさんはさぞやお喜びでがんしょ。そういえばあす28日は第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会と事業説明会および交流会、私は招待されてもいないのにのこのこ顔を出すことにしておりますので、ここはひとつ伊賀市関係者のみなさんと喜びをわかちあってまいりましょうか。 となると手みやげにする「伊賀百筆」第十三号の件ですが、きのう午後、同誌編集部から印刷製本が終了したとのお知らせをいただきました。28日に間に合わせるべくお骨折りいただいたのかとも思っているのですが、ともあれきょうじゅうに印刷屋さんに赴いて必要部数を入手し、あすに備えることにいたします。事業説明会および交流会の会場で「伊賀百筆」第十三号を販売するのも面白いのですが。 それからついでにお伝えしておきますが、私にいいたいことがあるとおっしゃる方、文句があるとおっしゃる方、一発ぶん殴ってやらないと気が済まないとおっしゃる方、ぜひあすの「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会と事業説明会および交流会へどうぞ。いくらでもお相手つかまつります。 |
●3月28日(日)
さて地域雑誌「伊賀百筆」第十三号、きのう上野市内の印刷屋さんで受け取ってまいりました。通常の号より恰幅がよくなって全三百二十ページ、うち巻末七十七ページを私の漫才が占領しております。 この「伊賀百筆」は本来文芸誌、つまり伊賀地域住民を中心とした書き手による随筆や詩歌や評論や小説などをメインにした内容で、社会性や時事性あるいは批評性といったものはきわめて稀薄な雑誌です。私の寄稿が誌面に馴染まぬことは端から知れておりましたので、私は自分のサイトや二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板で「伊賀百筆」に寄稿する意志のあることを表明し、そのあとも機会を見つけては「伊賀百筆」を話題にして、そうすることでいわゆる予防線を張りました。こうしておけば「伊賀百筆」編集委員会も右から左へ無下に掲載拒否もできまいし、もしも掲載が拒否されたらそれをネット上で公表してそのまま「伊賀百筆」編集委員会との一戦にもちこめるわけだし、と考えていた次第です。 こういうのを日本語でかけひきと称するわけですが、私だとて権力によるメディア規制がここまであからさまに激しくなってきた時代に生きているわけではあり、地域社会に言論の場を確保するためにはかけひきのひとつやふたつ不本意ながら必要だろうと考えているわけでもあり、いやまあ結局は莫迦からかってそこらじゅうに波風を立ててやるのが好きなだけの話なのですが、さらにもうひとつ、「伊賀百筆」第十二号に編集兼発行人の北出楯夫さんが市町村合併問題に関して「新市の名称 果たして『伊賀市』でいいのか?」という、それこそ従来の誌面には見られなかった社会性や時事性あるいは批評性を盛り込んだ記事を寄稿していらっしゃいましたので、おッ、この手の記事が掲載されるのであれば俺の漫才だって行けるのではないかと膝を打ったという事情があったことも打ち明けておきましょう。 その北出さんが第十三号の「編集後記」に記していらっしゃるところを引きます。
編集委員会には私の漫才のことで結構ご厄介をおかけしたみたいですが、無事に第十三号が発行されてまずは重畳。委員各位に謝意を表しつつ、さあ「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会と事業説明会および交流会に行ってこようっと。招待されてもいないのにしれっと顔を出し、権力がいくら規制しようとしたって雑音を立てまくってきてやろうっと。 |
●3月29日(月)
こらあかんでほんまに、と私は思いました。 5月16日に開幕する「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業のことです。
きのう上野市内の会場で開かれた第三回事業推進委員会を傍聴し、ひきつづいて開催された事業開幕五十日前交流会にも出席してみて、以前から指摘してきたことではありますがこの事業がただの税金の無駄づかいであるという事実が私にはあらためて、またしみじみと納得された次第です。こいつら莫迦どもはなんだか不憫だとさえ思われてきましたので、もうそっとしておいてやったほうがいいのかなという気にもなりました。 昨年12月25日に第二回事業推進委員会が開かれたときには私にもまだ気概というものがあり、この委員会が形骸にしか過ぎないという事実を伊賀地域住民に知らしめずにおくものかと烈々たる使命感に燃えておりましたから、委員会の模様を四日にわたってこの伝言板でくわしくお伝えもしたものでしたが、今回は莫迦を目の当たりにして茫然自失してしまったせいか、見聞きしたことを逐一地域住民に報告しようという気にはとてもなれません。というか伊賀地域十八万住民のみなさん、おまえらだって莫迦なんだし。 ですから軽く流すことにいたしますが、軽く流したせいでうっかり忘れてしまうといけませんから最初にひとつだけ記しておきましょう。きのう関係筋から仄聞したところによりますと、三重県庁内部ではすでに、まだ開幕もしていない「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業が失敗であったという評価が公然と囁かれているそうです。それはそうでしょう。私もそう思います。事業は失敗です。大失敗です。しかしぼんくらというしかない三重県職員のみなさん。おまえら莫迦がそれを口にしてはいけません。おまえらは評論家ではありません。三重県のために働いている公務員です。この事業が失敗だと気がついたのであれば、その失敗を少しでも小さいものにとどめるべく努めるのがみなさんの役目なのですが、そんなことには思いも及ばぬのであろう莫迦ども。おまえら公務員という名の莫迦どもには当事者意識というものが皆無なのであるからして、県民の血税三億をどぶに捨てる「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」だってしょせん他人事でしかないのであろう。だからへらへらへらへらと「あの事業はころっと失敗してしまいましたな」「んなもん伊賀で何やったかて成功するわけありまへんがな」みたいなことをいっていられるのであろう莫迦ども。それにだいたいあれは何だ。きのうの事業推進委員会で聞かされたのだが、伊賀県民局長が異動だというではないか。さあいよいよ「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が始まるぞというこの時期にどうして県民局長の首をすげ替えねばならぬのだ。ここへ来て事業のことなど何も知らぬ、それに三重県職員であるからにはどうせぼんくらにちがいない人間が伊賀県民局長の椅子に坐っていったい何をしようというのだ。事業の失敗をより決定的なものにしようとでもいう魂胆かこら。こらこら。こら莫迦どもおまえら何をするか。 こらこらいってても仕方ありませんから先に進みます。きのうの朝、私は野呂昭彦知事宛の書状をしたためました。文面は下記のとおり。
これをA4用紙二枚にプリントし、手近にあった定形内最大サイズ長型三号の封筒に入れようとしたところ、新しい封筒のはずなのに中から紙切れが出てきました。一枚の領収書です。 どんな領収書なのかと申しますと、金額は一万円、日付は2003年4月3日、「選挙公報版下製作代」として私の住所氏名が記され、印鑑が捺されています。宛名はさる上野市議会議員の方の後援会。 あ、あれか、と私は想起しました。上野市では去年の春に市議会議員選挙が行われたのですが、私はある候補者から選挙公報の版下づくりを電話で依頼され、ようがすとお引き受けしてすらすらとデザイン、プリントアウトしたゲラを郵送しようと思ったところご住所を存じあげませんでしたので上野市役所の議会事務局に電話して住所を確認、速達で郵送して電話でOKをいただき、上野市内の印刷屋さんに頼んで印画紙に出力してもらった版下を納品いたしました。 私はそもそもこの候補者にお会いしたことがなく、電話で後援会事務所の場所をお訊きしてからお邪魔したのですが、事務所といっても要するにご自宅、高校生くらいの坊ちゃんしかいらっしゃいませんでしたので、版下と請求書を手渡しただけで用意してあった領収書はそのまま持ち帰り、そのあとは領収書を入れた封筒ごとその存在をすっかり忘れていたという寸法です。 しかし何なんだ。この候補者はめでたく当選したはずなのだが、人に版下つくらせといてそれっきりか。礼儀というものを知らんのか。そもそも一万円という金額は向こうの言い値で、地域社会のために尽力したいという候補者から頼まれたのだから意気に感じてそれでよござんすと俺は答えたのだが、考えてみれば印刷屋さんで印画紙に出力してもらうのに何千円かかかっているわけだからこんなものただ働き同然なわけであり、それはそれでいいのだが当選したら当選したで電話の一本もかけてきて挨拶するのが人の道ではないかこら。上野市ではこんな程度の人間が市議会議員をやっておるのか。名張市の市議会議員もどうしようもない連中であるが、上野市の市議会議員もどうしようもないようだな。なにしろ忍者装束で市議会に出席したりしているのだからな。莫迦かあいつら。こらほんまにあきまへんで。 などと思いながら添付資料として「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき事業紹介【001】」のページをA4用紙二十六枚にプリント。つづいて下記の文書を十七枚プリント。
これを二つ折りにして「伊賀百筆」第十三号に挟み込み、しめて十七冊を LOFT の黄色い紙袋に詰め込んで準備完了。家を飛び出したのは午前10時のことでした。 |
●3月30日(火)
私が上野市にあるウェルサンピア伊賀の駐車場に到着したのは、28日午前10時25分のことでした。「伊賀百筆」第十三号を十七冊詰め込んだ LOFT の黄色い紙袋を抱えながら、エレベーターで四階にあがり、第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会の会場である白鳳の間に入ると、委員会はいままさに開会されたところでした。 しくじったな。私は舌打ちしました。開会前に推進委員十七人の席を回って「伊賀百筆」を一部ずつ進呈するつもりだったのですが、家を出るのがやや遅くなったせいで、それは果たせませんでした。こうなったら閉会後に配るしか手がありません。私は傍聴席に着席して、受付で手渡された資料に目を落としました。 えっ。私は心のなかで声をあげました。A4サイズの事項書に、とても不思議なことが書かれてあったからです。事項書をそのまま書き写してみましょう。
不思議なのは、議事として掲げられたふたつの議案です。平成16年度の事業計画案と予算案は、どちらも去年の12月25日に開かれた第二回委員会で承認されたはずではありませんか。その承認を受けて、三重県と伊賀地域七市町村の議会はそれぞれが負担する予算を3月定例会で承認し、総額三億三千万円あまりの事業予算が正式に決定したのではありませんか。 それなのに、いまごろになっていったいどんな計画と予算を審議するというのかしら。私は不思議の国に迷い込んだような気分になって首を傾げましたが、疑問はじきに氷解しました。計画も予算も第二回委員会で承認されたのと同じものなのですが、よりくわしい内容を記した書類が議案書として提出され、あらためて審議されているのだということがわかったからです。 この人たちは真面目くさった顔をして、いったい何をやっているのだろう。私はまた首を傾げました。このふたつの議案は、そもそも議案として審議されるべきものではありません。承認の必要などないものです。もしもここでもう一度承認が必要だというのなら、第二回委員会における承認はいったい何だったのでしょう。あの承認は無効だったとでもいうのでしょうか。この人たちにとって承認という行為は、鳥の羽根ほどの軽さしかもっていないものなのでしょうか。 この事業推進委員会が無用の長物であり、委員会を存続させること自体が税金の無駄づかいであるということを私はくり返し指摘してきたのですが、この人たちは無駄のうえにさらに無駄を積み重ね、屋上屋にもうひとつ屋を架すような真似をして少しも怪しみません。私たちの税金をつかって仕事をする人が、こんな無駄なことばかりしていていいのでしょうか。これはもう私が知っている世界ではありません。ここはたしかに不思議の国です。 こうした場合、私の知っている世界では、事務局から委員に対して、 「前回の委員会でご承認いただいた事業計画案と予算案のより詳細な内容がまとまりましたので、ここにご報告申しあげます」 との説明がなされるはずです。そうです。これは報告として扱われるべき案件です。そしておそらく、わざわざ委員会を招集して報告する必要などない案件です。計画と予算の詳細を記した書類を委員に郵送すれば済む話です。委員会を開会する必要など、私にはどこにも認められません。 そしてその審議の内容といったら。私は茫然として自失してしまいました。これはまともな会議ではありません。会議ごっこにしか過ぎません。必要のない会議をわざわざ開いたのですから、うわべだけ会議のふりをした会議ごっこになってしまうのはむしろ当然のことなのでしょうが、目の前でくりひろげられている児戯にも等しい会議ごっこは、私を意気阻喪させずにはおきませんでした。 いや、児戯に喩えるのは子供たちに対して失礼でしょう。小学校の学級会だって、この委員会よりは遥かに合理的にクラスの問題を相談したり決定したりしているはずです。それなのにこの人たちといったら。 |
●3月31日(水)
3月31日になりました。本日、わが名張市は市制施行五十周年を迎えます。五十年前のきょう、昭和29年の3月31日に町村合併で名張市が発足したわけで、本日午後には五十周年の記念式典が催されることになっております。
五十周年記念事業のひとつとして、昨30日には東京都豊島区と名張市との交流都市協定の調印も行われました。中日新聞のオフィシャルサイトから、伊東浩一記者の記事を引きましょう。
もうひとつ、伊賀快適生活支援サイト「YOU」に掲載されたニュースもどうぞ。
協定締結の調印式は午前11時から名張市役所で行われたのですが、高野之夫区長をはじめとした豊島区からのご一行は、調印式の前に名張市立図書館にお立ち寄りくださいました。ですから高野区長さんと久方ぶりでお話しできた次第なのですが、豊島区では区立図書館の開館時間延長が課題となっており、図書館運営の外部委託も念頭に置いて検討が進んでいるとのことでした。 あ、名張市もそれで行くか、と私は思いました。「じゃーん。名張市は乱歩から手を引けキャンペーン」と抱き合わせで「じゃーん。お役所は図書館から手を引けキャンペーン」も進めるか。名張市立図書館をNPOに運営させるか。よーし。といったって私には何の権限もないわけですが。 それから昨30日には三重県職員の異動も発表されました。第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会で発表されたことを29日付伝言でお知らせいたしましたとおり、高杉勲伊賀県民局長は4月1日付で異動となり、新設された防災危機管理局の局長にご就任とのことです。もしかしたら二〇〇四伊賀びと委員会オフィシャルサイトの掲示板を問答無用の電光石火で閉鎖し、過去ログもすべて封鎖してしまった危機管理能力が高く評価されたのかもしれません。なんてこといってたら叱られますが。 新しく伊賀県民局長に就任されるのは環境部経営企画分野総合マネージャーの早川正美とおっしゃる方なのですが、ま、伊賀県民局長の椅子に坐ったのなら何を措いても真っ先に名張市立図書館へ飛んできて俺に挨拶しておくことだな、なんてことを一度でいいからいってみたいなと思います。 さてお話かわって不思議の国のサンデー、きのうのつづきです。いやもう第三回「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業推進委員会のことなんかどうだっていいんですが、おおよそのところだけでもお知らせするのが私の務めだと観念してもう少しつづけます。 第二回委員会同様、野呂昭彦知事の司会で議事が進められました。議事ったってすでに決定されてる案件を追認するだけなんだからろくな話題はありません。委員から出される意見もいまごろそんなことおっしゃってもあーた、みたいなものばかりです。 一例を挙げますと、「平成16年度事業スケジュール(案)」の議案書として事業公式ガイドブックのゲラ刷りコピーが提出されたのですが、これに対して委員の声が寄せられました。ガイドブックは縦組みと横組みを混在させ、表裏どちらの表紙からも読み始められる体裁になっていて、縦組み側の表紙がこれ、横組み側の表紙がこれなわけなのですが、あとはあしたにいたします。 |
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