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2006年5月中旬
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おかげさまで順調に恢復しております。 一時に較べれば右腕ぜんたいがほっそりしてきて、手の甲の腫れはかなり引きました。限界まで張りつめていた皮膚に余裕が生じてきたせいで、指をまっすぐ伸ばすと手の甲を横断するように皺が走ります。指を曲げたり伸ばしたりしてそのさまを眺めているうちに、学校の地理だか地学だかの時間に習った「褶曲」という言葉を思い出したりもしました。右手の指はいよいよ動きやすくなり、じゃんけんならばほとんど普通にできるのですが、まことちゃんのグワシはややつらい。 連休に入ったうえに蜂に刺された話題がからんですっかり水を差されたかっこうになってしまいましたが、これまでのところをまとめておきますと、名張市立図書館は危機を迎えており、それは全国の公立図書館が直面している危機でもあるのだが、官から民へ、公立図書館の運営を民間委託するという流れには抗しようがない、といったことでした。 以下、それならばその流れを利用し、魔法の杖を一閃するようにしてピンチをチャンスに変えることはできぬものか、そんな魔法の杖がどこかにないものか、じつはこれがあるのである、どんな杖か、なに簡単なことである、市立図書館の館長を公募すればいいのである、みたいな話をつづける予定でいたのですが、蜂に刺されて生死の境をさまよう経験を経たいまとなってみれば、そんなことはもうどうだっていいやという気がしてくる。どうせ何いったって馬の耳に念仏なんだし。 それはもちろん、私という人間は名張市役所のおえらがたの誰よりも真剣に名張市立図書館のことを考えている人間であり、深い考えにもとづいて有益な意見を述べることのできる人間でもあるのであるから、名張市に対して提言をつづけるのは市立図書館嘱託としての私の使命なのであるといわなければならぬ。たとえば「僕のパブリックコメント」に記した市立図書館ミステリ分室構想が民間委託を見通したうえでの乾坤一擲の提案であることはいうまでもなく、いま述べたような市立図書館長の公募というアイデアにしたところで、本当のところはもう少しくわしく説明しなければならぬのではあるが、とにもかくにも公立図書館の危機に即応した起死回生の献策であることもまた論をまたぬのであるけれど、どうせ馬の耳に念仏なんだからもうどうだっていいやという気がしてくるのも無理からぬ話だとおれは思う。すまんなどうも。 いやほんとにすまんな名張市役所のみなさん。あんたらはあんたらで好きなようにやってくれ。おれはもう知らん。あんたらにはとてもまともなことなど考えられないであろうから、名張市立図書館の危機はいよいよその度を深めるばかりであろうと容易に予測されはするのですけれど、こっちにだっていろいろとやらねばならんことがあるのだから、馬の耳に念仏といった程度の効果しか期待できないことにいつまでもかかずらってるわけにはいかんのよ。 以上、リハビリをかねてよしなしごとをば綴りました。 |
左腕よりちょっとだけ太い、といった程度にまで右腕の腫れが引きました。このまま推移すれば、蜂に刺されて生死の境を踏み迷ったあとのリハビリテーション、この土日あたりで終了ということになるかもしれません。 さて、名張市立図書館の危機はそういうことにしておいて(つまりどうにでもなれ、おれはもう知らん、ということにしておいて)、しかしまだ名張まちなか再生プランの問題が残っています。この件に関しましては、あれは1月27日のことでしたけれど、このブランはどう考えてもインチキである、プランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集して再検討させろ、と委員会事務局にお願いし、名張まちなか再生委員会の委員長さんからも事務局に対して再招集を検討するようお口添えをいただいたわけなのですが、事務局からはその後うんともすんとも音沙汰がありません。 たぶんもう終わったのであろうな、と私は思いました。どう考えてもインチキです、ほんとうにありがとうございましたというしかない名張まちなか再生プランはどうやら暗礁に乗りあげ、にっちもさっちも行かなくなっているようだな。おそらくこのまま立ち消えということになってしまうにちがいない。プランがまだ生きているというのであればまたあらためて叩いてやればいいのだから、何か動きがあるまでほっといてやろうか。そんなことを考え、いやもう紅旗征戎わがことにあらずである、ばかの相手はいい加減にしておこうと明鏡止水の心境になっていたところへ突如として登場してくださったのが中田三男さんでした。
もう一か月も前のことになるのかと茫然としてしまいますけれど、この投稿こそは叱咤の笞、大喝の杖、私はここに、 ──蹶起セヨ。 というメッセージを読みとり、明鏡止水もどこへやら、派手にドンパチかましてやろうじゃないのと勇み立ったのではありましたが、そんなことももうどうだっていいように思われてきました。ほんとにどうすればいいのかな。リハビリに努めながら少考してみたいと思います。 ところで、お暇でしたらこんなニュースはいかがでしょうか。「快人二十面相」も出てきます。
これはいったいナンナンジャー。なんだか頭がイタインジャー。あー、くらくらしてきた。 |
リハビリ進行状況。昨日医師の診察を受けましたところ、あとは腫れが引くのを待つだけ、とのことでした。抗アレルギー薬はあす14日まで服用。 ここでつらつら考えますに、いくら蜂に刺されて死の淵をさまよい、そのせいでこの世のすべてが遠のいて見えるようになったからといって、いまさら「そんなことももうどうだっていいように思われてきました」といってしまってはまずいのではないか。投げやりになってはいかんのではないか。名張市の将来を憂慮し、身の危険をも顧みずわざわざ掲示板「人外境だより」に投稿してくださった中田三男さんに対して、こんなていたらくでは何の申し開きもできんではないか。いかんいかん。こんなことではいかん。 なにしろ私は中田三男さんの投稿に鼓吹され、4月14日付伝言にこんなことを記しております。
こんなぐあいに約束してあるのだから、このプロジェクトXをほったらかしにしておくわけにはゆくまい。そこで私はついさっき、名張まちなか再生委員会事務局にあてて次のようなメールを送信いたしました。
ついでですから、4月14日付伝言に「プロジェクトYでは三重大学、プロジェクトZでは名張商工会議所青年部がメインステージとなるわけですが、そのあたりのお話はいずれまたおいおい、ということでお願いいたします」と書きつけた点についてもいささかを述べておきましょう。 まず、プロジェクトY。 これは三重大学のオフィシャルサイトなのですが、名張まちなか再生プランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会の委員長は三重大学工学部の先生でいらっしゃいますので、いちどその先生にお会いしてくわしいことをお訊きしてみようというのがプロジェクトYです。この三重大学のサイトにメールを送信すれば、先生から拝眉の機を頂戴することはおそらく可能でしょう。 つづいて、プロジェクトZ。 これは名張商工会議所青年部のオフィシャルサイト。のれんの写真の下には、 ──この写真は、三重県名張市新町にある旧家「細川邸」の暖簾です。隠と書いて【なばり】と読みます。 と記されております。しかしどうして細川邸の写真がここに使用されているのか、名張商工会議所青年部と細川邸のあいだにどんな関係があるのか、このサイトではいっさい説明されていないようです。とはいえサイトのトップに細川邸の写真を掲げているのですから、名張商工会議所青年部が細川邸になんらかの価値を見いだしていることはまちがいのないところでしょう。ならば、それはいったいどのようなものなのか。 細川邸というのはいうまでもなくリフォーム詐欺の現場であり、名張エジプト化計画の舞台となったところでもあるわけなのですが、どんなところなのかというとこんなところなの。 べつに文化財的価値があるわけではなく、むろん活用できるのであればいくらでも活用すればいいのだけれど、どのように活用したってそれだけで名張のまちににぎわいが戻ってくるわけはない。名張まちなか再生プランにはこの細川邸のことが、 ──平成16年11月の芭蕉生誕360年祭において旧家の風情を活かした魅力的な歴史資料館になりうること、適切な企画によって集客力が期待できることなどが確認できたので、歴史資料館にふさわしい建築物と考えます。 と記されているのですが、これもずいぶん怪しい話で、あの血税三億円をきれいにどぶに捨て去った官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の場合には、使途も明かさぬまま事業関係者がいいようにつかえる予算がたっぷりありましたから、それをいいようにつかってあの手この手で集客することはいくらでも可能だったことでしょうけれど、そんな特異な例を一般化することにはおおきに無理がありましょうし、そういえばあれはいつであったか、むろん今年になってからのことなのであるが、この細川邸であるイベントが催され、名張市内でちっとは名を知られた蕎麦打ち名人が協力を要請されて、それならば一日五十食限定で、とイベント当日に神技とも呼ぶべきみごとな蕎麦打ちを披露したところ、入場者が少なくて蕎麦は二十食ほどしか売れなかった、名人はえらくご立腹であった、うそかほんとか風のうわさにそんなことを聞き及ぶ次第なのですが、まあそんなようなところであろうな。 であるにもかかわらず、細川邸関係者はなぜか細川邸に執着し、リフォーム詐欺を完遂しようとする。だから関係者は細川邸にどんな価値を認めているのか、またそうした価値観は関係者以外の市民とも共有できるものなのか、そのあたりのことをとりあえず名張商工会議所青年部にメールを入れてお訊きしてみようというのがプロジェクトZです。 それにしても世話の焼ける話じゃ。お役所が全然しっかりしてくれないから、私がひとりでしんどい目を見なければならぬのじゃ。それでなくても私は忙しく、名張市立図書館においても乱歩資料と郷土資料のかけもちという大役をこなさなければならぬ。うそだとお思いならこの契約書をごらんあれ。 天下御免の「乱歩・郷土資料収集整理業務等委託契約書」である。私は名張市とこのような契約を締結し、名張市民の税金からお手当を頂戴するのである。気になるお値段は月額八万円、とってもお得な据え置き価格となっております。しかも見てごらん。この契約書には「業務実施にかかる諸経費は、契約金額に含まれるものとする」とあるではないか。 いやひどい話だ。こんな契約はそもそも恥も外聞もない弥縫策としかいいようのないものなのであるが、それにしたって自己破産してすってんてんになった人間つかまえてよくもこんなむごいことができるものだ。いくら無能力でも正職員にはとことん手厚く、人からカリスマと呼ばれるほどに有能であっても非正規職員には野良犬の相手をするほどにも冷酷な官僚機構の非人間性が、この一枚の契約書にはよく示されておる。しかしこうなるとカリスマというよりはふたまたか。名張市立図書館ふたまた嘱託。けけ。なんか知らんがおもしれーや。 そんなことはともかく、ごちゃごちゃいっててもしかたはあるまい。資料代はてめーで工面しろというのであればそうしてやるさ、いわれなくたって身銭ならとっくの昔から切りまくりだい、と私は思い、三十年あまり前に中央公論社から出た宇野浩二の全集全十二巻、インターネット検索で見つけた名古屋の古本屋さんにきのう注文して、料金二万円も名張郵便局から郵便振替で送金いたしました。 なんか話題が錯綜しているようですけれど、以上、リハビリ中の名張市立図書館ふたまた嘱託がお送りしました。 |
リハビリもきょうまでといたします。私のリハビリを温かく見守ってくださっていたにちがいない中田三男さんどうもありがとうございました。 それにしても中田三男さんにはお世話になってばかりです。そもそもあの投稿、中田三男さんのあの投稿がなかりせば、私は私の務めをとっくに放棄していたことでしょう。だって私はもうどうでもいいのだ。いやになった。あほらしい。こちらがどのように言葉を尽くしてもそれに耳を傾けようとはせず、ていうかどうやらそれを理解する能力がないらしいうすらばかども、そんな連中ばかりがいいだけ幅を利かせている名張市なんてもうどうにでもなってしまえ。好きなだけ世間の笑いものになればいいのさ。ていうか、もうなってるけど。 私はそんなふうに思っていたのですが、そんなことではいかんだろうという中田三男さんの叱咤の笞、大喝の杖に眼が醒めました。私は中田三男さんの志を無にすることなく、名張市の愚かしさに対していくら不毛であってもねばりづよい異議申し立てを継続することにいたしました。中田三男さん本当にありがとうございました。 むろん世間には、中田三男さんのことをあしざまにいう人だっていないわけではありません。早い話がこの投稿──
こんなものどう見たってただのいやがらせじゃねーか、だいたい中田って名前がふざけてやがる、ちょっと2チャンネル行ってみな、中田氏ね! 中田氏ね! 中田氏ね! なんて死ぬほど書かれてる名前じゃねーか、こんな投稿をおまえはどうしてありがたがっているのか、ばかなのか、ばかなのかおまえはこら、と私にいってくる蒙昧なやからもげんにいるわけなのですが、中田さんの投稿がいやがらせではないことは私がいちばんよく知っております。 そもそも私にいやがらせをしようなどと、そんなことを考える人間がいるはずはないと私は思います。神からつかわされた天使にいやがらせなんてできるわけないじゃん。ただし世の中には上っ面のことしかわからないばかというのが少なからず存在しておりますから、たとえば私がこんなものはインチキであるというきわめて正当な批判の対象としている名張まちなか再生プランの関係者のなかに、上っ面しか見えてない怪人19面相ばりのうすらばかがいるとしたら何かのはずみで血迷ったあげく私にいやがらせをしてくるかもしれず、中田三男さんがそうした手合いのひとりではないかと考えることも不可能ではないのでしょうが、いやまいったな、もしもそうだったら中田三男さんの投稿をきっかけに批判を再開することにした私はいったい何よ、何なのよ、うーん、いやがらせに踊らされてるだけのただのばか? いやいや、あまり手のこんだことやってると怪人19面相君あたりには何が何やらわからなくなってくることでしょうから、それではせっかくここまで中田三男さんの投稿をネタにあれこれひっぱってきた甲斐がなくなってしまいます。ばかをいじるのはここいらまでとして、とにかく週が明けたら名張市役所建設部に突撃です。赤岩神社で武運長久を祈ってくるか。 それによく考えてみれば私は今年度、三重県教育委員会の「元気な三重を創る高校生育成事業」の片棒を担がねばなりません。べつに悪事を働くわけではなく、三重県のオフィシャルサイトによればこんな事業で、チラシはこんな感じです。 私が担当しているマスコミ論の時間にこの事業を手がけてみてくれんかねという名張高校側の意向が伝えられてきましたので、生徒たちに尋ねてみたところやってみたいとのこと。あてがわれたのは三品ならんだメニューのうちの「地域との絆を育む高校生支援事業」で、手許の実施要項によりますと、 ──高校生が、地域の活性化への取組やボランティア活動等の地域への貢献活動を行うことなどを通じて、地域社会の一員としての自覚や自己の役割を認識し、将来自立した社会人となることを促す。 ものだそうなのですが、その「活動例」には「環境・福祉に係るボランティア」「小中学校への出前授業」「地元特産物の商品開発」「地域活性化プランづくり」「タウン情報誌、地域マップ等の作成」「公共施設等の備品製作」といったところがあげられておりましたから、私は試みに、 「出前授業がええやん。名張小学校へ行って小学生の女の子に上手なお化粧法を指導する。なかなか面白いと思わへんか」 と提案してみたのですが、生徒たちから即座に却下されてしまいました。しかし「地域との絆を育む」ということになればその「地域」というのは名張のまち、すなわちリフォーム詐欺の現場にして名張まちなか再生プランの舞台であり疑惑の黒い霧が渦巻いているところの名張のまちということにならざるを得ません。なんかもう腐れ縁みたいなものなのか。いやはや。ばかのみなさんよろしくどうぞ。 それでは、いろいろとご心配をおかけしていたかもしれませんが、もうご放念ください。リハビリテーションにはきょう一日で別れを告げ、あしたからまた名張市立図書館ふたまた嘱託として元気なところをお目にかけたいと思います。いまだって充分元気なわけですが。 |
2ちゃんねるのミステリー板に乱歩のスレッドがあることは、少なからぬ読者諸兄姉もご存じのところでしょう。いまは「【目羅博士の不思議な犯罪】 江戸川乱歩 第八夜」となっているスレッドの、あれは第何夜のことであったか、昨年発生した自殺サイト連続殺人事件が大きく喧伝されたころか、それともしばらく経ってからか、とにかくあの事件に関連してちょっと確認したいことがあり、その乱歩スレッドを閲覧したときのことでした。 ふしぎな投稿が眼を惹きました。といって、どんな内容であったのか、どんなコメントが記されていたのか、よくは憶えていないのですが、そこに宇野浩二の文学碑を紹介するページへのリンクが記されていたことははっきり記憶しています。 いま Google で「宇野浩二 文学碑」を検索してみると、トップにヒットするのは大阪市オフィシャルサイトのこのページです。私が乱歩スレッドから誘導されたのも、たぶんこのページだったと思われます。大阪市中央区糸屋町の中大江公園に宇野浩二の文学碑があって、そこに「清二郎 夢見る子」からの引用が刻まれているという事実を、私はその投稿によって教えられたのでした。
くだんの投稿者はおそらく、この碑文がどことなく乱歩の、 ──うつし世はゆめ よるの夢こそまこと という例の言葉を連想させることから、乱歩ファンにそれを知らせるべく投稿に及んだといったところだったのでしょう。 むろん、乱歩ファンにはよく親しまれた、というか、もう聞き飽きたといいたくなる気がしないでもないこのフレーズは、乱歩自身の証言によれば、宇野浩二とは何の関係もありません。昭和31年発表の「非現実への愛情」から引くならば──
ここに見られる現実と夢想との決定的な乖離、ないしは対立は、先に引いた宇野浩二の文章には見られないものです。宇野浩二はあくまでも、夢とうつつが容易に入れ替わってどちらとも判じがたい子供時代の追憶を、みずから「ドリーマー」を任じながらあわあわと描いているにすぎません。そこには「うつし世はゆめ」といいきってしまうまでの諦念や覚悟は存在していません。しかしそれにしても、と私は思いました。この宇野浩二の「清二郎 夢見る子」が、乱歩にまったく影響を及ぼさなかったともいえないのではないか。 ──まさしく対句。「夢」と「事実」を等価なものとして語った宇野浩二の文章に導かれるようにして、乱歩は「ゆめ」と「まこと」を対置する対句を思いついたのではないかしら。そうした影響関係は乱歩にとって、なかば以上は無自覚なものであったのかもしれないけれど。 つまり乱歩がこのフレーズを思いついたとき、意識にあったのはポーやデ・ラ・メアの言葉であったにしても、その背景の無意識的布置とでも呼ぶべきものとして宇野浩二の文章が存在していた。そう考えることは可能ではないかと私には思われました。要するに、乱歩の自己証言をそのまま鵜呑みにするのはやはり危険な行為であると、このところおりにふれて思うところをあらためて肝に銘じた次第でした。 ところで私は、宇野浩二という作家とはほぼ無縁なままで今日にいたりました。読もうとしても、そもそも著作が見当たりません。私がもっている宇野浩二の本はわずかに二冊だけ、一冊は国書刊行会から出た日本幻想文学集成の、もう一冊は集英社版日本文学全集の、それぞれの宇野浩二の巻です。 後者は私には珍しく古書店で購入したもので、もう何年か前のことになりますが、名張市内にも例のブックオフという古本屋さんがオープンしましたので、思いついて立ち寄ってみたところ、集英社版日本文学全集の端本が何冊か並んでいました。ぱらぱらと手にとった私は、いまでは文庫本でも読めないだろうからと、乱歩がらみで『宇野浩二集』と『葉山嘉樹 黒島伝治 伊藤永之介集』の二巻を購入しました。後者がどうして乱歩がらみかというと、黒島伝治の「二銭銅貨」が収録されていることによります。 以下、あすにつづきますが、宇野浩二文学碑のことを教えてくださった2ちゃんねる乱歩スレッドの投稿者の方に、こんなところではありますがお礼を申しあげておきたいと思います。
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まずお知らせです。昨16日、日本推理作家協会賞と江戸川乱歩賞の選考が行われました。結果は読売新聞オフィシャルサイトでごらんいただくことにして、まず「推理作家協会賞に恩田陸さんら」、それから「江戸川乱歩賞に鏑木蓮さんと早瀬乱さん」をどうぞ。候補作を一篇たりとも読んでいない私としては(候補作一覧は毎度おなじみ2ちゃんねるミステリ板の「□■日本推理作家協会賞■□」でごらんあれ)、昨年のような無茶苦茶な選考がなされなかったことを天に祈りたい気分です。日本推理作家協会のみなさんや、君たち少しは悔い改めてくれたのかな。 さて、きのうのつづきとまいりましょう。私もこの言を長く信用していたのですけれど、しかし──というところからのつづきです。「この言を長く信用していた」というのは、要するに乱歩は宇野浩二の文体の影響を受けていた、乱歩自身それを自覚し、表明もしていた、換言すれば乱歩における宇野浩二の影響はもっぱら文体上のものであったと私は長く信じていたということなのですが、「しかし」と思う気持ちもないわけではありませんでした。それはどういった気持ちか。講談社版江戸川乱歩推理文庫『屋根裏の散歩者』に収録された中島河太郎先生の解説から、表題作に関するくだりを引きましょう。
たしかにおかしい。乱歩は自身と宇野浩二との関連を語るに際して、あくまでも文体を問題にするばかりです。作品タイトルの明らかな類似に言及することが一度や二度はあってもいいはずなのですが、それがなされていないのはたしかにおかしい。なんだか怪しい感じがします。 ではここで、きのうも引いた乱歩の「宇野浩二式」から再度引用してみましょう。きのうも記したとおりこの随筆は大正15年2月の作品で、念のために記しておけば「屋根裏の散歩者」は大正14年8月の発表です。
──探偵趣味。 それはたしかにあるでしょう。「人間が熊になる話」がどのように探偵趣味に結びつくのか、いささか理解が届きかねる気がしないでもありませんが、宇野浩二作品に探偵趣味を認めることは不可能ではないでしょう。 早い話、きのう冒頭を引用した「子を貸し屋」にだって、探偵趣味と見える興趣は感じられます。それがどんなものかということをたいへんわかりやすく説明するならば、ここにスナックA、団子屋B、ラブホテルCがあって、スナックのお姉さんDが店の客Eとのあいだでいけないことをしてお金を頂戴する相談をまとめる。ふたりは手に手をとってラブホテルCにしけこみたいところなのであるが、当時のこととて所定の場所以外でのそういう行為はご法度である。ふたりがまあいかにもそれもんの風情でるんるん歩いているところを官憲に見つかったらお縄ものである。そこでお姉さんDは団子屋Bで少年Fを借り受け、DEFがあたかもひと組の親子であるがごとくに装いながら目的地Cまで歩いて、お役ご免となったFは待ち受けていたDの仲間のお姉さんGに引き取られてBまで送り届けられる。 べつにアルファベットつかって説明しなくてもいいのですけれど、それが子を貸すという行為に隠された真相です。しかし作品は団子屋Bの主人の視点から描かれており、最初はひとりのお姉さんが、やがては何人ものお姉さんが、なぜかしら頻繁に団子屋の少年を借り受けに来て、にもかかわらずその理由がある時点まで主人公にも読者にも伏せられていますから、それが明らかになったときには探偵小説における謎の解明の快感に似たものが感じられます。感じられないこともない。感じられなくもないといってもいいでしょう。とにかくそんなぐあいですし、団子屋の少年Fが家を飛び出していっこうに帰ってこず、やがて帰るともついに帰らぬとも示さないままサスペンスを盛りあげたままで幕切れとする小説作法にも、やはりある種の探偵趣味に通じるものがあるのかもしれません。 しかし、しかしもっとほかにあるのではないか。乱歩はもっと大切な何かを語っていないのではないか。私にはそのように思えてなりませんでした。そしてその疑念が決定的になったのは、待ってました脚註王、村上裕徳さんが「『新青年』趣味」第十二号に発表された「脚註王の執筆日記【完全版】」を読んだときのことでした。なにげなく脚註に眼をやると、こんなことが記されているではありませんか。
村上裕徳さんには『子不語の夢』の脚註以来、眼から鱗が落ちるようなことをいろいろ教えていただいたのですが、これもそのひとつでした。こんなことはまったくといっていいほど知りませんでした。 そこで私はつい先日、遅ればせながら日本幻想文学集成の『宇野浩二』を繙読し、しかし乱歩が書いていた「二人の青木愛三郎」や「鯛焼屋騒動」や「美女」、それから「人間が熊になる話」というのは村上さんの脚註によればどうやら童話集『赤い部屋』に収録された作品らしいのですが、それらは代表作でも何でもないみたいですからそこらの文学全集の宇野浩二の巻には収められておらず、いやそれ以前に宇野浩二の作品を気軽に読むなどということはいまやほとんど不可能ですから、すっかり頭に来た私はそれなら全集を揃えてやると発作的に決意し、インターネット検索で見つけた名古屋にある古本屋さんに中央公論社版宇野浩二全集全十二巻金二万円也、いやまあ二万円の出費も痛いがそれ以上におれは宇野浩二全集を所有している人間なんかになることがなんだかいやである、しかしそんなこともいっておれぬであろう、いつか宇野浩二と乱歩の関係を本格的に研究したいという若い女性が現れたらこの全集十二巻をぽんとプレゼントしてやろうと決め、大二枚というのも相場だろう、いやそれはいったい何の相場か、といった煩悶をくりかえすいとまもないほど発作的に12日の金曜日に注文したのがきのう到着いたしました。いったい何をやっておるのか。
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いやー、あちらこちらで顰蹙を買いつづける毎日ではあるのですが、とうとう2ちゃんねらーの方からもご批判を頂戴してしまいました。ミステリー板の「□■日本推理作家協会賞■□」にこんな投稿が。
あちゃー。つねひごろとにかく見苦しいことだけは避けようと心して努めてはいるのですけれど、お読みいただく方の感受性や読解力はどのようにもあれ、結論としてはまだまだ修行が足りぬようです。いやお恥ずかしい。それにいたしましてもこの投稿では「名張」がわざわざ「隠」と表記されていて、これだけの技がつかえるのはよほどの手練れ、ていうかうちらの地元の人間ではないのかとも推測され、 ──もしかしたらあなた、少し前に中田三男という名前で「人外境だより」に投稿してくださった方ではありませんか? とお訊きしてみたい誘惑にかられないでもないのですが、そんなことはともかく、何か私におっしゃりたいことがおありでしたら掲示板「人外境だより」にご投稿くださいな、とお願いしたいのはやまやまなれど、しかしいまは、いまはただ鬼瓦ごん左エ門さんのご投稿をじっくり拝見しお見守りしたいという思いが強く、とはいえそれはそれとして「□■日本推理作家協会賞■□」には──
といった意見も投稿されていますから、昨年の選考がおかしかったというのは私ひとりの考えでもないように思われます。だからこそ日本推理作家協会には賞に関する根本的な疑義を呈するこうした批判を受けないよう心して努めていただきたいと私は念ずるものであり、すなわち日本推理作家協会のみなさんや、君たち悔い改めてくれたのかな、と思う次第であるわけです。 それでは、2ちゃんねらーのみなさんの厳しい視線に戦々恐々としながら本日も進めましょう。宇野浩二の「夢見る部屋」は大正11年4月、「人癲癇」は三年後の14年4月、ともに「中央公論」に発表されました。どちらも昨日引きました村上裕徳さんの脚註で言及されていて、堀切直人さんの編による日本幻想文学集成第二十七巻『宇野浩二』に収録されておりますので、私はそれを読みました。ちなみに乱歩の「屋根裏の散歩者」は、大正14年8月の「新青年」夏季増刊号に掲載されております。 「夢見る部屋」は、小説家である主人公「私」が生活の場以外にまさしく「夢見る部屋」、ただ夢想をつむぐためだけに小さな部屋を内緒で借りる話です。主人公の夢想は乱歩のいうレンズ嗜好症に通じるもので興味深く、ほかにも不忍池が山中の湖水のように大きく見えるというどこか乱歩好みの錯覚に関するエピソードも語られているのですが、いまはストーリーを紹介することが目的ではありません。主人公が借りることになった小さな部屋、粗末な西洋づくりの四階建ての建物の、その四階にある部屋の描写をごらんいただきましょう。
メートル法に換算して説明するならば、この部屋の天井には九十センチ四方ほどの天窓があり、そこから一・八メートルばかり垂直にたどった屋根には三十センチ四方程度のガラスが嵌められている。そういうことになります。「(図略す)」とあるのは、この作品には最初のほうに二点、主人公が生活している部屋の平面図が収載されており、それに倣うならここにも同様の図が必要なのであるが、それは省略することにしたといった意味でしょう。 そしてこの部屋で主人公は──
贅言は必要ないでしょう。天井に穿たれた明かり採りの窓は、床に寝転んで眺めれば天の高みを眺める小窓となりますが、視線の向きをくるりと逆転させてしまうならば、屋根に嵌め込まれたガラスは主人公のいる室内をうかがう覗き窓ともなる道理です。 いっぽう「人癲癇」では、大和田という画家がやはり一人称の語り手を務めます。彼ら夫婦は「清──町」という町に引っ越したのですが、そのあたりの家々は「一軒づつ別々に造られてゐるやうに見えるが、よく見るとその大部分はそれぞれくつ附いて」おり、「おそらく同じ家主の手で一度に建てられたものであらうが、どんなにその設計に頭を悩ましたことであらうと思はれる」ものでした。隣の家とも押し入れの壁一枚を隔てるだけでつながっていて、その壁越しに女の声がはっきり聞こえてきたりします。このあたりにはいわゆる探偵趣味が明らかに感じられますし、そのほか作中には、とくに少年もので少年読者の心をわしづかみにしてしまう例の小説作法を連想させるような、 ──(読者諸君に、この窓のことを覚えておいていただきたい。) だの、 ──「この理想の高い彼女が、」と先きにもいつたやうに、かういふ文句がみな仮名で綴られてゐることを、読者よ、記憶しておいてほしい。 だのといった読者への呼びかけがあってわけもなくどきりとさせられてしまうのですが、そんなことはいまは関係ありません。 問題は隣家の主人、高木残夢と名乗る学者の趣味にあります。この男がつまり人癲癇で、人の多いところへ出ると癲癇を起こして口から蟹のように泡を吹き、その場に悶絶してしまいますゆえほとんど家にひきこもりの明け暮れ。主人公は隣の家ではじめてこの男に会ったとき、酒も手伝って饒舌な高木からいろいろと話を聞かされるのですが、高木はなぜか主人公の姪のことをよく知っている。ばかりか、「彼が、一年ぢゆうそんなに家の中に閉ぢこもつてゐながら、私の家の姪に限らず、二軒さきの家のことでも、三軒向かうの家のことでも、その家の人々の顔形から、誰が、何をしてゐるかといふ事から、どんな秘密を持つてゐるかといふことまで、実に詳細に知つてゐること」に驚かされます。 高木残夢の言を聞きましょう。
驚くべし。この人癲癇の学者先生は、自分の家から一歩も外に出ることなく、アカスチコオンなる機械を用いて隣近所の秘密を盗み聞きしていたというのです。人の秘密を探るのが探偵であるとするならば、これは聴覚的探偵と呼んでしかるべき行為でしょう。近隣に住むさまざまな家族の秘密をこっそり探偵している男がここにいた。 賢明なる読者諸兄姉におかれては、私のいいたいことはとっくの昔にお察しでしょう。「夢見る部屋」の天窓における視線の向きを逆転させ(ああ、なんということでしょう。この作品にはまるで天井裏からの覗き見をそそのかしでもするように、部屋の平面図がふたつも添えられていたではありませんか)、そうした天窓が四階のどの部屋にも設けられていると仮定してみる。そして、「人癲癇」の聴覚的探偵を視覚的探偵に入れ替え(少なくとも「夢見る部屋」を知っている人間にとって、それは困難なことではないでしょう)、そのカバーエリアを近隣一帯ではなく一軒の下宿屋にダウンサイジングしてみる。 するとそこには、おのずから「屋根裏の散歩者」のモチーフが現れてくるのではないでしょうか。あるいは、天井の節穴から下宿人の秘密を覗いてまわる郷田三郎その人の姿が。
この「日本推理作家協会会報」4月号によりますと、3月16日に協会の第五回常任理事会が開催されたそうで、議案第六番の審議結果は次のように発表されています。
名張市が日本推理作家協会の協賛を得て毎年秋に開催している講演会「なぞがたりなばり」、今年の講師は綾辻行人さんにお務めいただくことになったようです。日本推理作家協会のみなさん、本年もなにとぞよろしくお願い申しあげます。 |
さて、乱歩の「屋根裏の散歩者」は──と話をつづけたいところなのですが、きのうの夜、三重県民の血税三億円を野呂昭彦知事をはじめとした、いやそれ以前に北川正恭前知事がそもそもあほであったのですが、とにかくうすらばかのみなさんがよってたかってどぶに捨て去ってしまった官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を機に結成された「乱歩蔵びらき委員会」を前身とする「乱歩蔵びらきの会」の新年度総会が名張市役所一階大会議室で開かれ、私は来賓として招かれたのですが、なにしろ来賓ですからひとこと挨拶をしなければならず、乱歩蔵びらきの会が二年目を迎えたのはご同慶のいたりである、名張まちなか再生プランはインチキである、プランのことで名張市の建設部長にお会いしたいと申し込んであるのだが、いまだに返事がない、みたいなことをおはなししてまいりました。 乱歩蔵びらきの会の2006年度の事業計画と予算とをご紹介しておきましょう。
予算のほうは、収支をいちいち書き写すのがなんだか面倒な感じですので、予算総額六十七万円、うち名張市の市民公益活動実践事業委託金が三十万円、乱歩作品演劇県イベント補助金十万円、とだけお知らせしておきます。 本日はこんなようなところで失礼いたします。
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さて、乱歩の「屋根裏の散歩者」は──と話をつづけたいところなのですが、昨日、名張まちなか再生委員会事務局から電話連絡をいただきましたので、まずはそのお知らせから。待つことひさし、マツモトキヨシ、名張まちなか再生プラン担当セクションのトップでいらっしゃる名張市建設部の部長さんにお会いしたいのだが、とお願いしてありました件、5月23日火曜日におめもじがかなう運びとなりました。 昔をいまになすよしはなけれども、どうしてこんなインチキがここまでまかり通ってしまったのか、その原因をいま探っておくことには、名張市の今後のためにも少なからぬ意義が見いだせることでしょう。むろん郷土資料と乱歩資料をまたにかけた名張市立図書館ふたまた嘱託として、つまりは名張市における歴史と乱歩のエキスパートとして、歴史資料館構想にも乱歩記念館構想にも厳しく鋭くノーをつきつけてくる所存ではあるのですが、私の言が容れられることなど千にひとつもあり得ません。なッ、なんと不毛な。 名張市立図書館といえば、運営の民間委託がいよいよ日程にのぼったようです。まさしく危機です。図書館の危機です。
あちゃー、なんのかんのと大騒ぎして年間九百万ぽっちが浮くだけかよ、とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、財政難にあえぐ全国の地方自治体が爪に火をともすような苦労をして経費節減に努めているおりから、たとえ九百万円でも運営費が節約できたのはとりあえず喜ばしいことでしょう。 委員会の審議内容はと見てみると──
この人たちはいったい何を話しあっていらっしゃるのか。「指定管理者制度を踏まえた委託ではないのか」とはなにごとか。そんなものはそうに決まっておるではないか。にもかかわらず名張市教育委員会は「業務委託は指定管理者制度を踏まえたものでは無く、サービス向上を目指したもの」などとどうしてこんな見え透いた嘘をついておるのか。これは勝ち抜きあほ合戦ででもあろうか。とにかくもっとまじめにやれ。私の見るところこの人たち、つまり名張市議会教育民生委員会と名張市教育委員会の人たちは双方とも、公共図書館のサービスがどんなものであるのか、あるべきなのか、それがよくおわかりではないのではないか。 そうかと思うとその翌日、読売新聞の社説にはこんなことが。
どうもようわかっておらんのではないか。「にも」とはなにごとであるか。「地域の情報拠点にも活用したい」とはなんといういいぐさかというのだ。この社説の筆者はどうやら図書館が単なる無料貸本屋であると思いこんでおられるようで、しかしそんなことではいかんであろうと、これからは無料貸本屋が地域の情報拠点「にも」なるべきであろうと、何も知らんくせしてじつにえらっそーなことを書いていらっしゃるわけなのですが、ばかなのかこいつは。図書館はもともと無料貸本屋であると同時に地域の情報拠点でもあるというそんなことすら知らんのか。全国の心あるライブラリアンたちが図書館を地域の情報拠点たらしめるべく日々精励しているという事実を知らんのであろうかこのばかは。 私は4月29日付伝言「名張市職員のための図書館危機講座 菊」においてですね、吉村昭さんのエッセイを引きながらこのように記した。
それでまあ結論としては、あほらしくなったので結論はごく軽く書き流しただけであったのですが、本や読書にまったく興味のない職員が本庁から飛ばされてきて図書館長にいすわるようなシステムをまず改めるべきであり、そのためには図書館長を公募するのも一興であろう、学校の校長先生が公募される時代であるのだから図書館長を公募して何が悪かろう、図書館が真に地域の個性に根ざし、地域住民にとって必要不可欠な施設となるためにはどうすればいいのか、それを真剣に考えられる在野の有能な人材が図書館長に就任してどこがいけないのか、試みてみるだけの意義はあるだろうと思われるのですが、そんなことは誰も考えてくれないないわけです。 誰もそんなことを考えてくれないとどういう事態が招来されるのかというと、名張市立図書館が図書館の担うべき責務のかたっぽ、すなわち地域の情報拠点として機能するという責務をどんどんどんどん縮小させてしまうことになるわけです。これを図書館の危機といわずしてなんというか。名張市議会教育民生委員会の先生たちもそのあたりのことを問題にしてくれなければ困るではないか。それにしても、いってもせんないくりごとなれど、お役所というのはどうしてこんなぐあいに可能性の芽をひとつひとつ摘みとって、望ましからぬほうにばかりものごとを進めていってしまうのでしょうか。単にばかだから、というだけの話ではないようにも思われるのですが。
以下、一計です。
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