人外境主人残日録 2010
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2009年12月
2010 平成22年
1月
1月1日(金)
ごく月並みですがおめでとうございます
1月2日(土)
新年二日目は当然二日酔いでござるの巻
1月3日(日)
新年三日目はほぼ死にそうになる新年会
1月4日(月)
新年四日目は悄然として日常生活に戻る
1月6日(水)
新年も六日目なれどまだへろへろである
1月7日(木)
寒い寒いとちぢこまってるうちに七草粥
1月9日(土)
鬼のごとき本棚をお子供衆が攀じ登るよ
1月10日(日)
大好評のはずのウェブ版講座ついに再開
1月12日(火)
ここで「新青年」終末期を概観しておく
1月15日(金)
寒かったり真っ青になったり寒かったり
1月16日(土)
かくもあったであろうと思わしめる歩み
1月18日(月)
ふしぎな橋を渡ってしまった人をしのぶ
1月22日(金)
なんだか無性に春が待ち遠しい気がする
1月25日(月)
北森鴻さんのご冥福をお祈りいたします
ごく月並みですがおめでとうございます
2010年1月1日(金)

 あけましておめでとうございます。

 どこがめでたいんだかよくわかんないながらもとりあえず月並みな文句を入力してみました。どんな新年をお迎えでしょうか。当地はとても寒い年明けとなり、犬と散歩してるともう風が冷たくて冷たくて。

 新年の事始めとして「RAMPO Up-To-Date」をちょこっと更新いたしました。まだ2010年のページは新設できずにいるのですが、おととい購入した「ハヤカワミステリマガジン」はもう2月号です。立ち読みしてみたところ紀田順一郎さんの連載「幻島はるかなり 翻訳ミステリ回想録」に乱歩のことが出てきたので買って帰ったのですが、連載はこの号が第二回。第一回にも乱歩の名前が登場しているのではないかと思われましたので1月号の取り寄せを注文してきました。

 本日の朝食、雑煮。昼食、マクドナルド名張ガーデンプラザ店でチキンタツタセットとてりやきマックバーガー。夕食はまだこれからですが、メニューは不明。お酒を飲むことには間違いありません。

 などといってるところにお客さん。そろそろ飲み始めることにいたします。



新年二日目は当然二日酔いでござるの巻
2010年1月2日(土)

 新年も二日目となりました。二日酔いでへろへろです。

 とりあえずお知らせしておきましょう。昨年8月に東京芸術劇場で初演された結城座の「乱歩・白昼夢」が1月9日、茨城県のつくばカピオホールで再演されます。

 つくば文化通信:平成21年度イベント・インフォメーション > 結城座「乱歩・白昼夢」

 さて、きのうきょうとありがたい賀状の数々を頂戴しており、まずもってお礼を申しあげます。なかには、老化と廊下はゆっくりと、と本年の目標らしきものが記された後期高齢者の方のものがあり、不謹慎ながら大笑い。しかし老化は人ごとではなく、12月30日にアピタ名張店の駐車場でばったり出会った名張市立名張小学校で同期だった知人からも、お互いもう初老なのだからいろいろ気をつけないと駄目であると説教されてしまいました。この知人は小学校の校長先生をしておりますので、人の顔を見ると説教を垂れる悪い癖があります。

 そうかと思うとミステリファンの方から頂戴した賀状には、残された時間を考えると昨今の作品を読んでいる余裕はないのでクイーン、カー、クリスティの再読を始めたと書かれたものがありました。これはとてもよく理解できる、というよりもわがこととして深く実感される境地でした。人間、馬齢を重ねると人の死というものが妙に身に迫ってきて、とくに自分と同じ年に生まれた人間の訃報にはかなりやられます。昨年の物故者でいえば栗本薫さんと中川昭一さんがまさしくそれで、中川さんはまた2ちゃんねるでは「中川(酒)」と記されるほどの酒好きで、そのうえ女性に人気があった点においても他人とは思えず、昨年10月、東京から帰る新幹線の電光ニュースで訃報に接したときには小さからぬショックを覚えました。ほんと、残された時間はどれくらいなのかしら。

 それでもって私のほうはと申しますと、立春の日に賀状代わりの葉書を出す習いとなって今年が六年目。なぜこんなことになったのかといいますと、過ぐる2004年のことですが恥ずかしながら自己破産せざるを得ない羽目となり、こんな人間が年賀状なんか出すのは縁起のいいことではあるまいと考えたのがきっかけでした。やってみるとこれがなかなか按排よろしく、といいますのはお正月ではありませんから相手方の服喪に気兼ねすることが不要ですし、基本的には頂戴した賀状に返事を出すわけですから今年はあそこに送ろうか送るまいかと思い煩う必要もありません。しかも賀状の束に紛れているより格段に目立ちます。私は別に目立ちたくはないのですが、不本意ながら目立つはずです。なにしろ自分の家の犬っころに毎年出してやっているのがおおいに目立っておりますから、どちらのお宅でもやはり目立っているのではないかと推測される次第です。



新年三日目はほぼ死にそうになる新年会
2010年1月3日(日)

 新年も三日目となりました。本日は大阪で新年会。なんとか名張までの終電に乗り遅れずに帰宅したいと思います。



新年四日目は悄然として日常生活に戻る
2010年1月4日(月)

 去年の秋、2009年の翻訳ミステリシーンは『ミレニアム』(早川書房)のひとり勝ちだなという評判を聞き及びました。ところがその後、いやいや『犬の力』(角川文庫)も負けてないぞという声も届いてきましたので、なんとなく意味不明なタイトルに惹かれて『犬の力』で新年の読み初めを飾るべく、年末の多忙さからようよう解放された12月30日に名張市内の新刊書店を二店舗はしごしてみたのですが、残念ながら『犬の力』を発見することはできませんでした。というかもうあれです。うち一店の入口には1月15日で閉店しますという貼り紙がどーんと掲示されていて、なんかほんとに不況なんだなとあらためて思い知らされ、そのうえ二店舗とも結構な売場面積を有しているのですがお客さんの姿はかなりまばらな印象で、この国はいったいどうなってしまったのかと思わざるを得ませんでした。お正月だからといって浮かれ騒いでおる場合ではないのではないか。

 しかしお正月ですから浮かれ騒がないわけにもまいらず、きのう3日には大阪で開かれた新年会に出席してきたのですが、家を出る段になって電車のなかで読むべき本が思い浮かばないことに気がつきました。『犬の力』があればそれを携行していったところなのですが、売ってなかったんだからしかたありません。そこでふと思いついたのが山田風太郎の『あと千回の晩飯』(朝日文庫)で、本棚から引っ張り出してバッグに押し込みました。どうしてそんな本のことを思いついたのかというと、たぶん年末に報じられた多島斗志之さんにまつわるニュースのせいだと思われます。

 すでにご存じだろうとは思いますが、毎日新聞の記事を無断転載。

多島斗志之さん:手紙残して失踪…京都在住の小説家

多島斗志之さん

 直木賞候補にもなったミステリー小説「不思議島」などの著書がある京都市伏見区在住の小説家、多島斗志之(としゆき)=本名・鈴田恵(けい)=さん(61)が自殺をほのめかす手紙を残して行方不明になり、家族が京都府警伏見署に捜索願を出した。

 長女の河合知子さん(33)によると、多島さんは約10年前に右目を失明。12月18日、弟や河合さんに「1カ月前から左目も見えにくい。この年で両目を失明し人の手を煩わせたくない。失踪(しっそう)する」との速達が届いた。19日には「筆を置き、社会生活を終了します」と書かれた手紙が友人や出版社に届いたという。【古屋敷尚子】

毎日新聞 2009年12月25日 2時30分(最終更新 12月26日 13時05分)

 続報がありませんから捜索に進展は見られないものと思われますが、とても気がかりなニュースが年を越してしまいました。私は多島さんの読者ではまったくなく、本棚を調べてみたら唯一『龍の議定書』(講談社文庫)があっただけでした。二十二年前に出た本ですから内容などまるで記憶しておらず、ですからこれはひとりの作家が失踪したというよりも、六十一歳で失明の危機に直面したひとりの男性がみずからの意志で「社会生活」の終了を決意したニュースとして迫ってきたわけで、はっきりいってひとごとではありません。自分がもしもそういう状況に立ち至ったらどんな身の処し方をするだろうかと考えた場合、これはもう山田風太郎が『あと千回の晩飯』に書いていた安楽死施設みたいなものの実現を願うしかないのではないかと思い当たり、ちょっと読み返してみようかなと思い立った次第です。

 みたいな感じで『あと千回の晩飯』をネタとするべく本日の残日録を綴り始めたのですが、無責任かつ不謹慎なことを書いてもいられないという気がしてきました。いまちょっと検索してみましたところ、多島さんのご家族がブログを開設して捜索への協力を呼びかけていらっしゃることがわかったからです。

 父、多島斗志之を探しています。:トップページ

 しかもきょう4日、ご家族が当地に捜索の足を運ばれたみたいです。当地といっても名張市ではなく隣接する伊賀市のことだとは思われますが、ますますひとごととは思えなくなってきました。

 父、多島斗志之を探しています。:行きそうな所その6 伊賀(2010-01-03 05:05:19)

 多島さんに伊賀を舞台にした作品があったことも私は知らなかったのですが、ご参考までに。

 web KADOKAWA:感傷コンパス

 あっというまに三箇日も終わり、そろそろ普段どおりの日常生活に戻らなければなと思ってはいたのですが、なんとも悄然たる気分で新年四日目の日暮れを迎えてしまいました。贅言を連ねるのはここまでといたします。



新年も六日目なれどまだへろへろである
2010年1月6日(水)

 きのうはお正月疲れだったのかなんかだらーっとしてしまい、サイトの更新もお休みしてしまったのですが、夜はまた飲み過ぎてきょうもへろへろです。あしたっからしっかりしようっと。



寒い寒いとちぢこまってるうちに七草粥
2010年1月7日(木)

 年明けからこちらかなり寒い日がつづきましたから、もしかしたらそのせいで気分までちぢこまったみたいになっているのでしょうか、どうもすっきりとした晴れやかな気分になれないままに七草粥の日を迎えてしまいました。しかもきのうの夜は酔っ払ってなぜか犬っころといっしょに玄関で寝てしまう仕儀となり、おかげでちょっと風邪気味かなという気もいたします。

 だからもう絶対に晴れやかな気分になんかなってやんないぞと、なにしろ冥土の旅の一里塚なんだからなと一休さんみたいな心意気で去年亡くなった人の話を綴ることにして、たぶんメディアでは報じられなかったと思うのですが、昨年6月9日、梅木英治さんが死去されました。梅木英治さんというのは、乱歩ファンにはこの本でおなじみのはずの画家。

 11月に入ってから梅木さんの逝去をメールで知らせてくださった方があり、そのときにはああ、そうかと思っただけだったのですが、年末に梅木さんのサイトがあることを発見して日記を一読いたしました。

 ちなみに梅木さんは昭和26年の生まれ、つまり昨年5月に亡くなった忌野清志郎さんと同じ年の生まれです。

 梅木英治 Eiji Umeki:diary

 昨年1月3日の日記から。

2009年1月3日(土)
謹賀新年

新年あけましておめでとうさんです
べつにめでたいことなんもおまへんなあ、これからますます世の中、悪うなっていっきょるような気しまっけどなあ
ほなまあそこでちっとはおめでたい絵でもと、海老の絵でも見てもらいまひょ
さあおみやげ、おみやげ(凡児でおます)

 6月9日、すなわち永眠の日。

2009年6月9日(火)
展覧会終了

5月11日から24日、京都・ライト商会における展覧会が終了しました。
もともと古く懐かしいものが好きだったので、今までで一番自分の好みにあったシックリした会場でした。

 一か月後に逝去が公表されたということなのでしょうか、7月9日。

2009年7月9日(木)
お先に失礼ごきげんよろしゅう

とうとうわしも旅に出んならん事になりました
行き先は地獄だっしゃろなあ、まあ楽しみだ
色々好きなもん置いていかんなりまへんけど、もう十分楽しましてもらいました
今は”地とは永遠(とわ)に思いでならずや”(タルホ)
ちゅう心境でおます

ほなさいなら

酔生夢死

平成21年6月9日永眠(すい臓癌)

 日記には闘病のことがいっさい記されておらず、それゆえよけいに行間を読もうとしてしまうわけですが、じつは私も自分の末期の言葉は「酔生夢死」ってことになるのではないかと踏んでおりますので、梅木さんの死とこの日記とがひとかたならず身に迫ってくるのを覚えました。

 みたいなことばっか年の始めに書き綴ってもおれません。年末の多忙に紛れて中断してしまったウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」も再開しなければなりませんし。ほんとにあしたっからしっかりしようっと。



鬼のごとき本棚をお子供衆が攀じ登るよ
2010年1月9日(土)

 なんとも雑事の多い年末年始とはなり、きょうはきょうとて親戚のお子供衆がアポなしで遊びに来てしまいましたので、そうなるともう何も手につきません。なにしろ連中はだーっと階段を駈け登ってきて私の部屋に侵入するやいなや、わけのわかんないことを叫びながら鼻息も荒く本棚を攀じ登るのが習いとなっております。なんだか訓練中の新人ファイアマンみたいにひたすらクライミングに挑むわけなのですが、そんなお子供衆と遊んでるとほんとに大変なわけです。

 ここでふと思いついたのですが、幼稚園児がクライミングしてもびくともせず、たとえ大地震で家全体が倒壊してもこれだけは無傷で残っているであろうと思われる鬼のごとき本棚の来歴をお知らせしておきたいと思います。一昨年12月に発行された南陀楼綾繁さん+積ん読フレンズ各位の著『山からお宝 本を積まずにはいられない人のために』(けものみち文庫2)で雑魚のととまじりを果たした拙文を転載いたします。

山は消えてしまった

 書斎の隣は暗室だった。水道を引き、フィルムや印画紙を水洗するための流しも設置してあった。机の上では引き伸ばし機が構えていた。空いたスペースにはスチール製の棚をしつらえ、本をごちゃごちゃ詰め込んであった。もちろん床にも本の山があり、冊子やコピーなどを保存したクリアファイル、大判封筒、紙袋のたぐいもまた、本の山々の暗い隙間で不安定な堆積をなしていた。
 デジタル写真が普及したので、銀塩カメラから手を引いた。暗室はたちまち物置と化した。流しには一枚の板を置き、本の山の基盤とした。やがて崩落が訪れる。一番大きなスチールの棚が重量に耐えかね、ぐらぐら揺れながら倒れて本を投げ出した。本はいったん書斎に移したが、書斎の床にも山は築かれている。棚を補強して、暗室の本は暗室に戻した。乱雑さはその極に達し、暗室を整理する日は永遠に訪れまいと観念した。
 ある日、自己破産することになった。反射的に浮かんだのは、自由になる現金を急いでかき集め、買えるだけの本を買い込もうかという考えだった。買った本をすぐ売り飛ばす羽目になるかもしれない、ということには気がつかなかった。しかし、本は処分せずに済むらしいことが判明した。破産しても自宅に住みつづける裏技、みたいなものも弁護士から入れ知恵してもらった。そこで、本を買うよりまず整理かと思い至り、書斎と暗室に本棚をつくりつけようと決断した。
 すべての本を段ボール箱に詰め、別室に運んだ。段ボール箱の山の隙間で寝る仕儀となった。これで地震が来たら本の下で圧死だなと思ったが、それほどいやなことだとも感じなかった。自己破産の手続きが粛々と進められる裏側で、親戚の大工による工事がひそかに始まって終わった。床から天井まで壁一面、文庫本なら十三段、A5サイズなら九段、本を隙間なく収納できる環境が整った。
 入れてみると入る入る。書斎からも暗室からも本の山が姿を消し、すべての本の背が見えるようになった。あのときの幸福感は何に喩えることもできない。暗室だった部屋には、せっかく水道があるのだからと便器を備えた。書斎の隣に便所兼書庫ができた。写真の右下、手前に白く見えているのが便器である。奥のほうに雑然と放置されている段ボール箱のたぐいに、かつての乱雑さがわずかに名残をとどめている。

かつての暗室、現在の便所兼書庫。広さは三畳ほど。この小さな空間が絶望的なほどの混沌に支配されていた。

混沌は書斎をも領していた。本の山がそこここでスペースを占有し、床が見えなくなることも珍しくなかった。

暗室から書庫へ、混沌から秩序へ。書斎と暗室から本を撤去する作業のため、近所の大学生を二日ほど雇った。

書斎の本棚も完成した。いまでは空きスペースもほぼなくなり、やがて再来するはずの混沌が何より恐ろしい。

 昨年10月、人形+写真のアーティスト石塚公昭さんが拙宅に立ち寄ってくださったのですが、私の机の横には石塚さんから頂戴した中井英夫の石膏製生首が晒されていたりもいたします都合上、書斎にも入っていただきました。あッ、あッ、いやーこの本棚は魚眼で撮りたいなー、とか石塚さんはおっしゃっておいででしたが。

 明日できること今日はせず:『今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で。』(2009年10月31日)

 いまや「整然と整頓されているが、すでに他の本が入る余地はないようである」とあるのはまさしくそのとおりで、混沌はすぐそこで私を手招きしております。どうするよまったく。



大好評のはずのウェブ版講座ついに再開
2010年1月10日(日)

 さーあどっこいしょ。腰を据えました。たぶん大好評であろうと思われるウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」を再開いたします。いったいどこまで進んでいたのか。ここまででした。

 人外境主人残日録:青き衣をまといて金色の野に降り立つ者(2009年12月18日)

 黒岩涙香によって道が開かれ、「新青年」によって場が形成されたこの国の探偵小説の世界に、青き衣をまといて金色の野に降り立つようにして登場した運命の子、それが自分であったのだということを乱歩は自伝によって広く知らしめたかったのだと思います。なぜか。「探偵小説三十年」の連載が始まった昭和24年、乱歩は実作という点においては探偵小説の第一人者ではなくなっており、しかし第一人者でありつづけたいと強く念願していたからだと愚考されます。そのためには日本探偵小説史にみずからを位置づける、というよりはみずからの人生を日本の探偵小説史にぴったり重ね合わせることが必要であった。それこそが「探偵小説三十年」において乱歩が企図したところであったのではないかと思われます。

 えーっと、予定していなかったことなのですがきょうもまた小学一年生女子を含む親戚が遊びに来ることになり、というかすでに来ていて小学一年生女子はさっそく私の書斎への侵入を果たしておりますので、不本意ながら本日はこのへんまでといたします。



ここで「新青年」終末期を概観しておく
2010年1月12日(火)

 それにしても雑用が多くて困ったものですが、さっそくながらウェブ版講座です。昭和24年のたぶん夏、当時の乱歩は探偵小説界の第一人者として「宝石」をホームグラウンドに健筆を振るっていたのですが、もはや無縁だと思っていたであろう「新青年」から短い回想記の依頼を受け、もしかしたらいわゆる運命的なものを感じたかもしれません。

 ちなみに「新青年」がその終末期においてどんな惨状を呈していたのか、中島河太郎先生の「『新青年』三十年史」から引いておきたいと思います。立風書房の『新青年傑作選第五巻 読物・復刻・資料編』に収録された文章です。先日、志村有弘さん編の『江戸川乱歩 徹底追跡』を繙読し、岩見幸恵さんの「『新青年』と乱歩」の末尾に参考文献としてこの「『新青年』三十年史」があげられているのを眼にするまで、中島先生にこんな通史があったことをすっかり忘れていた私はなんとばかだったのかしらと思います。

 戦後はじめての本誌は、ただ一枚の紙を折り畳んだだけの三二頁のものだった。表紙に目次が刷りこまれて、本年度第三号にあたる。「三月号が見本の出来たところで焼かれ、全焼の印刷工場を督励して漸く第四号の出来あがるところ迄漕ぎつけた途端、平和帰来の鐘を聴く。従って内実は本号も第五号に当るわけだ。併し御覧の如くまだ夏服姿である。」と、中絶期間の情況を伝えている。宇陀児や乾信一郎らの現代小説を載せている。
 二十一年の一月からは松野一夫の女性の顔の表紙がついた。色の具合は悪いが、一応三色刷である。戦後の出版界は騒然とし、新雑誌が輩出したとき、本誌は従来の権利を確保していたのだから、早く立ち直るべきであったのに、現代小説、ユーモア小説で通そうとした。昔懐しい題字まで変え、顔触れも土岐雄三、乾信一郎、渡辺啓助、玉川一郎らが定連で変りばえがしなかった。
 わずかに覆面作家の読切連載「寝ぼけ署長」が、茫洋とした中に鋭い観察眼を秘めた人間像を巧みに描き出した見事な収穫であった。作者は山本周五郎で、その後、黒林騎士の別名で「失恋第五番」などの冒険小説も書いている。
 それに一度だけ「探偵小説特大号」を出し、正史の「探偵小説」、十蘭の「ハムレット」、大仏次郎、高太郎、準、信一郎、啓助の他、乱歩の随筆を添えて、すぐれた成果をあげたにもかかわらず、すでに探偵専門誌として「宝石」、「ロック」など、いくつもあったからか、また変りばえのしない編集に戻ってしまった。

 「乱歩の随筆」というのは、「探偵小説三十年」の連載が開始されるまで戦後の「新青年」に掲載された唯一の乱歩作品だった「魔術と探偵小説」のことです。

 この時期の編集長は横溝武夫であったが、二十三年五月から高森栄次に代わった。発行元も博文館から江古田書房を経て、文友館に変わっている。またも題字を変え、「匂う読物・明るい小説」と謳っているが、松野の表紙画も姿を消した。前半の二十四年秋までは小説に俗悪な記事をつけただけで、その小説も大林清の長編に、山手樹一郎らが加わっている程度、幻想作家の三橋一夫を発見した点が注目される。ビアースやサキの系列に属する作家で、その摩訶不思議小説にユニークな味があり、「まぼろし部落」と総称する連続短篇に着手した。
 二十四年には戦後、本格長編で目ざましい業績をあげた正史が、「八つ墓村」を連載し、ようやく探偵色をとり戻した。十月号からは乱歩の自伝「探偵小説三十年」と、準のはじめての捕物帳「瓢庵先生」が加わり、高太郎らの短編といい、「本誌としては切っても切れぬ御縁の方に」登場してもらったというのは、たとい遅まきながらでも、行き詰まりを打開する残された方法であった。
 十一月号から元の題字に復し。山田風太郎、島田一男の新人に、火野葦平、林房雄に探偵小説を書かせ、「つくづくと本誌の伝統と歴史の有難さを感じ」ているが、戦前派はともかく、戦後派は他誌出身を起用する他はなく、作者層が薄かった。
 編集者も二十五年の初頭に、「往年の『新青年』を知って下さる読者諸賢や寄稿家諸氏から叱られつづけの一年だった。」といい、「八つ墓村」が載りはじめてから、少し憤懣の色がやわらいだようだと白状している。さらに高太郎の長編「美の悲劇」が開始され、小山いと子、船山馨らの文壇作家に登場させ、いろいろなセクションを設け、以前の本誌の味をとり戻そうとしたが、探偵小説を中軸にした雑誌としては、とうてい「宝石」の足許にも寄れず、結局再建策を模索したまま、二十五年七月、第三十一巻で幕を閉じることになった。

 長々しい引用となりましたが、戦後の「新青年」はこんな状態だったわけで、乱歩もきっと「新青年」は自分に無縁な雑誌だと認識していたことでしょう。そこへ「本誌としては切っても切れぬ御縁の方」のひとりとして短い回想記の依頼があったわけです。編集部としてはせいぜい森下雨村の「探偵作家思い出話」みたいに三回程度の連載で収まる随筆を予定していたと思われるのですが、乱歩の頭のなかでは回想記が自伝に発展し、いつ果てるとも知れない長大な自叙伝の執筆が構想される結果になりました。つまり乱歩には、少年もの以外に実作を手がけないまま、つまりは理想とする本格長篇を書けないまま探偵小説界の第一人者でありつづけるために、デビュー以来の第一人者としての歩みを記して広く知らしめることが必要だったのではないか。私は頑なにそう信じて疑うことを知りません。



寒かったり真っ青になったり寒かったり
2010年1月15日(金)

 寒かったり Adobe の Acrobat 8.2 をアップデートしたところ InDesign CS2 が起動できない不具合が発生したり相変わらず雑用が多かったりやっぱり寒かったり、まったくろくなもんじゃないなと思ってるうちに1月も15日を迎えました。それにしてもきのう発生した InDesign のトラブルにはほとほと参りました。商売道具のソフトが使用できなくなったんですからもう真っ青。しかし世の中には親切な人がいるもので、ネット上で公開された修正パッチにたどりついて本日無事本復。なんだか疲れましたのでウェブ版講座はまたあした綴ります。



かくもあったであろうと思わしめる歩み
2010年1月16日(土)

 それにしてもまさか年を越すとは思っていなかったウェブ版講座ですが、そんなこんなで乱歩は「新青年」に「探偵小説三十年」の連載を開始しました。昭和24年の10月号が第一回。たったかたったかと快調に筆が進み、翌25年7月号を最後に「新青年」がなくなってしまうまで十回にわたって連載が重ねられます。十回分の小見出しを拾うとこんな感じ。

 はしがき
 涙香心酔
 ポーとドイルの発見
 手製本「奇譚」
 最初の密室小説
 アメリカ渡航の夢
 谷崎潤一郎とドストエフスキー
 智的小説刊行会
 「新青年」の盛観
 馬場孤蝶氏に原稿を送る
 森下雨村氏に原稿を送る
 二年間に五篇
 私を刺戟した文章
 「D坂」と「心理試験」
 大正十四年の主な出来事
 大正十四年発表の作品
 名古屋と東京への旅
 甲賀三郎君
 牧逸馬(林不忘)君
 宇野浩二氏
 野村胡堂氏と写真報知
 探偵趣味の会

 探偵作家乱歩の幼少年期から青年期にかけての歩みはいかさまかくもあったであろうと思わしめるものがあります。乱歩はなんだか僕の前に道はない、僕のうしろに道はできるとばかりに探偵小説一筋の道を歩みつづけ、その歩みはまさしく「涙香、『新青年』、乱歩」とでも呼ぶべき一本の道を開いて、その道の先に日本の探偵小説の現在があるのだと読者は深く納得させられてしまいます。このあたりに関して以前記したところを引いておきますと──

 小見出しを見るだけでも、それを窺うことは充分に可能でしょう。幼くして涙香に心酔し、長じてはポーとドイルを発見した。「奇譚」を編んで探偵小説の研究や体系化を試み、同時に編集にも手腕を発揮した。いっぽうでは実作者として密室小説を試作し、職業的な探偵作家になろうと考えたものの、日本では不可能だったからアメリカに渡航することを夢見た。文学的水脈でいえば、谷崎潤一郎とドストエフスキーの作品に探偵小説に通底する面白さを見出した。探偵小説の普及を目的に「智的小説刊行会」を企画して、組織を統率することへの意欲も見せた。そして、「新青年」の発見。驚くべきことに乱歩は、プロとして立つまでにすべてを予行していたのだといっていいのかもしれません。

 しかしじつはこれ、驚くべきことでもなんでもありません。なぜかというと乱歩は探偵小説に関係のあることしか綴っていないからです。単刀直入に探偵小説のことだけを語って無駄というものがいっさい見当たりません。それはおそらく乱歩が明確な目的というものを意識していたからでしょう。目的のために必要なことしか書いていないという印象です。どんな目的か。「探偵小説三十年」を自伝でもあり日本探偵小説史でもある内容とし、日本の探偵小説史にみずからの存在を位置づけること、というよりもみずからの人生を日本の探偵小説史にぴったり重ね合わせること。乱歩はそれを目的としていたはずで、文字どおり脇目も振らずにその目的を遂げてゆきます。

 ところが、「新青年」は昭和25年7月号を最後に廃刊となってしまいました。そのことが「探偵小説三十年」に、というよりは「探偵小説三十五年」と改題して執筆がつづけられていた自伝に記されたのは昭和33年のことでしたが、乱歩は「同誌には多くの思い出を持っているが、ここには便宜上『幻影城』附録に執筆した同誌の略歴をしるして懐旧のよすがとする」として「探偵小説雑誌目録」からの引用を連ねるだけで廃刊の話題を終えています。自身がデビューした雑誌の終幕を自伝に書きつけるにあたってどこかよそよそしく冷淡であると私には見えるのですが、乱歩にしてみればそれまでにも「新青年」に関しては多くの筆を費やしてきており、廃刊だからといってことごとしく記すべき話題はなかったということだったのかもしれません。

 発表の場を失った「探偵小説三十年」は結局「宝石」に舞台が移されることになり、七か月のブランクを経て昭和26年3月号から連載が再開されます。そのときの「はしがき」に乱歩はこう記しました。

 本号から「幻影城通信」を暫く休んで、私の探偵作家としての思出話を連載する。これは「新青年」昭和二十四年十月号から二十五年七月最終号まで、十回連載したものの続篇である。十回もつづいたけれど、無駄話入りなので、私の処女作発表以来二年ほどのことを書いたばかりで中絶したもの。諸方から「あのつづきを書くように」と勧められるし、「幻影城」の英米探偵小説読後感にも少々あきたので、しばらく思出話の方を書くことにした。しかし今後も、英米の作品について、何か書きたいことがあれば、この稿の終りに、小活字で書添えることにする。「新青年」の思出話は、まだ私の大阪在住時代、大毎の春日野緑、神戸の西田政治、横溝正史の諸君と「探偵趣味の会」(今の探偵作家クラブと似たようなもの)を始めたところまで記した。私としては、専門の探偵作家となることを決意したばかりの、出発期のお話である。

 「暫く休んで」という心づもりは果たされることがなく、「幻影城通信」はこの年1月号を最後に「宝石」の誌面から消えてしまい、代わって「探偵小説三十年」が延々と書き継がれてゆくことになります。



ふしぎな橋を渡ってしまった人をしのぶ
2010年1月18日(月)

 なんかもうたちの悪い冗談だとしか思えないくらい人がばたばた死んでいる感じです。むろん人なんて毎日ばたばた死んでるわけですが、きのうは小林繁さんの訃報に驚き、きょうは浅川マキさんのそれに驚かされてしまいました。小林さん五十七歳、浅川さん六十七歳。私は浅川さんの年齢を知らなかったのですが、もうそんな齢だったのかとやや意外な感じを抱きました。まあこっちだってこんな年齢になってるわけですけど。それでは、ふしぎな橋を渡ってしまって二度と帰ることはないマキさんをしのびつつ……。

 なんかもうやりきれんなという気がしてなりませんので、とっととお酒を飲んでくることにいたします。



なんだか無性に春が待ち遠しい気がする
2010年1月22日(金)

 このところ公私ともにやや忙しくしており、年をまたいだウェブ版講座も途切れ途切れになっていることが気になってはいるのですが、まあ気長におつきあいください。

 年をまたいだといえば多島斗志之さん、依然として安否は不明のようで、当地の毎日新聞には先日、こんな記事が掲載されました。

行方不明:作家・多島斗志之を捜しています 家族が情報提供求める /三重

 ◇伊賀舞台の小説手がかりに 柘植駅でチラシ配り タクシー会社にも要請

 自殺をほのめかす手紙を残し、行方不明となっている元直木賞候補の小説家、多島斗志之(としゆき)(本名・鈴田恵)さん(61)=京都市伏見区=の家族が、伊賀地域でも情報提供を呼びかけている。かつて取材で訪れた鉄道などでチラシを配り、手がかりを求めている。

 多島さんは約10年前に右目を失明。昨年12月18日、「1カ月前から左目も見えにくい。この年で両目を失明し人の手を煩わせたくない。失踪(しっそう)する」との速達が家族に届いたため、京都府警伏見署に捜索願を出したという。

 多島さんは07年、伊賀の山里の分校を舞台とした小説「感傷コンパス」を発表。家族のブログ(http://ameblo.jp/suzilard/)によると、取材でJR柘植駅(伊賀市柘植町)を訪れており、家族は同駅や付近のタクシー会社を回り、情報を求めたという。

 同駅員によると、今月9日、家族という女性が訪れ、「この男性を見かけなかっただろうか」とチラシを示し、待合室への掲示許可を求めた。また、近くのタクシー営業所に詰めている男性運転手(60)によると、家族は2度訪ねて協力を求め、近くの喫茶店や柘植歴史民俗資料館も回っていたという。運転手は「柘植地区は俳句や歴史愛好家が多く訪れており、高齢者も少なくないため、本人を見分けるのは難しい」と話した。

 多島さんは身長約170センチのやせ形。失踪時はカーキ色のジャンパー、ズボン、帽子を着用していたという。【渕脇直樹】

〔伊賀版〕

毎日新聞 2010年1月14日 地方版

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 年明け早々、なんだか無性に春が待ち遠しいという気になってしまうのをいかにせん。犬の名前は小春なれども。



北森鴻さんのご冥福をお祈りいたします
2010年1月25日(月)

 北森鴻さんがお亡くなりになりました。

 毎日jp:訃報:北森鴻さん48歳=ミステリー作家
 YOMIURI ONLINE:ミステリー作家の北森鴻氏死去、48歳

 北森さんには2007年11月24日、名張市が主催するミステリー講演会の講師として当地においでいただきました。月並みですが、ご冥福をお祈りいたします。

 しかしまあ、いったいどうなっておるのか、と思わずにはいられません。