人外境主人残日録 2009
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2010年1月
2009 平成21年
12月
12月1日(火)
乱歩の戦後と正史の戦後を比較してみる
12月2日(水)
ご破算で願いまして葛藤かける弾圧では
12月3日(木)
ギリギリという歯ぎしりみたいな音の年
12月4日(金)
喜びを感じ祝福を贈り短刀を送りつける
12月6日(日)
古い上着にさようならをするリスタート
12月7日(月)
願はくは花の下にて春死なんとぞ思うぞ
12月8日(火)
乱歩はもうひとつの敗戦を経験したのか
12月9日(水)
それでも第一人者であろうとしつづけた
12月11日(金)
本格至上主義は神を妖怪に零落させるか
12月12日(土)
オートバイオグラフィにはまだ早すぎる
12月13日(日)
驚くなかれハードボイルドだど古いけど
12月14日(月)
密かに託されていたはずの政治的な意図
12月15日(火)
諦めみたいなものと確信のようなものと
12月16日(水)
涙香、「新青年」、乱歩という一本の道
12月18日(金)
青き衣をまといて金色の野に降り立つ者
12月31日
突然ですけどよいお年をお迎えください
▼11月1日(日)
乱歩歌舞伎も楽日を過ぎてもう霜月かよ
▼11月2日(月)
秋も深まりいよいよ佳境のウェブ版講座
▼11月3日(火)
探偵趣味は絵探しであると乱歩はいった
▼11月4日(水)
大乱歩のお導きで上田屋と魚民へどうぞ
▼11月5日(木)
往年のてんぷくトリオ版「一枚の切符」
▼11月6日(金)
探偵よりも空想のほうが優位にある世界
▼11月7日(土)
ポプラ文庫版少年探偵シリーズ堂々完結
▼11月8日(日)
歌舞伎のあとは常磐津まである乱歩の秋
▼11月9日(月)
曖昧な日本の私とフランス映画「陰獣」
▼11月10日(火)
それは本当に探偵小説なのかという疑問
▼11月11日(水)
英国人女性死体遺棄容疑者逮捕記念特番
▼11月12日(木)
クヴィレット号不明児童大発見記念特番
▼11月13日(金)
われもし「新青年」の森下雨村なりせば
▼11月14日(土)
絵探しの探偵趣味を探偵小説に接続する
▼11月15日(日)
横溝正史生誕地碑建立五周年記念講演会
▼11月16日(月)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第四講
▼11月17日(火)
この世に「難解な秘密」が存在するのか
▼11月18日(水)
シネモザイクが正史原作映画を特集上映
▼11月19日(木)
おりんの登場シーンはほんとに怖かった
▼11月21日(土)
私も(半分の方の私ですよ)という恐怖
▼11月23日(月)
本格探偵小説ブームは生理現象であった
▼11月24日(火)
探偵小説はかりそめの器ではなかったか
▼11月25日(水)
憂国忌の夕刻に十周年を思い名張を憂う
▼11月26日(木)
憂国忌翌日の夕刻におらおらおらという
▼11月27日(金)
憂国忌の翌々日夕刻のおらおらおらおら
▼11月28日(土)
畏れ多いけど乱歩最大のトリックに迫る
▼11月29日(日)
乱歩最大のトリックに一気には迫れない
▼11月30日(月)
謎と論理の興味こそが探偵趣味じゃね?
▼10月6日(火)
「大乱歩展」記念講演会に思いを馳せる
▼10月7日(水)
乱歩歌舞伎第二弾「京乱噂鉤爪」が開幕
▼10月8日(木)
とくに被害もなく当地はすでに台風一過
▼10月9日(金)
トーク&ディスカッション早くも二回目
▼10月12日(月)
「大乱歩展」は台風にも負けず好評嘖々
▼10月13日(火)
小林信彦さんの講演はこんな内容だった
▼10月16日(金)
港が見える丘への道における疑問と逡巡
▼10月19日(月)
今年は何のアニバーサリーなのかと思う
▼10月20日(火)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」予告篇
▼10月21日(水)
グーグル先生ありがとうございましたッ
▼10月22日(木)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第一講
▼10月24日(土)
乱歩の秋を席捲する『明智小五郎読本』
▼10月25日(日)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第二講
▼10月26日(月)
沖積舎の桃源社版乱歩全集復刻版が完結
▼10月27日(火)
正史とおりん婆さんとそこらのギャルと
▼10月28日(水)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第三講
▼10月29日(木)
「日本暗殺秘録」に感銘した過去がある
▼10月30日(金)
これやこの乱歩を掲げて東海を売ってる
▼10月31日(土)
ちはやぶる乱歩の蔵を幻影城と呼ぶなよ
▼9月1日(火)
横浜もいいけど池袋もなかなかだと思う
▼9月2日(水)
情けなくなるほど宣伝モード全開である
▼9月3日(木)
もう開き直ったような宣伝モードである
▼9月4日(金)
映画「陰獣」はシネ・ヌーヴォでも上映
▼9月5日(土)
記念講演をも記念する大宴会の開催予告
▼9月7日(月)
雑誌「アベック」に掲載されたパロディ
▼9月8日(火)
映画版「芋虫」と歌舞伎「京乱噂鉤爪」
▼9月9日(水)
こんなことでいちいち大騒ぎしなくても
▼9月10日(木)
ほんとに何が嬉しくて大騒ぎしてるのか
▼9月11日(金)
秋の二大イベント開幕記念大宴会ご案内
▼9月12日(土)
目白押しの「大乱歩展」関連行事ご案内
▼9月13日(日)
トーク&ディスカッションあしたが締切
▼9月14日(月)
誰が美絵子先生の乳房を揉みしだこうが
▼9月15日(火)
きょうもサークルKへ雑誌の買い出しに
▼9月18日(金)
第四十五回衆議院議員選挙を振り返って
▼9月19日(土)
『明智小五郎読本』限定千部は来月発売
▼9月21日(月)
「大乱歩展」の目録千円は「買い!」だ
▼9月22日(火)
立教大学では「江戸川乱歩フォーラム」
▼9月23日(水)
ポプラ社の「コミックブンブン」休刊す
▼9月24日(木)
「青銅の魔人」を原作に「仮面舞盗会」
▼9月25日(金)
遠縁のサオリン兄貴が世界選手権七連覇
▼9月27日(日)
大宴会の申し込みは受付を終了しました
▼9月28日(月)
『明智小五郎読本』が発売になりました
▼9月29日(火)
「ラジオ深夜便」に紀田順一郎さん登場
▼9月30日(水)
たそがれの国で乱歩の秋が開幕を迎える
▼8月28日(金)
またずいぶんご無沙汰してしまいました
▼8月29日(土)
拙者は分身の術がつかえぬでござるの巻
▼7月12日(日)
遅ればせながら「盲獣」再演のお知らせ
▼6月14日(日)
カバー青仮面版『吸血鬼』があったとさ
▼6月19日(金)
コレクターの血が見事なまでに騒がない
▼6月21日(日)
学習誌の付録に掲載された乱歩作品の謎
▼5月23日(土)
人外境番犬の二回忌も過ぎた春の夕刻に
▼5月25日(月)
人間豹は幕末の京で最期を遂げるらしい
▼4月3日(金)
野村恒彦講演会「親友二人」のお知らせ
▼4月4日(土)
乱歩スレに謝意を表しつつラジオの話題
▼4月15日(水)
チューリップの町で僭越ながら後援です
▼4月20日(月)
江戸川乱歩賞はどうなったのでしょうか
▼3月1日(日)
誰だってデビューのときは新人であった
▼3月2日(月)
お勢の形相と格太郎の死相どっちが怖い
▼3月3日(火)
乱歩生誕地碑広場をご覧いただきますか
▼3月4日(水)
乱歩はミッドライフの危機に直面したか
▼3月6日(金)
少年読者の反応はどう熱狂的だったのか
▼3月7日(土)
都会の少年の懐かしい故郷における熱中
▼3月8日(日)
少年タイガーから少年探偵団シリーズへ
▼3月9日(月)
たぶんいやなやつだとお思いでしょうが
▼3月13日(金)
海野十三忌講演会と講師先生出版祝賀会
▼3月22日(日)
野村恒彦さん処女出版お祝いの会ご案内
▼3月23日(月)
神奈川近代文学館「大乱歩展」のご案内
▼2月1日(日)
松居竜五さんの講演会が徳島県で開かれます
▼2月3日(火)
節分の日に昨年末の落ち穂拾いをいたしました
▼2月8日(日)
八日えびすなので早々に失礼いたします
▼2月11日(水)
墓参はしませんでしたが散歩はしました
▼2月12日(木)
三島由紀夫の書斎における乱歩全集の謎
▼2月20日(金)
江戸川乱歩年譜集成おぼえがきアゲイン
▼2月23日(月)
フラグメントで再チャレンジしましたが
▼2月24日(火)
依頼されたのか希望したのかという問題
▼2月25日(水)
「少年倶楽部」は何度ベルを鳴らしたか
▼2月26日(木)
新機軸を求めた新編集長による白羽の矢
▼2月27日(金)
あれから十年かよ「二十面相は突然に」
▼2月28日(土)
二十面相ばかりか「妄想姉妹」も突然に
▼1月1日(木)
あけましておめでとうございます
▼1月4日(日)
もうへろへろでございます
▼1月5日(月)
いよいよわからなくなってきました
▼1月6日(火)
いったいどうなるのでしょうか
▼1月7日(水)
深い森のなかであてどなく
▼1月8日(木)
深い森のなかでついふらふらと
▼1月10日(土)
残日録にいたしました
▼1月21日(水)
エントリ中心主義はよかったのですが
▼1月22日(木)
「嗚呼、私の探偵は!」は嗚呼とっくの昔に
乱歩の戦後と正史の戦後を比較してみる
2009年12月1日(火)

 乱歩の戦後はどのようなものであったのか。まず横溝正史のそれと比較してみることにして、昭和20年8月15日の正史は「途切れ途切れの記」によればこんな感じでした。

 桜部落の戸数は三十戸くらい、しかし、ラジオを持っている家はわが家のほかにもう一軒しかなかったので、終戦の詔勅は二軒にわかれて聴くことになった。その前日、明日の正午からかならずラジオを聴くようにという通達をきいた部落のひとたちのほとんどが、もしやと思ったのではなかろうか。私の疎開していたその村は、広島県との県境にちかく、隠すよりは顕るるはなしで、広島市の惨状がひそかに語りつたえられていたからである。
 電波の状態は最悪だった。なにがなにやらサッパリ聴きとれなかった。私のラジオを取りまいて車座になっている農民たちも、心配してときどき質問してくるのだが、聞かれる私自身なにがなにやらサッパリなのだから答えようがない。一座は次第に動揺しはじめたが、ちょうどその瞬間、私の耳をじつに明確にとらえた一句があった。
 「これ以上戦争を継続せんか……」
 ただそれだけであとはまた雑音のなかに消えてしまったが、その刹那、私は心中おもわずたからかに絶叫していた。
 「さあ、これからだ!」
 さすがにその席には戦争未亡人もいられた。子供さんたちを戦地へ送り出している親ごさんたちも大勢いた。私もそのひとたちに遠慮することは忘れなかったと思うが、両手の掌に唾せんばかりの思いに奮い立ったのを、いまでもハッキリ憶えている。時にかぞえで四十四歳、いい年齢でもあったと思っている。

 いっぽう同じ日の乱歩は、なんだか山田風太郎の『同日同刻』みたいになってきましたけど、毎度おなじみ『探偵小説四十年』によればこんな感じでした。

 保原のラジオでは、天皇のお声はハッキリ聴きとれなかったが、あとの放送や新聞で真相がわかった。それから数日間は、米軍が上陸してきて、どんな目にあわされるかわからないというので、老幼婦女は、東京から逃げ出しているという報道が、あわただしく伝わってきた。全くの混乱と国民放心の時期であった。
 そのうちに、米占領軍の方針が案外温和であることが徐々にわかってきた。略奪、殺戮、暴行など、昔の戦争から想像していたようなことは、行われていないことがはっきりしてきた。私はそのとき、大腸カタルが治らないで、骨と皮ばかりになって寝ていたのだが、その病床で、私は探偵小説はすぐに復活すると考えた。アメリカの軍人が塹壕の中で、ポケットブックの探偵小説を読みながら戦っていたということは、まだわからなかったけれども、探偵小説国のアメリカが占領したのだから、日本固有の大衆小説はだめでも、探偵小説の方は必ず盛んになると信じた。そこで、私はこの考えにもとづいて、きまっていた食糧営団の勤め口を電報でことわったものである。もっとも、食糧営団そのものが、やがて解体されたのだから、いずれにしても、就職には至らなかったのであろうが。

 正史は岡山県、乱歩は福島県、それぞれの疎開先で聴き取りにくい終戦の詔勅、いわゆる玉音放送に接してともに探偵小説の復活を確信したという寸法なのですが、正史があくまでも探偵小説の実作者として「さあ、これからだ!」と心中で掌に唾したのに対し、乱歩は実作者より一段高いところから探偵小説の復興を予測していたという印象です。正史の「さあ、これからだ!」はまさに先日神戸で行われた講演会で有栖川有栖さんがおっしゃっていた生理現象そのものであり、戦時体制という抑圧から解放された探偵作家の喜びと意気込みを端的に示す言葉であると思われますが、乱歩はもう少し冷静に「探偵小説はすぐに復活すると考えた」と探偵小説界全体を視野に入れたいかにも斯道の第一人者らしい反応を見せています。ただし意地の悪い見方をするならば、乱歩はこの時点で探偵小説の実作者であることを降りていたといえるのかもしれません。



ご破算で願いまして葛藤かける弾圧では
2009年12月2日(水)

 ウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」です。10月3日のトーク&ディスカッションで喋った内容からどんどんどんどん逸脱し、なんかもう暴走してるとしかいいようがない感じです。ひたすら突き進むことにいたしまして、乱歩の戦後と正史の戦後、どちらにも有栖川有栖さんのおっしゃる生理現象がもたらされはしたのですが、その現象には微妙な差異がありました。

 抑圧から解放された正史は脇目も振らず探偵小説の執筆に向かいます。保存してあった書き損じの原稿用紙を糊と鋏で再生する作業に没頭し、頭のなかでは「本陣殺人事件」や「蝶々殺人事件」の構想を練りに練り、岡山県の疎開先でいまや遅しと原稿依頼を待ち侘びます。いっぽう乱歩の場合、戦時体制の消滅はそのまま創作意欲の爆発には結びつきませんでした。むろん戦時体制は乱歩における探偵小説への希求を抑圧してはいたのですが、そうした抑圧とは関係なしに乱歩の創作意欲は減退しきっていたと見るべきでしょう。それに戦時体制による抑圧ということでいえば、乱歩はむしろみずから進んで戦時体制に同化してしまったみたいなところがあり、同化の結果として「偉大なる夢」という長篇まで書きあげているのですから、事情はなんだかややこしいことになってきます。

 このあたりのややこしい事情について、野崎六助さんの『北米探偵小説論』(双葉文庫)にはこんなふうに述べられています。

 乱歩は、それまでの創作生活の道往きで、筆を投げ捨てて放浪の旅に蒸発してしまおうとする衝動を、何度か体験してきた。きっぱり筆を折るのでなく、未練がましい苦悩が、周期的に襲ったのである。創作のゆきづまりといえば月並みだが、乱歩の中で、自己の資質に対する蟻地獄にも似た焦燥と、日本探偵小説のあるべき姿に対する抱負と、二つのものが常に葛藤していたようだ。後者の理想が勝てば、望まれる作品を自分が生産していないことの自己嫌悪となって書けなくなり、そこを脱すると力強い開き直りになって、「エロ・グロ長篇」を書き飛ばして「大衆に迎合する方向」に走ってしまう。初期の輝くばかりの名作群を書いた後、大ざっぱにいえば、乱歩にとって、こうした循環が常態になったようである。
 そこに「弾圧」という変数が加算される。
 先ず「芋虫」(二九年一月)が発禁になったことを皮切りに、乱歩の名は怪奇変態作家の要監視人物として、内務省図書検閲室にその不逞売国ぶりを喧伝したといわれる。《……選集の続刊中、しばしば内務省より出版社を通じて、旧作品の改訂を命ぜられ、同じ部分について再三訂正を強いられ、ほとんど前後の脈絡を失うような個所も生じたのであった》という具合に、圧迫は陰険さを増し、ついに不逞度の高いと判断した幾冊かの本を、自ら供物として、《自ら進んで絶版に附》さねばならなかった。結局、最後には、全部が絶版となるのであったが。
 職業的文筆家としては生殺し状態に置かれながらも、一個の臣民たる自覚のもとに、かれは転身を行う。
 乱歩の転身は、戦争が始まった以上、国家の命運に賭けて勝利をめざさねばならぬ、との曲折である。庶民としての協力である。翼賛壮年団の指導者たる責任感に燃え、几帳面に計画的な活動を率先し、そればかりでなく自宅の庭を国策農園として「開墾」する、という生活人のたくましい一面をも自ら発掘する。オルガナイザーの健康さに充ちあふれているような歳月だったのだろう。ごく平均的な大衆レベルの転向と思えるが、大切な点は、前述の葛藤がこの転身によって見事に解決されてしまったということだ。
 乱歩の決意は「前非を悔いて再出発をする」姿勢にあった。これによって、《人みなの夢せぬ夢を夢見つつ》閉めきった土蔵にろうそくをともして創作するという伝説的な変格探偵小説の妄想を清算し、もって葛藤する二点の一つの消滅において、葛藤そのものも一挙に清算した。解決不能に思えた神経症的な循環は一掃され、創作のゆきづまりも一天にわかに晴れ渡るように打開された。そればかりか、そもそも創作欲そのものすらも、きれいに清算されてしまったのではないかと推測してみたくなる。要するに、我慢のない子のように筆を投げ捨てて放浪の旅に出たことの代用を、翼賛の奉仕は果したのではないだろうか。当然このほうが、放浪者になるよりも時局と臣民の道にかなっているようである。
 このようにして日本探偵小説は社会化したのだ。自己の全面清算的な否定において社会化したのだ。乱歩は、スパイ小説、暗号小説なる課題の提唱を行っているが、これは探偵小説のあるべき抱負を持ち続けている脈絡で語ったにしては、あまりにも無原則なおもいつきであり、前非を悔いた、ただの迎合言辞と解すべきだろう。それは戦後には一転して、「抹殺」扱いにされた戦中の迎合小説が、充分証明していると思われる。

 長々しい引用になってしまいましたが、要するに戦争のせいで乱歩は普通の社会人になってしまったんじゃね? 創作意欲なんて雲散霧消してしまったんじゃね? というわけです。ありだと思います。それ以前から存在していた創作上の「葛藤」に「『弾圧』という変数が加算され」、なんだか化学反応みたいにして「清算」がなされてしまったのではないかというのは、とても面白い指摘だと思います。



ギリギリという歯ぎしりみたいな音の年
2009年12月3日(木)

 本好きな諸兄姉の一部でささやかな話題になってるみたいな「出版社占い」。さっそく試してみるとこれがなかなかに面白い。生年月日にもとづくだけの占いなのですが、人間の性格を岩波書店タイプとか白夜書房タイプとか出版社に重ねているところがいわゆる味噌で、試しに1894年10月21日、つまり乱歩の生年月日で占ったところ日経BPタイプと出てきました。妙に頷かれるところがありますから不思議なものです。

 出版社占い:Home

 面白いから転載しておきましょう。

あなたは日経BPタイプです!

 日経BPは、各種産業の専門誌を中心に、関連分野の書籍やビジネス書なども刊行している出版社。さまざまな分野に特化した刊行物の数々は、多くの技術者や専門家の方々から高い評価を得ています。
 あなたは、ひとつの物事にいったん興味を持ち出すと、それを学究的に極めないと気が済まない、ややオタク的な研究者タイプ。対象となるものへの深い愛情と並外れた集中力により、プロフェッショナル的な知識・技能が求められる分野で才能を発揮します。また、一見疑り深く見えがちですが、実は人と一度仲良くなると、非常にフレンドリーで濃密な交遊関係を求める一面も備えています。その反面、視野が狭くなりがちであり、専門的な知識はあるけれども、一般的には「常識はずれ」な部分が出てしまいがちです。また、プライドも非常に高く、人に負けること、特に口で論破されることをひどく嫌がる面もあります。自分は井の中の蛙である、という謙虚さを持つことが重要です。
 なお、恋愛で言うと一番ストーカーになりやすいタイプでもありますので、注意してください。

代表的刊行物:日経ビジネス、日経コンピュータ、日経パソコン、日経コミュニケーション、日経エンタテインメント

 占いなんてのはどうにでも解釈できる曖昧なことを並べておけば占われたほうが自分に引きつけて勝手に得心し、あッ、当たってるッ、えッ、えッ、なんでわかるのッ? とひとりよがりにびっくりするだけの話なのであろうとは思うのですが、たとえば「ひとつの物事にいったん興味を持ち出すと、それを学究的に極めないと気が済まない、ややオタク的な研究者タイプ」なんてのはそのまま乱歩に当てはまってる感じがいたします。

 ちなみに私はマガジンハウスタイプでした。

あなたはマガジンハウスタイプです!

 マガジンハウスは、旧名である平凡出版の頃から、ファッションや社会風俗における最先端の流行を作り出してきた出版社です。「an an」「POPEYE」「BRUTUS」などの代表的雑誌が、1960年代以降の若者たちに与えてきた影響は計り知れないものがあります。
 あなたは誰からもかっこいい、と思われる洗練されたお洒落さん。身だしなみに気を遣いますし、社会的な礼儀もわきまえています。また、新しいものには目がなく、興味を持ったものは何でも試してみる、行動的な一面もあります。加えて、創造的な才能という面でも抜きん出ています。クリエイティブな仕事に非常に向いた資質を持っていると言えるでしょう。しかし、筋が通らないことは納得がいかない頑固者で、また自分のしたいことしかしないという、ややわがままな面があり、「変人」というレッテルを貼られがちですが、むしろそれを嬉々として受け入れている感があります。また、実際の内面より悪ぶったり、軽い人ぶったりしてしまう偽悪的な一面もあります。そんなあなたを理解してくれる人はごく少数であり、心の中は常に孤独です。まず、偽悪ぶるのは止めて、もっとありのままの自分で人と向き合うようにすることが重要です。
 なお、非常に飽きっぽい一面もありますので、注意してください

代表的な刊行物:an・an、Hanako、POPEYE、BRUTUS、Kunel

 それでは頑固者でわがままで変人というレッテルを貼られながらも嬉々としてそれを受け入れ、それにしても変に当たってるような気もしますから困ったものですが、悪ぶったり軽い人ぶったり偽悪的で孤独な人生を歩んでる人間が飽きっぽさに注意して飽きることなく延々とくりひろげているウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」、お手許の配付資料をご覧いただくことにして、11月16日に掲載したものを再掲しておきます。

 乱歩ファンならよくご存じのところを確認しておきます。

 江戸川乱歩の戦後

 戦後の乱歩がまず手がけたのは探偵雑誌の企画でした。「EQMM」の向こうを張った「江戸川乱歩・ミステリー・ブック」として「黄金虫」という雑誌を発行するべく画策したのですが、結局は頓挫。探偵作家クラブを結成したり関西方面へ探偵行脚に出かけたり探偵小説興隆のために奔走尽力はするのですが、肝腎の創作のほうは長く手つかずの状態がつづきました。これは創作よりも探偵小説復興のための活動を優先させたということではなくて、やはり創作意欲というか創作力が減退していたからこうした仕儀に至った、至ることを余儀なくされた、至らざるを得なかったのだと見るべきでしょう。創作面において横溝正史のような生理現象はついに訪れなかったということです。

 戦後の長篇探偵小説

 乱歩が創作に手をつけられないでいるあいだ、戦後の探偵小説界はいったいどんなことになっていたのか。大変なことになっていました。横溝正史は本陣と蝶々を同時進行で書きあげるという掛け値なしの神業を見せてくれるわ、のみならず獄門から八つ墓と怒濤の快進撃をつづけてくれるわ、そうかと思うと高木彬光という驚異の新人が乱歩のもとにいきなり刺青の原稿を送ってくるわ、それでも足りずに坂口安吾が乱歩も出席した「新小説」の座談会で宣言したとおり不連続をひっさげて探偵文壇に殴り込みをかけてくるわ。昭和24年、「新青年」で「探偵小説三十年」の連載が始まった時点ですでにそれだけのことが起きていたわけで、探偵小説界はなんかほんとに大変でした。そしてその昭和24年、ようやく小説の筆を執った乱歩がどんな作品を書いていたのかというと、夜の銀座にギリギリという巨人の歯ぎしりのような音が、みたいなものだったわけですから、乱歩は決して穏やかであったり安閑としたり、そんな状態ではまったくなかったのであろうなと推測される次第です。



喜びを感じ祝福を贈り短刀を送りつける
2009年12月4日(金)

 戦後の乱歩はほんとに大変だったと思います。どう大変であったのか。当サイトでは何度もつかいまわしているネタですが、小林信彦さんの『小説世界のロビンソン』からかつて引いたところを再度引用しておきます。ちなみにこの本、1989年に新潮社から出たあと1992年に新潮文庫、2004年には『面白い小説を見つけるために』と改題されて光文社の知恵の森文庫に入っています。

 連載が終ると、すぐに、江戸川乱歩の「『本陣殺人事件』を評す」が「宝石」にのった。この批評は、「本陣殺人事件」にささげられたこの上ない花束であると同時に、戦後の日本の推理小説の方向を決めた重要な一石であった。

 ……これは戦後最初の推理長篇小説というだけでなく、横溝君としても処女作以来はじめての純推理ものであり、又日本探偵小説界でも二、三の例外的作品を除いて、ほとんど最初の英米風論理小説であり、傑作か否かはしばらく別とするも、そういう意味で大いに問題とすべき画期的作品である。

 右のような前置きで始まる乱歩の批評は、推理小説評の王道を行くものであった。
 それから二十八年後の一九七五年に、ぼくは横溝氏と長い対談をおこなったが、当然、この批評の話が出た。氏は、こう語っている。

 「乱歩(は)、あれ(を)発表する前に送ってくれましたよ、原稿を。『こういうものを書くんだが』って。もう、ぼくは異議はないわね」

 活字になったものでは、このあとの一行が削られていた。それは、次のようなものであった。──ぼくは、短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとしたよ。
 この意味を理解するには、若干の予備知識を要する。

 大阪薬専を卒業して神戸の薬局の若主人役をつとめていた横溝正史を東京に呼び、森下雨村にすすめて、当時の大出版社である博文館に入れたのは、江戸川乱歩である。大正十五年の話だ。乱歩・正史のあいだに、兄・弟的な感情があったといっても見当ちがいではあるまい。
 翌昭和二年、「新青年」編集長になった横溝正史はアメリカ的モダニズムを誌面にとり入れる。のちの作風によって誤解されているが、横溝正史はかけ値なしのネアカ人間であった。一方、かけ値なしのネクラ人間である乱歩は「新青年」にモダニズム、ナンセンスが入るのを好まなかった。

 ネクラの兄とネアカの弟が、人嫌いの作家と気鋭の編集者になれば、ネクラの兄はいよいよ屈折してゆくはずで、しかし、この心理劇は、横溝正史の結核発病によって、とりあえずの幕がおりた。

 敗戦と同時に、乱歩は、探偵小説の理論家として、指導的立場に立ち、新風を求める。ところが、(乱歩理論の)実作第一号として登場したのは、ほかならぬ横溝正史だったのである。そして、第二幕の主役は、衆目のみるところ、横溝正史であり、乱歩には実作がなかった。その乱歩が、横溝作品を認めることの苦痛と喜びが、乱歩の性格を知り尽している正史にわからぬはずがない。短刀を送りつけられたように感じて、ぞっとした、という言葉には実感があった。(「蝶々殺人事件」「獄門島」を立てつづけに書いたこの作家には、第三幕とでもいうべき晩年のブームがあるのだが、ここでは触れない。)

 何が大変かといってこの「苦痛と喜び」ほど大変なものはそうそうないでしょう。「本陣殺人事件」という傑作の登場に、ひとりの読者としては喜びを感じ、探偵小説の第一人者としては祝福を贈りながら、探偵小説の実作者としては絶望的なほどの、思わず作者に「短刀を送りつけ」てしまうほどの苦痛を感じる。こんな地獄はめったにないのではないかと思われます。



古い上着にさようならをするリスタート
2009年12月6日(日)

 横溝正史の証言をもう少し見ておきましょう。小林信彦さん編の『横溝正史読本』(角川文庫)から正史と小林さんの対談を引用。高木彬光の『刺青殺人事件』を話題にしたくだりです。

小林 あれの発売は二十三年の六月だったと思いますね。
横溝 ぼくが疎開先から帰る前ですからね。疎開先に本が来ました。あのトリックはちょっと……乱歩が書けなくなったのは、あのせいだと思うよ。ぼくはいつかそのことを書くつもりなんだけどね。乱歩は一年に一作書くつもりでいたの。
小林 それは非常に重大な事実ですね。
横溝 どうして書かないのって聞いたら、『刺青殺人事件』のトリックをもらえたらぼくは書けたと言ったね。それで高木くんにその話したの。そんな話あったのかって聞いたら、とんでもない、そんな話ありませんって。だから、その話譲ってくれっていう話はなかったんですね。しかし言ってみれば、乱歩の残虐趣味、官能主義、ぴったりだわね。だから高木くんにそのこと言ったよ、乱歩さんはもうこれは書けんぜって。書けないとしたら、あなたのせいかもしらんよって、高木くんに言ったこと憶えてる。

 ついでですから彬光令嬢、高木晶子さんの『想い出大事箱』(出版芸術社)に収められた「乱歩に筆を折らせた男」からも引用。上に引いた横溝の証言を受けて、晶子さんはこんなふうに記していらっしゃいます。

 母は父と初めて乱歩邸を訪れたとき、乱歩先生が廊下の電話で横溝先生に「こんなの書く人が出てきたら我々はもう書けんなあ」と話すのを聞いたという。

 高木彬光が乱歩に筆を折らせたかどうかはともかくとして、乱歩が探偵小説を書けなくなっていた、というか書けなくなっていると傍目には見えていたというのは事実でしょう。ならば乱歩は何をしていたのか。戦争が終わるや否や「探偵小説国のアメリカが占領したのだから、日本固有の大衆小説はだめでも、探偵小説の方は必ず盛んになる」と確信した探偵小説の第一人者は、かりに探偵小説そのものを創作することはできなかったとしても、いったい何をしていたのか。

 戦後のエッセイから適当に拾ってみたいと思います。まず昭和21年9月に発表された「推理小説随想」から。

 探偵小説という言葉は、日本では少し広い意味に使われすぎていて、本来の探偵小説とか本格探偵小説とか余計な形容詞をつけて、そうでない作風と区別する慣わしになっているが、本来の謎と論理の興味を主眼とする探偵小説を「推理小説」と呼べば、そういう面倒が省け、意味もハッキリして来るのではないかと思う。殊更ら異を立てるのではなく、単に便宜の為に「本来の」とか「本格」とか余計な文字を使う面倒をさけるために、本稿では姑く「推理小説」という名称を使いたいと考える。

 戦後になっても得たりやおうと探偵小説を書くことはできなかったにしても、乱歩はやはり探偵小説のことを考えていたわけです。より具体的にいうならば、探偵小説のリスタートを考えていました。曖昧になってしまっていた探偵小説の輪郭をくっきりさせるため、それこそ探偵小説の定義と類別と呼ぶべき問題に正面から向き合って、「本来の謎と論理の興味を主眼とする探偵小説」を「推理小説」と呼ぶことにすると提唱したのも、リスタートに寄せた意気込みのあらわれにほかなりません。リスタートのためには当然のことながらそれまでの検証とか反省とかが必要になるわけなのですが、乱歩は同じく昭和21年9月の「探偵小説の方向」にこう記しています。

 戦争中人々は西洋の没落を説き、合理主義を蔑視し、東洋の直観主義を謳歌した。しかし、このことあげせざる直観主義は西洋の合理主義、科学主義の前に敗れ去ったのである。われわれは今深い反省途上にある。この反省より生れ来たるものが非合理性の方向にある筈はない。私は俳諧、茶の湯、墨絵の直観主義を決しておろそかに思うものではない。しかし小説は俳文や日記ではないのであるから西洋流に構成のある文学がもっと目ざされなくてはならない。大工の勘によって建てられる自然木の家屋ではなくて、精密な設計製図に基づいて建てられる鉄筋コンクリートの建築、そういう作品が企図されなくてはならない。探偵小説についても同様である。いや探偵小説こそ、その構造性と論理性を不可欠の条件とするものである。しかも従来の日本探偵小説には、それらのものが甚だ稀薄であった。むしろ論理性を軽蔑するが如き傾向すらあった。
 しかし敗戦一年、反省途上にある日本人の嗜好は少しずつ変化して来たかに感じられる。戦前には見られなかったほどの勢で探偵小説が要望されている。しかも所謂変格ものではなくて純推理小説への要望である。この嗜好の変化と探偵雑誌の非常な売行きは、論理小説の前途に大きな希望を抱かせるものである。
 私はこのごろ無名新人の原稿を見る機会が多いのであるが、そういう作品の大多数が純推理小説を目ざしている。その中には従来見られなかったような優れた作も散見し、近い将来には少なからぬ新人が世に出るのではないかと期待される。旧人の努力も無論望ましいのであるが、一層期待されるのは有力な新人の出現である。日本探偵小説を革命するが如き新人の擡頭である。私は今論理探偵小説の黎明を感じている。そういう機運が澎湃として動きつつあることを、身辺のあらゆる事象の裏に感じている。

 西洋の合理主義に対するほとんど盲目的な拝跪をはじめとして、なんだか乱歩らしからぬこわばりの感じられる文章ですが、ここには当時の時代風潮が反映されていると見るべきでしょう。時代風潮とは、ひとことでいえば「反省」です。価値観の転換あるいは再編成によってリスタートしなければならないというそれこそ盲信のようなものは、探偵小説界のみならず日本社会全体の潮流としてまさしく「身辺のあらゆる事象」を巻き込んでいたと思われます。乱歩がこれらのエッセイを書いた三年後には石坂洋次郎原作の映画「青い山脈」が公開され、同題主題歌が日本全国津々浦々で愛唱されることになります。リスタートの気運はその主題歌にも反映されていて、ふっるーいうわぎよさーよーならー、という歌詞が当時のいってみれば国民的気分を高らかに歌いあげたりなんかもしていたわけなのですが、ここにおいて乱歩にとって問題だったのは、というか乱歩にとってとても大変だったのは、さようならを告げられる古い上着、それこそが探偵小説界における戦前の乱歩作品にほかならなかったということでした。



願はくは花の下にて春死なんとぞ思うぞ
2009年12月7日(月)

 いやー、まいった。ほんとにまいった。なんかつらいなあ実際。師走に入ってからのお葬式にはひとしお身に沁みるものがあるなと思ったのがきのうのこと。縁戚に不幸があっておとといがお通夜、きのうが告別式、どちらにも顔を出したのですが、寒さとは別に惻々と身に迫ってくるものを覚えました。やっぱ、願はくは花の下にて春死なん、だよなあとか思っておりましたところ本日、年末恒例年賀欠礼の葉書が一枚舞い込みました。大阪にある飲み屋のママが今年6月に亡くなっていて、つまり私はきょうのきょうまでそれを知らずにおり、店のスタッフが出してくれたその葉書で初めて訃報に接したという寸法なのですが、考えてみればその飲み屋にはずいぶん長くご無沙汰していました。去年の秋、店の開店三十五周年を祝福するパーティが大阪のホテル阪急インターナショナルで催され、むろん出席するつもりではいたのですが、直前に右膝を痛めてまともに歩けなくなったせいで欠席してしまいました。その旨を電話で伝えると、パーティの翌日でしたか翌々日でしたか、店のお客さんから聞いたという膝の疾患を治す入浴法、電話で丁寧に教えてくれたあのママがもうこの世の人ではないのか。不義理を重ねたこの身の愚かしさがほんとに身に沁みます。いやー、まいった。

 気を取り直してウェブ版講座、きょうはあっさりおしまいにいたしますが、本日は昭和22年の「一人の芭蕉の問題」から引用いたします。乱歩は自分がデビューして以来の日本探偵小説史をこんなふうに概観しました。概観とも呼べぬほど短いくだりですけど。

 私は戦争中から戦後にかけて、英米の著名の長篇を従来になく多量に読んだが、読めば読むほど、日本の探偵小説は世界の主流とはひどくかけ離れていることを、段々強く感じて来た。我々は嘗つて英米の探偵小説に刺戟を受け、当初はそういう方向を目ざして出発したのであるが、まだ本来の探偵小説を卒業しない前に、いつの間にか傍道にそれてしまっていたのではないか。日本の探偵小説に今必要なものは文学論ではなくて(それはある程度持っているのだから)却って探偵小説論ではないか。そして、今一度本街道に立戻り、本来の探偵小説、殊に長篇探偵小説に於て、英米の傑作と肩を並べ或はそれを凌駕するが如き作品を生まなければならない。私は終戦後探偵小説復興の機運を見た時、この事を最も強く感じていたのである。

 「一人の芭蕉の問題」は木々高太郎が探偵小説芸術論などというわけのわかんないおだをあげ、それに乗じて「活溌な論争」をお膳立てしようと目論んだ「ロック」編集部の慫慂によって執筆されたものです。論争なんてのは不毛という言葉とワンセットになっているのが通り相場なわけですから、見るべき成果は残るべくもなかったわけなのですが、乱歩はこのエッセイにおいて探偵小説を曖昧に膨張させようとする木々説に抗して逆にくっきりした輪郭を与えようとし、その過程で日本の探偵小説は「いつの間にか傍道にそれてしまっていた」という認識を吐露するに至ります。むろんこの認識の背後には、日本の探偵小説を「傍道」に逸れさせ「本街道」から遠ざからせてしまったのは自分であるという自覚があったはずです。



乱歩はもうひとつの敗戦を経験したのか
2009年12月8日(火)

 「一人の芭蕉の問題」で乱歩はほとんど懺悔してたわけです。日本の探偵小説が「傍道」に逸れてしまっていたという事実を認め、もちろんそれを導いたのは自分であるとまでは記していませんけれど、書かれてなくったって読んだ人間には戦前の探偵小説が「本街道」から遠ざかったのは乱歩のせいだという認識が普通にあったのではないかと思われます。戦前のエッセイに照らしてみても、終戦直後の懺悔の気配は濃厚に浮かびあがってくるはずです。たとえば昭和10年に発表された「日本探偵小説の多様性について」で、乱歩はこんなことを述べていました。

 論理的探偵小説はあくまで論理に進むのがよい。犯罪、怪奇、幻想の文学は、作者の個性の赴くがままに、いくら探偵小説を離れても差支はない。そこに英米とは違った日本探偵小説界の、寧ろ誇るべき多様性があるのではないか。

 英米から輸入された探偵小説が日本の風土で多様な発展を見せているのは誇るべきことである。それが乱歩の主張でした。論理性に重きを置いた「本街道」を進むのもひとつの選択ではあるけれど、「傍道」の多様性もまたよしとして肯定してるわけです。というよりも乱歩は、なんだか「本街道」を多様性のなかに埋没させようとしているとさえ見えます。ところがわずか十年ちょっとで、主張はきれいに覆ってしまいました。昭和21年の「推理小説随想」や「探偵小説の方向」で「本来の探偵小説」や「論理探偵小説」への回帰を表明し、翌22年の「一人の芭蕉の問題」では「本来の探偵小説、殊に長篇探偵小説に於て、英米の傑作と肩を並べ或はそれを凌駕するが如き作品を生まなければならない」と宣言した乱歩は、戦前の日本で花開いた探偵小説の多様性を、つまりはみずからの作品を否定せざるを得なくなりました。ひとりの探偵小説作家としてだけではなく、余人をもって替えがたい探偵小説界のリーダーとして、終戦直後の乱歩はひそかに懺悔をくり返していたと見るしかありません。

 突拍子もないほどおおげさなことを記しておきますと、ここにもうひとつの敗戦があったのだと私には思われます。乱歩の敗戦。英米の探偵小説から刺戟を受け、英米何するものぞという気概で探偵小説を書き始め、探偵文壇の中心に変わりなく位置を占めつづけ、日本独自の探偵小説が百花繚乱の観を呈するのを喜び、英米の探偵小説に果敢な戦いを挑んでいたつもりではあったのだけれど、本当の戦争が始まって探偵小説を書く場が失われ、暇に飽かせて英米作品を読みまくってみると、あ、と思わざるを得なかった。やっぱ探偵小説ってのは本格じゃなくちゃな、と思い知らざるを得なかった。それが乱歩の戦前戦中であって、すなわち実際の戦争が終わるまでに乱歩はすでに敗戦していたというわけです。英米の軍門に降り、論理性や合理主義に拝跪していたわけです。乱歩だけのもうひとつの敗戦。乱歩はたしかにそれを経験していたのではなかったか。

 当時の日本社会の雰囲気なんてやつも考慮しておくべきかもしれません。戦争に負けて、一般の日本人はどんなふうに思っていたのか。われわれは騙されていた。そんなふうに思っていたような気がいたします。政府や軍部に騙されて間違った戦争に駆り出され、なんとも惨めに負けてしまったけれど、悪かったのは国民をミスリードした指導者である。われわれはむしろ被害者である。民主主義万歳。日本人はそんないい気なことを考え、戦争責任なんてどこ吹く風、被害者面さえ決め込んでればこの世はOKさと漠然と思っていた、と書いてしまうとずいぶん乱暴な話になってしまいますけれど、もしもそうした空気が支配的であったのだとしたら、探偵小説界にも同質の空気が漂っていたと考えることは充分に可能でしょう。日本の探偵小説をミスリードしたのは乱歩であるなどと公然と糾弾した人間はいなかったとしても、戦前戦中のいわば指導者であった乱歩を戦犯と見做す傾きがまったくなかったとはいいきれません。かりになかったのだとしても、「一人の芭蕉の問題」に記されている「終戦後探偵小説復興の機運」、つまり乱歩が感じ取った本格探偵小説への希求の高まりそのものが、みずからに対する無言の批判として乱歩に迫ったのではなかったかと考えられる次第です。



それでも第一人者であろうとしつづけた
2009年12月9日(水)

 きのうのつづきですが、終戦直後の乱歩はほんとに大変だっただろうなと思います。探偵小説の第一人者として君臨しながら、探偵小説の「本街道」である英米風の本格探偵小説を書くことができない。自分にはその資質がない。自分が想像力の赴くままほかの作家には思いもつかぬような作品を書ける場は、むしろ豊饒な多様性を許容していた戦前の「傍道」においてであった。それを苦々しく自覚しながら、それでも乱歩は第一人者でありたかった、あろうとしつづけたのだと思われます。だからいわゆるストレスみたいなものも半端ではなかったことでしょう。

 戦後の乱歩は人が変わったみたいだったという証言があります。戦前と打って変わって社交的になったという話ではありません。何度もつかいまわしているネタですが、横溝正史の「『二重面相』江戸川乱歩」から引用。

 昭和二十二年十一月中旬乱歩は、岡山県の片田舎へ疎開中の私を訪ねてきている。関西へ探偵小説遊説行脚へ出たついでに、神戸の西田政治を伴って岡山まで脚をのばし、たしか拙宅で三晩泊っていったと覚えている。このことは「探偵小説四十年」にも出てくるが、私は乱歩が訪ねてくる以前、東京方面から水谷準といまは亡き海野十三と、それぞれ警告の手紙を受け取っている。文面はもちろんちがっているが、内容はいずれもおなじようなもので、乱歩がそちらへいくそうだが、戦後の乱歩はすっかり昔とちがっているから、十分気をつけるようにとの意味であった。
 では、戦後の乱歩はどう変ったのか。それから二十年ちかくもたち、乱歩逝ってしまったいまとなって当時をふりかえってみると、乱歩はべつに変ったわけではなかったし、また人間というものがそうむやみに突然変異を起すわけのものでないことが頷けるのだが、しかし、一方からいえば、終戦直後の昭和二十一、二年のその時点では、乱歩はたしかに変ったかのごとき印象を、旧くからつきあってきた友人たちに与えたのは事実であった。
 乱歩はおそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり、昔から人を引っ張っていく力を持っていた人物なのだが、その引っ張りかたに以前のような当りの柔かさが欠け、強引一方になっていたらしい。ここに、らしいと書いたのは幸か不幸か、その当時、乱歩と私は遠く東京と岡山とに離れていて、接触する機会がほとんどなかったからである。たった一度持った接触の機会が、乱歩の岡山訪問なのだが、そして、それ故にこそ水谷準や故海野十三が、私の戸惑いや失望をおそれてあらかじめ警告を発してくれたのだが……。

 水谷準や海野十三といった乱歩に親しい作家から正史に寄せられた警告は、端的にいえば乱歩がひどく虚勢を張るようになったから注意するようにということだったと思われます。それはおそらく戦前からひきつづいて探偵小説の第一人者でありつづけるための、意地の悪いことをいえば英米風の本格探偵小説を書けないにもかかわらず第一人者でありつづけるための、乱歩にとって不本意ながら不可避の虚勢であったと理解することが可能でしょう。要するに乱歩は、やっぱとてつもないほど大変だったというわけです。



本格至上主義は神を妖怪に零落させるか
2009年12月11日(金)

 おんなじことばっか記しているような気がいたしますが、とにかく戦後の乱歩は大変でした。とはいえ、「江戸川乱歩・ミステリー・ブック」と銘打った雑誌の企画こそ水泡に帰しはしたものの、昭和21年には「ロック」「宝石」「トップ」「ぷろふいる」「探偵よみもの」と探偵小説専門誌が競い合うように揃い踏みして、なかでも3月に創刊された「宝石」は乱歩のホームグラウンドとなった観があり、8月号からは「幻影城通信」の連載がスタートしました。つまりいわゆる評論活動では乱歩にも有栖川有栖さんのおっしゃる生理現象が訪れていたわけで、のみならず翌22年には探偵作家クラブを結成したり関西方面へ探偵小説行脚に出かけたり、要するに創作を除くすべての場で乱歩は探偵小説界の第一人者として遺憾なく存在感を示していたといえるでしょう。しかし、肝腎の創作ができません。

 「一人の芭蕉の問題」は昭和22年の「ロック」2月号に発表されたものですが、そのころ横溝正史は「本陣殺人事件」なんてとっくに書きあげ、「蝶々殺人事件」の連載もそろそろ終盤、いっぽうでは「獄門島」に着手していて、探偵小説の創作における第一人者として獅子奮迅の活躍を見せていました。ですから意地の悪いことを推測しておきますと、実作の第一人者は正史であると衆目が一致しつつあったこの時期、乱歩が第一人者でありつづけるためには評論や講演、あるいは探偵文壇の組織化といった方面をしっかり固めてゆくしか道がなかったのではないかと思われます。

 当時の乱歩は本格至上主義とでも呼ぶべきものを唱導していました。そうした主義に照らせばそれまでの乱歩作品は決していいお点を貰えず、たとえば乱歩長篇の最高傑作として推す人も多い「孤島の鬼」は残念ながらというか喜ぶべきことにというか、いずれにせよ本格探偵小説なんかではまったくなかったというしかありません。そういえば奇しくもきのうが命日でしたから、というわけでもありませんけれど、創元推理文庫『孤島の鬼』に中井英夫が寄せた解説「喜びと不安と──乱歩と英太郎と」から引いてみましょう。

 『孤島の鬼』が探偵小説として殊に興味深いのは、二つの不可解な殺人事件が全体の三分の一ぐらいで始まり、すぐ解決されて終る点にある。つまり後の三分の二は、より以上のどす黒い、胸の悪くなるような“人外境”の物語なのだ。しかしそれだけに、それがどんなに輝かしい悪の魅力に充ちていることか。

 探偵小説の枠からはみ出してしまった「“人外境”の物語」のこそが「孤島の鬼」の魅力だというわけで、それは本格至上主義なんぞには永遠に到達できない魅力でもあるのでしょうけれど、しかし戦後の乱歩は本格至上主義を唱導する道を選びました。したがってみずから論理性に重きを置いた英米風の本格探偵小説を執筆して範を示すことの必要性重要性は身をよじるほどの思いで痛感していたはずなのですが、しかし書けない。どうしても書けない。その焦慮や懊悩はいかばかりであったかとこちらの胸まで痛んでくるような感じがいたします。

 フロイディストだった乱歩がフロイトの「不気味なもの」を読んでいたかどうかはわかりませんが、かりに読んでいたとしたら自分の作品がフロイトのいう不気味なものになってしまうのではないかという不安さえ覚えていたかもしれません。かつて慣れ親しんでいたものが抑圧を経て今度は不気味なものとして立ち現れてくるというあれなわけですが、本格至上主義という新たな価値観によって日本の探偵小説を体系化した場合、乱歩の戦前作品は決して高次な価値を付与されることなくまさしく不気味なものとして位置づけられてしまうのではないか。あるいは柳田國男風にいえば、かつて神の位置にあった乱歩作品が再編された新しい価値体系のなかで妖怪に零落してしまうのではないか。乱歩にはそんな怯えすらあったのではないかと思われるのですが、それでも乱歩は本格至上主義の旗を掲げ、しかし創作には着手できず、にもかかわらず探偵小説の第一人者でありつづけようとしていたのであると、なんかもうばかみたいにまいんちまいんちおんなじことばっか書いてるなと自分でも呆れながら、きょうもそのように書き記しておきたいと思います。



オートバイオグラフィにはまだ早すぎる
2009年12月12日(土)

 そんなころのことでした。昭和24年の初夏あたりだったのではないかと推測される次第ですが、「新青年」の編集部から乱歩に随筆の執筆依頼がありました。ちなみに戦後、乱歩は昭和21年10月号に「魔術と探偵小説」を発表しただけで、「新青年」とは疎遠な状態がつづいていました。「新青年」編集部からの唐突な依頼は、これもまた推測の域を出ないわけですが、三回連載くらいの回想記をお願いしますみたいなことだったと思われます。このあたり、光文社文庫版乱歩全集第二十八巻『探偵小説四十年(上)』に収められた新保博久さんの「解題」から引いておきます。

戦後解体される以前の博文館時代からの初代編集長・森下雨村の「探偵作家思ひ出話」の三回連載のあとを受けての登板だったが、いずれ横溝正史、延原謙、水谷準と順次登場させて、凋落の兆しいちじるしかった「新青年」としては、せめて往年の威光をしのばせたかったのかもしれない。「探偵小説三十年」は「少くとも一年はつゞく豫定」と編輯後記にあるが、その一年に満たない昭和二十五年七月で掲載誌の余命が尽きた。

 この年の「新青年」では6月号、7月号、8・9月号と三回にわたって森下雨村の「探偵作家思い出話」が連載されており、新保さんがお書きのとおりそれにつづけて乱歩や正史ら往年のオールスターにも似たような随筆をというのが編集部の意向だったと推測されます。つまり、これはとても重要なことですから声を大にして記しておきたく思いますが、編集部は乱歩に長々しい自伝を書いてもらおうなんて毛筋ほども考えていなかったはずです。当時の「新青年」はたぶん火の車で、この年の8月号が発行されず9月になって8月と9月の合併号が出ているのもその証左と見るべきだと思われるのですが、そんな雑誌が長丁場の連載を企画するわけがありません。

 それにだいたいが自伝などというものは功成り名遂げ、双六でいえばそろそろ上がりが見えてきた人間が潤色粉飾こき混ぜて舞文曲筆の限りを尽くすというのが通り相場なわけなのですが、昭和24年の乱歩はまだまだそうした境地にはありませんでした。「宝石」や「探偵作家クラブ会報」やその他あれこれの雑誌に随筆評論を毎月執筆し、とくに「宝石」では「幻影城通信」を連載中、創作のほうでも少年ものではありましたが「青銅の魔人」を手がけていて、これは夜の銀座にギリギリという歯ぎしりのような音がみたいな作品ではあったのですが、決して手抜きせず少年読者に正面から向き合った力作でした。

 年齢は五十四歳。探偵小説の第一人者として精力的な活動を展開している最中で、そんな乱歩に「新青年」編集部が自伝の連載を依頼したのだとしたら、先生もそろそろ上がりですからひとつ自伝でもいかがでしょうかといった意味合いに、つまりは執筆依頼そのものがなんとも礼を失した行為になってしまうことになりかねません。ですからまあ、ギムレットに早すぎたかどうかはわかりませんけどオートバイオグラフィには明らかに早すぎるというわけで、だとすればどう考えればいいのか。編集部から三回連載程度の回想記をと依頼を受けた乱歩が、ちょっと長くなるかもしれないけどそれでもいいかね、みたいな感じでそれを承諾し、悠揚迫らず「探偵小説三十年」の連載を開始したのだろうということになります。だからこそ編集部も「少くとも一年はつゞく豫定」と予告したわけで、だとすればさらにどう考えればいいのか。乱歩にはこのとき何かしら、三回程度の回想記ではなく本格的な自伝を書かなければならない理由があった。そういった必要に迫られていた。そんなようなことになるのだろうなと思われます。



驚くなかれハードボイルドだど古いけど
2009年12月13日(日)

 ──要するに、僕は地上でただの一人きりになってしまった。もはや、兄弟もなければ隣人もなく、友人もなければ社会もなく、ただ自分一個があるのみだ。

 というのはジャン・ジャック・ルソー『孤独な散歩者の夢想』の冒頭。青柳瑞穂訳の新潮文庫から引いたものですが、ルソーがこの最後の著作に着手したのは六十四歳のとき、すなわち死の二年前のことでした。

 いかんいかん。ほとんど関係のない話題で始まってしまいました。いったい人はいくつで自伝を書き始めるのであろうかみたいなことが気になり、思いついて手に取った『孤独な散歩者の夢想』をぱらぱら読み返していた次第です。しかし実際のところ私は自伝のたぐいにはたいして興味がなく、それは要するに自伝なんてしょせん嘘で固めたしろものに決まっておるではないかという思い込みがあるせいだと思われます。したがって自伝という言葉からまず思い浮かべた『福翁自伝』すら、私は読んだことがありません。私の父親はマルクス主義者でしたから書棚には河上肇の『自叙伝』なんかも並んでいた記憶があるのですが、私はそれを手に取ることはしませんでした。荒畑寒村の『寒村自伝』があったかどうかまでは憶えておりませんが、いずれにせよ私はそれも読んだことがなく、しかしさすがに大杉栄の自伝なら眼を通したことがあって、あれはたしか神近市子に刺し殺されそうになった大杉が病院に担ぎ込まれたところで幕を閉じる異色の自伝だったと記憶しております。

 それで岩波文庫の『自叙伝・日本脱出記』を引っ張り出してきたのですが、飛鳥井雅道の「解説」によれば大杉栄が神近市子との事件を自叙伝の一部として「改造」に発表したとき、当の神近が「豚に投げた真珠」という文章を同じく「改造」に寄稿してそれに反論したそうです。ちなみに飛鳥井はこの解説で「大杉はこうしただらしなさを〔つまり女性関係のだらしなさのことですが──引用者註〕『自叙伝』の「お化けを見た話」で弁解しているが、わたしがいかに男といえども、神近市子がこの事態を、大杉を刺し殺そうとした、いわゆる「日蔭茶屋事件」で解決しようとしたのを、うべなうものである」としています。神近市子の反論を孫引きしておきましょう。

「大杉氏の記事ではここがやや新派の芝居がかりで、『待て──』と叫んだことになつてゐるが、事実は反対に彼は大声に泣いてゐた。そしてこの瞬間に私はもうこれでよいと考へた。この男は今こそ自分でやつたことが、なにを価ひしてゐたかを知つたのだ。私は彼の全心が私に加へた欺瞞にたいして詫びてゐることを知つた。」

 おーこわ。ひとごとながらなんともおっそろしい話です。くれぐれも気をつけたいと思います。しかしたしかに大杉の「自叙伝」とこの「豚に投げた真珠」では書かれているところに大きな齟齬があり、どちらが事実なのか、あるいはどちらも事実ではないのか、そんなことは当事者でない限り知ることができないわけですが、自伝の記述がいかに危ういものであるか、うかうか鵜呑みにはできないものであるかということはまさにその一事によって了解されるものと思われます。それでこの「自叙伝」、巻末の年譜で確認したところ大杉栄が三十六歳のときに書き始めたものでした。とはいえなにしろアナーキスト、双六の上がりなんか眼中にない人生だったことでしょうし、双六そのものが上がりのはるか手前でいつ不意に終わってしまうかもわからない、というか現実に大杉栄は三十八歳で虐殺されているわけですから、人はいくつで自伝を書き始めるのであろうかという設問のサンプルとするにはこれは不向きな例であるというべきでしょう。

 ついでに書棚を眺めてみたところマキノ雅弘だの棟方志功だのの自伝もあったのですが、なんかいちいちチェックするのが面倒だなと思って手を出さず、菊池寛の『半自叙伝・無名作家の日記』と自伝とは呼べませんけれど谷崎潤一郎の『幼少時代』、いずれも岩波文庫なのですがこの二冊をちょっとひっくり返してみて、私にはいまさらながら気づかされたところがありました。ちなみに菊池寛の「半自叙伝」は三十九歳、谷崎潤一郎の「幼少時代」は六十八歳で書き始められたものですが、人はいくつで自伝を書き始めるのであろうかという疑問には人それぞれであるという答えしかないわけで、そんなことはもうどうだってかまいません。私が気づかされたことというのは何かといいますと、一般の自伝や回想記に濃厚に漂っているはずの懐旧や追慕の気配が、乱歩の長大な自伝である『探偵小説四十年』にはまったくといっていいほど感じられないということです。過ぎた時代への愛惜の念も存在しておらず、ましてや晩年のルソーにはそれしか残されていなかった孤独な追想などどこを探したって見つかりません。

 なんかもう思いっきりハードボイルドなわけです。遅ればせながら気がつきましたけど、『探偵小説四十年』というのは異様なまでのハードボイルドタッチで綴られた自伝なわけです。人間的な感情は極力抑えられていて、つまりは驚くなかれハードボイルドだど(古いですけど)。えーっとまあ、あすにつづきます。



密かに託されていたはずの政治的な意図
2009年12月14日(月)

 きのうのつづきです。つまりウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」第四講のつづきなわけですが、いまや10月3日のトーク&ディスカッションで喋ったこととはほとんど無縁な内容になっております。すっかりぶっ飛んでしまってます。乱歩の自伝をほかの人間のそれと比較してみるなんてのはきのう思いついたことですし、その結果『探偵小説四十年』がハードボイルドだと気がついたのも同じくきのうのことでした。ただし私の机にはハヤカワ・ミステリ文庫の『長いお別れ』が置かれていて、これはおとといの残日録を書くにあたって作中の「ギムレットにはまだ早すぎるね」という科白を確認するために引っ張り出してきたものなのですが、そんな本が視野の片隅にあったから『探偵小説四十年』がハードボイルドだなどと考えてしまったのかといいますとさにあらず。『探偵小説四十年』は自伝としてはやはりすこぶるハードボイルドであるとあらためて実感される次第です。

 自伝ということでいえば乱歩にはもうひとつの自伝があって、昭和11年から12年にかけて「ぷろふいる」に連載されながら結局は中絶に至った「彼」がそれなのですが、この「彼」と比較しても『探偵小説四十年』の自伝としての特殊性や異様さ、あるいはハードボイルドっぷりなんてものはくっきり浮き彫りにされてくるはずです。ですからそういった話題にぶっ飛んでゆくのがウェブ版講座のあらまほしき姿なのかなとも思われるのですが、あまりトーク&ディスカッションからかけ離れてしまうのも考えものでしょう。ぶっ飛ぶことは先送りにして「涙香、『新青年』、乱歩」の本筋に戻りたいと思います。つまりおとといのつづきなのですが、昭和24年の乱歩には三回程度の回想記ではなく本格的な自伝を書かなければならない理由があった。乱歩はそういった必要に迫られていた。そんなふうに考えざるを得ません。ならば乱歩にはどんな意図があったのでしょうか。

 それはおそらく、政治的なと形容していいような意図であったと思われます。乱歩が「探偵小説三十年」という自伝に託した密かな企図は、デビュー以来一貫して探偵小説の第一人者であったみずからの作家像を克明に描き出し、それをすべての読者の眼に鮮明に焼きつけることではなかったか。私はそんなふうに考えております。以下あした。



諦めみたいなものと確信のようなものと
2009年12月15日(火)

 昭和24年、乱歩は「探偵小説三十年」の執筆を開始しました。「二銭銅貨」でデビューした大正12年から二十六年後のことです。今年を基準に考えれば二十六年前は1983年ということになるわけですが、そんな昔のことを私はごくぼんやりとしか思い出せません。

 ウィキペディア:1983年

 たとえばウィキペディアを眺めてみて初めて、ああそうか、1983年は「写楽殺人事件」が乱歩賞を受賞した年であったかとか、「時をかける少女」が公開された年であったかとか思い出すわけですが、二十六年前の記憶そのものはいかにも茫洋としているなということがあらためて実感されもします。それはそれとして「時をかける少女」は公開当時わざわざ大阪まで観にいったもので、そのとき映画館で買ったのかどうかいまでは判然としないのですが、私の書斎には長くその映画のポスターが貼られていたものでした。原田知世ちゃんはほんとに可愛かったからなあ。

 いかん。懐かしさのあまり不覚にもむせび泣いてしまいそうになったではないか。とにかく二十六年前というのはずいぶん昔のことですから、昭和24年には乱歩のデビュー当時をよく知らない読者ないしは世代というのも普通に存在していたでしょうし、乱歩といえばなんとなくエログロという印象を抱くに至っていた一般人もたぶん多かったものと思われます。二十六年前の探偵文壇事情を知るためのよすがとなるものもなかったはずで、乱歩が自伝を書くことは当時の読者に日本初の本格的な探偵小説史を提供するということでもありました。その点は乱歩も自覚していて、「探偵小説三十年」の「はしがき」にこう記しています。

 実をいうと、私は西洋探偵小説史と日本探偵小説史の相当詳細なものを書き、いろいろな写真なども入れて二冊の厚い本を作りたいという野心を持っていて、その資料は日頃から心がけて集めているのだが、書誌学的に正確な遺漏のないものを作ろうとすると、非常に時間をかけなければならないので、軽々しく着手する気になれない。それよりもまだほかにやることがある。第一そんなことをはじめたら、小説を書く機会を全く失ってしまうかも知れない。私はまだ小説を書くことを諦めたわけではないのだから、それを妨げるような大仕事には、うっかり着手できないという気持なのである。
 そこで、この二つの探偵小説史のうち、日本の探偵小説史に少しも手を着けないで終るような場合を考えると、その近代篇ともいうべき部分を、身を以て経験して来た私の思い出話をまとめておくのも、あながち無意味ではない。そのある部分は日本探偵小説近代篇の側面史というような意味を持つのだから、後年誰かが探偵小説史を書くような場合の、一つの参考資料となるであろう。そういう意味をも含めて、この稿を書きはじめるわけである。

 「私はまだ小説を書くことを諦めたわけではない」という文章の言外には、それとは逆に自分にはもう思うような小説が書けないというまさしく諦めみたいなものが感じられます。いっぽうで「私の思い出話」が「日本探偵小説近代篇の側面史というような意味を持つ」という言葉の言外には、これまたそれとはうらはらに自分の自伝はそのまま日本探偵小説近代史になるはずだという確信のようなものが窺えると思います。以下あした。



涙香、「新青年」、乱歩という一本の道
2009年12月16日(水)

 乱歩が自伝を書けばそれはそのまま日本探偵小説史になるのだとはいえ、自伝はあくまでも自伝です。みずからの人生に関係ないことに筆は割けません。しかし当時の乱歩には、つまり英米風の本格探偵小説を執筆するという一点で後輩の横溝正史や新人の高木彬光あたりに大きく水をあけられ、「私はまだ小説を書くことを諦めたわけではない」と打ち明けざるを得なかったほど創作から遠ざかってしまっていた乱歩には、それでも自分は探偵小説界のリーダーであるという自覚や自負があったはずですし、斯界の第一人者というポジションをキープしたいという念願もあったことでしょう。ですから乱歩が自伝を綴るとなれば、それは自身が第一人者であるということの確実な証明、それもあたうかぎり客観的な証明でなければならなかったはずですし、そのためにはみずからの歩みが日本探偵小説史にぴったり重なるものであることを誰の眼にも明らかに示すことも要請されたことでしょう。端的にいってしまえば、自分がデビューする以前の日本探偵小説史に自伝を直接連結してしまうこと、それがどうしても必要だったのではないかと私には思われる次第です。すなわち、涙香、「新青年」、乱歩、とつづく一本の道を克明のうえにも克明に描き出すことが。

 えーっと、師走もなかばを迎えて年末進行の時期とはなり、本日はこれだけで失礼いたします。またあした。



青き衣をまといて金色の野に降り立つ者
2009年12月18日(金)

 おとといの残日録には「またあした」と記したのですが、結果的に「またあさって」ということになってしまいました。これは年末進行というよりは忘年会のせいなのですが、それにしてもきのうは酔っ払った酔っ払った。まーだ酔ってるぞ。

 涙香、「新青年」、乱歩、とつづく一本の道とはどんな道なのか。まず涙香。涙香こそはこの国の人間に探偵小説の面白さを教えた人物でした。いわゆる先駆者です。探偵小説は涙香という個人の姿でこの国に登場しました。つまり涙香は翻案探偵小説の時代を開いたわけです。その涙香が死去した大正9年に創刊されたのが「新青年」でした。地方青年に海外雄飛の夢を説くみたいな感じの雑誌としてスタートしたのですが、創刊当初から探偵小説に重きを置き、やがて海外の探偵小説に多くのページを割くようになりました。すなわち「新青年」は翻訳探偵小説の時代を開いたわけであり、探偵小説は涙香という個人のあとに「新青年」という場を獲得したということになります。翻案から翻訳と来ればお次はどうしたって日本人作家による作品が待望されるのは当然の流れというやつであって、編集長の森下雨村は「新青年」の誌面でそういった気運を高める企画も展開していました。

 そこへ誰が登場したのか。涙香が翻案作品によって道を開き、「新青年」が翻訳作品によってひとつの場を形成した探偵小説の世界に、いったい誰が降り立ったのか。乱歩です。江戸川乱歩という誰にも知られていなかった新人作家が、これはもうまるで、その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし、みたいな感じで(古いですけどナウシカです)探偵小説の野に降り立ったわけです。以下またあした(もしかしたらあさって)。



突然ですけどよいお年をお迎えください
2009年12月31日(木)

 やっべーなー、とか思ってるうちにもう大晦日です。年末進行あり忘年会ありのところへ急にあれこれ立て込んでずーっとご無沙汰してしまいました。もう何がなんだかよくわかんなくて、注文してあった本が届いたと本屋さんからメールがあってもそれを受け取りにさえ行けないありさま。きのうようよう暇ができましたのでその本屋さんに出向いて志村有弘さん編の『江戸川乱歩徹底追跡』を入手してきました。ぱらぱら拾い読みいたしましたところ中沢弥さんの「乱歩の足跡──三重・名古屋・東京・大阪」に名張のことをお書きいただいてありましたので、臆することなくスキャン画像を無断転載。

 ご紹介いただきまことにありがたき幸せと申しあげるしかないのですが、『乱歩文献データブック』『江戸川乱歩執筆年譜』『江戸川乱歩著書目録』を市民の税金で発行して満天下の乱歩ファンから、よッ、大統領ッ、と声をかけていただいた名張市は、太宰治生誕百年にちなんでいうならば、彼は昔の彼ならず、ってやつですか。He is not what he was。いやー、面目ない。

 えー、あしたはとても暇ですので、またあしたということにいたします。

 どうぞよいお年をお迎えください。