人外境主人残日録 2009
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2009 平成21年
3月
3月1日(日)
誰だってデビューのときは新人であった
3月2日(月)
お勢の形相と格太郎の死相どっちが怖い
3月3日(火)
乱歩生誕地碑広場をご覧いただきますか
3月4日(水)
乱歩はミッドライフの危機に直面したか
3月6日(金)
少年読者の反応はどう熱狂的だったのか
3月7日(土)
都会の少年の懐かしい故郷における熱中
3月8日(日)
少年タイガーから少年探偵団シリーズへ
3月9日(月)
たぶんいやなやつだとお思いでしょうが
3月13日(金)
海野十三忌講演会と講師先生出版祝賀会
3月22日(日)
野村恒彦さん処女出版お祝いの会ご案内
3月23日(月)
神奈川近代文学館「大乱歩展」のご案内
▼2月1日(日)
松居竜五さんの講演会が徳島県で開かれます
▼2月3日(火)
節分の日に昨年末の落ち穂拾いをいたしました
▼2月8日(日)
八日えびすなので早々に失礼いたします
▼2月11日(水)
墓参はしませんでしたが散歩はしました
▼2月12日(木)
三島由紀夫の書斎における乱歩全集の謎
▼2月20日(金)
江戸川乱歩年譜集成おぼえがきアゲイン
▼2月23日(月)
フラグメントで再チャレンジしましたが
▼2月24日(火)
依頼されたのか希望したのかという問題
▼2月25日(水)
「少年倶楽部」は何度ベルを鳴らしたか
▼2月26日(木)
新機軸を求めた新編集長による白羽の矢
▼2月27日(金)
あれから十年かよ「二十面相は突然に」
▼2月28日(土)
二十面相ばかりか「妄想姉妹」も突然に
▼1月1日(木)
あけましておめでとうございます
▼1月4日(日)
もうへろへろでございます
▼1月5日(月)
いよいよわからなくなってきました
▼1月6日(火)
いったいどうなるのでしょうか
▼1月7日(水)
深い森のなかであてどなく
▼1月8日(木)
深い森のなかでついふらふらと
▼1月10日(土)
残日録にいたしました
▼1月21日(水)
エントリ中心主義はよかったのですが
▼1月22日(木)
「嗚呼、私の探偵は!」は嗚呼とっくの昔に
誰だってデビューのときは新人であった
2009年3月1日(日)

 3月にはなりましたが2月27日からひきつづく話題です。十年も前に書いた「二十面相は突然に」という文章から自分が一歩も成長していないことに気づいて愕然といたしましたので、無理やりにでも成長の跡を発見するべく「二十面相は突然に」のあら探しをいたしました。で、このあたりがおかしいとの結論に至りました。

 乱歩といえば、「蜘蛛男」に始まる一連の「講談社もの」で、講談社の屋台骨を支えつづけた作家の一人です。
 その乱歩が少年雑誌に新天地を求めたのですから、鳴り物入りで新年号の巻頭に掲載するくらいの扱いは、当然なされているはずではありませんか。

 こんな莫迦な話はありません。いくら乱歩が圧倒的な人気を誇っていたとはいえ、「少年倶楽部」という王国にはそれなりの秩序というものが厳然として存在していたわけですから、乱歩作品をいきなり巻頭に据えられるわけがありません。加藤謙一の『少年倶楽部時代 編集長の回想』(講談社、昭和43年)によれば掲載作品の多さでは佐藤紅緑と大佛次郎とが双璧と呼ぶべき存在で、げんに昭和11年新年特大号にも大佛次郎の「狼少年」と佐藤紅緑の「英雄行進曲」が轡を並べています。この世界ではまったくの新参者であった、という以上に少年ものを書かせたらどんなことになるのかという不安すら編集部に抱かせていたらしい乱歩が、「少年倶楽部」への初登場でいきなり王者として君臨するなどというのはたとえ天地がひっくり返ろうともあり得ないことです。新年特大号の巻頭作品が「狼少年」であり、「怪人二十面相」が巻末に近いあたりに掲載されていたのも当然の話であったろうなといまは納得されます。

 現代の価値観をもって判断するならば「狼少年」も「英雄行進曲」もいったいどこへ行ったのか、生き残っているのは「怪人二十面相」だけではないかということになります。それはもうえらいもので、本日掲載分のエントリだけを見てもコミックはこちら、お芝居はこちらといったあんばいで怪人二十面相も少年探偵団も現役ばりばりの売れっ子でありつづけているわけですが、それほどビッグなキャラクターであってもデビュー当初は「少年倶楽部」の誌面で新人として小さく小さくなっていたはずだという事実に思い至り、やっぱ十年のあいだにすっかり成長したではないかと胸を張りたい気分になったのですが、裏を返せば十年前の自分がいかにあほであったかということをみずから証明してみせたわけで、これはこれで困ったことだなと思います。



お勢の形相と格太郎の死相どっちが怖い
2009年3月2日(月)

 3月1日に日本テレビで放映された「妄想姉妹」の第七話「お勢登場」がインターネット上で公開されました。吉瀬美智子さん扮するお勢がこれ。

 格太郎を閉じ込めた長持の蓋に頬を寄せてうっとりと微笑んでいます。なんという悪女か。しかしまあ、いいでしょう。着物の似合う美人になら何されたってかまわないような気がします。

 乱歩の原作では「彼女は掛け金をはずして、一寸蓋を持ち上げようとした丈けで、何を思ったのか、又元々通りグッと押えつけて、再び掛け金をかけて了った」とされていて、お勢は長持のなかの格太郎とは対面しないのですが、このドラマのお勢はいったん蓋を持ちあげ、格太郎と視線を交錯させてからおもむろに蓋を閉めてしまいます。なんたる悪女か。まあいいけど。そういえば池上遼一さんの手で漫画化された「お勢登場」でも、やはり長持の蓋を開けて内部を凝視するお勢の顔が格太郎目線で描かれていました。池上さんの『近代日本文学名作選』(小学館、1997年)から引用いたしますとこんな表情なのですが、この漫画では長持のなかで死んでいた格太郎の死相がまた恐ろしく、ページをめくったらいきなり一ページつかってアップが出てくるのでびっくりいたします。下の画像をクリックすると格太郎の死に顔が別ウインドウで開くことになっておりますが、心臓の弱い方はクリックをお控えいただいたほうがいいと思います。

 漫画であれドラマであれ、お勢を映像化するとなると夫殺しを決意した瞬間の形相を描かないわけにはゆかない、それこそが漫画家や演出家や役者の腕の見せどころということなのであろうと思われます。ともあれこのドラマ、「妄想姉妹」という外枠の物語のことは完結するまでどうこういうことはできませんが、「お勢登場」そのものはなかなかよくできていると思いました。ぜひご覧ください。こちらです。尺は二十三分十九秒。



乱歩生誕地碑広場をご覧いただきますか
2009年3月3日(火)

 おとといにつづいて乱歩の少年ものについて綴る予定だったのですが、時間がありません。きょうのところは2月28日に完成記念式が挙行された乱歩生誕地碑広場でもご覧いただきましょうか。エントリはこちら



乱歩はミッドライフの危機に直面したか
2009年3月4日(水)

 十年前に記した「二十面相は突然に」の思慮の浅さを反省し、「少年倶楽部」では新参者だった乱歩の「怪人二十面相」第一回が巻末に近いあたりに掲載されていた扱いの軽さにも納得し、さらには昭和10年12月号に「怪人二十面相」の予告が見当たらなかったのもまあそんなことだってあるだろうと得心はしたとしても、やはりどうにも腑に落ちないのが『貼雑年譜』のこの記述です。

今年度ヨリ当方ヨリ希望シテ少年物ヲ書ク(初メテ也)

 乱歩自身の「初めての少年もの」は昭和30年、須藤憲三の「乱歩先生の『少年もの』」は1969年の発表で、と書いてしまうと和暦西暦が混在して変な感じになります。このサイトに綴る文章では乱歩が生きていた昭和40年までは和暦、それ以降は西暦を使用するということにそれとなくしているのですが、さすがにワンセンテンスに両者が混在してしまうのは不自然ですから、1969年といえば昭和44年のことですが、と断りを入れてさらにつづけます。いっぽう『貼雑年譜』が編まれたのは昭和16年、つまり少年ものに手を染めた昭和10年の六年後のことですから、「初めての少年もの」や「乱歩先生の『少年もの』」よりは記憶に誤りが生じる可能性が低いはずですし、なにしろものが『貼雑年譜』なのですから意図的な虚偽がひそかに挿入されることもあまり考えられないのではないか。

 ですからやっぱり「当方ヨリ希望シテ」というのが本当のところで、須藤憲三編集長によって乱歩に白羽の矢が立てられたあと、昭和8年の夏ごろから「少年倶楽部」への執筆依頼がありはしたものの、依頼はあまり熱心なものではなく乱歩もまた乗り気ではなかった。ところが昭和10年、のちに「当方ヨリ希望シテ」と録することになるほど強い意志で乱歩が少年ものを志向したといったことではないのかと推測される次第です。ならば昭和10年に何があったのか、みたいなことは2003年3月刊行の(するってえともう六年も前のことかよと驚いてしまいますが)『江戸川乱歩著書目録』に収録した「ふるさと発見五十年」にも書きましたので引用しておきます。

 昭和十年の乱歩といえば、のちに「人間がけだものに化ける怪異談を書こうとしたのであろう」と他人ごとめいて評することになる「人間豹」の連載を五月に終え、蓄膿症の手術を受けたせいもあって創作活動は低調なままに終始した。だがその一方、「探偵小説四十年」にはこんな回想も見受けられる。
 私は手術などには至って弱い方なので、入院も長引いたし、退院してからも、その夏は殆んど寝たままだったし、結局十年度は一つの小説も書かないで過してしまった。しかし小説こそ書かなかったけれど、十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して、英米の多くの作品を読んだり、批評めいたものを書いたり、その他創作以外のいろいろな仕事をするようなことにもなったのである。
 『わが夢と真実』に「蓄膿症手術」と題して抄録されたこの文章の末尾には、
 〔註、当時の評論は「鬼の言葉」という本に集めてある。そのほか、「日本探偵小説傑作集」の編纂、それにのせた百枚を越す史的探偵小説論、柳香書院の世界探偵小説傑作叢書の監修、春秋社の長篇懸賞募集選者など〕
 と「創作以外のいろいろな仕事」が列挙され、「あるきっかけ」によってもたらされた「本格探偵小説への情熱」の再燃が相当に印象深いものであったことを窺わせる。
 別の角度から見れば、「幻影の城主」を手始めとして少年期を回想する随筆が書き始められたのが、やはり昭和十年のことであった。翌十一年の「レンズ嗜好症」「活字と僕と」「ビイ玉」や、十一年から十二年にかけて連載された「彼」などをあわせて俯瞰すれば、乱歩が昭和十年ごろを契機として少年という主題に向き合っていった過程を見出すことが可能だろう。
 あるいは、昭和九年の「槐多『二少年図』」から十年の「ホイットマンの話」、十一年の「もくず塚」「サイモンズ、カーペンター、ジード」に至る一連の随筆や評論からは、昭和八年に中絶された「J・A・シモンズのひそかなる情熱」に示されていた文字どおりひそかなる情熱が静かに持続され、少年という主題に濃い彩りを添えたであろうことも推測できる。
 事実、「同性に対して、注ぎ尽された」という少年時代の恋をノンシャランに語った大正十五年の「乱歩打明け話」とは趣を変えて、これらの作品には少年期や少年愛を追体験するように対象化しようとする真摯な意志が認められる。「彼」の中絶に関して述べられた「恥かしくて書けない」という言葉は、そうした省察の息苦しさを端的に物語るものであるだろう。そして随筆による自己の対象化からいったん遠ざかった乱歩は、昭和十六年になって新聞や雑誌の記事を『貼雑年譜』に体系化する。それは他者をかりそめの視点として自身の像を蒐集する、形を変えた自己確認の試みであったようにも映るのである。
 いずれにせよ昭和十年は、乱歩にとってきわめて自覚的かつ重要な転機であったとおぼしい。乱歩は翌十一年一月、「緑衣の鬼」と「怪人二十面相」の連載を開始するが、前者は本格探偵小説への情熱が、後者は少年という主題がそれぞれに火種となった作品であることはまず疑えないだろうし、情熱の自覚や主題の発見には深い省察が不可欠であったと仮定してみれば、昭和十年前後の乱歩の胸奥に自己確認への強い意志が存在していたこともまた疑い得ない。

 年月は経過すれども考えてることには進歩がないのかよとは思いますけど、要するに昭和10年に乱歩は「きわめて自覚的かつ重要な転機」を迎えていたというのがわが年来の思い込みなわけで、昭和10年といえば乱歩四十一歳、人生の前半から後半へというミッドライフの危機に直面し、少年という主題を発見することでその危機を克服したのではないかとかねがね睨みをつけておりますゆえに、乱歩がこの年「当方ヨリ希望シテ」少年ものという未知の世界に歩を踏み入れたというのはじつにわかりやすい話であると思われます。未踏の分野への参入にあたって乱歩が例のごとく戦略的であっただろうことはいうまでもありませんが。



少年読者の反応はどう熱狂的だったのか
2009年3月6日(金)

 実際のところはよくわからない、というしかありません。しかし、乱歩はやはりみずから求めて少年ものの世界に歩を踏み入れていったはずであり、もしかしたらその世界こそが本領であったと悟るところもあったのではないかと私には思われる次第なのですが、それはまあそれとして、乱歩が連載を始めた少年ものにリアルタイムで接した少年たちの反応はどうであったのか。むろんこの奇妙な名前の新参作家は少年読者に熱狂的に迎え入れられたわけなのですが、具体的な証言はどんなものであったのか。

 紀田順一郎さんが少年時代の読書を回想した『横浜少年物語 歳月と読書』(文藝春秋)が先月刊行されましたので、乱歩のことも出てくるかと期待して購入してみたのですが、世代の差が微妙にあってちょいとあてはずれ。乱歩の名前が出てくるあたりを第二章「一面の焦土に芽ぐむ」から引いておきます。もちろん「少年倶楽部」について述べられたパートです。

 江戸川乱歩が、有名な悪のキャラクター「二十面相」を創造、読者の間に異様な興奮を巻き起こしつつあった時代で、そのほか大衆児童文学の一時代を築いた大佛次郎、南洋一郎、高垣眸らにしても、気合いの入った連載ものばかり。子どもにとって、一ページたりともクズがなかった。地方の読者が発売日になると、何里も離れた隣村の書店へと、しっかりと代金の五十銭をにぎりしめ、幼い弟と二人でけわしい雪山を越えていくという投書などは、同時代の年少読者ならただちに共感するものがあったはずだ。
 しかし、残念ながら私の世代は、これらの本が戦時の出版統制によって絶版となっていたため、一冊一冊を古本で買わなければならなかった。そのことは私が父親から買い与えられた戦時体制に入ってからの典型的な一冊(一九四二年〈昭和十七〉四月号)の目次を見れば、一目瞭然だろう。

 名作童話『ドリトル先生船の旅』(井伏鱒二)
 『兎を飼う国民学校』(川村みのる)
 『御召艦上に拝す聖なる光景』(木下道雄)
 『熱帯を征く』(海野十三)
 『少年時局問答 蘭印亡びたり』(木村毅)
 『志士吉田松陰 涙松の別れ』(外村繁)
 歴史小説『楠木正成』(大佛次郎)
 海洋事実物語『無人島に生きる十六人』(須川邦彦)
 『一太郎ものがたり 名探偵』(小松龍之介)

 乱歩が二十面相よろしく小松龍之介に変装していたなどと、同時代の少年読者は夢にも思っていなかったことでしょう。



都会の少年の懐かしい故郷における熱中
2009年3月7日(土)

 紀田順一郎さんは昭和10年4月16日のお生まれですから、「怪人二十面相」の連載が始まったときにはいまだ乳飲み子。もうちょい年長となると大正14年の1月14日生まれ、つまり昭和の年数が満年齢に一致するという運命を背負って出生した三島由紀夫がとりあえず想起されます。「少年倶楽部」誌上で「怪人二十面相」が少年読者を熱狂させた昭和11年には十一歳だったわけですからサンプルとしてはうってつけなのですが、しかし三島はそのあたりのことをまったく語らず、「黒蜥蜴」の劇化に際してもこんなことを打ち明けていたばかり。

 ──「黒蜥蜴」は江戸川乱歩氏の唯一の女賊物であり、又、探偵に対する女賊の恋を扱った点でも、唯一のものだろうと思う。私は少年時代に読んで、かなり強烈な印象を与えられたが、石原慎太郎氏なども戦後の少年期に読んで同じような印象を抱いたと言っていたから……(「黒蜥蜴」について)

 ──「黒蜥蜴」は子供の頃読んだ江戸川さんのものではいちばんロマンチックなものだと思い、一度これを芝居にしてみたいと思っていた。(関係者の言葉)

 さすが天才、子供時代からおとな向けの作品を読んでいて、少年ものは最初からスルーしていたのかと思ってしまいそうになりますが、実際はそうでもなかったということが奥野健男『三島由紀夫伝説』(新潮文庫、2000年)から知られます。「祖母奈津」の章から引用。

 『伜・三島由紀夫』によると、母がグリム、アンデルセン、《赤い鳥》などの童話をそれからそれと買って来て与え、三島は大変喜んで読んだとある。また初等科時代は泉鏡花の大変なファンだった祖母の本箱から鏡花や紅葉などを祖母の目をぬすんで持ち出し読んだと言う。昭和初期の山の手の知的な上中流階級の子供の典型的な読書体験である。あの頃は《赤い鳥》などの芸術童話が盛んで、アンデルセン、グリムと共に、鈴木三重吉、秋田雨雀、小川未明、楠山正雄、それに芥川龍之介、佐藤春夫、宇野浩二、室生犀星、久米正雄、川端康成にいたる芸術的童話を読まされた。しかし金の星社とかアルス社とかから刊行されたこれらの童話は、教師や母親が期待するほどには、ぼくらにはおもしろくなかった。もちろんアンデルセンの『人魚姫』や小川未明の『赤い蝋燭と人魚』など今も忘れられない感動的な作品はあったが。
 それらの本より、三島由紀夫を含めてのぼくたちの世代は、江戸の錦絵のグロテスクな傾向を残した名もない俗悪な絵本の一場面を強い印象でおぼえているし、何よりも《幼年倶楽部》そして《少年倶楽部》あるいは《譚海》によって育てられた。ぼくはかつて故郷のない都会の少年にとってなつかしい故郷は《少年倶楽部》のページの中に潜んでいると書いたことがあったが、三島由紀夫はその文章に全面的に共感してくれた。事実、三島由紀夫や北杜夫、あるいは三浦朱門や澁澤龍彦など都会育ちの同世代が会い、話が幼少年時に及ぶと、必ずと言ってよいほど《少年倶楽部》《譚海》及び講談社の少年講談などの単行本の話になり、それぞれ気に入った作品の思い出を語り合い、時間を忘れるほど熱中する。三島由紀夫は江戸川乱歩の『怪人二十面相』とか『妖怪博士』とか、平田晋策の『昭和遊撃隊』『新戦艦高千穂』とか、山中峯太郎の『敵中横断三百里』『大東の鉄人』『亜細亜の曙』『見えない飛行機』『浮かぶ飛行島』とか、高垣眸の『怪傑黒頭巾』『まぼろし城』『豹(ジャガー)の眼』とか南洋一郎の『吼える密林』などが好きだと語った。特に『豹の眼』『アマゾンの密林』『猛獣境探検記』や明智小五郎の活躍する江戸川乱歩やそして山中峯太郎に熱中したらしい。ぼくと北杜夫を前に、三島由紀夫は自分の文学は芸術的童話ではなくこれらの《少年倶楽部》のロマンや冒険物によって形成され、今日も歴然としてその影響があることを誇りに思うと広言したこともあった。もちろん三島独特の逆説でもあるが、これらの怪奇物語や冒険物語が、三島そして北やぼくたち世代の文学観に与えた影響は大きい。特に三島由紀夫の場合、祖母の暗い病室で読んだ『豹の眼』などの異境の冒険譚にどのくらい心をおどらせたか。今でもアマゾンやボルネオの密林に行きたいという彼であったが、しかし夜になれば近代的ホテルの宿泊設備がなければ耐えられないといった。北やぼくは、いやまだ戦争、敗戦時の野宿の体験が生きているからぼくたちはどんな未開の現地人とも生活できると語り、三島の西洋人的文化生活ぶりをからかったものだった。しかしその後、ぼくたちが文明的な衛生生活になれて柔弱になり、地べたに寝ることをきらい出した頃、三島は自衛隊などに体験入隊し地べたに寝ることをはじめたのは驚きであった。

 こうなるともう「少年倶楽部」が少年たちにもたらした熱狂がどんなものであったのか、想像もつかないというのが正直なところです。「少年サンデー」や「少年マガジン」のそれとは比べものにもならないはずで、私などの世代は喩えるべきものを有していないという気がします。



少年タイガーから少年探偵団シリーズへ
2009年3月8日(日)

 ひるがえって昭和28年生まれの私の場合となりますと、活字に熱中した最初の記憶はいわゆる絵物語、山川惣治の『少年タイガー』でした。三谷薫さんと中村圭子さんの編になる『山川惣治』(河出書房新社、2008年)によれば産業経済新聞社のサンケイ児童文庫として、全十一冊が昭和31年から34年にかけて刊行されています。その全冊を読んだのであったかそうではなかったのか、そのへんはしごく曖昧なのですが、とにかく血湧き肉躍らせて読み耽った記憶、あるいは破れてしまった最後のページを細かく切った包装紙で貼り合わせてあった記憶、つまりセロテープというやつがいまだ一般化していなかった時代の話なのですが、そんな記憶がたしかにあります。

 ならば乱歩はというと、少年探偵団シリーズが連載されていた月刊誌「少年」も読んでいたはずなのですが、それが本になった光文社版少年探偵江戸川乱歩全集の記憶がやはり鮮明です。なにしろまあ怖かった。何が怖いといって挿絵が怖かった。そろそろ怖い挿絵が出てくるころだなということは読み進めながら感じられ、そんな怖い絵は見たくありませんから本を伏せてしまいたくなるのですが、先を読まずにはいられない。なんとも緊迫感に満ちた読書体験でした。やや成長して手に取ったのは新潮文庫『江戸川乱歩傑作選』、つづいて教養文庫『探偵小説の「謎」』というごく順当なコースをたどったのですが、なかにはいきなり講談社版江戸川乱歩全集から入ったという昭和29年生まれの人もいて、くわしくはこちらをどうぞ。



たぶんいやなやつだとお思いでしょうが
2009年3月9日(月)

 乱歩の少年ものを題材にきのうまであれこれ綴ってまいりましたが、起点となったのは塩澤実信さんの『ベストセラー作家 その運命を決めた一冊』という一冊です(エントリはこちら)。なぜ起点になったのか。乱歩と「怪人二十面相」に関して須藤憲三の「乱歩先生の『少年もの』」に全面的に依拠して記述を進めながら、むろん文中に須藤憲三の名前は出てきますけれど、須藤が残したどんな資料を典拠としているのかが明示されておらず、これではちょっと不親切だし厳密性にも欠けるであろうと判断されましたので、当サイトでいささかを補足しておくことにいたしました。いやなやつだとお思いでしょうが、あくまでも実証主義の立場に立っておりますので、いやなやつだと思われても結構です。とはいいますものの、きょうもきょうとて紀田順一郎さんのコラムに実証主義の立場からちょいと訂補を加えてしまいました(エントリはこちら)。いやなやつだとお思いでしょうが、ほんとはそんなこともないんですよ、とのいいわけを書きつけておきたいような気分です。



海野十三忌講演会と講師先生出版祝賀会
2009年3月13日(金)

 いつまでも寒くて困ります。しかし春は来るでしょう。来なくてどうする。春なんてものは「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」みたいな感じでやってくるのさ。ですから海の向こうにある徳島県の小西昌幸さんから掲示板「人外境だより」にお知らせいただいたひとあし早い春の話題、こちらに転載しておきます。

■今年の海野十三忌の日程が決まりました。5月17日(日)午後2時半から北島町立図書館・創世ホール2階ハイビジョン・シアターで、あの野村恒彦先生をお招きして、「親友二人〜海野十三と横溝正史」(仮題)というテーマでご講演いただきます。詳細はまたお知らせいたします。

 たぶん怒濤の大宴会もありだと思いますので(なくてどうする)、詳細のお知らせをいただいた時点でまたあらためて告知することといたします。ちなみに講師のあの野村恒彦先生は今般『神戸70s青春古書街図』で青春を語っちまっておしまいになられましたので(エントリはこちら)、その出版祝賀会も近く大阪(あるいは神戸か)で催される予定。こちらも詳細が決まったら速攻でお知らせいたします。



野村恒彦さん処女出版お祝いの会ご案内
2009年3月22日(日)

 先日の残日録でお知らせいたしました野村恒彦さんの『神戸70s青春古書街図』出版をお祝いする会の件、3月28日土曜日の夕刻から大阪市内で催されることになりました。SRの会関西例会と畸人郷の共催による催しです。会場にはさほど余裕がないとのことで、詳細が決まったら大々的に告知するつもりでいたのですが、そんなことしたら参加者がオーバーフローしてしまうかもしれんと思い当たりました。そこで、共催二団体に縁はないけれど野村恒彦さん処女出版お祝いの会で喜びを分かち合いたいとおっしゃる方は、とりあえず当方あてメール(stako@e-net.or.jp)でご連絡いただければと思います。会費は記念品代も含め七千円ぽっきりとのことです。



神奈川近代文学館「大乱歩展」のご案内
2009年3月23日(月)

 ちょっと気が早いようですが、横浜にある神奈川近代文学館で10月3日から11月15日まで特別展「大乱歩展」が催されます。昨日夕刻、全然別の用事で文学館のさる理事の方と電話でお話ししましたところ、21日の土曜日に文学館の理事会が開かれて特別展のことが話題にのぼったとのことで、概略を教えていただきました。文学館の公式サイトではいまだ大々的な告知はなされていないようですが、休館日カレンダーの10月と11月に「大乱歩展」の日程が記されています。

 神奈川近代文学館:休館日カレンダー

 主催は神奈川近代文学館、共催は立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター。今年、同文学館では春秋二回の特別展が開かれるそうで、4月25日から6月7日までが「森鴎外展−近代の扉をひらく−」、秋がこの「大乱歩展」。かなり大規模な展示になるようです。鴎外と肩を並べることになったのですから、天国の乱歩もさぞやご満悦ではないかと思われます。

 神奈川のあとは長野の話題。二年ほど前の記事なのですが、発見してメールで知らせてくださった方がありました。横溝正史がらみのコラムです。

 長野日報:八面観(コラム):2007年02月04日付

 正史といえば、くどいようですが今年の海野十三忌の話題。5月17日午後2時30分から徳島県の北島町立図書館・創世ホールで野村恒彦さんの講演「親友二人〜海野十三と横溝正史」(仮題)が催されます。詳細はまたいずれ。