十年前に記した「二十面相は突然に」の思慮の浅さを反省し、「少年倶楽部」では新参者だった乱歩の「怪人二十面相」第一回が巻末に近いあたりに掲載されていた扱いの軽さにも納得し、さらには昭和10年12月号に「怪人二十面相」の予告が見当たらなかったのもまあそんなことだってあるだろうと得心はしたとしても、やはりどうにも腑に落ちないのが『貼雑年譜』のこの記述です。
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今年度ヨリ当方ヨリ希望シテ少年物ヲ書ク(初メテ也) |
乱歩自身の「初めての少年もの」は昭和30年、須藤憲三の「乱歩先生の『少年もの』」は1969年の発表で、と書いてしまうと和暦西暦が混在して変な感じになります。このサイトに綴る文章では乱歩が生きていた昭和40年までは和暦、それ以降は西暦を使用するということにそれとなくしているのですが、さすがにワンセンテンスに両者が混在してしまうのは不自然ですから、1969年といえば昭和44年のことですが、と断りを入れてさらにつづけます。いっぽう『貼雑年譜』が編まれたのは昭和16年、つまり少年ものに手を染めた昭和10年の六年後のことですから、「初めての少年もの」や「乱歩先生の『少年もの』」よりは記憶に誤りが生じる可能性が低いはずですし、なにしろものが『貼雑年譜』なのですから意図的な虚偽がひそかに挿入されることもあまり考えられないのではないか。
ですからやっぱり「当方ヨリ希望シテ」というのが本当のところで、須藤憲三編集長によって乱歩に白羽の矢が立てられたあと、昭和8年の夏ごろから「少年倶楽部」への執筆依頼がありはしたものの、依頼はあまり熱心なものではなく乱歩もまた乗り気ではなかった。ところが昭和10年、のちに「当方ヨリ希望シテ」と録することになるほど強い意志で乱歩が少年ものを志向したといったことではないのかと推測される次第です。ならば昭和10年に何があったのか、みたいなことは2003年3月刊行の(するってえともう六年も前のことかよと驚いてしまいますが)『江戸川乱歩著書目録』に収録した「ふるさと発見五十年」にも書きましたので引用しておきます。
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昭和十年の乱歩といえば、のちに「人間がけだものに化ける怪異談を書こうとしたのであろう」と他人ごとめいて評することになる「人間豹」の連載を五月に終え、蓄膿症の手術を受けたせいもあって創作活動は低調なままに終始した。だがその一方、「探偵小説四十年」にはこんな回想も見受けられる。
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私は手術などには至って弱い方なので、入院も長引いたし、退院してからも、その夏は殆んど寝たままだったし、結局十年度は一つの小説も書かないで過してしまった。しかし小説こそ書かなかったけれど、十年の夏から翌十一年にかけて、あるきっかけから、私の心中に本格探偵小説への情熱(といっても、書く方のでなく、読む方の情熱なのだが)が再燃して、英米の多くの作品を読んだり、批評めいたものを書いたり、その他創作以外のいろいろな仕事をするようなことにもなったのである。 |
『わが夢と真実』に「蓄膿症手術」と題して抄録されたこの文章の末尾には、
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〔註、当時の評論は「鬼の言葉」という本に集めてある。そのほか、「日本探偵小説傑作集」の編纂、それにのせた百枚を越す史的探偵小説論、柳香書院の世界探偵小説傑作叢書の監修、春秋社の長篇懸賞募集選者など〕 |
と「創作以外のいろいろな仕事」が列挙され、「あるきっかけ」によってもたらされた「本格探偵小説への情熱」の再燃が相当に印象深いものであったことを窺わせる。
別の角度から見れば、「幻影の城主」を手始めとして少年期を回想する随筆が書き始められたのが、やはり昭和十年のことであった。翌十一年の「レンズ嗜好症」「活字と僕と」「ビイ玉」や、十一年から十二年にかけて連載された「彼」などをあわせて俯瞰すれば、乱歩が昭和十年ごろを契機として少年という主題に向き合っていった過程を見出すことが可能だろう。
あるいは、昭和九年の「槐多『二少年図』」から十年の「ホイットマンの話」、十一年の「もくず塚」「サイモンズ、カーペンター、ジード」に至る一連の随筆や評論からは、昭和八年に中絶された「J・A・シモンズのひそかなる情熱」に示されていた文字どおりひそかなる情熱が静かに持続され、少年という主題に濃い彩りを添えたであろうことも推測できる。
事実、「同性に対して、注ぎ尽された」という少年時代の恋をノンシャランに語った大正十五年の「乱歩打明け話」とは趣を変えて、これらの作品には少年期や少年愛を追体験するように対象化しようとする真摯な意志が認められる。「彼」の中絶に関して述べられた「恥かしくて書けない」という言葉は、そうした省察の息苦しさを端的に物語るものであるだろう。そして随筆による自己の対象化からいったん遠ざかった乱歩は、昭和十六年になって新聞や雑誌の記事を『貼雑年譜』に体系化する。それは他者をかりそめの視点として自身の像を蒐集する、形を変えた自己確認の試みであったようにも映るのである。
いずれにせよ昭和十年は、乱歩にとってきわめて自覚的かつ重要な転機であったとおぼしい。乱歩は翌十一年一月、「緑衣の鬼」と「怪人二十面相」の連載を開始するが、前者は本格探偵小説への情熱が、後者は少年という主題がそれぞれに火種となった作品であることはまず疑えないだろうし、情熱の自覚や主題の発見には深い省察が不可欠であったと仮定してみれば、昭和十年前後の乱歩の胸奥に自己確認への強い意志が存在していたこともまた疑い得ない。 |
年月は経過すれども考えてることには進歩がないのかよとは思いますけど、要するに昭和10年に乱歩は「きわめて自覚的かつ重要な転機」を迎えていたというのがわが年来の思い込みなわけで、昭和10年といえば乱歩四十一歳、人生の前半から後半へというミッドライフの危機に直面し、少年という主題を発見することでその危機を克服したのではないかとかねがね睨みをつけておりますゆえに、乱歩がこの年「当方ヨリ希望シテ」少年ものという未知の世界に歩を踏み入れたというのはじつにわかりやすい話であると思われます。未踏の分野への参入にあたって乱歩が例のごとく戦略的であっただろうことはいうまでもありませんが。
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