人外境主人残日録 2009
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2009 平成21年
10月
10月6日(火)
「大乱歩展」記念講演会に思いを馳せる
10月7日(水)
乱歩歌舞伎第二弾「京乱噂鉤爪」が開幕
10月8日(木)
とくに被害もなく当地はすでに台風一過
10月9日(金)
トーク&ディスカッション早くも二回目
10月12日(月)
「大乱歩展」は台風にも負けず好評嘖々
10月13日(火)
小林信彦さんの講演はこんな内容だった
10月16日(金)
港が見える丘への道における疑問と逡巡
10月19日(月)
今年は何のアニバーサリーなのかと思う
10月20日(火)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」予告篇
10月21日(水)
グーグル先生ありがとうございましたッ
10月22日(木)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第一講
10月24日(土)
乱歩の秋を席捲する『明智小五郎読本』
10月25日(日)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第二講
10月26日(月)
沖積舎の桃源社版乱歩全集復刻版が完結
10月27日(火)
正史とおりん婆さんとそこらのギャルと
10月28日(水)
講座「涙香、『新青年』、乱歩」第三講
10月29日(木)
「日本暗殺秘録」に感銘した過去がある
10月30日(金)
これやこの乱歩を掲げて東海を売ってる
10月31日(土)
ちはやぶる乱歩の蔵を幻影城と呼ぶなよ
▼9月1日(火)
横浜もいいけど池袋もなかなかだと思う
▼9月2日(水)
情けなくなるほど宣伝モード全開である
▼9月3日(木)
もう開き直ったような宣伝モードである
▼9月4日(金)
映画「陰獣」はシネ・ヌーヴォでも上映
▼9月5日(土)
記念講演をも記念する大宴会の開催予告
▼9月7日(月)
雑誌「アベック」に掲載されたパロディ
▼9月8日(火)
映画版「芋虫」と歌舞伎「京乱噂鉤爪」
▼9月9日(水)
こんなことでいちいち大騒ぎしなくても
▼9月10日(木)
ほんとに何が嬉しくて大騒ぎしてるのか
▼9月11日(金)
秋の二大イベント開幕記念大宴会ご案内
▼9月12日(土)
目白押しの「大乱歩展」関連行事ご案内
▼9月13日(日)
トーク&ディスカッションあしたが締切
▼9月14日(月)
誰が美絵子先生の乳房を揉みしだこうが
▼9月15日(火)
きょうもサークルKへ雑誌の買い出しに
▼9月18日(金)
第四十五回衆議院議員選挙を振り返って
▼9月19日(土)
『明智小五郎読本』限定千部は来月発売
▼9月21日(月)
「大乱歩展」の目録千円は「買い!」だ
▼9月22日(火)
立教大学では「江戸川乱歩フォーラム」
▼9月23日(水)
ポプラ社の「コミックブンブン」休刊す
▼9月24日(木)
「青銅の魔人」を原作に「仮面舞盗会」
▼9月25日(金)
遠縁のサオリン兄貴が世界選手権七連覇
▼9月27日(日)
大宴会の申し込みは受付を終了しました
▼9月28日(月)
『明智小五郎読本』が発売になりました
▼9月29日(火)
「ラジオ深夜便」に紀田順一郎さん登場
▼9月30日(水)
たそがれの国で乱歩の秋が開幕を迎える
▼8月28日(金)
またずいぶんご無沙汰してしまいました
▼8月29日(土)
拙者は分身の術がつかえぬでござるの巻
▼7月12日(日)
遅ればせながら「盲獣」再演のお知らせ
▼6月14日(日)
カバー青仮面版『吸血鬼』があったとさ
▼6月19日(金)
コレクターの血が見事なまでに騒がない
▼6月21日(日)
学習誌の付録に掲載された乱歩作品の謎
▼5月23日(土)
人外境番犬の二回忌も過ぎた春の夕刻に
▼5月25日(月)
人間豹は幕末の京で最期を遂げるらしい
▼4月3日(金)
野村恒彦講演会「親友二人」のお知らせ
▼4月4日(土)
乱歩スレに謝意を表しつつラジオの話題
▼4月15日(水)
チューリップの町で僭越ながら後援です
▼4月20日(月)
江戸川乱歩賞はどうなったのでしょうか
▼3月1日(日)
誰だってデビューのときは新人であった
▼3月2日(月)
お勢の形相と格太郎の死相どっちが怖い
▼3月3日(火)
乱歩生誕地碑広場をご覧いただきますか
▼3月4日(水)
乱歩はミッドライフの危機に直面したか
▼3月6日(金)
少年読者の反応はどう熱狂的だったのか
▼3月7日(土)
都会の少年の懐かしい故郷における熱中
▼3月8日(日)
少年タイガーから少年探偵団シリーズへ
▼3月9日(月)
たぶんいやなやつだとお思いでしょうが
▼3月13日(金)
海野十三忌講演会と講師先生出版祝賀会
▼3月22日(日)
野村恒彦さん処女出版お祝いの会ご案内
▼3月23日(月)
神奈川近代文学館「大乱歩展」のご案内
▼2月1日(日)
松居竜五さんの講演会が徳島県で開かれます
▼2月3日(火)
節分の日に昨年末の落ち穂拾いをいたしました
▼2月8日(日)
八日えびすなので早々に失礼いたします
▼2月11日(水)
墓参はしませんでしたが散歩はしました
▼2月12日(木)
三島由紀夫の書斎における乱歩全集の謎
▼2月20日(金)
江戸川乱歩年譜集成おぼえがきアゲイン
▼2月23日(月)
フラグメントで再チャレンジしましたが
▼2月24日(火)
依頼されたのか希望したのかという問題
▼2月25日(水)
「少年倶楽部」は何度ベルを鳴らしたか
▼2月26日(木)
新機軸を求めた新編集長による白羽の矢
▼2月27日(金)
あれから十年かよ「二十面相は突然に」
▼2月28日(土)
二十面相ばかりか「妄想姉妹」も突然に
▼1月1日(木)
あけましておめでとうございます
▼1月4日(日)
もうへろへろでございます
▼1月5日(月)
いよいよわからなくなってきました
▼1月6日(火)
いったいどうなるのでしょうか
▼1月7日(水)
深い森のなかであてどなく
▼1月8日(木)
深い森のなかでついふらふらと
▼1月10日(土)
残日録にいたしました
▼1月21日(水)
エントリ中心主義はよかったのですが
▼1月22日(木)
「嗚呼、私の探偵は!」は嗚呼とっくの昔に
「大乱歩展」記念講演会に思いを馳せる
2009年10月6日(火)

 10月2日に上京し、「大乱歩展」の神奈川近代文学館、トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」のミステリー文学資料館、南部地鶏と江戸ちゃんこの蔵之助、新宿から特急かいじで旅行気分の竹中英太郎記念館、乱歩歌舞伎「京乱噂鉤爪」の国立劇場などを巡り巡ってもうふらふら、へろへろになって昨夜ようよう帰宅いたしました。お世話になったみなさんにお礼を申しあげます。

 残念だったのはやはり小林信彦さんの「大乱歩展」記念講演会に足を運べなかったことなわけで、せめて2ちゃんねる一般書籍板にて10月3日の講演会に思いを馳せることにいたします。

 小林信彦・中原弓彦 22:89−118

 同じく10月3日、ミステリー文学資料館では「『新青年』の作家たち」の第一回が催され、おかげさまでなんとか講師役を相務めることができました。催しが終わってから館長の権田萬治先生に、

 「トーク&ディスカッション、なかなか上々の滑り出しになりましたね」

 と臆面もなく申しあげておいたのですが、その場に居合わせたみなさんに笑われこそすれ張っ倒されるようなことはありませんでしたので、まずはめでたしめでたし。



乱歩歌舞伎第二弾「京乱噂鉤爪」が開幕
2009年10月7日(水)

 10月4日には国立劇場で乱歩歌舞伎第二弾「京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)」が初日を迎えました。

 nikkansports.com:幸四郎と染五郎が乱歩歌舞伎公開げいこ(10月3日)

 日テレNEWS24:染五郎が宙乗り大回転「ここが東京オリンピックだ!」(10月3日)

 SANSPO.COM:市川染五郎、客席上で“命がけ”高速回転!(10月4日)

 スポーツ報知:染五郎“旋回宙乗り”「これが五輪招致プレゼンなら…」(10月4日)

 中日スポーツ:染五郎 史上初の「旋風宙乗り」 乱歩歌舞伎「京乱噂鉤爪―」舞台げいこ(10月4日)

 デイリースポーツonline:染五郎&幸四郎、ここが東京五輪(10月4日)

 毎日jp:京乱噂鉤爪:五輪候補落選…乱歩歌舞伎で「憂さ晴らして」(10月4日)

 5日に観劇してきたのですが、市川染五郎さんの宙乗りは第一弾よりぐーんとパワーアップしておりました。



とくに被害もなく当地はすでに台風一過
2009年10月8日(木)

 気象庁オフィシャルサイトの台風情報、午後4時現在ではこんな感じです。

 台風18号の被害や影響を蒙った地域に、あるいはこれから蒙るかもしれない地域にお住まいの方もおいでかもしれません。お見舞いを申しあげ、ご無事をお祈りいたします。

 おかげさまで当地はこともなく、といったって名張市内全域のことは確認できていないのですが、私の生活圏内にはこれといった被害は出ておりません。

 三重県あたりの状況はこんな感じだったそうです。

 中日新聞 CHUNICHI Web:台風18号、東海直撃(10月8日夕刊)

 台風の最新情報はこのあたり。

 時事ドットコム:暴風域伴い東北縦断=台風18号、9日北海道沖に−気象庁(10月8日16時34分)

 asahi.com:東北・新潟など暴風域に 台風18号(10月8日17時10分)

 当地が台風の予想進路に位置していたせいか、早朝からメールでお問い合わせやお見舞いをお寄せくださった方もあったのですが、おかげさまで台風一過の平穏な夜を迎えようとしております。犬も元気です。ご休心ください。



トーク&ディスカッション早くも二回目
2009年10月9日(金)

 早いものであす10日、ミステリー文学資料館のトーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」が二回目を迎えます。テーマは横溝正史、講師は浜田知明さん。浜田さんとは10月3日の大宴会、一次会でも二次会でも向かい合って着席していたような記憶があるのですが、どうしてあんなお見合いみたいなことになってしまったのでしょうか。

 ミステリー文学資料館:トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」のご案内

 いっぽう立教大学ではあす10日、これが催されます。

 上京中のよしなしごとはブログのほうに記しました。

 名張まちなかブログ:横浜東京甲府旅日記(一)(10月9日)

 ブログ記事にご登場いただいたみなさん、どうも失礼いたしました。ご海容のほど、よろしくお願いいたします。



「大乱歩展」は台風にも負けず好評嘖々
2009年10月12日(月)

 10月3日に開幕した神奈川近代文学館の「大乱歩展」、いきなり台風に見舞われる滑り出しとはなりましたが、好評嘖々たるものがあるようです。

 明日できること今日はせず:『大乱歩展』 初日(10月3日)

 三丁目の夕日は何色なのかなー。:大乱歩展(10月3日)

 巧言令色 吉野仁:大乱歩(10月4日)

 Cielの日記(仮):大乱歩展(10月4日)

 田村写真のなんとなく:今日は休日、大乱歩展に行って来た。(10月4日)

 メガ放談:大乱歩展 記念講演会「乱歩の二つの顔」(10月5日)

 竹中英太郎記念館 館長日記:2泊3日の横浜滞在・・・・・・(10月7日)

 Blue Bleu Blu:大乱歩展(10月11日)

 残念ながら種々の事情で足を運べないとおっしゃる方は、せめて図録だけでも入手しておかれるべきかと愚考いたします。通信販売でゲットできます。

 神奈川近代文学館:刊行物

 「週刊読書人」の10月9日号には「大乱歩展」にちなんで紀田順一郎さんと藤井淑禎さんの対談「江戸川乱歩の多面的世界」が掲載されているようです。

 CANPAN:【週刊読書人】江戸川乱歩の多面的世界(2009年10月9日号)

 まいったな。当地の書店では「週刊読書人」を扱っておりませんので、まいったな、と思っております。

 旅日記はきのうが東京篇。

 名張まちなかブログ:横浜東京甲府旅日記(二)(10月11日)

 甲府篇はあしたあたり掲載できるかどうかというところです。



小林信彦さんの講演はこんな内容だった
2009年10月13日(火)

 しつこくも神奈川近代文学館「大乱歩展」の小林信彦さんによる記念講演の話題ですが、2ちゃんねる一般書籍板の小林さんのスレに、なんと講演要旨を投稿してくださった方がありました。ぜひご一読ください。

 小林信彦・中原弓彦 22:166-167

 というか、天下御免の無断転載で貴重な資料を保存しておきたいと思います。

166 :無名草子さん:2009/10/12(月) 19:49:31

>>164
長年の小林ファンだが、血液型だけは俺もさっぱり分からない

長年の乱歩ファン、というか乱歩研究家の人が、
小林信彦の横浜の講演会に行けず
ここを引用していたのには驚いた
なので、もう一度、講演全体を振り返ってみます(かなり忘れてきたが)

乱歩の話になると断れない、昔は横浜に住んでいました
それからかなり長い時間、調べてきた紙を読みながら
乱歩の人生を話していく(ここが退屈で寝た人が多かった)←ここかなりはしょってます
この中では、新青年が本来は、ブラジルなどへ移民する若者のための雑誌だったという部分が面白かった
短編作家としては抜群だが、すぐに才能がなくなった、前半生は人でんかんというほどの人嫌いだった
作家としては、黒岩涙香、谷崎潤一郎!に影響を受けていた
江戸川乱歩全集が大ヒットした、その後、何度か全集は出版された
探偵作家クラブ、日本推理小説協会の設立に尽力
後半生はボスとして活動、いろいろな人に会うようになっていた
人でんかんといろいろな人に会うようになってからで二つの顔がある
戦後は雑誌「宝石」の経営に乗り出した、ここで宝石の編集について投書していた小林信彦と乱歩に面識が生じる
乱歩から手紙で呼び出されてから面識が生じる、そのうち宝石で、ヒッチコックマガジンの編集長を依頼される
ヒッチコックマガジンについては、宝石で部分的に作品を掲載していたが
某大手新聞社が翻訳権、雑誌の出版を計画したため、対抗上、雑誌の創刊に踏み切った
作家としての方向性や作品の好き嫌いとは関係なく、星新一、大藪春彦、筒井康隆を発掘したのは乱歩、立派
乱歩が亡くなった際の出棺の前に、山田風太郎、日影丈吉、小林信彦が同席していたら、谷崎の訃報が届く
松本清張も乱歩邸で出棺に立ち会った、泣いていた、乱歩と清張の仲が悪いというのは俗説

167 :無名草子さん:2009/10/12(月) 19:58:35

後はなんだろう
ミステリーが売れるようになったのは仁木悦子の猫は知っていたから
清張は点と線、眼の壁の二冊が売れて、一気にミステリー作家として知られるようになった
最後の書き下ろしが「ぺてん師と空気男」、新作執筆を条件に株式をもらったら
その株が非常にお金になることになったので断れなくなったのだろう

小林信彦と会ってからの乱歩は忙しかった。例えば毎週(?)のように慎太郎ミステリーに出かけていた
非常に広い部屋(宝石社かと思っていたが乱歩邸なのかもしれません)で、乱歩は三組くらい同時に打ち合わせしていた

小林信彦自身の就職から宝石入社までの経緯もそれなり話していました
セールスマンから、外人向け住宅の会社、そこが潰れて無職
池袋近辺で失業保険だけで暮らしており、失業保険が切れる寸前に宝石編集長の依頼があった

ヒッチコックマガジンの編集長をやめてほしいというのは乱歩から直接言われた
雑誌がそれなりに危ないというのは分かっていたし、受け入れた
ただ裏ではいろいろと会ったようだ、もっとも乱歩も自分のことを「言うことを聞かない」といっていたらしい

自分の記憶に残っているのはこの辺りですかね
講演の終わり方がものすごくぶっきらぼうな感じだったのも印象に残った

 レス番166と167の投稿者の方に深甚なる謝意を表しておきたいと思います。ご親切にありがとうございました。ちなみに、文中の「慎太郎ミステリー」というのは、たぶんこのことだと思います。

 テレビドラマデータベース:タグ「慎太郎ミステリー」での検索結果

 つづきまして、旅日記は「武田節」のメロディに乗せて甲府篇となりました。

 名張まちなかブログ:横浜東京甲府旅日記(三)(10月13日)

 竹中英太郎記念館の金子紫さんにはひとかたならぬお世話になってしまいました。ここにあらためて謝意を表する次第です。ほんとにありがとうございました。



港が見える丘への道における疑問と逡巡
2009年10月16日(金)

 早ッ、というしかありませんが、あす17日はミステリー文学資料館のトーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」第三回として末永昭二さんの「海野十三」が催される日です。

 ミステリー文学資料館:トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」のご案内

 第二回の浜田知明さんによる「横溝正史」はこんな感じ、ひとことでいえば大好評だったようです。

 めとLOG 〜ミステリー映画の世界:ミステリー文学資料館へ赴く。 トーク&ディスカッション「『新青年』の作家たち」(10月10日)

 いっぽう神奈川近代文学館の「大乱歩展」、例によって小林信彦さんの記念講演の話題です。

 人外境だより2008:信彦さんの週刊文春コラム(10月8日)

 古畑拓三郎さんから「しばらくは要チェック」とお知らせをいただいた「週刊文春」、きのう発売された10月22日号の小林さんの連載「本音を申せば」は「港が見える丘への道で」とのタイトルで、まさしく10月3日のことが記されています。しかし、これもまさしく「道で」とあるとおり、2016年オリンピックの開催地決定だの、厚労省の健康局長で新型インフルエンザ関連の利権を一手に握っているらしい上田博三さんとおっしゃる国民の敵とも呼ぶべき悪徳官僚だの、8月12日に亡くなった山城新伍さんだの、神奈川近代文学館への途上で想起されたあれこれの話題が次々に綴られて、講演内容に関係があるのはわずかに最後の一段落のみ。

 とにかく、近代文学館で〈大正文士としての江戸川乱歩〉といった話を一時間半ほどするつもりなのだが、〈大正文士〉なんてコトバが聴衆に通じるかどうか。乱歩に純文学をやれと追いかけた宇野浩二の名前が通じるかどうか?

 この疑問と逡巡はどんな展開に至るのか、待たれよ次号、といったところです。こうなったらもう連載を何回分も、あるいは十何回分でも費やして、「乱歩の二つの顔」を誌上にくわしく再現していただきたいものだと思わざるを得ません。にしてもやっぱり、直接拝聴できなかったのはなんとも残念至極です。

 旅日記はようやく完結。

 名張まちなかブログ:横浜東京甲府旅日記(完)(10月16日)

 短い旅の空でしたが、お世話になったみなさんにあらためてお礼を申しあげます。またたっぷりとお世話になりたいものだと思っております。それまでどうぞお元気で。



今年は何のアニバーサリーなのかと思う
2009年10月19日(月)

 9月24日付残日録でお知らせいたしました件。

 人外境主人残日録:「青銅の魔人」を原作に「仮面舞盗会」

 劇団のオフィシャルサイトはこちら。

 LED-Homepage:Home

 10月15日から18日までという短い期間の公演でしたが、なかなか好評だったようです。ご覧になった方からはとても面白かったとのメールを頂戴しており、青銅の魔人のほかに黒蜥蜴や人間豹まで登場する非常に凝ったつくりのお芝居になっていたとのことでした。

 大阪府河内長野市では11月の7日と8日、「暗黒星」のお芝居がこんなところで。

 劇団G-フォレスタ WEb Site:Home

 ウェブニュースはこちら。

 YOMIURI ONLINE:古民家で劇「乱歩・暗黒星」★(10月19日)

 乱歩歌舞伎の評判記はこんな感じ。

 YOMIURI ONLINE:[評]京乱噂鉤爪(きょうをみだすうわさのかぎづめ)=国立劇場(10月19日)

 そうかと思うとこちらは「大乱歩展」。

 MSN産経ニュース:【産経抄】10月19日

 なんともたいしたものです。太宰治や松本清張みたいに生誕百年を迎えたというのであればともかく、乱歩のアニバーサリーイヤーなんかではまったくない今年、それはまあ、しいてこじつければ三人書房開店九十周年とかいったことにはなるわけですが、とくになんでもない年だというのにこれだけ乱歩の名前に遭遇してしまうのですから、なんともたいしたものだというしかありません。



講座「涙香、『新青年』、乱歩」予告篇
2009年10月20日(火)

 たいへん長らくお待たせしてなんかちっともいなかったとは思いますが、10月3日にミステリー文学資料館で催されましたトーク&ディスカッションのトークの部、ネット上に再現することにいたします。もちろんトークそのままではなくて、当日喋ったところを適当に補いながら綴ることになります。

 タイトルは「涙香、『新青年』、乱歩」といたしました。乱歩をテーマにしたトーク&ディスカッションの講師役を務めることになったとき、ミステリー文学資料館の館長でいらっしゃる権田萬治先生に、トークの内容はある程度「新青年」に重きを置いたほうがいいのでしょうか、と電話でお尋ねしましたところ、そんなことはない、自由に喋ってくれればいい、なんだったら去年、日本推理作家協会の土曜サロンで喋ったようなことでもいいんだから、とのお言葉を頂戴いたしました。ああ、それは楽でいいな、とは思ったのですが、自由に喋るとなるとかえって何を喋っていいんだかわからなくなり、しかも「『新青年』の作家たち」と銘打った連続講座のトップバッターを務めるわけなんですから、やはり「新青年」を無視するわけにはまいらぬであろうなと判断いたしました。

 ですから「新青年」を手がかりにトークを始めることにしたのですが、えー、「新青年」という雑誌はかくかくしかじかでございましてですな、みたいな説明はいっさい省きました。ほとんどPRもなしのトーク&ディスカッションにわざわざ足を運んでくださる参加者、しかも神奈川近代文学館で小林信彦さんが「乱歩の二つの顔」と題した記念講演をなさっているときにあえてこのトーク&ディスカッションを選んでくださる参加者となると、それはもういわゆる濃い人ばかりであろうと踏んで、初心者向けの紹介めいた話はことごとく取っ払ってしまった次第です。参加者層を限定することができた分、一般の参加者を対象に講演された小林さんよりもはるかにやりやすかっただろうなと思われます。与えられた時間が一時間しかなかったという事情もありました。

 それにしても、横浜の高台、港の見える丘公園にある文学館で小林信彦さんが『探偵小説四十年』にもとづいて乱歩のことをあれこれ話していらっしゃったころ、池袋にあるビルの地下では、だいたいこの地下という場そのものが怪しいわけですが、乱歩が『探偵小説四十年』に書いたことをうかうか鵜呑みにするのはそろそろやめたほうがいいのではないでしょうかとか、乱歩が書いたのはほんとに探偵小説だったのでしょうかとか、考えてみればずいぶん罰当たりなことを私はぺらぺら喋っていたわけで、こうなりますと天国の乱歩だってやっぱり10月3日には横浜のほうに眼を向けていたのであろうなと思わざるを得ません。なんだかなあ。



グーグル先生ありがとうございましたッ
2009年10月21日(水)

 きのうの予告をあっさり反故にし、ウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」はさっさと先送りいたしまして、まずはおなじみ「大乱歩展」の話題。荒俣宏さんに名張市の二銭銅貨煎餅をご賞味いただいたみたいです。何のことかとおっしゃる方はブログのほうをどうぞ。

 名張まちなかブログ:三重も名張も頑張れよの巻(10月21日)

 つづきまして、きょうは乱歩のお誕生日だという話題です。これもまた石塚公昭さんからお知らせいただいたのですが、あのグーグルの日本語ページがこんなことに。

 Google:Home

 2ちゃんねるミステリー板乱歩スレでも話題です。レス番161の方に座布団一枚。

 【人でなしの恋】 江戸川乱歩 第十四夜:158-161

 ウェブニュースもあります。

 RBB TODAY:Googleロゴが少年探偵団に!(10月21日)

 記念に保存いたしましたキャプチャ画像。

 ロゴがこれ。

 いやー、なんか日本中のそこかしこで乱歩のお誕生日を祝福してくれているような感じがして、きょうはなかなかいい一日になりました。



講座「涙香、『新青年』、乱歩」第一講
2009年10月22日(木)

 ずるッ。思いっきり、ずるッ。本屋さんで思わずずっこけてしまいました。本日発売の「週刊文春」10月29日号、先週号のつづきはいかにと小林信彦さんの連載「本音を申せば」を開いてみたところ、タイトルは「なつかしい人、笠原和夫」。ずるッ。本文の書き出しは、

 ──笠原和夫の名をご存じだろうか?

 ずるッ。ずるずるッ。「大乱歩展」の話題は先週だけで終わってしまい、今週は「体育の日を入れて三日間の連休に、ぼくは久々に笠原・深作両氏の本をまとめて読んだ」とのことで、深作欣二監督の「仁義なき戦い」シリーズでシナリオを手がけた笠原和夫のことが回想されています。それはまあ、神奈川近代文学館での講演がそのまま誌上に再現されるとまでは思っていませんでしたけど、講演会場の雰囲気であるとか、展示内容の感想であるとか、あるいはいままで筆にしたことがなかった乱歩のエピソードであるとか、今週号ではそういったものが語られるのであろうなと一点の疑いもなく決めつけてしまっておりましたので、思いっきりずるッとずっこけてしまう仕儀とはなりました。週刊誌の連載というのは本来そういうものなのかもしれませんが、「本音を申せば」のなかでも一週間という時間が経過していたわけです。

 しかたありませんから、いや別にしかたがないということもないのですが、予告しておきました「涙香、『新青年』、乱歩」のウェブ版講座を開講いたします。トーク&ディスカッションの会場で配付した資料をもとに話を進めることにして、まず一枚目をどうぞ。

 クリックすると大きな画像が開きますので、そちらをご覧ください。

 「新青年」と江戸川乱歩

 「新青年」は大正9年に創刊され、昭和25年に廃刊を迎えました。乱歩との関わりはとてもひとことでは語れませんが、両者の関係を示す具体的な数値として「年度別作品掲載冊数」を調べてみました。「新青年」は月刊ですから一年にレギュラーが十二号、ほかにイレギュラーの増刊が二号ほど出たりもしていましたから、年間十四号くらい発行されていたわけですが、そのなかに乱歩作品の掲載された号が何冊あったかというデータです。「小説(合作を除く)」と「随筆・評論(アンケートを含む)」にわけてカウントいたしました。

 大正12年は小説が「二銭銅貨」「一枚の切符」「恐ろしき錯誤」で三、翌13年は「二癈人」と「双生児」で二といったあんばい。昭和3年の小説は「陰獣」一作だけなのですが、三回にわたって掲載されましたから三ということになります。乱歩ファンにとっては何の変哲もないデータで、「新青年」の誌上で初期の名作短篇をつるべ打ちしたあと、講談社あたりの娯楽雑誌をホームグラウンドにいわゆる通俗長篇で大向こうを唸らせて花形作家の地位を不動のものとした乱歩は、おのずと「新青年」とのつきあいが疎遠になってしまいはしたのですが、水谷準編集長の懇望もだしがたく「悪霊」の連載を開始、ところがこれがあっけなく中絶してしまい、以後「新青年」に小説を発表することはありませんでした。乱歩ファンならよくご存じのゆくたてです。

 しかし、戦後の昭和24年から25年にかけて、乱歩はじつに頻繁に「新青年」に登場しています。この事実は、乱歩ファンにとってもいささか意外なものであるかもしれません。終幕に臨んで、とっくに姿を消していたはずなのにいつのまにか舞台に立ち戻り、おりてくる緞帳の向こうに消えてゆく登場人物のように、あるいは、長い確執と義絶の果て、死の床に横たわった父親を看取るためひっそりと生家に帰還した息子のように、乱歩はその誌面でデビューを飾った「新青年」の最期に寄り添っていたわけです。

 このとき乱歩が「新青年」に発表していたのは、のちに『探偵小説四十年』という大冊にまとめられることになる自伝「探偵小説三十年」でした。廃刊まで十回にわたって、乱歩は幼年期から「新青年」にたどりつくまでのみずからの軌跡を手際よく振り返っています。



乱歩の秋を席捲する『明智小五郎読本』
2009年10月24日(土)

 展示会にお芝居にまたフォーラムに、秋の深まりとともに乱歩の秋もいまやたけなわといったところですが、肝心の書物の世界はどうなっているのかといいますと、出版不況もどこ吹く風、乱歩ファンの度肝を抜き荒肝をひしぐ大冊が上梓されています。乱歩の秋を席捲する住田忠久さんの『明智小五郎読本』(長崎出版)がそれです。千ページになんなんとするボリュームや本体七千八百円という価格もさることながら、圧倒されるのはむろんその内容。著者みずから序文のなかで「ありとあらゆる媒体で取り上げられた明智小五郎に関する詳細な記録を一冊に纏めた」と豪語する全方位的なマニアックさと半端ではない情報量には恐れ入るしかありません。この浩瀚な著述をデータとして録するにあたりましては、えーいッ、とばかりこちらも精一杯のモノマニアぶりを発揮するしかありませんでした。ちょっと疲れてしまいましたけど。

 RAMPO Entry File:明智小五郎読本 住田忠久

 おあとはウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」、第一講のつづきがちょっとだけあります。

 「探偵小説三十年」から『探偵小説四十年』へ

 「新青年」で始まった「探偵小説三十年」の連載は同誌の廃刊を受けて「宝石」に舞台を移し、のちに「探偵小説三十五年」と改題されて昭和35年に完結を見ました。連載開始が昭和24年でしたから執筆期間は十年以上の長きにわたったことになります。この連載が『探偵小説四十年』として出版されたのは昭和36年、西暦でいえば1961年のことですから、初刊以来すでに四十八年もの時間が経過しているというわけです。

 『探偵小説四十年』はいうまでもなく乱歩の自伝、つまり個人史なのですが、乱歩の個人史とあればそれはおのずから日本探偵小説史ということになってしまいます。ならざるを得ません。げんにこの四十八年のあいだ、『探偵小説四十年』は乱歩個人の生涯のみならず日本探偵小説の歴史を知るための一級の資料としても読まれてきたはずですし、いつかしら不可侵の聖典として崇められるに至ったと表現することさえ可能かもしれません。そしてそれは、おそらく乱歩自身がはっきり自覚していたことであったと思われます。自分の自伝はそのまま日本探偵小説史でもあるという自覚のもとに、というよりはむしろそうなることを明確に企図して、乱歩は『探偵小説四十年』の執筆をつづけたのではなかったかと推測される次第です。



講座「涙香、『新青年』、乱歩」第二講
2009年10月25日(日)

 第二講です。

 別に明確な区切りはありません。配付資料一ページが一講という感じです。

 『探偵小説四十年』の成立

 光文社文庫版乱歩全集の『探偵小説四十年(上)』に収められた新保博久さんの「解題」からいささかを引用いたしました。「新青年」における「探偵小説三十年」の連載は、森下雨村の「探偵作家思い出話」が三回にわたって掲載されたあとを受けて始まり、第一回が発表された昭和24年10月号の「編輯後記」には「少くとも一年はつゞく豫定」と記されていたそうですが、乱歩にはそれを一年や二年で終わらせるつもりなどまったくなかったらしいということは、連載の冒頭にわざわざ「はしがき」が配されている点からも、あるいは幼年期のことから悠揚迫らず筆を進めてゆく構成からも、容易に推測されるところであるといっていいでしょう。しかし、十回の連載を終えた時点で「新青年」は廃刊となってしまいました。乱歩は「探偵小説三十年」を書き継ぐ舞台として「宝石」を選択することになります。

 「宝石」こそは、乱歩が戦後のホームグラウンドとした雑誌でした。昭和21年3月の、あるいは4月の創刊以来(細かいことを記しておきますと、創刊号の発行日は奥付では3月25日、裏表紙では4月1日)、毎号のように稿を寄せ、とくに同年9月号からは「幻影城通信」を連載して、乱歩は内外の探偵小説に関する話題を縦横無尽に語りつづけました。いっぽう戦後の「新青年」はどうだったかといいますと、昭和21年10月号の「魔術と探偵小説」を唯一の例外として、「探偵小説三十年」の連載が始まるまで、乱歩はただの一篇も文章を発表していませんでした。「新青年」の編集部が昭和10年あたりからの乱歩との疎遠を戦後も引きずり、原稿を依頼しなかったということなのだと考えられますが、逆にいえば乱歩も「新青年」を必要としていなかったのかもしれません。

 その「新青年」から回想記を依頼され、本格的な自伝を執筆すると決めた時点で、乱歩は「新青年」の必要性を強く認識したのではないかと思われます。自伝こそは「新青年」に執筆されなければならない。まさにその誌面でデビューを果たし、探偵小説との蜜月を過ごしながら、娯楽雑誌に軸足を移したせいで疎遠になってしまった「新青年」こそは、探偵作家としての過去を対象化して自己確認する、あるいは自身の存在を読者に再認識させる場としてうってつけである。乱歩はそのように考え、「新青年」をいわば再発見したのではないかと推測される次第です。現在のホームグラウンドである「宝石」には探偵小説の現在を、過去のホームグラウンドであった「新青年」にはみずからの、ということはすなわち探偵小説の過去を、それぞれに綴ってゆくことが乱歩の目論んだところであったはずだと私には思われます。

 しかし、「新青年」は廃刊となってしまいました。「探偵小説三十年」を書き継ぐ舞台として「宝石」を選択した乱歩は、連載を再開した昭和26年3月号に寄せた「はしがき」で「本号から『幻影城通信』を暫く休んで、私の探偵作家としての思出話を連載する」と述べているのですが、「宝石」のレギュラーだった連載を中断してまで「新青年」の連載を継続するというこの宣言は、「探偵小説三十年」が乱歩にとってきわめて重要なものであったことを暗に示すものだと考えていいように思われます。ちなみに「幻影城通信」は、同年1月号に掲載されたものを最後として、「宝石」の誌上に二度と登場することはありませんでした。



沖積舎の桃源社版乱歩全集復刻版が完結
2009年10月26日(月)

 まずはお詫びと訂正。10月24日にお知らせした件です。

 人外境主人残日録:乱歩の秋を席捲する『明智小五郎読本』

 この日の残日録ならびに『明智小五郎読本』のエントリのなかで著者名を「角田忠久」と誤記してしまっていた箇所がありました。正しくは「住田忠久」です。なんでこんな間違いが生じたのかといいますと、なんかもうデータを録するだけで疲労困憊してしまったからだと思います。

 RAMPO Entry File:明智小五郎読本 住田忠久

 誤記はすべて訂しました。住田さんに重々お詫びを申しあげる次第です。

 さて、乱歩の秋だというのに乱歩ファンのあいだでさえほとんど話題になっていないらしいのが、沖積舎から出ていた桃源社版乱歩全集の復刻版がついに完結したというニュースです。第一回配本は2006年11月でしたから、ちょうど三年がかり。2006年に二巻、2007年に六巻、2008年にも六巻、そして2009年に四巻と独自のペースで配本が進み、最後の巻がこれでした。

 RAMPO Entry File:江戸川乱歩全集 18 江戸川乱歩

 光文社文庫版乱歩全集の完結が2006年2月のことでしたから、乱歩が全面的に校訂したことで知られる桃源社版全集を復刻しておくのは時宜に適した企画ではあったと思います。しかし正直、出版の意図というものがいまだにもうひとつ理解できないような気もいたします。とはいえ復刻を歓迎した乱歩ファンもたしかにいらっしゃいましたし、真鍋博の瀟洒な装幀に飾られた乱歩全集で書架を彩ることに歓びを見出す愛書家もまた存在するでしょうから、ここは素直に完結を祝しておきたいと思います。

 おあとはウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」第二講のつづきに進みたいところなのですが、あすに先送りいたします。



正史とおりん婆さんとそこらのギャルと
2009年10月27日(火)

 横溝正史ファンのみなさんにお知らせです。都営地下鉄の駅で配布されるフリーマガジン「中央公論Adagio」の最新号が出ました。表紙には正史とおりん婆さんとそこらのギャルが登場。

 詳細はこちらでどうぞ。

 中央公論Adagio:Home

 明日できること今日はせず:中央公論Adagio17号 『横溝正史と牛込神楽坂を歩く』(10月25日)

 それではウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」第二講のつづきといたします。

 「新青年」の「探偵小説三十年」

 昭和25年7月号で廃刊を迎えるまで、「新青年」には「探偵小説三十年」が十回にわたって連載されました。トーク&ディスカッションの配付資料でその内容を紹介しておいたのですが、ここには小見出しだけを拾っておくことといたします。

 はしがき
 涙香心酔
 ポーとドイルの発見
 手製本「奇譚」
 最初の密室小説
 アメリカ渡航の夢
 谷崎潤一郎とドストエフスキー
 智的小説刊行会
 「新青年」の盛観
 馬場孤蝶氏に原稿を送る
 森下雨村氏に原稿を送る
 二年間に五篇
 私を刺戟した文章
 「D坂」と「心理試験」
 大正十四年の主な出来事
 大正十四年発表の作品
 名古屋と東京への旅
 甲賀三郎君
 牧逸馬(林不忘)君
 宇野浩二氏
 野村胡堂氏と写真報知
 探偵趣味の会

 図らずも、ということになるのでしょうが、乱歩が瞬く間に「新青年」の中心的寄稿家になっていったあたりまでが綴られたところで、図らずも「新青年」は廃刊となってしまいました。それにしてもこの十回にわたる連載で、乱歩は職業作家として立つまでの歩みをじつに手際よく語り尽くしています。幼年期から青年期にかけて、乱歩の人生はまさにかくのごとくあったのであろう、かくのごとくあらねばならなかったはずである、と読者は大きく頷かざるを得ません。なにしろここには、探偵作家としてデビューしてから乱歩が手がけたいってみればコンテンツが、その萌芽とでも呼ぶべき形で鮮やかに示されているからです。

 小見出しを見るだけでも、それを窺うことは充分に可能でしょう。幼くして涙香に心酔し、長じてはポーとドイルを発見した。「奇譚」を編んで探偵小説の研究や体系化を試み、同時に編集にも手腕を発揮した。いっぽうでは実作者として密室小説を試作し、職業的な探偵作家になろうと考えたものの、日本では不可能だったからアメリカに渡航することを夢見た。文学的水脈でいえば、谷崎潤一郎とドストエフスキーの作品に探偵小説に通底する面白さを見出した。探偵小説の普及を目的に「智的小説刊行会」を企画して、組織を統率することへの意欲も見せた。そして、「新青年」の発見。驚くべきことに乱歩は、プロとして立つまでにすべてを予行していたのだといっていいのかもしれません。



講座「涙香、『新青年』、乱歩」第三講
2009年10月28日(水)

 第三講です。

 上の画像をクリックし、飛び出してきた大きな画像をご覧ください。

 『探偵小説四十年』に記された大正14年の事実誤認

 乱歩の個人史である『探偵小説四十年』は、同時に日本探偵小説史でもあるという性格を有しています。それはおそらく乱歩自身が企図したところでもあったはずなのですが、もしも日本探偵小説史として読むのであれば、正対するに際して厳正な史料批判が要求されることになります。で、厳正なというかぶっちゃけ意地の悪い史料批判を三例ほど。

 「名古屋と東京への旅」の項に乱歩は、大正14年1月に上京したおり名古屋で下車して小酒井不木を訪れたと記しています。これは事実なのですが、そのとき「名古屋駅の待合室で袴をしめ直しているすきに、そこのベンチへ置いた懐中物を盗まれてしまい、無一物となった」とあるのは乱歩の事実誤認です。これは翌年1月のことでした。「大衆文学月報」第五号に掲載された乱歩の「探偵作家一本参る話」で確認できる事実です。たしか「新青年」の雑文にも書かれていたぞと思って調べてみましたところ、大正15年5月号、つまり乱歩が担当した合作「五階の窓」の第一回が掲載された号なのですが、その「噂の聞き書き」というコラムにありました。ついでですから引いておきましょう。

 江戸川乱歩氏、先頃東京へ引越しの途中、小酒井博士訪問のため名古屋で下車し、駅の待合室へ入つて袴をとつて帯をしめ直したと想像したまへ。すると傍のベンチに一人の若い男がぼんやりと腰かけてゐたが、乱歩君何かに気をとられてわき見をしながら身支度をして、さて出かけようとすると、そこにゐた男の姿が忽然として消えてゐる。それどころか、確かに今、ベンチの上へ置いた財布がない! サア大変とばかり、さっそく交番へ訴へ出た。
 「で、その男は一体どんな人相風体でしたね?」
 と、警官に聞かれたが、乱歩君気にとめなかつたので、残念ながら少しも覚えてゐず、ぐつと答弁に詰つてしまひ、
 「サア……それが……。でもこの辺には掏摸の常習者がゐるんでせう?」
 と奇抜な逆問に、今度はお巡査さんが眼をパチクリ。──この悲喜劇の幕は、小酒井博士に財布ぐるみ旅費を拝借して東上となつたさうだが、掏摸もし彼を明智小五郎の作者と知らば、恐らく冷汗三斗の思ひがしたであらうか、それとも痛快を叫んだであらうか。

 そんなような事情ですから、乱歩が名古屋駅の待合室で置き引きに遭ったのは大正15年1月のことであったと断じていいでしょう。にしても、大正14年のことであろうが15年のことであろうが、この「名古屋と東京への旅」を読んだ読者は、なんというのか、まったくまあ莫迦なのかこの男は、と思ってしまうかもしれません。莫迦とはいわぬまでも、駅の待合室で置き引きされるなんていったい何をぼーっとしておったのか、くらいのことは思うのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っていたのですが、ゆくりなくも四年前の秋、新宿駅始発の山手線の車内であろうことかあるまいことか置き引きの被害に遭って泣きを見て以来、そうした考えはきれいにふっつり消え去ってしまいました。現在の心境はどうかといいますと、さしずめまあ、一度も置き引きに遭ったことがない人間なんてのは、なんかこう、人としての器が小さいままで成長していないのではないか、人生ってやつの奥深いところがもうひとつ見えていないのではないか、みたいな感じがしているといったところでしょうか。

 それはともかく、それでもなお私は、乱歩はいったい何をぼーっとしておったのかと思わざるを得ません。置き引きではなく、この事実誤認に関してなのですが、ここまでうっかりしていていいものかどうか。というのも、大正14年の上京は乱歩にとってきわめて印象深いものであったはずです。名古屋では小酒井不木に、東京では森下雨村をはじめとした「新青年」の関係者に、そして宇野浩二に、いずれも初対面を果たすことになる旅であり、前年12月に発売された「新青年」新春増刊に「D坂の殺人事件」を発表した新進気鋭の探偵作家として、胸には野心のほむらがむらむら燃え立っていたはずだとも思われるのですが、そんな印象深い上京の記憶が一年後のそれと混同されてしまうことがあるのかどうか。乱歩は「名古屋と東京への旅」を書くときほんとに何をぼーっとしておったのかと首を傾げざるを得ないわけなのですが、この文章が発表されたのは「新青年」の昭和25年4月号、つまり大正14年1月からは二十五年もの時間が経過していたわけですから、記憶が錯綜してしまうのも無理からぬところなのかもしれません。

 すなわち、『探偵小説四十年』に厳正な史料批判を加えるにあたっては、われわれはそこに事実の誤認や記憶の錯誤ないしは無意識的な修正が紛れ込んでいる可能性を念頭に置いておかなければならないというわけです。



「日本暗殺秘録」に感銘した過去がある
2009年10月29日(木)

 しつこいといえばしつこい。くどいといえばくどい。しかし、何といわれたって構いません。念には念を入れて本日発売の「週刊文春」11月5日号をこっそり覗いてみましたところ、小林信彦さんの連載「本音を申せば」のタイトルは「なつかしい人、笠原和夫 2」となっていました。えーッ、「2」かよ「2」。連載のなかを流れる時間は一週間前で足踏みかよ。それならそれで先週は連載まるまる一週分を「大乱歩展」記念講演会の話題に費やしていただき、笠原和夫の回想は今週と来週ということにしていただいてもよかったのではないか。

 いや、いやいや、別に構いません。ぶーたれてるわけではありません。私だって笠原和夫がじつは好きです。消防や厨房のころは別にして、高校生になって初めて観た洋画がロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」、邦画はといえば中島貞夫監督の「日本暗殺秘録」だった過去を持つこの私です。どちらにもいたく感銘を受けたこの私が、中島監督と「日本暗殺秘録」のシナリオを共同執筆した笠原和夫のエピソードを読みたくないわけがありません。笠原和夫の本だって『「妖しの民」と生まれきて』をはじめわずかとはいえ所蔵しておりますし。しかしそれにしても、高校に入って初めて観た洋画と邦画が「ローズマリーの赤ちゃん」と「日本暗殺秘録」であったという事実には、いまから振り返れば自分のその後の人生が見事に暗示されているような気がいたします。なんかもうやりきれませんけど。

 そんなことはともかく、「本音を申せば」に「大乱歩展」記念講演会の話題が綴られることはどうやら完全にないみたいです。しかたありませんから同じ日に行ったトークのウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」の第三講をつづけることにいたします。きのうのつづき、『探偵小説四十年』に記された大正14年の事実誤認が話題となります。

 「牧逸馬(林不忘)」の項に乱歩は、牧逸馬が「D坂の殺人事件」を英訳していたと記しています。「私が上京したのを機会に、探偵作家の会合があって、その席上、森下雨村氏が、英訳をしてあちらの雑誌へ送って見ようではないかといい出され、ちょうど牧逸馬君がアメリカに永くいて英文が達者だったので、同君を煩わすことになったのである」とのことなのですが、これもまた乱歩の事実誤認で、牧逸馬が着手しながら「病気をしたりして長引いているうちに、ついウヤムヤになってしまった」のは「D坂の殺人事件」ではなくて「心理試験」の英訳でした。

 この件については、「新青年」大正14年3月号の「編輯局より」から森下雨村の記すところを引いて根拠にしたいと思います。まず、乱歩のいう「探偵作家の会合」というのはこれのことです。

◆江戸川乱歩君の上京を機とし、一月十六日の晩に、江戸川の橋本に探偵小説同好者の集りを催した。会する者、田中早苗、延原謙、春田能為、長谷川海太郎、松野一夫の諸君、それに編輯同人の神部君と自分、全部で八人の小さい集りであつた。(星野、浅野、妹尾、坂本の諸君は通知が間に合はず、或は事故のため欠席)

 牧逸馬は出席していなかったようですが、この席で雨村が乱歩作品の英訳を提案し、訳者として牧逸馬に白羽の矢を立てたということだったみたいです。ふたたび「編輯局より」から引きましょう。

◆因に二月号掲載の「心理試験」は英訳して、英米の探偵雑誌へ発表するつもりで、牧逸馬氏の手で目下飜訳中である。

 『貼雑年譜』にも牧逸馬が英訳したのは「心理試験」であったことを示す乱歩自身の記述があったはずなのですが、講談社版の『貼雑年譜』には見当たりません。だとすれば東京創元社版のはずなのですが、残念ながらあの二冊本、ちょっとした事情によっていますぐさっと見られる状態にはありません。いずれ確認することといたしますが、雨村の「編輯局より」だけを根拠に乱歩の事実誤認を指摘することは充分に可能でしょう。しかしまあ念には念を入れることにして、しつこいといわれようがくどいといわれようが、あすは「牧逸馬(林不忘)」の「2」みたいな内容をお届けすることといたします。



これやこの乱歩を掲げて東海を売ってる
2009年10月30日(金)

 少し以前、奥付上でいえばちょうど四か月前のことになりますが、こんな本が出ました。

 Amazon.co.jp:「東海」を読む−近代空間(トポス)と文学

 草深い当地の新刊書店には見当たりません。しかし「坪内逍遙、江戸川乱歩、新美南吉、尾崎士郎から小谷剛、小島信夫、堀田あけみまで」とか紹介されてんだから買わぬわけにもいかんだろうと考え、ネット通販を利用してもいいのですがお金はできるだけ地元に落とすことにしておりますゆえ、行きつけの本屋さんに取り寄せを依頼いたしました。届きました。巻末索引が附されていましたのでさっそく視線を走らせましたところ、え〜ッ、たった一箇所かよ〜、一箇所だけかよ〜、と私は泣きたくなりました。三百五十ページ以上もある本、ほぼ四千円もした本なのに、乱歩の名前はわずか一箇所に出てくるのみ、それも小酒井不木の添えものみたいな扱いではありませんか。

 RAMPO Entry File:〈東海〉を読む 近代空間と文学 日本近代文学会東海支部

 それはまあ出てきます。一箇所だけの添えものとはいえ、乱歩の名前はたしかに出てきます。しかしそれならそれで、この一冊を紹介するにあたって乱歩の名前はもう少し控えめに扱われるべきではないのか。帯だってこんななんだもん。

 坪内逍遙につづいて二番目に名前が出てくるのだから、乱歩のことは当然それなりの比重で記されているのだと思ってしまうではないか、詐欺かよまったく、となかば憤然としながら裏表紙側の帯を打ち眺めてみましたところ──

 「本書に登場する主な作家」が五十音順で列記されているのですが、乱歩の名前は見つかりません。それならば表紙側にわざわざ乱歩を持ち出すような真似は、とは思いましたものの、ああ、なるほどな、とも思われました。乱歩が「本書に登場する主な作家」ではないということが、たとえ裏表紙のほうであるとはいえこうして帯に謳われているわけですから、これは決して詐欺ではありません。いってみれば戦略でしょう。乱歩を掲げて東海を売る。なかなかの知能犯、いや犯罪ではありませんから知能犯といってしまうのは変ですけれど、乱歩の知名度をうまく利用したクレバーな帯だと感心いたしました、ということにしておきましょう。

 それでは以下、ウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」第三講のつづきとなります。「牧逸馬(林不忘)」の「2」みたいなことを記しますが、もしもここにひとりの注意深い読者がいたならば、彼は牧逸馬が「D坂の殺人事件」の英訳を担当したという『探偵小説四十年』の記述に疑問を抱くことになるはずです。なぜか。「D坂の殺人事件」は日本家屋でも密室殺人が可能なのかというテーマに挑んだ作品だからです。わざわざ英訳して英米の読者に提供する、つまり日本の建築物に関する知識が皆無であろう読者に読ませる作品としては、あまりにも不向きなものだといわざるを得ません。しかしわれわれ不注意な読者は、というよりはごく普通の読者なわけなのですが、乱歩の記したところをいちいち疑ってかかるようなことはしませんから、ふーん、と思うだけで乱歩の誤認を読み過ごしてしまいます。『探偵小説四十年』に厳正な史料批判のひとつも加えてやろうかという人間には、乱歩の記述を頭から疑ってかかるほどの意地の悪さと注意深さが要求されるというわけです。

 つづいて事実誤認の三点目。「探偵趣味の会」の項に乱歩は、「私が神戸の両君を訪ねたのは大正十四年四月十一日であった」と記しています。「両君」というのは西田政治と横溝正史。正史から届いた4月12日付の葉書に「昨日は失礼しました、云々」とあるのを根拠として、乱歩は両人に初めて会ったのがこの日であったと断定しています。しかし、これがまたしても事実誤認。4月11日は大阪毎日新聞社で探偵趣味の会の初会合が開かれた日でした。これは乱歩自身、この年の「新青年」6月号に寄せた「『探偵趣味の会』」で報告しているところでもあります。正史の葉書は探偵趣味の会の初会合について「昨日は失礼しました」と述べたものだったのですが、乱歩は「探偵小説三十年」の執筆時、保存してあった正史の古い葉書に記されている「昨日」が初対面の日だったと勘違いしてしまったというわけです。実際には初会合以前に初対面が済まされていたはずで、このあたりの事情はじつに無残な失敗に終わった三重県の官民協働事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」で刊行した不木と乱歩の書簡集『子不語の夢』の脚註において、天下無双の脚註王たる村上裕徳さんが仔細に考証していらっしゃるところです。

 この事実誤認が面白いのは、面白いというよりは厄介なというべきなのかもしれませんが、関係者によって誤認が踏襲されている点でしょう。まず横溝正史。「初対面の乱歩さん」というエッセイにこう書いています。

 乱歩さんののこした名著「探偵小説四十年」によると、私が乱歩さんにはじめてお眼にかかったのは、大正十四年四月十一日ということになっている。

 正史は「名著」である『探偵小説四十年』の記述を毛筋ほども疑っていませんし、西田政治も正史全集の月報に寄せた「神戸時代の横溝君と私」でご丁寧にこの誤認を踏襲し、「乱歩さんの書いたものによると『私が神戸の両君を訪ねたのは大正十四年四月十一日であった。予め手紙で」などと『探偵小説四十年』を引用して「四十数年前の私たちの会見が、なつかしい思い出となって浮んで来る」とまで述べている始末です。当事者三人が三人とも同じように間違った供述をしているのですから、これはある種の完全犯罪みたいなものなのかもしれませんが、村上裕徳さんのような注意深い読者が大正14年4月11日は探偵趣味の会の初会合の日であったということに気がつきさえすれば、事実誤認は捕縛された盗賊のように白日のもとに晒されることになります。



ちはやぶる乱歩の蔵を幻影城と呼ぶなよ
2009年10月31日(土)

 ウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」第三講のつづきは、まことに勝手ながらお休みといたします。

 さて、こんな雑誌が出ましたので買ってきました。

 OOPS !:10/29発売「FREECELL」vol.3は松本潤表紙巻頭18ページ(10月18日)

 お読みいただきましたとおり、「江戸川乱歩が生前、書庫として使っていた巨大な蔵、通称“幻影城”にて松本潤を撮りおろした、表紙巻頭18ページ」みたいな雑誌なのですが、とても大きな雑誌なので拙宅のスキャナーでは一ページをまるごとスキャンすることができません。そんなことはどうだっていいのですが、日本全国の嵐ファンから死ねよばーかと死ぬほどの不興を買ってもこれだけはいっておきたいと思います。

 乱歩の蔵がいつ通称「幻影城」になったというのか。

 え。いったいいつそんなことになったっていうんだ。いい加減なことを口走るものではないぞまったく、とは思うのですが、なんかあの蔵を幻影城と呼ぶならわしがいまや一部にはすっかり定着してしまった観がないでもありません。乱歩自身が自宅の土蔵を幻影城と称したことは一度もなく、それはもうじぶんちの裏の渡り廊下でいつでも行けるような場所に幻影の城が聳え立っているなどと乱歩は夢にも思ったことがないはずなのですが、ファンにとってはまさしく幻影の城ではあるでしょうから、やがて幻影城という呼称が定着してしまうことになるのかもしれません。大きくいえばこれも世の趨勢、逆らってみてもいたしかたのないことで、時世時節は変わろとままよ、みたいな感じに構えていることにいたしましょうか。いやー、われながらすっかり丸くなっちゃって。