人外境主人残日録 2009
名張人外境 Home > 人外境主人残日録 2009
2009 平成21年
2月
2月1日(日)
松居竜五さんの講演会が徳島県で開かれます
2月3日(火)
節分の日に昨年末の落ち穂拾いをいたしました
2月8日(日)
八日えびすなので早々に失礼いたします
2月11日(水)
墓参はしませんでしたが散歩はしました
2月12日(木)
三島由紀夫の書斎における乱歩全集の謎
2月20日(金)
江戸川乱歩年譜集成おぼえがきアゲイン
2月23日(月)
フラグメントで再チャレンジしましたが
2月24日(火)
依頼されたのか希望したのかという問題
2月25日(水)
「少年倶楽部」は何度ベルを鳴らしたか
2月26日(木)
新機軸を求めた新編集長による白羽の矢
2月27日(金)
あれから十年かよ「二十面相は突然に」
2月28日(土)
二十面相ばかりか「妄想姉妹」も突然に
▼1月1日(木)
あけましておめでとうございます
▼1月4日(日)
もうへろへろでございます
▼1月5日(月)
いよいよわからなくなってきました
▼1月6日(火)
いったいどうなるのでしょうか
▼1月7日(水)
深い森のなかであてどなく
▼1月8日(木)
深い森のなかでついふらふらと
▼1月10日(土)
残日録にいたしました
▼1月21日(水)
エントリ中心主義はよかったのですが
▼1月22日(木)
「嗚呼、私の探偵は!」は嗚呼とっくの昔に
松居竜五さんの講演会が徳島県で開かれます
2009年2月1日(日)

 本日は松居竜五さんの講演会に関するエントリをアップロードいたしました。徳島県は北島町立図書館・創世ホールの催しです。テーマは「古今東西の知識の森へ〜南方熊楠の世界」。正直、やられた、と思いました。北島町立図書館・創世ホールの企画には感服させられることが多いのですが、今回の講演会は乱歩関連という一点において、あ、やられたと思わされました。つまり、こういう講演会は名張市がやってもよかった。あるいは、やっているべきであった。それがいまだにできていなくて、しかも名張市は近い将来に財政が破綻することになっているらしいですから、乱歩関連事業として熊楠がらみの講演会を主催することなどとても望めなくなる雲行きです。もしかしたらそんな機会は永遠に失われてしまうのかもしれません。

 乱歩がリスペクトを捧げた同時代の知識人といえば、たとえば谷崎潤一郎でありまた南方熊楠であったわけですが、乱歩はこのふたりからつれなく素っ気ない扱いを受けていましたから、乱歩の生まれた名張市が乱歩のリスペクトをしっかりと継承し、乱歩関連事業として年に一度ずつ催している講演会で谷崎を、また熊楠をテーマにすることができれば天国の乱歩も結構喜んでくれるのではないかと思われるのですが、なにしろ名張市です。ひどいものです。とてもそんな期待はできません。だいたいが天国の乱歩が喜んでくれるかどうか、なんてことは考えたこともありません。ろくに乱歩のことを知らないんですから話になりません。名張市という自治体にとって、乱歩というのはあくまでも自己顕示の素材でしかありません。どうも申しわけありません。

 ご参考までに、松村喜雄の『乱歩おじさん』(1992年、晶文社)から第四章「虚名、愈々高く……」の一節を引いておきます。

 乱歩は男色に関して熊楠に教えを乞う手紙を送っている。けれども、その時には断られ、のちに古い友人である岩田準一を介して手紙を送り、やっと返事をもらっている。(最近『南方熊楠男色談義──岩田準一往復書簡』(八坂書房)という本が刊行された。この本は、昭和六年から十六年にいたる二人の往復書簡をまとめたものである。例の私ども三人組がさかんに乱歩邸を訪問していた頃、この書簡の内容について、乱歩が話していた記憶がある。乱歩も興味津々だったのだろう。)
 こうした例は他にもある。
 あれほど尊敬し、影響も受けた谷崎潤一郎に、礼をつくして書を乞うたことがあるが、依頼したのが大衆探偵作家江戸川乱歩であるという理由で断られている。後に乱歩邸の客間に飾られていた谷崎の書は別途、人を介して書いてもらったものである。
 探偵小説界の巨人江戸川乱歩も、熊楠、潤一郎にはとるにたらない大衆作家とみなされ相手にされなかった。そう言って乱歩は笑っていたが、内心かなりなショックを受けていたことは想像にあまりある。
 戦後、乱歩の、探偵小説の市民権獲得のための血のにじむような努力も、そうしたショックが動機になっていたのだと思う。

 谷崎関連でいえば『落花流水 谷崎潤一郎と祖父関雪の思い出』の渡辺千萬子さんに講演をお願いするとか、あるいは『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』の小谷野敦さんを講師にお迎えするとか、いろいろ考えると楽しくなってくるのですが、いくら考えても実現はしないとなると腹立たしくなってきて、なんだか剣呑な心ばえになってきてしまいますから困ったものです。ともあれ、松居竜五さんの講演会のご成功を僻遠の地からお祈りする次第です。



節分の日に昨年末の落ち穂拾いをいたしました
2009年2月3日(火)

 早くも2月になりました。はやっ、と驚きながら昨年末の落ち穂拾いを少々。

 隔月刊の詩の投稿誌「MY詩集」1月号がシャーロック・ホームズの特集を組んでいて、なかに宇井一さんの「少年探偵団」という一篇があることをさるシャーロッキアンの方からご教示いただきました。ただしこれ、ベイカーストリートイレギュラーズがモチーフかもしれないとのことだったのですが、なんのなんの、意に介することなく関連文献として録しておきました。詳細はこちら。全八連のうち後半四連をお読みいただきましょう。

うちの学校の美術の先生
いつも朝から芸術論議
子供はみんな天才なんだ!
それが口癖だったのに
画家にはなれないままだった
ある日
警察やってきて
それからずっと会ってない

道端に
捨てられていた
子猫三匹
近所の家を回ったけれど
どこもかしこも断られ
途方に暮れる探偵団

今日は卒業記念日で
探偵団はばらばらに
空き地にあった秘密基地
けっきょく何もできなかった
僕らに力はなかったよ

いつか大人になれるなら
また会いたいよ探偵団

 つづいてはこちら。昨年12月に出版された『戸川みゆき・渕上真希のワンダーランドインタビュー』に平井憲太郎さんのインタビュー「祖父江戸川乱歩は人生上手でしたね」が収められています。ビジネス界の「成功者」二十人あまりの生の声を収録し、成功者が「信念を貫き通した強さ、謙虚さ、柔軟さ」を読者に届けたいと企画された一冊。つまり憲太郎さんは乱歩とは無縁な世界の成功者として登場していらっしゃるのですが、やはり乱歩の話題が出てきます。一段落だけお読みいただきましょう。

とにかく業界全体をよくしようという使命感を強く持っていました。たとえば倒産しそうな雑誌の面倒を見て、原稿料をちゃんと払える雑誌をどう維持するかということに、相当苦心したこともありました。また江戸川乱歩賞の創設もそのひとつですね。なんとか賞というのは、ふつう大御所の死後にどちらかの出版者が名前をもらって作るものなのですが、この賞は自分が生きてる時に自分の名前を冠して、確か還暦をきっかけにして昭和29年にスタートしています。3回目からは書き下ろしの小説を賞を出すようになりましたが、自分が設けた基金だけに頼った賞ですから、トロフィーは出せるが賞金は出せない。そこで講談社を引っ張り込み、必ず初版は講談社で単行本にするという約束を取り付けています。そこで筆者には印税が必ず入るしくみになり、賞金よりも大きな報償が約束されたわけですね。最近ではフジテレビが第一回の映像化権はフジテレビが独占するという条件を持って参加しています。そんな風に人を巻き込みながら、自分の力だけではやり遂げられないことを、まとめていくのが上手なんですね。

 全文を読みたいとおっしゃる方はこちらでどうぞ。



八日えびすなので早々に失礼いたします
2009年2月8日(日)

 少しは身を入れてサイトのリニューアルをやっつけるか、と朝からとっかかってみたのですが、これがなかなか捗りません。しかもきょう当地では八日えびすのお祭りが営まれていて、これは名張市鍛冶町にある蛭子神社の例祭です。したがって衰退いちじるしい名張のまちなかが多少はにぎわう日となっているのですが、いったいどんなお祭りなのかと兵庫や大阪や奈良あたりからお客さんが来てくれることになっていて、夜は拙宅にて八日えびす名物の蛤をぶちこんだ鍋を囲んでの大宴会。そんなこんなでなんだか気もそぞろな状態ですので、本日はこれくらいで失礼することにいたします。



墓参はしませんでしたが散歩はしました
2009年2月11日(水)

 2月11日は亡父の命日となっておるのですが、墓参もせず暇を見てはサイトのリニューアルに余念のない建国記念の日、犬の散歩も終え、あとは焼酎を呷るだけとなっております。おかげさまでリニューアルもようよう方向性というやつが定まってきて、「RAMPO Up-To-Date」と「Rampo Fragment」を二本柱として機能的なサイト運営ができそうな気はしているのですが、問題は更新という日々のルーティンにどれだけ時間が割けるかということです。しかも澁澤龍彦が死んだ齢まであと四年、来月24日が来ればあと三年ということになってしまうそれこそ残日の明け暮れですから、「Rampo Fragment」にもとづいて『江戸川乱歩年譜集成』が完成するのはいったいいつの日か。あんまり莫迦なことばかりもやってられません。



三島由紀夫の書斎における乱歩全集の謎
2009年2月12日(木)

 昨年12月、三島由紀夫の「黒蜥蜴」を朗読劇として上演した劇団フーダニットから「黒蜥蜴」公演のリーフレットを頂戴しました(公演の概要はこちらです)。A3サイズの片面は「劇団フーダニット広報部長」という肩書で松坂健さんが全面を占拠し、「黒蜥蜴についての個人的なメモワール、いくつか」という文章を寄せていらっしゃいます。乱歩版黒蜥蜴はいうに及ばず、三島版黒蜥蜴、オペラ版黒蜥蜴、さらには宝塚版黒蜥蜴まで、橋づくしならぬ黒蜥蜴づくしで綴られたエッセイなのですが、わけても三島の書斎にあった乱歩全集の謎を扱ったパートがまことに興味深く、ここに引用して三島ファンならびに乱歩ファンの閲覧に供したいと思います。

黒蜥蜴についての個人的なメモワール、いくつか

松坂 健  

  ●三島由紀夫・仕事場の謎●

 戯曲作者、三島由紀夫が昭和45年11月23日に市ヶ谷の自衛隊に乱入し、割腹自殺を遂げたことは、みなさん承知おきだろう。
 このニュースほど大きなものは、その後いくつもないと思うし、かなりの分量の報道がその当時なされたものだ。
 当然、テレビのカメラも混乱に乗じていろいろきわどいところまで立ち入っていたように思う。
 そのひとつが、自決直後にもかかわらず、カメラが三島邸に入って、彼が執筆活動を続けていた書斎の風景を映したものだ。
 もう三十数年前のことだから、記憶があいまいだし、僕自身の覚え違いがあるかもしれないが、その書斎風景がテレビで映ったとき、「オー」と思うことがあったのだ。
 カメラが書斎をなめる。やがて、執筆してたデスクに行く。三島氏は机の上にペンや消しゴムなどの文房具を置かず、それらに全部ゴム紐をつけて、天井から吊し、必要があると、それをつかんで下に引っ張り、作業を終えて放せば、また道具類が宙に浮いて、机の上が乱雑にならない工夫をしていたと聞いていたのだが、たしかにそういう風になっていた記憶がある。というのも、そういう三島の文房具吊り下げのことは、死の一年ほど前に三島氏自身から委託されて『定本・三島由紀夫書誌』の仕事を手がけ、三島邸に通っていた島崎博さん(ミステリ研究家、雑誌『幻影城』編集長)から、直接聞いていたのである(ちなみに、書誌は1972年薔薇十字社から刊行)。
 そして、そのカメラは三島のデスクの上に、江戸川乱歩全集が置かれているのを映し出した。
 1970年前後は学生運動が盛んで、その反体制ムーブメントの中で、日本土着の革命思想見直しも盛んで、夢野久作とか国枝史郎など怪奇と幻想の文学がもてはやされてもいた。乱歩死後、初めての体系的な全集が講談社で企画されたのも、この昭和44年〜45年だった。この時の全集は全15巻編成で、三島由紀夫は松本清張、中島河太郎とともに監修者として名をつらねている。宣伝のための内容見本やポスターなどは横尾忠則を全面的に起用したのだが、これは三島の推挽によるもの。
 三島は推理小説嫌いを公言していたが、乱歩だけは別格だったようだ。自分が監修している全集をそれなりに大事にしていて、死の寸前まできちんと自分の机に置いていたというのが、なんとも奥ゆかしいじゃないか、というのが、その映像を見たときの僕の素直な感想だった。
 ところが、である。
 その後、写真家篠山紀信が三島邸をなめつくすように写し、写真集に仕立てた(新潮社『三島由紀夫の家』)。当然、「死んだときのまま」とされている書斎の机も写されている。だが、そこには僕がテレビで見たはずの乱歩全集など影形もないし、また天井からぶら下がっているペン類もない。明らかに、整理したのである。死んだときのまま、というのはロマンにすぎない。三島瑶子夫人が、乱歩の本があるなんて、と思った可能性はないとはいえないと思う。もしも、そうだとしたら、なんか残念。
 この『黒蜥蜴』の舞台化を嬉々として行っている様子からしても、三島は乱歩に少なからず親近感を抱いていたにちがいないのだから。だって、美少年趣味だって、共通しているじゃない。
 ということで、いつか事件直後の三島邸内を写したニュースフィルム、見たいものと熱望している。もっとも、このエピソード自体、僕が記憶で作り上げた「白日夢」かもしれないのだけれど。

 私もやはり、三島のデスクにあったという乱歩全集をどっかへやってしまったのは瑶子夫人ではないのかと考えます。どっかへやってしまったというか、もしかしたら乱歩全集は瑶子夫人の手で焚書の刑に処せられてしまったのではないでしょうか。瑶子夫人は気に喰わぬものをなんでもかんでも焼却処分してしまったという伝説を伝え聞かないでもありませんし、それにまたよくよく考えてみるならば、三島の同業者のなかで乱歩ほど瑶子夫人の忌避に触れるところの多かった作家も珍しいのではないかと思われます。

 それはたしかに福島次郎みたいな例もあるにはあるのですが、あんなものは執事に任せておけばいいような地上的な些事をことごとしく暴露しただけのゴシップ作家に過ぎないでしょう。しかるに乱歩は、まず通俗である、という一点をはじめとしてその作家的本質が瑶子夫人の忌避にまた逆鱗に触れるところが少なくなかったのではないかと思われます。などと記すとたいそうですが、親戚一統の鼻つまみになっているどうしようもない叔父または伯父がいて、あんな人とつきあってはいけませんと母親がいくら諭しても子供が懐き慕い姿を見れば駆け寄ってゆく叔父または伯父、それが三島にとっての乱歩であったと瑶子夫人の眼には映っていたということなのかもしれません。いずれにせよくだんのニュースフィルム、現存しているのであればぜひ見てみたいものです。



江戸川乱歩年譜集成おぼえがきアゲイン
2009年2月20日(金)

 アゲインというよりはアゲインアンドアゲインといったほうが正確でしょう。高峰を仰いで一歩踏み出してはみたもののたちまち逡巡し、いつのまにかほったらかしにしてしまって幾星霜。「江戸川乱歩年譜集成」の話です。しかしこのままにしておくわけにはいかんだろうとは思われますので、とりあえずアゲインアンドアゲインでまた手を出してみました。

 最初の意気込みはなかなかのものでした。まず『探偵小説四十年』をきれいに潰してやろう、それも徹底的に潰してやろうと考えてデータを取りはじめました。なにしろ徹底的にやるつもりでしたから、あの大冊に出てくる人名から書名から作品名から雑誌名からみんなまとめて潰してやることにしました。どんな感じか。手許のデータから乱歩が生まれた明治27年の分をどうぞ。

1月
1月31日
小島政二郎、東京に生まれる。

2月
2月2日
片岡鉄兵、岡山県に生まれる。三日か。
2月12日
木村毅、岡山県に生まれる。
2月16日
下村悦夫、和歌山県に生まれる。本名、悦雄。小説家。与謝野晶子、北原白秋らに短歌を学び、小説に転じて「悲願千人斬」などで人気を集めた。平凡社「現代大衆文学全集」第十六巻収録。昭和二十年十二月死去。
2月28日
ベン・ヘクト、アメリカに生まれる。脚本家、小説家。昭和六年八月「世界猟奇全集」第八巻『悪魔の殿堂』が近藤経一の訳で刊行された。一九六四年(昭和三十九)四月死去。

3月
3月23日
吉田甲子太郎、群馬県に生まれる。

4月
4月27日
柳田泉、青森県に生まれる。

5月
5月11日
小牧近江、秋田県に生まれる。本名、近江谷〓〔馬+冂+口〕(おうみやこまき)。評論家。昭和五年刊行開始「世界犯罪叢書」の広告の第六巻『暗殺篇』著者。昭和五十三年十月死去。

8月
8月29日
高桑義生、東京に生まれる。本名、義孝。小説家、俳人。土岐善麿に短歌を学び、のち「快侠七人組」などの時代小説を執筆。昭和十二年から日活京都撮影所脚本部長。平凡社「現代大衆文学全集」第二十七巻収録。昭和五十六年七月死去。

11月
11月11日
佐佐木茂索、京都府に生まれる。小説家、出版人。「時事新報」の編集に携わるいっぽう、芥川龍之介に師事し、大正十三年『春の外套』刊行。昭和二年二月の『創作探偵小説選集』第二輯収録。同四年、菊池寛に招かれて文芸春秋社総編集長となり、同十年には菊池と図って芥川賞と直木賞を制定。第二次大戦後は菊池のあとを受け、文藝春秋新社の社長として再建に尽くした。昭和四十一年十二月死去。

12月
12月3日
ロバート・ルイス・スティーヴンソン、四十四歳で死去。
12月25日
戸川貞雄、東京に生まれる。

 人名はすべて生没を押さえることにしていたのですが、誕生を記録してゆくだけではもの足りないなと思ったのか、途中からは誕生の記述のあとに略伝まで記すという念の入れようで、ですから小島政二郎は誕生のデータだけ、下村悦夫は略伝つきという不統一な記載になっています。ついでですから明治28年。

1月
1月1日
博文館が月刊誌「太陽」を創刊。終刊は昭和三年二月。

2月
2月2日
阿部豊、宮城県に生まれる。映画監督。ハリウッドのプロデューサー、トーマス・H・インスが一九一三年(大正二)公開の「火の海」製作のために日本人を集めたとき、早川雪洲らとともにアメリカに渡った。その後もハリウッドで俳優をつづけ、シナリオも書いていたが、大正十四年、日活から監督として招かれ帰国。同十五年の「足にさわった女」、昭和二年の「彼をめぐる五人の女」などを手がけた。耽綺社同人の原作による日活映画「非常警戒」を監督し、同四年十二月に公開。昭和五十二年一月死去。

3月
3月9日
9日 ザッヘル・マゾッホ、五十九歳で死去。

4月
4月
泉鏡花、「文芸倶楽部」に「夜行巡査」発表。

5月
5月26日
谷川徹三、愛知県に生まれる。

10月
10月1日
松野一夫、福岡県に生まれる。

 もひとつおまけに明治29年。

1月
1月1日
衣笠貞之助、三重県に生まれる。本姓、小亀。
1月12日
吉屋信子、新潟県に生まれる。小説家。乱歩は純文芸から通俗小説への「転向作家」のひとりに数えている。昭和四十八年七月死去。

3月
3月18日
18日 佐々木味津三、愛知県に生まれる。本名、光三。

4月
4月24日
浜尾四郎、東京に生まれる。加藤輝麿の子、浜尾新の養子となる。

5月
5月10日
畑耕一、広島県に生まれる。

8月
8月5日
大辻司郎、東京に生まれる。本名、四郎。漫談家。昭和六年五月「読売新聞」附録の漫画に当時の著名人として乱歩らとともに名があげられた。昭和二十七年四月死去。

9月
9月15日
村山槐多、神奈川県に生まれる。

11月
11月15日
大下宇陀児、長野県に生まれる。本名、木下龍夫。
11月23日
樋口一葉、二十四歳で死去。

12月
12月11日
久山秀子、東京に生まれる。本名、片山襄。のちに改名し、芳村升。

この年
月不明
森田思軒、「間一髪」発表。

 まるできちがいです。上等でしょう。きちがい上等。きちがい呼ばわりされるのはもとより望むところでありますから、きちがいみたいになってこのままデータを取りつづけていればきわめて便利重宝有益有用なデータベースができあがっていたはずなのですが、恥ずかしながら挫折しました。この調子でやってたら二回か三回生まれ変わる必要があるのではないか、と思われてきたからです。いつとはなしにほったらかしになってしまい、巻頭から潰していった光文社文庫版『探偵小説四十年(上)』は昭和6年、平凡社版乱歩全集が出版されたあたりに附箋が貼られて、そこで作業が頓挫したことを物語っています。なんだか駄目な私。



フラグメントで再チャレンジしましたが
2009年2月23日(月)

 しかしいつまでも頓挫しっぱなしではまずかろう。そうは思っておりました。「江戸川乱歩年譜集成」の話です。そうは思いながらもちんたらしているあいだに名張人外境の番犬としてご閲覧諸兄姉にも可愛がっていただいていたはずのニコライ・フセヴォロドヴィチ・スタヴローギンが天寿をまっとうしたり、お役所ってやっぱ駄目じゃんとか思って昨年3月に名張市立図書館におさらばしたり、なんやかんやありましたのでえーいと褌を締め直し、仕切り直しのために「Rampo Fragment」というページを新設して再チャレンジを図ったのが昨年4月のことでした。再チャレンジっていうのはいかにも古いですけど。



依頼されたのか希望したのかという問題
2009年2月24日(火)

 再チャレンジはしたのですが、またいきなり『探偵小説四十年』と首っ引きになるのもしんどいかなと考え、そこらにあるフラグメントを「Rampo Fragment」のページに手当たり次第に放り込んでみることにしました。その作業からもいつのまにか手が離れてしまっていたのですが、またぼちぼちと再開し、ここ十日ほどは『探偵小説四十年』や『子不語の夢』あたりからもデータを拾ってみてはいるものの、それにしても「江戸川乱歩年譜集成」なんてのはほんとにとんでもない高峰だなとあらためて嘆息される次第です。

 ところで本日、塩澤実信さんの『ベストセラー作家 その運命を決めた一冊』のデータを掲載いたしました。エントリはこちらとなっておりますが、そのエントリからの流れで以下にいささかを記します。乱歩はいかにして少年ものの世界に足を踏み入れたのか、『探偵小説四十年』の「初めての少年もの」にはこうあります。

 この年の正月号から、といえば前年の秋ごろから話がきまっていたわけになるが、どういう風のふきまわしか、私は少年ものを書いて見る気になった。もともと、私の娯楽雑誌に書く大人ものは、筋も子供っぽいし、文章もやさしいものが多かったから、少年倶楽部の編集者が、この人はきっと子供ものに向くだろうと狙いをつけたのかも知れない。前々から依頼は受けていたけれど、それほど熱烈な依頼でもなかったので、私も本気になれないでいたのだが、このころになって、私の方でも、どうせ大人の雑誌に子供っぽいものを書いているんだから、少年雑誌に書いたって同じことじゃないかという気になったのであろう。今では当時の心境をハッキリ思い出せないが、そういうことと、一方では前記の「意気あがらず」で、新稿依頼の雑誌社数が昔より少なくなっていたところへ、少年倶楽部が強く依頼してくれたのがきっかけとなったものであろう。

 「初めての少年もの」が発表されたのは昭和30年の「宝石」3月号と4月号ですから、「少年倶楽部」への執筆を決めたのが昭和10年秋のことだとしたら、乱歩は二十年前の思い出を綴っていることになります。「今では当時の心境をハッキリ思い出せない」というのも無理からぬところでしょう。ところが、昭和10年から六年後、昭和16年に編まれた『貼雑年譜』を開いてみると、「少年倶楽部」の切り抜きの横に乱歩の筆でこんなことが書き込まれています。

今年度ヨリ当方ヨリ希望シテ少年物ヲ書ク(初メテ也)

 「少年倶楽部が強く依頼してくれたのがきっかけとなった」とする『探偵小説四十年』と、「当方ヨリ希望シテ」とする『貼雑年譜』。両者には単なるニュアンスという以上にはなはだしい違いがありますが、普通に考えれば『貼雑年譜』に記されたのが正直なところではないでしょうか。乱歩は『貼雑年譜』を参照しながら『探偵小説四十年』を執筆していましたから「当方ヨリ希望シテ」という一文も読んでいたはずなのですが、自分から希望して少年ものを書いたと打ち明けるのはちょっとなあ、という逡巡が潤色に走らせた、といって悪ければ「ハッキリ思い出せない」といった曖昧にぼかされた記述を採用させたのではないか。しかしここにはさらにややこしい問題があって、それが『ベストセラー作家 その運命を決めた一冊』が依拠している須藤憲三の「乱歩先生の『少年もの』」にほかなりません。というところで「Rampo Fragment」に本日新設した昭和10年のページがこちら、フラグメント「乱歩先生の『少年もの』」はこちら

 「乱歩先生の『少年もの』」は昭和44年、つまり昭和10年から三十四年後に書かれたものですから、全面的に信用していいものかどうかという気はします。げんに「乱歩先生は当時講談倶楽部に“蜘蛛男”を、キングに“黄金仮面”を連載中で」とあるのは明らかな記憶違いで、前者は昭和4年8月から翌5年6月まで、後者は昭和5年9月から翌6年10月までの連載ですから昭和10年夏に連載中であったはずはなく、こんな誤りがあるおかげでこのエッセイの信憑性というものは一気に目減りしてしまうという寸法です。これをいったいどう考えるべきなのか。



「少年倶楽部」は何度ベルを鳴らしたか
2009年2月25日(水)

 乱歩の「初めての少年もの」と須藤憲三の「乱歩先生の『少年もの』」とを読み比べた場合、「少年倶楽部」編集部が乱歩にアプローチを開始したのはいつだったのかということが気になってきます。須藤憲三の述べるところははっきりしていて、昭和10年7月ごろの中会議で乱歩起用案が承認され、そのあと開かれた交談会の席で初めて依頼、乱歩は「えっ、ぼくに少年ものを書けというんですか?」と驚いたものの、数日後にはその気になっていたとのことでした。いっぽう乱歩はというと、「前々から依頼は受けていたけれど、それほど熱烈な依頼でもなかった」と編集部からのアプローチが一再ならずあったことを明らかにしています。これはどう考えればいいのか。

 いやいや、考えるまでもないことである、といってしまってもいいのかもしれません。なにしろ乱歩です。タクティシャン乱歩です。少年ものという未知のジャンルに歩を進めるにあたって、それはもう入念の上にも入念に戦略を練っていたであろうことは想像にかたくありません。そういった乱歩の戦略性は芦辺拓さんがつとにご指摘のところで、昨年11月に名張市で催されたミステリ講演会「なぞがたりなばり」の壇上であらためて強調なさっていたところでもあるのですが、とにかくあのタクティシャン乱歩が、少年雑誌に小説を書くように頼まれて自分でも驚いたんだけど数日のうちに決心しちゃった、みたいな感じで少年ものに手を染めたなどという話があるわけがありません。あまり熱烈ではない依頼を以前から受けていて、しかしそれには応諾せず、あるとき何かのきっかけで少年ものへの進出を決意した結果、「当方ヨリ希望シテ少年物ヲ書ク」ということになったと考えるべきではないでしょうか。



新機軸を求めた新編集長による白羽の矢
2009年2月26日(木)

 「初めての少年もの」にあるとおり乱歩が「少年倶楽部」編集部から「前々から依頼は受けていた」のだとすれば、そのアプローチはいつごろ始まったのか。案外、須藤憲三が「乱歩先生の『少年もの』」に記していた「乱歩先生は当時講談倶楽部に“蜘蛛男”を、キングに“黄金仮面”を連載中で」という記憶違いがヒントになるかもしれません。「蜘蛛男」は昭和4年から5年まで、「黄金仮面」は5年から6年まで連載された作品ですから、この連載期間中、でなければ連載は終わっていてもいまだ余韻の醒めやらぬころだったと考えてみましょう。それはいつのことか。

 「黄金仮面」最終回が載ったのは「キング」の昭和6年10月号でした。ちょうど平凡社から乱歩全集が出ていた時期で、「黄金仮面」はいきなり全集入り、同年9月発行の第十巻に収録されて、たぶんおおいに評判を呼んだはずです。ちなみに「蜘蛛男」が収められた第六巻は同年11月の発行でした。乱歩全集の配本は翌7年5月で終了しますが、同じ月には「黄金仮面」が早くも文庫入り、春陽堂の日本小説文庫に登場しました。ところが乱歩はこの年3月に二度目の休筆宣言。ふたたび筆を執ったのは昭和8年秋のことで、「新青年」11月号で「悪霊」、「キング」12月号で「妖虫」、翌9年の「講談倶楽部」1月号で「人間豹」、「日の出」1月号で「黒蜥蜴」と無謀にも見える長篇四作の一挙連載をスタートさせます。

 つまり休筆期間中も原稿の依頼は寄せられていたはずで、『貼雑年譜』には中絶してしまった「悪霊」に関して「執筆ノ約束ヲシテカラ一年余、編輯者水谷準君ハ講談社ノヤウニヤイノヤイノト責メナイダケニ」といった書き込みが見られますから、「キング」や「講談倶楽部」からはやいのやいのと責め立てるような催促があったのではないか。それにまじって「少年倶楽部」編集部からも誘いがあったと考えるのは、それほど不合理なことでもないにちがいありません。

 「少年倶楽部」第五代編集長だった加藤謙一の『少年倶楽部時代 編集長の回想』(講談社、昭和43年)には、「少年倶楽部の編集署名人として私の名が正式に雑誌の奥付から消えてなくなったのは昭和十一年の一月号からだが、実際に現場を離れて須藤憲三君にバトンを渡したのは昭和七年の十月だった」とあります。須藤憲三が実質的な編集長になった昭和7年10月、講談社にはいまだ「蜘蛛男」や「黄金仮面」の余韻が残っていたと考えるのも、やはりそれほど不自然なことではないでしょう。乱歩は休筆の真っ最中だったわけですが、須藤憲三は新編集長としての新機軸を打ち出すべく、少年雑誌にはいかにもミスマッチな乱歩の起用を思いついてアプローチを始めたのではなかったでしょうか。

 「乱歩先生の『少年もの』」に記された「少年倶楽部」新年号のプランニングスケジュールに準じるならば、昭和8年の6月末までに新年号の原案がまとめられ、乱歩に白羽の矢が立てられて、のちに乱歩が「前々から依頼は受けていたけれど、それほど熱烈な依頼でもなかった」と回想することになる接触が始まったのではなかったか、と一応は推測される次第なのですが、実際のところはどうであったのか。



あれから十年かよ「二十面相は突然に」
2009年2月27日(金)

 須藤憲三が「少年倶楽部」の実質的な編集長の座に就いたのは昭和7年10月のことであったという事実にもとづき、須藤の「乱歩先生の『少年もの』」と乱歩の「初めての少年もの」を照合してできるだけ合理的な線を出してみるとどんなことになるでしょうか。

 「少年倶楽部」編集部が乱歩に初めてアプローチの矢を射たのは昭和8年夏だったのではないか。そういう推測が成り立ちます。乱歩の家を訪れたのは編集長ではなくて編集部員。休筆中だった乱歩はもちろん色よい返事をしませんでした。翌9年夏、編集部があらためて新年号からの連載を依頼しても、乱歩は「妖虫」「人間豹」「黒蜥蜴」と三本の連載を抱えてふうふういってた最中ですから、いわゆる取りつく島などどこにもなかったのではないかしら。そして昭和10年夏、いよいよ須藤憲三編集長じきじきの出馬となって、東京会館で開かれた交談会の席上、編集長は初対面の乱歩にいきなり連載の話を切り出し、乱歩は「えっ、ぼくに少年ものを書けというんですか?」と驚いてしまった。

 以前から依頼を受けていた乱歩がことあらためて驚くのはちょっとおかしい感じなのですが、それまでの依頼は軽く受け流していたのだがわざわざ編集長から話があったので本気かよと思って驚いてしまった、といったことであったのかもしれません。それから数日後、須藤憲三が乱歩邸を訪れたところ乱歩はすっかりその気になっていて、編集部との打ち合わせもすらすらすいすいと進んだというのが「乱歩先生の『少年もの』」が伝えるところなのですが、だとするとちょっと腑に落ちない点が出てきます、といったようなことは以前にも記しました。再掲しておきます。「二十面相は突然に」と題した文章の前半です。

 『江戸川乱歩執筆年譜』を編集していたときのことです。
 雑誌連載の初出を確認する必要があったので、大阪府立国際児童文学館に足を運び、「少年倶楽部」や「少女クラブ」の乱歩作品掲載誌を閲覧しました。
 ちなみに、吹田市千里の万博公園内にあるこの文学館は、「少年倶楽部」の収蔵に関してはおそらく日本一の図書館で、同誌の調査はここの蔵書だけでほぼ済ませることができました。

 江戸川乱歩の少年もの第一作「怪人二十面相」は、大日本雄弁会講談社発行の「少年倶楽部」二十三巻一号、つまり昭和十一年新年特大号に発表されました。
 この号を眼にした乱歩ファンは、しかしある種の驚きを禁じ得ないかもしれません。
 乱歩作品の扱いが、なんだか小さすぎるように思えるからです。

 乱歩といえば、「蜘蛛男」に始まる一連の「講談社もの」で、講談社の屋台骨を支えつづけた作家の一人です。
 その乱歩が少年雑誌に新天地を求めたのですから、鳴り物入りで新年号の巻頭に掲載するくらいの扱いは、当然なされているはずではありませんか。

 ところが、実際はそうではありません。
 巻頭作品は大佛次郎の密林奇談「狼少年」で、探偵小説「怪人二十面相」は268ページからと、むしろ巻末に近いあたりに掲載されています。
 ご参考までに目次のコピーを下に掲げますが、特筆大書されているのは、やはり巻頭の「狼少年」です。

 ああ、なんたることでしょう。
 いまもなお熱狂的な少年読者を獲得しつづけている怪人二十面相が、じつはこんなにも地味で控えめなデビューを果たしていたのであったとは。

 大阪府立国際児童文学館では、「少年倶楽部」の昭和十年十二月号も閲覧しました。
 次号予告のページに、連載開始を控えた乱歩が「作者の言葉」を寄せているかもしれないからです。
 ところが、そんなものはどこにも見当たりませんでした。

 それどころか、この号を手にした乱歩ファンは、そんなことよりもさらに恐ろしいある事実に気がついて、一種異様の驚愕を覚えるにちがいありません。
 それは、十二月号に掲載された次号予告のどこを探しても、乱歩の名も二十面相の名も発見できないという事実です。
 読者諸君、これはいったい、どういうことなのでしょう。

 国際児童文学館でとったメモによれば、「少年倶楽部」昭和十年十二月号には、本誌の予告にも綴じ込みの予告にも、「怪人二十面相」はいっさい名が見えず、「新年号から新しく始る傑作小説」として、久米正雄「黒い真珠」、佐藤紅緑「英雄行進曲」、高垣眸「まぼろし城」、大佛次郎「狼少年」の四作が挙げられているばかりなのです。

 何かこれという貴重な品物をねらいますと、かならず前もって、いついく日にはそれをちょうだいに参上するという、予告状を送ることが好きだった稀代の紳士怪盗、あの怪人二十面相が、「少年倶楽部」には何の予告もなしに突然登場していたのだという事実は、乱歩ファンを驚愕させるに十分ではありませんか。

 大阪府立国際児童文学館はいま結構大変なことになっているみたいで、文学館と図書館の違いもわからんようなあほたれがなーにぎゃあぎゃあ騒いでおるのかという気がいたします。しかしそれはそれとして、この「二十面相は突然に」はちょうど十年前の1999年12月に書いた文章で、以来まったく成長というやつをしてこなかった自分、みたいなものに気がついていささか愕然としております。



二十面相ばかりか「妄想姉妹」も突然に
2009年2月28日(土)

 情報入手が遅くなりましたのでお知らせするのもいまごろになってしまいましたが、あす3月1日、というよりはきょうの夜、深夜、テレビドラマに「お勢登場」が登場するようです。いったいどうしたのかと思うほどテレビがくだらないものになってしまったというのはいまや国民の共通認識になりつつある感じなのですが、いわゆる深夜枠の番組にはそこそこ面白い試みが見られるとも聞き及びます。聞き及ぶだけで夜だの深夜だのにはべろんべろんになっているかすっかり高鼾かのどっちかですからそんな番組に縁はないのですが、しかしこの「妄想姉妹」というのはどうもそんな感じの深夜ひそかに放映されている結構意欲的なドラマなのかもしれないなという気がします。しかしまあ、べろんべろんとか高鼾とかそういった問題以前に当地ではこの番組を視聴することができないみたいだから困ったな、こまどり姉妹だなと思っていたところ放送が終わってからインターネット配信されるということをドラマの公式サイトで知って安堵いたしました。詳細はこちらでどうぞ。