人外境主人残日録 2010
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2009年12月
2010 平成22年
2月
2月2日(火)
探偵小説史にみずからを位置づける試み
2月6日(土)
いろいろあら〜な→※ただし本格に限る
2月7日(日)
第一人者にお墨付きを与えるポジション
2月8日(月)
乱歩はいかにして安定を取り戻したのか
2月10日(水)
まったく意味不明の図式に説明を加える
2月12日(金)
水平性から垂直性への避けて通れない道
2月14日(日)
絵探しのエピソードはなぜ封印されたか
2月15日(月)
若い小父さんはどうなってしまったのか
2月16日(火)
『探偵小説四十年』をいかに読むべきか
2月17日(水)
乱歩最大のトリックだといいたいのだが
2月18日(木)
映画の原作をめぐるごくささやかな疑問
2月19日(金)
原作から下敷き、モチーフ、先行作品へ
2月21日(日)
寺島しのぶさんの最優秀女優賞を祝福す
2月22日(月)
「キャタピラー」に関する無根拠な風聞
2月23日(火)
いっそ「ログ」ってことにしたらどうよ
2月24日(水)
「キャタピラー」に「ユルス」はあるか
2月25日(木)
ベルリン発「キャタピラー」感想ブログ
2月26日(金)
風天こと渥美清の句に詠まれていた乱歩
2月28日(日)
みんなもう競うようにして星になってる
▼1月1日(金)
ごく月並みですがおめでとうございます
▼1月2日(土)
新年二日目は当然二日酔いでござるの巻
▼1月3日(日)
新年三日目はほぼ死にそうになる新年会
▼1月4日(月)
新年四日目は悄然として日常生活に戻る
▼1月6日(水)
新年も六日目なれどまだへろへろである
▼1月7日(木)
寒い寒いとちぢこまってるうちに七草粥
▼1月9日(土)
鬼のごとき本棚をお子供衆が攀じ登るよ
▼1月10日(日)
大好評のはずのウェブ版講座ついに再開
▼1月12日(火)
ここで「新青年」終末期を概観しておく
▼1月15日(金)
寒かったり真っ青になったり寒かったり
▼1月16日(土)
かくもあったであろうと思わしめる歩み
▼1月18日(月)
ふしぎな橋を渡ってしまった人をしのぶ
▼1月22日(金)
なんだか無性に春が待ち遠しい気がする
▼1月25日(月)
北森鴻さんのご冥福をお祈りいたします
探偵小説史にみずからを位置づける試み
2010年2月2日(火)

 昭和25年、「新青年」の廃刊にともなって「探偵小説三十年」の連載が途絶えていた時期に、乱歩は短いものながら日本探偵小説史と呼ぶべき作品を発表します。「中央公論」11月号に掲載された「日本探偵小説の系譜」がそれです。本朝における探偵小説の源流から説き起こして戦後の探偵小説論争までを視野に入れた内容で、自伝である「探偵小説三十年」を日本探偵小説史でもあらしめるための筆馴らしと見ることも可能な一篇なのですが、着目すべきは乱歩がこの探偵小説史にみずからを位置づけているという一事でしょう。これはもしかしたら、というのはいちいち確認せずに記していますから断定はできず、したがってもしかしたらという曖昧な表現にならざるを得ないのですが、これは乱歩にとって初めての試みだったのではなかったか。

 むろん乱歩はデビュー以来、自作に関してはきわめて多弁でしたし、日本の探偵小説史にもおりにふれて言及していました。前者の一例には平凡社版乱歩全集に書き下ろされた「探偵小説十年」(昭和7年)があり、後者の一例にはみずから編纂した『日本探偵小説傑作集』に寄せた「日本の探偵小説」(昭和10年)があげられますが、前者には自作と探偵小説史を関連させる視点は存在せず、後者には乱歩自身は登場しません。

 「探偵小説十年」から、「新青年」昭和6年2月号に発表した「旧探偵小説時代は過ぎ去った」について述べたパートを引用。

 だが、おくればせに、この感想文を書いたのには私の身辺に別の動機があった。それは講談社の社員諸君にもよく打ちあけて話したことだが、「蜘蛛男」以来、私は或は口頭で、或は手紙で、それはお話にならぬ程、烈しい非難を受けつづけて来た。私の友人達は例外なく私を軽蔑した。真面目に忠告してくれるものもあった。新らしく出来た年少読者からの称讃の手紙が、驚く程舞込む一方では、従来からの読者が頻々として罵倒の手紙を送って来た。「くたばってしまえ」という様な、思い切った悪口を並べたものも少くなかった。ある一人の読者などは、私の小説中の人物である「野崎三郎」という変名を使っていたが、その野崎三郎からは三日に一度位の割合で、一月以上も続けて、実に根気よく罵倒の手紙がやって来た。好意ある忠告というよりは、罵倒の為の罵倒でしかなかったけれど、その根気のよさにはホトホト感じ入った程であった。

 いわゆる通俗長篇が「烈しい非難を受け」、「友人達は例外なく私を軽蔑した」とはあるのですが、そうした非難や軽蔑はあくまでも乱歩個人の問題として記されているだけで、それを対象化して探偵小説界の動向に結びつけるなどという芸当は、「探偵小説十年」が執筆された昭和7年の時点ではとてもできない相談であったはずです。

 つづいて「日本の探偵小説」から、日本における探偵小説の前史ならびに特殊性について述べられたパートを引用。

 我々は犯罪、怪奇、恐怖の文学では、過去に多くの作品を持っている。怪奇と恐怖の文学は既に王朝時代にその源を発し各時代を通じて絶ゆる事なく、その中には上田秋成の如き優れた作家を見出すのであるし、演劇の方面でも、初期操り芝居の伝統を引く歌舞伎劇の怪奇と幻想、殊に大南北の怪奇犯罪劇、下っては絵草紙、講談の類に至るまで、犯罪と怪奇とは、支那伝来の怪談と並んで、日本の大衆の伝統的興味であり、現代の犯罪、怪奇小説が仮令西洋輸入の文学であるにしても、そこに一脈相通ずるものを見るのに反して、探偵小説は明治二十年代、黒岩涙香によって初めて飜案、大衆化されたのであって、しかも当時の飜案探偵小説は理智の文学としてよりは、多分に怪奇、恐怖の物語として愛読されたのであるから、日本の大衆には、素地として理智探偵小説を受入れにくい所があったのは、少しも無理ではなく、現に純粋の探偵小説が、怪奇幻想の物語に比べて多くの読者を持ち得ないのは、まことに致し方のないことであろう。

 同じ年に発表された「日本探偵小説の多様性について」と同様、乱歩はこの「日本の探偵小説」において「純粋の探偵小説が、怪奇幻想の物語に比べて多くの読者を持ち得ない」ことを認め、それを是として、日本における探偵小説の多様性を容認する立場を表明したうえで、その多様性をじつに精密に分類し分析しているのですが、そうした分類や分析は乱歩自身や乱歩作品を対象外としています。乱歩が描き出した同時代の探偵小説の俯瞰図には、探偵文壇の中心に位置していた乱歩自身の姿は存在していませんでした。あるいは、乱歩はいわゆる空虚な中心としてそこに存在していたというべきでしょうか。

 ひるがえって、「大正末期、私たちが探偵小説を書きだした頃は、物めずらしげに『創作探偵小説』という肩書きをつけられたものである。では、それ以前に、日本には探偵小説がなかったのかというと、かならずしもそうではない」と書き出される昭和25年の「日本探偵小説の系譜」では、探偵小説の源流を近世に尋ね、「創作探偵小説」の誕生を促した文芸潮流を近代に眺めたあと、「新青年」に集った作家によって形成された「日本探偵小説の第一期」が回顧されます。私はさきほど「日本探偵小説の系譜」は「自伝である『探偵小説三十年』を日本探偵小説史でもあらしめるための筆馴らしと見ることも可能な一篇」と記しましたが、「探偵小説三十年」には書き得なかった「創作探偵小説」以前の探偵小説史を補綴する内容だった見ることもまた可能でしょう。



いろいろあら〜な→※ただし本格に限る
2010年2月6日(土)

 昭和25年に発表した「日本探偵小説の系譜」で乱歩は、小栗虫太郎をはじめとした「第二期の作家」の話に入る前に「私自身のことを少しつけ加えておきたい」としてこんなふうに語っています。

 探偵小説書誌学者ともいうべき中島河太郎君が、一九四九年版「探偵小説年鑑」の附録「日本探偵小説史」の昭和四年の項に、私のことをこう書いている。「乱歩の孤島の鬼(雑誌朝日)は長篇としてスリルと謎があり、心理描写も深く出色のものであるが、蜘蛛男(講談倶楽部)以後の通俗大衆物は何百万の新らしい読者を吸収したと共に、これまでの一作毎に新境地を開拓した氏に瞠目していた昔からの読者から、烈しい非難を浴せられるに至った。狭い殻に閉じこもっていた探偵小説を汎く大衆に開放した功績と、今猶探偵小説に対する智識階級の偏見を生んだ一半の原因とを考え合せれば」と書き、中島君はそれにつづけて「如何に氏の筆力が逞しかったかが察せられる」と逃げているが、実はここは「むしろ害毒の方が大きかったのである」と結ぶべきであろう。この中島君の批評は正しい見方であると思う。
 私は少年時代から探偵小説に心酔し、かなりの素質を持っていたはずであるが、いざ書き出して見ると、二、三年で息が切れてしまった。眼高手低の劣等意識に悩まされたのである。当時の文芸評論家平林初之輔は、或る評論で「江戸川君は一作毎に新境地を開こうとする尖鋭な意欲を示しているが、これは作家にとって危険である。もっと落ちついてほしい」というようなことを書いたが、この批評は急所を射当てていた。
 似通った材料は二度と使わないという潔癖、しかも興味の半径の極度に狭い性格、行きづまりが来るのは当然であった。生活を無視した純粋な気持からいえば、私は昭和二、三年頃に探偵作家を廃業すべきであった。実は一時は家内に下宿屋をやらせて、放浪の旅に出たりしたのだが、意志薄弱で、さっぱり廃業することもできなかった。そして、私の当初の気持とは逆に、原稿料のための仕事ばかりをやるようになった。最も原稿料の高い、つまり読者の多い雑誌だけに、連載ものばかりを書いた。私はその頃から数年間、探偵作家仲間ともあまりつき合わなくなり、世を恥じて、家を外にしたり、または暗い部屋にとじこもったりしていた。しかし、私のそういう我儘勝手な気持は通らなかったのである。幸か不幸か、探偵小説界は私を見限るということをしないまま今日に及んでいる。

 昭和22年の時点では、乱歩は「一人の芭蕉の問題」に「我々は嘗つて英米の探偵小説に刺戟を受け、当初はそういう方向を目ざして出発したのであるが、まだ本来の探偵小説を卒業しない前に、いつの間にか傍道にそれてしまっていたのではないか」と述べていました。乱歩にはもちろん日本の探偵小説を「傍道」に逸れさせた張本人は自分であるという認識があったはずですが、その点に関する言及はいっさい見られません。ところが三年あまりのちに書かれた「日本の探偵小説」では中島河太郎の批評を肯うかたちで、というよりは中島先生の評言の言外を酌むようにして「蜘蛛男」以降のいわゆる通俗長篇が日本の探偵小説に「功績」よりは「害毒」をもたらしたと認めるに至っています。自伝である「探偵小説三十年」を日本の探偵小説史として書き継ぐためにはそうした罪状認否めいた作業を避けて通ることができなかったということではあるのでしょうが、それにしても「幸か不幸か、探偵小説界は私を見限るということをしないまま今日に及んでいる」という文章にはきわめて興味深いものがあります。人はここに乱歩の謙虚を見るのでしょうか、それとも自負を嗅ぎあてるのでしょうか。

 それではこのへんで、戦前から戦中さらに戦後という時間の流れのなかで乱歩の探偵小説観にどういった変化があったのか、それを確認しておきたいと思います。ひとことでいえば、そこには水平性から垂直性へとでも形容するべき変遷がありました。昭和10年の「日本探偵小説の多様性について」に示されていたのは、タイトルからも知れるとおり探偵小説の多様性を諒とし、支持し、「論理的探偵小説はあくまで論理に進むのがよい。犯罪、怪奇、幻想の文学は、作者の個性の赴くがままに、いくら探偵小説を離れても差支はない。そこに英米とは違った日本探偵小説界の、寧ろ誇るべき多様性があるのではないか」と誇りにさえしようとする姿勢でした。乱歩の探偵小説観を支えていたのは、水平的なというか、アジア的なというか、仏教的なというか、きょうびの言葉でいえば生物多様性的なというか、東京ぼん太ふうにいえばいろいろあら〜な的なというか、とにかくそういった価値観であって、「論理的探偵小説」はそういった多様性のひとつのあらわれにすぎませんでした。

 しかし戦後、そうした価値観に大きな変化が訪れます。戦中から戦後にかけて英米の長篇を多く読んだことで「日本の探偵小説は世界の主流とはひどくかけ離れていることを、段々強く感じて来た」というのが「一人の芭蕉の問題」に述べられていたところであり、かつて嘉した多様性を「傍道」として排除した乱歩は「今一度本街道に立戻り、本来の探偵小説、殊に長篇探偵小説に於て、英米の傑作と肩を並べ或はそれを凌駕するが如き作品を生まなければならない」と高い調子で宣言して、「本街道」すなわち「英米の傑作」への帰依というか拝跪というか、要するに軍門に降りますと、戦争でも負けましたけど探偵小説でも負けましたと、そんなようなことを表明しているわけです。英米の本格長篇を至上のものと見る垂直的な、ヨーロッパ的な、キリスト教的な、毛沢東ふうにいえば一辺倒的なというか、2ちゃんねるふうにいえば※ただし本格に限る的なというか、とにかくそんなふうな価値観に乱歩はたどりついたというわけです。

 そして乱歩は、「日本探偵小説の系譜」にこんなことも記しています。

 先にも書いたように、飜訳探偵小説の読者が日本作家の作品に冷淡なのを見て、これではいけないと考えていた私は、戦後、探偵小説復興の機運に乗じて、日本の作家も、もっと本格探偵小説に興味を持たなければいけないということを、繰返し説いた。しかし、私は評論随筆でそれを唱えるばかりで、自ら作品を示すに至っていないけれども、横溝正史君が偶然私と同じ考えを抱き、戦前の彼の作風とはまったく違った本格探偵小説を指向した「本陣殺人事件」「蝶々殺人事件」「獄門島」と、英米黄金時代の作風に属する長篇力作を、矢つぎ早に発表し、戦後探偵小説界の方向を定めるほどの勢を示したのである。

 人はここに、と私はまたしても思うわけですが、乱歩の謙虚を見るのでしょうか、それともほかの何かを嗅ぎあてるのでしょうか。



第一人者にお墨付きを与えるポジション
2010年2月7日(日)

 「日本探偵小説の系譜」からは、当時の乱歩がみずからの立ち位置をどんなふうに自覚していたのかを窺うことができます。まず、戦前のいわゆる通俗長篇は探偵小説に「害毒」をもたらしたが、それでも「探偵小説界は私を見限るということをしないまま今日に及んで」いるという自覚がありました。つまり害毒は流したけれども、それでもなお自分は探偵小説界から見限られていないのである、と乱歩は謙虚に書いていますが、意地悪く読めばこの文章の裏には自分は戦前戦後を通じて変わることなく探偵小説の第一人者として認められているのだという自負が仄見えないでもありません。

 そして乱歩は、第一人者として「戦後、探偵小説復興の機運に乗じて、日本の作家も、もっと本格探偵小説に興味を持たなければいけないということを、繰返し説いた」のですが、残念なことに「自ら作品を示すに至っていない」状態でした。しかし「横溝正史君が偶然私と同じ考えを抱き、戦前の彼の作風とはまったく違った本格探偵小説を指向」して、「英米黄金時代の作風に属する長篇力作を、矢つぎ早に発表し、戦後探偵小説界の方向を定めるほどの勢を示したのである」と来るわけですが、このあたりを意地悪く読んでみるとどうなるでしょう。乱歩が正史にお墨付きを与えているように読めます。戦前から一貫して第一人者だった自分は戦後になって「本格探偵小説」に至上の価値を認めたのであるが、そこへ「偶然」横溝正史が本格の王道を行く「長篇力作」を発表してくれたので、それを支持し、督励し、その将来を嘱望するものであると。

 すなわち乱歩は、本格探偵小説の実作における第一人者であるというお墨付きを正史に与えることによって、自分がお墨付きを与えることのできる立ち位置にあること、探偵文壇の最上位に不動の地位を占めていること、実作面における正史のみならず自分もまた「戦後探偵小説界の方向を定め」ることに一役買ったのであるということを、ごくさりげなく告げ知らせているように見えます。なんとも意地の悪い見方ですが、当時の乱歩は、ということは「探偵小説三十年」連載開始時の乱歩はということにもなるのですが、みずからのポジションをそんなふうに自覚し、それを周囲に認知させることで実作せざる第一人者としての立ち位置を保持しようとしていたのではないか。私にはそう思われます。



乱歩はいかにして安定を取り戻したのか
2010年2月8日(月)

 「日本探偵小説の系譜」の結びを見ておきます。木々高太郎との探偵小説論争に触れたあと、乱歩はこんなふうに記して筆を擱いています。

 したがって、今のところ、論争はまったくの抽象論なのだが、抽象論であるかぎり、いつまでやっていても、どちらかが兜を脱ぐはずもなく、これ以上議論をつづけていると、泥仕合になりそうなところも見える。そこで、抽象論はこの辺で打切りにして、私としては木々君のいわゆる純文学本格探偵小説が発表される日を待つことにしたい。
 これに対して、私の方では英米ベスト・テン級の作品に敬意を表しているのだから、あらためて見本を示す必要はないのだが、しかし、やはり私としても、私流の新機軸の本格長篇を書いてみたい気持はある。木々君の劃期的作品を期待するとともに、私もまた、なるべく早い機会に、私の長篇探偵小説を仕上げたいと思っている。

 現在ただいまは実作せざる第一人者であるけれど、まだ完全にリタイアしたわけではないという寸法です。横溝正史にお墨付きを与え、木々高太郎に実作を所望し、自分には長篇を仕上げる心づもりがあると打ち明けて、なんかもう余裕綽々で擱筆したという印象です。事実、「日本探偵小説の系譜」を書いた昭和25年前後には、乱歩の精神状態は一時に比べてずいぶん安定していたのではないかと思われます。一時というのはいつのことかといいますと、たとえば昭和22年、「宝石」2・3月合併号に「本陣殺人事件」評を発表するにあたってその原稿を横溝正史に郵送し、正史に「短刀を送りつけられたように感じ」させたころ、乱歩は探偵作家として、あるいは探偵小説の第一人者として、かなり不安定な精神状態にあったのではないかと推測されます。

 同じ昭和22年の「ロック」2月号に掲載された「一人の芭蕉の問題」あたりでも、「ああ、探偵小説の芭蕉たるものは誰ぞ。好漢木々高太郎果して芭蕉の惨苦を悩むの気魄ありや否や」と芝居がかっているといっていいほどの切り口上で結ばれていて、それはまあ木々高太郎から売られた喧嘩を買うかたちで執筆されたものですから喧嘩腰めくのも無理からぬところでしょうけれど、そこには不安定な精神状態も投影されていたのだと見えないでもありません。

 さらにその少しあと、昭和22年の11月に疎開先の正史を訪問した当時にも、正史が「『二重面相』江戸川乱歩」に「乱歩はおそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり、昔から人を引っ張っていく力を持っていた人物なのだが、その引っ張りかたに以前のような当りの柔かさが欠け、強引一方になっていたらしい」と記していたところから判断いたしますに、乱歩の精神状態は決して安定していなかったといっていいでしょう。

 それが昭和25年にはすっかり余裕が出てきて安定感たっぷり、「日本探偵小説の系譜」には第一人者としての揺るぎない自負が示されていると思われる次第ですが、こうした安定は何によってもたらされたのか。「探偵小説三十年」の執筆を開始したからではないかというのが私の推測です。余はいかにして第一人者となりしか。それを克明に跡づける自伝を書き始めたことによって乱歩は安定を取り戻し、第一人者としての自負をたしかなものにし、戦後の探偵小説界にいよいよ君臨していったのではなかったか。



まったく意味不明の図式に説明を加える
2010年2月10日(水)

 戦後の乱歩は垂直性を志向した、ということがいえるのではないかと思います。戦前の探偵文壇は乱歩が指摘した多様性をその特徴とし、あくまでも水平性によって律されていました。乱歩はいうまでもなくそのひろがりの中心で、いわゆる通俗長篇に転じて以降はみずから「私の友人達は例外なく私を軽蔑した」、あるいは「私はその頃から数年間、探偵作家仲間ともあまりつき合わなくなり」と述べるに至る事態を迎えたにせよ、それでもなお中心でありつづけ、乱歩の赴いた方向に探偵小説もまた足並みを揃えました。このあたりはまるで細胞運動を見るような感じがするのですが、ちょっと図式化してみると──

(1) ┏━━━━━━━┓
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(2) ┏━━━━━━━┓
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(3) ┌───────┐
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    │  ┏━━━━━━━┓
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    └──┃       ┃
       ┃       ┃
       ┃       ┃
       ┗━━━━━━━┛

 おっそろしく意味不明な図式になってしまいました。これでは図式化した意味などまるでなかったわけですが、せっかくですから説明を加えておきますと、(1)は乱歩が「新青年」をホームグラウンドにしていた時代の探偵小説界で、■がその中心、すなわち乱歩です。のちに乱歩が通俗長篇に移行して、斯界は(2)みたいな感じになりました。乱歩は探偵小説の本道を踏み外し、そのせいで友人からは軽蔑され、探偵作家仲間とのつきあいも疎遠になり、依然として探偵小説ないしは探偵文壇の中心人物ではありつづけたのですが、探偵小説の水平的な多様性のなかで思いきり端っこのほうに移動することを余儀なくされてしまいました。しかし驚くべし、探偵小説は乱歩が赴き立ち至った地点を新たな中心とする細胞運動めいた動きを見せました。このあたりの動きを指して乱歩は探偵小説が「傍道」に逸れたといい、中島河太郎先生はそうした動きの結果「探偵小説に対する智識階級の偏見を生んだ」と評していたわけですが、とにかく(3)みたいなことになってしまいました。

 さて、戦争が終わりました。戦後の乱歩は本格至上主義とでも呼ぶべき旗色を鮮明にしたのですが、遺憾ながら「評論随筆でそれを唱えるばかりで、自ら作品を示すに至っていない」という状態でした。もしも理想とする本格長篇を実作として示すことができていたら、そこには何の問題もありませんでした。

(3) ┌───────┐
    │       │
    │       │
    │  ┏━━━━━━━┓
    │  ┃       ┃
    │  ┃       ┃
    │  ┃       ┃
    │  ┃   ■   ┃
    └──┃       ┃
       ┃       ┃
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       ┗━━━━━━━┛
         ↓
(4) ┌───────┐
    │       │
    │       │
    │  ┏━━━━━━━┓
    │  ┃■      ┃
    │  ┃       ┃
    │  ┃       ┃
    │  ┃       ┃
    └──┃       ┃
       ┃       ┃
       ┃       ┃
       ┗━━━━━━━┛
         ↓
(5) ┏━━━━━━━┓
    ┃       ┃
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    ┃       ┃──┐
    ┃   ■   ┃  │
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    ┃       ┃  │
    ┃       ┃  │
    ┗━━━━━━━┛  │
       │       │
       │       │
       └───────┘

 こんなぐあいになっていたはずです。しかし現実には「横溝正史君が偶然私と同じ考えを抱き、戦前の彼の作風とはまったく違った本格探偵小説を指向した」長篇を発表し、そうなるとこんな図式が現実のものになってしまうことも予想されたはずです。

(5) ┏━━━━━━━┓
    ┃       ┃
    ┃       ┃
    ┃       ┃──┐
    ┃   ●   ┃  │
    ┃       ┃  │
    ┃       ┃  │
    ┃      ■┃  │
    ┗━━━━━━━┛  │
       │       │
       │       │
       └───────┘

 ●は横溝正史です。探偵小説界の実質的な中心は横溝正史であり、乱歩はその端っこにそれこそ神が零落した妖怪めいたポジションを得て、あの人も昔は凄かったんだけどねみたいな感じの存在になり果ててしまうことにもなりかねなかったのではないか。しかし乱歩は、当然のことながらそれを望まなかったはずです。第一人者として探偵小説界を統率し、この国の探偵小説を本格至上主義の旗のもとに生まれ変わらせることを念願したはずです。そこに乱歩の権力志向を見る人もあることでしょうが、私はむしろ戦前の探偵小説を心ならずも変な方向にリードしてしまったことの負い目や責任感、中島河太郎先生はそのあたりを「罪障感」という言葉で説明していらっしゃいましたが、そういった心理があったのではないかと思います。そこで乱歩は、むろん探偵小説においては本格作品を至上のものとみなす垂直性を希求していたわけですが、作品のみならず探偵文壇においてもまた垂直性と呼ぶべきものを志向したのではなかったか。



水平性から垂直性への避けて通れない道
2010年2月12日(金)

 大正12年のデビュー以来、乱歩は一貫して探偵小説界のリーダーでありつづけたわけですが、戦前と戦後では同じリーダーでもその内実には決定的な差があったように思われます。戦前の乱歩はいってみればおのずからなるリーダーで、作品そのものが乱歩をリーダーの座に押しあげました。かりに乱歩が大江春泥のごとく姿を現さぬ探偵作家であったとしても、その作品は圧倒的な力をもって斯界をリードしていたことでしょう。いわゆる通俗長篇に転じたのちも、作品は乱歩の本意とは関わりなく探偵小説の旗印めいた意味を帯びつづけ、その結果探偵小説全体が乱歩のいう「傍道」に逸れることになりました。しかし戦後の乱歩は、あくまでも自覚的なリーダーとして探偵小説界を主導しようとしました。とはいえ戦前のように作品そのものでリーダーシップを発揮することはできず、したがって戦前の探偵小説界に見られた水平性から脱却し、垂直性を志向する道を選ばざるを得ませんでした。乱歩には水平性の中心ではなく垂直性の頂上に立つことによってのみ、戦後の探偵小説界を唱導することが可能だったのではないでしょうか。

 昨年末、長山靖生さんの『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』が刊行されました。乱歩のことが出てくるみたいだからと本屋さんに取り寄せてもらって、ということはこの河出書房新社の河出ブックスという新しいシリーズ、当地の書店ではまったく見かけないアイテムなわけなのですが、繙読いたしますと海野十三と乱歩の「対立」が紹介されていましたのでさっそく当サイトに録しました。エントリをお読みいただきたいと思います。

 RAMPO Entry File 2009:日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで 長山靖生

 長山さんご指摘のとおり海野は「探偵小説雑感」において乱歩に対する「明らかな批判」を展開しているわけですが、これは戦後の乱歩が水平的な親密さに満ちていた探偵小説の世界にいきなり垂直的な価値観や権力構造を導入しようとしたことへの素直な反撥であったと考えられます。「本格探偵小説を尊敬する」という乱歩の表明は乱歩自身がかつて認めていた探偵小説の多様性を否定することだと海野には思われたはずですし、のみならず乱歩は「若い作家たちを、そういう方向へ追い立てる」ことまでしたというのですから、そうなると探偵小説だけでなく探偵文壇の内部にも垂直的な権力構造を構築し、自身はその頂点から若い作家を指導教導しようとしていたと海野の眼に映じたのだとしても不思議ではありません。

 「探偵小説雑感」が掲載された「探偵作家クラブ会報」第六号は昭和22年11月に発行されました。乱歩が疎開先の正史を訪ねたのはまさしくこの月のことでした。正史の「『二重面相』江戸川乱歩」によれば海野は水谷準と前後して正史に手紙を送り、両者はともに「戦後の乱歩はすっかり昔とちがっているから、十分気をつけるように」と警告したとのことなのですが、「乱歩はおそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり、昔から人を引っ張っていく力を持っていた人物なのだが、その引っ張りかたに以前のような当りの柔かさが欠け、強引一方になっていたらしい」と正史に伝えられた風聞からは、海野十三をはじめとした探偵作家が戦後の乱歩に好ましからざる変貌を見てとっていたことが知られます。しかし乱歩にとっては、探偵小説界のリーダーでありつづけるために垂直性を志向するのは避けて通れないところであったと思われます。



絵探しのエピソードはなぜ封印されたか
2010年2月14日(日)

 探偵小説界の第一人者でありつづけるために避けては通れない道として、乱歩は自伝の執筆を決意しました。みたいなことをくどくどくどくど酔っ払いみたいにしちくどく述べてきた次第なのですが、昭和24年の乱歩にとって自伝の連載を開始することにどんな意味があったのか、それをねちねちと確認していたらいつのまにかこんなことになってしまいました。そもそも乱歩が五十五歳の夏に自伝を書き始めたというのもよく考えてみれば唐突な印象が否めない話で、そこらのお父さんが定年退職を機に自分史に着手するといったような明確なきっかけはどこにも見当たらないわけなのですが、しかしなにしろタクティシャン乱歩のことです。ふと思いついて「探偵小説三十年」を連載し始めたなんてことは考えられません。

 むろん直接のきっかけは、長く疎遠になっていた「新青年」からの原稿依頼でした。おそらくは短い回想記を依頼されただけのことだったと思われるのですが、乱歩はそれを契機として自伝の執筆に思い至りました。乱歩には天啓を得たような気さえしていたかもしれません。他人には唐突にしか見えない自伝執筆の背景にはむろんそれなりの理由、必要性、思惑、成算が存在していたはずで、それはいったいどんなことだったのかというと、いろいろあれこれ考えを重ねてきましたとおり、やはり探偵小説の第一人者でありつづけるために、ということではなかったのかと思われます。そうした明確な目的のもと、その目的にもっともふさわしい「新青年」を舞台として、乱歩は長大な自伝を執筆することに意を決しました。

 乱歩は草稿を書き始めました。まず「私が探偵小説に心酔するに至つた経路」と小見出しを立てて、こんなふうに幼年期を回想しました。

 私の探偵趣味は「絵探し」からはじまる。五六才の頃、名古屋の私の家に、母の弟の二十にもならぬ若い小父さんが同居してゐて、その人が毎晩、私の爲に石磐に絵を描いて見せてくれるのだが、小父さんは好んで「絵探し」の絵を描き、私にその謎をとかせたものである。枯枝などが交錯してゐるのを、じつと眺めてゐると、そこに大きな人の顔が隠れてゐたりする。この秘密の発見が、私をギヨツとさせ、同時に狂喜せしめた。その感じは、後年ドイルや、殊にチエスタトンを讀んだ時の驚きと喜びに、どこか似たところがあつた。少年の頃「絵探し」を愛した人は多いであらうが、私は恐らく人一倍それに夢中になつたのだと思ふ。問答による謎々や、組み合せ絵(ジッグソウ)や、迷路の図を鉛筆で辿る遊びや、後年のクロスワードなどよりも、私にはこの「絵探し」が、何気なき風景画の中から、ボーツと浮かび上つて耒る巨人の顔の魅力が、最も恐ろしく、面白かつた。
 父が名古屋市の商業會議所の法律の方の嘱託として、毎日通勤してゐる頃、

 しかしこの文章は、結局は「新青年」に掲載されませんでした。「私が探偵小説に心酔するに至つた経路」という小見出しは抹消され、乱歩はいったん記した絵探しのエピソードを闇に葬ってしまいました。連載が始まった「探偵小説三十年」には「涙香心酔」という見出しが立てられていて、そのあとにはこんな文章がつづいていました。

 明治三十二三年の頃(私の六七歳の頃)父は名古屋商業會議所の法律の方の嘱託として毎日通勤してゐたが、

 当サイトご閲覧の諸兄姉にはいまさら紹介の要もないことですが、小林信彦さんに「半巨人の肖像」という小説があって、乱歩はそこに氷川鬼道という名の小説家として登場しています。「半巨人」というのは鬼道、つまりは乱歩のことでなのですが、終幕近く語り手の今野という人物が鬼道の自伝について考察しているパートがあって、これはそのまま出色の『探偵小説四十年』論になっています。引用しましょう。

 どうしても必要な用件の場合しか人に会わなくなった鬼道が華やかな場所に姿をあらわしたのは、翌夏、自分の回想録の出版記念パーティーの際であった。
 原稿用紙にして二千五百枚にのぼるこの書物は「記録体自伝」と称されている通り、鬼道自身に関する新聞、雑誌その他の記録を手がかりにして書かれた風変りな回顧録であり、「老人の自慢話に陥ることを避けるために、愚直に、しるす方法を選んだ。自慢も卑下も真正直な告白なのである」と序文に明記されている。
 確かにそれは「真正直な告白」にちがいなかった。宇野浩二に対する鬼道の受身の姿勢にはそれだけとり出してみると何か判然としないものがあったが、はるか後の評論において「探偵小説は純文学になりきれない宿命を持つ」、「性急に文学を目ざすと探偵小説を滅亡させる」という明快な断定を下しているのを照応させれば、逆に、彼が「普通の創作をという宇野さんのお手紙の好意には応じきれなかった」錯綜した心理が理解されるのであった。また、四十年間の作家生活のうち、小説らしいものを書いたのは十数年に過ぎなかった、というさりげない告白は、鬼道に対して多少とも興味を抱く人を驚かすに足るものであろう。
 ともかく、この一冊には、鬼道の生い立ちから最近に至るまでの生活の変化、同時に彼によって創造された日本の推理小説の変遷が、おそるべき克明さをもって記録されている。戦前版の鬼道全集の第一回配本が何部印刷され、最終巻は何部だったか。鼻茸の手術をいつ行なったか。戦時中に町会副会長としていかなる行動をとっていたか。そういった外面的な事柄に関しては、ふつうの作家がまず筆にしないと思われる、収入とそれに伴う暮しぶりまで、微に入り細を穿つ筆で、年度別に記載されている。かりに後世において鬼道の伝記を書こうと思い立つ人があるとしたら、その人は自分の調査すべく残されている部分があまりにも少いのに絶望するにちがいないと想像される。
 自己に関する記録について鬼道が偏執的情熱をもっていたのは、まぎれもない事実である。だが、この一巻に溢れんばかりの記録群には、その価値自体とは別に、さらにほかの目的があるのではないかという気が今野にはしてならないのだった。すなわち、これらの夥しい記録群と解説とほどほどの〈自慢と卑下〉的感想の洪水によって、ここに記してあるより深く他人が立ち入り、穿鑿するのを拒否しようと著者は意図したのではないか。それほどまでにして守るべき内面の秘密を鬼道はいまだに保持しているのではないだろうか。

 つづいて今野は鬼道における「homosexuality」の問題を例にあげ、それが「守るべき内面の秘密」のひとつだったのではないかと推測しているのですが、それはまあそれとして、ひとたびは筆にされながら陽の目を見ることがなかった絵探しのエピソードもまた「内面の秘密」に数えられるべきなのかもしれません。重大なものであったかどうかは別にして、それが秘めておくべき思い出であると乱歩自身が判断したことはたしかです。それはなぜだったのか。乱歩はたぶん、自分の探偵趣味は涙香に発したものでなければならないと考えたのだと思います。絵探しのような遊びではなく、涙香に心酔するところから自分の探偵趣味は出発していたのであると、あの幼い日、読書している祖母と母の横に寝転がって「涙香本の、あの怖いような挿絵をのぞいたり、その絵の簡単な説明を聞かせてもらったり」することによって、自分は涙香その人から探偵小説の法灯を引き継いだのであると、涙香からこの国における探偵小説の遺伝子を受け継いだのであると、いまだものごころつかぬうちに涙香から戴冠を予告され、探偵小説の第一人者として生きることが運命づけられていたのであると、そのことを読者に広く伝え強く訴えるためにこそ、涙香心酔以前の絵探しのエピソードは筐底深く秘匿され封印されるに至ったのではなかったでしょうか。



若い小父さんはどうなってしまったのか
2010年2月15日(月)

 ここに哀れをとどめたのは、いうまでもなく小父さんです。五、六歳だった乱歩に絵探しの面白さを教えた「母の弟の二十にもならぬ若い小父さん」。「探偵小説三十年」の草稿にいきなり登場し、乱歩の探偵趣味を目覚めさせた功績を長く伝えられるだったはずが、乱歩の気が変わったせいでというか乱歩が自伝に秘めたタクティクスのせいで出番を失ってしまった小父さんは、その後いったいどうなってしまったのでしょうか。

 昨年10月3日、ミステリー文学資料館で催されたトーク&ディスカッション「新青年の作家たち」第一回のあと毎度おなじみ蔵之助で大盛りあがりした「『新青年』の作家たち」&「大乱歩展」開幕記念大宴会におきましては、あの小父さんいったいどうなっちゃったんですかと尋ねてくださった女性参加者もあったのですが、そんなこと私にはわかりません。乱歩のご遺族にお訊きしても消息はまるで不明だと思われます。しかしなんだか気の毒な小父さんだなとは思われましたので、東京から帰って『貼雑年譜』を調べてみましたところ、小父さんは本堂三木三という名前だったらしいことがわかりました。

 三木三というのはちょっと変な感じの名前ですけど、私にはそうとしか読めません。この本堂三木三おじさんはたぶん絵心のある人だったはずで、そうした天分を生かした幸福な人生を送ってくれていたら嬉しいなと私は思います。



『探偵小説四十年』をいかに読むべきか
2010年2月16日(火)

 昭和24年に「新青年」で連載が開始された乱歩の自伝は「宝石」に書き継がれ、それが『探偵小説四十年』として上梓されたのは昭和36年のことでした。乱歩逝去の四年前です。以来ほぼ半世紀。『探偵小説四十年』は乱歩の自伝であると同時に日本探偵小説の歩みを克明に跡づけた類のない近代史としても読み継がれてきました。中島河太郎先生の『日本推理小説辞典』から「江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)」の項の小項目「探偵小説四十年」を引用しておきます。

 [探偵小説四十年]昭36・7、桃源社刊。『新青年』の昭24・10ー25・7、『宝石』の昭26・3ー31・1に「探偵小説三十年」として載り、さらに昭31・4ー35・6「探偵小説三十五年」として書き継がれ、単行本になった際、新稿七、八十枚を加え、現題に改められた。雑誌に通計百十回、十二年に亘る連載である。
 乱歩は本書に対して、「記録体自伝」とも「回顧録」ともいい、また「日本探偵小説近代篇の側面史」という意味も持つといっている。
 乱歩はもともと回顧談が好きであった。昭3年には『無駄話』、4年には『楽屋噺』、7年に『探偵小説十年』、10年に「探偵小説十五年』という、それぞれ長文の回想録がある。本書はその重複を避けるため、従来発表したものをフルに活用している。
 乱歩は早くから自己に関する記事・書翰類を保存する習癖があって、本書にも新聞・雑誌記事が利用されているが、それだけに活字以外の部分がなおざりにされているようである。
 たしかに日本の近代探偵小説は、乱歩の出現によって刺激されて振興し、殊に戦後は指導者・育成者としての重要な役割を果たしたのだから、その四十年に及ぶ足跡の記録は、何ものにも換えられない資料的価値がある。
 その際、新聞記事類の参酌が多いのは、わが国の推理文壇が乱歩を中心に築かれていたのだから、自己の業績を正面から語ることを避ける手段だったと思われる。それだけに文壇の表面だけを撫で廻したという弱点は免れなかった。

 これが一般的な後世の評価というものですが、いまや読者に必要なのは『探偵小説四十年』を不可侵の聖典としてただ崇めることではなく、むろんその記述を無批判に鵜呑みにすることでもなく、冷静で厳正な資料批判を加えながらそれに向き合うことだといえるでしょう。この一巻には乱歩の記憶違いや事実誤認がたしかに存在していますし、小林信彦さんがおっしゃる「守るべき内面の秘密」が隠されていることもまた疑い得ないところだと思われます。その小林さんの「半巨人の肖像」にはこんな一節がありました。

 ──かりに後世において鬼道の伝記を書こうと思い立つ人があるとしたら、その人は自分の調査すべく残されている部分があまりにも少いのに絶望するにちがいないと想像される。

 私はこのくだりには異論があって、乱歩の伝記を書こうとする人間は調査すべきことがあまりにも多くあるからこそ絶望してしまうのではないかと思われます。乱歩は自伝や随筆にとても迂闊な犯罪者のように数多くの手がかりを残していますから、探偵はその手がかりをひとつひとつ精査し、そこに事実誤認が紛れ込んでいないかどうかをチェックしなければなりませんし、他人の書き残した供述が乱歩の証言に符合しているかどうかにも眼を配らなければなりません。そのうえ秘匿された内面の秘密の問題があります。『探偵小説四十年』に記された事実にもとづいてどれだけ乱歩の内面に探りを入れられるか、秘密を浮き彫りにできるか。さらにまた、と数えあげてゆくといやはやなんとも大変な作業になってしまいそうですが、そうした作業を進めることによってわれわれは『探偵小説四十年』が思いがけず企みに満ちた書物であることを知るようになるのかもしれません。



乱歩最大のトリックだといいたいのだが
2010年2月17日(水)

 じつにうっかりしておりました。俗にいうところの牛の涎みたいに延々とつづいてきたウェブ版講座「涙香、『新青年』、乱歩」、いくらなんでもそろそろけりをつけなければなるまいと考えてカーテンフォールに入ったのですが、まことにうっかりしていたことに乱歩最大のトリックについて説明を加えることを失念したままきのう幕を引いてしまいました。それによく考えてみたらそれほど大騒ぎするほどの話でもないような気もするのですが、要するにどういうことなのか。

 乱歩は自伝を執筆するにあたってまず最初に、自身の探偵趣味の起点は五、六歳当時に熱中した絵探しであったと書いたわけです。しかしすぐ考えを改め、六、七歳のころに接した涙香本が探偵趣味の出発点だったと記しました。すなわち探偵小説には関係のない絵探しという幼時の思い出を封印し、自伝の冒頭に涙香本を配することで、乱歩はみずからの人生を探偵小説の歴史に直結したことになります。乱歩は単なる個人史を王統譜にすり替えることに成功したのだといえるでしょう。こんな壮大なトリックはいまだかつて見たことがないと私には思われ、おそらく「陰獣」のトリックよりは『探偵小説四十年』のこのトリックのほうが優れているとさえ判断される次第なのですが、これこそが乱歩の生涯における最大のトリックなのだという私の断定に首肯してくれる乱歩ファンはひょっとしたら皆無なのかもしれません。まあいいですけど。

 なんか締まらないカーテンフォールになってしまいましたけど、お話はいきなり変わって舞台はドイツとなります。現地では2月11日夜、日本時間では12日未明、第六十回ベルリン国際映画祭が開幕しました。15日夜、日本時間では16日つまりきのうの朝、コンペティション部門に出品された若松孝二監督の「キャタピラー」が上映され、盛大な拍手が送られたとのことです。

 47NEWS:若松監督新作に盛大な拍手 ベルリン映画祭で披露(2月16日)

 「キャタピラー」の公式サイトはこちら。

 しかしどうもなんか変だなという気がするのですが、つづきはあしたということに。



映画の原作をめぐるごくささやかな疑問
2010年2月18日(木)

 それで何が変なのかといいますと、若松孝二監督の第六十回ベルリン国際映画祭出品作「キャタピラー」の件なのですが、この映画のことを報道するニュースに原作が乱歩の「芋虫」であると明記したものがほとんどないということです。

 若松監督が「芋虫」を撮るというのは一年以上前から伝えられていたことで、たとえばこちら。

 CINEMA TOPICS ONLINE:映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』を映画監督の若松孝二が語る(2009年1月19日)

 若松監督いわく、「次回作は、今、脚本第1稿があがって、今、第2稿目に入っています。江戸川乱歩の『芋虫』が原作。太平洋戦争の話。満州に行き、多くの中国人を殺すも、自分もやられて、芋虫のようになって、多くの勲章と新聞記事と共に帰ってくる男の話」。

 もうひとつ。

 eiga.com:若松孝二監督の最新作「キャタピラー」完成間近。江戸川乱歩「芋虫」が原作(2009年9月8日)

 ところがきのうもリンクしたこの記事をはじめとしてベルリン国際映画祭における「キャタピラー」を報じるウェブニュースには、なぜか乱歩の名前が見当たりません。

 47NEWS:若松監督新作に盛大な拍手 ベルリン映画祭で披露(2月16日)

 かろうじてこの記事には乱歩の名前が出てくるのですが──

 シネマトゥデイ:日本は中国へ侵略した、正義の戦争なんてない、人殺しだ」外国人記者の意見に若松監督うなずく【第60回ベルリン国際映画祭】(2月16日)

 なんと「四肢を失った主人公という設定は、映画化もされた『ジョニーは戦場へ行った』や江戸川乱歩の小説『芋虫』など、これまでにも登場してきたものだが」と書かれていて、同じ設定による先行作品という扱いです。どうなっておるのか。

 「キャタピラー」の公式サイトを眺めてみても、原作に関するクレジットのようなものは発見できぬようです。

 ということはこの作品のことを記録する場合に乱歩原作としていいものかどうか、それがよくわからないということであって、なんだか釈然といたしません。「キャタピラー」というタイトルはまんま芋虫の英訳なんですから、乱歩原作に決まってるといえば決まってるわけですが。とはいえそれはそれとして、今夏の公開が心から待たれる次第です。

 そうかと思うとこんなニュースも。

 Sponichi Annex:適役?田辺誠一がダメ探偵「三代目明智小五郎」(2月18日)

 こうなるともうどうだっていいやという気もしてきますけど。



原作から下敷き、モチーフ、先行作品へ
2010年2月19日(金)

 もうどうだっていいやという気がしないでもないTBS系列の深夜ドラマ「三代目明智小五郎〜今日も明智が殺される〜」、公式サイトはこちらです。まだトップページだけですけど。

 いっぽうこちらはどうだっていいということはなく、気になるというよりはちょっとまずいんじゃないのという若松孝二監督の「キャタピラー」。手当たり次第にウェブニュースを眺めてみます。

 asahi.com:ベルリン映画祭 コンペに若松監督「キャタピラー」(1月21日)
 シネマトゥデイ:ベルリン映画祭、金熊賞を競うコンペティション部門に若松孝二監督『キャタピラー』が選出!(1月21日)

 asahi.com:ベルリン映画祭開幕 若松監督の「キャタピラー」参加(2月12日)
 asahi.com:ベルリン映画祭開幕 若松孝二監督の「キャタピラー」に注目(2月12日)
 iza:若松孝二監督の新作が出品 ベルリン映画祭開幕(2月12日)
 eiga.com:レニー・ゼルウィガーやティルダ・スウィントンも出席 ベルリン映画祭開幕(2月12日)
 AFPBB News:第60回ベルリン国際映画祭開幕、審査員のR・ゼルウィガーら登場(2月12日)
 シネマトゥデイ:【第60回ベルリン国際映画祭】コンペティション部門作品紹介(2月12日)
 TBS News:60回目、ベルリン国際映画祭が開幕(2月12日)
 YOMIURI ONLINE:ベルリン映画祭開幕、金熊賞競う「キャタピラー」(2月12日)

 ZAKZAK:第60回ベルリン国際映画祭開幕(2月13日)

 シネマスクランブル:ディカプリオ×スコセッシ監督が登場!ベルリン映画祭(2月15日)

 asahi.com:「キャタピラー」公式上映 ベルリン映画祭(2月16日)
 AFPBB News:『キャタピラー』の若松監督ら、ベルリン国際映画祭に登場(2月16日)
 時事ドットコム:「正義の戦争はない」=最高賞候補の若松監督−ベルリン映画祭(2月16日)
 時事ドットコム:力強い反戦映画と評価=若松監督「キャタピラー」−独紙(2月16日)
 シネマトゥデイ:日本は中国へ侵略した、正義の戦争なんてない、人殺しだ」外国人記者の意見に若松監督うなずく【第60回ベルリン国際映画祭】(2月16日)
 CINEMA TRIBUNE:ディカプリオがベルリンでワールドプレミアに登場「素晴らしい監督にノーと言える役者はいない」(2月16日)
 Sponichi Annex:ベルリン映画祭 若松監督「キャタピラー」に拍手の嵐(2月16日)
 毎日jp:ベルリン映画祭:若松監督の「キャタピラー」を公式上映(2月16日)
 YOMIURI ONLINE:「キャタピラー」公式上映…ベルリン映画祭(2月16日)
 47NEWS:若松監督新作に盛大な拍手 ベルリン映画祭で披露(2月16日)

 SANSPO.COM:若松監督「キャタピラー」ベルリンで上映(2月17日)
 スポーツ報知:若松作品に盛大拍手…ベルリン映画祭コンペ部門上映(2月17日)

 以上たくさんありますけれど、「キャタピラー」の紹介にあたって乱歩の名前が出てきたのは、まずasahi.comの1月21日付に「江戸川乱歩の『芋虫』を下敷きに」、シネマトゥデイの2月12日付に「江戸川乱歩の『芋虫』をモチーフとしている」、そしてきのうもリンクした同じくシネマトゥデイの16日付に「四肢を失った主人公という設定は、映画化もされた『ジョニーは戦場へ行った』や江戸川乱歩の小説『芋虫』など、これまでにも登場してきたものだが」とわずかにこれだけしかありません。

 でもって本日。

 asahi.com:「前線だけが戦争ではない」ベルリン映画祭参加の若松孝二監督(2月19日)
 シネマトゥデイ:金熊賞なるか?日本唯一のコンペ出品作『キャタピラー』主演・大西信満【第60回ベルリン国際映画祭】(2月19日)

 asahi.comのウェブニュースには「映画『ジョニーは戦場へ行った』や江戸川乱歩の『芋虫』に通じる設定で」とあって、「芋虫」は16日付シネマトゥデイの記事と同じく似たような設定の先行作品として言及されています。つまりウェブニュースから判断する限り、「キャタピラー」における「芋虫」は原作→下敷き→モチーフ→先行作品といった感じで位置づけが変化し、次第に影が薄くなってきているわけなのですが、なにしろタイトルが「キャタピラー」なんですから、ここはやっぱきっちりと原作は乱歩の「芋虫」であると銘打っとかないとまずいのではないかしら。



寺島しのぶさんの最優秀女優賞を祝福す
2010年2月21日(日)

 めでたい。じつにめでたい。第六十回ベルリン国際映画祭は20日夜(日本時間21日朝)に授賞式が催され、若松孝二監督作品「キャタピラー」に主演した寺島しのぶさんが最優秀女優賞を獲得なさいました。じつにおめでたいことだと思います。

 シネマトゥデイ:ベルリン国際映画祭、最優秀女優賞に『キャタピラー』寺島しのぶ!金熊賞にトルコ、ドイツ『ハニー』【第60回ベルリン国際映画祭】(2月21日)

 私なんてたぶん、たぶんというのはなにぶん遠い昔のことゆえ記憶がかなり曖昧だということなのですが、しのぶさんのお母さんが現役を引退するときの舞台挨拶にたぶんわざわざ駆けつけた口なんですから、それはもう自分の娘が立派な賞を頂戴したみたいにとても嬉しい。

 47NEWS:寺島しのぶさんに最優秀女優賞 ベルリン映画祭(2月21日)

 とはいうものの、これはいったいどうしたことなのか。受賞を報じるウェブニュースはあまたあれどもそのなかで、乱歩の名前が出てくるのはいま確認したところではわずかにこの一本だけなわけです。

 財経新聞:ベルリン映画祭:寺島しのぶさん最優秀女優賞、映画「キャタピラー」35年ぶりの快挙(2月21日)

 財経新聞なんて初めて眼にしましたけど、財経新聞は偉い。誉めてつかわす。記事のなかに「キャタピラー」は「江戸川乱歩の短編小説『芋虫』を題材にした作品」だとちゃんと書いてあります。しかしそのほかのウェブニュースはいったいなにを考えておるのか。変だとかおかしいとかけったいだとかいうのではなく、もう完全に腹が立ってきました。

 芸能・音楽・スポーツ ニュース速報+@2ch掲示板:【芸能】寺島しのぶが最優秀女優賞…ベルリン映画祭(2月21日)

 この2ちゃんねるのスレでだって、レス番27の2ちゃんねらーが、

 ──この映画、どうして原作者表記がないの。まんまじゃん。

 と素朴な疑問を表明しているというのに、ほんとにいったいどうしたというのか。てめーこら若松、乱歩コケにしやがったらただじゃすまさねーからな、とかいってみたい気もするわけですが、ここで試みにYahoo!辞書で「caterpillar」を引いてみましたところ、古語として「3」の意味もあることを初めて知った私は妙に納得したりもしてしまいました。

 Yahoo!辞書 >プログレッシブ英和中辞典:cat・er・pil・lar

 しっかしそれにしてもなあ。



「キャタピラー」に関する無根拠な風聞
2010年2月22日(月)

 寺島しのぶさんが第六十回ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞に輝いた若松孝二監督作品「キャタピラー」は、乱歩の「芋虫」が原作のはずなのにどうしてウェブニュースにも「キャタピラー」の公式サイトにも乱歩の名前が出てこないの? という疑問がネット上を駆け巡っているようで、同時にあれこれの噂もまた千里を走っているようです。たとえばこんなの。

 Twitter / モルモット吉田:『キャタピラー』は乱歩『芋虫』映画化と発表されていた ...(2月22日)

 ほんとかよー、と一応は驚いてみましたけど、もしかしたらそんなことではないのかなという気はしておりましたし、同じようなことをお察しだった人も少なくないものと思われます。いやいや、むろん無根拠な風聞のたぐいですから迂闊に信じるのは危険ですけど、しかし「キャタピラー」が「芋虫」に「触発された」作品であるということはいま現在、若松孝二監督がみずからお認めのところです。

 東京新聞 TOKYO Web:映画『キャタピラー』若松孝二監督 戦争と権力への抵抗貫く(2月22日)

 この記事に「江戸川乱歩の短編『芋虫』などに触発されたという」と記されています。とはいえ、先日もリンクした記事では「触発」ではなく「原作」であると、若松監督ご自身が話していらっしゃいました。

 CINEMA TOPICS ONLINE:映画『チェチェンへ アレクサンドラの旅』を映画監督の若松孝二が語る(2009年1月19日)

 若松監督は次回作に関する質問に対して「次回作は、今、脚本第1稿があがって、今、第2稿目に入っています。江戸川乱歩の『芋虫』が原作。太平洋戦争の話。満州に行き、多くの中国人を殺すも、自分もやられて、芋虫のようになって、多くの勲章と新聞記事と共に帰ってくる男の話。“戦争はいろんな人に不幸を与える”っていうことを僕は言いたいし、撮りたい」と答えていらっしゃいます。現在ネット上に見られる風聞によれば、当初は「芋虫」を映画化するつもりだったのだけれどオリジナル作品になってしまったから「芋虫」は原作ではないというのが「キャタピラー」制作サイドのエクスキューズのようなのですが、これはいかにも苦しすぎると思われます。

 かりにこの問題が著作権をめぐる裁判沙汰になったとしたら、分が悪いのはもちろん若松さんのほうでしょう。こうした裁判のポイントは依拠性と類似性ということになりますが、依拠性という点では若松さんが100%不利ですし、類似性のほうはむろん「キャタピラー」を観てみなければ確たるところはわからないわけですが、やはり若松さんの旗色はよくないものと予想されます。

 ちなみに「キャタピラー」の予告篇はこちらです。

 予告篇を見る限り、主人公の弟が登場するなど「芋虫」にない肉づけはなされているものの、作品の骨格は紛れもない「芋虫」であると判断されます。東京新聞の記事には「夫は昼も夜も布団に横たわり、勲章や戦功をたたえる新聞記事が精神的なよりどころだが、戦地で女性を暴行、殺害した過去におびえる」とありますが、「夫は昼も夜も布団に横たわり、勲章や戦功をたたえる新聞記事が精神的なよりどころだ」が「芋虫」そのまんまの骨格、「戦地で女性を暴行、殺害した過去におびえる」がオリジナルの肉づけということになるでしょう。予告篇とこのウェブニュースにもとづいて判断するならば、「キャタピラー」と「芋虫」の類似性は歴然としているというほかありません。裁判において若松監督がクロだという断が下されるのは、ほぼ間違いのないところだと思われます。

 しっかしこれが法律の問題かよ、と私には思われます。これは何よりもモラルの問題であり、仁義の問題であるというべきでしょう。ネット上の「トラブルに備えて監督協会を脱退して若松プロで全て対処し突破する目論見という噂だが本当?」という無根拠な風聞にもとづいて記すならば、てめーこら若松、はした金でいちいちケツまくってんじゃねーぞこのすっとこどっこい、というしかありません。どうしてこの程度のことですぐ喧嘩腰になっちゃうんだおまえは、と思うしかありません。あくまでもネット上の風聞にもとづいて私は記しているわけなのですが、もしもその風聞が事実であるのだとすれば、私はひたすら情けない。情けなくて情けなくてもう涙が出てきそうである。なんかもうね、こら若松、若松孝二ともあろう者が喧嘩売る相手まちがえてんじゃねーよこの唐変木、とか私は思うわけです。これがおれの渡世の作法だ、とか甘ったれたことふかしてんじゃねーぞこの便所下駄。いやいかんいかん。ほんとに泣けてきそうになった。

 だからまあきょうのところはここまでにしておいてやるけれど、寺島しのぶさんのお母さんがいまの若松孝二監督をご覧になったらいったいどうよ。もしかしたら、

 ──若松さん、任侠人をば制すの看板が泣いとりますばい。取り替えなはったらどぎゃんな。

 とかおっしゃるのではないかしらと私は思います。それにしても情けない話だよなあ、と嘆きつつあすにつづきます。あーもうほんとに情けない。情けなくって涙が出てくらあっと。



いっそ「ログ」ってことにしたらどうよ
2010年2月23日(火)

 きょうあたり鶴彬のこともネタにしてやろうかなと考えておりましたところ、東京新聞に先を越されてしまいました。

 東京新聞 TOKYO Web:筆洗(2月23日)

 鶴彬が「手と足をもいだ丸太にしてかへし」と詠んだのは昭和12年、つまり7月の蘆溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発し、12月の南京陥落につづいていわゆる南京大虐殺があったとされる年なんですから、「キャタピラー」が反戦を訴える映画であるというのであれぱ「芋虫」ではなく鶴彬の川柳が火種になったとするほうがまだ自然だと思われます。タイトルはさしずめ「ログ」か。いやー、ログじゃ恰好がつきません。ぶよぶよしていて気味悪く蠕動しつづける肉塊には、固くてまっすぐな丸太ではなくてやはり芋虫という見立てこそがふさわしいでしょう。それにだいたいが「キャタピラー」を鶴彬作品に触発された「ログ」という映画として発表したりしてみたとしても、そのときはそのときでなんだ「芋虫」のパクリじゃねーかばーかと囂々たる非難が巻き起こるのはまず間違いのないところでしょうし。

 それで結局、どうなるのか。どうもこうもなく、事態はこのまま推移するものと予想されます。若松孝二監督はあくまでも触発されただけで「芋虫」は決して「キャタピラー」の原作ではないという主張をおつづけになることでしょうし、いまのところ日本文藝家協会が動いたという話も伝わってきませんから著作権をめぐるごたごたが起きる心配もないであろうと思われます。しかし、しっかし釈然としねーよなー、と私は思うわけで、なにしろ私は乱歩の遺志を勝手に継いで日々これ「貼雑年譜」ならぬ「RAMPO Up-To-Date」に乱歩にまつわるあれこれを録している身なのですから、明らかに「芋虫」を原作としている「キャタピラー」に乱歩の名前がクレジットされていないということになったらいったいどう扱っていいのか途方に暮れてしまいます。いやそれ以前に「キャタピラー」が乱歩の原作であると謳われていないことがただただ気に食わない。あまりにも不自然である。

 だからほんとにこら若松てめーはよー、とか私もいまや神品の域に達している罵倒芸を炸裂させるばかりでほんとに能のない話なわけなのですが、私としてはやっぱり「キャタピラー」という映画に原作は乱歩の「芋虫」であるというクレジットが入っていてほしいと思います。それが自然というか当然のことであって、にもかかわらずなぜ入っていないのかというと、ネット上で囁かれている無根拠な風聞に依拠して記しますならば要するにお金の問題なわけです。独創性がどうの芸術性がこうのとそんな雲の上のほうの話ではまったくなく、単に原作料が払えないから「芋虫」が原作ではなくなったというだけの話なのであるとまことしやかな噂が伝えられているわけです。ならばその原作料、誰かがぽーんと出してやれば話は丸く収まるのではないか。しかし残念なことに私は自己破産した身ですからそんな気っ風のいいところはとてもお見せすることができません。だったらどうすればいいのか。

 かりに私が名張市の市長であれば、ためらうことなく乱歩関連事業担当セクションの職員を東京へ出張させます。いや東京じゃなくたって、とりあえずは名古屋のシネマスコーレでいいかもしれません。とにかく若松孝二監督にお会いできるよう職員に段取りさせて、若松さんにこんちこれまた江戸川乱歩の生誕地、三重県名張市からお邪魔いたしました者でございましてとご挨拶を申しあげさせ、ほかでもありませんけど「キャタピラー」の原作料、名張市民の血税からなんとか若松プロにご用立ていたしますので、そのお金で日本文藝家協会ときっちりお話をばつけていただきましてですな、「キャタピラー」に「原作 江戸川乱歩『芋虫』」というクレジットを入れていただき、もちろん「協力 三重県名張市」というクレジットも忘れていただいては困るわけですが、こんちこれまたそんなような話はいかがなものでございましょうか、みたいな交渉を職員に進めさせます。それで話がまとまれば8月15日の封切りまでに名張市青少年センターあたりで「キャタピラー」の先行上映会を開催し、贅沢が許されるのであれば寺島しのぶさんに舞台挨拶のひとつもしていただきましてですな、なにしろ私はしのぶさんのお母さんが現役を引退されるときの舞台挨拶に駆けつけた身でございますので、お母さんとお嬢さんの二代にわたる舞台挨拶を拝見できるというのは願ってもない僥倖、いやー、眼福でございますなあ、みたいな話にはなりゃせんものかしら。ほんと、名張市もたまには全国の乱歩ファンに喜んでいただけることをぶちかましてもいいと思うぞ。いまのまま全国の乱歩ファンから笑いものになってるだけでそれでいいのかよ。ちまちましたご町内イベントかましてるだけでそれでいいと思ってるのかよ。

 ではここでお知らせです。名張市が日本推理作家協会の全面的なご協力を頂戴して毎年ささやかにくりひろげておりますミステリ講演会「なぞがたりなばり」、第十九回目を迎えます本年度は秋ではなくて年度末の開催となり、春分の日の3月21日、今野敏さんを講師にお迎えして「謎の魅力」をテーマにお届けいたします。つまりあと一か月もないわけなのですが、なぜか名張市の公式サイトではいまだにいっさい告知されておらず、いったいどうなっておるのかと市民のひとりとして不審に堪えぬ次第なのですが、ははは、名張市だもの。公式サイトに案内が掲載されましたらまたあらためてお知らせしたいと思います。



「キャタピラー」に「ユルス」はあるか
2010年2月24日(水)

 しつこくも「キャタピラー」の話題なのですが、こんなのがありました。

 INTRO:若松孝二監督インタビュー:『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『赤軍−P.F.L.P 世界戦争宣言』DVD発売をめぐって(2009年2月27日)

 引用。

 −−現代の派遣切りなどの世相を背景にした作品を撮ろうとは思われますか。

若松 次回作は現代を直接描くんじゃなくて、連合赤軍より前にあった戦争を背景にして江戸川乱歩の『芋虫』を撮ろうと思ってる。原作が書かれたのは昭和4年だけど、太平洋戦争に置き換えて、一銭五厘(赤紙の送料)で徴兵されて中国に行った兵隊が女をいっぱいレイプして殺す。戦争ってのはそういうもんだ。そして負傷して勲章いっぱい貰って手足が無くなった芋虫になって帰ってくる。帰ってこられても女房とかからすれば困る。そして原爆が落ちてケロイドになって……。そういうの俺、若い人に全部見せなきゃいけないと思ってる。映画だったら観るからね。今、脚本が上がってきて準備してる。

 −−『芋虫』は佐藤寿保監督で一度映画化されていますが(『乱歩地獄』)、神代辰巳監督も生前に映画化を希望されていましたね。

若松 神代さんの脚本も読みました。みんな文学的なんだよ(笑)。俺はもしかしたら満州(中国)にロケーションに行くかもしれない。昔の風景も残ってるからね。

 原爆が出てくるとなると「ユルス」は出てこないのか、とかつい想像していよいよ心待ちにされる次第なのですが、それはそれとして若松さんもここまではっきりおっしゃってるんですし、「キャタピラー」は乱歩原作であると銘打ったほうが興行成績も伸びることでしょうから、たかが原作料のことでそれが実現できないのはじつに残念なことだと思います。ほんとにどうにかならんものか。

 しかもこれ、もしもこのまま若松さんの横車がまかり通ってしまったりしたら、いやまあ何度も申しますとおり私はネット上の無根拠な風聞にもとづいて記しているわけなのですが、この若松さんの横車が悪しき前例みたいなことになり、原作であるにもかかわらず触発された先行作品であると強弁すれば原作料なしでもOKである、みたいな風潮が広まったら乱歩ひとりではなくすべての作家の問題だということになってしまいます。たとえば日本推理作家協会あたりの見解はいかがなものか。協会には、よーし、おれがいっちょ若松監督とタイマン張ってきてやんよ、とか鉄砲玉を志願するメンバーはいらっしゃらぬのか。

 ではここでお知らせです。名張市が日本推理作家協会の全面的なご協力を頂戴して毎年ささやかにくりひろげておりますミステリ講演会「なぞがたりなばり」、本日に至っても名張市の公式サイトには告知が掲載されておりません。おっかしいなあ、とは思うのですが、なんのなんの、名張市だもの。公式サイトに案内が掲載されましたらアズスーンアズでお知らせいたします。



ベルリン発「キャタピラー」感想ブログ
2010年2月25日(木)

 ベルリン在住の日本人男性らしき方のブログに「キャタピラー」の感想が掲載されておりました。

 armes berlin:若松孝二監督、『キャタピラー』。(2月17日)

 どうもようわかりません。このエントリには「こちらの映画の須永中尉にかぶります」とあるのですが、「キャタピラー」公式サイトによれば主人公夫婦は黒川という姓で、キャスト一覧にも須永という名前は見当たりません。「夫婦の関係がどんどん緊迫し、組み敷かれる者と押さえつける者との立場が逆転していったり」ともあるのですが、四肢を失った夫とその妻のあいだでそういった逆転があるのかどうか。とにかく「キャタピラー」、一日も早く観てみたいものです。

 ではここでお知らせです。名張市が日本推理作家協会の全面的なご協力を頂戴して毎年ささやかにくりひろげておりますミステリ講演会「なぞがたりなばり」、名張市の公式サイトにようよう告知が掲載されました。

 名張市公式サイト:「なぞがたりなばり」に来てだあこ!

 名張市が「キャタピラー」原作問題解決のため若松孝二監督に連絡を取ったという情報は、いまのところまだ伝えられてきておりません。



風天こと渥美清の句に詠まれていた乱歩
2010年2月26日(金)

 まーだ「芋虫」の話題かよ、と読者諸兄姉をうんざりさせてしまうかもしれませんが、若松孝二監督の「キャタピラー」についてさらに少々。こんなのもありました。

 white-screen.jp:映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」DVD化記念!鬼才・若松孝二監督に聞く(2009年2月27日)

 引用。

−−次回作の予定をお聞かせください。
「芋虫」っていう話あるでしょ。江戸川乱歩のだな。この題名だけもらって書き換えようかと思ってね。満州を作るために送られて、中国人の村焼いたりレイプしたりして、日本に手足を切り取られて帰ってきた男の話。それでおちんちんだけ立つんだよ。軍服には勲章がぎっしり付いて。最後は原爆が落ちて、ケロイドになる。天皇の「耐えがたきを〜」が流れるなか、芋虫のように草むらをカサカサいいながら崖から落ちていく。最後に残るのは勲章。芋虫は口で「許す」とだけ書く。すごく気持ちの悪い映画になると思う。

 いややっぱ草むらを這ったり崖から落ちたり、もっとも乱歩の「芋虫」は古井戸に落ちるわけですけれど、それから口で「許す」と書いたりするっていうんだったら「題名だけもらって」っつーことにはならねーだろーがよー、とかいつまでも文句垂れてたって仕方ありません。同じ映画でも明るく健全な松竹関係の話題をひとつ。

 1月に出た森英介さんの『風天 渥美清のうた』(文春文庫)を読んでいたら乱歩の名前が出てきました。1996年に六十八歳で死去した渥美清が風天という俳号で句を詠んでいたことはなんとなく聞き及んでいたのですが、作品に接するのは初めてでした。この一冊には話の特集句会、アエラ句会などに投じられた渥美さんの二百二十句が網羅されていて、1994年6月のアエラ句会で詠まれたのがこの一句。

 ──乱歩読む窓のガラスに蝸牛

 蝸牛というのが利いていると思います。6月の日本的湿潤、窓ガラスによって隔てられたあちらとこちら、そこに透明な境界があることを示しながらゆっくりゆっくり移動してゆくかたつむり、手には乱歩の本。やもりとかましてとかげとかだったらちょっとあざとすぎるでしょうから、蝸牛というのがところを得ていてよく効いていると思われます。

 風天の句には小さな鳥獣虫魚を巧みに題材にした作が少なからずあるようで、1975年10月の話の特集句会にはこんな句も投じられています。

 ──芋虫のポトリと落ちて庭しずか

 まーだ「芋虫」の話題かよ。



みんなもう競うようにして星になってる
2010年2月28日(日)

 なんか相変わらず人が競うようにして星になってるなという印象が拭えません。人なんていつだってばたばたくたばってるわけですが、去年から今年にかけてはひとしお身に沁みる訃報が相次いでいて、藤田まことさん死去のときは以前から病気のことが報じられていましたから来るべきものが来たかと納得されるところもあったのですが、チャントリのかしらこと南方英二さんの訃報には虚を衝かれました。

 同じチャンバラトリオのメンバーで一昨年11月に亡くなった前田竹千代師匠は私より三か月早く生まれただけのまったくの同世代、訃報に接したときにはおれも少しは気をつけなくちゃなと思ったものでしたが、死因こそ肝硬変と報じられているものの南方師匠ほどのアル中でも七十七歳になるまで元気に舞台を務めることができたのだからあんまり気にする必要もないのかもしないな、と耳に痛い言葉はすべて聞きたくない聞きたくないとばかりに聞き流し、かしら追悼のお酒を盛大に飲むことにいたします。しかし南方さんももう死んでしまったか。