2006年4月上旬
8日 9日 10日
 ■ 4月8日(土)
戻ってまいりました

 一週間のごぶさたでした。いかがお過ごしだったでしょうか。

 当地はきょうあたりが桜の見ごろらしいのですが、それにしては肌寒く、風もやけに強いようです。ハナニアラシノタトヘモアルゾ、「サヨナラ」ダケガ人生ダ、ってやつですか。

 とりあえず休み明けのご挨拶のみ記して失礼いたします。

  本日のアップデート

 ▼1987年10月

 夢むすぶ乱歩新全集/作家と読者の二面性 松村喜雄

 「週刊読書人」に掲載された乱歩特集の一篇。前月に講談社版江戸川乱歩推理文庫の刊行が開始されたのを受け、一面と二面と三面の半分をつかって特集が組まれています。

 一、二面は松山巖さんと井沢元彦さんの対談、三面が池田浩士さんと松村喜雄さんの随筆という陣立てですが、ここには松村さんの文章から乱歩の謦咳を伝えてくれるパートを引いておきましょう。

 乱歩は作家と読者の二面性をもち、この姿勢を終生くずすことがなかった。こと推理小説なら、きちんと筋を通し、マナーを尊ぶ人格者であった。

 こんなエピソードがある。植草甚一氏から聞いた話である。乱歩に本(英米ミステリー)を貸すと、優先的に短時日に読みあげ、本にカバーをつけて、汚すことなく返したという。

 巷間で偽作、代作が噂されているけれど偽作のときはともかくとして、代作の場合は、その稿料のすべてを代作者に払い、代作はすべて生前の全集から省かれている。そうした点はじつに潔癖なひとで、歯に衣をきせず喋り、本音をずばりと言う人だった。

 けれど、発表する紹介は、建前と本音の二面性はきちんとわきまえ、英米のミステリーの場合、自分の趣味にかたよらないように配慮している。戦後の英米ミステリーの紹介について、若い翻訳家たちから趣味に片よっていると詰めよられたことがあるが、乱歩にしてみれば心外だったと思う。

 外国ミステリーを紹介する場合、英米の評論家の発言とか、ベスト・テンなどを参考にし世評で認められている作品は、自分で嫌いでも、それなりに高く評価している。公平を尊重していたのである。

 「週刊読書人」乱歩特集のことは青山融さんからご教示いただきました。謝意を表します。


 ■ 4月9日(日)
自意識の悲喜劇

 春だからというわけでもないのでしょうけれど、A君(Aはアレクセイの頭文字だとお思いください)の活動がここへ来て活発になってきているのでしょうか。見知らぬ方からA君のことで問い合わせのメールを頂戴しました。しかし私はA君の現状をつゆほども知りませんので、以前A君がらみで投稿したことのある掲示板を紹介し、この投稿内容のとおりですと返信するだけで勘弁していただいた次第です。

 あれは半年ほど前になるでしょうか、パソコンを買い替えたせいで古いメールを確認することができず、いつのことであったかはっきりしたところはわからないのですが、やはりA君に関して見知らぬ方からメールを頂戴したことがありました。べつだん問い合わせということでもなく、なんだか不得要領な内容で、返信は無用とのことでしたからそれっきりにしてしまったのですけれど、とにかくA君がお元気そうなのはご同慶の至りです。

 しかしそれにしても、と私は考えました。一週間のお休みに入るまで、私は西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』を手がかりとして作家の自己演出や自己劇化というものを考察していたわけなのですが(お休みに入るために急いでまとめてしまった観もあるのですが)、A君というのはそうした考察にじつにぴったりの素材ではないか、いやいや、A君の場合は極端すぎて何の参考にもならないか、それにだいたいA君は作家じゃないんだし、しかしこれはささやかな連鎖反応というか暗合というか、私の観照的生活にもたらされたひとつのきっかけのようなものなのかもしれず、ならば人間の自己愛というものを分析してみるにそれをふたつに分類することは可能であろうか、と私は考えたわけです。

 喜劇的自己愛と悲劇的自己愛。このふたつです。つまり自己愛が表出されるに際して、それが喜劇に走るか悲劇に進むか。むろんこの場合、他者の眼にその表出がどう映っているかを問題にしているのではなくて、あくまでも本人が自分のことを喜劇と悲劇、いずれの登場人物と見ているかということが分類の基準となるわけですが、こんな分類がほんとに可能なのでしょうか。

 可能だと仮定して話を進めると、それはもういやになってしまうのが悲劇的自己愛の所有者です。喜劇というのはまだいい。一定の距離を置いて自己を客観的に観察し、他者から笑われるべき対象として認識するのが喜劇の基本なのですから、表出される自己愛はさほどべたべたしてはおりません。しかるに悲劇というのはあなた、感情の共有を他者に無理やり押しつけるものなんですからとにかくべたべたしています。

 こんな話題でいいのかな、と思いつつあすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2006年3月

 屋根裏の散歩者

 ポプラ社から出た「ホラーセレクション」というアンソロジーの第八巻に収録されました。アンソロジーの全容は版元のサイトのこのページでどうぞ。

 底本は光文社文庫版乱歩全集第一巻。したがって、初出以降ずーっと見失われつづけてこの全集でようやく見いだされた例の一行もちゃんと読むことができます。戦前の平凡社版全集にもとづいたテキストですから当然漢字が多く、読者であるお子供衆は「彼に出来相な職業は」みたいな見慣れぬ表記にでっくわすことにもなるのですが(むろんルビは附されています)、そんなことは全然OK、お子供衆には読みにくいかも、といったよけいな心配は無用であると私は思います。

 編者は赤木かん子さん。巻頭に配された赤木さんの「はじめに」から引用します。

はじめに
 この巻のタイトルは“サイコ”ですが、じゃあ“サイコ”って何よ? “異常心理テーマ?”

 うーん、わかったようでよくわからん……けど、要するにオバケよりもなによりも人間が一番怖いよ〜、というものが“サイコ”なんだな〜、という定義でおおむねあってる? ……かなぁ……。

 でもそれなら日本には江戸川乱歩という大御所がいるし、というか、日本人の好みってもとからサイコが主流なんじゃないの? っという気がしてきたので、“サイコ”なんてコトバが登場してくるはるか以前からそういうものを書いていた江戸川乱歩、芥川龍之介、岡本綺堂……と大物ぞろいの三人をならべてみました。

 江戸川乱歩に関してはいまさら解説なんていらない……でしょう?

 書いたもの全部“サイコ”ものだといってもいいくらいですが、もっとエグいのが好み、という人はどうぞ『人間椅子』……読んでください。怖いよ〜〜〜。

 かん子さん何もここまで、と思ってしまうくらいにくだけた文章ですが、きょうびのお子供衆を相手にするにはここまでやらねばならんということなのでしょうか。

 にしても、「〜」を長音符として使用する文章作法は、ネット上ではさほど気にならぬのですが書籍でやられると気に障ってしかたがありません。読者諸兄姉はいかがでしょうか。お子供衆はどうなのかな。子供ら、夜になっても遊びつづけるのはいいけれど、こんな表記にだけは慣れ親しんでくれるなよ、と私は強く訴えたい。


 ■ 4月10日(月)
自己愛の成熟度という問題

 ひさしぶりでA君(Aはアレクセイの頭文字だとお思いください)の名前を眼にした懐かしさからついつい話題にしてしまいましたけど、お話としては本筋からどんどん離れていってしまっているようです。しかし本筋というのがどういうものであるのかも曖昧なのですから、このままもう少しつづけることにいたしましょう。

 自己愛といい自己陶酔といい、いずれそんなのは他人にとって鬱陶しいだけのものなのですが、それを他人にべたべた押しつけたがる人間というのが存在するものです。要するにいささか自他未分離な人間であって、つまりは幼児的なのである。なんだかフロイトみたいなことをいってますけど、とにかく彼は何よりも自分自身を愛しているのであって、そんな自分は当然他人からも愛されるはずである、愛されなければおかしい、愛されなくてはいけないのであるということになります。ですから彼は自分はこういう人間なのであるということを熱く語ります。こういうことが好きなのである、こういう考え方をするのである、こういうことをやってきたのである、こういう能力を有しているのである、こういう人たちとつきあいがあるのである、人間としてはこんな欠点もあるのであるが(その欠点は愛すべきものほほえましいものにかぎられますが)、じつに気さくでいい人なのである、他人への気配りはわれながら見事なものであり、そもそも人の難儀を見捨てておけない人間でもある、ひとことでいえば万人から賞賛と尊敬を寄せられるべき人間なのである、みたいなセルフイメージをせっせと築きあげて他人に提示してゆくわけですが、人からは、ふーん、といった反応すら返ってこない。すると悲劇が本格化します。

 これはいったいどうしたことか。他人から認めてもらえない自分、評価されない自分、ひどい扱いを受けている自分、こんな自分ではおかしいではないか。私はどうしてこのような悲劇を生きねばならぬのか。くそ。なめやがって。おれを誰だと思っていやがる。

 実際、悲劇的自己愛のもちぬしというのはよく「なめやがって」という言葉を口にしますし、評価や扱いをいたく気にします。扱いが悪いと露骨に激怒します。気さくないい人という仮面をかなぐり捨てます。もう自己演出も自己劇化も関係ありません。他人から認められたいという幼児的な欲望が剥き出しになります。当人はいまや貴種流離譚の主人公になりおおせているわけなのですが、他人にはそんなことさっぱりわかりませんから、なんや知らんけどこの人えらい怒ってはりまっせ、ということになってしまう。

 念のために記しておきますと、私は特定の個人のことをあげつらっているわけではありません。悲劇的自己愛なるものがこの世に存在していると仮定して、それがどのように表出され、外界に接することでどのように悲劇の度合いを深めてゆくのか、そういったことをいささかお酒の残った頭で考察しているだけの話です。それにだいたいこれは悲劇的か喜劇的かというタイプの問題ではなく、自己愛の成熟度の問題ではないのかという気もしてきた次第なのですが、いちおうの結論といたしましては、西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』は喜劇的自己愛の所産であり、たまたま名前を見かけることになったA君からはやはり悲劇的自己愛といったものが感じられると、そういったことになります。

 とりとめのないことを書きつらねてしまいましたが、A君のことでお問い合わせをいただいた方への返信の足しになればとも考えました次第。末筆ながらA君のご活躍をお祈りいたしておきましょう。しかしA君、いったいどんな活躍をしていらっしゃることじゃやら。

  本日のアップデート

 ▼1978年7月

 江戸川乱歩の友人 福島萍人

 自費出版された随筆集『続有楽町』の一篇。奥付の略歴によれば、著者の福島萍人(ふくしま・ひょうじん)さんは大阪生まれ、林芙美子の二年下、疎開先の長野県から上京、警視庁の通訳として終戦処理業務に従事し、昭和42年3月に定年退職。大正13年ごろから短歌に親しみ、のちに随筆、油絵を趣味とされたそうです。

 「江戸川乱歩の友人」は島田荘司さんの小説「乱歩の幻影」に全文が収められていて、そのゆえをもって乱歩ファンの一部にはよく知られた随筆なのですが、以前「二山久は明智小五郎のモデルなのか伝説」にいささかを記しましたので、本日は軽く流して結びを引いておきます。

 後日乱歩から私を犒う意味合いからか自著「わが夢の真実」を受取った。二冊のうち一冊は二川え、とあり、同封の手紙には、折があったら二川を連れてきて貰えまいかとしたためてあった。しかも行間には二川に対する友情が劫々と波うっているのを感じたのだった。私はふと、これほどまでに二川を離さない乱歩の心底を流れているものは何であろうかと思ってみた。それは或は特殊作家としての怪奇性に根ざしており、これこそ乱歩のすべて探偵小説の真髄ともなっているエスプリではなかろうか、そして当事者以外にはっきり理解し得ない二川と乱歩の、或は乱歩の精神だけが求めている何かが二川の人間性の中に存在するのかも知れないと思ってもみた。乱歩の作品の中に明智小五郎と名乗る人物は自分であると、かつて二川がつぶやいたことがあるが、乱歩自身の影であるとしたなら、作家として二川への執念のような追慕は理由のないことではない。

 しかし二川自身はまた元のように螺の蓋を固く鎖してしまったのである。

   附記 乱歩はその後間もなく逝き、二川もまた老人ホームで病死した。

 『続有楽町』のことは藤原正明さんからご教示いただきました。私には古本屋さんをまわったり古書目録をひもといたりして資料を発見したり収集したりする能力がないのですが、そうした能力がある人にだって『続有楽町』を見つけ出すのは容易なことではないでしょう。私が藤原さんにゴッドハンドなる尊称をたてまつっているゆえんです。