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2006年4月上旬
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春だからというわけでもないのでしょうけれど、A君(Aはアレクセイの頭文字だとお思いください)の活動がここへ来て活発になってきているのでしょうか。見知らぬ方からA君のことで問い合わせのメールを頂戴しました。しかし私はA君の現状をつゆほども知りませんので、以前A君がらみで投稿したことのある掲示板を紹介し、この投稿内容のとおりですと返信するだけで勘弁していただいた次第です。 あれは半年ほど前になるでしょうか、パソコンを買い替えたせいで古いメールを確認することができず、いつのことであったかはっきりしたところはわからないのですが、やはりA君に関して見知らぬ方からメールを頂戴したことがありました。べつだん問い合わせということでもなく、なんだか不得要領な内容で、返信は無用とのことでしたからそれっきりにしてしまったのですけれど、とにかくA君がお元気そうなのはご同慶の至りです。 しかしそれにしても、と私は考えました。一週間のお休みに入るまで、私は西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』を手がかりとして作家の自己演出や自己劇化というものを考察していたわけなのですが(お休みに入るために急いでまとめてしまった観もあるのですが)、A君というのはそうした考察にじつにぴったりの素材ではないか、いやいや、A君の場合は極端すぎて何の参考にもならないか、それにだいたいA君は作家じゃないんだし、しかしこれはささやかな連鎖反応というか暗合というか、私の観照的生活にもたらされたひとつのきっかけのようなものなのかもしれず、ならば人間の自己愛というものを分析してみるにそれをふたつに分類することは可能であろうか、と私は考えたわけです。 喜劇的自己愛と悲劇的自己愛。このふたつです。つまり自己愛が表出されるに際して、それが喜劇に走るか悲劇に進むか。むろんこの場合、他者の眼にその表出がどう映っているかを問題にしているのではなくて、あくまでも本人が自分のことを喜劇と悲劇、いずれの登場人物と見ているかということが分類の基準となるわけですが、こんな分類がほんとに可能なのでしょうか。 可能だと仮定して話を進めると、それはもういやになってしまうのが悲劇的自己愛の所有者です。喜劇というのはまだいい。一定の距離を置いて自己を客観的に観察し、他者から笑われるべき対象として認識するのが喜劇の基本なのですから、表出される自己愛はさほどべたべたしてはおりません。しかるに悲劇というのはあなた、感情の共有を他者に無理やり押しつけるものなんですからとにかくべたべたしています。 こんな話題でいいのかな、と思いつつあすにつづきます。
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ひさしぶりでA君(Aはアレクセイの頭文字だとお思いください)の名前を眼にした懐かしさからついつい話題にしてしまいましたけど、お話としては本筋からどんどん離れていってしまっているようです。しかし本筋というのがどういうものであるのかも曖昧なのですから、このままもう少しつづけることにいたしましょう。 自己愛といい自己陶酔といい、いずれそんなのは他人にとって鬱陶しいだけのものなのですが、それを他人にべたべた押しつけたがる人間というのが存在するものです。要するにいささか自他未分離な人間であって、つまりは幼児的なのである。なんだかフロイトみたいなことをいってますけど、とにかく彼は何よりも自分自身を愛しているのであって、そんな自分は当然他人からも愛されるはずである、愛されなければおかしい、愛されなくてはいけないのであるということになります。ですから彼は自分はこういう人間なのであるということを熱く語ります。こういうことが好きなのである、こういう考え方をするのである、こういうことをやってきたのである、こういう能力を有しているのである、こういう人たちとつきあいがあるのである、人間としてはこんな欠点もあるのであるが(その欠点は愛すべきものほほえましいものにかぎられますが)、じつに気さくでいい人なのである、他人への気配りはわれながら見事なものであり、そもそも人の難儀を見捨てておけない人間でもある、ひとことでいえば万人から賞賛と尊敬を寄せられるべき人間なのである、みたいなセルフイメージをせっせと築きあげて他人に提示してゆくわけですが、人からは、ふーん、といった反応すら返ってこない。すると悲劇が本格化します。 これはいったいどうしたことか。他人から認めてもらえない自分、評価されない自分、ひどい扱いを受けている自分、こんな自分ではおかしいではないか。私はどうしてこのような悲劇を生きねばならぬのか。くそ。なめやがって。おれを誰だと思っていやがる。 実際、悲劇的自己愛のもちぬしというのはよく「なめやがって」という言葉を口にしますし、評価や扱いをいたく気にします。扱いが悪いと露骨に激怒します。気さくないい人という仮面をかなぐり捨てます。もう自己演出も自己劇化も関係ありません。他人から認められたいという幼児的な欲望が剥き出しになります。当人はいまや貴種流離譚の主人公になりおおせているわけなのですが、他人にはそんなことさっぱりわかりませんから、なんや知らんけどこの人えらい怒ってはりまっせ、ということになってしまう。 念のために記しておきますと、私は特定の個人のことをあげつらっているわけではありません。悲劇的自己愛なるものがこの世に存在していると仮定して、それがどのように表出され、外界に接することでどのように悲劇の度合いを深めてゆくのか、そういったことをいささかお酒の残った頭で考察しているだけの話です。それにだいたいこれは悲劇的か喜劇的かというタイプの問題ではなく、自己愛の成熟度の問題ではないのかという気もしてきた次第なのですが、いちおうの結論といたしましては、西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』は喜劇的自己愛の所産であり、たまたま名前を見かけることになったA君からはやはり悲劇的自己愛といったものが感じられると、そういったことになります。 とりとめのないことを書きつらねてしまいましたが、A君のことでお問い合わせをいただいた方への返信の足しになればとも考えました次第。末筆ながらA君のご活躍をお祈りいたしておきましょう。しかしA君、いったいどんな活躍をしていらっしゃることじゃやら。
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