2006年3月上旬
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 ■ 3月1日(水)
突然ですが「RESPECT 田中徳三」のお知らせ

 弥生3月を迎えまして、まず映画祭のお知らせをおひとつ。

 名張市にお住まいの映画監督、田中徳三さんの大規模な回顧上映会「RESPECT 田中徳三」が3月25日に開幕します。会場は大阪市西区九条のシネ・ヌーヴォ。4月14日まで三週間のロングランで、田中監督が大映時代にメガホンをとった四十九作品中三十二本を一挙上映。日程はこのページで、作品解説はこのページでご覧ください。

 パンフレットから田中さんのコメントを引いておきます。いやこれはもう引用などではなくてコメント全文をまるっと無断転載してしまうわけなのですが、満腔の祝意を表する確信犯の犯行なのであるとご理解ください。

 上映される三十二本の作品は、出来不出来は別にして、どの作品にも私にとって限りない想い出がある。

 これらの作品には、安酒を飲みながら熱っぽく映画を語り合った撮影所の活動屋たち、市川雷蔵、勝新太郎等撮影所で育った役者たちとの懐かしい想い出が一杯つまっている。

 チョットでも面白くしたい。そんな思いで撮り続けた。

 これらの作品は、私の青春であった。 私の映画祭、嬉しいような、恥ずかしいような。

 しかし「老いて華やぐ」────今、私はワクワクしている。 

田中徳三

 私はこのシネ・ヌーヴォという映画館のことも、その映画館でこんな企画が練られていたことも、どちらもまったく知りませんでしたが、よくぞ実現してくれたものだとうれしく思います。

 3月25日と4月1日には対談、3月26日と4月2日にはトークと、田中さんをフィーチャーした催しもあるみたいですから、大阪圏にお住まいの方は(といった限定を加える必要もないのですが)ぜひお運びください。田中徳三監督といえばなんといっても「悪名」と「続・悪名」の監督として名高く、とくに続篇終幕におけるある雨の日のモートルの貞殺害シーンは日本映画史上に残る名場面のひとつであると愚考する次第なのですが、4月1日夜の特別オールナイト「田中徳三“勝新”ナイト」では上記二本と「新・座頭市物語」「続・兵隊やくざ」がまとめて楽しめます。

  本日のアップデート

 ▼1935年5月

 本誌次号より又々乱歩先生の大傑作連載 !! /闇の声……江戸川乱歩

 「講談倶楽部」の昭和10年5月号、すなわち「人間豹」の最終回が発表された号に掲載されました。これもまた小林宏至さんから教えていただいた記事です。

 『人間豹』は天下大熱讃の裡に愈々完結致しました。我が乱歩先生は引続き次号より題名の如き大長篇を執筆下さいます。これは意外といういふ可く余りに意外、怪奇といふ可く余りに怪奇な、戦慄的大探偵小説です。人間の想像力の一切を絶する大怪奇小説です。愛読者諸賢! 満腔の御期待を以つて、秘密の扉の開かれる日をお待ち下さい。

 「講談倶楽部」の編集部には「人間豹」が終わったあとも乱歩を連続登板させる思惑があったらしく、「闇の声」というタイトルまで大書してこうした予告を打ったのですが、ちっとは休ませてくれんかね、といったことでもあったのか、乱歩はそれに応えませんでした。

 こうした例、つまり乱歩の意向などおかまいなしに編集部が勝手に乱歩作品の予告を出してしまうケースはほかにもあって、この記事から五か月前にあたる昭和9年の年末には、「オール讀物」の新年号には「消えた見世物」とか「蛇男の生涯」とかいう乱歩作品が掲載されます、みたいな予告や広告が文藝春秋系の雑誌に掲載されて乱歩をおおいに腐らせたものでしたが、この「闇の声」もそのたぐいであったのかというと、一本の根も一枚の葉もないでっちあげだったわけでもないようです。

 というのも七か月後、「講談倶楽部」の昭和10年12月号には「本誌新年号の五大連載小説」という予告のページが設けられていて、乱歩は「闇の声」というタイトルの新作を掲げて「作者の言葉」を寄せています(実際には編集部の手になる文章でしょうが)。そして明ければ昭和11年の「講談倶楽部」新年号、堂々連載が開始されたのは「闇の声」ならぬ「緑衣の鬼」でした。

 となると、ここにひとつの推測が成り立ちましょう。「闇の声」なるタイトルは編集部が適当に吹いたでたらめではなく、乱歩が腹案として練っていたものではなかったのか。

 昭和10年の乱歩といえば「人間豹」の連載を終えたあと「三度目の冬眠」に入ってしまい、5月21日には蓄膿症手術のため入院。しかし「探偵小説四十年」には、

 ──蓄膿症の手術のために入院する少し前から、主として二人の年少の外国探偵小説愛好者の刺激によって、私は久しぶりで英米の探偵小説をやや数多く読む機会に恵まれていた。

 とあって石川一郎と井上良夫の名があげられ、さらにはこんなことも記されています。

 ──井上良夫君がフィルポッツの「赤毛のレドメイン一家」の原本を送ってくれ、それを一読してから、私の中の本格探偵小説への情熱が勃然として湧き起ったのである。

 昭和10年が乱歩にとってなかなかに重要な年であったことが知られます。そしてその勃然たる情熱は、小説執筆の面では「赤毛のレドメイン一家」にインスパイアされた「緑衣の鬼」として実体化されるわけですが、だとすれば「闇の声」も同じくフィルポッツの「闇からの声」を構想の火種とした作品ではなかったのかと、そんなふうに推測してみることは不可能でもないでしょう。

 したがいましてとりあえず、「闇の声」は乱歩が期するところあって腹蔵していたタイトルだったのではないかと判断される次第であると、ただそれだけの話ではあるのですが、このあたりのことは『江戸川乱歩年譜集成』の編纂過程であらためて考えてみることになろうかと思います。


 ■ 3月2日(木)
脚註王のケンケン笑い

 さてそういった次第で、『子不語の夢』の脚註づくりはIT時代(という言葉も最近とんと耳にしなくなりましたが)にふさわしくインターネットを活用して進められました。じつはひとつだけ問題があって、それは関係者のなかでただひとり肝腎かなめの脚註王だけがインターネットにノータッチな人であるという一事だったのですが、スタッフおよび出版社の尽力でこの問題もクリアしてもらい(たぶん脚註チェック用非公開ページに掲載されたヘルプやフォローをいちいちプリントアウトして脚註王のもとへ謹んでお届けする、といった作業が行われたのだと推測されます)、脚註王による脚註がいよいよ脱稿となりました。

 もしも自分が編集者であったなら、と私は思っておりました。この脚註原稿によって編集者魂にめらめらと火をつけられたことであろうな、と。よーし、いっちょ本気でしごいてやろうじゃないの、と。

 つまり脚註原稿が完成したあとは情け容赦のない斧鉞を加えて決定稿を仕上げるべく、脚註担当者と編集者とのガチンコの丁々発止がくりひろげられるのであろうなと私は考えておりました。とにかく分量が尋常ではなく、当の脚註王も「脚註王の執筆日記【完全版】」の脚註で『子不語の夢』脚註原稿の長々しさに関してこんなことを打ち明けていらっしゃいます。

切るしかしかたがありませんが…… この頃、ボクは、切られることを予測して、メイッパイ長文にして、ムダな枝葉を、あらかじめタクサン付けておく、という作戦に入っていたのでした。それがホトンド全部、ボツにもならんと印刷されてしもたんです。『スカイキット・ブラック魔王』のケンケン笑いがシトなりますね。殿山の泰ちゃんみたいに。

 あ、「スカイキッド」が「スカイキット」になってる、誤植だ、とお思いになった方、あなたはたぶん思慮が浅い。関西地方の言葉ではこうした場合、最後の音節にある濁点が突如消えてしまうという現象が発生しないでもありません。それを鬼の首でも取ったみたいに誤植だ誤植だと騒ぎ立ててみなさい。それこそ脚註王の思うつぼです。しかしほんとに誤植かもしれんのだが。

 それから「ケンケン笑いがシトなりますね」というところ、ちょっとわかりづらいでしょうか。「シト」から「死と」や「死都」を連想した向きもおありかと思われますが、「しとなる」は「しとうなる」、つまり「したくなる」の意です。七つの顔をもつ名探偵多羅尾伴内の決めぜりふに出てくるフレーズを「正義と真実の人」だと勘違いしている人も多いかもしれぬが、あれは正しくは「正義と真実の使徒」であって、いやいかんいかん、いつのまにか脚註王的トリビアに走ってしまっているではないか。にしてもケンケン笑いから殿山泰司へとアナロジーの連鎖を架け渡す早業は、これはもう脚註王における作家的想像力のなせるところだといっていいでしょう。

  本日のアップデート

 ▼2002年8月

 特別企画エロスの祭典 名作「江戸川乱歩シリーズ」復活

 「週刊現代」の8月3日号に掲載されました。モノクロ五ページのグラビア。1977年から1985年までテレビ朝日系で放送された土曜ワイド劇場「江戸川乱歩シリーズ」全二十五話がDVDで復活したのを機に名場面を誌上で一挙公開、という企画。おそらくご想像のとおりであろう写真が満載されていて、タイトルの横には、

 ──夏樹陽子・由美かおる・叶和貴子・早乙女愛・萬田久子…

 と美女の名が列記されているのですが、関係者のコメントを紹介するページもあって、元松竹プロデューサーの佐々木孟さんは「幻想的なエロスの異色作だった」というタイトルで一席。冒頭から途中までを引きましょう。

 テレビ朝日で土曜ワイド劇場が始まったのは'77年のことです。最初の半年間は低視聴率に苦しんでいました。

 そこで私が若い頃よく読んだ江戸川乱歩作品を原作にしたドラマの企画を提出したわけです。

 乱歩の中でも、やはり明智小五郎モノがいいということで、それ以前にも舞台「黒蜥蜴」で明智小五郎を演じていた天知さんに主役をお願いしました。彼はすでにニヒルな二枚目の役柄が定着していました。

 当時のドラマは大女優を使った上品な文芸作品やホームコメディが主流で、「江戸川乱歩シリーズ」のような、奇怪さとエロスの要素を取り入れたドラマは珍しかったんです。

 2作目の「浴室の美女」では冒頭のタイトルバックから、ヒロインの夏樹陽子さんの入浴シーンを入れました。このシーンが受けたようですね。後にシリーズには不可欠な人となった共演男優の荒井注さんの好演もあって、視聴率が夢だった20%を超えたんです。局は「何でもいいから乱歩の明智シリーズをどんどん作れ」とハッパをかけるようになった。

 つづきまして、監督の井上梅次さんによる「この作品で女優たちも成長した」は途中からおしまいまで。

 民放のテレビドラマの宿命として、CMが入ると視聴者はチャンネルを替えてしまう。CMが入る前に裸の美女が出てきたら、続けて見てくれるだろう、タイトルバックに裸の一番いいシーンを持ってくるのもそのためでした。

 あの頃、他局では日本テレビの「ウイークエンダー」、TBSの「Gメン75」など強力な裏番組が揃っていた。「江戸川乱歩」がヒットして、シリーズとして定着して以降、TBSも2時間ドラマをやりたいと一時進出した。

 そういう意味では「江戸川乱歩」シリーズは、日本に2時間ドラマを定着させた記念碑的な作品なんです。

 乱雑に積みあげてある中綴じの雑誌のたぐいを整理してみると、購入した記憶すらない週刊誌なんかがばっさばさ出てくるのですが、この「週刊現代」もそうした一冊です。表紙のてっぺんに特筆大書されている「カラー独占掲載 実力派巨乳女優26歳ヘアヌード」のグラビアをまず堪能し、そのあとページをくったところ「特別企画エロスの祭典 名作「江戸川乱歩シリーズ」復活」が出てきました。


 ■ 3月3日(金)
脚註王の栄光の日々

 しかし実際には、村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」に記されているとおり、脚註王による尋常ならざる分量の脚註は、

 ──それがホトンド全部、ボツにもならんと印刷されてしもたんです。

 脚註王も驚かれたことでしょうけれど、私もまたひっくり返りました。編集部なき出版社ゆえの悲喜劇ということなのでしょうが、脚註担当者と編集者との丁々発止というプロセスがすっ飛ばされ、出版社は限られた紙幅に脚註をぎゅうぎゅう押し込むことに汲々として、それでもあがってきた第一校を見てみると、本文は終わっているのに脚註ばかりがえんえん延びつづけ、仕方ありませんから脚註だけを二段に組んでレイアウトしてみました、みたいなページまで出現しているありさまでした。

 さすがにこれではまずかろう、ということになったのかどうか、僻遠の地にいた私にはつぶさにはわからねど(というよりも記憶が怪しくなっているのですが)、この時点でようやくスタッフおよび出版社と脚註王との話し合いが行われ、なんとか最終的な形態に落着したのであった、と思います。

 脚註王による『子不語の夢』の脚註は、原稿量をべつにして考えてもおよそ破天荒な逸品でした。はじめて眼にしたときにはずいぶん驚かされたものでしたが、読んでみると基本的にはすこぶる面白く(基本的には、などと書くとまたイケズのそしりを頂戴するのでしょうけれど)、そうした面白い脚註を目指してくれた村上裕徳さんの心意気と気合がたいへん嬉しいものに思われましたし、それにまた先日も記しましたとおり、『子不語の夢』の刊行は私にとって三重県民の血税三億円をどぶに捨て去るお祭り騒ぎに身を投じることにほかなりませんでしたから、脚註王における常識的世界からの逸脱ぶりはそれにうってつけのものであるとも判断されました。

 『子不語の夢』が刊行されたあとこの脚註のことでごちゃごちゃいってくるやつが出てきたら、おそれおおくも三重県知事になりかわってまずおれが一発かましてやらねばならんな。私はそのように決意していたのでしたが、それはまったくの杞憂に終わり、脚註王の脚註は江湖の読書子に圧倒的な好評をもって迎えられました。第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考でも、たとえば藤田宜永さんの選評を「オール讀物」2005年7月号から引用いたしますと、

 ──『子不語の夢』は注釈が非常に面白かった。注釈でこんなに愉しんだのは生まれて初めてである。この部分だけで一冊の本になっていたら受賞したと思う。

 とまで絶讃していただきました次第。ただしこの選評、このあと、

 ──他の選考委員から、誰に賞を渡すのか分からない作品という意見が出て、受賞は見送られた。

 とつづくのですが、あーこれこれそこの日本推理作家協会、おまえらどうして絶望的なまでに判断力を欠如させたうえにみずからそれを暴露して恬として恥じるところのない手ひどいばかったれ連中を選考委員にするのじゃ、ふざけてんじゃないわよ、ええかげんにしなはれ、ばーか、みたいな啖呵を一度でいいから切ってみたいと思うのですが、いやじつにどうもまあなかなか。日本推理作家協会のますますの発展を祈念いたします。

  本日のアップデート

 ▼2006年3月

 久世光彦

 訃報です。

 訃報というのはいつもそうなのですが、突然もたらされましたのでいささか愕然としてしまいました。

 軟派なところでサンケイスポーツの記事を引いておきます。

名演出家、久世光彦さん死去…芸能界に大きな衝撃
 人気テレビドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などを生んだ演出家で作家の久世光彦(くぜ・てるひこ)さん=写真=が2日朝、虚血性心不全のため都内の自宅で死去した。70歳だった。ドラマの生放送などテレビ界に次々と革命を起こし、名物プロデューサーと称された久世さん。また作家としても、「聖なる春」で文部大臣賞を受賞するなど活躍。各方面で多大な影響を残しただけに、突然の死は芸能界に大きな衝撃を与えた。

 久世さんはこの日朝、都内の自宅内の自室で倒れているのを家族に発見された。救急車で近くの病院に搬送されたが、午前7時32分死亡が確認された。関係者によると前日まで仕事をし、普段と変わらない様子で打ち合わせなどをしていたという。先月22日には「寺内−」のDVD発売イベントに出席。元気な姿を見せたばかりで、まさに急死だった。

 『乱歩文献データブック』ができたとき、『一九三四年冬−乱歩』の著者に謹んでお送り申しあげたところ、名張市立図書館長宛に思いがけず礼状を頂戴いたしました。テレビ業界の人間というのは一様に礼儀知らずなのであろうと思いこんでいた私は、おおきにびっくりし、ちょっと恥ずかしくなり、高名な演出家の内面にごくわずかながらも触れられたような気がしたことを記憶しております。

 合掌。


 ■ 3月4日(土)
脚註王のあてとふんどし

 脚註王村上裕徳さんも第五十八回日本推理作家協会賞評論その他の部門の選考には不審不満がおありのようで、「脚註王の執筆日記【完全版】」のイントロダクションにはこんなことが記されています。

何かエエモン貰ろとる可能性も有るんで(貰えんかったんですー!)、仮に貰えんでも(二コとも落ちよったんですー !! )、そういうヨタ話を紹介するはずです(最初の本格ミステリ大賞は、対抗馬が天城センセやから、ワイら若輩もんが出る幕やナイ! ヒッチコックのアカデミー賞の特別賞とオンナシやから、ボクが選考票持ってても天城センセに一票入れまっせ! 状態でした。ヨッシャ、ヨッシャ、二コとも貰ろたらバチあたるがな……、これでエエネン状態でした。トコロガ、協会賞も落ちたんで、それでは話がチャウやないか! と別に根まわしをしたわけじゃないんですが、ひとりでツッコミを入れているようなワケで、選考評読んでも、井上ひさしはテキストをチャンと読んどらんし、何かホメ殺しでナブラレとるような気がしますです。はい)。

 前後の脈絡がようわからんゆう人は「『新青年』趣味」第十二号を購入して全文読んでくれたらええんです。

 さるにても、古来あてとふんどしは向こうからはずれると相場が決まっているわけですが、本格ミステリ大賞と日本推理作家協会賞のダブル落選は想定の範囲外。脚註王もお書きのとおり、天城一さんの本格ミステリ大賞受賞は『子不語の夢』スタッフからも余裕でかつまた心から祝福された慶事であったのですが、あてにしていた日本推理作家協会賞の選考結果はにわかには信じがたいものでした。あきれかえって口もきけないものでした。しかし致し方ありますまい。選考委員がきわめてナイーブであったのだと諦めて(ここはもう完全に、選考委員がとんでもないばかばかりであったのだと諦めて、という意味だとご理解ください)、先に進みましょう。

 しかし先に進むといっても、「脚註王の執筆日記【完全版】」に関する補足説明、いうならば脚註に脚註を重ねる作業はおおむね終わってしまいました。その先が何になるのかというと、じつはこれからが本題というべきかもしれないのですが、あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2005年7月

 解説 長山靖生

 昨年7月に出た中公文庫『海野十三敗戦日記』の解説です。この文庫本は当地の新刊書店にはまわってきませんでしたので、刊行されたことは知りながら買い求めもせずそのままになっていたのですが、『江戸川乱歩年譜集成』の参考資料として取り寄せたのが届きました。

 日記は昭和19年12月から翌20年12月まで、「空襲都日記」と「降伏日記」の二部構成。乱歩に関する言及は見られませんが、長山靖生さんの解説によると、

 ──ところで本書に関連する新たな海野資料の補足としては、本書収録以降の海野日記の存在に触れないわけにはいくまい。三一書房版『海野十三全集』編集の際に、昭和二十一、二十二年の生活を記した日記が、佐野家から見つかったのである。ただしその記載は断続的なものにすぎず、全部あわせても原稿用紙五十枚に満たない程度のものだ。

 とのことで、昭和21年1月の日記に乱歩の名の見えることが、こんなぐあいに紹介されています。

 その乱歩については「乱歩さんは相変らず老人ぶって引込んでいるのは遺憾である。しかし色気は皆無というには非ず、一年一作で十分たべられるというものをやりたいとのべていると、小栗虫太郎が帰って来ての話だ。これは大いによろしい」(一月十日)と記している。

 虫太郎は1月4日に疎開先の信州から上京し、海野宅に宿泊、そのあと乱歩邸を訪問したようです。「探偵小説四十年」にも1月の9日と10日、虫太郎が二日連続で宿泊していったという事実が書き留められています。

 上の引用には「小栗虫太郎が帰って来ての話だ」とありますから、虫太郎は乱歩邸を辞してふたたび海野邸に立ち寄ったと解釈するべきでしょう。しかしだとすれば、1月10日付の海野日記にそれが記されているのはいささか腑に落ちません。虫太郎は10日夜も乱歩の家に泊まったと、乱歩は記録しているわけですから。

 なんかややこしい。頭が痛くなってきた。


 ■ 3月5日(日)
評判最悪、伊賀の蔵びらき

 『子不語の夢』は三重県が2004年度に実施した官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の一環として刊行されました。刊行のためにぶんどった予算は総額三億円のうち五百五十万円でした。

 この長ったらしい名前の事業が完全なる失敗に終わったというのはいまや衆目の一致するところであって、伊賀地域住民のなかにはいまでも私の顔を見かけるとこの事業の批判を厳しく展開してくださる方があります。今年に入ってからでもつい先日、といっても先月のことですが、おまえが「伊賀百筆」に発表した事業批判は面白かった、じつは自分もあの事業にちょっとだけかかわったのであるが、それはもうひどいものであった、と打ち明け話を聞かせてくださる方があり、といっても酔っぱらって聞いていたものですから仔細には思い出せぬのですが、事業の一環としてビデオ作品を公募する企画があった、しかしふたを開けてみると悲しいことに作品がほとんど集まらず、したがってそこらの中学生か高校生が撮影した屁でもないようなビデオが堂々の入賞、むろん入賞作品の発表と表彰も行われたのであるが、審査員を務めた旧上野市出身のNHKプロデューサーだかディレクターだかは気に入らないことがあったらしく途中でぷいと帰ってしまって、しかもそのときの入場者数ときたらあなた、

 「あの蕉門ホール借り切ってたったの十六人ですよ。たった十六人」

 その十六人もすべて入賞者の関係者なのであったそうな。

 まったく何をやっておったのか。とにかくひどい事業でしたが、官民双方のばかが寄ってたかってどぶに捨ててしまった三億円のうち、じつに微々たる額ではありましたが五百五十万円の血税を有効に活用できたのは喜ばしい。伊賀地域や三重県にとっても喜ぶべきことであったと思います。

 この五百五十万円は全額、一円も残さず出版社に支払いました。内訳は1月2日に「江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集刊行事業(続)」でお知らせしましたが、下の画像のとおりです。

 おもだったところをあげておきましょう。

『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』制作費内訳
組版・印刷・製本
1,575,000
CD-ROM 製作
1,500,000
原稿料・装丁料
1,000,000

 ほかは書簡の撮影費、乱歩が製本してあった不木書簡の解体修復費など。五百五十万円で千部を発行し、うち六百六十部は全国の図書館や研究者などに献本しました。書店でも販売しましたが、それによって発生する利益は『子不語の夢』の発行者だった乱歩蔵びらき委員会には無関係、つまり本がいくら売れても委員会には一円も入ってこないということにしました。その主たる理由は、委員会は事業が終われば消滅してしまいますからお金の受け皿がなくなってしまう、二〇〇四伊賀びと委員会の内部にはこの事業で利益を発生させることを疑問視する声もあった(むろん疑問視しない声もあったのですが)、といったところです。

 さてそれで、脚註王の話題にこと寄せてお知らせ申しあげてきましたとおり、この出版社には編集部がありませんでしたから編集作業がなかなか進行しませんでした。私は編集業務を出版社に丸投げして高みの見物を決め込んでいたのですが、そんなこともしていられなくなって、たとえば脚註チェック用の非公開ページを開設してスタッフに提供したこともまたお知らせしたとおりです。

 結局、いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 怪人二十面相 江戸川乱歩

 1998年から1999年にかけて刊行されたポプラ社の「少年探偵・江戸川乱歩」シリーズ全二十六巻が、「文庫版少年探偵・江戸川乱歩」として装いを一新しました。その第一巻。文庫版といっても文庫判ではなく、B6判の天地が二センチほど詰まった変型判です。

 砂田弘さんによる巻末解説の結びを引きましょう。

解説 「少年探偵」シリーズの幕あけ──怪人二十面相と明智小五郎の対決

 『怪人二十面相』は、一言でいうと、二十面相と明智小五郎の対決の物語です。東京駅のプラットホームでの対決をはじめ、おもな対決のシーンは五回あります。みなさんは、どのシーンにいちばんスリルを感じましたか。わたしは、明智に追いつめられた二十面相が気球にのって空へにげるシーンがいちばん気に入っています。

 ミステリーには、ナゾを科学的に解いていく本格物と、不気味でふしぎな出来事をからませる怪奇・幻想物との二種類がありますが、乱歩はそのどちらでも一流といわれた作家です。「少年探偵」シリーズの最大の魅力は、その両方を兼ねそなえているところにあります。つまり、すぐれた謎解きの物語であると同時に、すぐれた現代の怪談ともなっているのです。

 東京駅の話題が出てきましたので、作中で「鉄道ホテル」として対決の舞台となっている東京ステーションホテルの話題に横滑り。昨年12月19日付東京新聞から安田信博記者の記事を引いておきます。

『ステーションホテル』 改装で“小休止”
 JR東京駅の駅舎内にある東京ステーションホテルが、駅舎の復元工事に伴い、来年四月から五年間の休業に入る。今年で創業九十周年。国内のホテルの草分け的存在で、数多くの作家にも愛されてきた赤れんがのクラシックホテルの過去、現在、未来は−。

 東京駅丸の内南口。改札口を出た先に広がるホールに立って視線を上に向けると、天井に最も近い位置に、大きな窓がホールを見下ろすように回廊状に連なっている。一見して、これがホテル三階客室の窓と気づくのは難しいだろう。

 三階の一室の壁には、かつて「川端康成の部屋」との標示があった。新聞連載小説「女であること」執筆のため川端が一カ月ほど宿泊、一九五八(昭和三十三)年の映画化の際、ヒロイン役の原節子さんが窓からホールを眺めるシーンもこの部屋で撮られた。公開後、宿泊希望の女性が急増したという逸話が残る。

 二階には「松本清張の部屋」もあった。現在のように中央線のホームが重層化される前は、ホームに出入りする電車が見通せたといい、傑作「点と線」の“四分間のトリック”は、ここで構想を温めたとされる。二年前、エレベーター新設に伴いつぶされた。

 このほかにも、内田百〓、江戸川乱歩、森瑤子ら多くの作家に愛され、小説の舞台にしばしば登場したホテルは、東京駅開業の翌一九一五(大正四)年にオープン。ホテルの数も少なかった戦前は帝国ホテルと並び称されるほどの存在で、赤れんがや大理石を使った堅固で贅沢(ぜいたく)な造りのため、二三年の関東大震災でもビクともしなかった。

(〓はもんがまえに月)

 この東京ステーションホテル、一度は宿泊してみたいものだと思いながら、上京すればべろんべろんになって手近なカプセルホテルにのたくりこむのが年来のならわしです。今月末に営業を停止し、オープンは五年後になるというのですから、好事家諸兄姉は話の種に一泊されるのも一興でしょう。


 ■ 3月6日(月)
乞食万歳、伊賀の蔵びらき

 いかんいかん、こんなことではいかんではないか、ということになりました。

 ならばいかにすべきか。要するに編集部が機能しないのですからその点をなんとかせにゃなりません。

 善後策を思案した結果、監修をお願いしていた浜田雄介さんに編者にまわっていただくことで衆議が一決しました。それはいいのですがその余波として、スタッフに名を連ねていなかった私が監修者としてしゃしゃり出ることになってしまいました。こいつぁ痛かった。

 むろん私とて自己顕示欲や功名心や名誉欲は人並みにもちあわせているつもりなのですが、それが素直には発動しない傾きがあるようです。自分自身を強引に前へ押し出すことに抵抗を感じる。いわゆる上昇志向であるとか、もっと大きくいえば野心であるとか、そういったものが私にはやや稀薄なのではないかしらん。出世栄達はわがことにあらずという感じがどこかにあって、漱石風な〓徊趣味に親近感をおぼえる。そこらのお姉さんと愉しくお酒を飲むことができればそれで機嫌がいい。紅旗征戎わがことにあらず。時節柄の定番曲でいえば「仰げば尊し」の「身を立て名をあげ」という歌詞に対してはいたって冷笑的である。身なんか立てなくていいんだし、名なんかあげなくたって全然OKなんだぜと、お若い衆にどうしていってやれんものかと思う。だいたいが名前なんてのはたぶん何かをなした結果としてあがったり残ったりするものであって、名をあげたり残したりすること自体のために血道をあげるのはずいぶん暑苦しいことではないか。とにかく私はそんなことのために一生懸命にはなれぬのである、というのはいわゆる負け犬の遠吠えにすぎないのかもしれませんが、とにかく私はそんなふうに考える。

 (上の段落にある「〓」は「低」のにんべんがぎょうにんべんになっている文字です)

 しかし、そういったいってみればアジア的な謙譲の精神はべつにしても、私には『子不語の夢』という本に自分の名前を出したくない理由がありました。当初は自分が編集するつもりでいましたから、その場合にはどうしたって名前を出さなければならなかったのですが、編集作業を出版社に丸投げすることができたのですから、しめしめ、こいつぁ好都合だぜ、てなもんでした。脚註王村上裕徳さんの脚註に自分の名前が二箇所出てくるのを発見し、先日も記したとおりちょっとまずいなと思ったのも同様の理由によっているのですが、村上さんがわざわざこうやって名前を出してくれたのだから、陽の当たる表舞台にはけっして姿を現さぬ伊賀の忍びがかすかに足跡を残しておくのもおつりきではないかと考え直した次第でした。

 三重県が税金三億円をどぶに捨てた官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」においては、ぶっちゃけていえば協働だの全国発信だのの旗のもとに浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(あいうえおで頭韻を踏んでみました)乞食根性がうずまいていました。官民双方の乞食のみなさんは一円でも多く自分の懐にかき集めるために眼の色を変え、そのくせ懐にいくら入ったのかをいっさい明らかにしようとせず、しかもそのことに何の疑問もおぼえないってんですから公金を費消する立場の人間に当然要求される倫理や道徳なんてどこ捜してもありゃしません、とにかく三億円をきれいにどぶに捨ててくれたわけですね。乞食のみなさんが。

 で私は、そうした乞食のみなさんとは一線を画したかった。それはたしかに三億円に群がってそのうちの五百五十万円で『子不語の夢』を刊行するのではあるけれど、五百五十万円のうちの一円だって自分のものにはしたくない。ぶんどってきた予算のいくばくかを環流だかキックバックだか名目はどうあれ自分の懐に入れてしまうような、そんな浅ましく卑しく胡乱で得もいえず愚かな(もう一度踏んでみました)真似はしたくなかった。

 しかし『子不語の夢』という本に私の名前が出てくるとなると、当然のことながら労務に対する報酬が発生することになります。たとえ一円も受け取らなかったにしても、人は私がこの事業によっていくらかの金銭を手にしたと認識してしまうかもしれません。

 それじゃなんだか垢抜けねーな、と私は思い、だからこそ『子不語の夢』に自分の名前が出てこないのはじつに望ましいことであったわけです。おれは乞食じゃねーんだッ、と叫ぶかわりに、伊賀の忍びの秘術を尽くして完全に姿をくらましてしまうことが私の念願でした。

  本日のアップデート

 ▼2006年4月

 ハードボイルドを運んできた軍隊文庫 小鷹信光

 たまにゃ「ミステリマガジン」も覗いてみなきゃな、とか思って4月号を手にとってみたところ、小鷹信光さんの連載「新・ペイパーバックの旅」がスタートしていました。失礼な話ながら、小鷹さんが依然現役として活躍していらっしゃることを知ってややびっくり。

 この連載は小鷹さんより「さらに二まわり年上」という双葉十三郎さんの話題で開幕しているのですが、ちょっと調べてみたところ双葉さんの生年は1910年、日本風にいえば明治43年だと知ってほんとにびっくりしてしまいました。

 昨年十月、その双葉さんにお会いしてお話をうかがう機会があった。そのときの対話の一部をここで紹介させていただこう。
 ──二年前に昔話をいろいろうかがったとき一番感銘をうけたのが、「ハードボイルドを日本に初めて紹介したのはぼくだよ」という言葉でした。

 双葉 《スタア》という雑誌に、外国の探偵小説を紹介する欄がありましてね。それまでは日本では、ハードボイルドというものは、その言葉さえ知られてなかったんです。

 ──その記事を図書館でみつけました。大判16ページの《スタア》復刊第二号で、編集長は南部圭之助さん。双葉さんは編集次長。〈新刊だより〉というコラムで、チャンドラーの『ビッグ・スリープ』を、ハードボイルドという用語を四回使って紹介していらっしゃいます。それを読んで江戸川乱歩さんが、話を聞きたいと連絡してこられたんでしょう。

 双葉 それで会いに行きました。二度目は植草甚一さんと一緒に行って、乱歩さんに会わせました。

 こまかなことではあるが重要でもあるので、一、二の事実をここで検証しておく。

 その検証の結果、

 ──「ハードボイルド」を最初に活字にしたのは双葉十三郎。だが、「ハードボイルド派」という言葉を先に使ったのは江戸川乱歩ということになる。

 という歴史的事実が判明し、双葉さんが「ハードボイルド」なる言葉をどこから仕入れてきたのかという点にまで検証の筆はおよんでおります。

 「こまかなことではあるが重要でもある」歴史的事実の検証というのは、やはりたいへんな作業だなと思います。『江戸川乱歩年譜集成』の編纂はそうした作業の積み重ねにほかならず、あーなんかもうすっごい頭が痛くなってきた。


 ■ 3月7日(火)
清廉潔白、伊賀の蔵びらき

 こと志と異なり、私は『子不語の夢』という本に監修者として名前を連ねることになってしまいました。忍びの術がまだまだ未熟であったということか、とにかくそうせざるを得ない状況になってしまいました。ですから結局、じつに不本意なことながら、監修者としての報酬を手にすることにもなってしまったわけです。

 北川正恭さんとおっしゃる前知事が決定し、野呂昭彦さんとおっしゃる現知事がそれを継承した、三重県民の血税三億円(厳密にいえば、三億円のうちの二億円は三重県が、残り一億円は伊賀地域旧七市町村がもちだした税金です)をばらまく愚策のその結果、私の懐にもわずかながらお金が転がりこんできたわけです。

 しゃれにならんな、と私は思いました。私はあくまでも清廉潔白、みそぎを終えた巫女のごとくに汚れを知らぬ身で「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を批判しているつもりであったのに、巫女さんはいつのまにか春をひさいでおった。いやいや、私は春をひさぐ女性のことを大事にしたいと思っている人間であるのだし、そもそも巫女と売春には古来密接な関連があるのだからそれはいい。それはいいのであるけれど、しかし難儀じゃ、こんなことではおれはもうそこらの乞食と選ぶところがないではないか。くっそー。

 こら北川。

 こら野呂。

 これもみんなおまえらのせいだ。名張市立図書館にその人ありと謳われたカリスマがおまえらのせいでいまや乞食だ。人生裏街道の枯落葉だ。やってらんねーなーまったく。おまえらが無節操に金をばらまいて県民に媚びを売ろうとするからこんなことになるのだ。いくらばらまいたって伊賀地域住民なんてみんなばかなんだから税金をどぶに捨てることにしかならんということすらわからんばかであったかおまえら。

 こら北川。

 こら野呂。

 もっとまじめにやれ。

 とここまで書いてみて、これがはたして合理的な説明になっているのかどうか、若干の疑念を抱かないでもないのですが、話の流れとしてはまさにこのとおりなのですから仕方ありません。編集部の不在をフォローするため、監修者だった浜田雄介さんが編者になり、何者でもなかった私は監修者になった。そして私は監修者としての報酬を手にした。そういうことです。

 そしてその報酬は、私をおおきに困らせました。自己破産のペナルティとして郵便物がすべて管財人経由となっていた時期のことで、報酬が入った現金書留もまた管財人の弁護士事務所を経て届けられてきたのですが、私は封を切りもせずそこらにほっぽり出しておきました。封を切ったらふらふらつかってしまうことでしょうし、ただの私利私欲で消費してしまったらおれはほんとに乞食ではないか、しかしあまり偽善的な使途ってのもまた気色が悪いものだし。

 ちょうどそのころ、『子不語の夢』を刊行した乱歩蔵びらき委員会の後継組織として乱歩蔵びらきの会というのが発足することになり、いっそそこに全額寄付してしまうかとも考えてみたのですが、結成総会に顔を出してみたところ、うーん、なんかちがう、という感じがしたので思いつきは却下、現金書留は未開封のまま私の手許にとどまりつづけ、そんなものがあったということも忘れがちになっていたころ、『子不語の夢』増刷分の報酬というのが届きました。

 いやまいったな、と私は思い、困惑はその極に達したのですが、そうした状態を見澄ましでもしたかのように、低い声で悪魔が囁きかけてきました。悪魔の誘惑に負けた私は、二通の現金封筒を勢いよく開封し、中身を取り出し、紙幣もコインもすべて財布にぶちこんでしまいました。まだつい最近のことです。こーりゃいまのうちにパソコン買い換えとかなきゃならんぞと意を決したときのことです。報酬はもとよりパソコンを購入できるほど多くはなく、せいぜいが常用しているアプリケーションソフトの最新版を買い揃えているうちいつのまにかなくなってしまう程度、しかも私は、いやいいんだいいんだ、新しいパソコンとソフトはいずれも『江戸川乱歩年譜集成』をつくるための不可欠のツールなんだからこれでいいんだ、これこそが生きたつかいみちというものではないか、はっはっは、おれは何もやましいことはしておらんぞ、おどおどする必要なんかどこにもないじゃないか、まったくおわらいぐさだぜ、はっはっは、とみずからにいいきかせもしたのですけれど、それでも私が悪魔の囁きに耳を傾けてしまい、そのせいで清廉潔白たらんとしていた心がぽっきり折れる結果になってしまったのはまぎれもない事実です。うーん、まいった。

 まいったけれど仕方がない。ここで「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」に携わった乞食のみなさんにご挨拶を申しあげておきましょう。

 ──やあみんな。きょうから僕も君たちの仲間だ。よろしく引き回してくれたまえ。

 あずかり知らぬところで三億円をどぶに捨てられてしまった三重県民ならびに伊賀地域旧七市町村住民のみなさんには心からなる謝辞を。

 ──右や左の旦那様、毎度おありがとーごぜーやす。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 少年探偵団 江戸川乱歩

 おとといもとりあげましたポプラ社の「文庫版少年探偵・江戸川乱歩」、本日は第二巻の『少年探偵団』を記載いたしました。小出しにしないでいっぺんにやれ、とおっしゃる向きもおありでしょうが、ぼちぼち進めることにしております。

 では、開巻劈頭の「黒い魔物」からどうぞ。

 そいつは全身、墨を塗ったような、おそろしくまっ黒なやつだということでした。

 「黒い魔物」のうわさは、もう、東京中にひろがっていましたけれど、ふしぎにも、はっきり、そいつの正体を見きわめた人は、だれもありませんでした。

 そいつは、暗闇の中へしか姿をあらわしませんので、何かしら、やみの中に、やみと同じ色のものが、もやもやと、うごめいていることはわかっても、それがどんな男であるか、あるいは女であるか、おとななのか子どもなのかさえ、はっきりとはわからないのだということです。

 なんかアリバイ工作みたいな感じもしますけど、本日はまあこういったところです。


 ■ 3月8日(水)
脚註王の隠遁

 ともあれそういった次第で、私はなんとか『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』に関する報告を終えることができました。終えることができたように思います。えらく強引なようなれど、そういうことにしてしまいます。

 先日も記しましたとおりこの本のことを記すのはなんとも気が重い作業で、それでも村上裕徳さんの「脚註王の執筆日記【完全版】」が発表されたのを得がたい奇貨として、脚註王の話題に無理やりこじつけたどさくさまぎれ、血税三億円のうちの五百五十万円のうちのごくごくわずかな金額がゆくりなくも自分の懐に入ってしまった事実を告白することができた次第なのですが、考えてみれば私は『子不語の夢』のために結構身銭も切ってきたのであって、それは手にした報酬のどう少なめに見積もっても数倍には相当するのではあるまいか、だからべつに卑屈になることもないんだとみずからにいいきかせ、心根のまっすぐな乞食としてこれからも生きてゆきたいと思います。

 思い起こせば私には反省すべき点が多々あり、とくにスタッフ各位にはお願いした仕事以外のすったもんだによる精神的負担や心労、ありていにいえばはらわたの煮えくりかえるような思いを押しつける結果になってしまったであろうことは私の不明と不徳のいたすところであったとしかいいようがないのですが、とにかく『子不語の夢』をなんとか上梓できたというその一事に免じて、スタッフ一同のご諒恕を乞いたいと思う次第です。

 さらに思い起こせば2002年の春、なんとも懐かしい気分で胸がいっぱいになりますが、成田山書道美術館に足を運んで不木宛乱歩書簡をまのあたりにし、これはなんとか本にしなければならんだろう、しかし商業出版社には無理だろうからやはり官の出番か、採算や効率が足かせになって民には不可能だというのなら官の出番ではないか、よーし、すまんな名張市民諸君、市民生活には何のかかわりもない乱歩と不木の書簡集に君たちの税金をつかわせてもらうぞ、と考えていた矢先に名張市が財政非常事態宣言を発してしまいましたので私は途方に暮れたものでしたが、それだけに三重県がうまいぐあいにばらまきの愚策を展開してくれたのはまことに好都合なことでした。残りの二億九千万円あまりがきれいにどぶに流れたのだとしても、『子不語の夢』を刊行できただけでも「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」を実施した意義はあったのだと、そのように書いておいてやるから泣くな乞食ども。

 ともあれ、スタッフ各位はもとより無理難題を聞き届けていただいた出版社も含めて、関係各位にあらためてお礼を申しあげておきたいと思います。

 そして、脚註王。

 「『新青年』趣味」第十二号に掲載された「脚註王の執筆日記【完全版】」によれば、われらが脚註王は現在ただいま富士山の見える辺土で悠々自適の明け暮れとの由。インターネットにノータッチどころかいまやパソコンにもノータッチ、原稿はすべて手書きという生活でいらっしゃるとも聞き及びます。

 私は村上裕徳さんに脚註王日記のブログを開設してもらいたいものだと考えていたのですが、そしてそうなれば必ずや、悪の結社畸人郷の両巨頭を筆頭に熱心なファンが続々と生まれるであろうにと推測されもする次第なのですが、そうは問屋が卸さぬようです。惜しむべし惜しむべし。惜しみてもなおあまりある富士の星影。

 脚註王の隠遁生活が夕映えのような穏やかな感情に包まれたものであることを、そして脚註王がいつの日かふたたびわれわれの前にその勇姿を現してくれることを切に願いながら、乞食天国伊賀の国からお別れを申しあげます。

  本日のアップデート

 ▼1976年12月

 創作余話(4) 北杜夫

 新潮社『北杜夫全集』第九巻に附された月報第四号に掲載。この巻には「怪盗ジバコ」が収録されているのですが、作品成立にかかわる余話として北さんが小学生のころ乱歩の少年ものに夢中になったことがちょこっと記されています。ただし「怪人二十面相」とあるべきところが「怪盗二十面相」となっていて、こんな単純な誤植がどうして見過ごされたのか。あえて「怪盗」としたとも見えぬ文章ですし。

 ご教示の主は閑人亭さん。もうひとつ静岡新聞に掲載された佐野洋さんのインタビュー記事も同時に教えていただきましたので、きょうのところはその記事を紹介することにしてもいいのですけれど、佐野さんがおりにふれてお書きになった、あるいは講演会でお話しになったことのくりかえしですから、乱歩ファンにとって興趣は薄かろう。

 そこでいささか変則的なれど、北杜夫さんの「少年時代の読書」から引用することにいたしました。1980年に出た文春文庫の書き下ろしアンソロジー『読書と私』に収められた一篇で、刊本『乱歩文献データブック』では見逃していたのですが、長谷川泰久さんから現物を頂戴して当サイトには記載済み。

 それでは、きのうの「少年探偵団」が発表当時の読者にどんな印象を与えたのか、「少年倶楽部」に「怪人二十面相」の連載がはじまったときには小学校五、六年生だったという北さんの回想をば。

少年時代の読書
 少年ものの二作目が「少年探偵団」で、これには初め黒い怪物が現われる。やがてこれは二十面相の部下のインド人とわかるのだが、それまでのこわさといったらなかった。三作目の「妖怪博士」の出だしも、子どもの身にはつくづくとこわかった。

 これらの乱歩の子どもものがたいそう気に入ったので、やがて私はその大人ものも読みあさるようになった。「吸血鬼」は姉が持っていて、ときたま異様な挿絵があるので、ページをくるのに呼吸が切迫した。

 結局、私は図書館まで行き、当時の乱歩の小説はみんな読んだ。「芋虫」などは伏せ字だらけであった。そして、その借りだした本の末尾によく、「乱歩のスケベ」などと落書きがしてあったが、私はこわいとは思ったものの、そのどこがスケベなのかてんでわからなかった。

 私も恐ろしい思いをしました。

 ──ときたま異様な挿絵があるので、ページをくるのに呼吸が切迫した。

 とあります点、私にも乱歩の少年ものを読んでいて、今度ページをめくったら恐ろしい挿絵が出てくるのではないかと恐くなり、ページをくるのに相当な勇気を要したという記憶があります。じつに頑是ない子供でした。


 ■ 3月9日(木)
年譜王の惑乱

 脚註王のあとは年譜王の登場となります。しかし脚註王という言葉の響きに比較すると、年譜王の場合は pu という破裂音がなんだか間抜けで困ったものです。

 そんなことはともかく、いまや全国の乱歩ファンのあいだには、

 ──あのカリスマがついに立ちあがった。

 と期待を寄せてくださっている方が五人や六人はいらっしゃるのではないかと贔屓目で考えられぬでもない『江戸川乱歩年譜集成』ですが、当のカリスマは立ちあがってすぐにしゃがみこみ、暗澹たる気分で蟹とたわむれているとでもお思いください。鬼神も落涙するであろう艱難辛苦の大海原を前にして、東海の小島の磯の白砂にひとりだけほっぽりだされたみたいな心境です。

 とりあえず着手はしてみました。どぶに捨てられた血税三億円のうちの五百五十万円のまたそのうちの、いやそんなお金の出どころの話はどうでもいいのですけれど、『江戸川乱歩年譜集成』編纂のための不可欠のツールとしてオムニアウトライナーというアウトラインプロセッサを堂々導入し、年譜づくりをスタートさせたとお思いください。

 「江戸川乱歩年譜集成」と名づけたファイルをご覧いただきましょう。まずは目次をどうぞ。

 これは余談なのですが、専門家のご指導よろしきを得て私はいまやこれこのとおり、画面キャプチャー画像とかスクリーンショットとか呼ばれるやつも意のままにあやつれるようになっております。すごいすごい。

 最初に作成したのが文化7年、乱歩の祖父にあたる平井杢右衛門陳就の生年のページです。ついで天保11年は祖母和佐が生まれた年。双方の没年も、さらには乱歩の父母の生没年も押さえました(じつはお母さんの生年が曖昧、没年が不明。いずれご遺族にお訊きしなければなりますまい)。このあたり、年譜編纂にあたってまずは乱歩のご先祖様に花の一輪も手向けようかという殊勝な心がけです。

 つづいて、試みに昭和20年のページをつくってみました。なぜ昭和20年か。深い理由はないのですが、先日「本日のアップデート」に記しましたとおり反町茂雄の『一古書肆の思い出』が昭和20年12月26日の乱歩の姿を描きとめておりましたので、とりあえずそのデータをほうりこんでみたいなと考えた、みたいなことであろうと思われます。

 ラミネートで表紙を補強した光文社文庫版全集『探偵小説四十年(下)』を机に開き、ぐいぐい押しひろげ、それでも手を離すとぱたんと閉じていますから本を開いたうえに透明なものさしを横に渡し、さらにそのうえにガラス製の文鎮で重しをして、これでよしとばかりにめぼしい事項をアウトラインプロセッサに書き写してゆきました。こんな感じです。

 読者諸兄姉ご賢察のとおり、私がまずもくろんでいるのは『探偵小説四十年』という一冊の本を徹底的に解体し、年表の形式に再構成することです。乱歩が記した文章をそのまま引用し(上掲の画像でいうと茶色い文字が乱歩の文章です)、必要とあらば補足を加え、たったかたったか年表をつくってゆく。いつ終わるとも知れぬ作業ではあるのですが、これをやらないと話が前に進みません。

 乱歩の記したところのみをとりあえず引き写した昭和20年のおしまいにいたって、ようやく反町茂雄の記録が登場します。

 これだけの作業でも結構ふうふういってしまうのですが、なんのなんの、艱難辛苦の種は尽きまじ。

  本日のアップデート

 その17 ● 手抜きみたいですけど完結といたします

 きのうまでの伝言を転載して完結といたしました。本来であればおととしの秋に完結しているべきところ、平にご容赦を願いあげます。


 ■ 3月10日(金)
年譜王の周章

 鬼神も落涙する艱難辛苦のおはなし。

 『探偵小説四十年』の昭和20年の項に配された「私の身辺の主な出来事」は、この年2月14日の甲賀三郎の死去の話題ではじまります。となると、死去だけでなく出生も押さえておく必要があるでしょう。調べます。明治26年生まれと知れます。「江戸川乱歩年譜集成」のファイルに明治26年のページを新設して、甲賀三郎が10月5日に滋賀県で生まれた旨を記します。

 甲賀三郎以外にも、昭和20年には次から次へと人名が登場してきます。井上良夫、田中早苗、大下宇陀児、水谷準、大阪圭吉……。すべて生没年をチェックし、それぞれの年のページを新たに設けてゆきます。

 そのうち私は、人名を控えておいたほうがいいだろうということに気がつきました。最終的には人名索引をつくらなければなりませんから、そのときにも大助かりすることでしょう。さらに私は、人名だけでなくその人物の事績などのデータもまとめておいたほうがいいかなとも気がつきました。まとめるといっても、ネット上にあるデータをコピー&ペーストする程度のことでいいんだから。

 そこで、人名と事績を控えておくためのファイルをつくりました。項目だけを表示するとこんな感じです。

 久世光彦さんの名前があるのはたまたま訃報に接したからですが、そのほかはすべて『探偵小説四十年』の昭和20年から21年にかけて出てくる名前です。

 甲賀三郎のことを記した「こ」のページを開いてみましょう。

 コピー&ペーストしてある文章は「JapanKnowledge」というサイトに掲載されているもので、「日本大百科全書」と「日本人名大辞典」にある「甲賀三郎」の項目解説です。こういった辞典系サイトを利用するのは、いちいち辞書を手にとる必要がありませんからとても楽な感じです。ただし、大阪圭吉あたりになるとどちらの辞書にも項目が立てられていませんから、その場合には手許にある『日本ミステリー事典』の出番となります。

 この「JapanKnowledge」は有料会員制サイトで、小学館の『精選版日本国語大辞典』を購入した特典として三か月だけ無料で利用しているところなのですが、その期限が3月いっぱいで切れてしまいます。一度おぼえた利便はなかなか手放すことができませんゆえ、私は4月1日からお金を支払ってこのサイトを利用することになるのだと思います。あー頭が痛い。

 しかし、艱難辛苦の頭の痛さはこんな程度ではおさまりません。人名索引のほかに事項索引もつくらなければならないのだからと、私はこんなファイルも設けました。

 実際ほんとにたまりません。思いついたことをちょっと試みただけだというのに、作業はどんどん横にばかりひろがってゆきます。肝腎の年表づくりは昭和20年と21年にとどまったままで、これはもうなんだか戦後の混乱期にタイムスリップして帰れなくなったみたいなあんばい、いま東京に行けば五十歳の乱歩に会えるのではないかという気さえ私にはしてくる始末です。

  本日のアップデート

 ▼2006年2月

 海外異色作家の短編リバイバル “奇妙な味”再び脚光 佐藤憲一

 読売新聞オフィシャルサイトの記事です。乱歩の名前は冒頭に一箇所出てくるだけで、この程度のことならわざわざ拾う必要もないだろうと私は思っておりました。こんな感じです。

海外異色作家の短編リバイバル “奇妙な味”再び脚光
 日常生活に隣接するねじれた世界や、予想もつかない結末──江戸川乱歩が「奇妙な味」と呼んだ往年の海外異色作家の短編が脚光を浴びている。長編全盛の時代に起きた“奇妙な”リバイバル現象とは。(佐藤憲一)

 おなじく読売新聞オフィシャルサイトに3月8日、石田汗太記者による「「ゴシック」の美学 いまなぜ復活」が掲載され、ここにも乱歩の名前が出てきました。これもわずかに一箇所、高原英理さんのコメントに「個人的には、30年代の江戸川乱歩の猟奇趣味、エログロナンセンスあたりが日本的ゴシックの源流と思っています」という指摘があるだけなのですが、奇妙な味とゴシックというふたつの文芸潮流にともに乱歩が、それも重要なポジションに位置づけられているのが興味深く、この記事二本はやはり記録しておくべきであろうと考え直した次第です。

 ただし奇妙な味に関していえば、「日常生活に隣接するねじれた世界や、予想もつかない結末」が乱歩のいう奇妙な味であるとするのはやや乱暴な話なのですが、まあいいか。ランポという呪文はこの場合にも有効で、こうして出てくるだけでそういうものかと思わされてしまうところがあります。