2006年7月上旬
1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日
 ■ 7月1日(土)
渡瀬淳子おぼえがき

 7月を迎えました。もう7月か、もう一年の半分がすぎたのか、と愕然としてしまいますが、『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業は遅々として進まず、私は泣きたい気分です。

 しかし泣きたくなることは世に充ち満ちているようで、私にはほかにもいろいろ泣きたいことがあり、とりあえず手近な問題としては筑摩書房の現代日本文学大系全九十七巻、いったいどうやって収納すればいいのかという問題で私は泣きたい。あれもいわゆる金に目がくらんだ状態の一種であったかと思い返される次第なのですが、全九十七巻で一万九千円、こんなに安いのならほかの人間が手を出さないうちに買っておかなければとおめでたく逆上して注文したとき、私は思慮分別というものを完全に失ってしまっていたのでしょう。本も九十七冊集まれば結構かさばるものであるという単純な事実に、段ボール箱五箇分の現物が届くまで全然気がつきはしませんでした。私は泣きたい気分です。

 といったところで、きのう記しましたアクトレス渡瀬淳子の関連情報をある方からメールでお知らせいただきましたので、以下ごく簡単にご紹介。

 熊本県出身の田代倫という作家がいたそうです。「倫」の読みには「りん」と「ひとし」の二説があるそうですが、明治21年に生まれ、歿年は昭和28年。文壇史的にはプロレタリア作家に分類されておりますものの、大正末期の熊本における労働運動のフィクサー的存在でもありました。となると竹中英太郎との縁が生じて、十代だった英太郎をはじめとした反体制的青年層に指導者として大きな影響をおよぼしたといいます。

 この田代倫、明治38年に上京して三年ほど森鴎外に師事し、のち薄命文士会なるものを組織して少なからぬ数の著作を世に問うたそうなのですが、いまや完全に忘れられた作家だといっていいでしょう。で、この男が東京でひとりの女性と恋に落ち、と話が進めばお察しのとおり恋の相手が渡瀬淳子であったという寸法です。仔細は不明ながら沢田正二郎とのあいだに直接的な恋の鞘当てがあったのかもしれず、しかしとにかく負けたらしい。田代倫の恋は悲しいかな成就しなかったとのことです。

 熊本で出ていた文芸誌「日本談義」昭和30年11月号には高野貞三の「田代倫氏のこと」という文章が掲載されていて、ご丁寧にその引用もお寄せいただきましたので、そのまま転載しておきましょう。

 田代倫は、風体も異様だつたが、内面的性格にも、それに似たようなところがあつた。一寸、私たちでは測り知れない晦渋さをもつてゐた。

 何でもないことに言ひがかりをつけられ、私はかれから絶交状をつきつけられた。

 かれのこの絶交状は、かなり有名で、宇野浩二の「恋愛合戦」かなにかのなかにも、このことが登場人物のモデルのなかに取上げられてゐたやうである。おそらく、かれと接近してゐたもののなかで、この経験をもたないものは尠なかつたであらう。

 『探偵小説四十年』で乱歩は、

 ──渡瀬淳子は沢田正二郎の恋人で、宇野浩二氏の初期の長篇「女怪」の女主人公であったと思う。

 と記しているのですが、『宇野浩二全集』第十二巻の「主要著作年表」によれば大正10年1月から翌11年12月まで「婦人公論」に連載されたという「女怪」なる長篇、残念ながら全集には収録されておりません。単行本としては二度ほど上梓されていて、ネット上の古書価を確認してみたところ、大正12年初版のものが四万八千円とか二万六千二百五十円とか一万五千七百五十円とか、昭和2年初版のものは四千七百二十五円とか千五百円とか。乱歩の読書経験を追体験するにはこの単行本もひもとかねばならぬわけですが、なんかもういい加減で勘弁してくれんかね。私はほんとに泣きたい気分だ。

 さるにても渡瀬淳子なるアクトレス、そぞろに興味を惹かれるお姉さんではあるようです。関連資料と呼べるものなどあまり残されてはおらぬのでしょうが、できれば末永昭二さんあたりの筆になる渡瀬淳子の評伝を読んでみたいものだと思います。タイトルはさしずめ、『電光石火の男』ならぬ『公衆便所の女』といったところでしょうか。

  本日のフラグメント

 ▼1970年2月

 萩原朔太郎年譜 那珂太郎

 きのうにひきつづき、乱歩のことなんてちっとも出てこないけどこんなのも『江戸川乱歩年譜集成』のためのフラグメントとしてはありだろう、みたいなのをおひとつ。

 いまやすべてがわが掌中のものとなった筑摩書房版現代日本文学大系の第四十七巻『室生犀星・萩原朔太郎集』に収められました。

昭和十七年(一九四二)五十七歳
年初からほとんど訪問客を謝絶する状態にあったが、その中で雑誌『日本』五月号まで毎月「詩の鑑賞」を連載、『新女苑』六月号までの詩の選を続ける。四月末付で明治大学講師を辞任。この月下旬、病状急速に悪化し肺炎をおこし、五月十一日午前三時四十分、自宅で死去。十三日、自宅で葬儀委員長佐藤惣之助の下に告別式執行。三十一日、前橋市榎町政淳寺の萩原家墓地に埋葬される。法名、光英院釈文昭居士。

 乱歩は『探偵小説四十年』の大正15年の章で朔太郎の死にふれ、朔太郎の自宅で営まれた告別式に列席したことを記しています。

 ──私は家族の人とは殆んど口も利いていなかったし、萩原氏のほかの友達ともつき合っていなかったので、告別式に列しても、顔見知りがなくて閉口したものである。

 ただし告別式がいつだったかは、それが昭和何年のことであったのかさえ書かれておらず、手許の辞書事典のたぐいでも死去の日付は確認できるもののお葬式の日まではわからない。しかしどうですか。わずか一万九千円で購入した現代日本文学大系、収納スペースの問題でひいひい泣かされてはおりますのですが、朔太郎の巻を開くや告別式は昭和17年5月13日であったとたちどころに知ることができます。

 どんなもんだ。まいったか。しかしほんとにまいるよなあ。なじかは知らねどまいってしまう。


 ■ 7月2日(日)
ジーコ監督は日本の文化を語った

 それでは昨日、掲示板「人外境だより」でお約束申しあげた件につきまして。すなわち──

名無し   2006年 6月30日(金) 13時20分  [220.215.60.50]

中さんの考え、気持ちよくわかります、本当に最近の名張市(数年前より)やる事が一般大衆受けをねらった、中身のない、付け焼刃的、ネーミングに自己陶酔した行政施策が多いように思います。民営化や指定管理者制度は手段であり目的ではありません。行政手段や筋道が薄っぺらい筋肉質の頭では理解できないのでしょう。名張市のドナタが言っているのか存じませんがミステリー某の構想にしても勉強して中さんをはじめその道の方に意見を求め本当に名張市にとってどうする事がいいのか考えているとは思えません。場当たり的で、ええかっこのための思いつきと人の受け売りはもういいかげんにしてほしいものです。不退転が不倶戴天となりませんように

 名無しさんから上掲のようなご投稿をいただいたわけです。相当に手厳しい名張市批判が記されておりますが、批判はむろん全然OK。名張市政に対して市民サイドから何らかの批判が寄せられるのは当然のことであり、市民から寄せられた正当な批判こそ名張市にとってしるべの杖となるものでしょう。とはいえなかにゃとんでもないほどばかな市民もげんにいて、じつに見当はずれな市政批判を展開するケースが少なからずあることも事実です。そうした場合、その手のばかにものの道理というものをきっちり教えてさしあげるのも行政の役目であると私は確信しているのですが、お役所の人がばかな市民をつかまえてこらばかと批判するのは現実にはかなり難しいことのようです。

 そうかと思うとまったく逆のタイプのばかもおり、これは三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」において実際に目撃した事例なのですが、おかみを批判することはそのまま悪であると心得ている人もすこやかに命脈を保っていらっしゃるみたい。てめーは江戸時代かばーか、と私は驚きを隠せないまま心のなかで叫んだものでしたが、その方は伊賀市、というか市町村合併以前の名称でいえば旧上野市の方でしたから、旧上野市というのはご存じのとおりときの流れが近世のままでストップしており、いまだ近代を経験していない土地なのでありますゆえに士農工商五人組、前近代性がじつに鮮明だからいっそ見事な話であるなと妙に感じ入ってしまった次第です。

 そんなことはともかく、私も名張まちなか再生プランに対して正当で健全な批判を寄せ、批判を寄せるどころかあんなプランとは比較にならぬほどよくできた代案も提出してはみたのですが、結局何かを伝えることや何かを変えることはいっさいかなわずさじを投げてしまいました。名無しさんのご投稿にある「ミステリー某の構想」にしても、もとはといえば私が「僕のパブリックコメント」で提案した名張市立図書館ミステリ分室構想がそもそもの火種であり、はっきりいってこんな構想はそこらの市職員や市民、それどころか無知な人間をうまくだましてぼったくることをなりわいとしているらしいコンサルタントたらいう業者からも絶対に出てくるものではないのである。しかも私の構想がすぐれているのは、名無しさんが心配していらっしゃる「民営化や指定管理者制度」のゆくすえをとっくに見切り、あくまでも市立図書館の分室として設置することを明言している点にあります。つまり何がどう転がっても、名張市立図書館ミステリ分室は名張市の手で運営されるべきなのだということです。それが名張市の責任というものでしょう。

 ですから私がいま懸念しているのは、名張市のことを心から案じつつパブリックコメントとして提出し、しかしなぜか(なぜか、ととぼけることもないでしょうか。名張市の無能と怠慢と無責任のせいで)まったく採用されなかった「僕のパブリックコメント」が妙なぐあいに利用され、私の構想とはちがったかたちで「ミステリー某の構想」が実現されてしまうのではないかという一事です。私の構想には明確な理念があり、もちろん名張市が乱歩をどうすればいいのかというビジョンもあって(名張市は乱歩から手を引け、というのが私の変わらぬ主張ではあるのですが、もしも名張市が本気で乱歩のことを考えたいというのであれば、その場合にはこのようなビジョンを掲げることが望ましかろうと思われます、みたいなことを考えようと思えば私にはいくらだって考えられるわけです)、そうした理念なりビジョンなりと緊密に照応したプランとして提示したのが「僕のパブリックコメント」であったわけなのですから、目先のことしか見えずうわっつらのことしか考えられぬ名張まちなか再生委員会のみなさんに思いつきで適当なことしてもらっては困るのである。理念やビジョンをはなから無視し、妙な運営主体をでっちあげて「ミステリー某の構想」を実現されたりした日にはほんとに困るのである。

 いやはや。何をいってもむなしくなるばかりですからいけませんが、とにかく私は名無しさんに対し、昨日このようにお答えいたしました。

サンデー先生   2006年 7月 1日(土) 10時 8分  [219.112.44.178]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  名無し様
 どうもありがとうございます。僭越ながら当方も、名無しさんのお怒りやご懸念にいくらかは想到することができるように思います。しかしそれにしても、せっかくご支援をいただいたと申しますのに結局のところ事態には微塵も変化がなく、どう考えても不当きわまりないことがあたりまえの顔してまかり通っているのですから手に負えません。仰せのとおりの筋肉質おつむ、すなわち思考の柔軟性におおいに欠けた人たちを相手にするのは大変なことなのですが(それにしてもあそこまで原理原則を平気で踏みにじることのできる筋肉質となると、もうただごとではないでしょう。反りたつ壁も何のその、筋肉番付ダントツのトップか)、自身の非力無力がただ情けないばかりです。色男、金と力はなかりけり、とはけだし至言であるといまさらのように感心しております。
 すっかりさじを投げてしまったいまとなっては、名張まちなか再生プランにかんしてはひたすら放心しているしか手がないのですが、もしかしたら私のこの放心はサッカーW杯1次リーグでブラジル戦を終え、ピッチに大の字に倒れこんで動こうとしなかった中田英寿選手のそれに通じるものがあるのではないか。ヒデが日本代表チームに見ていたものは、私の語彙でいえば要するにご町内感覚となあなあ体質ではなかったのか。泣くなヒデ、と私は思います。ヒデの嘆きは私の嘆きでもあるでしょう。ていうか、日本において共同体という名の怪物を相手にしている人間すべての嘆きだとも思います。私がいま仰いでいる名張の空はまちがいなく、あの日ヒデが見あげたドルトムントの空につづいているはずです。きょうはまたえらく雲が厚いですけど。
 などと記しているうちにまーたなんだか腹が立ってきました。腹が立つというより、闘魂に火がついてきました。闘魂に火がつくというより、今後のために最低限いうべきことはやっぱりいっとかないといかんのではないか、という気持ちでしょうか。名無しさんのご指摘にかんしましても、いまや吉田茂みたいなトップダウン方式は国においても地方においてもまったく不可能な話ではあるでしょうけど、かといって行政が「一般大衆受けをねらった」結果としてたとえば公金をつかって名張はエジプトでございますとPRしてくれるようななんちゃって市民の擡頭が招来されたというのであれば、それはもとより過渡期の現象ではあるのでしょうけれど、行政の方向性は認めるとしても現実には望ましくない問題がおきているのだということを誰かが指摘しなければならないでしょう。
 少なくともどこからわいて出たのかもわからぬ乱歩文学館構想や、いつのまにかそうした構想が盛りこまれたことになっている名張まちなか再生プランにかんして、あんたらご町内感覚となあなあ体質を両輪とした横車を押して無茶苦茶やっておるけれどこれはこうだからいかんのだ、ということをはっきりさせておくのはやはり私の責務であるのかもしれません。まあ気が向いたらまたあすにでも、これはもう関係者に働きかけたり訴えたりということでは全然なしに、いってみれば歴史の証言として書いておくべきことを書き記しておきたいと思います。あほらしさが先に立ってやめてしまうかもしれませんけど。

 かくのごとく勢いこんではみましたものの、一夜明ければやはりあほらしさが先に立つ。実際あほらしいことこのうえないのですけれど、とりあえずきのう話題にしたサッカーワールドカップドイツ大会のことを手がかりとすることにして、ジーコ監督(正式には前監督か)のオフィシャルサイトからこのページをどうぞ。

 6月22日付の「ジーコジャパンレポート」。日本代表チームの敗退を受けたジーコ監督の会見内容が掲載されています。私がもっとも興味深く思ったのは次のくだりです。

 ー中田英寿選手が試合後ピッチで10分以上動けなかった。

 「まあ、他の選手も同じだと思うが、彼の場合、本当にこのW杯を成功させたい、日本にとっていい大会にしたいと思って力を出してきた。それを出し尽くしたんでしょう。彼と仕事ができたことは光栄だと思うし、プロとして立派な選手だと思うし、ただ、それ以上に人間としてこれから友人としてこれからも付き合っていくと思います。大切な友人の1人として。今日みたいな結果、彼も、だれも予想しなかったと思うんですけど、そのショックもある。こういった後では出し切ったあとでは何もできないのはよく分かる」

 ープロの意識はどのようなこと?

 「本当にクラブで所属している中で、練習、試合にすべてを出し尽くすということ。それぞれが自分の課題を分かっているわけだから、通常の練習以外にもそれをどんどん追求していく。これで飯を食っているという意識ですよね。常に上を狙いながら、代表にきたときだけ一生懸命やるんじゃなくて、それぞれのクラブで自分の課題を改善していかないといけない。というのはクラブで過ごす時間が多いわけだから。それを考えるとこの4年間、成長した選手、そうではない選手、もっと成長できたと思う選手、いろいろいる。それは意識の持ちようだと思う。何度も彼らに話したが、とにかくW杯で成功するためにはアジアでやっていた以上のものを出さなくては、絶対に成功できない、ということ。あれから1年くらいあったが、フィジカル的な強さ、プラス自分が足りないと思う技術な部分、それをクラブで培ってほしいといったが、数多くの選手がそれを実行してくれたと思うが、今ひとつ足りなかったという選手もいる。この歴史の少なさの中で本当にW杯に行くんだという気持ち、非常に軽い気持ちで来てしまった選手もいるかもしれない。で、これだけ厳しいことが起こるとわかっていれば、すべての人間が鍛えてきたと思うがその辺が経験の少なさ。アジアと同じレベルじゃだめなんだと彼らに言った言葉は間違ってなかったと思うし、中田はそれが分かってるからこそさらに鍛えてきた。限られた時間の中でやってきた」

 ーあと何年くらいかかる?

 「10年、15年とよくいいたがるが、テレビとかラジオを組み立てるというのとは違う。人間を扱っているのだから、経験の種類、日本のサッカーにおこることをうまく糧にしていかないと。すごく時間がかかることもあるし、短いこともありえる。問題は選手同士の声の掛け合い。日本の文化というか、けんかをしないで仲良くなるというか別にけんかをしろといっているわけではない。今ひとつ元気のないチームメイトに他の選手がはっぱをかける。そういう部分でお互い厳しく付き合っていかないと。仲良しチームではW杯ではなかなか成功は難しい。この意識を持っている選手が多ければ多いほど日本は成長する」

 「フィジカル的な強さ」や「自分が足りないと思う技術な部分」を指摘したあと(どうでもいいことではありますが、ここは「フィジカルな強さ」「自分が足りないと思う技術的な部分」とするのが本来でしょう)、ジーコ監督は「日本の文化」に言及しています。「お互い厳しく付き合っていかないと。仲良しチームではW杯ではなかなか成功は難しい」(どうでもいいことではありますが、この引用のなかの「。」は「、」でいいでしょう)と苦言を呈しています。これすなわち、私の語彙をもちいるならば日本代表チームの根っこのところに存在していたご町内感覚となあなあ体質に対するストレートな批判にほかならず、ジーコ監督がそれを日本の文化かも、と認識し、そんな仲良しチームじゃ世界へ出ていっても成功なんてできねーぞ、と切歯扼腕しているらしいことに私はいたく興味をおぼえました。そして、なーるほど、ご町内感覚となあなあ体質は日本の文化か、それなら勝ち目はまったくねーじゃん、と納得しながら思い知ったのであった。

 おはなしが妙な方向に流れていってしまいそうだな、と曖昧な危惧を抱きつつあすにつづきます。

  本日のフラグメント

 ▼1969年8月

 森鴎外年譜 竹盛天雄

 きょうもきのうみたいなことなのですが、現代日本文学大系全九十七巻から『江戸川乱歩年譜集成』のためのフラグメントをひろう作業には、せっかく一万九千円も出して買ったのだからもとだけはとりたいなという浅ましさがつきまとっているのではないかしらという疑念が生じてきたことは事実です。

 しかしまあ、実際に第七巻『森鴎外集(一)』に収録された鴎外の年譜をひもといてみたのですからしかたありません。引いておきましょう。

明治二十五年(一八九二)三十歳
一月、本郷千駄木町二一に転居し、千住から父母や祖母が移って来た(おなじく千朶山房と号した)。七月『水沫集』(美奈和集)を春陽堂から刊行。八月、観潮楼を増築した。十一月から「即興詩人」の翻訳を『しがらみ草紙』に掲げ初む(『めざまし草』に続き、明治三十四年二月完結)。

 明治25年というと乱歩誕生以前の話なのですが、この年1月に鴎外は本郷駒込千駄木町の千朶山房から本郷千駄木町に転居し、その新しい住居も千朶山房と名づけました。8月になってそこに増築されたのが観潮楼。鴎外は観潮楼主人を名乗ることもありました。この住居跡には現在、鴎外記念館本郷図書館が建てられています。

 それがいったいどうしたのかというと、この鴎外の住居はいわゆる団子坂にあって、鴎外は大正11年7月9日の死去までここに住みつづけましたから、乱歩が弟ふたりと三人書房なる古本屋を本郷駒込林町、すなわちいわゆる団子坂に開いたとき、それはつまり大正8年2月から翌9年10月までのことであったのですが、ひとつの坂の上のほうに鴎外、下のほうに乱歩と、それこそおなじご町内といっていいところでふたりは生活していたことになります。

 こういう事実も『江戸川乱歩年譜集成』編纂者としては頭のなかに入れておくべきであろうなと思い、やっぱ現代日本文学大系全九十七巻の威力はえらいものだと満足しながらもふと気になって確認してみたところ、あに図らんやといいますか案の定といいますか、この鴎外の年譜はちくま文庫版の鴎外全集第十四巻『歴史其儘と歴史離れ』巻末に収められた「森鴎外年譜」とまったく同じものではありませんか。文学大系版の年譜がそのまま文庫版鴎外全集に流用されたということなのでしょうが、なんだかこれではほんとにもう。


 ■ 7月3日(月)
ご町内感覚となあなあ体質

 私が目の敵にしているご町内感覚というのは、たとえば三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がそれによって支配されていたところの閉鎖的で排他的な考えのことです。身内や仲間うちの価値観のみにもとづいてすべてを判断し決定しようとする態度のことです。そうした考えや態度の人たちがいくら「伊賀の魅力を全国発信!」などといったお題目を唱えてみたところで、結局のところご町内の親睦行事を寄せ集めることしかできなかったのはけだし当然。なにしろ彼らには外部というものが存在しないのですから、全国発信なんていうしゃれた行為は絶対に成立しないという寸法です。

 名張まちなか再生委員会にかんしていえば、

 ──現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない。

 という発言が彼らのご町内感覚を端的すぎるほど端的に示しております。こういう人たちが何をやったってしょせんご町内にとどまるものでしかないことは明白なのですから、まかりまちがっても全国発信なんてことは夢にも考えないようにしたほうがいいでしょう。

 いっぽうのなあなあ体質というのは、これもどこにだって普通に転がっているものですけれど、たとえば「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」でいいますと三億円もの税金をどぶに捨てるにさいして予算の明細をいっさい開示しなかった。これがなあなあ体質のあらわれです。うわべだけの委員会をふたつつくって、いっぽうが予算を組む、いっぽうがそれを承認する、しかしその予算書には明細がまったく記されていなかった、なんて普通なら絶対ありえないようなことだって、ふたつの委員会がなあなあ体質で通じあってさえいればつーとかー、朝飯前のこんこんちきなのさ。

 名張まちなか再生委員会にかんしていえば、名張まちなか再生プランにひとことも記されていなかった桝田医院第二病棟の整備計画を勝手に自分たちの検討事項にしてしまったあたりがなあなあ体質の最たるもの。検討するのならプランに盛りこむのが先決であろうと指摘してみても甲斐はなく、いやそもそも何年何月までにこの計画を決定して公表いたします、みたいなことは──

 こんな感じで名張市のオフィシャルサイトに名張まちなか再生委員会の2005年度事業計画が発表されており、たとえば歴史拠点整備プロジェクトの基本計画は昨年10月までに作成、むろん市民にも計画を公表するといっておきながらいっさいそれをせず、どさくさまぎれとしかいいようのない手順でいきなり6月議会にプラン関連の予算を計上してしまったのはいただけません。一般市民が初瀬ものがたり交流館だの乱歩文学館だのといった愚かしい構想のことを知ったのは名張まちなか再生委員会の新年度総会を報じる新聞記事によってなのですからいただけません。しかも名張市のオフィシャルサイトでは委員会の2006年度事業計画がこれこのとおり──

 きれいに白紙の状態なんですからほんとにいただけません。なあなあにも限界があるということでしょう。

 とにかく頭からやりなおす以外に手はないのではないか、と私は考えているのですが、もうさじを投げてしまった身ですから何もいわず何も語らず(結構語ってはおりますが)、ご町内感覚となあなあ体質を両輪とした横車なんて最初から道を踏みはずしているわけなんだから、いずれ見事にひっくり返ってしまうのではないかしらとの予測を記すだけにとどめます。

 それにしてもご町内感覚となあなあ体質というやつはいたるところにごろごろしているもので、最近のローカルニュースから事例をひとつひろっておきましょう。毎日新聞オフィシャルサイトの6月29日付記事を引用。

俳聖・芭蕉生誕地:「伊賀市」で表記統一 “戦略的あいまいさ”採用? /三重
 ◇旧上野市赤坂町、旧伊賀町柘植町の両説、顕彰団体一本化で−−詳細踏み込まず、調整会議決着

 二つの説がある俳聖・松尾芭蕉の生誕地について、伊賀市の芭蕉翁顕彰事業調整会議(座長・権蛇英明助役、10人)は「生誕地は伊賀市」と表記を統一し、詳細について踏み込まないことを決めた。【小槌大介】

 ◇今後は全市一丸

 芭蕉生誕地を巡り、旧上野市赤坂町と、旧伊賀町柘植町の二つの説があるが、決め手となる資料は存在しない。旧上野市の「芭蕉翁顕彰会」と旧伊賀町の「いがまち芭蕉翁顕彰会」と二つの芭蕉の顕彰団体が活動していたが、04年11月の伊賀市誕生に伴い、両顕彰団体の代表者で同調整会議をつくり、昨年4月から一本化について協議していた。

 同調整会議では、「二つの説を併記すべきではないか」との意見も出されたが、「旧上野市赤坂町が学術的な通説となっており、両説を併記することには反対」といった意見が出されたという。このため「芭蕉の生誕地は伊賀市」と大枠で表記するが、詳細については踏み込まない形にすることでまとまったという。

 なんかもうびっくりしてしまいます。こんなものが「顕彰」なんかであるはずがありません。見出しには「戦略的あいまいさ」という言葉が揶揄っぽく使用されておりますけれど、もっとはっきりいってしまえばこれはもうご町内感覚となあなあ体質にもとづく痴呆的なまでの思考停止という事態でしょう。

 芭蕉の生誕地には旧上野市説と旧伊賀町説の二説があって、両市町はそれぞれにうちこそが生誕地なりと主張していた。ところが市町村合併で両市町は消滅し、伊賀市という新しい自治体が誕生した。だから芭蕉の生誕地は伊賀市ということにして、それ以上くわしいことには踏みこまないことにしましょうや、ということが決定されたそうなのですが、この芭蕉翁顕彰事業調整会議たらいう会議は基本的なところでたいへんな心得ちがいをしているとしかいいようがありません。もしもどこかから芭蕉の生誕地について問い合わせがあった場合、伊賀市の芭蕉関連施設では今後、

 「芭蕉の生誕地は伊賀市でございます。それ以上くわしいことは追究しないことになっております。あしからずご了承ください」

 などと返答するのでしょうか。いやはや。ご町内だけが世界であると考えている人たちはこれだから困ります。くだらないなあなあ体質を維持するためにこんなぐあいに事実ををぼやかし隠蔽してしまうというのですから、よその自治体のことなれどおまえらほんとにそれでいいのかと私はいいたい。

 さるにても、旧上野市で芭蕉研究の第一線に立たれ、長く芭蕉翁記念館の館長もお務めになった山本茂貴さんが八十二歳でお亡くなりになったのは、たしか6月16日のことでしたか。天国の山本さんは下界におけるかくもばかげた取り決めをごらんになっておおいに嘆いていらっしゃるのではないか。ていうか、まるで山本さんのご逝去を待ち受けていたみたいなタイミングでこんな方針が明るみに出るのっていったいどうよ。

 私が伊賀市民であったならこの芭蕉翁顕彰事業調整会議、座長さんは権蛇さんとおっしゃいますか、伊賀市の助役さんでいらっしゃいますか、なんともまがまがしい感じのお名前でいらっしゃいますけど、伊賀市のオフィシャルサイトにこの方あてのメールを送りつけ、なーにやってんだと文句のひとつもつけているところだと思われます。むろん名張市民が文句をつけたっていいのですけれど、その場合むこうからはこんなお答えが返ってくるのではないかしら。

 ──現段階では芭蕉に関して外部の人間の話を聴く考えはない。

 ありゃりゃッ。

  本日のフラグメント

 ▼1892年11月

 即興詩人 森鴎外

 観潮楼が完成した明治25年の11月から「しがらみ草紙」に連載され、「めざまし草」に続載、明治34年2月に完結しました。アンデルセンが1834年に発表した自伝的長篇小説の翻訳です。

 鴎外と乱歩、といえばいちばんに想起されるのはやはり「孤島の鬼」でしょう。諸戸道夫と蓑浦のコンビが林のなかの古井戸に入り、横穴を発見してその奥を探検しようとしたとき、諸戸は蓑浦にこんなことをいいます。

 「あの横穴は存外深いかも知れない。『六道の辻』なんて形容してある所を見ると、深いばかりでなく、枝道があって、八幡の藪知らずみたいになっているのかも知れない。ホラ『即興詩人』にローマのカタコンバへ這入る所があるだろう。僕はあれから思いついて、この麻縄を用意したんだ。フェデリゴという画工の真似なんだよ」

 蓑浦は「深きところには、軟なる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり」と「即興詩人」の一節を引いて叙述を進めるのですが、文庫版でわずか五行しかないその引用箇所のあと、はたして「即興詩人」はどのような展開を見せるのであろうか、といったことも『江戸川乱歩年譜集成』編纂者としては当然把握しておかねばなりません。

 そこで出てくるのがいまやすっかりおなじみになりました現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の第七巻『森鴎外集(一)』です。ここにはもちろん「即興詩人」が収録されていて、「孤島の鬼」に引かれた箇所は「隧道、ちご」という章に見ることができます。

 ……画工フェデリゴと少年アントニオはカタコンバに降りていった。画工はひと巻きの糸の端を入口に結びつけ、少年の手を引いて進んでゆく。ほぐしていった糸が尽きた地点で、画工はその端をボタンの穴に結び、拾い集めた小石のあいだに蝋燭を立てると、うずくまって隧道の模様を写生しはじめた。少年はおそろしい暗黒の天地に通じる幾筋もの道を眺め、心のなかにさまざまの奇怪な想念を浮かべていたが、ふと気がついて画工を見ると、画工はひとつところをぐるぐるまわり、しきりにからだを伏せて、何か探しものをしているらしい。新しい蝋燭に火をつけて、さらにあたりを探しつづける。その様子がただごとではなかったので、少年は立ちあがって泣きだしてしまった。

 画工は声を励まして、「なんでもないんだ。いい子だから、そこに坐っておいで」と少年にいったが、すぐに眉をひそめて地面に目を落とした。少年は画工の手に取りすがり、「もう登ろう。ここにはいたくないよ」とむずかった。画工は「いい子だ。絵を描いてあげよう。お菓子をあげよう。お金だってある」といいながら、服のポケットから財布を取り出し、なかのものをすべて少年に与えた。少年はそれを受け取るとき、画工の手が氷のように冷たく、ひどくふるえているのに気がついた。 少年はいよいよ騒ぎだし、母を呼んでますます泣いた。画工は少年の肩をつかみ、はげしく揺り動かし、「静かにしないと叩くぞ」といったが、そのあと急にハンカチを引き出して少年の手を縛り、しっかりその端を握ると、うつむいて何度も何度も少年に接吻して、「かわいい子だ。君も聖母様にお願いするんだ」といった。「糸をなくしちゃったの?」と少年は叫んだ。「すぐに見つけるさ」といいながら、画工はふたたび地面を探しはじめる。

 へたな現代語訳はここまでとして(かなり適当な訳ですからご注意ください)、あとは格調高い文語文の原文でどうぞ。作品はアントニオ少年の一人称で記されており、「われ」というのがすなわち少年です。

 さる程に、地上なりし蝋燭は流れ畢りぬ。手に持ちたる蝋燭も、かなたこなたを捜し索むる忙しさに、流るゝこといよいよ早く、今は手の際まで燃え来りぬ。画工の周章は大方ならざりき。そも無理ならず。もし糸なくして歩を運ばゝ、われ等は次第に深きところに入りて、遂に活路なきに至らむも計られざればなり。画工は再び気を励まして探りしが、こたびも糸を得ざりしかば、力抜けて地上に坐し、我頸を抱きて大息つき、あはれなる子よ、とつぶやきぬ。われはこの詞を聞きて、最早家に還られざることぞ、とおもひければ、いたく泣きぬ。画工にあまりに緊しく抱き寄せられて、我が縛られたる手はいざり落ちて地に達したり。我は覚えず埃の間に指さし入れしに、例の糸を撮み得たり。こゝにこそ、と我呼びしに、画工は我手を取りて〔「取」は正しくはてへんに參〕、物狂ほしきまでよろこびぬ。あはれ、われ等二人の命はこの糸にぞ繋ぎ留められける。

 なーるほど、といったところでしょうか。糸をたよりに迷宮に入るというのであればギリシア神話に見えるアリアドネのエピソードでもいいはずなのですが、ここまで読み進むと乱歩が火種としたのは抜き差しならず「即興詩人」であったのだということがよくわかります。地底の暗黒のなかで抱きあう画工と少年、であったればこそ「即興詩人」のこのシーンは乱歩の胸に深い感銘を刻みつけたのでしょう。いみじくあわれだと私は思います。


 ■ 7月4日(火)
中田英寿選手が現役を引退した

 ことほどさようにご町内感覚となあなあ体質はどこにでも転がっているもので、それが日本の文化だといわれてみればそうかもしれないと納得もされ、だったら勝ち目はないではないかと諦観する気分にもなろうというものです。げんに私はさじを投げてしまいました。名張まちなか再生委員会のご町内感覚となあなあ体質は、どんな名医も薬石もはだしで逃げだしてしまうほどに本質的な問題なのであるというべきでしょうか。

 おとなりの伊賀市でも事情は似たようなものらしく、きのう話題にした伊賀市の芭蕉翁顕彰事業調整会議の話がまたなんともひどい。旧上野市の芭蕉翁顕彰会と旧伊賀町のいがまち芭蕉翁顕彰会を一本化するためにこの会議がやっていることは、わかりやすくいえばやくざの手打ち式以上のものではありません。すなわち自分たちの利害得失の調整、ただそれだけです。芭蕉顕彰のことなんて会議メンバーの頭のなかにはこれっぱかりもないのではないか。芭蕉をどう利用するか、自分たちのためにあるいは伊賀市の自己宣伝のために芭蕉をどう利用するか、そんなことしか考えていないように見受けられます。

 そもそもこのふたつの顕彰会のなかに、芭蕉の人と作品に親炙している会員がどれくらいいるというのか。たとえば芭蕉の句を十句二十句すらすら暗誦できる会員が何人くらいいるのか。私はこのふたつの会のことなどまったく知りはしないのですが、それでもあんまり多くはないのであろうなとは推測されますので、このさい芭蕉の「顕彰」などという高望みはあっさりあきらめて、ふたつの顕彰会を一本化して伊賀市芭蕉翁利用会という組織にリニューアルするのがいいのではないかと提案しておきたいと思います。もうひとつ、当節の検定ブームに遅れることなく棹さして、会員を対象とした芭蕉検定を実施するのもいいでしょう。

 人のふり見てわがふり直せといいますか、他山の石といいますか、となりの市の愚劣を知ることで自身のそれを知る、なんてことはしかし名張まちなか再生委員会のみなさんには無理な相談か。おれのいってることはとても伝わらんか。掲示板「人外境だより」への7月1日付投稿に「少なくともどこからわいて出たのかもわからぬ乱歩文学館構想や、いつのまにかそうした構想が盛りこまれたことになっている名張まちなか再生プランにかんして、あんたらご町内感覚となあなあ体質を両輪とした横車を押して無茶苦茶やっておるけれどこれはこうだからいかんのだ、ということをはっきりさせておくのはやはり私の責務であるのかもしれません」とは記しましたものの、何をいっても伝わらぬというのはやはりむなしいことであり、どうにも意気があがりません。

 なんてこといってたら中田英寿選手が引退だそうです。ピッチから完全に去るそうです。ご町内感覚となあなあ体質に支配された共同体には結局何も伝わらない、と見切りをつけた感じかなと私には推量される次第なのですが、毎日新聞オフィシャルサイトには中田選手のオフィシャルサイト(アクセスが殺到しているのか全然つながりません)で発表されたメッセージが全文掲載されており、ヒデはそのなかで「人生とは旅であり、旅とは人生である」なんてまるで芭蕉みたいなこといってるわけですけど、気になったところをちょっと引用してみましょう。

中田英寿:現役引退を表明 “新たな自分”探しの旅にと
 サッカーという旅のなかでも「日本代表」は、俺にとって特別な場所だった。

 最後となるドイツでの戦いの中では、選手たち、スタッフ、そしてファンのみんなに「俺は一体何を伝えられることが出来るのだろうか」、それだけを考えてプレーしてきた。

 俺は今大会、日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く、その上スピードもある。ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術(すべ)を知らなかったこと。それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。

 ワールドカップがこのような結果に終わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。俺がこれまでサッカーを通じてみんなに何を見せられたのか、何を感じさせられたのか、この大会の後にいろいろと考えた。正直、俺が少しでも何かを伝えることが出来たのか……ちょっと自信がなかった。

 けれどみんなからのmail(メール)をすべて読んで、俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。それが分かった今、プロになってからの俺の“姿勢”は間違っていなかったと自信を持って言える。

 私ははっきりいってすぐに「みんな」という言葉を口にしたがる人間が大嫌いなのですが(だってその言葉こそがご町内感覚となあなあ体質のあらわれなんだもん)、この場合はしかたないか。共同体から疎外された人間は外部の「みんな」に語りかけることしかできないか。とにかくジーコ前監督がお互い厳しくやっていかないと仲良しチームじゃ成功はできないと指摘し、中田英寿選手がメンバーを励ましたり怒鳴ったり怒らせたりしても伝わらないことがあったと結論したのは、名張まちなか再生委員会や芭蕉翁顕彰事業調整会議にとって傾聴に値する言であるとは思われるのですが、ま、何をいっても寝耳に水か、ではなかった馬の耳に念仏か。

 ともあれ、私も名張まちなか再生プランと名張まちなか再生委員会にはきっちり見切りをつけたわけであり、「これはこうだからいかんのだ」というのは要するに彼らのご町内感覚となあなあ体質がいかんのだということにほかならず、ひとことでいえばだめなものはだめなのだというしかない次第なのですから、もうこれくらいでいいとしようか。いやはやどうにも遅疑逡巡。

  本日のフラグメント

 ▼1909年7月

 ヰタ・セクスアリス 森鴎外

 「孤島の鬼」と鴎外、といえば「即興詩人」のほかに「虞初新誌」も想起されます。

 じつは『江戸川乱歩年譜集成』のためのメモをとる作業は一日に本文三行分しか進まないような日もあってもうたいへん。とても「孤島の鬼」が出てくるところまで到達してはいないのですが、まあなんというのか、あえていうなら現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の購入記念か、とにかく本日も鴎外のフラグメントをひろっておくことにいたします。

 まずは『探偵小説四十年』に引用された「探偵小説十年」を見てみます。「孤島の鬼」の連載第一回を執筆するころ、乱歩は三重県の南のほうにある漁村に旅行して、鳥羽から岩田準一を呼び寄せました。ふたりは舟に乗ったり散歩したり寝っ転がって話をしたりして過ごしましたが、

 ──その岩田君が「鴎外全集」の一冊を持って来ていて、その中に何かのついでに二三行書いてあった中国の片輪者製造の話を読んで非常に面白く感じた。それがまあ、あの小説の出発点になったのだ。第一回を書いたあとで、東京に帰って、古本屋を探して「虞初新誌」を買ったり、西洋の不具者に関する書物を猟ったりした。

 乱歩はそんなふうに回想しています。こうなりますと鴎外のどの作品に片輪者製造の話が出てきたのか、残念ながら乱歩は作品名を書いてくれてはおりませんから、鴎外全集をひっくり返してつきとめなければなりません。なんだか気の遠くなるような話なのですが、どうかご心配なく。

 私の手許にはいまや現代日本文学大系があります。全九十七巻です。一万九千円也です。その第七巻『森鴎外集(一)』を開いてみましょう。231ページ、「ヰタ・セクスアリス」にこんなことが書かれています。

 その日の夕かたであつた。古賀が一しよに散歩に出ろと云ふ。鰐口なんぞは、長い間同じ部屋にゐても、一しよに散歩に出ようと云つたことはない。兎に角附いて出て見ようと思つて、承諾した。

 夏の初の気持の好い夕かたである。神田の通りを歩く。古本屋の前に来ると、僕は足を留めて覗く。古賀は一しよに覗く。其頃は、日本人の詩集なんぞは一冊五銭位で買はれたものだ。柳原の取附に広場がある。ここに大きな傘を開いて立てて、その下で十二三位な綺麗な女の子にかつぽれを踊らせてゐる。僕は Victor Hugo の Notre Dame を読んだとき、Emeraude とかいふ宝石のやうな名の附いた小娘の事を書いてあるのを見て、此女の子を思出して、あの傘の下でかつぽれを踊つたやうな奴だらうと思つた。古賀はかう云つた。

 「何の子だか知らないが、非道い目に合はせてゐるなあ。」

 「もつと非道いのは支那人だらう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたといふ話があるが、そんな事もし兼ねない。」

 「どうしてそんな話を知つてゐる。」

 「虞初新誌にある。」

 「妙なものを読んでゐるなあ。面白い小僧だ。」

 鴎外作品では「雁」にも「虞初新誌」が出てきますが、こちらには片輪者製造のことなどまったく見えませんから、乱歩が岩田準一持参の鴎外全集で読んだのは「ヰタ・セクスアリス」だったと見てまちがいはないでしょう。明治42年7月、「スバル」に発表された小説で、発禁処分というおまけがついた作品です。

 ちなみに準一がもっていた全集は、大正12年1月から昭和2年10月にかけて鴎外全集刊行会の手で発行された『鴎外全集』全十八巻であったと思われます。


 ■ 7月5日(水)
なにか気がかりな夢から目をさますと

 びっくりしました。朝起きてみたら北朝鮮がミサイルを発射しておりました。何を血迷うておるのか。さすが北朝鮮ともなると血迷い方のスケールがちがうわけですが、ネット上でもっとも早い段階から大騒ぎしていたのはやはり2ちゃんねらーのみなさんで、新聞社通信社系サイトでの速報は共同通信がトップだったでしょうか。サッカーワールドカップドイツ大会準決勝のドイツ vs イタリア戦もどっかへ行ってしまい、

 「安倍さんキター」

 とか2ちゃんねるで教えられてあわてて官房長官の緊急記者会見をテレビで視聴、そのあともテレビ各局のニュースをチェックし、またパソコンの前に戻りと、不謹慎なことなれど正直に打ち明けてしまうとわくわくしながら時間を過ごしてしまいましたので、本日の伝言はこれくらいでおしまいといたします。

  本日のフラグメント

 ▼1973年4月

 稻垣足穗年譜 保昌正夫

 森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にひきつづくフラグメントには『ヰタ・マキニカリス』ならびに『タルホフラグメント』の著者が登場。われながら流れるような展開だとうっとりしてしまいますが、現代日本文学大系第六十二巻『牧野信一・犬養健・稻垣足穗・中河與一・十一谷義三郎・今東光集』に収録された足穂の年譜です。

昭和二十四年(一九四九)四十九歳
一月「モーリツツは生きてゐる」を『新潮』、二月「松風」を『八雲』、四月「緑金の蛇」を『文芸』に発表。五月、越中城端町に赴く。六月、東京へ帰り、江戸川乱歩の世話で中野打越に居を定めた。

 ■ 7月6日(木)
遅疑逡巡継続中です

 北朝鮮のミサイル騒動でふっとんでしまいましたけど、おとといの遅疑逡巡はどこまでも飛びつづけるミサイルのようにいまだ尾を引いております。名張まちなか再生プランがどーたら名張まちなか再生委員会がこーたらという遅疑逡巡です。この件にかんしてメールをくださった方もあり、どうせ乱歩文学館なるものがつくられてしまうのならその文学館が少しでもましなものになるよう努めるのがおまえの役目ではないのか、とのご忠言を頂戴した次第なのですが、そうした考えも理解できぬではないけれどしかしあんなインチキに左袒して悪の道に引きずりこまれるのはまっぴらごめんですからね。それに乱歩文学館なんてたぶんできないだろうと私は思っておりますし。いやまいった。遅れついでにもう一日、じっくり遅疑逡巡してみたいと思います。

  本日のフラグメント

 ▼1964年10月

 都のたつみしかぞ住む 稲垣足穂

 きのうのつづきです。ほんとはきのう書いておくべきであったのかもしれぬのですが、ミサイル騒ぎに浮かれて記せなかったところをつづります。

 きのう引用した保昌正夫の「稻垣足穗年譜」で、昭和24年6月に足穂が「江戸川乱歩の世話で中野打越に居を定めた」とされていた記述の典拠は何か。『江戸川乱歩年譜集成』を編纂するためにはそのあたりを押さえておくことも必要でしょう。

 ちなみに乱歩が足穂を援助したのは昭和24年が最初ではなく、『探偵小説四十年』には「新潮」昭和30年7月号に掲載された足穂の「東京遁走曲」が引かれていて、戦前にもそうした例のあったことが知られます。光文社文庫『探偵小説四十年(上)』でいえば213ページにその引用があるのですが、なぜか中略があって変な引き方になっておりますので、同じパートを足穂の文章から直接引いておきましょう。

 馬込滞在中に、『夢野抄』という五十枚余りのものを書いたので、新潮の楢崎勤に買って貰った。原稿料の百円なにがしが直ちに酒に化けてしまったので、改めて旧知のたれ彼から五円十円と借り集めて、新潮社近くの横寺町のアパートに一室を借りた。先に萩原朔太郎を通して江戸川乱歩を知っていたので、彼に事情を訴えて、金三十円也を借金し、他に一組の銘仙夜具を寄附して貰った。萩原は、なんでもマッサージに関する秘密組織について訊ねる用向きで江戸川乱歩を訪れたのであるが、乱歩の人柄が気に入ったというので、さっそく僕に紹介してくれた。その時分、乱歩は、戸塚の通りをちょっと横へはいったところに『緑館』という下宿屋を経営していた。このたび無心に出掛けたのは、現在の池袋の立教前の住いである。

 文中、「馬込滞在中に」のあとに乱歩は、

 ──(註、昭和五、六年ごろであろう)

 と註記していますが、これは正しくありません。足穂が「夢野抄」を発表し、牛込横寺町に住んだのは昭和12年のことです。上掲の引用には足穂が萩原朔太郎の紹介で乱歩を訪ねたときのことが書かれていて、それは昭和6年10月のことでしたから、乱歩の記述はふたつの時間をごっちゃにしたものというしかありません。

 それにこの引用には先にも記したとおり変なところがあって、上掲の引用でこの色にした文章は、『探偵小説四十年』の引用では次のようになっています(ついでに記しておきますと、この色の部分は乱歩の引用では省かれています)。

 ──先に萩原朔太郎を通じて江戸川乱歩を知っていたので彼を訪ねた。(中略)

 これはいったい何なのか。原文の「通して」が「通じて」になっているのは乱歩の引用ではよくあることですからいいとして、「彼に事情を訴えて、金三十円也を借金し、他に一組の銘仙夜具を寄附して貰った」という記述をあっさり略してしまった乱歩の真意は何なのか。『探偵小説四十年』のこのあたりでは乱歩が朔太郎と知りあった経緯が眼目になっていますから、それとは無関係な借金だの寄附だの足穂にとって不名誉と思われることは伏せておいた、といったところかと推測される次第なのですが、なんか適当だなとの感を禁じえません。

 それはそれとして昭和24年6月のこと、足穂が乱歩の世話で中野打越に居を定めたという事実もまた、足穂の作品そのものに確認することができます。いまや伝家の宝刀とも呼ぶべき現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の第六十二巻『牧野信一・犬養健・稻垣足穗・中河與一・十一谷義三郎・今東光集』をひもとけば一目瞭然です。何が一目瞭然なのかというと求めている作品がこの本のどこにも収録されていないということがたちどころにわかるわけなのであって、しかたありませんから河出文庫『東京遁走曲』に収録された「東京遁走曲」から引くことにいたします。

 ちょっとややこしいですから説明をくわえておきますと、乱歩が引用した「東京遁走曲」はのちに「わが庵は都のたつみ──」と改題されました。これから引用する「東京遁走曲」は昭和39年の「新潮」10月号に掲載されたもので、そのときのタイトルは「都のたつみしかぞ住む」でした。

 ──かえりみて生涯中の「もっとも窮まった時間」であったようだ。

 と足穂みずからがふりかえる昭和24年の6月、一か月ほど滞在していた越中すなわち富山県から東京に舞い戻った足穂は、知人の世話で池袋は立教大学の近くにある彼の友人の家へ転がりこみました。

 翌朝、文無しの身で雨脚を眺めている時に、江戸川乱歩がこの近所であることに気付いた。雨の合間をうかがって出向くと、彼はいて、私が持ち出した間借りの権利金援助を約束してくれた。神田の矢貴書店で知合った清水少年の世話で、権利金と人物試験に通りさえすれば中野打越に三畳が借りられることになっていた。乱歩は小遣が必要だろうと出してくれたので、ひと安心の余り、池袋駅の近くのカストリ屋へはいった。ぽろをまとった小父さんと話し込み、更に別な飲屋へ彼を伴った。相当な紳士もごろ寝で夜も過している公園が川向うにあることを教えられた。いつそれが必要になるか判らないので注意して耳に入れた。小父さんの娘は女学校へ行っているとの話だった。どうやらプロ乞食らしい。でも帰りぎわには百円札を三枚彼の破れポケットにおし入れずにおられなかった。

 乱歩もびっくりしたことでしょう。困窮その極にあった足穂がいきなり訪ねてきて、住まいを借りるための権利金を出してくれと切り出したわけです。しかしふたつ返事で(だったと思います)快諾し、そのうえ小遣いも握らせてやったというのですからさすがは乱歩。しかもそれで気が大きくなってついふらふらとカストリ屋に入ってしまい、たまたまいっしょなったプロの乞食らしいおじさんと安酒をくらって、おまけに乱歩からもらった小遣いのうち三百円をおじさんに押しつけてしまったというのがまたいかにも足穂らしくていいと思います。

 とにかく足穂の貧乏というのは半端ではなく、ほとんど神々しいまでの貧乏であるといっていいかもしれません。そうなると足穂に対する乱歩の援助も、もしかしたら喜捨や報謝といった宗教的行為にちかいものであったのかとも思いなされる次第です。


 ■ 7月7日(金)
都市計画室の消滅

 遅疑逡巡に遅疑逡巡を重ねてもいっこうに結論が出ない七夕の朝ぼらけかな。

 思わず破調で詠じてしまいましたが、またもメールでご忠言をいただきました。すなわち、乱歩文学館が結局は実現しないであろうというのであればそのように判断する根拠を述べてみてはどうか、との仰せを頂戴したわけなのですが、理由は大きくいってふたつあります。理由そのいち、名張市にはお金がない。理由そのに、名張市には人材がいない。以上です。いやそれよりもっと大きな理由として、乱歩文学館なんてそもそも名張市には必要ないのである、というのが私の一貫した考えなのですが。

 とはいえ、名張まちなか再生委員会がもう少し情報開示に努めてくれていたら話はべつなのでしょうけれど、現時点では完全な密室のなかでこそこそと検討が進められているばかり。どんな施設にしようというのか一般市民には何も知らされておりませんから、乱歩文学館構想の問題点を具体的に指摘することができないのが困ったところです。困った困じた途方に暮れた。

 しかも驚くべし。7月3日付伝言でお知らせしました名張市オフィシャルサイトの名張まちなか再生委員会2006年度事業計画、つまり準備中ですとアナウンスされていたこれなのですが──

 新年度の計画がそろそろアップデートされたころかしらと見てみたところ、なんとこんなことになっておりました。

 ありゃりゃ。事業計画のページが消えとるがな。おかしいな、たしか建設部都市計画室のページからリンクされていたのだが、と思ってこの「各室のページ」を調べてみました。

 ありゃりゃ。都市計画室まで消えとるがな。建設部にあった都市計画室がたしかに消えております。名張まちなか再生委員会の事務局が置かれていた都市計画室が姿を消してしまっております。忍者か。ていうか、おれは名張市のオフィシャルサイトにおちょくられておるのか。狐につままれたような気分でしばし茫然としていたのですが、ああ機構改革かと思いいたって狐の影を払拭しました。

 掲示板「人外境だより」において7月2日、名無しさんが「新聞に市職員の移動がでてました。その内容のわかりにくい事、いったい何をする室や部なのか」と批判していらっしゃった名張市の組織変更のその結果、都市計画室ははかなく消えてなくなったということでしょう。いろいろお世話になりました。合掌。

 しかしそれならそれで名張まちなか再生委員会の事務局はどこが担当することになるのかな、と上掲の「各室のページ」を一覧し、どうやら都市環境部の市街地整備推進室というのがそれらしい、と目星をつけてさっそくそのセクションの名前をクリックしてみたところ──

 ごらんのとおり準備作業中とのことです。ほんとに人をおちょくっておるのか。

 しかしまあ、都市計画室の後継セクションがどこになろうとも、乱歩にかんして何かがどうにかなるということだけは絶対にないでしょう。これは6月29日付伝言に記したことなのですが、6月26日に名張まちなか再生委員会の事務局とおはなしをしたとき、私は次のようにお伝えしてまいりました。

 ──名張市がこのうえまーだ乱歩をどうこういうのであれば、文学館のことなんかよりいったい乱歩をどうしたいのか、それを明確にすることが必要である。庁舎内の乱歩関連セクションに密接な横のつながりをつくって、そのうえでじっくり考えてみなさい。

 ──名張市が悔い改めて乱歩のことを本気で考えたいというのであれば、そのための助言やアドバイスを惜しむつもりは毛頭ない。いつでも訪ねてこられよ。あらあらかしこ。

 こんなことを委員会の事務局に申し出るのはお門違いというものなのですが、ほかに申し出るべきところもありませんゆえとりあえずお伝えしてきた次第です。ところがその申し出た窓口が消滅してしまったというのですから、名張まちなか再生委員会の事務局を通じて名張市が乱歩のことに特化したフォーメーションを編成するように働きかけた私のもくろみもあっさりぱーというものでしょう。それならそれでいい。もともと無理を承知の申し出ではあったのだ。

 冒頭に戻りましょう。理由そのいち、名張市にはお金がない。理由そのに、名張市には人材がいない。これは厳然たる事実です。だから乱歩文学館なんてつくらないというのは、じつにまっとうな見識です。

 名張まちなか再生委員会がどんな構想をおもちなのかは知るよしもありませんが、かりに乱歩文学館ができたとしても開館以降のランニングコストはどうするのかな。早い話、文学館と名がつくのであれば最低でもひとりは学芸員が必要になってくるはずなのですが、そのサラリーはいったいどうやって工面するのかな。私のように月八万円のお手当で滅私奉公する人間なんてざらには転がっておらんであろう。金のわらじ履いたって見つからんのではないかしら。はたまた、展示資料を充実させてゆくための購入費用のあてはあるのかな。そこらのばかはハコモノつくったらそれでおしまいだと考えているのかもしれんが、むしろおはなしはそれからなのである。乱歩文学館を建設するお金のことも心配ではありますが、オープン以降のお金のことはいったいどうよ。

 人材となると名張市にはお金以上に存在しておりません。乱歩文学館をつくるために奔走している人間がひとりでもいるのか。名張まちなか再生委員会には内発的なものがどこにもないではないか。人の尻馬に乗ったり人のふんどしで相撲を取ったりすることしかできぬ連中が、なんや予算がつくみたいやさかい乱歩文学館でもつくっときまひょか、初瀬ものがたり交流館でもつくっときまひょか(それにしても初瀬ものがたり交流館とはおそれいる。詳細の説明がなくても内容の陳腐陋劣をみずから主張しているようなネーミングだというしかないぞ)、そんな程度のことでしかないではないか。名張市にどうしても乱歩文学館が必要だとの揺らぎない信念をもち、そのために私利私欲を離れ身を挺して準備を進めている有能な人材がひとりでもいるのか。おらんではないか。それってどうよ。

 ほんとにいったい何をやっておるのか。また猛烈に腹が立ってきましたので本日のところはここまでといたしますが、きょうは七夕ですから最後にささやかな願いごとを書きつけておきたいと思います。

 ──名張まちなか再生プランの乱歩文学館構想と初瀬ものがたり交流館構想が一日も早くぶっつぶれてしまいますように。

 これではいささか剣呑にすぎるか。だったらこれでどうよ。

 ──名張まちなか再生委員会の人たちが一日も早く真人間になってくれますように。

  本日のフラグメント

 ▼1949年2月

 愛読する人間 宇野浩二

 現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也からどんどん横滑りしている感じではありますが、足穂がらみで宇野浩二へ。またしても宇野浩二へ。しつこいようなれど宇野浩二へ。

 足穂の貧乏には着たきり雀のゆかた一枚でそこらの公園に寝っ転がって風に吹かれているとでもいうような風通しのよさがあるのに対し、宇野浩二のそれは風も通らず陽も射しこまぬ裏長屋のじめじめじとじとした古畳のうえに腹ばいになっているような湿り気があり、しかもそこによどんでいる重い空気にはかすかに白粉の匂いがまじっているようでもあって、私はそうした湿り気がどうにも好きになれんのですが、何はともあれ足穂もまた乱歩も白粉の匂いにいっさい無縁である点はわれわれ(いったい誰よ)にとってなんだかうれしいことであるように思われます。

 さてその宇野浩二、昭和24年2月発行の「別冊文藝春秋」に「愛読する人間」という作品を発表しております。足穂および乱歩との交友をつづりながらふたりを並び称した一篇です。宇野浩二にはやはり「愛読する人間」というタイトルで菊池寛を論じた作品もあり、こちらは『宇野浩二全集』全十二巻に収められているのですが、残念ながら足穂乱歩を扱った「愛読する人間」は全集に見ることができません。

 しかし講談社文芸文庫『独断的作家論』には「稲垣足穂と江戸川乱歩──稲垣の天体嗜好小説と江戸川の推理探偵小説」と改題されて収録されておりますからご安心ください。そのうちの「(一)稲垣足穂」から二段落ほど引きましょう。

 さて、昭和二十一年の初めの頃であったか、私は、或る会で、実に久しぶりで、稲垣と顔を合わせた。その時、稲垣は、少しばかり文学の話(大部分は或る一部の文学者を罵倒する話)をしてから、いきなり、「この頃、」ときどき、江戸川乱歩のところへ行く、という話をした。そうして、江戸川の話をする時、稲垣の目は異様にかがやいた。ところで、その時の話は、江戸川が、人に逢うことを恐れるように、人に逢うことを嫌がり、それに、人に見られることを避けるためもあってか、ふだん蔵の中に、(『蔵の中』といえば、私のもっとも初期の小説に『蔵の中』というのがあるが、それは極めて平凡な物語であるが、江戸川のは、)その『蔵』のなかに、江戸川は、一日の何分の一か、住んでいて、主に『男色』の研究をしているので、それに関するいろいろな本や絵があるということや、(こういう話をする時、稲垣は、かりに論客とすれば、『口角に泡をとばす』というような、熱狂的な、話し方をした、)その他、さまざまの話である。が、この『その他、さまざまの話』は、大変さしさわりがあるので、一切はぶく。

 さて、稲垣は、一しきり江戸川の『男色』の研究の模様を、舌なめずりするような云い方で、話しつづけ、それにしだいに熱中した末に、急に低い声になって、私に、江戸川の内に一度ゆかないか、「お願いします、」と云った。しかし、私は、江戸川には久しぶりであるから逢いたいけれど、『それ』が、稲垣の云うように、本当であったら、その蔵の中の『男色』研究所(註─これは、稲垣の言葉であったか、私の造語であったか、記憶は至極おぼろである。)は、想像するだけでも、ぞっとするので、江戸川を訪問することは、ことわった。

 これが昭和21年のこと。乱歩足穂の両人はその翌年、昭和22年12月に出た「くいーん」に「そのみちを語る 同性愛の」と題した対談を発表することになるのですが、やはりこのときも足穂は異様に眼を輝かせ、口角泡を飛ばして「そのみち」のことを語ったものと推測されます。白粉の好きな宇野浩二には理解を絶した世界であったことでしょうけど。

 ところで、「『新青年』趣味」第十二号の「脚註王の執筆日記【完全版】」で村上裕徳さんは宇野浩二の「夢見る部屋」にふれ、

 ──乱歩が犯罪の起こらん話かいたら、こんなんになる思います。

 と指摘していらっしゃいます。これを等式で示すならさしずめ、

 (乱歩作品)−(犯罪)=(宇野作品)

 といったことになるのでしょうが、その伝でゆけば私には次のような等式が思い浮かんでこないでもありません。

 (宇野浩二)−(女への興味)=(江戸川乱歩)


 ■ 7月8日(土)
名張の夏、怪人の夏

 いつまでごちゃごちゃいっててもしかたありません。名張まちなか再生プランとも名張まちなか再生委員会ともいっさいの縁を切った私ではありますが、あのプランがここまでひどい失敗を見るにいたった原因はいったいどこにあったのか、それを分析しておけばあるいは名張市の今後に何かしら裨益するところもあるのではないのかしらと考えて、いささかを書きつけることにいたしました。結論としては、失敗にいたったのは必然の結果であったということになるだろうと思いますけど。

 諸悪の根源は名張まちなか再生プランです。それにはまちがいありません。問題点はふたつ。ひとつはろくな歴史資料もないのに歴史資料館をつくることが望ましいなどというインチキを盛りこんだこと。もうひとつは名張市に寄贈された桝田医院第二病棟の活用について片言隻句も盛りこまなかったこと。このふたつの問題点は多少なりとも事情に通じている人間ならばたちどころに看取できるはずのものであって(「事情」といったってごくわかりやすいもので、名張市における歴史資料の概略とか、桝田医院第二病棟が寄贈された事実とか、そんな程度の事情のことです)、げんに私はこの二点を鋭く厳しく面白く指摘するパブリックコメントを提出いたしました。

 しかしせんかたはなかった。私のパブリックコメントは採用されるにいたらず、名張地区既成市街地再生計画策定委員会によって策定されたいい加減なプランを名張市はそのまま正式決定してしまいました。致命的な失態であったというしかありません。そうした失態を可能ならしめたのは(この「失態」には、プランを正式決定したという失態のみならず、そもそもあんなインチキなプランを恥ずかしげもなく策定してしまったという失態も含まれているとお考えください)、私の語彙をもちいるならば関係者全員がどっぷり首までつかっているご町内感覚となあなあ体質にほかなりません。

 諸悪の根源にもさらに根源があります。それは名張市新町に残る細川邸という民家です。乱歩ファンのみなさんのために乱歩生誕地碑を基準に説明いたしますと、生誕地碑の建っているのは桝田医院という開業医の中庭なのですが、中庭から正面にまわって新町の通りに出ると、通りをはさんで斜め前に位置しているのが細川邸です。つまりこれ。

 この細川邸がいつかしら、一部の市民のあいだで無根拠な盲信の中心となってしまいました。細川邸を整備すれば名張地区既成市街地、いわゆる名張まちなかが再生できる。そんな盲信です。私の耳にも数年以上前からそんな話は届いていたのですが、たしか2003年の夏になって、名張商工会議所がこの細川邸を乱歩記念館にしたいというとんでもない構想をば打ち出してくれましたので、私は商工会議所会頭のお宅に二度ほどお邪魔してその構想の愚を説き非を戒め、ついに引っこめていただくにいたったのはこの伝言板でも再三にわたってお伝えしたとおりです。

 しかし細川邸シンドロームそのものは根絶されたわけではなく、細川邸を活用することによって名張のまちににぎわいが戻ってくる、みたいな夢物語はむしろ名張まちなかの衰退が顕著になればなるほど真剣さを帯びて語られるようになりました。もとよりそんな単純な話ではないでしょう。かつての中心商店街の空洞化は全国どこにでも見られる傾向であり、効果的な対策はいまだに見つかっておりません。ていうか、そんな特効薬はどこにも存在しません。シャッターストリート化が進むかつての商店街のどこか一画に何らかの施設を整備すればまちが復興する、なんて話が可能なのであれば全国各地でそれが進められていることでしょう。

 6月26日に名張まちなか再生委員会事務局のスタッフとおはなししたときにも、名張まちなか再生プランの策定をはじめるにあたっては細川邸を活用してほしいという名張商工会議所から寄せられた要望も勘案した、ということをお聞かせいただいたのですが、それはそれで全然OKです。ただしそれを受けた名張地区既成市街地再生計画策定委員会の協議がぐだぐだでした。細川邸を歴史資料館にするなどというでたらめな結論しか出せないありさまでした。この歴史資料館整備構想がいかにでたらめであったかは、名張まちなか再生委員会が歴史資料館構想を初瀬ものがたり交流館構想に差し替えてしまったという一事に如実端的に示されているでしょう(初瀬ものがたり交流館構想もぐだぐだなものではあるのですが)。

 深い考えもなく、それどころか名張市内にどんな歴史資料があるのかを確認することさえせず、ただ単に歴史資料館をつくればいいと思いまーすとかなんとかまったく本気かよ、なんとも適当でいい加減で無責任なことを決めた名張地区既成市街地再生計画策定委員会の罪は万死に値する、とまでは私は考えませんが、この委員会が人選といわず協議方法といわず何から何まで適当でいい加減で無責任であったことは論をまたないわけなのですから、その点は名張市におおきに反省してほしいところです。掲示板「人外境だより」に先日来ご投稿くださった名無しさんの語彙をお借りするならば、「うわっつら」「大衆受けねらい」「中身のない」「付け焼刃的」「ネーミングに自己陶酔」「場当たり的」「ええかっこのための思いつき」「受け売り」「にせもの」といった罵詈讒謗がぴったり当てはまる感じです。

 などと書いてしまうと誤解が生じやすいか。上に掲げました名無しさんの評言は名張まちなか再生プランにかんする批判ではなく、あくまでも名張市政全般に対するそれであることをお断りしておきます。また、名無しさんのこれらの言葉が批判として的を射ているかどうかもいまは関係ありません。とともに、私が上掲の評言を拝借しておちょくっているのは名張地区既成市街地再生計画策定委員会であり名張まちなか再生プランであり歴史資料館構想であり、ついでのことに初瀬ものがたり交流館なのであるということも、老婆心ながらひとことお断りしておきましょうか。

 さて、名張まちなか再生委員会の発足は昨年6月28日のことでした。7月1日、私は名張市役所建設部の都市計画室に置かれた委員会事務局に足を運び、委員会にかんする説明を求めました。噴飯ものでした。事業計画も噴飯ものなら委員会構成も噴飯ものでしたから、こんなことに税金つかわれちゃたまんねーな実際と、私は自身のサイトを通じてプランと委員会に対する批判をくりひろげました。歴史資料もないのに歴史資料館をつくるなんていうのは度しがたいリフォーム詐欺である、みたいな正当で誠実な批判を展開したわけです。

 ある日、ふらふらと市中見回りに出てみましたところ、名張まちなか再生委員会にかんしてこんな声が聞こえてきました。

 ──委員のなかにゃてめーの私利私欲に走ってる野郎がいるようですぜ。

 かまわん。まったくかまわん。あきんどが利益を追求するのは当然のことである。ただし、それはあくまでも全体の利益を視野に入れたうえでの話でなければならない。私はそのように考えます。私は社会主義者ではなけれども、名張まちなかを再生しようというプロジェクトに市民として参加しようという人間が、名張まちなか全体の利益をまったく顧慮せず(この場合の「利益」が金銭的なそれだけを意味しているものでないことはいうまでもありません)ひたすら自身の私利私欲だけを追いかけるのはよろしくないなと考えるわけです。そんなやつらは引っ捕らえて打首獄門じゃ、とまではいいませんけど、百叩きのうえ所払いくらいの刑には充分相当するでしょう。それでまた、そんな程度の人間に壟断されそうになってる名張市っていったいどうよ、とか思いながらまた市中見回りに出てみたある日、今度は、

 ──あいつらのやってるのは市民の税金で自分の家の庭をきれいにするようなことだ。そんな声も出てるようですぜ。

 といった報告がありました。さらにべつのところからは、

 ──このままじゃ伊賀の蔵びらきの二の舞じゃねえかって心配している人もいるようですぜ。

 ありゃりゃ、とは私は思いませんでした。伊賀の蔵びらきというのは正式には「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」という長ったらしい名称の官民合同事業のことなのですが、その二の舞になるなどということは私には最初から知れておった。事務局で委員会のメンバー表を見せてもらったそのときから、こちとらとっくにお見通しだい。お見通しだからこそこの私、自身のサイトを通じて芭蕉さんの子供たちすなわち芭蕉チルドレンを思いきりおちょくってやったわけなのさ。

 そんな7月がすぎて8月、去年の夏にいったい何が起きたのかといいますと、笑いを忘れたニートやひきこもりも四畳半のたうちまわり畳かりかりかきむしって笑い転げたあの珍事。

 「新怪人二十面相」とか名乗ったばかが掲示板「人外境だより」にはじめて投稿してくれたのは、忘れもしない(ほんとは忘れてましたけど)昨年8月2日のことでした。

  本日のフラグメント

 ▼2005年3月

 伊賀の医事史 北出楯夫

 現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也とはいよいよ何の関係もなくなりますが、本日の伝言に桝田医院の名が出てきましたので、乱歩の名前などどこにも出てこないフラグメント、『江戸川乱歩年譜集成』の完成へ向けてひとつ積んでは父のため。

 『伊賀の医事史』は奥付上では昨年3月31日、しかし実際にはつい最近、阿山医師会の手で刊行された五百七ページの大著です。編著は名張市とはともに天をいただかぬ仲にある旧上野市、現伊賀市にお住まいの北出楯夫さん。地域雑誌「伊賀百筆」の編集者でもいらっしゃいます。「『医事史』を紡ぐ日々」と題されたあとがきには、

 ──昨年は、その「伊賀百筆」を舞台に、「新市の名称、果たして『伊賀市』でいいのか」と疑問を投げかけてみたが、結果としてその訴えは実らなかった。自分の力量不足と、オエラ方の議論が疑論でしかなかったし、初めに「伊賀市ありき」の為政者の詭弁、奇策に敗れた格好となった。

 ですとか、

 ──それに加えて、「生誕三六〇年、芭蕉さんがゆく…」なんて、何とも長ったらしい名前のイベントに、心ならずもちょこっとかかわって、足し無いエネルギーを精一杯消費し、結果として空しさだけが残ったという悔い多い不作の一年ではあった。

 ですとか、そんなようなことが記されているわけですが、こんなことおっしゃってるとしまいに地域社会の共同体から疎外されておしまいになるのではないか、そうでなくても旧上野市なんていまだに近世が継続している土地なんだし、とよけいな心配をしてしまわないでもありませんが、そんなことはいまは関係ありません。

 タイトルどおり伊賀の“医”の歴史を江戸時代から現代まで丹念克明にたどったこのユニークな労作には、乱歩生誕地碑が建つ桝田医院の歴史をうかがうことも可能です。

 記述を総合してみますと、桝田医院初代の明義は明治25年京都市に生まれ、大正5年京都府立医学専門学校を卒業。同9年になって名賀郡錦生村(現在は名張市の一部)に桝田医院を開業し、のちに乱歩生誕地碑が建つことになる分院を名張町新町に開設したのは同14年のことであったといいます。

 以下、昭和26年12月に刊行された好川貫一著『伊賀の人々』から『伊賀の医事史』に転載されたところを引きましょう。乱歩が「ふるさと発見」をはたした当時の桝田先生、すなわち桝田医院二代目敏明先生の事績です。

桝田敏明(大正9年生)
 一時県下に冷凍植皮術で知られた医師。昭和十七年台北帝大附属医専を優秀な成績で卒業、同地で軍医となり、戦後引揚げて開業困難な時期を国津村長瀬の山間に送り、同二十三年現在地に於いて開業した。いかなる遠隔地、また深夜といえども、必ず往診するという態度は、その若さ、体力、学究心等にもよるが、より多くその仁医的素質にもとづくところであって、患者からは勿論、近在の人々からも好感をもって迎えられ、患者は日に多きを加えている。県下で最初に冷凍植皮術を試みて、いまだ学理的に解明されない臨床的効果を理論づけんとし、また逐年多くなる結核患者に対する積極的施設、医療の対策に日夜をわかたず努力をつづけている。イデオロギーもはっきりしており、人民的立場をとっている。

 文末に見える「イデオロギーもはっきりしており、人民的立場をとっている」という文言は、要するにいわゆる左翼の立場を鮮明にしている、日本はいずれ社会主義国家になるべきであると考えていると、そういうことを意味しています。いまのお若い衆には信じていただけぬ話かもしれませんけど。

 しかし『伊賀の人々』が出た昭和26年にはそんなのはごくあたりまえのことであって、名張みたいな田舎まちでも、とくにお医者さんのようないわゆるインテリ層には左翼思想をもつ人が普通にごろごろしてました。

 げんに私の亡父だってもうごりごりのマルキスト、たぶん死ぬまで暴力革命なんてものを信じていたらしく思われますから剣呑剣呑。その亡父が結核で死にかけたところを助けてくれたのがほかならぬ桝田敏明先生だったのですから、私としてはなんともしみじみとしてしまいます。

 さるにても、桝田先生が冷凍植皮術なるもののオーソリティでいらっしゃったとは知りませんでした。あるいは名張の諸戸道雄か。いやいや、そんなこといってたら叱られてしまいますけど。

 ちなみに、上掲の文章につけ加えることがあるとすれば、たとえば斗酒なお辞さぬ酒徒であったとか、乱歩生誕地碑除幕式の夜に清風亭で開かれた大宴会においては堂々の裸踊りを乱歩夫妻に披露したとか、いやいや、こんなこと書いてるとほんとに叱られてしまいますけど。

 ところで名張まちなか再生委員会のみなさんには、天国の乱歩はもちろん桝田敏明先生にもちゃんと顔向けができるような企画立案と事業展開とをお願いしておきたいと思います。とても無理ではあろうけど。


 ■ 7月9日(日)
美空ひばりと岡本太郎

 つまりそういった次第なのであって、諸悪の根源は名張まちなか再生プラン、そのまた根源は新町の細川邸、そして細川邸の周辺にちらちらする不逞のやからの影、はたまた細川邸の裏に突如として掲げられたエジプトの絵、掲示板「人外境だより」にある日降臨して名張市民にはこんなすっとこどっこいがごろごろしていると満天下に知らしめてくれたばか三人、なかでも見事なまでに突き抜けたテポドン級のばかであった怪人19面相……

 と書いて思い出しましたけど、名張市内にエジプトの絵とかニューヨークの写真とかを掲げる事業を名張市の市民公益活動実践事業として、つまりは税金による補助を受けながら展開してくれていたなんとかいう名前の会、あの会はいったいどうしたのでしょう。今年度の市民公益活動実践事業のなかには見あたらぬようです。あれだけ盛りあがったんだから今年も継続してくれればよかったのに、といろいろな意味で惜しまれる次第ではありますが、あの事業の関係者にして天下無双のばかであった怪人19面相のこの絶叫──

怪人19面相   2005年 8月 4日(木) 20時 6分  [220.215.61.171]

勘違い馬鹿のお方、いずれ近いうちに会うたるで。
連絡したるからまっとれ。
県民の血税を搾取なさったごとき事業をなさったオマエ、図書館嘱託のいんちきおっさん。
いろいろ返事を書いて頂いて有難う。
そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!
回りくどい難しい言い回しでわかりにくいことくどくどゆうな、ボケ!

 何度読んでも心から笑える投稿ではありますが、ここまでのばかはちょっといません。しかもなにしろばかなんですから尋ねられてもいないのに問わず語り、この絶叫によって自分たちの貧しい内実をすっかりさらけ出したりしております。自分たちがやっていることは、またしても名無しさんのご投稿にあった評言を踏襲するならば「うわっつら」「大衆受けねらい」「中身のない」「付け焼刃的」「ネーミングに自己陶酔」「場当たり的」「ええかっこのための思いつき」「受け売り」「にせもの」でしかないとみずから証言証明してくれてるわけです。「貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん!」という幼児のごとき遠吠えにいたっては、名張市民の税金をつかった公益活動とやらが実際のところご町内感覚となあなあ体質のみにもとづいて企画され実践されたものでしかなかったことを雄弁に物語るものです。大丈夫かしかし。

 そしてこの絶叫は、名張まちなか再生プラン関係者全員の内心の叫びであるとも見るべきでしょう。関係者が求めたものは結局のところ「うわっつら」「大衆受けねらい」「中身のない」「付け焼刃的」「ネーミングに自己陶酔」「場当たり的」「ええかっこのための思いつき」「受け売り」「にせもの」でしかなかった。プランにかんするすべての議論はご町内感覚となあなあ体質にもとづいたものでしかなかった。それはもう単に名張地区既成市街地再生計画策定委員会のみならず、それ以前の段階で細川邸を歴史資料館にという要望や提案をまとめていた名張地区まちづくり推進協議会と名張商工会議所をも含めた話であって、またしても名無しさんの語彙を借用するならばすべての関係者が「薄っぺらい筋肉質の頭」のもちぬしなのであったと見るしかないでしょう。ほんとに大丈夫か。

 名張のまちに残る民家を活用するとなると判で押したように歴史資料館歴史資料館歴史資料館としかさえずれないような人間、歴史のれの字も知らず資料館の何たるかもわきまえぬくせに歴史資料館とさえ口走っていれば名張市が予算を都合し誰かが話を進めて歴史資料館がめでたく完成するのであろうと考えている人間、そんなのが何十人何百人集まったってろくなことなど考えられるわけがなく、事実ろくなことが考えられなかったからこそ名張まちなか再生委員会が足りない智慧をフル回転、インチキにインチキを重ねて初瀬ものがたり交流館とかいう構想をひねり出すにいたったというわけなのですが、どこまでインチキでつっぱったら気がすむのかな。おれはもう知らんけど。

 ともあれ今回の手ひどい失敗の原因を分析いたしますに、諸悪の根源は名張まちなか再生プランであり、そのまた根源は新町の細川邸であり、しかし本当のところをいってしまえばすべてはジャスティスともフェアネスともまったく無縁に適当でいい加減で無責任な議論を進行させプランの策定と変更とを成立させてしまった関係者全員の頭の悪さに起因しているということになるでしょう。ひどいものである。ばーか。何をいってもせんかたはなけれど今後のためにひとこと書きつけておくならば、とにかく名張まちなか再生プランの轍だけは踏んでくれるな。ばかはばかでしょうがないけど、ふだんからもう少し頭をつかう訓練をしてみよう。少しは謙虚になってみることも必要だろう。気持ちだけでもいいから外部の世界というものをイメージすることを心がけよう。

 などといっても学習能力ないからなあ。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」でも学習できず、名張まちなか再生プランでも学習できず、この先もお役所と一部の地域住民がつるんで似たようなことをくりひろげてくれるのかと思うとなにやら暗澹たるものをおぼえるなの次第ですが、読者諸兄姉におかれましてはどうぞご心配なく。名張なんてずーっとこんな感じで来てるわけなんですから、誰もいまさら驚きません。すなわち結論、名張まちなか再生プランおよび名張まちなか再生委員会の手ひどい失敗は不可避のものであり、似たようなことは将来にも何度となくくり返されるにちがいない。

 したがいまして、名張市に乱歩文学館なるものがつくられてしまうのならその文学館が少しでもましなものになるよう努めてはどうか、とのご忠言には、私はやはり従いかねます。原理原則を完全に無視したプロセスを経て浮かびあがってきた構想に左袒する気にはなれませぬし、そもそも名張市には乱歩文学館を建設する必要なんかまったくないというのが私の変わらぬ主張でもあります。実際まあこれだけいってもまだわからんのか。

 たとえば三年前、2003年の6月に私が発表した漫才をお読みいただくならば、それは三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」が開幕する一年前に事業を批判しその失敗を予見する漫才であったのですが、ここに記したことはそのまま乱歩文学館構想、というよりも名張まちなか再生プランにも通用するものであることがおわかりいただけるでしょう。

芭蕉さんは行くのか
「けどほんまに三重県も何を考えてるのかようわかりませんですね」
「せやから伊賀地域振興のために税金を有効活用しようということですがな」
「たとえ百歩譲って三重県による予算のばらまきをありがたく頂戴するとしても最初から税金の有効活用には絶対ならんやろなと予測がつくような事業を地域に押しつけられては困るんです」
「そんなこと実際にやってみんことにはわからへんのとちがいますか」
「つまりわれわれは戦後の経済成長からバブル経済を経てそのあとの失われた十年までひととおり経験してますから」
「それがどないしました」
「その結果としてお役所のハコモノ崇拝主義とかイベント尊重思想は完膚なきまでに批判されてきてるわけなんです」
「それはそうですけどね」
「ただし蛙の面に小便ゆうやつですか。合併特例債でハコモノつくって喜ぶあほはなんぼでも出てきますやろけどね」
「あほゆうたらあかんがな」
「ここで振り返りますとバブルの時代に竹下内閣がふるさと創生という名のばらまき政策で地方に媚びを売りまして」
「媚びを売ったわけやないがな」
「あれで浮き彫りになったのは全国の市町村がいかに企画力や発想力を欠いているかという悲しい現実でしたからね」
「全国でいろいろなアイデアが出されて地方が活性化したのとちゃうんですか」
「単なる思いつきで温泉掘った自治体が三百もあったゆう情けなさでした」
「やっぱり急にお金もろたらつかい道に困るゆうこともあるでしょうけど」
「それからバブルの時代にもうひとつ浮き彫りになったのがしょうもない見栄を張りたがる地方自治体の体質ですね」
「見栄ゆうのはどうゆうことですねん」
「地方都市のグレードとかなんとかいいながら結局はよそより目立ちたいゆう見栄が全国の自治体に蔓延いたしました」
「どないしてよそより目立ちますねん」
「要するにハコモノ崇拝主義とイベント尊重思想の出番ですがな。あほが考えつくのはどうせその程度のことなんです」
「あほあほゆうたらあかんゆうのに」
「けど財政の面からゆうてもこれまでの経験からゆうても自治体の見栄に税金をつかう時代はとうに過ぎ去ってます」
「ハコモノやイベントで見栄を張るのは税金のつかい道として適切ではないと」
「自分らの身のたけ身のほどゆうものをようわきまえてほんまに必要なことは何であるかを考えなあかん時代なんです」
「われわれ個人の生活もじつはそうでしょうね。見栄は必要ないですからね」
「そう。君程度の人間でもわかってることがなぜお役所にはわからんのか」
「君程度ゆうのは余計やないですか」
「個人も自治体も背伸びする必要はないんです。程度なんか知れたもんですからね実際。目立つこととかよそより上に立つこととか小さくてもキラリと光ることとかを考える必要はないんです。素のままそこそこの人間であり地方都市であったらそれで十分なんとちがいますか」
「そらまあ十分といえば十分ですけど」
「君程度でもそれはわかるでしょ」
「君程度ゆうなゆうとるやろ」

「ですから『生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき』事業もきちんと一から見直さなあかんわけです」
「税金の使途として適正かどうかをもういっぺん見直してみましょうと」
「いまからでも遅くはないんですから武器を捨てて出てきなさい」
「いや別に誰も罪を犯して籠城してるわけやないんですから」
「でも見直しは必要やと思いますよ」
「そしたらその実施計画ゆうのはいったい誰が決めるんですか」
「官民合同の二〇〇四伊賀びと委員会が地域住民から寄せられた事業案も勘案して最終的に決定するわけですけどね」
「それやったら住民の知恵を結集した素晴らしい実施計画ができあがる可能性もあるわけやないですか」
「しかし住民の知恵ゆうのがどの程度のもんかゆう問題もありますしね」
「それはわかりませんがな」
「そしたらたとえばここに一人の地域住民がいて地域振興に寄与できる素晴らしいプランをもってたとしましょうか」
「ほなそれをこの事業でとりあげて実現したらええのとちがうんですか」
「とりあげへんかったらどうします」
「とりあげへんかったらとは」
「つまりほんまに素晴らしい地域振興プランを思いついた人間やったらそれを実現するために行政に働きかけたり事業化したりそれぞれの立場でみずから進んで動いてるはずなんです」
「それはそうかもわかりませんね」
「県が予算くれるのやったらやりますけどとりあげてもらえへんのやったらやりませんみたいな根性の人間はその根性自体がすでにアウトなんとちゃいますか」
「アウトゆうこともないでしょうけど」
「テレビの『マネーの虎』に出たかてそんな人間は美空ひばりのご養子さんにこんこんと説教されておしまいですよ」
「テレビのことはどうでもええがな」
「それにしてもあのご養子さんはどうしてあんなに品がないんですかね」
「人のことほっとけませんか」
「品のなさでゆうたら自民党の古賀前幹事長とええ勝負してますからね」
「いちいち実名を出すなゆうねん」
「やっぱり人間の品格はお金では買えないゆうことなんでしょうね」
「そんなこと知りませんがなもう」

 美空ひばりといえば、京都は嵐山にある美空ひばり館が閉館されるというニュースが報じられております。

「美空ひばり館」11月に閉館 嵐山 来館者減少で
 国民的大スター、故美空ひばりさんの偉業を紹介する「京都嵐山美空ひばり館」(京都市右京区)が今年11月末に閉館することが、7日までに分かった。1994年3月の開館以来、ひばりさんの愛蔵品を展示し、音と映像で楽しめる施設として人気を集めたが、近年は来館者が減っていた。ファンから惜しむ声が寄せられそうだ。

 同館は、ひばりさんの死去から5年後、渡月橋の北約50メートルの好立地を生かして地下1階、地上3階建てで開館。ひばりさんのヒット曲を映像とともに流したり、舞台衣装や装飾品、自作の絵画や詩を展示している。

 当初からファンや観光客が詰めかけ、4年目で入場者300万人を突破するほどにぎわった。しかし、近年、ファンが高齢化して足を運ぶ人が減ったほか、団体客の減少など観光形態の変化もあって、特に平日は「来館者数が激減した」(同館)という。展示品を借り受ける契約満了が近づいていることもあり、「時代の流れ」として閉館を決めた。

京都新聞電子版 2006/07/08

 なにしろ美空ひばりです。お嬢です。国民栄誉賞です。不世出の天才歌手の記念館だって人を呼べなくなってるご時世に、名張にしけた乱歩文学館なんかつくっていったい何をしようというのかな。そんな必要はどこにもなく、そもそもできる道理もない、とか思っていたら岡本太郎の壁画が公開されたというニュースも報じられていました。

岡本太郎さんの巨大壁画「明日の神話」一般公開
 画家岡本太郎さん(1911−96年)の最高傑作ともいわれる巨大壁画「明日の神話」(縦5.5メートル、横30メートル)が8日、東京・汐留の日本テレビ前にある屋外広場で初めて一般公開された。

 核戦争を主題として、原爆のさく裂で燃える人間などを描いた作品は、岡本さんが68−69年、メキシコ市で制作。しかし注文主のホテルが倒産し、2003年に同市郊外で発見されるまで所在不明となっていた。

日本経済新聞 NIKKEI NET 2006/07/08/13:05

 なにしろ岡本太郎です。傷ましい腕です。太陽の季節のワンシーンをイメージした太陽の塔です。その岡本太郎の壁画の大切な除幕式を日本テレビごときが汚しやがって、と憤っているアイドルタレントがいらっしゃいます。そのブログをごらんあれ。

 いかがですか。T:158cm、B:86cm、 W:56cm、H:88cm の松嶋初音ちゃんが思いきり憤ってるわけです。日本テレビが仕切った除幕式がめちゃくちゃであった、見に行ってショックを受けたと怒ってるわけです。当日記事をごらんあれ。

悲しいね、とても悲しいね
ただ一言。

ショックだった。

私の大好きな太郎さんが汚された気がしてならなかった。

こんなやり方、違う。

なんなんだよ。

『明日の神話』はこんな作品じゃない。

もっと素晴らしくてパワーが半端ないんだ!!

太郎さんになんの関係もない、おかしなことやってるってだけの『アーティスト』人間集めて何やってんだ!!

本当悲しくて泣いた。

ショックでないた。

こんな除幕式ひどいよ。

なんなんだよ。

敏子さんは言ってたよ。
『太郎さんは死んでないわ。だって、太郎さんは本当に生きてるんだもの。なんでいないっておもうの?』
って。
太郎さんは生きてる。
敏子さんも生きてる。

だからこんな除幕式嫌だった!!

見ないでほしかった。
私は一、人間として、この除幕式を認めることが出来ません。

太郎さんの素晴らしさを伝えようとしなかった人を、何にもわかっていないお祭り騒ぎをしたかっただけの人を私は許せない。

私は生で太郎さんの作品を見るのが初めてだったから、すごく期待していました。

だからこそ、すごくショックだった。

除幕され、作品も見ずに携帯やデジカメを構えた人間はダメな人間だと思いました。

もっと見ろ!!

見てから、素晴らしさをしってから撮ればいい。
何故そうなの。

すぐ写真に押さえようとする。

見ない。

その本質を見ようとしない。

上っ面ばかり。
薄っぺらい人間が増えた。
薄っぺらい中身のない人間は嫌いだ。

その場が楽しければ良いっていうのは好きじゃない。

でも、その中でなにかを感じ、何かを考えるならまだ良い。


はー楽しかったね

終わり

っていうのは何にもならない。

ちゃんと考えて本質を知らなければダメだ。

本質も知らないでなんかごちゃごちゃ言ってるのはおかしい!!

本質を知ろうとするのもいい!!
本質を感じるのも良い!!


本質を知るということの重要さをちゃんと知ってほしい。


でも、これが良いと言われる世の中になってしまったのですね。


そういうbe TAROもあるんですね。

色んな人のbe TARO。


でもあの除幕式は太郎さんの為のものじゃない。


私は誰に何て言われても良いです。

私は私の考えを持っているから。

私なりに考えて私なりに感じこれは違うと思いました。

退化した人間を、退化していく人間に、気付けと言いたい。

退化しているんだ。

進化なんてしていない

進歩なんてしていない

 はじめて名前をお見かけした女の子にかんして偉そうなことをいいますけど、この子はずいぶん立派だと私は思う。実際の除幕式がどんなものであったのかは私にはわかりませんけれど、1987年生まれの女の子が好きな芸術家を汚されたと憤っている姿に感動すらおぼえ、結局こういう気持ちだろうな、名張まちなか再生委員会に足りないのはこの子のような強くて純でストレートな気持ちだろうな、と思わざるをえませんでした。どころか、

 ──その本質を見ようとしない。

 ──上っ面ばかり。薄っぺらい人間が増えた。薄っぺらい中身のない人間は嫌いだ。

 ──本質も知らないでなんかごちゃごちゃ言ってるのはおかしい !!

 なんてのはそのまま名張まちなか再生委員会に対する批判としても有効でしょう。

 ──退化しているんだ。

 まったくそのとおり。退化している。乱歩文学館たらいう施設の構想にかんして述べるならば、名張市本町で書店を経営していたディレッタント岡村繁次郎を中心にした有志が地域住民の浄財をかき集めて乱歩生誕地碑の建立にこぎつけた当時に比較してみますと、名張市は明らかに退化しているといっていいでしょう。名張まちなか再生委員会のみなさんは松嶋初音ちゃんの爪の垢でも煎じて飲んでみるべきだと思います。それでも効果はなかろうが。

  本日のフラグメント

 ▼1969年1月

 三島由紀夫年譜

 現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也も第八十五巻『大岡昇平・三島由紀夫集』となりました。

 巻末に収録された三島由紀夫の年譜には編者名が記されていないのですが、

 ──本譜は、主に山口基氏作製の年譜を参照し、編集部において作製し、著者の加筆・訂正を得た。

 との註記があります。

 この年譜はこれまでにご紹介したどの詩人や作家のそれよりも充実していて、記載事項は半端なく多いがゆえに、乱歩の関連箇所だけを抜粋いたします。

昭和三十六年(一九六一)三十六歳
十二月、「十日の菊」(戯曲)を『文学界』に、「江戸川乱歩原作『黒蜥蜴』」(戯曲)を『婦人画報』に発表。

昭和三十七年(一九六二)三十七歳
三月、「源氏供養──近代能楽集ノ内」(戯曲)を『文芸』に発表。『三島由紀夫集』(新日本文学全集)を集英社から、『三島由紀夫戯曲全集』を新潮社から刊行。「黒蜥蜴」が吉田史子制作により上演(演出松浦竹夫)。

 ■ 7月10日(月)
女子高生のおしりと差別表現

 いや悩ましい。じつに悩ましい。ていうか恥ずかしい。というよりも勇気が出ない。

 朝っぱらから何を煩悶しているのかといいますと、きのうのつづきになりますが、きのうの私は美空ひばりの話題で脱線して岡本太郎の壁画にたどりつき、ゆくりなくも松嶋初音ちゃんというアイドルタレントのブログに逢着いたしました。で、1987年生まれの女の子が自分の意見を臆することなく主張している姿に不覚にも感動をおぼえ、支援する意味でということにして DVD の一枚も購入してやろうかと僭越不遜あるいは色欲全開なことを考えてしまったのだとお思いください。

 とりあえず You Tube を検索してみたら動画がふたつひっかかってきました。

 うちひとつはあとで調べてみたらテレビ東京系列で昨年4月に放送がはじまったらしい「し〜たく」とかいう深夜版バラエティ番組の動画なのですが、ああこりゃ面白い子だなと思いながらずーっと見ておりましたらば、

 「女子高生でーす」

 とか、

 「女子高生のおしりでーす」

 とか、そんなこといってるわけです。初音ちゃんが。黒のビキニで。

 まいった。去年まで女子高生であったか。しかし1987年の生まれというのであればそういう計算にはなります。わが日本国における本年度の標準的な高校三年生は1988年または89年生まれ、日本風にいえば昭和63年または平成元年生まれなのであって、三重県立名張高等学校における私の教え子がまさにこの世代。平成生まれの女の子と仲良くなることを生涯最後の宿願としている身としては大願成就も間近であろうかと心浮かれる状況ではあるのですが、松嶋初音ちゃんは今年の教え子とほぼ同世代、去年の教え子とまさに同い年であったという寸法です。

 まいった。ほとほとまいった。こんなにまいったのはあれはいつであったか、海野十三関係のイベントで日下三蔵さんの講演会を拝聴するため徳島県まで足を運び、日が暮れてからJR徳島駅近くにあった居酒屋でお酒を飲みながらお店のお姉さんを口説いてみたところ、

 「私まだ高校生なんです」

 と打ち明けられつつ振られて以来のことではないか。

 まいった。つくづくまいった。去年の教え子と同い年、そんなアイドルタレントの DVD 買ってむらむらなんかしていいものかどうか。うーむ。ここはじっくり考えねばならんぞ。これはなにしろ職業倫理の問題だからな。そんなことを思案しはじめますともう悩ましいというか恥ずかしいというか勇気が出ないというか(どんな勇気かというと DVD を注文する勇気なわけですが)、何をいうかッ、先生にだって性生活もあれば妄想生活もあるんだ。いやいやおれはいったい何をゆうておるのか。しっかしまいった。どうするほんとに。

 おはなし変わってこちらお玉ヶ池の千葉道場、ではなくてあいかわらずの名張市ですが、今度は2ちゃんねるの話題となります。ときどき勉強になる投稿も見られますゆえ定期的に閲覧するようにしている乱歩のスレッド「【黒蜥蜴】 江戸川乱歩 第九夜」でつい最近(ちなみになぜ頻繁に閲覧しないのかというと、そんなことしてたらうっかり投稿してしまうかもしれないからなのですが)、こんなレスが応酬されておりました。

58 :名無しのオプ:2006/07/07(金) 23:12:44 ID:RsVxe1Qt
ttp://d.hatena.ne.jp/puhipuhi/20060705#p1

>「諸事情を慮りあえて削除された一文」
っていったい何?


68 :名無しのオプ:2006/07/09(日) 09:32:26 ID:soj3tB3J
>>58
んーとそれは業界的には有名な話だが、ま、無知な魔神が知ってるわけない。
要するにヘタレな光文社が「孤島の鬼」の中の非常に危ない一文を削除したわけだ。
某団体から圧力がかかって絶版回収になるのを恐れてだなw
噂によるとその一文がちゃんと残ってるのは、今生きてる本の中では、
日下タンの関わった角川ホラー文庫だけだということだ。以上。

 これは名張市に乱歩文学館を建設しようなどというしけた野望に燃えていらっしゃるみなさんにも必要な知識であろうと判断されますので、乱歩作品における差別表現についてひとこと述べておきましょう。ていうか私はとっくの昔に述べていて、1999年11月発表の「乱歩文献打ち明け話」第二回から引いておきます。

哀しみは歌に託して
 乱歩作品が公立図書館の読書会に相応しい素材であるかどうか、これはおおきに悩ましい問題であるといわざるを得ない。エログロ表現については前回述べたとおりだが、もうひとつ、差別表現という難問もそこには存在しているのである。例証として、乱歩長篇の最高傑作「孤島の鬼」の一節を引こう。以下の引用にはいわゆる差別用語が使用され偏見が綴られているが、本稿の趣旨に照らして原文のままとすることをお断りしておく。

 私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。

 といきなり引用したのでは、何がなんだかさっぱりお判りにならぬであろう。ここで若干の解説を加えるならば、「私」というのはこの物語の語り手たる美青年であり、「親子」の「子」は「私」に対して同性愛的恋情を抱いているところの、これまた美貌の医学生、「親」はその父親である。父親は紀州の孤島に住む世にも醜い畸形であって、醜悪ゆえの癒しがたい屈辱から世界と人類とを呪いつづけたあげく、ついには五体満足な赤ちゃんを買い集めて不具者に仕立てあげ、見世物小屋に売り飛ばすという悪逆無道を働くに至る。息子である美青年に東京で医学を学ばせた背景にも、いずれ不具者製造の片腕として働かせようという深謀が潜んでいるのである。さて、東京で起きた殺人事件の謎を追って、語り手と医学生は孤島に赴いた。ここに美醜両極の父親と息子は十年ぶりで対面を果たし、かたわらで語り手はその一部始終を読者に語りつづけるのである。以下、先の文章につづいて。

不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 エログロ表現がそうであったのと同じく、不具にまつわるいわゆる差別表現も、乱歩作品にとって枝葉末節の問題ではあり得ない。乱歩は正常と異常とを克明に峻別するヨーロッパ的思考をわがものとした近代人であって、その作品に描かれたエログロや不具は、おそらくは乱歩が自身の内部に発見した異常さを著しく増幅させたものにほかならない。乱歩作品における異常とは、負の自己愛とでも呼ぶべき不可解な感情の真摯な投影なのである。

 こうした作品を公立図書館が読書会にとりあげる場合、そこには充分な配慮が必要であると思われる。むろん、公立図書館が乱歩作品を架蔵し、希望者に貸し出すことには何ら問題はない。しかし読書会のテキストに使用するのであれば、エログロ表現や差別表現を随所に含む作品を、いや、そうした表現こそが重要で内密な主題の顕れですらあるような作品を敢えて採用する理由について、図書館なりの見解を明確にしておくことが不可欠であろう。乱歩について何も知らない人たちにさあ乱歩を読みましょうと呼びかけることは、結果として彼らの感情を逆撫でしたり踏みつけにしたりすることになるかもしれないという虞を、まず念頭に叩き込んでおくことが必要であろう。

 しかるに、私の受けた印象では、名張市立図書館にそうした配慮は微塵も感じられなかった。名張市立図書館のみならず、これまでに少なからぬ予算を投じて乱歩関連事業を進めてきた名張市にもまた、乱歩作品が含むエログロ表現や差別表現に対する配慮は存在しないかのように見える。そもそもお役所なるところは、差別という言葉を聞いただけで坐り小便をちびりまくるくらいびびりまくるのが常であるというのに、名張市は乱歩作品に関してだけ、どうしてかくも平然としていられるのか。

 差別について記したついでに、ひとつだけ指摘しておこう。先に引用した「孤島の鬼」の一節のうち、「皮屋さん」といういわゆる部落産業に関する言葉が記された文章は、近年の文庫本ではきれいに削除され、しかもそれらの本には削除について一行の断りも書かれてはいない。ここに歴然と示されているのは差別表現の階層化とでも称するべき由々しい事態であって、「かたわ」は活字にできるが「皮屋」はこっそり削除してしまわねばならぬという、差別表現そのものの差別なのである。この問題は考え出すといくらでも長くなるからここまでで打ち切るが、こうした事態が人知れず進行している現状について、いったい部落解放同盟はどのような見解をおもちなのか、機会があればお聞きしたい気がする。

 あちゃー。いかに若気のいたりとはいえ、部落解放同盟に対して文句があったらかかってこいとばかりにそこはかとなく喧嘩を売ってないでもないみたいなことを書き記していた自分が恥ずかしい。そんなことはまあどうだっていいのですが、たしかにそんな時代があったわけです。部落解放同盟による気違い沙汰としかいいようのない糾弾が常態化して、出版社雑誌社新聞社放送局などのメディアが自殺行為としかいいようのない自主規制に走った。そんな時代がありました。しかしいまや、そんな時代もあったねと笑って話せる日が来ておるのであると私は思うておりました。

 いつのことであったか正確には思い出せませんが、平井隆太郎先生とおはなししていて部落解放同盟がいわゆる糾弾路線からソフト路線にシフトを変更したことを話題にしたおぼえもありますし、手近なところから証言を引くならば、部落解放同盟奈良県連合会で長く部落解放運動に身を挺され、一時は「糾弾屋」の異名で知られていたという山下力さんの『被差別部落のわが半生』(2004年11月刊の平凡社新書です)をごらんあれ。「『差別用語』の自己規制と糾弾の行き過ぎ」と題されたパートです。

 そんなふうに私たちは「糾弾」に関して大幅な軌道修正をしたが、それに関連してもうひとつ本腰を入れて考えなければいけない問題がある。

 「言葉」の問題である。差別は主に言葉で行われ、それに対する糾弾も言葉で行われる。水平社創立の「決議」の指針にのっとって、私たちは言葉や行動によって侮辱する意志を表わされたときに徹底的な糾弾をなしてきたが、長いあいだそれを続けているうちに、新聞、出版、テレビ、ラジオなど各種メディアの側で、あらかじめ糾弾されそうな言葉を自己規制するようになった。

 ある時期までは、目に余るような差別的な言葉がメディアから消えていくことを糾弾の成果として喜んでいたが、やがて自己規制が過剰になり、メディア自身が「差別用語集」といったチェックリストを作って「危ない言葉」を避けるようになったのだ。言葉というのは「数字」や「記号」などと違って、人間個人個人の感性や想像力によって解釈が少しずつ違うものであるから、それが行き過ぎると拡大解釈や歪んだ解釈があり得る。言葉はまた世情の変化によっても変わる。部落差別が当たり前のようにまかり通っていた時代と今では違って当然である。言葉は生きものなのだ。

 改めて言うまでもないことだが、言論表現の自由を標榜している民主主義の世の中では、言葉の規制は少なければ少ないほどいい。自由に言葉が行き交ってこそ、活き活きした民主主義社会なのである。そういう意味で昨今の言葉の規制は、いくら何でも行き過ぎではないかと思う。問題はわれわれの側とメディアの側の両方にある。

 そもそも絶対的に悪い言葉などない。侮辱したり差別する意志によって発せられる言葉が悪いのである。だから同じ言葉でもケースバイケースで、いい言葉にも悪い言葉にもなり得る。

 例えば「エタ」という言葉を考えてみても、誰かが私に直接「おい、このエタ!」と罵ったとすれば、明らかに差別発言である。直接でなくても、「あいつはエタやで。気ぃつけえや」というのも差別発言だ。しかし作家が自分の作品の中で被差別部落のことを描写するときに同じセリフを使っても、差別を増幅するのでない限り、全く問題はない。もし「エタ」という言葉が悪いからと別の言葉に書き換えたとすれば、「おい、このエタ!」と罵られた部落民のショックや痛みがきちんと伝わらないから、むしろ書き換えないほうがいいのである。言葉を発する前に、差別的な意志があるかどうかがポイントなのだ。その原則をしっかりと押さえないと、話はややこしくなるばかりである。

 もともと言葉はさまざまな解釈があり得るゆえに、ややこしいのである。白黒がはっきりしているときはいいが、白と黒の間に灰色のグラデーションゾーンがあって、どこから良くてどこからダメかという微妙なケースが多々ある。そういう難しいケースのときは、立場の違う人同士がお互いに徹底的に話し合うことが肝要である。とことん話し合えば、その言葉を発した側に差別的な意志があったかどうか、自ずからわかってくるはずだ。

 差別的な意志がなかった場合は、当然ながら「糾弾」という手法はとらないし、差別的意志があっても、言葉を発した主体が普通の個人であれば、やはり糾弾はしない。お互い個人として差別を克服し合う方向で話し合う。

 これが私の考え方である。そういう眼で現状を見ると、片方は踏み込み過ぎであり、片方は自主規制のし過ぎである。その結果、自由に使える言葉がどんどん減っており、お互いに自分の首を締めるようなことになっているのではないかと危惧しているのである。

 東北の山形で国体をやったときに「部落」という言葉は差別的だからといってそれまで「部落公民館」と呼ばれていた施設を「自治公民館」に言い換えたことがあったが、これなどは明らかに行き過ぎだ。東北では現在でも差別意識と全く関係なく「部落」という言葉が使われているのだから、そのまま使っていいのだ。

 もし西日本の人たちが異議を申し立てたら、そのことを説明して納得してもらえばいいのである。言葉も含めて、これからは地方独自の文化は最大限に尊重されなければならない。

 運動体にしてもメディアにしても、言葉を自由自在に使ってこそ、花も実もある活動や表現が出来るのであって、今のようにお互いに不自由にしているのは、どちらにとっても自殺行為のようなものだと憂慮している。

 断るまでもないが、以上のようなことと個人的な言葉の好き嫌いというのは別次元の話であって、例えば私は「エタ(穢多)」という言葉は好きではないが、職業を表わす「カワタ(皮多)」という言葉はそんなに嫌いではない。いずれにしてもこれからは個人個人の言葉を大切にしなければいけないと思う。

 ついつい長引きました。結局「『差別用語』の自己規制と糾弾の行き過ぎ」の全文を引用してしまう結果になりました。むろん著者の所見をそのままお伝えすることを意図した結果ではあるのですが、新書判で三ページ半にもおよぶ引用となるとさすがに気が引けないでもありません。お詫びのしるしというわけではなけれども、平凡社オフィシャルサイトに掲載された『被差別部落のわが半生』のページへのリンクを設定してPRに努めておきたいと思います。差別という言葉を聞くだけで思わず坐り小便をちびりまくってしまうという名張市役所のみなさん、それからご町内感覚となあなあ体質に凝りかたまって「立場の違う人同士がお互いに徹底的に話し合うこと」ができない名張まちなか再生委員会のみなさんも、この本をお読みになってどうぞお勉強なさいませ。

 勝手ながらつづきはあしたといたします。なれど、「孤島の鬼」に出てくるこの一文、

 ──私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 これを削除する必要はまったくないというのが私の考えなのであり、それをひとこと言明したうえであすにつづくといたします。しっかし松嶋初音ちゃんの DVD はどうしようかほんとに。

  本日のフラグメント

 ▼1969年2月

 坂口安吾年譜 渡辺彰

 いまや現代日本文学大系全九十七巻のわずか一万九千円也のもとを取るために血まなこになって乱歩に関係のあるところを探しまわっているにすぎないことは誰の眼にも明らかであろうと推測されるのですけれど、そしていくらなんでももうそろそろおしまいにしなければなとも思われる次第なのですが、臆することなく第七十七巻の『太宰治・坂口安吾集』です。

 昨日同様乱歩の関連箇所だけを抜粋いたします。しかしよく考えてみたら乱歩の名前などどこにも出てこないのですけれど、まあいいか。いいとしておく。

昭和二十二年(一九四七)四十一歳
九月、「不連続殺人事件」を『日本小説』に連載(二十三年八月完結)。

昭和二十三年(一九四八)四十二歳
十二月、『不連続殺人事件』をイヴニングスター社より、『ジロリの女』を秋田書店より刊行。この年、「不連続殺人事件」で探偵作家クラブ賞を受く。