2006年6月下旬
21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日
 ■ 6月21日(水)
古本初心者の悲歎

 きのうの朝は時間がなくなって、

 ──あッ。

 と記したところでおしまいになりました。何があッ、だったのか、真相は本日明らかになることでしょう。

 6月17日、大阪駅周辺の古本屋さんで資料集めとしゃれこんだおはなしのつづきとなります。阪急かっぱ横町をざーっと流したあと、私は梅田古書倶楽部をめざしました。ビルの二階に古書店が二軒か三軒か集まっていて、なかに探偵小説を専門的に手がけている店があります。ところが、雨のなか傘をさして歩きはじめてみたものの、いつまでたってもたどりつけません。なぜか。梅田古書倶楽部がどこにあるのか、すっかりわからなくなっていたからです。むろん行ったことはある。古本を買ったこともある。しかし忘れはててしまっていた。どこにあるんだかさっぱりわからん。ばかなのかおれは。しかたありません。とぼとぼと引き返し、新刊書店二軒をまわって畸人郷の例会までの時間をすごしました。

 畸人郷例会ではもちろん、その道の先達に梅田古書倶楽部の場所を教えていただきました。おかげで今度は迷わずにたどりつけることでしょう。先達からは梅田古書倶楽部で何を買うのかとのご下問がありましたので、たとえば伊藤秀雄さんの『明治の探偵小説』とか、と私は具体的な書名をあげ、梅田古書倶楽部に行けばあるだろうか、とお訊きしてみました。何回か通っていればいずれ見つかる、とのお答えでした。古書店というのは頻繁に足を運ばねばならぬところらしいな、と古本初心者は心のなかでメモしました。しかし名張から通うのかよ、とも思われましたので、結局は翌18日の日曜、明治文学全集とおなじく──

 この「日本の古本屋」を通じて『明治の探偵小説』を注文しました。発注先は一関にある古本屋さんです。19日の月曜には在庫を確認したとのメールが入り、昨20日には19日に発送したという通知のメールも届きました。もうすぐ私の所有に帰することになる『明治の探偵小説』は、いまやえっちらおっちら岩手県から三重県まで長い旅をつづけている最中ということになります。

 さて19日の月曜日、私は名張市内にある行きつけの新刊書店に足を運び、大阪の新刊書店に見あたらなかった『世界ミステリ作家事典』のハードボイルド・警察小説・サスペンス篇を注文しました。掲示板「人外境だより」で大江十二階さんから教えていただいた『エロティックス』も探してみたのですが見つからず、書店員のお姉さんに在庫状況を調べてもらうと版元の新潮社でもすでに品切れ。べつのルートで探してもらうことにして、店頭にあった野崎六助さんの文庫本『北米探偵小説論』、これは日本推理作家協会賞受賞作全集の最新巻なのですが、しばらく見ないあいだにカバーの印象がすっかり変わってしまったな、などと思いながら購入して帰宅しました。

 それを「本日のアップデート」でとりあげたのが昨20日の朝のこと。乱歩と海外雄飛との関連が説かれたあたりを引用し、そのあと巻末にあった日本推理作家協会賞受賞作全集の既刊案内を何の気なしに眺めたときのことです。おや、と私は思いました。案内のトップにあったのは山村正夫『わが懐旧的探偵作家論』、それから『乱れからくり』『事件』『課外授業』といったぐあいに既刊作品がずらずらならんでいるのですが、どれも文庫本としては見おぼえのないものばかりです。そういえば双葉文庫のこの全集、名張の本屋さんではついぞ見かけたことがなかったかな、と思い返し、しかし今回の配本分である『龍は眠る』と『時計館の殺人』と『北米探偵小説論』は三冊とも店頭にならんでおりましたので、なんだかおかしな話だな、とかいぶかしみつつページをくってみたところ、なんとそこには、

 ──56 明治の探偵小説 伊藤秀雄

 たしかにそう記されているではありませんか。

 ──あッ。

 私は小さく声をあげました。眼を疑いました。頭に血がのぼりました。そうか。『明治の探偵小説』は文庫本になっていたのか。いや知らなんだ。全然知らなんだ。しかしタッチの差で古本を注文してしまったあとではないか。手遅れではないか。いまさら断るのも古本屋さんに悪いからそのまま購入することにして、それにしてもまいったな。一冊で五千円だか六千円だかしていたもの。それでもまああれか。文庫本はしょせん文庫本か。文庫本にしてしまっては収録の書影や本文の組みがおおきに劣化してしまい、『明治の探偵小説』という本のよさがごっそり失われてしまうことであろう。そうさそうさ。文庫本はしょせん文庫本さ。手にするべきはやはり初刊本であろうな。ハードカバーであろうな。わはははは。『明治の探偵小説』を文庫本で読む人間などというのはものの値打ちのわからぬ哀れで貧しい小市民ばかりであろう。わはははは。下層社会の澱のなかで文庫本買って喜んでろ貧乏人ども。わはははは。

 そういった深遠なる精神のドラマがきのうの朝、私という人間の内部で静かにしかしこのうえないほど熱く展開されていたという事実を、読者諸兄姉はおそらくご存じないことでしょう。

  本日のアップデート

 ▼6月

 北米探偵小説論 野崎六助

 あッ。

 というところで終わってしまったきのうのつづきであるとお思いください。

 『北米探偵小説論』の初刊は1991年9月のことで、98年10月には増補決定版も出ているそうなのですが、今回の文庫本は初刊本の前半を主体にした縮小版であるとのことです。

 第五章「合州国における戦争」には乱歩と正史、あるいは「近代文学」同人らのそれぞれの戦中と戦後にふれられた箇所もあります。たとえば乱歩、「自己の資質に対する蟻地獄にも似た焦燥と、日本探偵小説のあるべき姿に対する抱負と、二つのものが常に葛藤していたようだ」とされる乱歩は、戦争による「弾圧」によってどう変わったのか。

 乱歩の転身は、戦争が始まった以上、国家の命運に賭けて勝利をめざさねばならぬ、との曲折である。庶民としての協力である。翼賛壮年団の指導者たる責任感に燃え、几帳面に計画的な活動を率先し、そればかりでなく自宅の庭を国策農園として「開墾」する、という生活人のたくましい一面をも自ら発掘する。オルガナイザーの健康さに充ちあふれているような歳月だったのだろう。ごく平均的な大衆レベルの転向と思えるが、大切な点は、前述の葛藤がこの転身によって見事に解決されてしまったということだ。

 乱歩の決意は「前非を悔いて再出発をする」姿勢にあった。これによって、《人みなの夢せぬ夢を夢見つつ》閉めきった土蔵にろうそくをともして創作するという伝説的な変格探偵小説の妄想を清算し、もって葛藤する二点の一つの消滅において、葛藤そのものも一挙に清算した。解決不能に思えた神経症的な循環は一掃され、創作のゆきづまりも一天にわかに晴れ渡るように打開された。そればかりか、そもそも創作欲そのものすらも、きれいに清算されてしまったのではないかと推測してみたくなる。要するに、我慢のない子のように筆を投げ捨てて放浪の旅に出たことの代用を、翼賛の奉仕は果したのではないだろうか。当然このほうが、放浪者になるよりも時局と臣民の道にかなっているようである。

 このあと「あたかも獄中コミュニスト(あるいは獄外偽装転向者)の階級憎悪が未曾有の弾圧下にとぎすまされていたことにも似て、本格謎解き探偵小説の理想の火を自らかきたてて燃え上がるようになるのである」という戦後の状況も描かれるのですが、どうぞお買い求めのうえお読みください。乱歩や正史のみならず、日本の探偵小説の戦前と戦中と戦後とを考えるうえでまことに示唆に富んだ一冊となっております。


 ■ 6月22日(木)
古本初心者の転落

 そんなこんなできのうのこと、大分の古本屋さんに注文してあった明治文学全集第七巻『明治飜訳文学集』が到着しました。いまだ木村毅の「日本飜訳史概観」と「解題」、それから饗庭篁村訳の「西洋怪談 黒猫」に眼を通し、巻末に収められた「明治飜訳文学年表」をさーっと眺めただけなのですが、いわゆる資料性という点ではずいぶん有益な一巻であろうと見受けられます。

 じつのところ私は、というかこれまでにもたびたび打ち明けてきましたとおり私は、自分が古本を買うような人間になろうとは夢にも思っておりませんでした。古書マニアと呼ばれる人たちの生態を見るにつけ知るにつけ、古書に縁のない明け暮れを送ってきたのは自分の人生における数少ない幸福のひとつに数えられるべきことだろうと、内心ほくそ笑んでさえいたほどです。

 ざっと書棚を眺めても、新刊で買えないからしかたなく古書を求めたというのは小学館から出た萩原朔太郎全集の『詩の原理』、それからこれは薔薇十字社ではなくて出帆社のほうの『大坪砂男全集』全二巻。これくらいなものでしょうか。あと桃源社の『加田伶太郎全集』全一巻も所蔵しているのですが、これはもうかなり以前、月報に乱歩の文章が収録されているからと悪の結社畸人郷の先達のおひとりから頂戴したものです。してみればその当時から、悪の結社の呪いは私の身辺に及んでいたということか。

 それがここへ来て、とうに知命もすぎたいまになってこのような展開が待っていようとは、まったく夢にも思っておりませんでした。どこの肺病やみが手にしたかもしれぬ『明治飜訳文学集』に鼻をつっこむようにして、細かい活字で組まれた「明治飜訳文学年表」を眼でたどってゆくなどと、自分がそんなことをする人間になると私は思うておらなんだ。これははっきりいって転落である。人としての敗北である。人生暮れ方の下り坂、えらい勢いで転げ落ちつつあるなというのが実感である。資料性という観点から本を眺めるようになるというのは私にとって価値観の劇的な転換にほかならず、そうした転換を経験するだけでも大変なことであるというのに、いまや転換後の眼には自分の蔵書の不備がおおいがたく映じてきているのですから私はいよいよ困惑してしまう。

 たとえばちくま文庫の『芥川龍之介全集』全八巻。『探偵小説四十年』のデータをとっていると芥川龍之介の「妖婆」という作品が出てきて、といっても乱歩が直接言及しているわけではなく、加藤武雄の評論にこの作品の名が見えると乱歩が述べているだけの話なのですが、それでも出てきたのだからしかたありません。年表に記載しておくことにして、初出を調べるべくちくま文庫の芥川全集を手にとりました。「妖婆」は第三巻に収録されていたのですが、作品の末尾にはただ、

 ──(大正八年九月二十二日)

 という年月日が記されているだけで、掲載誌に関するデータは記載されておりません。いやそもそも上記の日付がいったい何を示しているのかさえ、この一冊の本のどこにも示されてはいないのである。

 ならば最終巻に目録年譜のたぐいがまとめられているのかと第八巻を見てみれば、あいにくなことにそんなものはどこにも見あたらぬ。インターネットを検索すれば「中央公論」の大正8年9月号と10月号に掲載されたらしいというデータを知ることができるのであるが、だとすると大正8年9月22日というのが何の日付なんだか、いよいよわからなくなってくるではないか。筑摩書房というのはなんと杜撰な出版社か、と私は思いました。初出くらい書いとけよ。初出も確認できんようないい加減な全集を出してんじゃねーよ。

 巻末の註記によればこの全集はそれ以前に筑摩書房から出ていた芥川全集を適当に文庫化したものらしく(適当にもほどがありますが)、書誌的データの不足欠落はそのあたりに原因が求められるべきことなのでしょうけれど、これまで気にもとめなかったそうした点がいまの私には決定的な不備として映じてくるのである。私はいまや本を読む人間が本来有しているはずの至福から猛烈な勢いで遠ざかりつつあるのではないか。

 全集を文庫化したといえば、創元推理文庫の『ポオ小説全集』全四巻と『ポオ 詩と詩論』が想起されます。というところであすにつづきますが、ここで筑摩書房の名誉のためにひとこと弁じておきますと、ちくま文庫の個人全集はすべて芥川全集のごとき欠点をそなえているというわけではありません。むしろ芥川全集が例外的に杜撰であるというべきかもしれず、たとえば『夢野久作全集』全十一巻には西原和海さんによる丹念な解題が附されておりますこと、乱歩ファンでもよくご存じのところでしょう。

  本日のアップデート

 ▼6月

 江戸川乱歩『人間椅子』 久世光彦

 「小説現代」の連載を一巻にまとめた『書林逍遙』が出ました。著者が偏愛してきた書物の数々をたどりなおす一冊。著者の急逝は今年の3月2日、連載は今年の3月号までですから、唐突な死が訪れなければ連載はまだまだつづいていたことでしょう。

 とりあげられているのは二十四冊。すべて日本人作家の小説で(厳密にいえば一冊だけ訳詩集が含まれていますが)、最初が太宰、二番手が乱歩。現代大衆文学全集の『江戸川乱歩集』のことなら著者は飽くことなくといっていいほどあちらこちらに記していますが、読書体験をたどりなおすためにはその出発点に立ち戻る必要があったということなのでしょうか。

 結びを引いておきましょう。

 気紛れに幼児の目に触れるところに、絵や本を置いてはならない。たとえば食卓のある部屋の壁に、モネの〈睡蓮〉があるか、ムンクの〈叫び〉が飾ってあるかでは、その子の育ちようが違う。無意識のうちに、それらの絵は子供たちに何かを囁きかけ、やがてその声は、彼らの頭の中いっぱいに響き渡るようになるかもしれないのだ。──本はもっと恐ろしい。昭和二年発行の乱歩の一冊の本が、私の一生を決めたと言ってもいい。けれど私は、そのことが何よりも幸福だったと、いまつくづく思っているのだが──。

 ■ 6月23日(金)
古本初心者の休息

 創元推理文庫の『ポオ小説全集』全四巻と『ポオ 詩と詩論』のおはなしをするつもりでいたのですけれど、勝手ながらあすに延期いたします。

 平井隆太郎先生の『うつし世の乱歩──父・江戸川乱歩の憶い出』が河出書房新社から刊行されました。内容その他につきましては「番犬情報」をどうぞ。

 ではまたあした。

  本日のフラグメント

 ▼11月

 二様の性格 平井隆

 平井隆太郎先生の『うつし世の乱歩』には乱歩夫人だった平井隆の随筆三点も収録されています。

 そのうちもっとも古いのが新潮社の新作探偵小説全集附録雑誌「探偵クラブ」に収録されたこの一篇です。冒頭の段落をどうぞ。

 とにかく、皆様も御存じのように、一風変った人間です。けれども、もう十四年も連れ添ってみますれば、それが、私には不思議でも不満でもなく、あたりまえのことにしか思われませぬ。ですから、開き直って乱歩を語るほど、私は距離を持っていないのです。

 つづきは『うつし世の乱歩』をお買い求めのうえお読みください。


 ■ 6月24日(土)
古本初心者の半狂乱

 まずお知らせです。ウェブサイト「倉田わたるのミクロコスモス」の URL が変更されました。どんなサイトか、とお思いの乱歩ファンの方もこのコンテンツをごらんになりさえすれば、あああそこかと得心されることでしょう。

 まずはこちら。

 つづいてこちら。

 乱歩の「類別トリック集成」と「怪談入門」で言及されている全作品を読破し、紹介と短評を掲載した怒濤のコンテンツです。よく考えてみますと私もいずれ「類別トリック集成」と「怪談入門」とに手を伸ばし、言及作品すべての初出その他を調べてデータを『江戸川乱歩年譜集成』に落としてゆくいっぽう、全作品を読破して乱歩の読書経験をあたうかぎり追体験しなければなりません。いまはまだ『探偵小説四十年』のごく初期のほう、大正から昭和への移行期あたりでうろうろしている状態で、先のことを考えると半狂乱になってしまいますからできるだけ考えないようにはしているのですが、こうしたコンテンツが存在しているのは心強いことです。

 乱歩の読書体験を追体験するといえば、きのうは古本屋さんからの冊子小包がみっつ届きました。いずれも18日の日曜に発注したもので、まず手にとったのが伊藤秀雄さんの『明治の探偵小説』。すでに文庫本が出ていることを発注翌日の19日になって知った本なのですが、現物を見てみるとやはりこの本はハードカバーでもっているべきだなと納得されました。資料性の点でもきわめて有益で、手許の資料やインターネットで調べてもなーんにもわからなかった菊池幽芳の「秘中の秘」は明治35年11月3日から翌年3月28日まで「大阪毎日新聞」に連載された、なんてことをたちどころに知ることができます。ありがたやありがたや。

 明治文学全集の『明治少年文学集』も届きました。ぱらぱらとページをくってみました。愕然としました。たとえば森田思軒の「十五少年」、すなわちヴェルヌの「二年間の休暇」、一般的な邦訳タイトルでいえば「十五少年漂流記」の冒頭をごらんあれ。可能なかぎり旧字体を使用して入力いたします。

第一回
一千八百六十年三月九日の夜、彌天の黒雲は低く下れて海を壓し、闇々蒙々咫尺の外を辨ずべからざる中にありて、斷帆怒濤を掠めつゝ東方に飛奔し去る一隻の小船あり。時々閃然として横過する電光のために其の形を照し出ださる。

船は容積百噸に滿たざる、ヨツトの一種にして、英國及び米國にて、スクーナーと稱する兩檣的なり。

船の名はスロウ號と呼ぶも、曾て其の名を記したる船尾の横板は、物に觸れてか、浪は〔「浪に」の誤植かもしれません──引用者註〕洗はれてか、とく剥落し去りて、復た其の名を尋ねむに由無し。

夜は已に十一時を過ぎぬ。此の経度にありて此ころは、夜甚だ長からざれば、五時に向ふ比ほひには、早やうす白き暁の色を曉の色を見ることを得べし。然れども天明けなば、スロウ號は能く現時の危難を免かるべき歟、風濤は能く静止すべき歟。

船の上には三個の少年、一個は十五歳、他の二個は、各十四歳なるが、十三歳なる黒人の子と共に、各必死の力を戮せて、舵輪に取りつきをり。

 明治の少年たちはこんな文章をすらすらと読んでいたのでしょうか。当節では老年たちにだって読むことはかなわぬのではないか。こりゃまいった。こそこそ逃げるようにして巻頭に立ち戻り、巌谷小波「當世少年氣質」の「(一)鷄〔正しくはつくりが隹──引用者註〕群の一鶴 弱を助け強を挫く。清原秀麿義侠の事。」を読んでみましたところ、そこはかとない雰囲気としてはというか精神性においてはさながら少年版「さぶ」のおもむき(「さぶ」ったって山本周五郎ではありません。いまはなき雑誌「さぶ」のことです)。

 少なからぬ興味はおぼえましたものの、このような明治時代の少年文学に描かれたあらまほしき少年像というか少年なるものに押しつけられた精神性というか、そういったものはなんだかちょっといやだなとも感じられました。そうさ私はいやである。私はもっと軟弱な少年に興味も共感もおぼえてしまうのである。だいたいがこんなもの読んで育った人間がどんな世の中をつくったのかというとあんな世の中だったのではないか。そこへ行くと乱歩はえらい。何を読んでもちゃんと軟弱なままに一貫したのだからえらいものだ。さすがである。

 なんともわけのわからない感心をしてしまった次第なのですが、とにかくこうなると古書販売サイト「日本の古本屋」に在庫がなかった明治文学全集の『黒岩涙香集』もやはり押さえておくべきではないか、きっと押さえておくべきであろう、かならず押さえておかねばならぬはずだ、えーい、押さえておかずにおくべきかと手もなく半狂乱になり、きのうインターネットの血まなこ検索で見つけた古本屋さんに注文のメールをほいほい出した私なのですが、創元推理文庫の『ポオ小説全集』全四巻と『ポオ 詩と詩論』のおはなしはまたまた勝手ながらあしたのことといたします。

  本日のフラグメント

 ▼11月

 夫を語る 平井隆子

 宣伝の意味もこめまして、平井隆太郎先生の『うつし世の乱歩』からもうひとつ引いておきましょう。なにしろこの本、フラグメントの宝庫です。

 きのうにつづいて乱歩夫人による一篇。「別冊宝石」の乱歩還暦記念号に掲載されたもので、戦争をはさんだ乱歩の変貌が肉親の視点から語られているのが興味深いところです。

 主人の性格のうちで、戦前から戦後にかけて変ったものがあります。戦前はたいへん贅沢な性分でしたが、戦後はそれが派手な性分に変りました。

 この引用だけでは「贅沢」と「派手」のちがいがわかりにくいのですが、前者は稼いだお金を自分ひとりのために浪費することであり、後者は家の子郎党ひきつれて浪費することである、といった差があるのだとお思いください。人生のなかば、いわゆるミッドライフをターニングポイントとして、乱歩は内向タイプから外向タイプに転じたというべきでしょうか。

 きのうお願い申しあげておきましたので、心ある乱歩ファンの方にはさっそく『うつし世の乱歩』をご購入いただいたものと拝察している次第なのですが、まだだとおっしゃる方は飛ぶようにして本屋さんへどうぞ。


 ■ 6月25日(日)
古本初心者の逆上

 たいした話題ではないのですが、いよいよ創元推理文庫の『ポオ小説全集』全四巻と『ポオ 詩と詩論』のおはなしです。私はこの五冊、東京創元社から出た『ポオ全集』全三巻を文庫化したものだとばかり思いこんでおりました。しかし厳密にいうとそうではないということは、あれはちょうど一年ほど前のことになりますか、東京で『子不語の夢』日本推理作家協会賞評論その他の部門落選記念大宴会が開かれたころのことだと記憶しますが、掲示板「人外境だより」で藤原編集室の藤原義也さんからご教示をたまわったところであり、その詳細は──

 この藤原さんのサイトの「エドガー・アラン・ポオ 「ブラックウッド風の記事を書く作法」」でお読みいただければと思います。

 それで私は創元推理文庫からもれている「ブラックウッド風の記事を書く作法」と「ある苦境」はいずれ『ポオ全集』で読んでみなければならんなとは思っていたのですが、今年の4月になって八木敏雄さんの訳による『黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇』が岩波文庫に入り、そこに上記二作品が収録されておりましたのでさっそく眼を通してみました、みたいなことは4月21日付伝言に記したとおりで、これによって『ポオ全集』をわざわざひもとく手間は省かれたわけです。

 そんなある日、というのはどんなある日なのかというと『江戸川乱歩年譜集成』のために『探偵小説四十年』のメモをとっていたある日のことなのですが、ありゃりゃ、と思うことが出来しました。こんなことはしょっちゅうですからいまさら驚きもしませんが、ポーのことでありゃりゃと思わされることが出てきたわけです。

 いつかも記したことですが、私は『江戸川乱歩年譜集成』を文化7年、西暦でいえば1810年からスタートさせようと目論んでおりました。乱歩の祖父、平井杢右衛門陳就が生まれた年です。そこへポーが割りこんできました。ポーの生年は1809年、つまりポーは乱歩のおじいさんより一年早く生まれていた。私はありゃりゃと思いましたが、それもまあ面白かろうと、乱歩の年譜がポーの誕生から始まり、そのあとに祖父の誕生がひきつづくというのもおつりきといえばおつりき、これこそ人智では量りがたい布置というべきかもしれぬと考え、だとしたらポーにかんする記述にはいささか筆を割かねばならぬであろう、となればポーの年譜を参照することが欠かせまい。そこで『ポオ小説全集』および『ポオ 詩と詩論』を手にとってみましたところ、ポーの年譜なんてどこにも収録されておらぬではないか。これまでの私にはポーの年譜なんてまるで必要ではなかったのですが、私は昔の私ならず、年譜がないとはどうしたことか。

 『ポオ全集』には当然のことながらポーの年譜が収録されていて、それは宮永孝さんの労作『ポーと日本 その受容の歴史』で確認することができます。それにしても日本推理作家協会賞評論その他の部門にこの大著をノミネートしておきながら授賞しなかったのは日本推理作家協会の少なからぬ失態のひとつに数えられてしかるべきであろうと判断される次第なのですが、それはそれとして『ポオ全集』そのものにあたらないことには年譜を参照することはかなわぬのか、と私は唇を噛みしめました。

 それはちょうど、インターネットを検索して『宇野浩二全集』全十二巻を購入してからいくらも日がたっていないころのことだったでしょうか。とにかく私は試みに、軽い気持ちで、深い考えなどまったくなく、『ポオ全集』をインターネットで検索してみました。そして──

 このサイトにたどりつき、サイト内で『ポオ全集』を検索してみたところ東京創元社版や春秋社版が揃いや端本でぞろぞろとひっかかってきます。ざーっと眺めてへーえと思い、でも買う気なんてないんだもんね、ポーの年譜なんてそこらにある『ポオ全集』からコピーしてくればいいんだもんね、とブラウザをべつの画面に切り替えようとしたそのときのことです。どこか高いところからなんだか不興げな声が聞こえてきました。

 「なんだ。ポーの全集ももってないようなやつがおれの年譜をつくっているのか」

 幻覚幻聴のたぐいとは思われぬ声でしたが、むろん周囲には誰もいません。いや、周囲に誰かがいるかどうかを確認する余裕すらなく、私はなぜか逆上さえしてパソコンに向き直り、「日本の古本屋」で『ポオ全集』全三巻を購入するべく血まなこになって検討をはじめました。「月報欠」だの「イタミ」だのという註記があるものは避けたいという心理が働き、なかなかこれと決まりません。やがて「美」と書かれたセットが見つかりましたのでやれうれしや、これで苦役から解放される、これにしようと即決定。「日本の古本屋」を利用するには会員登録が必要でしたからそれも済ませ、めでたく発注しましたのがどんなえにしか遠く札幌にある古本屋さんで、気になるお値段は価格が九千円の送料が千円、あわせてちょうど一万円。おかげでいまや私の書棚には『ポオ全集』全三巻、造本や体裁は『日影丈吉全集』みたいな感じのやつですが、なにしろ「美」ですから新刊で購入したかと見まがうものがどーんと鎮座している次第です。

 ここでちなみに附記しておきますと、『江戸川乱歩年譜集成』の開幕は乱歩のおじいさんが生まれた年からポーが生まれた年に一年くりあがり、これでいいだろうと安心していたらばそのあとになってホーソンが出てくるわデュマが出てくるわユゴーが出てくるわ、さらには18世紀にさかのぼってスタンダールが出てきたゲーテが出てきたもう無茶苦茶。いったいどうなることかしら。

  本日のフラグメント

 ▼9月

 夫の魔力 平井隆

 平井隆太郎先生の『うつし世の乱歩』から、こうなったら乱歩夫人に三連投してもらうことにいたしましょう。ことほどさようにどのページを開いてもフラグメントの花盛り。『江戸川乱歩年譜集成』編纂者にとってじつに重宝な本だというしかありません。

 本日は乱歩の歿後、全集の月報につづられた回想です。

 あれはたしか、「盲獣」を執筆ちゅうのころだったと思いますが、例によって「書けない、書けない」とさんざんこぼしぬいたあげく、「ああ、おれは盲になってしまいたい」と申して、しまいには大工を呼び、部屋の窓をぜんぶ壁でふさいで、窓のない部屋にしてしまったことがあります。そして五燭か六燭のうす暗い電灯をともして、そのなかにとじこもって、作品と取り組んでいたのです。

 鬼気迫るというか悽愴というか、作家の身もだえがじかに伝わってくるはずのエピソードではあるのですが、そうした局面においてさえどこかしらユーモアや稚気を感じさせてしまうのが乱歩という作家でしょう。わざわざ大工さんを呼んで部屋をリフォームしたという子供っぽい徹底ぶりも、なるほど乱歩ならそうするかも、みたいな感じがあって妙に腑に落ちるからふしぎなものです。

 さるにても、部屋をまっくらにして執筆したというのは作品が「盲獣」であるだけに盲人の世界、触覚芸術の世界に少しでもにじり寄ろうとする意志のあらわれであったと見ることも可能でしょう。「盲獣」はいわゆる通俗長篇だけど、やっぱ気合い入れて書いてたんだな、とお思いのあなたは結構正しいと思います。

 さて、三日間にわたって平井隆太郎先生の『うつし世の乱歩──父・江戸川乱歩の憶い出』を話題にしてまいりましたが、まーだ購入してないとおっしゃるあなた、あなたは結構まちがっています。ていうか、めいっぱい道を踏みはずしている。悔い改めて本屋さんへ行きゃれ。


 ■ 6月26日(月)
古本初心者の放心

 しかしこんなことばかりもしておられぬではないか、とは思います。ポーの全集はわれしらず逆上して夢ともうつつともつかぬ状態で購入してしまいましたが、この調子で谷崎潤一郎だの佐藤春夫だのドストエフスキーだの、乱歩が愛読傾倒した作家の全集を揃えてゆくことなどとてもできぬ相談。もっとも、悪の結社とその名も高いミステリファンサークル畸人郷の先達のおはなしでは、要するにさっぱり売れないからということなのかこのところ各種全集の古書価が暴落しているとのことで、

 「生前に出た谷崎全集が揃いで三千円ですよ、三千円」

 そう聞かされて思わず身を乗り出してしまう浅はかな私ではあったのですが、生前に出たというのであれば「金色の死」あたりは収録されておらぬのであろう、だめだ、そんなものは駄目だ、そんなもの谷崎全集とは呼べぬのだとみずからにいいきかせ、たとえどこか高いところから、

 「なんだ。谷崎潤一郎全集ももってないようなやつがおれの年譜をつくっているのか」

 みたいな声が聞こえてきてもいっさい耳はかさぬという決意をかためました。たったかたったかいい気になって全集を買い揃えたりなんかした日には、まずまちがいなく遠からぬ将来に二度目の自己破産。京の着倒れ、大阪の食い倒れ、名張の読み倒れ、などと口さがない世間にあれをごらんと嗤われてしまうことでしょう。そんなことになったら恥ずかしくって外も歩けぬ。ジャスコ新名張店へも気軽に行けなくなってしまうではないか。

 などと悩んでいるところへ一通のメールが届いて、23日にインターネット検索で見つけて発注した東京都内の古本屋さんから、ご注文いただいた明治文学全集『黒岩涙香集』は売り切れです、入荷の予定もありません、との通知がありました。それならばネット上の目録に売り切れと書いておけばいいではないかとは思うのですが、在庫のないものも目録に載せておく、あるいは在庫があってもやすやすとは売らない、みたいなことが古本屋さんの世界では普通に行われているのでしょうか。古本初心者にはどうもよくわからぬ次第です。

 しかしどうやら私は逆上しやすいタイプの初心者であるらしく、えーい、それならこれはどうだ、あるのかないのかどうなんだ、とこちらは愛知県にある古本屋さんなのですが、ついさっき注文をしてしまいました。ものはといいますと筑摩書房の現代日本文学大系全九十七巻、註記によれば「函入中は美本」、お値段はなんと一万九千円。ほんとかよ、ほんとに一万九千円かよ、一冊二百円以下なのかよ、とか疑問に思いながらもかすかに顫える指で注文のメールを送信し、またしても夢ともうつつともつかぬ放心状態におちいっておりましたところ、その古本屋さんから折り返しメールが届いて「在庫の確認が出来次第、保存状態及びお見積と送金方法を、3日以内にご連絡いたします」とのことですから、私はたしかに発注したのでしょう。あえて最悪の娼婦を指名したときのような気分になってきたところなのですが、ご報告はまたいずれ。

 ご報告といえば名無しさん名無しさん、ごらんいただいておりますでしょうか。名無しさんというのは──

名無し   2006年 6月13日(火) 9時10分  [220.215.60.60]

中さんの行政批評は的を得て非常に興味があったのですが最近辛口批評はありませんね。体制に迎合したのか、はたまたヨイショナデナデか。とにかく今後も期待してます。うわっつら、大衆受けねらい行政に立ち向かって頑張ってください

 掲示板「人外境だより」にこのご投稿をいただいた名無しさんのことなのですが、残念なことに「ヨイショナデナデ」の懐柔籠絡路線はいまだ実行されるにいたらず、いつになったら飲ませる抱かせる握らせるの至福が経験できるのかといらだたしさをおぼえていた私は、秋山豊さんの近刊『漱石という生き方』で賄賂にかんする漱石の意見なるものを知り、思わず笑ってしまいました。どういうことかというと、前後の脈絡は無視して関係箇所だけを引きますと、大正三年に発刊された文芸雑誌「反響」の創刊号に漱石の談話「漱石山房座談」が掲載されていて──

その冒頭に、「コムミツシヨン」(賄賂)についての漱石の意見が開陳されている。賄賂を認めてしまえ、どちらにしてもなくならないのだし、そのほうが問題がはっきりする、というのである。漱石らしい、「僕の考へでは、賄賂を取つて、明日からでも取つた相手を攻撃するだけの覚悟がないやうなものは、賄賂を取る資格がないと云ふんだ。賄賂を取つて、其為めに自由の意志を拘束されるやうぢや苦しくて堪らない。〔僕は〕全く拘束されないよ。尤も、そんな所へは向うでも持つて来ないがね」というくだりもあるにはあるが、なんだかすっきりしない。

 何がすっきりしないのかは本日の伝言には関係ありませんからふれないことにして、とにかく「賄賂を取つて、明日からでも取つた相手を攻撃するだけの覚悟がないやうなものは、賄賂を取る資格がないと云ふんだ」というのが漱石の意見であったようです。私もまったく同感です。げんに私にはそんな経験があって、三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」をばんばんばんばん叩いていたある日、正確にいえば2004年11月2日の火曜日、事業関係者の方が旧上野市から名張市まで足を運んでくださいまして、通のあいだではひろくその名を知られた旧上野市にある金谷という老舗の伊賀肉を私にプレゼントしてくださいました。あきらかに懐柔籠絡のための物品です。私はありがたく頂戴し、その夜さっそくすき焼きにしておいしくいただいたあと、その翌日の私の伝言はと申しますと──

 こら見とるか二〇〇四伊賀びと委員会組かしら会の莫迦ども。大莫迦者ども。おまえらほんとにどうしようもない莫迦だな。おまえら人を差し向けて俺を懐柔しようとしたであろう。そんな手が通用すると思うか。どうしておまえらにはそんなことしか考えつけないのだ。どうして陰でこそこそすることしかできないのだ。陰でこそこそ人目をはばかるようにして事業のプランを決定し、予算の詳細もまた陰に隠してまったく公表しようとしない。掲示板を開設しておきながら閲覧者の投稿にはいっさい応えようとせず、自分たちの都合が悪くなったら保身のためにいきなり閉鎖してしまう。嘘八百の閉鎖理由を並べ立てて平然としている。まったくどうしようもない連中だな。おまえらその場その場の思いつきだけでことを進めたあげく、言論の封殺というとんでもないことをしでかしてしまったということがまだわからんのか。

 まさしく漱石の述べるところをそのまま実践していたわけで、私こそが真に「賄賂を取る資格」を有する人間であることは明々白々なのですが、以来この手のコミッションには完全に縁がなくなってしまいましたから、「そんな所へは向うでも持つて来ないがね」という漱石の指摘はやはり真実であろうなと首肯される次第です。ていうか、コミッションに対してこういう態度をあきらかにした人間は地域社会ではほんとにもうね、たーいへんなの。

 そんなことはともかく、名無しさんからは6月14日20時46分にも、

 ──しかしさすが中さん、さっそくのお答えと寛容なお気持ち感謝します。期待してまって?ます.

 との激励のご投稿も頂戴しておりますので、ここでひとことご報告。本日6月26日、名張市役所で名張まちなか再生プランにかんするおはなしの場を設けていただくことになりました。すなわち5月25日付伝言に、

 ──名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える。それを名張市サイドの宿題にしていただいて、おとといの会見はつつがなく終了した。

 と記しましたその「宿題」の結果をきょうお知らせいただくことになったという寸法です。くわしくはまたあすにでもご報告申しあげましょう。わくわくしながらお待ちください。

  本日のアップデート

 ▼6月

 「細川邸」改修 交流館に/来年秋開館へ/名張まちなか再生委が計画/乱歩文学館 来月にも検討委 熊谷豪

 6月18日に開かれた名張まちなか再生委員会2006年度総会のことは19日付伝言で同日付中日新聞の記事を引いてお知らせいたしましたが、本日は20日付毎日新聞の記事をオフィシャルサイトから引きましょう。

細川邸:改修、交流館に 名張まちなか再生委が計画−−来年秋開館へ /三重
 同委員会は交流館整備の他、ミステリー作家・江戸川乱歩の生誕地に隣接する、同市本町の旧桝田医院第2病棟敷地を「乱歩文学館」として活用する計画を進めてきた。老朽化が進む旧桝田医院第2病棟を取り壊し、木造長屋の乱歩生家を復元する計画で、館内にミステリー作品を集めた読書室を設ける案もある。7月にもまちなか再生委員会に乱歩文学館検討委員会を組織し、施設の詳細を詰める。平行して、市は解体工事に取り掛かり、来年度には復元工事に着手し、来年度末には完成の見込み。【熊谷豪】

 悪事千里を走るとはよくぞ申した。原理原則を重んじるならばどう考えたってインチキでしかない乱歩文学館構想、話がどんどんひろがっておりますけれどいったいどうなってしまうのでしょうか。何はともあれ私は本日行政サイドのお考えをお聞きしてくることになっておりますので、どうぞわくわくしながらお待ちください。


 ■ 6月27日(火)
名張まちなか再生プランの憂鬱

 わくわくしながらお待ちいただいておりましたでしょうか。昨日お知らせしましたとおり、私は行ってまいりました。名張市役所で名張まちなか再生プランにかんするおはなしをうかがってまいりました。名張まちなか再生プランにひとことも記されていない桝田医院第二病棟の整備計画を名張まちなか再生委員会が協議するのはあまりにもおかしな話であって、もしも協議するのであれば名張まちなか再生プランに変更を加えることが必要である。それが私の見解です。そこで私は5月23日、名張市建設部の部長さんから拝眉の機を頂戴してその見解をお伝えし、結論としては、

 ──名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える。それを名張市サイドの宿題にしていただいて、おとといの会見はつつがなく終了した。

 ということになりました。

 その「宿題」の結果をきのう名張まちなか再生委員会事務局スタッフの方からお聞きしてきたわけですが、僭越ながら事務局の回答に厳正なる評価を試みてみましたその結果、イエスかノーかでいえばノー、OKかNGかでいえばNG、ということになってしまいました。やれ困った。ノーでありNGであるのですから話は前に進まず、私はこの先も名張まちなか再生プランがインチキであると指摘し、名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の整備計画を協議検討することにはひとかけらの正当性も認められないと批判し、むろん名張まちなか再生委員会にはこれっぽっちの協力もよういたしません、とお伝えするしかありませんでした。しかし困った。じつに憂鬱なことである。

 本日はあまり時間がありません。つづきはあしたといたします。

  本日のアップデート

 ▼6月

 怪盗ジゴマと活動写真の時代 永嶺重敏

 ご存じ怪盗ジゴマ、いや、名のみ高くして実態は意外に知られていないのかもしれませんが、明治44年11月11日に封切られて大ブームをまきおこしながら、翌年10月20日を最後に上映禁止となってしまったフランス映画「ジゴマ」の日本における足跡を丹念に追いかけた労作です。

 乱歩のジゴマ体験も紹介されていて、昭和31年発表の随筆「わが青春の映画遍歴」の一節が引用され(そこには「中学一、二年のころ」に名古屋の御園座で上映された「ジゴマ」を「近所の仲のよい友達とふたりで」「三度も見に行った」と記されているわけですが)、そのあと──

 駒田好洋による御園座でのジゴマ上映は明治四五年の四月六日から一五日までの一〇日間行われており、これを乱歩は見に行ったわけである。ただ、乱歩は明治二七年生まれであるから、明治四五年には一七、八歳に達していた。事実、乱歩の『探偵小説四十年』によれば、明治四五年の夏にはすでに中学校を卒業して早稲田大学の予科に編入試験を受けて入学している。「中学一、二年のころ」と乱歩の記憶はあいまいであるが、乱歩のジゴマ体験は中学校を卒業して上京する直前の時期だったはずである。

 それはともかく、乱歩の回想では、弁士である駒田の特異な風貌やピアノの方が懐かしく思い出されていて、肝心のジゴマの印象は記されていない。しかし、松村喜雄氏が「映画『ジゴマ』には、随所に乱歩が書いた長篇の明智もの、子供向けの怪人二十面相ものと同じ趣向、トリックが散見されて興味深い」と指摘しているように(『怪盗対名探偵』)、ジゴマ体験はその後の乱歩の創作活動に深い、ある意味で決定的な影響を与えている。また、高橋康雄氏は、乱歩は昭和に入ってからもジゴマを二度見ており、ジゴマが乱歩の創造の原点であったと述べている(『乱歩──キネマ浅草コスモス座』)。

 『江戸川乱歩年譜集成』編纂者としては「乱歩の記憶」が曖昧であることはなんとも悩ましく、しかも大正15年の「映画横好き」では「ジゴマ」を見たのが「小学の何年生かであった」とされているのですから、記憶の錯誤を修正してくれるこうした書物が刊行されるのはまことにありがたいことです。


 ■ 6月28日(水)
名張まちなか再生プランの煩悶

 きのうは時間がなくて結論を記すだけにとどまりました(毎週火曜日は一時間目から高校の先生を務めておりますので。来週は期末試験でお休みですけど)。もう少し具体的にご説明申しあげましょう。

 ──名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える。

 という宿題に対して一昨日、名張まちなか再生委員会事務局からは「時点更新」という新しい制度を導入する案が示されました。名張まちなか再生プランを変更ではなくて更新する、ということらしいのですが、とりあえず事務局に用意していただいてあったプリントから時点更新なるものの説明を引いてみます。

名張まちなか再生プランの時点更新(再生プロジェクト更新調書)について
 「名張まちなか再生プラン(以下「プラン」という。)」は、名張地区既成市街地(以降「名張地区」という。)のまちづくりを進めるうえで、市民、事業者、各種団体、市など、多様な主体の共通するまちづくり指針として重要な役割を担っており、さまざまな主体の参加と協働によってはじめて成果が得られます。

 このような中、名張地区の再生を多様な主体の協働により推進していくことを目的として名張まちなか再生委員会(以下「委員会」という。)を設置し、早期実現可能なものから検討、具体化に努め、実現化に向けた課題が大きいものに関しては、ある程度長期的な視点にたって、必要な調査、調整を行い着実に実現に向けた取り組みを進めています。

 委員会は、プランの実現を目指し、役員会を設置し、プラン全体の執行管理に関すること、再生整備プロジェクト全体の事業調整及び推進を図るとともに、再生整備プロジェクトを設置し、プランに掲げたプロジェクト事業の企画、計画の立案、実施、運営管理、合意形成を行っています。

 これにより、プラン実現のためのより実効性のある事業を現在も展開しているところですが、プランは、市民と行政が共に尊重し、共に育む計画として位置づけているため、名張市としては、委員会が担う機能により育まれるプランの内容を対象として、1つの単位を1年と定め(委員会総会の単位)、育まれたプランや組織の内容を“再生プロジェクト更新調書”として補完し、より市民にわかりやすい状態で管理する必要があると考えているところです。

再生プロジェクト更新調書=あくまでもプラン策定にご参画いただいた市民の皆さまの思いや、まちづくりに取り組む姿勢等を大切にするため、プラン策定委員会から提案いただいた表現を尊重し策定したプランの内容には変更を加えず、委員会運営の中で、より実効性のある事業内容として展開がなされ、表現や内容が育まれた部分のみを抽出し、とりまとめたもの。

 はっきりいってじつに理解の届きにくい文章であって、おとといも事務局側にいろいろお訊きしてようやく判明したのはどのようなことであったかといいますと、まず明記されているのは名張まちなか再生プランは変更しないということです。上掲の引用でいえば「あくまでもプラン策定にご参画いただいた市民の皆さまの思いや、まちづくりに取り組む姿勢等を大切にするため、プラン策定委員会から提案いただいた表現を尊重し策定したプランの内容には変更を加えず」というあたりにそれが示されています。私は名張まちなか再生プランこそが諸悪の根源であり、「プラン策定にご参画いただいた市民の皆さま」がなんともいい加減でインチキででたらめで適当でひたすらぐだぐだなプランを策定してくださったおかげで話がここまでこじれてしまったのであると認識しているのですが、とにかくプランそのものに変更は加えられないということです。

 ならばどうするのか。知れたことよ、更新の出番よ、てなわけですねどうやら。更新というのはフィードバックのようなものだとお考えいただけばいいでしょう(この場合のフィードバックという言葉はごく一般的な意味、たとえばネット上の辞書のたぐいで「結果を原因側に戻すことで原因側を調節すること」と説かれているような意味で使用されているとお考えください)。名張まちなか再生プランを具体化してゆく過程でブランと現実とのあいだに齟齬や乖離が生じた場合、それを調整するためにフィードバックシステムを作動させるという寸法です。上掲の引用に「委員会運営の中で、より実効性のある事業内容として展開がなされ、表現や内容が育まれた部分のみを抽出し、とりまとめ」るとあるのが、いささかわかりにくくはあるのですけれど更新という作業の具体的な内容です。

 細川邸を例にあげてシステムの作動手順を見てみましょう。名張まちなか再生プランには細川邸を歴史資料館として整備するという構想が描かれていました。ところがプランを具体化するために検討を進めた結果、歴史資料館とするよりは初瀬ものがたり交流館なる施設にしたほうがいいということになったといたしましょう。名張まちなか再生委員会はプランにあった歴史資料館を初瀬ものがたり交流館に変更することを、ではなかった更新することを決め、その旨を名張市に伝えます。名張市はその変更、ではなかった更新が妥当なものかどうかを判断し、めでたくOKということになって決済がおりればそれを市のオフィシャルサイトで公表します。いっぽうの委員会は変更、ではなかった更新された内容にもとづいてさらにプランの具体化を進めます。まあそういったことになるそうです。

 だからそれをなあなあというのである、そんなものはなあなあ体質の端的なあらわれ以外のなにものでもないではないか、と私は指摘してまいりました。名張まちなか再生委員会がプランを更新する必要を認め、名張市がそれに承認を与えるというただそれだけのことでおしまいになってしまうのであれば、市民の眼や声が届く余地などどこにもありません。針の穴ほどもありません。市民にも市議会にもまったく出番がないわけです。これではまずかろう。こんなことではいかんがな。

 そもそも私は私は名張まちなか再生委員会における桝田医院第二病棟の整備構想にかんして、それが議会のチェックを経ることもなければ市民に公表してパブリックコメントを募集することもなく、完全なノーチェックのままいつのまにか検討されていることがおかしいと批判してきたわけです。名張まちなか再生プランに片言隻句も記されていなかった構想を名張まちなか再生委員会が検討するというのであれば、その構想もプランと同様のハードルをクリアすることが必要であろうと、だから必要な手順を踏んでプランを変更するべきであろうと、しごくあたりまえでこのうえなくまっとうなことをずーっとばかみたいに主張してきたわけです。委員会と市という当事者だけで好きなように更新ができる、ありていにいえば自由にプランを変更してしまえるというのでは、私の批判はこれっぽっちも生かされていないことになります。むしろもっとも望ましくない方向へ向けて制度化が進められつつあるといってもいいでしょう。

 しかし、しかしそんなこと以前にもっと重要な問題がここには存在しています。それは、いくらフィードバックシステムを確立したとしてもフィードバックできないものはフィードバックできない、ということです。プランに記されていた細川邸の問題をプランにフィードバックすることは可能であっても、プランに記されていない桝田医院第二病棟の問題はいったいどこにフィードバックさせるというのか。そんなものはどこにもできない。できるはずがないではないか。まったく困った話である。

 まあそういったような次第であって、行政サイドにもいろいろ知恵をしぼってはいただいたのですが、実りある結論には到達できませんでした。どうやらこれで万事は休した。私としてもできるかぎりの働きかけはしてみたのですけれど、事態はいっこうに改善されず、名張まちなか再生委員会は今後もきわめて不当な協議検討をつづけてゆくということになりそうです。

 なりそうです、というよりはもうはやすでにしてたったかたったか話を進めてくれているわけで、先日も19日付中日新聞と20日付毎日新聞の記事を引いてお知らせしましたそのとおり、名張まちなか再生委員会は18日の総会で勝手にものごとを決定してくれているわけです。毎日の記事を再掲してみましょう。

細川邸:改修、交流館に 名張まちなか再生委が計画−−来年秋開館へ /三重
 同委員会は交流館整備の他、ミステリー作家・江戸川乱歩の生誕地に隣接する、同市本町の旧桝田医院第2病棟敷地を「乱歩文学館」として活用する計画を進めてきた。老朽化が進む旧桝田医院第2病棟を取り壊し、木造長屋の乱歩生家を復元する計画で、館内にミステリー作品を集めた読書室を設ける案もある。7月にもまちなか再生委員会に乱歩文学館検討委員会を組織し、施設の詳細を詰める。平行して、市は解体工事に取り掛かり、来年度には復元工事に着手し、来年度末には完成の見込み。【熊谷豪】

 こいつらはいったい何を血迷っておるのか。乱歩文学館とはそもなにごとぞ。名張まちなか再生委員会がいくら必死になって桝田医院第二病棟にかんする協議検討を進めてみたところで、そんなものには何の正当性もないのである。勝手な井戸端会議にすぎぬのである。行政サイドもそれを認識しているからこそ、私の指摘を受けて時点更新という制度の導入を検討したのではないか。結局は名張市の決定的な誤謬を追認するためのごまかしでしかない制度の案が提示されるに終わっただけなのであるが、名張市がこうした検討を行ったという一事はそのまま、名張まちなか再生委員会による桝田医院第二病棟整備構想の協議検討には問題があるという行政サイドの認識を物語るものである。行政は無謬なんかではないのである。名張まちなか再生プランなんてあきらかな誤謬なのであるから、さっさとそれを認めて頭からやり直せ。それが私の主張であるのですが、さきほども記したとおり万事は休し、万策は尽きはてた。

 とにかくひどい話ではあるのですが、私にはそれを押しとどめる力がありません。名張まちなか再生委員会はこれからも知らん顔して不当な計画をまとめてゆくことでしょうし、さらに困ったことには名張市議会の先生方がそれを承認してくださっております。26日の月曜日、というのは私が名張市役所で名張まちなか再生委員会事務局からおはなしをうかがってきた日のことなのですが、名張市の6月定例会が最終日を迎え、一般会計補正予算案をはじめとした上程全議案が原案どおり可決されました。この補正予算には名張まちなか再生プランがらみの予算も含まれているはずです。ということは、乱歩文学館たらいうインチキな構想にかんする調査費もおそらく計上されて可決されたということになります。

 ほんとに困ったものである。いいですか二十人もいらっしゃる名張市議会の議員先生のみなさん。乱歩文学館の構想というのは名張まちなか再生委員会が勝手にまとめたものでしかありません。何によっても担保されていないごく恣意的な協議検討のうえに(早い話が市議会のチェックもなかったわけです)、乱歩文学館という構想は打ち出されているわけです。あえていえば市議会を無視してまとめられた構想なわけです。あーこれこれ二十人もいらっしゃる名張市議会の先生方のみなさんや。あんたらそんな構想のための調査費をうかうか承認してどうするの。え。どうするのどうするの。

 みたいなこともおととい私は委員会事務局に対して指摘してきた次第なのですが、「この件にかんしては市議会にツッコミを入れることはいたしません」と事務局にお約束もしてきましたので、名張まちなか再生プランにかんして名張市議会をこのサイトで批判したりあるいは先生方のもとに質問のメールを送りつけたり、でなければただもうばーか、ばーか、うすらばーかとおちょくったりするのは差し控えることにいたします。べつに他意はなく、もうなんかほんとに面倒で。

 それはそれとして名張市議会の諸先生のみなさん。四年に一度の改選も8月に迫ってまいりました。どうかしっかりしてくださあい。

  本日のアップデート

 ▼6月

 うつし世は夢、夜の夢こそまこと──江戸川乱歩 大村彦次郎

 『文壇うたかた物語』『文壇栄華物語』『文壇挽歌物語』の三部作から著者が棄てがたく思ったという作家を選抜してそれぞれのエピソードを再構成し、歿年順に排列した文庫オリジナルの一冊『文士のいる風景』が刊行されました。

 武田麟太郎から丹羽文雄まで、百人の文士の生と死が一人三ページにまとめられているのですが、われらが乱歩はこんなぐあい。

 若年の頃の乱歩は厭人癖がつよく、社交嫌いで、奇行の持主と伝えられた。何かの会合の席でも、側へ寄ることさえ、はばかられる冷たい感触があった。昭和の初め、「陰獣」とか「孤島の鬼」とか、妖異変態な探偵小説を書いていた頃の乱歩は白昼、土蔵の中でろうそくの灯を点してペンを執っている、という噂が流布された。それが敗戦を境にして一変、開けっぴろげな天衣無縫さで人に接し、昔を知る連中を唖然とさせた。戦争中に隣組の世話を焼いたり、防火団長をしたりして、町内の人々と接触したために、社交的になったのだ、と本人は言ったが、創作力の衰えと不可分な関係があった。

 ■ 6月29日(木)
名張まちなか再生プランの終焉

 本日はお詫びと訂正から。

 昨日付伝言の名張市議会議員にかんするパートに不適切な表現がありました。下記のとおり訂正してお詫びを申しあげます。不適切な表現というのは、

 ──いいですか二十人もいらっしゃる名張市議会の議員先生のみなさん。

 それから、

 ──あーこれこれ二十人もいらっしゃる名張市議会の先生方のみなさんや。

 以上の二箇所です。

 私はじつにうっかりしておりました。名張市議会の定数はたしかに二十人。これにはまちがいありません。昨年の8月8日月曜日、こちらから押しかけ講師を買って出て名張市役所で「名張市議会議員の先生方のための乱歩講座」を開いていただいたときの星取表、いや相撲をとったわけではないのですから星は関係なくて出走表、いやいや競馬じゃないんですから出走でもなくてとにかく先生方の一覧表、ささっとごらんいただきましょうか。

名張市議会議員の先生方のための乱歩講座ご出欠一覧
  氏名 期数 会派 党派 出欠
議長 柳生大輔 4期 ききょう会 民主党
副議長 中川敬三 2期 清風クラブ 無所属  
  田合豪 1期 無所属 無所属
吉住美智子 1期 公明党 公明党  
石井政 1期 公明党 公明党
小田俊朗 1期 日本共産党 日本共産党
宮下健 1期 清風クラブ 無所属
永岡禎 2期 ききょう会 無所属
福田博行 2期 清風クラブ 無所属
上村博美 2期 ききょう会 無所属  
藤島幸子 2期 公明党 公明党
松崎勉 2期 ききょう会 無所属  
梶田淑子 2期 ききょう会 無所属  
田郷誠之助 2期 無所属 無所属
樫本勝久 3期 清風クラブ 無所属
橋本隆雄 3期 清風クラブ 無所属
橋本マサ子 4期 日本共産党 日本共産党
和田真由美 4期 日本共産党 日本共産党
山下松一 5期 清風クラブ 無所属
山村博亮 6期 ききょう会 無所属  
敬称は略させていただきましたッ。

 これこのとおりちゃんと二十人。ただしこのなかには議員の職をなげうって今年4月の市長選挙に出馬された方がいらっしゃいますから、その元先生の席が欠員となって現在の議員数は十九人となっております。8月には任期満了にともなう市議会議員選挙が行われますからまた二十人の議員先生が選ばれるわけなのですが、それまではひとり欠員の十九人というのが名張市議会の現在ただいまの状況です。

 うっかりまちがったことを書いてしまってどうも申しわけありません。先に引用しました昨日付伝言は、それぞれ次のとおり訂正いたします。

 ──いいですか二十人もいらっしゃるのが本来の姿なれどいまはちょっとした事情により十九人しかいらっしゃらない名張市議会の議員先生のみなさん。

 ──あーこれこれ十九人しかいらっしゃらないとはいうもののもっと少なくても大勢に影響はないのではないかとも判断されますから議員定数を削減してみるのも一興かと愚考される名張市議会の先生方のみなさんや。

 ──とはいえ地方自治法第九十一条では人口五万以上十万未満の市の議員定数は最大三十人と定められているわけですからいっそ名張市も市議会議員を定数めいっぱいの三十人にしてみたら真に市民のための議会になってくれるのではないかと思われるのですが現実に即して考えるならばそんなことはとても望めぬのであろうなわっはっはといった感じの名張市議会の議員先生のみなさん。日々のお仕事まことにご苦労さまでございます。市勢の進展に日夜ご尽力をいただき、名張市民のひとりとして心からお礼を申しあげます。みなさんには日々これ感謝の私です。先生方の末永いご健勝をお祈り申しあげる次第です。

 不適切な箇所は二箇所だったのですが、上記のとおり訂正は三箇所となりました。これがいわゆる更新というやつで、昨日付伝言にフィードバックして一箇所増やしてみた次第です。

 それではここで、お詫びのしるしといってはあれなのですが、名張市議会議員を辞職して今春の市長選挙にチャレンジされ、残念ながら武運つたなく一敗地にまみれられた元先生のブログをご紹介申しあげておきましょう。

 最近は国であると地方であるとを問わず、ブログを開設していらっしやる議員の方が増えているようです。国や地方の課題あるいは問題点を指摘し、それに対する自身の考えを表明し、それにもとづいてどんな活動を展開しているのかを報告する。そういったブログが増えるのは悪いことではないでしょう。ただし不用意無配慮なことを記したばっかりにいわゆる炎上にいたったケースもあるみたいですから、ブログをもつのも考えものかもしれません。それにブログを読むだけでどの程度の議員先生なのかは明瞭に知れてしまいますから、ブログの開設にも結構勇気がいるのかな。

 いやいや、こんなことを書いてしまってはブログのひとつも開こうかという議員先生の気勢をそいでしまうことにもなりかねません。案ずるな案ずるな。げんに私を見てください。私とてブログではなけれど自分のサイトで名張市の課題あるいは問題点、具体的にいうならば現在ただいまは名張まちなか再生プランの問題点を指摘したうえで、それに対する自身の考えを表明し、それにもとづいてパブリックコメントを提出しましただの名張まちなか再生委員会の事務局でこうした点を質してきましただのこんなようなことをお願いしてまいりましただのという活動の報告をつづけてきた次第なのですが、ご案じいただくような事態にはまったく無縁です。ですから議員先生のみなさんにも、現在のところ名張市議会の先生方のなかにブログを開設していらっしゃる方は存在しないようなのですが、ブログの活用も視野に入れてご活動いただくのもよろしいのではないでしょうか。市議会の改選も8月に迫ってまいりました。お願いですからどうかほんっとにしっかりしてくださあい。

 改選を控えてどぶ板踏み鳴らしまわっていらっしゃる名張市議会の先生方のことはさておいて、問題は名張まちなか再生プランです。これはもうどうしようもありません。恥ずかしながら私はさじを投げました。自身の無力をまことに情けなく思います。なにしろインチキもインチキ、とんでもない大インチキを関係者一同わあわあわあわあなりふり構わず推し進め、もうあと戻りができないというところまでしゃにむにことを運んでしまいやがりました。不当きわまりない既成事実を積み重ねてそれを無理やり正当化してしまったのですから、まさしくできちゃった結婚ならぬできちゃった文学館。何の正当性もない協議検討にもとづいたインチキでしかない乱歩文学館なんてもののための調査費が6月定例会で正式に認められたというのですから、あきれかえって口もきけない。これがまともなおとなのやることか。おれはもう何をいう気もなくなったぞ。好きにしろ。いいだけインチキに走ってろ。ご町内感覚となあなあ体質を両輪としたインチキ上等の横車、うすらばかが寄り集まって好きなだけ押し通してろ。

 といった次第で、その気になれば批判すべき点などほかにもたくさんあるのですが、もう面倒だから細かいツッコミは入れないことにして、とにかくノーである、NGであるという見解をお伝えしたうえで私は名張まちなか再生委員会事務局との話し合いを終えました。このあたりが事務局の限界だろうな、ということは如実にうかがい知れました。事務局の、というよりはお役所の、といったほうがいいでしょう、お役所の限界の壁として立ちはだかっているのはやはり、いまやお役所の内部でしか通用しなくなっているはずの行政の無謬性という神話であるようです。そもそも名張まちなか再生プランがじつに不備の多いものであったから話がここまでややこしくなってしまったのであって、それが証拠に名張まちなか再生委員会はプランに記されていた歴史資料館を初瀬ものがたり交流館に変更せざるを得なくなっているありさまなのですが、プランに不備があったということを名張市はいっかな認めません。

委員長 浦山益郎 三重大学工学部教授
副委員長 勝林定義 名張地区まちづくり推進
協議会会長
委員 井内孝太郎 名張青年会議所理事長
岡田かる子 名張市老人クラブ連合会
副会長
岡村信也 名張文化協会理事
川上聰 川の会・名張顧問
辰巳雄哉 名張商工会議所会頭
西博美 名張市社会福祉協議会会長
西川孝雄 国土交通省近畿地方整備局
木津川上流河川事務所所長
早川正美 三重県伊賀県民局局長
福田みゆき 名張市PTA連合会会長
柳生大輔 名張市議会議員
山崎雅章 名張市区長会会長
山村博亮 名張市議会議員

 個人情報保護の趨勢にかんがみて名張まちなか再生プランを策定してくださった名張地区既成市街地再生計画策定委員会のみなさんの個人名をこのとおりご紹介申しあげておく次第なのですが(この名簿は名張市オフィシャルサイトのこのページで公開されております)、このみなさんの手になったプランには見過ごしにできない不備がありました、という事実を認めるところからはじめなければ何もはじまらんではないかと私は思う。そんなプランをろくに吟味もせずまるごとOKしてしまった名張市もばかでありましたと、みずからの誤謬を認めることからはじめなければしかたがないではないか。しかしお役所にはそれができません。

 「あくまでもプラン策定にご参画いただいた市民の皆さまの思いや、まちづくりに取り組む姿勢等を大切にするため、プラン策定委員会から提案いただいた表現を尊重し策定したプランの内容には変更を加えず」といったような見当ちがいの配慮を示すことしかお役所にはできません。そんなものはおおきに見当ちがいである。お役所が配慮すべき対象は地域住民なのである。ろくでもないプランしかつくれなかったみなさんにいまさら何を配慮しておるのか。

 いやもういい。もういいもういい。もういいんだ。月は晴れても心は暗闇だ(この「暗闇」は「やみ」とお読みください)。ええ、そりゃ、世間も暗闇でも構いませんわ。どうせ日蔭の身体ですもの。お蔦。あい。済まないな、今更ながら。水臭い、貴方は……。いやいや、こんなとこでひとり婦系図湯島の境内をやってる場合じゃありません。しかしまあ早瀬主税ではなけれども、おれもそろそろ別れを切りだすべきころおいではあるだろう、これからはもう名張まちなか再生プランに対して助言やアドバイスを行うこともないであろうなと私は思い、これは名張まちなか再生委員会の事務局に伝えても意味のないことではあったのですが、結局何が悪いのかというもっとも本質的な問題をいわば置きみやげとして厳しく指摘してまいりました。

 何が悪いのか。名張市が悪いのである。私は名張市立図書館の嘱託を拝命して十年あまりになるのであるが、その間ずっと名張市は悪かった。てまえども名張市は乱歩にかんしてこのように考えております、このようなことをしたいと思っておりますと、明確なビジョンを示すことがついになかった。乱歩にかんしてはあくまでもその場その場の思いつき、それもろくに乱歩作品を読んだこともない人間の思いつきでことを進めてきただけなのである。だから私は、

 ──名張市は乱歩から手を引け。

 と以前から主張しているわけなのであって、名張まちなか再生プランの場合も本来であれば、つまり名張市に乱歩にかんする明確なビジョンがあったのであれば、まちがってもこんなことにはならなかった。そのビジョンに照らしてプランを策定すればいいだけの話だったのである。しかし現実はまったく逆であった。名張市にはビジョンが存在しない。名張地区既成市街地再生計画策定委員会はプランのなかに桝田医院第二病棟のことをまったく盛りこまない。その結果どうなったのか。乱歩のことを考える知識も見識もない、そしてそれ以前にそんな資格も権限も与えられてはいないはずの名張まちなか再生委員会にすべてが押しつけられ、おまえらそんなことでいいのか実際、というしかないような委員によって桝田医院第二病棟の整備計画が検討され、見事なまでにうわっつらだけを飾った文学館構想が決定されてしまったのである。いい加減にしなさい。おれはほんとにもう知らん。とにかく私は以前から、

 ──名張市は乱歩から手を引け。

 と主張してきたのであるけれど、名張市がこのうえまーだ乱歩をどうこういうのであれば、文学館のことなんかよりいったい乱歩をどうしたいのか、それを明確にすることが必要である。庁舎内の乱歩関連セクションに密接な横のつながりをつくって、そのうえでじっくり考えてみなさい。考えるったって名張市役所のみなさんにはそもそも乱歩にかんする知識がないのだから困ったものではあるのだが、私は乱歩のことならいくらだっておはなししてさしあげることができるのである。むろん私は、

 ──名張市は乱歩から手を引け。

 と本気で考えているのであるけれど、これはあくまでも個人的な考えなのであって、名張市が悔い改めて乱歩のことを本気で考えたいというのであれば、そのための助言やアドバイスを惜しむつもりは毛頭ない。いつでも訪ねてこられよ。あらあらかしこ。

 まあそんなようなことをお伝えしてまいりました。結局のところ、いくら調査費がついたからといって乱歩文学館などという愚劣なプランがおいそれと実現するとは思えませんし、名張市にはそんなことより先に乱歩にかんしてしなければならないことがある。それはたしかなことなのですが、しかしそうした私の訴えを名張市役所のみなさんにご理解いただけるのかどうか。その点はまったくの五里霧中であるというしかありません。

  本日のアップデート

 ▼4月

 お勢登場 池上遼一

 掲示板「人外境だより」で大江十二階さんから教えていただいた小説新潮スペシャル『エロティックス 私のカラダを熱くした官能文学名作選』に収録されました。

 この漫画版「お勢登場」は乱歩ファンにはよく知られた作品でしょうし、原作に忠実に漫画化されていますからフキダシを引いてみても面白くありません。さて困った。

 というところで一計を案じ、この『エロティックス』の編者でいらっしゃる杉本彩さんに敬意を表することにいたしました。収録された杉本さんの官能小説から、あッ、ああッ、というクライマックスシーンをどうぞ。

手紙──続インモラル
 「ああ、美咲、あっ、あ、ああ、美咲」

 柳田は押し殺したような歓喜の声を発しながら、わたしのいちばん奥深くをゆっくりと掻き回し、時には激しく突き上げた。そして覆いかぶさるようにように上体を密着させた。ずしりとした身体の重みと、汗ばんだあまり筋肉質ではなさそうな肌の柔らかさが伝わってきた。わたしは何度も腰を浮かせ、大きな声をあげ、痙攣した。そしてわたしのバギナは、柳田のペニスをけして離すまいと、必死に食わえ込む動きを続けたのだ。柳田のほうは、いきそうになるのを何度も抑えながら、長い時間をかけて、わたしを味わい尽くした。しばらくして、わたしはお腹の上に熱いものを感じた。

 「ああ、最高や、美咲さん、ほんまよかった」

 作者が京都生まれでいらっしゃるせいなのか、妙に古風な小説だという印象です。まあいいけど。

 ちなみに『エロティックス』にはこの作品の作者自身による朗読を収録したCDがおまけについていて、わたしはこれから聴いてみるところなのですが、やはりわくわくしてしまいます。あッ。ああッ。


 ■ 6月30日(金)
古本初心者、文学全集を語る

 おかげさまでずいぶんすっきりいたしました。梅雨の晴れ間に美しい青空をあおぎ見るような気分。あるいは、あまりたちのよろしくないお姉さんときれいに縁が切れたときのような気分。いまや自分は名張まちなか再生プランと完全に無縁なのである。そのことをただ思い返すそれだけで、子供のころ夏休みを迎えたときにおぼえたであろうような解放感がすばらしい勢いでこみあげてきます。わーい。わーい。

 わーい。わーい。と浮かれていていいのかとも思いますが、私とて名張まちなか再生プランにかんして最大限の助言やアドバイスはしてきたわけですし(実際、私ほどこのプランのことを気にかけてきた人間はいないのではないかと思います)、それにこのプランおよび名張まちなか再生委員会には愛想もこそも尽きはてましたから今後いっさい無縁であると決めてしまったわけなのですが、名張市が乱歩のことを真剣に考えるというのであれば助力を惜しむものではなく、きのうも記しましたとおりその旨を名張まちなか再生委員会事務局にお伝えしてもきたのですから、もういいであろう、もうこれでいいであろう、私がいくら誠実で責任感のつよい人間だからといってこれ以上あんなブランや委員会のことを気にかける必要はないであろうと、そのことをみずからにいいきかせたうえでもとの話題に戻りましょう。

 悪の結社とその名も高いミステリファンサークル畸人郷の例会にお邪魔し、古本初心者としてあれこれご教示をたまわってきたときのおはなしです。文学全集とはそもなんぞや、といった話題も私はもちだしてみました。

 文学全集、つまり坪内逍遙や二葉亭四迷あたりからはじまって名作集まで何十巻かをワンセットにしたあれのことなのですが、あんなものにはまったく意味がない、ということを私はまず主張しました。好きな作家の作品を読むにはあまりにももの足りない。というか、好きな作家の本ならすでにいっぱいもってるわけですし。逆に興味のない作家の作品となると、たぶんいつまでたっても読みたいという気にはならぬであろう。だから文学全集なんてどこにも意味がないのである。

 しかし、文学全集ワンセットを資料として手許に置いておくことも必要なのではないか、というのが『江戸川乱歩年譜集成』のためのメモをとりはじめた私の実感です。だいたいが私は文学全集に象徴されるようないわゆる主流文学の体系にはたいして関心がありませんでした。そんなものには無関係でいたいと考えてもいた。だからといっていわゆる大衆文学、あるいは探偵小説、そういったあたりにもとりたてて興味はなく、それらを系統だてて読むということもしてきませんでした。私はおそらく体系的な読書というものに興味がなく、これが教養だ、みたいな体系性にはむしろ嫌悪感を感じていたのではないか。だから面白そうな作家を見つけたら読んでみる、という趣味的で個別的な読書のみをすらすらつづけてきたように思い返される次第です。

 ところが文学者の年譜や目録を確認したいとなった場合、手許にある辞書事典のたぐいをひっくり返してみても記述はいささか粗略にすぎ、かといって当節では文庫本や日本幻想文学集成みたいなシリーズにおいても年譜目録のたぐいには重きが置かれていないケースが多い。そうした傾きがいよいよ顕著になっているという気もする。

 そこで文学全集の出番ではないか、と私は考えたわけです。全巻を読破するということではまったくなく、手許に置いておいて調べたいこと読みたいものが出てきたときおもむろにひもとく。そんなような感じで文学全集を利用するのもいいのではないか。しかし本格的な文学全集などという過去の遺物めいた出版物を新刊で揃えるのはかなり難しいはずですし、だいいちそんなことをしていたらお金が高くついてしかたがない。だからそこで古書の出番だというのである、と古本初心者は考えました。

 インターネットで古本屋さんのサイトをあれこれ調べてみたその結果、筑摩書房の現代日本文学大系、中央公論社の日本の文学、新潮社の新潮日本文学、といったあたりなら揃いで入手することが可能なようです。全六十四巻の新潮日本文学なら私は佐藤春夫と横光利一の巻を所蔵しており(昔はもっといろいろもっていたのですが)、その巻末の案内を見てみるとこの全集は一作家一巻が鉄則らしいですから体系性、というよりは網羅性においてややマイナス、それによく見てみると坂口安吾が入っておりませんから安吾ファンの私としては不満である。かといって中央公論社版日本の文学となると私など、三島由紀夫の猛烈な反対によって松本清張作品が収録されなかったというエピソードだけを知っていて内容についてはちんぷんかんぷんなわけなのですが、とにかくこれが全八十巻。

 そこへ行くと現代日本文学大系は全九十七巻ですから、まあ分量的にはこれがいいかなと、本なんてまかりまちがっても貫目で買うものではないのですが、とりあえずそういった考えに落ち着きました。畸人郷の先達にお訊きしてみても、やはり筑摩を選ぶべきであろうとのことでした。値段のほうは新潮日本文学と日本の文学はどちらも揃いで二万五千円程度、現代日本文学大系は安いものでワンセット五万円前後、というのがネット上における古書価の相場かと思われるのですが、それなら筑摩で行っとくかと方向性はきっちり定めてみたものの、しかも全九十七巻が五万円なら一巻五百円以下だからえらく安いぞということも重々わかってはいるものの、しかし五万円ともなるとどうしても腰が引けてしまうのが自己破産者のつらいところさ。うーん。うーん。

 うーん。うーん。と悩みつづけていたある日のこと、私は愛知県にある古本屋さんのサイトで揃い一万九千円というのを見つけてしまい、ついふらふらと注文したのが6月26日付伝言にも記しましたとおり同日早朝のことでした。それは私にとって夢ともうつつともつかぬ体験ではあったのですが、夢ではなかった証拠にきのうになってどーんと到着いたしました。段ボール箱がひいふうみい、と数えていつつもあります。結構かさばるみたいです。

 以下、あすにつづきます。

  本日のフラグメント

 ▼1952年9月

 若き日の宇野浩二 江口渙

 あすにつづきます、ではあるのですがもう少しつづけておきますと、きのう到着しました現代日本文学大系、一巻ずつ段ボール箱からとりだしながら気のおもむくままにページをくっておりましたところ、第四十六巻『宇野浩二・廣津和郎集』の巻末に資料として収められた江口渙の「若き日の宇野浩二」、そのなかにこんな箇所があってへーえ、と思いましたので忘れないうちに引いておくことにいたします。

 当然のことながら乱歩のことなんてひとことも出てはきませんのでちょっと困ったなという感じではあるのですが、『江戸川乱歩年譜集成』のためのフラグメントにはこんなのもありなのだとご承知おきいただければ幸甚です。

 私はやがて香雪軒から弥生町の不破へ移った。不破は弥生町の坂を根津から上がったとっつきの石垣の上にたっている下宿である。この家に一九一三年の秋から一九一五年の冬、北川千代と結婚するまでの足かけ三年を送った。宇野はそのあいだ、ずっと本郷駒込片町のろぢのおくに、大阪からよびよせた母親とふたりで世帯をもっていた。そして他人の飜訳の下訳などをして生活をたてていた。島村抱月の名で出たトルストイの「戦争と平和」の下訳もしていたらしく、「あれは、君。下訳の下訳のまた下訳などもあって、下のほうはめちゃくちゃなんだ。全部で二〇人ぐらいかかってやっているのだから、むしろ、島村抱月等訳とするのがほんとうだ」と笑っていた。

 宇野の家のろぢを出て追分とは反対のほうにいった向かい側に、新劇の名優沢正こと沢田正二郎の妾にして恋人をかねた女優の渡瀬淳子がすんでいた。沢正が坪内逍遙の劇団、文芸協会を脱退し同じ脱退組の松井須磨子とくんで芸術座を組織してその旗上げ興業に有楽座でメーテルリンクの「モンナ・ヴァンナ」をやったのも、その頃だった。渡瀬淳子も、川路歌子とおなじく、いわゆる「その他多勢」の中にまじって「モンナ・ヴァンナ」に出たようにおぼえている。沢正と宇野とは早稲田の文科で同級だし、また、淳子と宇野とは生まれがおなじ大阪なので自然と宇野は淳子と親しくしていた。それで私も宇野につれられて二三ど渡瀬淳子のところに遊びにいった。いって見ておどろいたのは、淳子の家にとまりに来るのは、ただ沢正ひとりではないということだった。若い画家だとか、新派の役者だとか、金持のボンボンだとか、ときには角力取りまでとまっていた。それでこれまた島村抱月等の飜訳とおなじく、沢正等の妾ということになるらしかった。淳子はトルストイのカチューシャみたいにすが眼のひとみの動きにとくべつの魅力をもった女だった。宇野は彼の世にも不思議な、また世にも不びんな恋人だったヒステリーの女のことで、渡瀬淳子にも相当な物質上の迷わくをかけたらしい。そのことについては、宇野自身「苦の世界」の中でもかいている。

 いやはやこの渡瀬淳子という名のアクトレス、当世の言葉でいえばヤリマンとかヤリマソとか、あるいは肉便器とでもいったところでしょうか。宇野浩二が若かったころにはこんな言葉はまだありませんでしたから、当時の語彙で表現するならばさしずめ公衆便所かな。とにかくこの渡瀬淳子嬢、ここに描かれた1913年から15年にかけて、つまり大正2年から4年といったころには東京の本郷に住んでいたとのことなのですが、その後の消息は杳として知れず、それが十年ほどたった大正14年の10月25日、突如として乱歩の前に姿を現します。

 すなわちこの日、この年4月1日に市制を敷いたばかりの兵庫県西宮市にある苦楽園で探偵ページェントなるイベントが催されました。乱歩をはじめとした探偵趣味の会が10月例会をかねて開催し、春日野緑脚本の探偵劇「幽霊探偵」が上演されたのですが、それを演じたのがまさしく渡瀬淳子演劇研究所。この渡瀬淳子があの渡瀬淳子であることは、『探偵小説四十年』に見える乱歩の記述からして疑いようがありません。

 しかしこの渡瀬淳子、いくら調べても生歿年さえ不明ですから難儀な話です。できうべくんばおなじ時代に生まれあわせて一度でいいからお会いしてみたかった(お相手してみたかった、でも可)と思われてならぬこの川瀬淳子という名のアクトレスについて、何かご存じの方はなにとぞご一報くださいますよう。