2006年8月中旬
11日 谷崎潤一郎の恐怖時代 大衆文芸家総評
12日 矢祭の試みと名張の残念 春寒
13日 三重県議会ぺこぺこ合戦 解説
14日 乱歩の相聞、谷崎の返歌 よみがえる乱歩
15日 実証主義はもうたいへん 解説
16日 民主党三重県連ころころ始末 魔人ゴング
17日 谷崎はパノラマ島を読んだのか 探偵小説に就いて
18日 谷崎は陰獣を読んだか 谷崎家の人々
19日 『谷崎潤一郎伝』と『犯罪幻想』 「犯罪幻想」
20日 夏休みのお知らせです 金色の死
 ■ 8月11日(金)
谷崎潤一郎の恐怖時代

 まずお知らせ。昨日付「本日のアップデート」に補足を追記しました。こちらをごらんください。

 つづきまして、昨日付朝日新聞に掲載された鳥羽みなとまち文学館の幻影城の話題。

乱歩の世界再現「幻影城」
 文学館は鳥羽商工会議所が02年8月に開設。幻影城の土蔵は、幅3・5メートル、奥行き7・2メートル、高さ5・25メートルで江戸末期から明治初期に建てられた。事業費は約1千万円。蔵が舞台の「人でなしの恋」や「虫」など3作品を、本を開いた形の展示ケース(高さ1・5メートル、幅1・35メートル)に、ジオラマや文章の一部で紹介している。

 乱歩からの手紙や電報も張ってある準一のスクラップブック3冊や、準一のアルバムなどを含め主な展示は約20点。

 入り口では、入場者をセンサーで感知してミキモト真珠島がモデルと言われる「パノラマ島奇談」の朗読が始まり、準一の遺族から贈られた昭和時代出版本の乱歩の少年探偵シリーズ20冊や、乱歩作品の全集も置かれ、自由に閲覧できる。

 それでは日延べがつづいておりました小谷野敦さんの新刊『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』(中央公論新社)の話題に入ります。「まえがき──大谷崎と私」によれば、

 ──作品のことはひとまず措いて、ひたすらその人生を再現すべく、谷崎の書簡、来簡を読み、随筆類から実人生を再現していくと、谷崎が私の中で次第に形をなし、息づいていった。

 という「谷崎の詳細な年表」づくりから作業がはじまり、

 ──かねてから感じていた谷崎の魅力の中心を僅かながら捉ええたと感じ、作品論でも作家論でもない、谷崎潤一郎という一個の人間像を描いてみたいと思い立つに至ったのである。

 と執筆されたのがこの大部の評伝。「跋文」にはこうあります。

 本書は、谷崎潤一郎の詳細な年表を作ることから始まった。それも、始めからアウトラインを作って細部を埋めていくというやり方ではなく、幼少時から順番に作っていく方式をとったため、二ヵ月ほどを経て、谷崎の終焉が近づき、死を迎えた時、私は、近親者が死を迎えたような、あるいは自分自身が死んだような不安と衝撃を受けてしまった。とうの昔に死んでいる作家の死にこんなに感情を揺り動かされることに、我ながら驚いた。そしてもう一度、この本の稿を進めて、終焉が近づいた時、同じ思いに捉えられた。それだけ私は谷崎先生の生に没入し、少なくともその半年、谷崎とともに生きたような感覚を味わっていた。今でも時おり、その時のことを思い出すと、幸福な気持ちになり、谷崎先生の死を思って悲しくつらい気持ちになる。

 何をおおげさな、とお思いの方もいらっしゃるかもしれません。しかし私にはなんとなくわかるような気がします。これと似ていなくもないことを、私は名張市立図書館の『乱歩文献データブック』を編纂する過程で経験しました。私の場合はゲラに眼を通しているときのことでしたが、大正12年から時代を追って乱歩が身に受けた毀誉褒貶、身辺を通り過ぎた喜びと煩い、人生の軌跡を交差させた誰彼、そんなものを関連文献のタイトルを確認することで追体験した私は、昭和40年の死去が近づいてくるとほんとにつらくせつない気持ちになってしまいました。死に際しては文字どおり「感情を揺り動かされ」、不覚にも涙ぐみそうにさえなりました。ですから昭和44年、講談社版全集の配本がはじまって乱歩再評価の気運が高まってきたときには嬉しくてうれしくて。

 そんなことはまあどうだってよろしく、のびのびになっていた8月8日付伝言のつづきにまいりますが、『谷崎潤一郎伝』に記されていた、

 ──おそらく当時谷崎は、恐怖を覚えつつ乱歩の作品に接したに違いない。

 というあたりを読んで、私はまず驚き、うれしく思い、しかしながらやはり、

 ──うーむ。

 と唸らざるをえませんでした。天国の乱歩が読んだら躍りあがって大喜びするところであろうが、これははたしてありであろうか。少なくとも私の認識としては、谷崎は通俗作家乱歩のことなど頭からばかにしていた、問題にしていなかった、歯牙にもかけなかった、そういったところなのであって、死から四十年以上が経過した現在の眼から見れば谷崎と乱歩を並び称するこうした推断も成立するかもしれないが、しかしなあ、うーむ。

 谷崎が乱歩をどう見ていたかはひとまずおいて、大正時代に谷崎と乱歩を関連づけて論じた例があったのかどうか。そのあたりを手近なところで探してみますと──

  本日のフラグメント

 ▼1926年7月

 大衆文芸家総評 村松梢風

 「大衆文芸研究」を特集した「中央公論」大正15年7月号に掲載されました。底本は『編年体大正文学全集 第十五巻』。

 江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』と云ふ作は面白かつた。主人公が下宿屋の屋根裏に上つて大蛇のやうな棟木をつたふて這つて歩いてゐると、自分も大蛇になつたやうな気持になるあたりの病的な感覚描写は光つてゐた。此の作は刺戟もありトリツクもあつて探偵小説として確に成功してゐる。只難を云へば全体の文章に力がない。それで余程損をしてゐる。

 同じ文集の中から『白昼夢』『踊る一寸法師』『毒草』の三篇を拾ひ読みした。白昼夢はお終ひの処がよかつた。踊る一寸法師は道具立の仰山なわりに手品の種が浅くて最後の一寸法師が生首を提げて踊る処もちつとも迫つてゐない。毒草は小篇だつたが反つて無理がなくて面白くもあるし、文章の運びが他の作に比べると余程落ち付いて来て練熟してゐた。尤もどれを先に書いたのだか私は知らないが、此の人はエドガワランポと名乗るだけあつてどの作を見ても普通の探偵小説以上にグロテスクな世界へはいつて行かうとする努力を示してゐるしまた其の方面に於ける素質も相当認められるが、しかし本物のポーまで達するには矢張り横浜からニューヨーク迄の距離があるし、ポーの追従者としても谷崎潤一郎や佐藤春夫に及ぶべくもない。江戸川氏には肝心の詩が皆無だ。谷崎氏が以前書いた小説の中には探偵小説としても日本では第一位に置かるべき作が沢山ある。

 何なんだこの村松梢風といふ人は。適当な感想を無責任にならべやがって。しかしここにも見られますとおり、「ポーの追従者」という基準から見ても乱歩は谷崎に及ぶべくもない。それが当時のごく一般的な認識ではなかったかと思います。

 あすにつづきます。


 ■ 8月12日(土)
矢祭の試みと名張の残念

 きのうの朝日新聞にこんな記事が載っておりました。

蔵書買わず、施設建てない 福島・矢祭が節約図書館準備
 本を買わず、建物も建てないで新しい図書館をつくる。そんな試みを、「合併しない」宣言で知られる福島県矢祭町が進めている。厳しい財政事情を背景に、住民ボランティアを中心に開設準備を進め、既存施設を改修、収蔵図書は寄贈してもらうという。町の呼びかけに1カ月足らずで、全国から7万冊以上が集まった。(木村英昭)

 人口約7千人の同町には現在、集会施設の一角に約7千冊を収蔵する図書室があるだけだ。昨年度の町民アンケートでは図書館建設を望む声が高かった。しかし、新設の財源がない。町は築40年の柔剣道場を改修し、3万冊余が収蔵できる施設に変えることにした。

 先月、住民ボランティア42人が開設準備委員会を立ち上げた。県立図書館の指導を受けながら仕分けや分類作業などに当たっており、来年1月の開館を目指している。貸し出し業務も住民主体で運営する計画だ。

 「合併しない」と宣言した福島県矢祭町が「本を買わず、建物も建てないで新しい図書館をつくる」準備を進めているという記事です。市町村合併を拒否した自治体はとりあえず知恵をしぼらなければしかたがない、という見本のような話でしょう。朝日新聞のオフィシャルサイトでは地方版の記事は「マイタウン」というカテゴリでの扱いになるのですが、この記事は「マイタウン」ではなく「暮らし」に仕分けされていますから、ニュースとしての価値が全国規模であると判断されたものと見られます。

 こうなりますと惜しまれるのはわが名張市の市立図書館ミステリ分室構想でしょう。合併しないと宣言した三重県名張市が本を買わず、建物も建てないで江戸川乱歩の生誕地にふさわしいミステリ専門の図書館を全国のミステリファンの協力を仰ぎながらつくろうというのですから、ニュースバリューは矢祭町の試みの比ではありません。私はそんなことどうだってかまわないのですが、名張市が小さいながらも知恵のある自治体であることがメディアを通じて全国にPRされるいい機会であったと思われます。しかし実際のところは知恵がないものですから名張市立図書館ミステリ分室構想はあっさり消え去ってしまいました。残念な気がしないでもありません。

 いやいや、いつまでも死児のよわいを数えて何とする。谷崎潤一郎の話題にまいりましょう。とはいえ本日は都合によりましてあっさりと。

  本日のフラグメント

 ▼1930年4月

 春寒 谷崎潤一郎

 「新青年」の昭和5年4月号に掲載されました。

 僕の旧作「途上」と云ふ短篇が近頃江戸川乱歩君に依つて見出だされ、過分の推奨を忝うしてゐるのは、作者として有り難くもあるが、今更あんなものをと云ふ気もして、少々キマリ悪くもある。ありていに云ふと、あれが発表された当時は、誰も褒めてくれた者はなかつた。或る月評家は「単なる論理的遊戯に過ぎない」と云ふ一語を下して片附けてしまつた。唯さすがに佐藤春夫だけは「あの細君が自分では何も知らずに無数の危険をくゞり抜けて行く感じが、もう少しハラハラさせるやうに書けてゐるといゝんだがな」と云つた。批評も斯う云ふ風に、作品の狙ひ所を適確に受け取つてくれての上ならば、褒められてもくさされても決してイヤな気はしないものである。「途上」はもちろん探偵小説臭くもあり、論理的遊戯分子もあるが、それはあの作品の仮面であつて、自分で自分の不仕合はせを知らずにゐる好人物の細君の運命──見てゐる者だけがハラハラするやうな、──それを夫と探偵の会話を通して間接に描き出すのが主眼であつた。殺人と云ふ悪魔的興味の蔭に一人の女の哀れさを感じさせたいのであつた。佐藤は何と云はうとも、作者自身は今でもそれが或る程度まで成功したと信じてゐる。

 あすにつづきます。


 ■ 8月13日(日)
三重県議会ぺこぺこ合戦

 しつこいかもしれん。しつこいかもしれんが先生関連の続報です。

 まず昨日付朝日新聞。

県議会で謝罪合戦 臨時議会
 県議会前議長の田中覚氏(48)=7日に議員辞職=が飲食店長にけがを負わせ、傷害罪で罰金刑となった事件を受けた県議会臨時会が11日に開かれた。藤田正美議長が冒頭、「現職県議の逮捕は誠に遺憾。議会を代表し心からおわびする」と言えば、野呂昭彦知事も公金詐欺などの容疑で職員が逮捕された事件で「誠に遺憾なことであり、県民の皆様に心から深くおわびする」と頭を下げた。県当局と議会が謝罪の応酬になる異例の事態になった。

 全議員が政治倫理確立特別委員会の設置に賛成。議員の倫理に関する条例を作成することが決まった。委員は新政みえと自民・無所属・公明議員団から各5人、未来塾から2人の計12人で、委員長に橋川犂也県議(自無公)、副委員長に舟橋裕幸県議(新政みえ)を選んだ。

 先生の暴力沙汰に端を発して8月11日に開かれた臨時県議会の話題です。なんですか「謝罪合戦」とやらが展開されたそうで、まず議長が、

 「現職県議の逮捕は誠に遺憾。議会を代表し心からおわびする」

 ぺこり、と頭をおさげになりました。できの悪い部下が公金を懐に入れていたことが発覚した知事のほうも負けてはいません。

 「誠に遺憾なことであり、県民の皆様に心から深くおわびする」

 と頭をおさげになりました。なんと謙虚な話でしょう。この暑いさなか、開会する必要なんかまったくなかった臨時議会をわざわざ開いての謝罪合戦。県民としては高原の涼風に吹かれるようなすがすがしさをおぼえずにいられません。

 伊勢新聞は二本立てです。

県民におわび 県議傷害で知事も議長も謝罪 県議会臨時会
 県議会は十一日、臨時会を開き、会期を同日一日限りと決めた後、県水道事業での三億六千百万円の県債借り換え専決処分議案を上程し、予算決算特別委で諮った後、原案通り承認し閉会した。併せて政治倫理確立特別委員会の設置を認め、委員長には自民・無所属・公明議員団の橋川犂也、副委員長には舟橋裕幸の両県議の選出を承認した。藤田正美議長は開会ならびに閉会あいさつで、県議の傷害・暴行事件に触れ、野呂昭彦知事は職員の架空契約での詐欺容疑に言及するなど、両者が共に県民へ謝罪するという異例の臨時会となった。

「足元見つめ直したい」田中前県議、各派に謝罪
 津市内の飲食店店長への傷害事件で七日に議員辞職した田中覚氏(48)は十一日、古巣の県議会を訪ね、議長室や各会派室を回って「ご迷惑をお掛けしました」と謝罪した。今後の身の振り方では「足元を見つめ直したい」とし、罰金五十万円の略式起訴後同様、白紙との姿勢を崩さなかった。

 田中氏は正午前に議長室で待機。臨時議会閉会後、同室に戻った藤田正美議長や萩野虔一副議長、所属会派だった「新政みえ」の三谷哲央代表らと会談し、同氏の議員辞職をめぐり、臨時会開催にまで至った点などを「議会に迷惑を掛けた」などとしてわびた。

 先生も頭をさげておられます。記事から引用いたしますと、

 「ご迷惑をお掛けしました」

 「足元を見つめ直したい」

 「議会に迷惑を掛けた」

 「ご迷惑をお掛けし、おわびを」

 「大変申し訳ありませんでした」

 「当面、自分の足元、景色を見つめ直したいと思います」

 「十六年間走り続けてきて、自分を見失った点もある。将来のことは自分の足元、景色を見つめ直した上で」

 ぺこりぺこりの連続です。なんと謙虚なことでしょう。これに対し、自民党県連幹事長は先生の手を両手でしっかと握りながら、

 「人生にはいろんなことがあるで。頑張って」

 なんとおやさしいことでしょう。

 お次は毎日新聞。

田中元県議の暴行傷害:事件受け、政治倫理確立特別委を設置−−県議会臨時会 /三重
 前県議(7日付で辞職)の田中覚氏(48)の傷害事件を受け、県議会は11日、臨時会を開き、政治倫理確立特別委員会を設置した。

 委員は12人で、委員長に橋川犂也氏(自民・無所属・公明議員団)、副委員長に舟橋裕幸氏(新政みえ)を選んだ。藤田正美議長は、閉会のあいさつで、「県議には重大な使命とより高い倫理的義務が課せられていることを深く認識し、早期に政治倫理条例が制定されることを願う」と述べた。

 そもそもこの日の臨時議会がなぜ開かれたのかといいますと、『江戸川乱歩年譜集成』編纂者の腕を発揮してネット上の新聞記事を年表ふうに再構成した7月30日付伝言を見てみれば一目瞭然。必要箇所を抜粋しますと──

7月24日(月)
自民・無所属・公明議員団が総会を開き、先生への辞職勧告決議案などを議論するため知事に臨時議会の招集を請求することを決めた。団長は「県民の関心も高く、県議会として態度を早く示さないと県民の理解が得られない」とし、「会派内では辞職勧告決議案を早く出すべきという意見が多く、臨時議会中に決議案を提案することになるだろう」と述べた。[7月25日付毎日新聞

7月25日(火)
県議会各派の代表者会議が開かれ、自民・無所属・公明議員団の呼びかけに新政みえなどほかの会派も賛成して、政治倫理確立特別委員会の設置を目的に臨時会を招集するよう県議会が知事に請求した。団長は「県議会として早くこの問題を取り上げ、県民に説明責任を果たさないといけない」と説明した。[7月26日付毎日新聞

 つまり先生に対する辞職勧告決議案を議論する、政治倫理確立特別委員会を設置する、このふたつを目的に開かれたのがこの日の臨時会だったわけですが、先生は8月7日に辞職してしまいましたから辞職勧告決議案なんてどうだってよくなってしまいましたし、政治倫理確立特別委員会を設置する必要などは最初からこれっぽっちもありません。

 これは以前にも指摘したことですけれど、ここにひとりの政治家がいて、その政治家が飲食店で待たされたことに腹を立てて店の人間に暴行を加えるようなことがあったとしても、そんなのは政治倫理には何の関係もない話です。単にその政治家が人として決定的なあほであったというだけの話です。そんなことでいちいち政治倫理がどうのこうのとやかましくさえずっているようでは、普通なら人からばかと呼ばれてしまいます。

 にもかかわらず、知事は県議会の請求を受けて臨時会を開会してくださいました。そして県議会はまず県民に謝罪し、それから政治倫理確立特別委員会を設置してくださいました。ですから近い将来に制定されるはずの政治倫理条例には、

 「いくら腹が立ったときでも人に椅子をぶつけないようにしましょー」

 ですとか、

 「トイレに行ったあとは手を洗いましょー」

 ですとか、幼稚園児レベルのおやくそくが条項としてずらずら書きならべられているにちがいありません。なッ、なんと謙虚な。三重県議会の先生たちはなんと謙虚な人たちなのでしょう。一般的に考えれば、政治倫理条例にはたとえば、

 「そこらの業者と癒着して甘い汁を吸ってることは絶対ばれないようにしましょー」

 みたいなことが書かれてなければおかしいのですけれど、いやいやこれは、

 「そこらの業者とは癒着しないようにしましょー」

 とあるべきなのか。まあいずれにせよ百八十万県民から負託を受けた三重県議会のやってくれることです。まちがいはないでしょう。県民のなかには、あれ? あれれ? 7月25日には自民・無所属・公明議員団の団長が、

 「県議会として早くこの問題を取り上げ、県民に説明責任を果たさないといけない」

 といってくれたそうだけど、8月11日の臨時議会であの問題にかんする説明責任が果たされたのかな、何も説明されてなんかいないように思えるけど、三重県議会は自分たちの都合だけで動いてるようにしか見えないけど、とお思いの方がいらっしゃるかもしれませんが、えーい、黙らっしゃい。県民風情が何を申すか。この臨時議会にかんして私は7月27日付伝言に、

 ──だからわざわざ臨時議会を開いて説明しなければならぬことなど何もないのである。「政治倫理確立特別委員会の設置を目的に」などというのはその場のがれのおためごかしにしか聞こえぬ。手前どもは無関係ですと訴えたいのが三重県議会の本音であろう。しかしここまで本音を明らかにしてしまったら、三重県議会における「説明責任」なるものは保身のためのとりつくろいでしかないこともまた明らかになってしまう。だから寝言は寝てからいえというのだ。

 と記しているのである。あんな寝言にまともにつきあってどうする。三重県議会がばかばっかだからといっていちいち驚いていられるか。そんなことで三重県民がつとまるか。みんなもっとばかに慣れよーぜ。おれなんてもう免疫ついてっから。

 さ、どうしようもないぼんくら議会の話題はここまでとして、谷崎潤一郎の話題にまいりましょう。本日も時間の都合であっさりしており、きのうきょうとただ素材をならべただけみたいであることを遺憾といたします。

  本日のフラグメント

 ▼1974年7月

 解説 澁澤龍彦

 角川文庫『パノラマ島奇談』の巻末解説です。底本は齋藤愼爾さん編の『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』(メタローグ)。

 『金色の死』と『パノラマ島奇談』とは、実際、驚くほどよく似ている。浴槽のなかに大ぜいの裸女が跳ねまわっているという、エロティックな人工楽園のイメージまでが、そっくりなのである。直接の影響は、むしろポーより潤一郎の方から受けていたのかもしれない。ポーの『ランドアの屋敷』は、贅沢だけれども徹底的に簡素であって、ゴシック趣味という、一定の統一的な美学によって支配されているが、潤一郎と乱歩の人工楽園は、何がなし往時の浅草の花屋敷を思わせるような、徹底した俗悪ぶりであることも共通している。しかし私は、潤一郎のいかにも大正期の文学青年らしい、みじめな様式的混乱を露呈した、泰西美術の滅茶苦茶な導入よりも、乱歩の子供っぽい水族館やパノラマのメカニズムの方が、同じく俗悪とはいえ、まだしも美学的に許せるような気がしないこともない。少なくとも、『金色の死』よりは『パノラマ島奇談』の方が、詩的であることは確実なのだ。

 あすにつづきます。


 ■ 8月14日(月)
乱歩の相聞、谷崎の返歌

 本日は四海波静か。お盆というものはこうでなければならぬでしょう。さっそく谷崎の話題に入りますが、これまでのところを整理しておきますと、小谷野敦さんの新刊『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』(中央公論新社)に、

 ──谷崎は、乱歩に対して不安を覚えていたと思う。

 という指摘がありました。「つまり乱歩は、谷崎が提示したモティーフを、より完成された形にしたのである」、ゆえに「おそらく当時谷崎は、恐怖を覚えつつ乱歩の作品に接したに違いない」といったことなのですが、引用全文は8月8日付伝言でどうぞ。

 ところが私は以前からずっと、

 ──谷崎は通俗作家乱歩のことなど頭からばかにしていた、問題にしていなかった、歯牙にもかけなかった、

 と認識しておりましたので、小谷野さんのこの推断には「うーむ」と唸らざるをえませんでした。いまでこそ谷崎と乱歩がならべて論じられるのも珍しいことではないようですが、こんなのはごく近年の傾向ではないのか。乱歩がデビューしてまもないころには乱歩作品に谷崎のそれと共通する味わいを感じた読者も存在していたことでしょうが(8月11日付伝言の村松梢風の文章がその一例)、いわゆる通俗長篇に転じて以降、谷崎と乱歩を同日に談ずる同時代評はほとんど例がなかったのではないか。

 同時代の読者はともかくとして、当事者である作家本人はどうであったのか。昭和5年4月に発表された「春寒」において、谷崎は乱歩のことをずいぶんと見くだしています。自分と同じ土俵で相撲をとっている力士ではないと断じている気配があります。だいたいが谷崎は嫌いな人間にはひどく冷酷で、そうした感情をはばかることなくあからさまにしてしまう人間でもあったようで、たとえば谷崎松子の「倚松庵の夢」には、

 ──自分の好きでない人に会った時の素振りは実に全く取りつく島もないと云う言葉が如実に生き生きする位立派なもので、相手の人に外方を向いて煙管で思いきり吸い込んだ煙草を天井に向けてやけにふきつけ、煙草盆をポンポンと気せわしく叩く仕種は如何なる名優も及ばないであろうと、ひそかに仰天し、時に恐くもあった。

 といった谷崎の日常が記録されていますが、「春寒」などはまさしく煙草の煙を天井にやけに吹きつけ、煙草盆をぽんぽん気ぜわしく叩きながら書いたような文章であると私には見えます。8月12日付伝言に引いたところを再掲いたしますと──

 僕の旧作「途上」と云ふ短篇が近頃江戸川乱歩君に依つて見出だされ、過分の推奨を忝うしてゐるのは、作者として有り難くもあるが、今更あんなものをと云ふ気もして、少々キマリ悪くもある。ありていに云ふと、あれが発表された当時は、誰も褒めてくれた者はなかつた。或る月評家は「単なる論理的遊戯に過ぎない」と云ふ一語を下して片附けてしまつた。唯さすがに佐藤春夫だけは「あの細君が自分では何も知らずに無数の危険をくゞり抜けて行く感じが、もう少しハラハラさせるやうに書けてゐるといゝんだがな」と云つた。批評も斯う云ふ風に、作品の狙ひ所を適確に受け取つてくれての上ならば、褒められてもくさされても決してイヤな気はしないものである。「途上」はもちろん探偵小説臭くもあり、論理的遊戯分子もあるが、それはあの作品の仮面であつて、自分で自分の不仕合はせを知らずにゐる好人物の細君の運命──見てゐる者だけがハラハラするやうな、──それを夫と探偵の会話を通して間接に描き出すのが主眼であつた。殺人と云ふ悪魔的興味の蔭に一人の女の哀れさを感じさせたいのであつた。佐藤は何と云はうとも、作者自身は今でもそれが或る程度まで成功したと信じてゐる。

 谷崎は乱歩の「途上」評を批判しています。「途上」は大正9年1月の「改造」に発表された作品ですが、乱歩は大正14年8月の「新青年」増刊に「日本の誇り得る探偵小説」を発表し、

 ──僕は「途上」こそ、これが日本の探偵小説だといって、外国人に誇り得るものではないかと思う。

 と「途上」を絶讃しました。探偵小説ファンが「専門の探偵作家の書いたものでなければ、例えば文壇の人の作物などは、純文芸であって、探偵小説ではないとして、顧みない」風潮に異を唱え、「潤一郎や春夫の作品を探偵小説といってはいけないものだろうか」として、「途上」こそは「芸術品であって、同時に純探偵小説ではないか」と結論づけているのですが、この相聞に対する谷崎の返歌が「春寒」だったわけです。

 いわく、「途上」には探偵小説のようなところもあり論理的遊戯もあるけれど、それは「仮面」にすぎない。そんなところをうんぬんするのは「狙ひ所」をはずした批評である。自分が書きたかったのは「一人の女の哀れさ」なのである。

 これを読んだ乱歩はどう思ったか。むかっ腹を立ててキレてしまったようです。「春寒」から二年後の昭和7年5月に発表された「探偵小説十年」からそれがうかがえます。「日本の誇り得る探偵小説」にかんして記されたところを読んでみましょう。「この一文は今から考えると少し見当はずれな箇所がある様に思うが」としながらも──

いつか谷崎氏が「あんな風に感心して貰っても一向有難くない」という意味のことを書いていたが、それは氏自身の小説の探偵小説的に面白い部分を、一寸軽蔑して見せることでしかない。谷崎氏とは未だに面識がない。作品にはひどく感じ入っているが、逢い度いとは思わぬ。だがあの人の近頃の字が好きなので、それに作家として敬愛もしているので、何か書いて貰って床の間に懸けて置き度い様に思う。それをある人に話したら、子供みたいだといって笑った。子供みたいかしらん。

 乱歩は二年たってもむかっとしていて、「逢い度いとは思わぬ」と宣言しています。谷崎の書を床の間にうんぬんといったあたりにも、素直な敬愛よりはからかいの気分を読みとるべきかもしれません。あるいは「子供みたいかしらん」といった結びにも。

 まあそういったようなことなので、「春寒」という随筆から判断するかぎり、谷崎は乱歩に不安や恐怖をおぼえてなどいなかったのではないかと思われます。しかし『谷崎潤一郎伝』にはこんな指摘も見られます。

 大正三年の「金色の死」を、三島由紀夫が一九七〇年に谷崎を解説するのに選びだしたのは有名な話で、その際三島は、作者はこの作品を嫌い、生前のどの全集にも収録されなかった、と書いている。生前の全集というのは、昭和五─六年の改造社版以降のことだろうが、大正十一年には春陽堂ベストポケット傑作叢書として『金色の死──他三篇』が出ていて、そう始めから嫌っていたわけではないことが分かる。ではなぜ昭和五年の全集には入らなかったか、といえば、昭和二年に乱歩の「パノラマ島奇談」(連載時の表題は「パノラマ島奇譚」)が完結し、昭和四年までに三つの単行本に収められていたからだろう。「金色の死」は、ポオの「アルンハイムの地所」の系譜上にある、理想の邸宅の建造というモティーフが、主人公の無惨な死をもって終わる作品だが、乱歩の「パノラマ島奇談」は、それをより巧みに、面白く発展させたものなのである。

 この指摘には虚をつかれました。とても合理的な解釈だと思えます。だがしかし、やはり私はうーむと思う。

  本日のアップデート

 ▼2006年8月

 よみがえる乱歩/「全集」を監修 山前譲さんにきく 田中倫夫

 「しんぶん赤旗」日曜版に掲載されました。私は日本共産党員でもなければそのシンパでもないのですが、ある方から電話でお知らせいただいてこのインタビュー記事のことを知りました。

 最後の二問ほどをどうぞ。

 ──山前さんのお勧めの作品を三つあげると?

 「作家生活を書きつづった『探偵小説四十年』は日本のミステリーの歴史そのもので、私のバイブルです。読むたびに新しい楽しみ方が出てくる。『陰獣』はひとり二役、どんでん返しなど乱歩趣味をふんだんに盛り込んだ本格推理の傑作。『人間椅子』は椅子(いす)の上に座る人間の感触まで伝わる名作です」

 ──21世紀に「乱歩を読む」魅力は?

 「推理小説、探偵小説は、知的好奇心から出発する文学です。乱歩の魅力の根源には、時代が変わっても、人間は知的好奇心を失わないということがあります」


 ■ 8月15日(火)
実証主義はもうたいへん

 もうないだろうと思っていたらまだありました。先生関連の続報です。本日付中日新聞をどうぞ。

激論の末、離党届受理 田中氏問題で民主県連
 田中氏がかつて秘書を務めた中井洽衆院議員らは「すでに議員を辞職している」「倫理委の答申を尊重すべきだ」と訴えたが、岡田克也衆院議員らは「県連の見識が問われる」「統一選と参院選に向け、けじめをつけるべきだ」と除籍を主張。元党代表の岡田氏と元党副代表で大臣経験者の中井氏が、激しく議論する場面もあったという。

 岡田氏は学歴詐称事件で除籍となった古賀潤一郎元衆院議員の例を持ち出したが、受理の意見が主流に。最終的には岡田氏が「やむを得ない」と引き下がり、全会一致で受理が決まった。

 この結果、除籍なら厳しいとみられた田中氏の復党の可能性が残った。県連は来春の県議選で、定数三以上の選挙区に複数の候補を擁立する意向を示している。だが、田中氏の地元・伊賀市選挙区(定数三)について、党内からは「選挙後の田中氏の復党を見通して、候補者の擁立を一人にとどめるのでは」と推測する声も上がっている。(沢田敦、谷村卓哉)

 8月12日夜に民主党三重県連の緊急幹事会が開かれ、先生から提出された離党届を受理すべきか、それとも受理せずに除籍処分としてきっちり落とし前をつけてしまうか、侃々諤々の議論が戦わされたその結果、離党届を受理することで話がまるく収められました。なんともゆるゆるのお裁きです。

 私は岡田克也さんのおっしゃるとおり除籍処分が妥当だと思います。学歴を詐称したことを理由に除籍された衆議院議員がいたというのに、非力な女性に暴力をふるい、傷害罪で罰金五十万円の略式命令を受けた県議会議員が除籍されない。これは明らかにおかしい。かりに先生が衆議院議員であったとしたら、事件のことはテレビのワイドショーあたりでも大々的に報じられてぼこぼこにされ、除籍処分に追いこまれるのは必定であろうと判断されるところなのですが、ローカルな話題であるのをいいことに民主党はなあなあ体質をまるだしにして喜んでいる。まるで自民党である。

 先生の地元である旧上野市選挙区のみなさん。これがいったいどういうことなのかというと、民主党県連がみなさんをばかにしているということです。こけにしているということです。有権者の存在をないがしろにしているということです。これで先生が適当な時期を見はからって民主党に復党し、みそぎは終わったとかなんとかいっちゃって来春の県議選に立候補する可能性が残されてしまったわけなのですが、もしもそうなったら旧上野市選挙区のみなさん、そのときこそみなさんの良識を示す好機でしょう。これはむろんみなさんに良識などというものがあればの話ですけど、そのへんはじつに微妙だ。なにしろ旧上野市というところはいまだ近世まっただなかの土地柄なんですから、うーん、困った。

 私が困ったってどうにもなりませんけど、いやいやそんなことではなくて、よく考えてみたらば私はこの秋10月、旧上野市内のお寺で旧上野市民のみなさんにありがたいおはなしをすることになっているではありませんか。こんなことばっかいってるとそのお寺の境内に筵旗が林立するかもしれん。しかもそのうえ議員辞職して暇になったからと先生が私のおはなしを聴きにきてくださるかもしれん。もしもそんなことになったらどうしよう。そうだ。いい機会だから事件の真相をお聞かせいただくことにしようっと。ねーねーせんせー、ほんとにはめられちゃったんですかあー、とかなんとかいってたら先生はたしか柔道五段でいらっしゃるそうですから……

 ばかなこといってないで谷崎潤一郎の話題です。「金色の死」までたどりつきました。谷崎潤一郎が生前の全集に収録することを認めず、歿後ようやく読めるようになったといういわくつきの一篇。小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝』によれば、乱歩の「パノラマ島奇談」が「金色の死」のモチーフをより巧みにかつ面白く発展させた作品であったため、昭和五年から六年にかけて改造社から刊行された谷崎全集には収められなかったということなのですが、このあたりはどうなのか。

 要するに「金色の死」は意に満たない作品だから全集に入れませんでした、というただそれだけのことではないのかと私は考えておりました。谷崎というのはじつに中絶作の多い作家で、つまりは自作に対する評価が厳しく、他人に対してのみならず自作にも冷酷な作家であったわけですから、気に入らない作品を全集に収録しないのはあったりまえの話なのではないか。そんな例はたぶんごろごろしているのではないか。

 たぶんごろごろしているのではないか、などと推測しただけで終わっていたのでは実証主義の看板が泣きましょう。私は一応は実証主義の立場に立ちたいと念じている人間ですから、やはり実証してみなければなりません。手許には一冊の谷崎全集もなけれども、ありがたいことにきょうびのことですからインターネットが利用できます。国立国会図書館その他の図書館の蔵書を検索し、改造社版全集と1981年から83年にかけて刊行された中央公論社全集とを比較検討してみることにいたしました。

 以下、中央公論社版全集(全三十巻)のうち改造社版全集(全十二巻)の収録作品を収録した巻を列挙してみます(ややこしい話で恐縮です)。ただし改造社版全集第十二巻に収められた随筆は対象外といたしました(いよいよややこしくて恐縮です)。この色で示したのが改造社版全集に収められた作品です。中央公論社版全集第十二巻の「乱菊物語」は執筆時期が改造社版全集のカバーエリア外です(何のこといってんだかよくわからないくらいにややこしくて恐縮です)。

谷崎潤一郎全集 第一巻 1981年5月
誕生 象 The affair of two watches 刺青 麒麟 信西 彷徨 少年 幇間 飆風 秘密 悪魔 あくび 朱雀日記 羮 続悪魔

谷崎潤一郎全集 第二巻 1981年6月
恐怖 少年の記憶 恋を知る頃 熱風に吹かれて 捨てられる迄 憎念 春の海辺 饒太郎 金色の死 お艶殺し 懺悔話

谷崎潤一郎全集 第三巻 1981年7月
創造 華魁 法成寺物語 お才と巳之介 独探 神童 鬼の面

谷崎潤一郎全集 第四巻 1981年8月
恐怖時代 亡友 美男 病蓐の幻想 人魚の嘆き 魔術師 既婚者と離婚者 鶯姫 或る男の半日 玄弉三蔵 詩人のわかれ 異端者の悲しみ 晩春日記 十五夜物語 ハツサン・カンの妖術 ラホールより

谷崎潤一郎全集 第五巻 1981年9月
女人神聖 仮装会の後(対話劇) 襤褸の光 兄弟 少年の脅迫 前科者 人面疽 二人の稚児 金と銀 白昼鬼語 人間が猿になった話

谷崎潤一郎全集 第六巻 1981年10月
小さな王国 魚の李太白 嘆きの門 柳湯の事件 美食倶楽部 母を恋ふる記 蘇州紀行 秦淮の夜 呪はれた戯曲 西湖の月 富美子の足 真夏の夜の恋 或る少年の怯れ 或る漂泊者の俤 秋風 天鵞絨の夢

谷崎潤一郎全集 第七巻 1981年11月
途上 検閲官 鮫人 蘇東坡(或は「湖上の詩人」)  月の囁き 私 不幸な母の話 鶴唳 AとBの話 廬山日記 生れた家 或る調書の一節

谷崎潤一郎全集 第八巻 1981年12月
愛すればこそ 或る罪の動機 奇怪な記録 蛇性の婬 青い花 永遠の偶像 彼女の夫 或る顔の印象 お国と五平 本牧夜話 愛なき人々 白狐の湯 アベ・マリア

谷崎潤一郎全集 第九巻 1982年1月
肉塊 神と人との間 お伽劇雛祭の夜(映画脚本) 港の人々 無明と愛染(二幕) 腕角力(一幕)

谷崎潤一郎全集 第十巻 1982年2月
痴人の愛 マンドリンを弾く男 蘿洞先生 二月堂の夕 赤い屋根 馬の糞 為介の話 友田と松永の話 一と房の髪 金を借りに来た男 上海見聞録 上海交遊記 青塚氏の話

谷崎潤一郎全集 第十一巻 1982年3月
白日夢 日本に於けるクリツプン事件 ドリス 顕現 黒白 続蘿洞先生 卍

谷崎潤一郎全集 第十二巻 1982年4月
蓼喰ふ虫 三人法師 乱菊物語

 ごらんのとおりこの色以外の作品、つまり黒い色で示された作品も少なからずありますから、作者の意に染まなかったせいで改造社版全集に収録されなかった作品は「金色の死」のみにとどまらず結構ごろごろしていたようである、ということが裏づけられたように思います。しかしそれはそれとして、問題はむろん「金色の死」のどこが谷崎の気に入らなかったのかという点です。

 それにしても実証主義はもうたいへん。えらく手間ひまがかかってしまいました。手間ひまをかければかならず何かが解明できるというものでもなく、しかし実証できることはすべて実証しつくしたそのうえで実証できないことに想像力をフル回転させるのが実証主義の精髄というものなのであって、いやもうほんとにたいへんです。

  本日のフラグメント

 ▼1970年4月

 解説 三島由紀夫

 乱歩にはほとんど関係ありません。ていうかまったく無関係。新潮日本文学第六巻『谷崎潤一郎集』巻末に収録された解説です。底本は『三島由紀夫評論全集』第一巻。

 「金色の死」は大正三年十二月「東京朝日新聞」に掲載されたもので、自作に対して潔癖な作者自身に嫌はれ、どの全集にも収録されず、歿後の中央公論社版全集ではじめて読む機会が与へられた。作者自身に特に嫌はれる作品といふものには、或る重要な契機が隠されてゐることが多い。たとへぱ川端康成氏は、自作「禽獣」に対する嫌悪をしばしば公にしてゐるが、「禽獣」が傑作であるのみならず、川端文学の全貌を或る角度からくつきり照らし出す重要な作品であることは天下に知られてゐる。

 嫌悪や惑溺において、作家は思はず矩を越えることがある。感覚は理智の限界を越え、形式を破壊し、そこに思はぬ広大な原野を垣間見させることがある。しかも作者が丹精した園だけを案内される読者は、高い塀の蔦にかくれたドアをふとひらいて、別の広野を瞥見させられる機会に、この時を除いて二度と遭遇しない。あわてた作者は自分の誤りに気づき、読者を二度とそのドアのところまで案内しなくなるのである。

 あすにつづきます。


 ■ 8月16日(水)
民主党三重県連ころころ始末

 ついでですから行っときましょう。きのうの毎日新聞の記事です。

田中元県議の暴行傷害:田中氏の離党届受理を決める−−民主党県連 /三重
 田中氏は津市の飲食店の女性店長に対する傷害罪で罰金50万円の略式命令を受けたことに伴い、7日付で県議を辞職するとともに、県連に離党届を提出していた。県連は既に田中氏の県連役職(幹事)解任と、来春に予定される県議選の公認内定取り消しを決めている。【田中功一】

 ついでですからもうちょいおちょくっときましょうか。7月29日付伝言から引きます。

7月22日(土)
午後3時30分、民主党県連が緊急幹事会を開き、先生の処分は倫理委員会を設置して協議することを決定した。[7月23日付伊勢新聞
民主党県連が幹事会を開き、先生の幹事職の解任と、来春の県議会議員選挙での公認内定取り消しを決定した。[7月23日付毎日新聞
民主党県連が緊急幹事会を開いて先生の県議選での公認内定を取り消し、県連役員の常任幹事を解任した。「党の名誉を傷つけた」として倫理委員会を設置し、早ければ23日にも処分を決めることにした。[7月23日付中日新聞

 7月22日の段階で、民主党三重県連は先生を幹事職から解任し、来春の県議会議員選挙では先生を公認いたしませんと表明したわけです。なおかつ先生が「党の名誉を傷つけた」ため、倫理委員会を設置して先生の処分を決定することにしました。この時点では、先生はいまだ容疑を全面否認しておりました。県連は何を焦っておったやら。

 お次は7月30日付伝言から。

7月23日(日)
午前、民主党県連が津市内で倫理委員会を開き、先生の党員身分について「除籍処分が適当」としたうえで幹事会に諮問した。[7月24日付毎日新聞
午後、民主党県連の幹事会が津市内で開かれ、倫理委員会の諮問を検討。津地検で起訴などの処分が決定されたあと、正式決定することを決めた。処分を先延ばししたことについて、代表は「本人が容疑を全面否認していることなどを考慮した」と語った。[7月24日付毎日新聞

 7月23日、倫理委員会は「除籍処分が適当」との判断を示しました。が、それを受けた幹事会は結論を先送りしました。理由は「本人が容疑を全面否認していることなど」とされていたのですが、本人が罪を認め、傷害罪で罰金五十万円の略式命令を受けたのですから、先送りの理由はとっくになくなっております。

 ひきつづく倫理委員会は8月9日に開かれたようなのですが、いつのまにか見解がころっと変わってしまったみたいです。昨日付中日新聞の「激論の末、離党届受理 田中氏問題で民主県連」には、

 ──倫理委員長の森本哲生衆院議員が9日の同委の協議結果について「除籍処分を求める声もあったが、全般的には『除籍は厳しい』との声が多かった。私に一任されたが、受理の方向でいかがでしょうか」と答申した。

 とあるのですから、民主党って、あほ? と思わずにはいられません。よくもここまでころころと意見を変えられるものです。7月23日に「除籍処分が適当」との判断を示しておきながら、いまになって何が「除籍処分を求める声もあったが、全般的には『除籍は厳しい』との声が多かった」でしょうか。じつにいい加減です。しかしこの場合、民主党県連のみなさんが全員あほであるという可能性と同時に、県民には見えない藪の中、つまり三重県政の闇の中で何かしら大きな力が働いたという可能性も捨てることはできないでしょう。いずれにせよ民主党三重県連なんてとても信用できるものではない、というのはたしかなことのようです。

 そして8月12日、除籍処分は見送られて先生の離党届が受理されました。ということはきのうの中日新聞にもありましたように「田中氏の復党の可能性が残った」、つまり先生が民主党に復党したうえで来春の県議選に出馬する可能性が残されたわけなんですから、そんなおかしな話はありますまい。ほんとに選挙民を愚弄した話ではあり、旧上野市選挙区の有権者のみなさんは、いやみなさんもみなさんなんですからもういいか……

 「金色の死」の話題に戻ります。三島由紀夫は1970年4月に刊行された新潮日本文学『谷崎潤一郎集』の解説で、谷崎から「特に嫌はれ」ていた「金色の死」をとりあげ、ていうか解説のほとんどすべてを費やしてこの作品を論じ、「金色の死」に秘められていた「或る重要な契機」を検証しました。

 作者に嫌われた作品にこそ作者の重大な秘密が隠されているというのは、乱歩作品でいえばいわゆる通俗長篇、わけても「盲獣」あたりを想起すればわかりやすいおはなしでしょう。

 というところで申しわけありませんが時間切れです。あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 魔人ゴング 江戸川乱歩

 巻末解説です。

解説 BDバッジは少年の憧れだった 二上洋一
 さて、少年探偵団の団員は、身分証明証として、鉛でつくられたBDバッジという記章を持っていました。

 BDとは Boy Detectives(少年探偵団)の頭文字を取ったもので、表は花文字で飾られたBとDが組みあわされていました。団員は、これをたくさんポケットに入れて持ち歩いていました。

 バッジは単に記章というだけでなく、鉛製で重いため、いざという時銭形平次の銭のように石つぶてとして使えるし、柔らかい鉛の裏側にナイフで文字を彫り通信もできますし、誘拐された時は道に落として目印にすることもできるのです。

 裏面のピンにヒモを結べば、水の深さや高さをはかることもできます。少年探偵団のファンにとっては、憧れのアイテムでした。


 ■ 8月17日(木)
谷崎はパノラマ島を読んだのか

 「金色の死」の話題です。8月15日付伝言で引いた「解説」で三島由紀夫は、「金色の死」は「明らかな失敗作」であり、「しかし天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのほうに作家の諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである」と述べています。そしてこの作品は「一種の思想小説・哲学小説」であり、「谷崎氏の生涯の美の理想が語り尽されて」いるのだが、それは「これより後谷崎氏によつて故意にか偶然にか完全に放棄された思想」にほかならず、谷崎はここに示された「命題を綜合的に追究することなく、失敗作『金色の死』から身を背けてしまつたのである」と指摘しています。

 以後は、私の、若き谷崎氏に対する推理的探究である。氏は「金色の死」を書いたとき、もしこのやうな思想を実践しようとすれば、行く先には、芸術体現の直接性瞬間性の永遠化として、正に「金色の死」しか存在せず、氏の芸術は、ただ一つ、死を目的とするところの、認識放棄の未聞の芸術になるといふことを直感したにちがひない。

 要するに谷崎は、「金色の死」に理想の美の体現者として描いた「岡村君」になることを断念した。岡村君のように美を追求し実践してゆくならば死を選ぶしかなくなってしまうことを直感し、身を翻して「金色の死」の主題を永遠に放棄してしまった。そのことで谷崎は「自殺を否定し」、認識者として生きることを選択した。「生きるといふことは、自己が美しいものになることを断念することであり、『金色の死』の芸術論の大切な前提を断念することである」。そのような生を選んだ谷崎自身によって、「金色の死」は葬り去られてしまった。

 これはもう批評家三島の面目が躍如とした分析であるというしかないでしょう。谷崎作品全体を視野に入れ、作者自身の手で葬られていた「金色の死」を全作品のなかに据え直して、そこに隠された何かしら重要な秘密を探りあてる。批評家の仕事のひとつは作者自身にさえ自覚されていない無意識的企図を探りだすことにあるのでしょうから、三島由紀夫の慧眼はまさに批評家として十全に機能していたというべきでしょう。

 ただしこの「解説」、われわれはある先入観にもとづいてしか読むことができないように思われます。われわれの前には「解説」が発表されたのは1970年4月のことであり、おなじ年の11月25日には三島自身が「金色の死」を迎えたという事実が横たわっている。「解説」執筆の時点で自死は明確な目標として存在していたことでしょうから、われわれはこの調子の高い「解説」から遺書に似た印象を感じとらずにはいられないのではないか。三島は「解説」のなかで、

 ──話者の「私」は岡村君を際立たせるために故意に凡庸な性格を与へられてをり、「私」と谷崎氏は境遇こそ似てをれ、全くの別人である。むしろ「私」といふアリバイを設定することによつて、作者は自由に岡村君に感情移入をなしえたやうに思はれる。

 と記しているのですが、作中の「私」も「岡村君」同様に谷崎の分身であったと見るべきでしょう。「全くの別人」としたのは三島が自身と谷崎との決定的な差異を強調するためのそれこそ「アリバイ」工作であり、そのアリバイがあったればこそ三島自身がこの文章において思う存分「感情移入をなしえたやうに」私には思われます。それはむろん、谷崎が若き日に断念してしまった「金色の死」の延長上に訪れたはずのものに対する感情移入なわけですが。

 しかしまあそれはそれとして、三島由紀夫による精緻な検証分析はげんにあるにせよ、しかし谷崎自身にとって「金色の死」は単に意に満たない作品ということでしかなかったのだろうと私は考えておりました。「金色の死」は生硬で稚拙な若書き、幼稚浅薄な美意識や芸術論をそのまま作品化した失敗作でしかなく、全集を編むにあたっては躊躇なく捨て去られるべき一篇、ちょっとこんなのも書いてみたんだけどやっぱ失敗しちゃったな、みたいな程度のものでしかなかったのではないかと、私は長くそう思っていたわけです。

 そこへ出てきたのが小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝』でした。そこには何と書かれてあったか。8月14日付伝言に引用したところから引きますと、

 ──生前の全集というのは、昭和五─六年の改造社版以降のことだろうが、大正十一年には春陽堂ベストポケット傑作叢書として『金色の死──他三篇』が出ていて、そう始めから嫌っていたわけではないことが分かる。

 なーるほど、と私は思いました。こら理屈やな、と感じ入りました。たしかに谷崎は改造社版全集刊行に際して少なからぬ自作を埋葬してしまいましたが、単行本の表題作にしたほどの作品をあっさり捨て去るというのはいささか不可解ではないか。しかも調べてみると、「金色の死」は二度も表題作になっています。最初は大正5年6月刊の日東堂名家近作叢書『金色の死』(収録は「金色の死」「創造」「独探」)、次が大正11年5月刊の春陽堂ヴェストポケット傑作叢書『金色の死 他三篇』(収録は「金色の死」「人魚の嘆き」「刺青」「The affair of two watches」)。てことは結構なお気に入りだったんじゃないの、と私は思うた。

 ここで実証主義の立場から附言しておきますと、単行本の表題作になりながら改造社版全集に収録されなかった作品には「金色の死」のほかにもう一篇、大正12年の1月から4月にかけて(つまり関東大震災の直前ということになりますが)「東京朝日新聞」に連載された「肉塊」というのがあるのですが、大正13年1月に春陽堂から出版されたという『肉塊』の収録作品などの詳細は不明です。ともあれ、単行本の表題作品が改造社版全集に収録されなかったのはレアケースであったとはいえ、ほかにも例のないことではなかったということになります。

 で、小谷野さんは「金色の死」にかんして、

 ──ではなぜ昭和五年の全集には入らなかったか、といえば、昭和二年に乱歩の「パノラマ島奇談」(連載時の表題は「パノラマ島奇譚」)が完結し、昭和四年までに三つの単行本に収められていたからだろう。

 と推測していらっしゃいます。たしかに「パノラマ島奇談」は昭和2年から4年にかけて三回にわたって出版されており、「江戸川乱歩著書目録」から引くならば次のとおりです。

一寸法師 創作探偵小説集第七巻
004
昭和二年三月二十日 春陽堂
四六判 函 三四九頁 二円
パノラマ島奇談/一寸法師
復刻版 A・B・C

江戸川乱歩集 現代大衆文学全集第三巻
006
昭和二年十月五日 平凡社
四六判 函 一〇五六頁 一丁 一円(奥付に非売品と記載)
挿絵:岡田七蔵、名越国三郎、岩田準一
はしがき江戸川乱歩
第一部 二銭銅貨/D坂の殺人事件/心理試験/黒手組/一枚の切符/灰神楽
第二部 二癈人/赤い部屋/白昼夢/屋根裏の散歩者/踊る一寸法師/毒草/鏡地獄/人間椅子
第三部 パノラマ島奇談/一寸法師/湖畔亭事件/闇に蠢く
 大衆文学月報第五号(八頁、十月十五日)
探偵小説壇繁昌記:江戸川乱歩/ソヴェート作家乱歩氏を推賞す:志垣生/岩田準一君の挿絵:乱歩
大衆茶話 ステージの実弾/探偵作家一本参る話:乱歩
江戸川乱歩略歴:
乱歩記/次回配本直木集に讃す/大衆談話室/本社から
初版 A・B・C

江戸川乱歩集 探偵小説全集第一巻
009
昭和四年六月十八日 春陽堂
菊半截判 函 四四五頁 一丁 五〇銭(奥付に非売品と記載)
押絵と旅する男/心理試験/疑惑/算盤が恋を語る話/黒手組/覆面の舞踏者/日記帳/夢遊病者の死/踊る一寸法師/百面相役者/盗難/人間椅子/幽霊/モノグラム/パノラマ島奇談
第九巻『運命の塔 ドラモンド』と二巻で一函 初版 A・B・C

 ここでひとつの問題が浮上してきます。谷崎潤一郎は「パノラマ島奇談」を読んでいたのかどうか。この一事です。

  本日のフラグメント

 ▼1926年6月

 探偵小説に就いて 萩原朔太郎

 「探偵趣味」の大正15年6月号に掲載されました。『探偵小説四十年』にも引用されている萩原朔太郎の探偵小説論です。

 谷崎と朔太郎はおなじ年の生まれで、『谷崎潤一郎伝』によれば両者の交友は大正6年にはじまったそうです。朔太郎が「パノラマ島奇談」を高く評価していたことは乱歩ファンならばよくご存じのところでしょうが、これは朔太郎が文章にして発表したことではなく、『探偵小説四十年』によれば池袋の乱歩邸を訪れた朔太郎が土蔵のなかで日本酒をちびちびやりながら、

 ──萩原氏は私の「パノラマ島奇談」を案外高く買っていて、「あれはいい、あれはいい」といってほめてくれた。

 この一節が朔太郎の「パノラマ島奇談」評として流布しているわけです。

 で、朔太郎の探偵小説論。底本は新保博久さんと山前譲さんの編による『乱歩 上』(講談社)。

 江戸川乱歩氏の「心理試験」を買ってよんだ。もちろん相当に面白かった。しかし有名な「二銭銅貨」や「心理試験」は、私にはあまり感服できなかった。日本人の文学としては、成程珍らしいものであるか知れない。しかし要するに「型にはまった探偵小説」じゃないか。西洋の風俗を、単に日本の風俗に換えたというだけの相違であって、既に僕等の飽き飽きしているコナン・ドイル的の探偵小説にすぎないのだ。探偵小説というものが、もしそのマンネリズムに安住して居り、その刻印された型の中で奇を競い、そして幼稚な読者を対手とする低級な通俗文学で満足しているならばもちろん僕等の言うことはない。しかし私は「大衆文学」を「低級文学」と同視しない。私は今日の所謂文壇芸術に反感している。あの玄人気取りの、日常茶談的な、低徊趣味の所謂文壇芸術を革命すべく、今や「新しい文学」の時代が迫りつつあることを予感している。

 文壇芸術は亡びるだろう。そして之れに代わるものは新興の大衆芸術でなければならない。「芸術としての大衆文学」でなければならない。しかして我が探偵小説等が、正にその新時代の先頭に立つべきことを考えている。それ故に私は江戸川氏の「心理試験」に不満する。通俗文学としてはそれで上乗の出来だろう。マンネリズムの探偵小説としては、世評の如く正に最近の傑作だろう。しかし新興文壇の黎明を予言する第一流の文学と見るには、遺憾ながら芸術的価値が足りない。

 少なくとも大正15年の時点では、乱歩をエースとして擁した探偵小説という文芸ジャンルが、在来の「文壇芸術」にあきたりなさをおぼえていた読者から「新時代の先頭」に立って「芸術としての大衆文学」への道を開くものと期待されていたことがうかがえます。

 谷崎にとって、事情はどうであったのか。朔太郎がそうであったのと同様に、谷崎もまた「パノラマ島奇談」を読み、高い評価を与えていたのか。


 ■ 8月18日(金)
谷崎は陰獣を読んだか

 さてそれで問題の「パノラマ島奇談」。はたして谷崎がこの作品を読んでいたのかどうか、みたいなことは私はこれまでに考えたこともありませんでした。なにしろ私は以前から、

 ──谷崎は通俗作家乱歩のことなど頭からばかにしていた、問題にしていなかった、歯牙にもかけなかった、

 と思っておりましたので。

 しかしよく考えてみると、この場合の谷崎というのは「細雪」を書き「鍵」を書き「瘋癲老人日記」を書き、いわゆる文豪として世俗的栄達の絶巓をきわめたあとの谷崎であったのだということに気がつきました。大正末年から昭和初年にかけて、つまり乱歩がデビューした大正12年から改造社版谷崎全集の配本がはじまった昭和5年まで、谷崎は同時代作家としての乱歩をどう見ていたのか。とくに講談社の雑誌にいわゆる通俗長篇を執筆するまでの乱歩は、谷崎の眼にどのように映っていたのであろうか。

 そんなことはむろんわかりません。だから推測してみることにします。まずは「江戸川乱歩著書目録」にもとづいて、当時の乱歩の著作を列挙してみましょう。アンソロジーや全集、翻訳などは省きます。

心理試験 創作探偵小説集第一巻
001
大正十四年七月十八日 春陽堂
四六判 函 三一一頁 二円
序:小酒井不木
二銭銅貨/D坂の殺人事件/黒手組/心理試験/一枚の切符/二癈人/双生児/日記帳/算盤が恋を語る話/恐ろしき錯誤/赤い部屋
初版 A・B・C

屋根裏の散歩者 創作探偵小説集第二巻
002
大正十五年一月一日 春陽堂
四六判 函 二八七頁 二円
屋根裏の散歩者/白昼夢/百面相役者/夢遊病者の死/幽霊/一人二役/疑惑/映画の恐怖/踊る一寸法師/指環/盗難/毒草/接吻/人間椅子
八版(大正15年2月5日) A・B・C

湖畔亭事件 創作探偵小説集第四巻
003
大正十五年九月二十六日 春陽堂
四六判 函 三三五頁 二円
鏡地獄/木馬は廻る/人でなしの恋/火星の運河/お勢登場/灰神楽/モノグラム/覆面の舞踏者/湖畔亭事件
復刻版 A・B・C

一寸法師 創作探偵小説集第七巻
004
昭和二年三月二十日 春陽堂
四六判 函 三四九頁 二円
パノラマ島奇談/一寸法師
復刻版 A・B・C

闇に蠢く 世界探偵文芸叢書第六編
005
昭和二年五月十六日 波屋書房
四六判 カバー 三二〇頁 一円二〇銭
闇に蠢く/D坂の殺人事件/屋根裏の散歩者/心理試験
A・B・C

陰獣
008
昭和三年十一月四日 博文館
四六判 函 三七六頁 一円五〇銭
陰獣/A Tell Tale Film/お勢登場/双生児/犯罪を猟る男/夢遊病者の死/角男/一人二役/百面相役者
十三版(昭和4年4月30日。初版発行を昭和3年11月8日とする) A・B・C

悪人志願 新青年叢書4
010
昭和四年六月二十一日 博文館
三六判 カバー 三一八頁 一円二〇銭
乱歩
 悪人志願/私の探偵趣味/乱歩打開け話/恋と神様/浅草趣味/参与官と労働代表/今一つの世界/無駄話/私の抱く夢/最近の感想
 映画の恐怖/吸血鬼/声の恐怖/墓場の秘密/錯誤の話/迷路の魅力/お化人形/旅順開戦館/探偵叢話/たね二三/暗号記法の分類/ある恐怖
 探偵趣味/日本人の探偵趣味/入口のない部屋・その他/精神分析学と探偵小説/雑感/探偵小説は大衆文芸か/発生上の意義丈けを/前田河広一郎氏に
 荒唐無稽/宇野浩二式/日本の誇り得る探偵小説/少年ルヴェル/一寸法師雑記/寸評/当選作所感/「押絵の奇蹟」読後
 半七劇素人評/映画横好き/探偵映画其他/映画いろいろ
 小酒井不木氏のこと/小酒井氏の訃報に接して/探偵作家としての小酒井不木氏/肱掛椅子の凭り心地/ラムール
初版 A・B・C

孤島の鬼
014
昭和五年五月十八日 改造社
四六判 なし 三三二頁 一円
装:竹中英太郎
孤島の鬼
初版 A・B・C

蜘蛛男
015
昭和五年十月二十日 大日本雄弁会講談社
四六判 函 四一二頁 一丁 一円五〇銭
装幀・口絵・挿絵:田中比左良
序にかえて江戸川乱歩
蜘蛛男
初版 A・B・C

 べつにこんなことまでしなくてもいいのですが、ずらずらならべてみると結構きれいかなと思いまして。

 まず『心理試験』。収録作品の大半は「新青年」に掲載されたもので、谷崎がそれを読んでいた可能性もあるわけですが、ここは単行本を問題にすることにして、谷崎は『心理試験』を読んでいたのであろうか。たぶん読んでいたのではないでしょうか。理由としては谷崎が探偵小説を好んだことがあげられます。小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝』には、東京創元社版世界推理小説全集の内容見本に寄せた、

 「推理小説と云ふものは、近代小説のうちで最も面白いものであると云へよう」

 という谷崎の文章が紹介されていますし、そういえば渡辺千萬子さんによるこんな証言も思い出されます。

  本日のフラグメント

 ▼2001年2月

 谷崎家の人々 渡辺千萬子

 中央公論新社『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』に収録されました。

 谷崎が古典落語をおおいに好み、いつもラジオで聴いていたというエピソードのあと──

それから「千萬ちゃん、チェスタトンは探偵小説をたくさん書いてるの?」と聞かれて、私はなんて当たり前のことをと思って「『ブラウン神父の知恵』でしょう。」とちょっと不服そうに答えました。(私はミステリー・マニヤなのです)それからの話はほんとうに面白いでした。「昔、芥川が丸善でチェスタトンのミステリーを見つけて来てね。二人で驚いて読んだことがある。“ウイズダム オブ ファザー ブラウン”と言うのだった。」まったく完全な日本式発音の英語で、私は吹き出してしまいました。勿論原文で読んだのでしょう。まるで自分達学生が今やっているみたいなことを、若い谷崎潤一郎と芥川龍之介が夢中になってしている情景が目の前に浮かんで来て、急に実在感が強くなり親しみが湧きました。

 日本ではじめて刊行された(といっていいように思うのですが)創作探偵小説集、作者は新進の探偵小説専門作家、筆名はポーのもじり、書名は心理試験。そんな本が出たと知って、谷崎の食指が動かなかったと考えるのは不自然でしょう。8月17日付伝言に引いた萩原朔太郎の「探偵小説に就いて」に記されていたところと同様に、谷崎もまた、

 ──江戸川乱歩氏の「心理試験」を買ってよんだ。

 といった感じでひもといたのではなかったか。しかしそのあと朔太郎のように、

 ──もちろん相当に面白かった。

 と感じたのかどうか。このあたりは微妙でしょう。朔太郎の「探偵小説に就いて」には「二銭銅貨」や「心理試験」への不満のあとに「赤い部屋」への讃辞が記され、

 ──所謂探偵小説のマンネリズムがない。そしてポオや谷崎氏の塁を摩するものが現われている。それから私は江戸川乱歩が好きになった。

 とあるのですが、乱歩が谷崎の塁を摩していたかどうかはともかく、そして朔太郎が『心理試験』をどう読んだのかもともかくとして、『心理試験』を読み終えた谷崎自身は自作と乱歩作品とのあいだに何かしら響きあうものがあると感じ、おそらくは不快な気分を味わったのではないかと想像されます。

 想像されるだけですからいい加減な話ではあるのですが、さらに推測を重ねてゆくと、『心理試験』につづく『屋根裏の散歩者』『湖畔亭事件』『湖畔亭事件』、それから「パノラマ島奇談」が収められた『一寸法師』といったぐあいに、谷崎は乱歩作品を複雑な思いを噛みしめながら読み継いでいったのではないか。少なくとも『陰獣』や『悪人志願』あたりまでは読んでいたのではなかったか。私にはそのように想像されます。

 『悪人志願』について記しますと、8月12日付伝言に引いた谷崎の「春寒」にこんな文章がありました。

 ──僕の旧作「途上」と云ふ短篇が近頃江戸川乱歩君に依つて見出だされ、過分の推奨を忝うしてゐるのは、作者として有り難くもあるが、今更あんなものをと云ふ気もして、少々キマリ悪くもある。

 作品名こそ明示されていませんが、乱歩が「途上」のことを書いたのは「日本の誇り得る探偵小説」というエッセイで、これは大正14年8月の「新青年」増刊に掲載されました。「春寒」は昭和5年4月の「新青年」に発表されましたから、そのなかに「近頃」うんぬんとあるのであればそれは「日本の誇り得る探偵小説」を収録して昭和4年6月に刊行された『悪人志願』にもとづく文言であろうと判断してまちがいないでしょう。

 ならば、昭和3年11月に出た『陰獣』はどうか。たぶん読んでたんじゃねーの、と私は推測します。これといった根拠はないのですが、やはり谷崎の「春寒」、そのなかには探偵小説を論じたこんな箇所もあります。

 味噌の味噌臭きは何とかと云ふが、探偵小説の探偵小説臭いのも亦上乗とは云はれない。若しも所謂探偵物の作家が最後までタネを明かさずに置いて読者を迷はせる事にのみ骨を折つたら、結局探偵小説と云ふものは行き詰まるより外はあるまい。読者の意表に出ようとして途方もなく奇抜な事件や人物を織り込めば織り込むほど、何処かにかならず無理が出来〔、〕自然の人情に遠くなり、それだけ実感が薄くなるから、たとひ意表に出たにしてからが凄みもなければ面白味もなく、なんだ馬鹿々々しいと云ふことになる。どうも奇想天外的な探偵小説の筋にはまるで、四則算の応用問題のやうなのが多い〔。〕兎と亀の駆けくらは数学上の問題として学生を悩ますにはいゝけれども、たゞそのためにさう云ふシチユエーシヨンを仮設したゞけであつて、その仮設が事実ありさうなことであろうとなからうと、数学に於いては問ふところでない。然るに探偵小説の作家は兎と瓶の駆けくらを実際に起つた事件として読者に押しつけるのである。それでは最も愚劣なるお伽噺にしかならない。

 私にはこれが、むろんそういった先入観をもって読むからこんなふうに見えてしまうということなのでしょうが、作品名こそ伏せてあるものの谷崎による「陰獣」評であると読めてしまう。読者諸兄姉はそのようにお思いにならぬかもしれぬが、私にはそのように読めてしかたがなく、乱歩もまたそのように読んでしまったのではないかという気さえする。

 「陰獣」にかんしては、昭和3年の「新青年」11月号に平林初之輔が「『陰獣』その他」という評文を寄せています。平林は乱歩が「読者の想像力を屈服せしめて作者が凱歌をあげてはやまぬというしつこさ」を指摘し、そうした乱歩作品の傾向について、

 ──絶対に読者の追随を許すまいとする作者の頑強な自負心のあらわれではないかと思う。だが、飽くまでもこういう意図をもって探偵小説が構成されるなら、探偵小説はついに成立しないかもしれぬ。

 と述べています。底本は『平林初之輔探偵小説選2』(論創社)。そしてこの評言は「春寒」にあった、

 ──若しも所謂探偵物の作家が最後までタネを明かさずに置いて読者を迷はせる事にのみ骨を折つたら、結局探偵小説と云ふものは行き詰まるより外はあるまい。

 となんとよく似ていることか。むろんこれは探偵小説一般に敷衍できる指摘ではあるのですが、それでも私は「春寒」には「陰獣」批判がこめられていたのではないかと勘ぐってしまう。そして乱歩もそのことに思いあたり、それもまた8月14日付伝言に引いた「探偵小説十年」における「逢い度いとは思わぬ」という乱歩にしては結構激越な一文に結びついたのではないかとまで想像を、いやさ妄想をたくましくしてしまう。

 しかし問題は「パノラマ島奇談」でした。谷崎はやっぱ「パノラマ島奇談」を読んでたんじゃねーの、というのが本日の結論です。


 ■ 8月19日(土)
『谷崎潤一郎伝』と『犯罪幻想』

 まずお知らせです。宝塚歌劇団の2007年公演ラインアップが8月17日に発表されました。宝塚大劇場と東京宝塚劇場では花組による「黒蜥蜴」公演があります。オフィシャルサイトをごらんください。

 引用しときます。

花組
◆宝塚大劇場:2007年2月9日(金)〜3月19日(月)
<一般前売開始:2007年1月6日(土)>
◆東京宝塚劇場:2007年4月6日(金)〜5月13日(日)
<一般前売開始:2007年3月4日(日)>

グランド・ロマンス
『明智小五郎の事件簿−黒蜥蜴』
〜江戸川乱歩作「黒蜥蜴」より〜
脚本・演出/木村信司

これまでにも様々に映画化、舞台化がされている江戸川乱歩作「黒蜥蜴」。宝塚版では、時代をロマン溢れる大正・昭和初期に移し、憂いを秘めた名探偵・明智小五郎と、洋装から和装へ変幻自在に姿を変える女賊・黒蜥蜴とのスリルとサスペンスに満ちた物語を展開、三島由紀夫版とは違う宝塚歌劇ならではの結末へと進んでいきます。

ショー
『TUXEDO JAZZ(タキシード ジャズ)』
作・演出/荻田浩一

1920年代から1950年代のアメリカ?古き良きブロードウェイ、華麗なるフォーリーズ、絢爛たるジャズとマンハッタンの煌き。そんなハイソサエティの神話が生きていた時代のアメリカをテーマにした、大人っぽい華やかさと、瑞々しい闊達さを併せ持つショー。

■主演・・・(花組)春野寿美礼

 「三島由紀夫版とは違う宝塚歌劇ならではの結末」というのですから、

 ──明智 ええ、本物の宝石は、(ト黒蜥蜴の屍を見下ろして)もう死んでしまつたからです。

 なんて感じでは全然なく、明智小五郎となぜか死ななかった女賊黒蜥蜴とが仲よく肩を組んでなぜか三島由紀夫作詞の「用心棒の歌」を朗々と歌いあげる、そんなような幕切れにでもなるのでしょうか。楽しみにしておきましょう。しかし私は宝塚歌劇というものをいまだ一度も見たことがなく、見にゆくのがなんだかこっ恥ずかしいような気がしないでもない。誰かお連れを見つけねば。

 さていっぽうの「パノラマ島奇談」ですが、ほんとかよ、とは私も思う。谷崎は『心理試験』にはじまる乱歩の初期の著作を追っかけるようにして読んでいた、いわんやパノラマ島をや、という結論にたどりついてしまった私ではあるのですが、しかしほんとかよ、とも思われてならぬ。半信半疑。阪神懐疑。優勝絶望。なんのことだかわかりませんが、かといって谷崎が乱歩作品をまったく読んでいなかったと証明することも不可能なわけですから、とりあえず昨日たどりついた結論からさらに先へと進みます。

 かりに谷崎が「パノラマ島奇談」を読んでいたのだとすれば、単行本の表題作にするほどお気に入りだった「金色の死」を改造社版全集に収録しなかったのも首肯できることであるように私には思われます。

 もっとも、春陽堂の『金色の死 他三篇』が出た大正11年5月から改造社版全集の配本がはじまった昭和5年4月までは、谷崎にとってまさしく大きな転機と呼ぶしかない時期だったと想像されます。関東大震災を機に関西に移住し、そこで「痴人の愛」を書き「卍」を書き「蓼喰う虫」を書き、私生活においては「蓼喰う虫」の同時進行的な素材にしていた千代子夫人と和田六郎、というか大坪砂男との不義密通をそれとなくそそのかし、大坪が夫人のもとからつれなく去ってしまったあと、とうとう佐藤春夫に夫人を譲渡すると表明したのが昭和5年8月のこと。それ以後は「吉野葛」を書き「盲目物語」を書き「蘆刈」を書き「春琴抄」を書き、お世辞にも深遠とはいえぬ西洋崇拝を露呈した「金色の死」とは正反対の方向に進んでいったわけなんですから、この転機における谷崎にどのような心変わりが訪れてもたいして不思議ではなく、ましてこの時期に全集を編み自作を取捨選択するということはそのまま作家としてそれ以降の方向性をさだめるということでもあったでしょうから、「金色の死」などはいの一番に抹殺されてしかるべき作品であった。

 といったようなこともむろん考えられるのですけれど、「パノラマ島奇談」というファクターを介在させて想像してみるならば、昭和2年に刊行された『一寸法師』で「パノラマ島奇談」を読んだ谷崎は、そこにまぎれもない「金色の死」のカリカチュアを見たのかもしれません(乱歩の場合でいえば、竹中英太郎の「大江春泥画譜」を眼にしたときのような感じでしょうか)。血圧が一瞬にして上昇し、顔面は紅潮の極に達した。頭のなかでは「金色の死」の意に満たぬところが一気に増幅されて迫ってくる。耳鳴りさえおぼえる。あ、あれはだめだ。「金色の死」はだめだ。二度と見たくない。

 そんな反応があったと考えられなくもないでしょう。私は小谷野敦さんが『谷崎潤一郎伝』に書いていらっしゃる推測、つまり谷崎は「パノラマ島奇談」が「金色の死」を「より巧みに、面白く発展させたもの」であるという理由で改造社版全集に収録しなかったとする考え方に全面的には賛同できず、「パノラマ島奇談」を読んだ谷崎の反応はもっと感情的なものだったのではないかという気がします。パノラマ島は谷崎が「金色の死」から反射的に顔を背け、身をひるがえして遠ざかったあといっさい近づかないようになった契機ではなかったか。なぜかというと、そこには思い出したくもない自分の過去が歪曲拡大されてべったりと描かれていたから。そんなようなことではなかったのかと推測される次第です。

 ですから『谷崎潤一郎伝』第六章の結びにある、

 ──谷崎が天才なら、乱歩もまた一方の天才である。大正期谷崎の、最も独自の部分は、乱歩に丸取りされてしまったと言ってもいいのだ。乱歩に会うのを嫌がったのも当然だろう。

 という指摘にかんしても、これは批評家の言としてはどこにも差し支えのないものであるにせよ、谷崎自身が同時代作家としての乱歩を「一方の天才」であると認め、自身のある時期の「最も独自の部分」を丸取りした作家であると見なしていたかどうか、そのあたりには現時点ではやや首をかしげざるをえないと正直に打ち明けておきたいと思います。

 乱歩に関連する箇所だけをとりあげましたが、小谷野敦さんの『谷崎潤一郎伝 堂々たる人生』(中央公論新社)は、素人の私がいうのもあれなんですが谷崎研究にまちがいなく新しいページを開いた一冊であるといえるでしょう。著者の主眼のひとつは松子夫人にまつわる神話を徹底的に相対化することにあるらしく、たつみ都志さんの主張に共鳴しつつ、

 ──『盲目物語』『聞書抄』『春琴抄』『蘆刈』といった谷崎の名作群は、理想の女性たる松子との出会いによって導かれたものであるといった神話が、長く流布してきた。しかしそれは、谷崎死後、松子が自ら作ったと言っても過言ではない。

 とするあたり、あるいは、

 ──思えらく、谷崎はこの頃、女というのは妻になったらみな似たようなものだと思い知っていただろう。

 といったあたりはいかにも痛快。「倚松庵の夢」の気取りがどうにも鼻についちゃって、とおっしゃる方にはとくにお薦めいたします。

 むろんこの『谷崎潤一郎伝』、いつの日にか名張市民のみなさんの税金をちょこっと頂戴して乱歩を愛するすべての人のために刊行されるはずの『江戸川乱歩年譜集成』において引用紹介することになるのですが、しかし名張市立図書館の『江戸川乱歩年譜集成』はなんのなんの、それだけでは終わりません。谷崎と乱歩にかんしてはこんな随筆も引用紹介されることになっております。

  本日のフラグメント

 ▼2006年4月

 「犯罪幻想」 秋田稔

 筆者が昭和38年から発行している不定期刊の個人誌「探偵随想」の九十一号に掲載されました。「とりとめのない話」という随筆に記されたエピソードです。

 乱歩の「犯罪幻想」の特製本は、三条河原町の古本屋で買った。大阪から京都へ転勤になって間なし、昭和三十二年の秋だったように思う。もう手に入らないだろうと半ば諦めていたのだが、発行の翌年、K書房の帳場に置かれているのを目にしたとき、ドキンとしたものである。

 包装しながら店主が言った。

 「この本は買っておくべきだと、谷崎潤一郎が来て話していましたよ」

 はじめてこれを読んだときには、谷崎が『犯罪幻想』を「買っておくべきだ」といったのは棟方志功の版画が収録されているからだろうと私は考えたものでしたが、この言葉には乱歩作品に対する一定の評価が含まれていると判断するべきであろうなと、小谷野さんの谷崎伝を読んだいまの私には思われます。

 だとすると、

 ──おそらく当時谷崎は、恐怖を覚えつつ乱歩の作品に接したに違いない。

 という小谷野さんの指摘がいよいよ信憑性を帯びてくるのではないかと……

 いやいや、そんなことは『江戸川乱歩年譜集成』の読者それぞれにお考えいただければいいことでしょう。私はとにかく早いこと『江戸川乱歩年譜集成』をまとめなければ。作業がなかなか進まんのじゃが。


 ■ 8月20日(日)
夏休みのお知らせです

 8月も20日。ということは、例の先生の逮捕が先月21日のことでしたからもう一か月が経過したことになるのですが、この件にかんしましては7月25日付伝言に、

 ──人の噂も七十五日なんてのはとっくに過去の話、この話題もじきに忘れられてしまうだろうとは思うのですけれど、

 と記したとおりのことみたいです。ちょっと調べてみましたところ、2ちゃんねるでは先生の逮捕を受けて立てられたいくつかのスレッドがすでに全滅。最後まで残っていたのがこれなのですが──

 8月17日付の投稿を最後に終了しております。

 そういえば、知事の定例会見がそろそろ掲載されているころではないかと三重県のオフィシャルサイトを閲覧してみましたところ、8月8日の会見内容が掲載されていました。

 8月21日から30日まで知事は夏休みです、みたいな報告のあと、記者団からはやはり先生にかんする質問が。

(質)前回の知事会見から今回の知事会見までの間に、新政みえの前県議会議長の田中覚さんが傷害で逮捕されて、略式起訴ということになって、昨日辞職されたということなんですが、まずこの件に関して知事の感想があればお願いします。
(答)今回のことにつきましては、最終的に昨日、自ら議員辞職ということに至りましたが、このことについては極めて重いものだというふうに受け止めているところでございます。議会のことにつきましては、私から申し上げる立場ではないのかも知れませんので、とにもかくにも、議会として今後県民の信頼回復に努められることを期待しているところであります。

(質)議会の外とは言え、県民の代表である県議会議員が暴力、傷害を負わせたということについてはどうなんでしょう。
(答)それはもう、言うまでもなく許されるべきことではないと言えますね。

(質)今まで田中前県議から、知事の所に直接事情説明とか、そういったことはありましたか。今回の事件についての説明というのは、ないですか。
(答)ないです。

(質)では釈放後は、知事は田中氏とはお会いになってないんですか。
(答)会ってません。

(質)中井代議士からは何かご連絡とかお話はあったんですか。
(答)いや、また近いうちに会う機会があると思いますので、その時にまたお話を伺ってみようかと思ってます。

(質)議長なり三谷議員からの説明というのは、ございましたか。
(答)議会の方から、逮捕されたという後で、大変なことになったんだということで三谷さんが来られて報告を受けたことはありました。

(質)逮捕後すぐ、ぐらいですか。
(答)そうですね。翌日だったか、ちょっとはっきり覚えてないんですけど。

(質)知事としては、田中氏の辞職は是とされますか。
(答)議員の職というのは、選挙で選ばれたものでありますから、それだけにこれは、本人並びにその地域の関係者の皆さんに関わるところであり、その判断は議員としても非常に重いものだと、こういうふうに思います。今回そういう中で、ご本人がそういう決断をされたということであります。したがって、そのこと自体、私も極めて重いものだと、こういうふうに思います。

(質)知事は事件の直前は、田中さんと一緒に食事の場にいらっしゃったと思うんですけれども、何か変わった様子ですとか、みたいなことは何か感じられましたか。
(答)ないですね。正副議長が交代ということになって、新議長・新副議長と、それから旧議長・旧副議長と、それから県議会の各派代表の方で懇親会を持たれるということで、各自会費制だけれど三役にも来ないかと、こういうお話で出席をいたしましたが、別段その時に特に、感じるものはなかったです。

 先生に関係のないところもつらつら読んでゆきましたところ、あっと驚くような質問が。

(質)土曜日の津県民センターでの「本音でトーク」で、パトカーの出動要請があったみたいですが、中身は、不規則発言者がいて一応事務方が配慮されたらしいですが、今後の「本音でトーク」のセキュリティのことなど含めて、方法の見直しとかお考えでしょうか。
(答)その件について、私ども存じなかったので、その情報を知った時点で政策部長等にも確認しましたところ、部長等も知らないという状況でした。したがって、私の方でまだ確認しておりません。昨日午後も松阪へ行っておりましたので、そのことについては確認しておりません。本音でトークにつきましては、県民の皆さんと直接、いろんな意見交換をする、あるいはご提案、ご提言をいただく、県政について県民の声を聞く、非常に私にとりましても大事なものだと、こう思っているところでありまして、ぜひ、そういう意味で今後県民の皆さんのご参加、そしてまた、その趣旨に沿う運営ができるようにご理解をいただきたいなと思っています。

(質)私は津署で確認したのですけど、要請があって出たけれども何もなかったので、一応それで帰ったと。今日、事務方でも確認しましたが、要請はしたということなので、多分今後、事前登録などそういうことを含めてそこまでやられるのか、あるいは今の形のまま続けられるのか、知事になられてから県庁もかなりセキュリティを高めて、休日とか日曜日、前の知事の時の県民への開放政策というのを転換されているわけですので、その辺何か見直しされるのかなと思ったのですが。
(答)特段、今そのようなことを考えていません。極めてフリーであるということでいいのではないかなと、こう思っております。また、事務当局もいろいろ心配をしたのかもしれません。今回のことについて、私自身は報告を受けていなかったのでありますけれども、事務当局のそういった心配をしてもらっているということならば、またそのことについてもよく聞いておきたいと、こう思っております。

 8月5日に津市内の会場で催された「知事と語ろう 本音でトーク」にパトカーが出動したというではありませんか。この「本音でトーク」は知事が県内を巡回して県民の声を直接聴くという当節ありがちな催しなのですが、「不規則発言者」がいたせいでパトカーが呼ばれたとはなにやら剣呑。いったいどんな発言者がいたのかな、と当該会場の全発言を掲載したページにアクセスしてみたのですが、どうもようわかりません。しかし強いて考えるとDさんでしょうか。

【D】  亀山からやってきましたDと言いますけど、知事さん、非常に僕は、この会合の始まりというのはどういう形で行われるのか注目していたんですけど、非常に残念なことに、知事は何も我々に、きょう集まってくれた県民の前で謝罪をすることなく、平然とスケジュールどおりに「本音でトーク」の知事が自分が説明するところだけに入っていった。

 三重県民にとって非常にショックな出来事がここ1カ月ぐらいの間に二つ起こっていますよね。知事はさっき、さらりとばかりに、さらりと言ってのけたんですけど、県職員の不祥事だと、こういうふうに言いました。本庁の職員が、県知事のひざ元ですよね、県庁の職員が186万円ですか、虚偽の業務委託を契約して、自己がその管理をするNPO法人ですか、その口座に振り込ませ、そして詐欺を働いた。業務上横領ですね。これについて4月のときにわかっていたはずですから、今の時点になってなぜ発表するんだろうなということなんですけども。本人は借金を抱えて、相当な借金を抱えてたというわけですから、だれが返したのかですね。県に損害がなかったから、本人が返したから、さらりと言ってのける程度で済むのかという問題ですね。

 それともう一つ、田中 覚県議、彼が暴行傷害事件を起こして逮捕されたと。それも、働く女性への暴言、暴行傷害事件ですね。女性参画だとか住民参画だとか、三重県政が掲げてきたスローガンを県政界の中心人物がみずから踏みにじったことに違いないじゃないですか。これは、知事自身ではなくて、田中君の問題だということで済ませられない話だと思いますね。彼が、伊賀県民局の女性臨時職員の口きき雇用、その臨時職員の知事公印を使用した公文書偽造事件の関与の前歴がある。県議は直ちに辞職すべきだと私は考えます。このことについて、知事はきちんと県民に謝罪すべきだと思いますよ。

 さらに、県政最大会派の代表者である田中 覚が、犯行時に外国人女性と同伴であったことは、これは致命的なスキャンダルではないんでしょうか。かつて、上海日本総領事館の職員が、現地女性、これは秘密工作員とも言われている。と深い関係になって、そのことを中国情報機関につけ込まれ、外国機密を漏えいするように強要された上に自殺をしたと。また、海上自衛隊の下級幹部が同様、上海のカラオケバーの女性に入れ上げて、防衛機密を提供した事実も最近発覚しております。県政界の中枢にいる人物が外国人女性、それも津市内にも多数いるとされる、いわゆる性風俗産業の従業者と同伴していたとしたら、これは重大な問題です。彼女らは、本国の家族らに送金するために、暴力団などの組織的ルートに組み込まれて来日して、暴力団への資金源となっていると。

 田中 覚がふだんのレストランで、事件後、同伴者らと食事をし、料金も支払わずに県議の名刺だけを渡し、後日、事務所に来いと言ったことについては、とても県議のとるべき態度ではないと、県民のだれしもが思ってることです。食事後、田中 覚が同伴の外国人女性とどのような行動をとったのかは報道されてはいませんが、県政レベルでの外交交渉であったとの釈明はありませんから、外国人の背後も、女性の背後の勢力からつけ入れられることは十分に考えられます。レストラン女性店長のすねにいすを投げて負傷させたと言いますけども、田中 覚が既に傷を持つ身となったことは事実である。彼が県政界に身を置き続けることは、今後、三重県の汚点であり続けることになるわけですね。知事は、田中 覚の犯行の前に、懇談会と称して別の会合で彼と同席したとされています。これは報道されていますね。知事は、その経緯を明らかにしなければならないし、彼の犯行と無関係であることを立証しなければいけないと思いますが、知事の釈明を求めます。

 ほかのこと言ったらいっぱいありますけどね、私なりに。勝手なルールで私の発言を制限しようなんて許されないことです。

 ここでひとこと苦言を呈しておきますと、テープ起こしにやや問題があります。五段落目の「ふだんのレストラン」は「くだんのレストラン」とあるべきでしょう。おなじく五段落目、「既に傷を持つ身」はどう考えたって「すねに傷を持つ身」でなければおかしい。その前段に「レストラン女性店長のすねにいすを投げて負傷させた」とあるのですから、これを受けるのはどうあっても「すねに傷」でなければならぬ。

 ──女性店長のすねにいすを投げて負傷させた

 というところと、

 ──田中覚がすねに傷を持つ身となった

 というところは緊密に照応していてしかるべきであろう。テープ起こし担当スタッフはDさんの練りに練ったくすぐりを十全に理解して作業を進めるべきであったと私は思います。

 で、Dさんに対する知事の回答。

【野呂知事】  それから、Dさんのお話ですが、私としても、今回の件の不祥事については、申しわけない思いであります。先ほど、話の中でもちょっと触れさせていただいたつもりですが、まだ、なぜああいうことになったのか。事件が発覚しましたのは7月になってから。そして、実はこれは大変なことだというんで警察に告発をいたしまして、それでその上で警察の方で逮捕ということになりました。今後、事実の究明については警察の方でしっかりやっていただこうということを考えております。

 なお、昨年もこういった問題がありまして、それによりまして点検、見直しをやったところでございます。多分、この4月からやっておる人員配置業務の中では、こういったことを防げるようになっておるかと思いますが、事件そのものは昨年の秋以降のことで行われておったようなことで、大変そういう意味では残念なことでございます。今後、さらに一層きちっと綱紀粛正を図っていきたい、こう思っております。

 県議会の現職の県会議員が、ああいったことになったということについては、まことに残念なことであり、私としても大変遺憾なことだと、こう思っております。議会のことであります。そして今後、議会でもいろいろと議論をされておることだと、こう思います。早く議会も信頼回復に努めることを期待をしております。

 なお、Dさんのいろんな発言の中で、人権侵害に及ぶようなおそれのある発言、私も若干ちょっと感じるところがございました。事実に関することだけを申していただきたい、このようにお願いをいたします。

 Dさんが受ける。

【D】  人権侵害ってどこが人権侵害なんですか。

 知事が切り返す。

【野呂知事】  外国人のことについて触れられた部分は。

 あちゃー、と私は思いました。Dさんの、

 ──食事後、田中覚が同伴の外国人女性とどのような行動をとったのかは報道されてはいませんが、県政レベルでの外交交渉であったとの釈明はありませんから、外国人の背後も、女性の背後の勢力からつけ入れられることは十分に考えられます。

 という発言が人権侵害に相当するというのであれば、7月24日付伝言に記したこんな発言もやはり人権侵害になるのかな。

 そうかそうか先生は店の女の子を泣かせ女性店長に怪我を負わせたあと店内にどっかと陣取ってしゃぶしゃぶを注文しほらどんどん食えおまえも食えほら遠慮するなおれのおごりだとかいいながら同席したふたりの外国人女性にもたっぷりしゃぶしゃぶを食わせたあげく店には名刺一枚渡しただけで天下堂々無銭飲食そのあとはたぶんどこかのラブホテルにしけこんだのだろうなそう考えるのがいちばん自然だろうなそれで外国人女性とぱほぱほやりまくったのかあっもしかしたら3Pかくっそーこの先生はしゃぶしゃぶたらふく食って外国人女性にもしゃぶしゃぶ食わせてそのあと別のものをしゃぶらせてやりまくりかよしかし大丈夫であったのかこの外国人女性はもしかしたらおまえは締まりが悪かったから金なんか払ってやらん金がほしかったらあとで事務所に請求書を送れただし払うか払わんかわからんがながははははははははとかいいながら外国人女性のまたぐらに名刺一枚ぺたんと貼りつけて帰ってきたのではないのかこの先生。

 むろん私がこんなふうに考えたというわけではありません。これは新聞記事によって先生の一行が「友人の男性1人と外国人女性2人の計4人」であったと知らされた大衆的想像力がどのような方向に流れてゆくかをシミュレートしたものであって、意識の流れをビビッドに表現するため読点をいっさい使用しない手法を採用した実験精神はおおいに賞讃されてしかるべきだと私は思うのですが、しかしこんなふうに考えそれを公表することが人権侵害なのか三重県では。いくら三重県が言論封殺先進県だからといって、そんなことをいって人の想像力というものを抑圧してしまってはいかんではないか。一般庶民が想像力をもちあわせていては為政者として都合が悪いのだという事情はよくわかる気がするけれども。

 みたいなことはともかくとして、Dさんと知事との応酬をしばらく眺めてみましょう。

【D】  違うことで言うたことを知事が違うふうにしとったんですよ。知事のそれが、僕の発言に知事は人権侵害の事実があったみたいなことを言ってるじゃないですか。どこが、そういうふうに当たるのかはっきりしなさいよ。

【野呂知事】  いや、外国人のことについて具体的に何か言われたんで、それはどういう事実に基づいて言われておるのか承知してません。

【D】  それが、何に当たるの。人権侵害の何に当たるの。

【野呂知事】  いかにもそういうふうなイメージを与えようとしておることについては、これは非常に問題がありますね。

【D】  じゃあ、なぜ新聞報道なんかで外国人女性を、言ってみれば同伴していたという、そういう表現が新聞報道であった。それを引用しただけです。

【野呂知事】  あなたは、その範囲を逸脱して修飾語を使ってますから。

【D】  どこが逸脱ですか。

【野呂知事】  後で記録調べて、自分で見てください。

【D】  はっきりしなさい。

【野呂知事】  後は論評に値しません。

【D】  あなたの判断でしょう。今のはあなたの判断でしょう。あなたが判断したのはどこですかと聞いてるんです。

【野呂知事】  自分で、あなたが判断してくださいと、私は言っておるんです。

【D】  あなたが判断して、そういう表現をしたんだから、あなたの判断の基準になった私の発言の部分を言いなさいよ。そして、特にもうはっきりしないのに、妙な言い方をして返してくるのは、あなたの責任転嫁でしかない。僕は、現県職員を逮捕の中日新聞の記事を読めば、予算が、契約する、言ってみれば団体が見つからなかったもので予算を執行しなきゃならんと、予算を使わなきゃならんから勝手に契約したという。

 事務局が介入する。

【事務局】  Dさん、申しわけないんですけれども、皆さん、あとの方がお待ちいただいてますので。

 Dさんは負けない。しかしいよいよぐだぐだになってゆく。

【D】  今までの人だって、私の発言というか質問に対する回答については、何人も同じように、知事の質問に対してさらに発言をしてたんですね。あなたは、またしゃしゃり出てきて、鈴鹿の事例、パターンやけどね、あなたが出てくる必要はないよ。司会者はここにいるんだから。なぜ、1人で契約して、1人で支出負担行為がすべてできたのかというシステムが問題だというふうに私は言いたいんです。だから、危機管理だ、何だかんだという中で、知事はちょろっと言ったけども、県職員の不祥事と言ったけども、そういう会計上の事務処理の体制がおかしいんではないかと、それを言ってるんですよ。再発防止というのは何をもってするのかということを言いたい。

【野呂知事】  いろいろそういった問題点があるので、そういうことについてきちっと。

【D】  謝罪をするのかしないのか、どっちなんだと聞いてるんです。

【野呂知事】  謝罪してます。

【D】  あなた自身は、そこで構えて座ったままで言っとるけども。

【野呂知事】  あなた1人でそんなに力まんと。

【D】  あなたは、RDFの問題とか、フェロシルトの問題で、いろんなことで知事の県政に失態があったときに、マスコミの前では何回か頭を下げてるけど、県民の前で頭を下げることをしたらどうだ。私の発言に一々僕が修飾語をつけたみたいなことを言って、人権侵害があったとする、その僕の発言の事実を言ったらどうだ。

【野呂知事】  議事録を後で送ってあげますよ。

【D】  あんた、それできちんと発言できないのはおかしいですよ、それは。

 それと、私はまだいっぱい言いたいことがあるんです。聞きたいこと、言いたいこと。

【司会】  Dさん、申しわけございません。次の方が質問を待ってますので。

【D】  司会者がとめることないんだよ。

【事務局】  済みません、D様、申しわけありませんけど、待っていらっしゃる方もいらっしゃいますんで。

【D】  待ってらっしゃる方もいるか知らんけど、知事が答えなきゃならない問題で。

【事務局】  お一人3分ということでお願いして、皆さんお待ちですから。

【D】  私が言わなかったことまで修飾語と言うと、どこまでが修飾語なんだと。自分で言いなさいよ。

【事務局】  また一巡したら、ご発言いただきますから。

【D】  これは重要な問題だよ。何が人権の問題。

【野呂知事】  あなたに答える必要はありません。

【D】  何で必要ないの。

【野呂知事】  自分自身で考えなさい。

【D】  あなたが私の発言をとらえて、そこは人権侵害の事実があるというふうに言ったんだったら、そこの部分をどこだと言ってごらんなさい。

【司会】  Dさん、終了いただけますか。次の方お待ちしておりますので。

【D】  田中 覚が連れていた外国人女性、それと僕は言ってるんですよ。その前に、知事と懇談会をやってたでしょうと。知事と懇談会をやってたんじゃないですか。知事は、その懇談会で、田中 覚とどういう話をしたのか釈明しなきゃいかんでしょうが。犯行の動機になったかわからん。違うんか。

【司会】  恐れ入ります、次の方の質問に移らせていただきます。

【D】  何でそれが明らかにできないの。「本音でトーク」でトーク。

【野呂知事】  今のことを聞きたいというなら、毎年、議長、副議長がかわったときには、懇親会というものをやっておるところであります。ことしは、各自会費を持ち寄って、それで新旧の議長、副議長と、それから県議会の各会派の代表が集まって懇談会をやる。そこへ、実は三役も一緒に参加をしてくださいというご要請があって参加をしたということであります。

【D】  それは公費は使ってないんですか。

【野呂知事】  使ってないです。

【D】  県議会の議長とか旧議長も。

【野呂知事】  全員が自己負担です。

【D】  自己負担といえども、それは言ってみれば、あなたのポケットマネーだって、報酬から払われているよね。この前、鈴鹿の集会でも、私言ったように、ボーナスの話をしたけど。

【司会】  D様、そろそろおやめいただけますか。次の方の質問に移らせていただきます。

【D】  何でやめないかんのや。

【司会】  次の方が質問を待っておられますよね。D様、お一人の時間じゃありませんので。

【事務局】  会場の皆さんもそうやっておっしゃるんですよ。

【野呂知事】  もう言うことに困って、そんな詭弁まで言ったらいかん。

【D】  何が困ってるんや、困っとらへんぞ、おれは。あんたらこの問題は。田中 覚のやな、言ってみれば暴行事件や。

【事務局】  ルールはルールでやっていただけますか。

【D】  ルールなんて、おれの。

【事務局】  これ以上ですね。

【D】  おまえたちが勝手に決めたルールや、こんなもの。「本音で語ろう」というのは何や、ほんなんやったら。その看板おろしたらどうや。「本音で語ろう」ちゅうのやったら、きれいごとばっかり言えることか、ここの話で。何が文化だ、歴史だ。常にそういう言葉で、言ってみれば、県民の、いっぱいやってもらいたいことがいっぱいあるはずだ。それを君らはごまかそうとしているのが今の県政じゃないか。あんたたちは、みんな何だ。きょうは何人職員が来てるんだ、これ。きょう、この会場で。どれだけの言ってみれば公費が使われているんだ、これ。その中で「本音でトーク」というテーマを掲げてやぞ、その中で発言を制限しようというのは、一体どういう考えなんだ。おかしいじゃないか。

【事務局】  皆さんがお待ちになっているから、1人3分と申し上げているんですから。

【D】  おまえがしゃべることない。おまえはどういう立場だ、どういう権限がある。

【事務局】  事務局です。

【D】  事務局、何が事務局や。どこにあるんだ。県の規則の中で、「本音でトーク」に関する運営規則があるのか、言ってみろ。そういうもんだよ知事さん、あんたらは、ルールだ、何だなんて平然と言ってるけども。

【野呂知事】  全然説得力のない話言ったってあかん。

【D】  何を言ってるんだ。実際に。

【野呂知事】  だめだって、そんなことを言っておったって。

【D】  あなた、この前言ったでしょう、私が。400万円のボーナスを、あなたは正確に328万幾らだと。それが誤解を与えるとどうかなんか言うけど、328万円を使ったら、ここの障害者の人たちの車いすをどれだけ買えるの。

【野呂知事】  そないへ理屈ばっかり言いなさんな。

【D】  へ理屈じゃないよ。

【野呂知事】  へ理屈だよ、そんなの。

【D】  あんたの言っていることがへ理屈だ。

【野呂知事】  あんたは、こういうとこへ来るのふさわしくない。

【事務局】  済みません、Dさん。私、政策部副部長の小山と申します。

  今、Dさんがおっしゃることも、いろんな問題があるのも私もよくわかります。

【D】  問題があるという自覚を知事が持ってない。こういうふうに言ってみれば、時代で左うちわというか、右うちわかどうか知らんけど、そういう形でこういう対応ができやんはずやぞ。

【事務局】  それで、Dさん、きょう。

【D】  知事は単なる飾り物か。じゃあ、県職員の責任をだれがとるんや。

【事務局】  そのDさんの疑問点も、またお答えさせていただく必要もあると思います。それで、今の質問に。

【D】  平然としとれる問題と違うよ。

【事務局】  おっしゃることはよくわかります。それで、今のご質問をずっと続けるのも大事なことなんですけども、一応、最初、手を挙げていただいた方がお見えになりますから、まず一巡していただいて、それでまた次の、その次の機会にまたご質問いただきたいというふうに思いますので、済みませんがちょっとこの順番を進めさせていただきたいと思います。

【D】  じゃあ、ここで知事は何だ、改めてこういった不祥事が起こったことについて謝罪すると。座ったままお茶を飲んで、左うちわで、それで済ましていけるつもりか。はっきり言ってみろ、これは、最後。

【司会】  申しわけございません。次の方、よろしくお願いします。

 いや面白い。じつに面白くてたまりませんけど、こんなあほなことはもうやめたらどうか。「知事と語ろう 本音でトーク」ならば私も一昨年に参加したことがあるが、あまり意味のあるものではないという感想を抱いた。こんな催しに参加しようという県民はかなりエキセントリックな人種であるということもわかった。知事と参加者が双方の自己顕示欲を満足させるためのものでしかないとも知れた。こんなことに税金つかうのはもうおしまいにしてはどうかと私は思う。

 そんなことはさておき、いったいどの時点でパトカーが呼ばれたのか。私にはとうとうわかりませんでしたけれど、トークが終了を迎えるにあたってまたDさんの不規則発言が飛び出しておりますから、お暇な方は当該ページでご確認ください。

 しかしほんとにこんなものには何の意味もないぞ。もしも意味があるというのであれば、それは三重県政に不備があるということにほかならない。いちいち知事が出張らなくても県民の声が反映されるような県政でなければ困るではないか。みたいなこといっとってもしかたないのだが。

  本日のフラグメント

 ▼1914年12月

 金色の死 谷崎潤一郎

 谷崎潤一郎の「金色の死」の筋立てについてもう少し筆を割くべきであったか、とも思うのですが、未読の方は中公文庫『お艶殺し』、講談社文芸文庫『金色の死 谷崎潤一郎大正期短篇集』あたりでお読みください。

 お慰みまでに谷崎の「パノラマ島」に該当する部分、ちょこっと引いておきましょう。底本は中公文庫。

扉を開けて這入って行った私は、暫く燦爛たる光と色と湯気との為めに瞳を射られて茫然として立ちすくみました。湯槽は大理石の床を地下へ三四尺切り下げたもので、槽と云うよりも池と云った方が適当な程の広さでした。池を取り巻く四方の壁は羅馬時代の壁画や浮彫で一面に装飾され、楕円形を成した汀の床のところどころには、又しても例のケンタウルが一間置きぐらいに並んで居るのです。而も其の顔は凡べて岡村君の泣いたり笑ったり怒ったりして居る容貌を持ち、背中に跨って鞭撻って居る女神達は、悉く生きた人間ばかりでした。海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆体の下半部へ鎖帷子のような銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました。私達の様子を見るや否や、彼等は一様に両手を高く掲げて歓呼の声を放ち、銀の鎖を光らせながら汀の敷石に飛び上って怪獣の足元に戯れるのです。

その外にまだ、牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた小さな湯槽が三つ四つあって、其処にも人魚が遊んで居ます。最後に私達は、人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」の前に出ました。

「さあ、此上を渡って行くんだ。構わないから僕の後へ附いて来たまえ。」

こう云って、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を蹈んで行きました。

 そんなような次第で、三重県知事はあすから8月30日まで夏休みを過ごされるようですが、私もあしたから夏休みをいただき、今度お目にかかるのは8月28日月曜日のことになると思います。どうぞごきげんよう。