2006年8月上旬
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1日 ▼名張まちなか再生委員会への長いお別れ ▼十大ニュース銓衡座談会
2日 ▼どうだ、ギムレットは? ▼日本ミステリイ 3日 ▼これが落書の手本じゃよ ▼サーカスの怪人 4日 ▼落書の判定が案じられてならぬぞ ▼人外境への旅券 5日 ▼落書もどきは便所の落書きじゃがしかし ▼十、数学者の推理力はゼロだ──ポオ 6日 ▼まともに批判を受けてみる ▼押繪と旅する男 7日 ▼ほら終わったぞ、ばーか ▼DVD化で揺れる人気映画の2次利用 8日 ▼先生とチャンプと私 ▼谷崎潤一郎伝 9日 ▼三重のインチキ、名張のインチキ ▼江戸川乱歩の資料一堂に 10日 ▼幻影城の最後のチャンス ▼立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター |
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葉月8月を迎えました。 もう8月かよ。光陰矢のごとし。『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業が遅々として進んでいないことに茫然としてしまいます。遅々としている理由のひとつは、『探偵小説四十年』と首っ引きでメモをとる作業にすぐに嫌気がさしてくることです。メモをほっぽり出し、お勉強と称して本を読んでしまう。お勉強ですから『江戸川乱歩年譜集成』に無縁な本は手にすることがないのですが、もともと不勉強だったものですから何を読んでも勉強になってしまう。本を読みながらふとわれに返り、本ばかり読んでてはだめではないかと反省して『探偵小説四十年』に立ち戻る。そのくり返しです。 安岡章太郎さんの小説に、宿題をしているときは遊びのことばかり考え、遊んでいるときには宿題のことが頭から離れないという劣等生の夏休みを描いた作品がありましたが、なんだかそんな感じの毎日。むろん私には夏休みなんかないのですからできるだけ時間をつくって『探偵小説四十年』に向き合う必要があり、ほんとに本ばかり読んでもいられないわけなんですが。 去年の7月に出た保坂正康さんの『あの戦争は何だったのか』という本を読みました。新潮新書。小林信彦さんの『昭和のまぼろし』で紹介されておりましたので、それならばと購入してきました。乱歩にとってあの戦争は何だったのか、というのがこのところ気になっていることのひとつで、ですからこれもお勉強の一環ではあるのですが、乱歩にとっての太平洋戦争、みたいなことはもちろんこの本には書かれておりませんでした。 しかし読みながら、これまで漠然としていたことに明確な輪郭が与えられるといったことはたびたび経験しました。たとえば昭和18年。太平洋戦争史であまり語られることのなかったこの曖昧な年に焦点がしぼられて、当時の状況が浮き彫りにされます。 ──いったい誰が、どこの機関が戦争方針を決めているのかも、もうわからなくなってきていた。軸がなく、無責任にフラフラ動いているだけのような状態だった。 そもそも日独伊の三国を比較してみるに、ドイツにはヒトラーのいう「第三帝国の建設」、イタリアにはムッソリーニの「古代ローマへの回帰」といった国家目標があり、そのために戦争という手段が選ばれた。戦争の準備にもそれなりの時間が費やされた。政略もあれば戦略もあった。しかし日本にはそんなものはなかった。イデオロギーも国家目標もなかった。日中戦争しかり、太平洋戦争しかり。軍部が一方的に戦争を始めてしまい、そのあとはただの思いつきによる後追いに終始した。
戦争だけではないだろう、という気がします。こんなことはいまでも普通に行われているように思えます。まず既成事実があり、それから目的が考えられ、あとはそれへの協力がさすがに強権的にではないけれど求められる。身近なところで例をあげれば、たとえば三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」がまさにそんな感じでした。そもそも理念も目的も何もなく、伊賀地域に税金をばらまくという既定の方針だけがあって、あとはもう無茶苦茶。まさに泥沼のような状態で血税三億円がどぶに捨てられてしまうのを私は眼にしました。そしていまからふり返りますに、あれは一種のファッショででもあったのか。 さらに近い例となれば、やはり名張まちなか再生プランでしょうか。さきほど引いた文章の字句を差し替えて、 ──いったい誰が、どこの機関が名張まちなか再生プランを決めているのかも、もうわからなくなってきていた。軸がなく、無責任にフラフラ動いているだけのような状態だった。 といったところが現況ではないのか。ふらふらと無責任なことばっかやってんじゃねーぞばか。昭和18年が太平洋戦争をとりつくろう年であったとすれば、2006年は名張まちなか再生プランをとりつくろう年であるのかもしれず、そういえば「広報なばり」のこのページは、はっきりいって単なるとりつくろいであるとしか私には見えない。 だいたい何をとりつくろえばいいのか、関係者にはそれさえわからなくなっているのではないかと私には思われる次第なのですが、さて名張まちなか再生委員会のみなさん。いやいや、そんなに身がまえていただかなくても結構です。本日は軽く別れのご挨拶。 私は7月23日付伝言に、 ──ばーか。そんな魂胆しかない連中に何ができるか。記念館だか文学館だか知らんけれど、そんな構想はとっととシュレッダーにかけてしまえと私は思っているのであり、おまえらとはもう縁もゆかりもないおれではあるが、これが武士の情けというやつさ、おまえらの手ではどうにも収拾がつかなくなったインチキプラン、おれが悪者とか嫌われ者とか憎まれ者とかになってきれいに水に流してやろうといっておるのだ。おまえらがプランを公開すればおれがいいように引導を渡してやろうといっておるのだ。こんなありがたい話はないではないか。 と記しましたが、奇しくも同じ日に発行された「広報なばり」の「名張のまちなか再生は進んでいるのか?」を見るかぎり、公開できるだけのプランはいまだまとまっていないようです。私のいうプランとはもちろん、名張まちなか再生委員会がつくろうとしている乱歩なんとか館がどの程度の規模で誰によって運営されどんなものを展示していかなる企画を展開してゆくのか、みたいなもろもろを指しているわけなのですが、今年度にようよう基本計画を策定するというのですから、とてもそんな細部が決定されているとは思えません。プランに応じていいように引導を渡してやりたくても、残念ながら現時点では不可能であるみたいです。ま、好きになさい。 いっぽうの初瀬ものがたりかんとか館だって妙な話で、名張市オフィシャルサイトのこのページには── こんなことが書かれてるわけです。 ──旧細川邸を改修して「(仮称)初瀬ものがたり交流館」を整備します。旧家の風情を生かした魅力的な交流拠点として、企画展示・イベントなどを催し、多くの人に来館いただけるような施設づくりを目指します。 いまごろになってまだこんなことをいってるということは、こっちのほうもディテールはほとんど白紙の状態といっていいのかもしれません。それにしては今年度中に改修工事が進められるとのことですから、一般市民としてはどうしてそんなに焦っているのかなとの疑念を抱かざるをえないのですが、市民の眼の届かないところで私利私欲がからんだあれこれがいろいろとあるのかもしれません。それにしても閉鎖性と排他性を全開にしたみなさんがよりにもよって交流のための施設をおつくりになるというのですから、これは痛烈な自虐ギャグ。ざぶとん一枚さしあげたいくらいなところなのですが、結局のところはご町内感覚となあなあ体質をぐつぐつと煮詰めたような交流の場になってしまうことでしょう。ま、私の知ったことではない。 とにかくそういった次第で、 ──好きになさい。 ──私の知ったことではない。 これを名張まちなか再生委員会のみなさんへのお別れの言葉にしたいと思います。それではみなさんさようなら。乱歩なんとか館とか初瀬ものがたりかんとか館とか、いったいどんな施設が完成するのか楽しみにしておきましょう。 いやいけない。ひとつ忘れておった。あの落書もどきにも決着をつけなければならない。私はいまそれを思い出した。女が帰っていったあと、枕のうえに真っ黒な長い髪が一本残っているのを見つけたときのような気分だ。腹の底に鉛のかたまりをのみこんだような。 こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。 さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。 渋ッ。やっぱかっけーですねチャンドラーは。よく考えてみるとおかしな日本語だという気はいたしますけれど、わずかのあいだ死ぬことだ。やっぱかっけー。むろんのこと名張まちなか再生委員会のみなさんにおかれましては、そんなわずかのあいだなんてしみったれたこといってないで当分ころっと死んでてもらったほうが名張市のためになるのではないかと思われるのですが、そんなわけには行かんのでしょうなあ。
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まず先生関連の続報から。本日付読売新聞の記事です。
ようわかりません。わずか一分ほどだったというきのうの会見では、逮捕前の緊急会見でどうしてあんなばればれの大嘘をついたのか、そのあたりのことはいっさい説明されなかったみたいです。 お次は本日付中日新聞。
こちらは相変わらず笑わせてくれます。今回の一件には政治倫理なんて何の関係もありません。これはあくまでも人としての常識や良識の問題なのであって、こんなところに政治倫理なんて言葉をもちだしてかっこつけようとする三重県議会って、ばか? ははは。ばーか。 さてこの一件、これにてつつがなく落着となるのかどうか。2ちゃんねるに眼を転じましょう。 このスレッドではメディアによる報道が額面どおり受け容れられているようです。たとえばこんな感じ。
ならばこちらのスレッドは── 案の定、いわゆる別件のこともちらっと取り沙汰されているようです。経緯の不自然さからすれば何かしら裏があるのではないかと勘ぐりたくなるのが普通でしょうが、実際のところはどうであるのか。三重県政の闇が(むろんそんな闇があると仮定しての話ですけれど)白日のもとにさらされる日は来るのでしょうか。三重県議会が県政の闇(そんなものがあるとしての話ですが)を念頭において政治倫理を確立しようとしているのであれば、それはそれで首肯できない話ではないのですが。 なんてこといってる場合か。同じスレッドになぜか登場してしまった私の話題に移りましょう。名張まちなか再生委員会のみなさんへの長いお別れの前に、ひとことご挨拶申しあげておかなければなりません。じつはこのご挨拶、ひさびさにハードボイルドタッチでかまそうかと考えないでもなかったのですが、なんだかあほらしさが先に立つゆえ、ていうか私にはもうハードボイルドだどみたいな元気はないようで、普通に流すことにいたします。 それは元気もなくなるじゃろう。昨年の1月、名張市が名張まちなか再生プランの素案を発表したころには、わしもまだ元気じゃった。プランに眼を通してそのインチキぶりにわが眼を疑い、「江戸時代の名張城下絵図や江戸川乱歩など名張地区に関係の深い資料を常設展示する」歴史資料館を整備するなどと記されておったものじゃから、それに乱歩に関連して活用してくれと所有者の方から名張市にご寄贈をいただいた桝田医院第二病棟のことがどこにも書かれておらなんだものじゃから、これはわしの出番じゃと考えて名張市にパブリックコメントを提出したのが3月のことじゃった。 6月に名張まちなか再生委員会が結成されて、ぷッ、この人たちではだめじゃろうとわしは思うた。いやいや、だめというのであれぱプランをまとめた名張地区既成市街地再生計画策定委員会がそもそもだめであったのじゃが、そっちのほうはすでに解散しておった。お役所というところは責任の所在を曖昧にするのが仕事なのでな、そのあたりには抜かりはない。そこでわしは名張まちなか再生委員会にいろいろと働きかけたのじゃが、連中はいっさい応えようとはせなんだのじゃ。そのいっぽうで、どんどんどんどんインチキをかましてきよった。プランにあった歴史資料館構想はリフォーム詐欺と呼ぶしかないようなものであったのじゃが、それがいつのまにか初瀬ものがたり交流館とやらになってしまい、プランにはなかった乱歩文学館とやらも勝手に俎上に載せられる始末じゃった。 インチキには勝てぬ。わしはそう思い知った。いや、思い知らされたというべきじゃろう。わしはインチキなどしておらん。あくまでもルールを遵守し、踏むべき手続きもすべて踏んだつもりじゃ。パブリックコメントでみずからの考えを明らかにし、名張まちなか再生委員会の事務局へも足を運んだ。しかし、いくらプランの不備を指摘し委員会の非道を批判しても、結局は何がどうなるというものでもなかったのじゃ。どだい、連中には原理原則などなかったのじゃからな。それでは勝てぬ。逆立ちしても勝てぬ。税金の具体的なつかいみちを決める手順に原理も原則もない。そんなばかな話があるかとわしは思うのじゃが、それが現実というやつなのじゃよ。とにかくわしはもうあほらしくなった。ハードボイルドタッチなどは夢のまた夢。ギムレットには遅すぎるのじゃ。 そんなこんなでハードボイルドなんかより、ここはむしろ年寄りの昔語りのほうが語り口として向いているのかもしれません。なーんか「果しなき流れの果に」の終幕を思い出したりしてしまいますけど。あすにつづきます。
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わしもこの年になるまで、インチキならばいやというほど眼にしてきた。それはそうであろう。世の中はインチキでできておる。いまさらインチキなどに驚きはせぬが、しかしインチキもずいぶんと様変わりしたようじゃな。昔はインチキというものは恥ずかしいものであった。隠れてこそこそとやるものじゃった。それがどうやらそうではなくなったらしい。きのうの夜、ボクシングのWBAライトフライ級王座決定戦をテレビで観戦して、わしにはそれがようわかった。これが風潮というやつじゃろう。どんな卑劣なインチキをかましても勝てばよい。そんな風潮がひろまってしもうたのじゃ。それが当たり前の世の中になってしもうた。名張市まちなか再生プランとておんなじことじゃが…… と話を進める前に、われながらしつこいなとは思うのですが、きのうの朝にはまだアップロードされてなくてネット上で読むことができなかった新聞記事をひろっておきます。むろん先生関連。 まずは伊勢新聞オフィシャルサイトから、8月1日付もおまけにつけて2日付三連発。
かばう声なし、というのだからひどい話だと私などは思います。とくに最後の記事には、 ──「県議選への影響が一番大きい」と自民県議。同県議の不祥事を、議会運営だけでなく、県議選での反転攻勢に使いたい自民・無所属・公明議員団は、単独でも議員辞職勧告決議案を出すことで、会派のアピールをしたい考え。 ともあり、自民・無所属・公明議員団のなかには議員辞職勧告決議について「むしろ新政みえは応じてくれなかった方がいい。単独で出した方が選挙に有利だ。ばんばんあっちを攻撃できる」と話す先生もいらっしゃるそうですから、これはもう政治にはまったく関係のない同僚議員のトラブルを政治利用、いやこの場合は選挙利用か、とにかく嬉々として利用しにかかるというじつにあさましくも見苦しい話なのであって、そこまでして選挙に勝ちたいのかという気になってしまいますけど、そこまでしてでも勝たねばならぬのが選挙というものなのでしょう。好きなだけインチキかまして勝ち組とやらになってろばか。ははは。ばーか。 つづきまして毎日新聞と朝日新聞です。
「店で最初に応対した20代の女性店員には暴行していないという意味だった」ってのは、釈明としていかにも苦しい感じがいたします。
地元の正直な声はこのあたりでしょう。つまり真相はいまだ藪の中、不自然な点が少なくないからぜひ先生の口からほんとのところを聞かせてほしい。それがごく一般的な反応ではないかと思われます。私といたしましては、選挙区住民のみなさんにおかれましては先生の話も聞かず頭から叱り飛ばすようなことだけはしない襟度を持していただきたいものだと思いますが、ま、よそもののいうことです。 それでは本題に移りましょう。 このスレッドに投稿されていたレス番号192──
そろそろこの話題にまいろうかの。落書の本義真髄、一手指南して進ぜよう。年寄りは暇じゃから、ぼちぼち一行ずつまいるとするか。
二条河原落書をもどいた苦労は買うてやろう。しかしいかんせん、パロディというものがどういうものか、ようわかってはおらぬようじゃな。まだまだ青いわ。ただ語呂を合わせればいいというものではないのじゃ。リアリティが必要なのじゃ。いまの名張市で高卒嘱託や自己破産が流行しておるのかな。そんなわけはあるまい。誇張はいいが、虚偽はいかん。読んだ人間はうそとわかればすーっと引いてしまう。そんなことでは人の心に届く落書は書けぬわ。 落書の書き出しとしては、やはり名張市の現況に即したことを記さねばならぬ。たとえばこんなぐあいじゃよ。 ──このごろ名張にはやるもの、インチキ、まちなか、へぼプラン。 どうじゃ。面白くなったじゃろう。むろん即時性や時事性も大きなポイントじゃから、これが去年のいまごろであれば、さしずめこんな感じじゃろうて。 ──このごろ名張にはやるもの、からくり、エジプト、細川邸。 いまの名張市、諷刺する対象ならいくらでも転がっておるのじゃ。 といったようなところで、つづきはあしたとしようかの。
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凄まじいものじゃ。WBAライトフライ級王座決定戦から一夜あけたきのうは、マスメディアにおいてもインターネットにおいても判定への疑問批判が爆発状態を呈しておった。旧上野市選出の三重県議会議員のトラブルとおなじで、ふだんの行い心がけがよろしくない人間は何かことが起きると四方八方からぼこぼこにされてしまうということじゃろう。わしも気をつけねばなるまいて。 インチキが堂々とまかり通る世の中になってしもうたとはいえ、いや、そういう世の中になってしもうたからこそいっそう、人はジャスティスとフェアネスが厳然として存在する世界がどこかにあるのだということを信じたいのであろうの。正当な手続きを踏まずに世界チャンピオンの座に挑戦した人間が、結果としてベルトを手にしたとはいえ、それにいたるプロセスのインチキぶりをかくも手厳しく批判されておるということは、世の中がまだ多少なりともまともであることの証左なのかもしれぬ。 プロスポーツの世界においてすらこうなのであるから、税金の具体的なつかいみちを決めてゆく手順にインチキがあってはならぬというのは、どんな時代であっても当たり前のことじゃ。手続きやルールを無視することのないジャスティスとフェアネスが求められるということじゃよ。 おっと、とんだ余談になったようじゃの。老いのくりごと、気にされるな。 さて、きのうのつづきにまいろうか。
さっそく躓いておるようじゃな。素人にはありがちな失敗じゃ。元ネタにひっぱられておるのよ。二条河原落書の原文は「召人 早馬 虚騒動 生頸 還俗 自由出家」というものじゃが、うわっつらをとりつくろうことでいっぱいいっぱい(それも「召人」の「めし」が「飯の種」の「めし」と来てはのう)、中味の平仄が合わなくなって何も伝わらぬ内容となっておる。うわっつらだけが飾られて中味がまったくともなわぬあたり、なにやら名張まちなか再生プランを思わせぬでもない。 つづく行も同断であろう。元ネタは「俄大名 迷者」とあるところ──
つづいて「安堵 恩賞 虚軍 本領ハナルヽ訴訟人」とあるところ──
早くも息が切れてきたようじゃが、よくもちこたえたというべきか。普通の人間であれば面白くもなんともないということに気がついてこのあたりで投げ出しているところじゃろうが、愛でるべきことに努力家である。まだつづくのじゃ。元ネタの「文書入タル細葛」はもどきようがなかったのであろ、軽く飛ばしてそのあとの「追従 讒人 禅律僧 下克上スル成出者」は──
とんと面白くないうえに意味も不明であるということをのぞけば、努力賞くらいには値する内容かもしれぬ。しかし元ネタから逸脱してしまうのはパロディにおいて致命的なことなのじゃ。元ネタを終始踏襲してこそのパロディなのじゃ。パロディにおける努力賞などには何の意味もない。パロディがめざすべきはやはり象印賞なのじゃよ。象印賞がいったいどんな賞なのか、ご存じない向きも多いかもしれぬが、すまぬのう、老いのくりごとじゃ。 そういえばよほど腹が立ったものか、社説にとりあげた新聞もあったな。なに、WBAライトフライ級王座決定戦の話じゃよ。年寄りの話は予告もなしに前後するものじゃから、その点はご了解願いたい。きょうの中日新聞の社説にはこうあったな。
わしには案じられてならぬぞ。この社説の一文が、 ──何より心配なのは、この名張まちなか再生プランだけでなく、名張市全体への信頼や人気に影響が出ることだ。 とわしには読めてしまうからじゃ。関係各位はこのあたりのことをよく肝に銘じてもらいたいものじゃ。もっとも、もう手遅れであるのかもしれぬ。卑劣陰湿な落書もどきに興じる市民の存在がネット上で明らかになってしもうた以上、それを眼にした人間は名張市そのものに対してもいい判定はくだしてくれぬことじゃろう。さても困ったものよ。
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暑い。暑いのう。年寄りにはまことこたえるきのうの暑さであった。CNNの伝えるところによれば、アメリカは熱波、南アフリカは寒波、中国は台風に見舞われておるそうな。北朝鮮は韓国の援助を受け容れることに決めたそうじゃが、これも先月の豪雨と洪水の被害がいかに甚大であったかを示すものじゃろう。どうやら地球全体の気象が音を立てておかしくなりはじめておるようじゃが、いたしかたあるまい。諸行無常、適者生存。地球がいつまでも人類の生存に適した環境を維持しつづけるという保証などどこにもないのじゃ。地球環境を守ろうなどと思いあがったことを口走るばかが増えてきたゆえ、地球のやつがわしはおまえらのために存在しておるのではないと少しばかりへそを曲げておるのかもしれん。 さて、きのうのつづきじゃ。暑さのせいもあっていささか倦んではおるのじゃが、努力家の汗には報いてやらねばなるまい。さっそくまいろう。 元ネタの「器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所」はこのように書き替えられておる。
パロディとしての巧拙にはきのう結論を出しておいたによって、きょうは多少ちがった観点から、すなわちこの落書によって非難された人間であるわしがいかばかりのダメージをこうむったのかという観点から、簡単に指南しておくとしようかの。 まず「昇給辞令の沙汰もなく」じゃが、これはわしには痛くも痒くもない。わしにかかわる昇給辞令の沙汰で恥をかくのは、どう考えても名張市じゃろう。わしのように有能な人材がきわめて不安定なポジションに据え置かれ、はたして『江戸川乱歩年譜集成』をちゃんと刊行できるのかどうかすら危ぶまれる状態であるというのが現状じゃ。そしてそのいっぽうで、どれほどできの悪い職員でも正職員であれば一人前に手厚く面倒を見てやらねばならぬのがお役所というところなのじゃ。これぞ知のバリアフリー、いやむしろ痴のバリアフリーと称するべきか。 臨時職員やわしのような立場の人間を一貫して非人間的に扱うのは、現在の自治体行政においてむしろ常態であるといってよかろう。日本全国どこの自治体でも事情は似たようなものじゃろう。しかしこれは行政サービスの質にかかわる問題なのじゃ。「将来の保障のない労働をしている人に、使命感ややる気を求めることは最初から無理である」(前川恒雄・石井敦『新版 図書館の発見』NHKブックス)というしかない事態なのじゃ。行政が民間業者に業務を丸投げし、その業者がまた下請けに丸投げする。それがときとしてどういった結果を招くのかということは、先月31日に埼玉県ふじみ野市の市営プールで起きたいたましい事故を見れば一目瞭然じゃろう。 余談に走ってしもうた。「集う人なきHP」にまいろうか。残念ながらこれも効き目はゼロじゃ。つどわなければ何もできぬ人間、衆を恃み群れをなさなければ何ごともなしえない人間には、人の寄らぬことはさぞや一大事であろう。それを指摘されることは弁慶の泣きどころを蹴られるようなことであろう。しかしわしには馬耳東風じゃ。わしのこのサイトは名張市立図書館が発行した江戸川乱歩リファレンスブックの内容を公開するために開設したものでな。本来であれば名張市の手で提供されるべきデータなのじゃが、予算がないから無理であるなどと名張市がほざきおったから余儀はなかった。人がつどうことを考えてつくったサイトではないのじゃよ。 それにこれは身びいきでいうのじゃが、乱歩にかんするデータを必要としておる人たちには、このサイトはそれなりに重宝してもろうておるとわし自身は思うておる。たとえばつい最近も、インターネットに無縁な生活を送っておる人から「RAMPO Up-To-Date」の今年の分を教えてくれとの要請があり、わしはさっそく当該ページをプリントして郵送したものであったし、むろんインターネット環境にある人からはいろいろな教示も届けられる。つまり「集う人なき」という指摘はわしにいわせれば事実誤認なのじゃ。あいにくなことにかすりもしておらんのじゃ。わしはまたしても痛くも痒くもないのじゃよ。 それにな、最近では乱歩に関心のない人もこのサイトにつどうてくれておるようじゃ。掲示板「人外境だより」には先日も「名無し」や「愛読者」を名乗る名張市民からの投稿が寄せられたほどでな。ということは、乱歩ファンのみならず一部の名張市民にも、おなじ市民のなかに卑劣陰湿な落書もどきに興じる人間がいるということは認識されておると見てまちがいあるまい。しかもな、インターネットの情報など便所の落書きであると脳天気なことをゆうておられるような時代ではすでにないのじゃ。 2ちゃんねるにきのう午後4時台に立てられ、あっというまにレスが千を超えてしまった「【亀田新王者】 "TBSに抗議など6万件" ネット掲示板が火付け…「テレビ局、もうネット黙殺はできない」というスレッドをさっき見てみたのじゃが、ソースは次のような記事であった。
インターネットはもう黙殺できぬということじゃ。便所の落書きと切って捨てることはもはやできぬのじゃ。むろん便所の落書きと呼ぶしかない二条河原落書のもどきもあるにはあるが、たとえばわしがネット上で展開した名張まちなか再生プラン批判を見てみるがよい。あれがはたして便所の落書きか。無責任きわまりない便所の落書きはむしろプランそのものではなかったかの。「集う人なきHP」などと侮っておると、いまに痛い目に遭うことになるかもしれぬぞ。
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暑い。あんまり暑くて死ぬかとぞ思うが、体力を温存する意味においても四の五の申さずさっそくまいろう。 二条河原落書の「キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ 賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ 巧ナリケル詐ハ」は、さてどのようになったかの。
ふむ。たしかに努力賞はくれてやってもよいのう。しかし、しっかしもう飽きた。おれは飽きたぞ。あほらしくなったぞ。毎日くそ暑いのになんでこんなあほらしいことをやらねばならんのか。あとはいいように流すことにする。 問題点は二点だ。一点目は以前にも指摘した。元ネタにしばられて批判が機能していない。ぼやけている。死んでいる。これじゃかすり傷ひとつつけられんぞ。もう一点は「キモいジャケット」。みずからの見聞にもとづいた一次情報をつかってると身元を特定されることがある。インターネットで入手できる情報とか名張市役所内部での伝聞情報とか、使用するのはその程度の二次情報三次情報にとどめておけ。匿名で発言するならそれくらいのことはわきまえてろ。 とやったのでは愛想もこそもないか。ならばたまにはまともに受けてやろう。
まず「田舎政治」にかんする批判を受けてみよう。おれは政治になんか興味はない。興味があったらとっくの昔に最低でも名張市議会議員にはなってるだろう。そうすりゃ名張市議会に初の知性派議員が誕生していたところだったが、そうならなかったのは名張市にとっていささか残念なことかもしれんな。とにかく田舎政治なんぞに興味はないのだから、田舎政治を吊しあげることにも興味はおぼえない。ただし田舎政治家をおちょくることはないでもない。たとえばこんなぐあいだ。
四年前の市議会議員選挙当時に発表した漫才なわけですが、ばかがなーに偉そうにしてやがる、みたいなことを私はつねづね感じておるのでしょうな。で、腹を立てておる。だから世間が市議会議員選挙で騒がしくなると、ついついこんな漫才も発表してしまう。やんややんやの大受けではあったが。 ここでひとこと説明を加えておこう。おれはどうしてこんな漫才をながながしく引用したのか。それはあの落書もどきが決定的に欠いており、しかし本来は不可欠であるところのリアリティというかアクチュアリティというか、この手の戯文を読者の心に届けるための核のようなものがこの漫才にはたしかに存在しておるからだ。誇張はあってもうそはない。あっちこっち命がけ。そのあたりの骨法をよく心得ておくことが必要じゃ。まだまだ勉強が足りぬようじゃな。 ところで、この漫才がはたして田舎政治を吊しあげているであろうか。田舎政治家をおちょくっていることはたしかであるが、吊しあげてなどいないであろう。吊しあげというのは通常もっと直接的な行為で、さらに厳密なことをいえば大勢の人間がひとりまたは少数の人間を責めたてることなのである。おれはいつだってひとりなんだから吊しあげなどという行為は初手から不可能だ。しかしあえて探してみるならば、むしろこっちのほうが吊しあげという行為に近いのではないか。
去年の7月、名張市議会議員の先生方が大挙して大阪に赴かれ、怪人二十面相のいでたちで名張の観光PRに努めてくださったという報道に接して唖然とした私は、それならば乱歩にかんする最低限の知識は身につけていただきたいものだ、そのために尽力するのが名張市立図書館乱歩資料担当嘱託である自分の責務だと考えました。そこで市議会事務局にお願いして「名張市議会議員の先生方のための乱歩講座」を開いていただき、それは8月8日のことでしたが、僭越ながら講師を務めて先生方に乱歩のことをおはなしいたしました。 昨年8月12日付伝言に掲載したこの表はそのときの出欠を記録したものなのですが、さあ名張市民のみなさん、来たる8月27日に執行される市議会議員選挙に際してはぜひこの表をご参考に、などと呼びかければ吊しあげになるのではないか。いや、ならんな。どちらかといえば晒しあげであろう。ていうか単なるいやがらせだ。 次に行こう。「口髭グラサン歪めつつ、気色めきたる田舎者」にかんしては、もう面倒だからそれがどうしたとだけいっておく。次は「黄昏時になりぬれば、浮かれて歩く色好み」か。よくもこんないい加減なことがいえたものだ、といいたいところだが、結構あたっておるかもしれんな。 というのもあれはいつであったか、この伝言板にも記したことだが、おれは三重県立名張高等学校の教え子と名張市役所に足を運んだことがある。校外学習というやつである。関係セクションにお願いしていわゆる名張まちなかのことをレクチャーしていただいたのだが、それが終わって市役所の玄関から外に出、少し時間をつぶす必要があったゆえ喫煙コーナーで煙草を吸いながら教え子と話をしていたときのことであった。談たまたまキャバクラの話におよんだとき、女生徒のひとりがおれの顔をまじまじと見つめてから、 「あッ」 と叫ぶわけね。 「あッ。先生って絶対キャバクラとか行ってそう。ものすご行ってそう」 といってくれるわけね。先生がキャバクラ行ってどこが悪いの。いやいやそれ以前に、名張にキャバクラなんてないではないか。あったら行ってるかもしれんけど。いやいやそういう問題でもないのであって、そんな君たち先生のことを色眼鏡で見ないでください。しかし色眼鏡かけてる人間がこんなこといっても説得力というやつがなあ。とにかく「黄昏時になりぬれば、浮かれて歩く色好み」なんてことは控えたほうがいいのかしら。 思わずうろたえてしまいましたが、「目糞、鼻糞を笑う如く、役所を莫迦と名指しする」に行きましょう。「名指し」という言葉の用法がややおかしいのはまあいいとして、ばかを名指しするのはきょうびのお役所においてひとつの流行となっております。7月20日付毎日新聞の記事をごらんいただきましょうか。
システムとしての問題点はいろいろと指摘できよう。たとえば「各部局の所属長が、対象となる職員を総務部に報告」といったあたり、所属長自身に問題があった場合はどうなるのかとお思いの読者諸兄姉もいらっしゃることであろうし、げんに名張市役所にだって問題なしとせぬ管理職が皆無であるというわけでもない。しかしこの場合の「能力不足職員」なんてのは、そんな生やさしいものではありません。それはもうひどいの。それが証拠に2ちゃんねるにおける三重県職員の憩いのオアシス「三重県庁職員集まれ!10」には、この記事が報じられた日の朝にさっそくこんな投稿が。
名指しこそしてないけれど、県職員が自分たちの同僚には「カス共」がいるとはっきり認めてるわけなのね。鳥取県や北海道の後追いであるとはいえ、三重県がそうした職員の一掃に手をつけたのは、まあよしとしていいことでしょう。 何の話をしておったのかというと、名指しで批判する件であったか。市政に正当な批判を加えるのは市民の責務であると私は考える。たとえば名張まちなか再生プランを見てごらんなさい。私の批判は終始正当であったし、名張まちなか再生委員会や名張市は一貫してぐたぐだであった。批判されて当然であった。私としてはもっと突っこんで、歴史資料館だの初瀬ものがたり交流館だの乱歩文学館だの、そういった愚劣な構想を最初に口にしたのは誰であったか、ちゃんと個人名を特定して批判してやりたいところなのだが、関係者のいうことはいつもいっしょだ。 「みんなで協議して決めました」 聞いて呆れる。みんなで協議して決めましたということは、 「誰も責任は取りません」 ということと同義ではないか。やってらんねーなまったく。このくそ暑いのにいつまでもご町内感覚となあなあ体質でぐつぐつ煮詰まってんじゃねーぞこら。
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暑い。ただ暑い。さっそく行く。ただ行く。
はい終了。終わりだばか。終わったなおまえは。おれは匿名であることを頭から否定したりはせん。人それぞれに立場や事情があるのだから、名前を伏せなければ訴えることができない主張もあれば身分を隠さなければ流せない情報もあるだろう。しかしこらばか。匿名の発言であればこそ、そこにはなおさら発言者の品性そのものがにじみ出るのだということはよくおぼえておけ。 「小西大熊こき混せて」とはおそれいった。品性の卑しさ浅ましさをここまで暴露せんでもよかろうが。手前は自分の正体を徹底的に隠蔽して安全な場に位置を占めつづけておりますが、人をおとしめるためとあらばそれはもう他人の実名も平気でひっぱり出してくることのできる卑怯者でございますとみずから証明してどうするの。手前はどうしようもない名張市民でございますとわざわざ公言してどうするの。こらばか。ちっとは恥というものを知ったらどうだ。 「一座揃えど似非識者」とはよくぞ申した。大丈夫か。えせ識者なんてのは名張地区既成市街地再生計画策定委員会だの名張まちなか再生委員会だののメンバーのことを指す言葉だ。うすらばかが識者面してなーに程度の悪いことをほざいてやがる。どんな歴史資料があるかも知らずに歴史資料館をつくりましょうなどとぶちあげるばかのことをえせ識者というのだ。そんな権限が認められてもいないのに歴史資料館では都合が悪いから初瀬ものがたり交流館に変更してしまいましょうなどとインチキをかますばかのことをえせ識者というのだ。乱歩作品を読んだこともないのに乱歩文学館をつくりましょうなどと認知症の寝言みたいなことを口走るばかのことをえせ識者というのだ。こらうすらばか。いつまでも天に向かってつばを吐いてろ。 「在々所々の乱歩通」なんてことはいわないほうがいいだろう。かりにも乱歩文学館を建設しようという名張市の市民ができの悪い落書でおれを非難するためにわざわざ乱歩ファンのことをもちだしたとなれば、それでなくても名張市からどんどん遠ざかってる乱歩ファンがますます離れていってしまうではないか。だいたいが名張市は── この一件で一部の乱歩ファンにはすでにドン引きされておる。そりゃ引かれてもしかたない。ドン引きされてもしかたがない。
どこのばかかは知らんがこんなことを堂々とほざける名張市民がいるのだから、この一事だけで名張市はドン引きされてもしかたがあるまい。あまつさえおれの見るところ、このばかは名張まちなか再生プランにも確実に一枚噛んでいる。こんなばかのいる委員会がインチキでひねり出した乱歩文学館構想なんて、乱歩ファンからは見向きもされぬのではないかとおれは思う。 「疎遠にならぬ人そなき」というのは、だからいったいどこの話か。名張まちなか再生委員会の話ではないか。こんな卑劣陰湿な落書もどきでしか他者に異議申し立てをすることができない人間のことではないか。疎遠になるだけならまだいいかもしれん。しかしおまえみたいなぼんくらに「小西大熊こき混せて」などと揶揄された人間は、ただ疎遠になるだけでは気がすまんのではないか。きょうびのことだ。おまえのせいでインターネット上に名張市への悪口雑言罵詈讒謗が飛びかうようになったってしかたはあるまい。名張市民であることだけが確実で正体はいっさい不明な人間に意趣返しをしようと思ったら、とりあえず名張市を叩くしか手はあるまい。こらばか。うすらばか。その血のめぐりの悪い頭でちっとはものの道理というものを考えてみろ。 「常識礼儀の分別なく」ってのもいったい誰の話だろうな。いったいどこの話だろうな。ルールや手続きはいっさい無視し、原理原則を踏みにじってインチキを押し通したのはいったいどこのどいつだ。分別がないのはいったいどっちのほうかというのだばか。掲示板「人外境だより」への投稿を見るだけでも、名張市の閉鎖性や排他性にうんざりしているニューカマーが少なからず存在していることは想像にかたくない。仲間うちでしか通用しない常識や礼儀にしがみつき、ご町内感覚となあなあ体質を全開にしていつまでもうたってろばーか。 「自由狼藉の人外なり」とは痛みいる。うらやましいか。くやしいか。くやしかったらおまえも自由になってみろ。自由に堂々と発言してみろ。自由なんてのはそこらにごろごろ転がっているものではないのだ。人が自由を獲得するためにはいったい何が必要か。一匹の蚊を殺すようにして言論を封殺することが可能な風土で、ちょいと叩けば因循姑息の音がする頭ばっかりがスイカ畑みたいにならんだ土地で、ルールや手続きを遵守し原理原則を重んじることがむしろ狼藉であるような場所で、みずからの信念にもとづいて自由な発言を持続するというのがどんなことなのかちっとは真面目になって考えてみろ。自由上等。狼藉上等。おほめにあずかって恐縮である。
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落書もどきのお相手もきのうでおしまいとなりました。あの投稿者の方には掲示板「人外境だより」に「中田三男」という名義でご投稿いただいたとき、あえて誤読曲解することにより投稿内容なんていかようにも利用できるのだということを僭越ながら教えてさしあげたつもりであったのですが、ご理解はいただけなかったか。いやそれ以前に── 匿名性という隠れ蓑に安心してつい本音をむきだしにしてしまった投稿が投稿者のおもわくとはかかわりなく徹底的に利用される場合があるのだということは、去年の夏のこの一件からよく認識されるところではないか。「怪人19面相」という名義による昨年8月4日付投稿にあった、 ──そもそも江戸川乱歩みたいなものどうでもええねん。20面相のキャラで又スフインクスのナンチャッテ写真で公益活動を実践しているのだから貴様につべこべ言われる筋合いとちがうねん! という発言はひとりこのばかのみならず、名張市のいってみれば総意のごときものを問わず語りに表明するものであろうと私には判断される次第であり、以前から感じていたことを見事に裏づけてくれた得がたい証言としてしつこいくらいに利用してやった次第なのですが、ぱーか、調子ぶっこいて好きなことほざいてんじゃねーぞ。 いやそんなことはどうでもいいとして、ひさびさに『江戸川乱歩年譜集成』の話題でもと考えておりましたところ、例の三重県議会議員の先生がついに辞職されたというニュースが飛びこんできました。まずは本日付中日新聞の記事をどうぞ。
しかしこの記事、ふしぎなことにあの記者会見のことにはいっさいふれられておりません。ならば読売新聞は──
このとおりちゃんと記されてはいるものの、この釈明は鵜呑みにできるものではないでしょう。7月21日付中日新聞で報じられていた逮捕前の会見における先生の言を7月30日付伝言から引きましょう。 「つまようじ一本当たってないのに、けがするわけがない」 「いすやメニューは投げつけていない。まったくのうそと思う」 「どうけがをさせられたのか(被害者に)聞いてみたい」 「はめられたと思わないこともない」 「けんかを売られた気分」 この激越な調子の発言がじつは単なる勘違いにもとづくものであったと、そんな話がはてさてそのまま信じられるものかどうか。読売新聞にあるような「告訴したのは女性店長ではなく、別の店員と思いこんでいた。別の店員にはけがをさせていなかったので、あのような説明になった」という釈明がきれいに腑に落ちるものかどうか。私は落ちない。釈然としない。 「いすやメニューは投げつけていない」という発言は暴行対象を限定した話ではないだろう。現場における自身の行動をそのまま語ったものだろう。店員には投げつけてないけど店長には投げました、でも告訴したのは店員だと思ってましたから椅子やメニューは投げつけてないと申しました、なんて話が信じられるわけがない。実際に椅子を投げつけて全治二週間のけがを負わせていたのであれば、その相手が自分を告訴したものと考えるのが当たり前ではないか。どうして店員が告訴したなどと勘違いしてしまえるのか。しかしまあ、これで真相は藪の中ということになってしまうのであろうな。 そうかと思うとおなじくぼこぼこ状態だったボクシング世界チャンプは、いまも相変わらずのぼこぼこ状態みたいです。かわいそうな話である。2ちゃんねるの例のスレッドはごらんのとおり十六スレ目も終了間近。 ぼこぼこにされている人間を見ると身もだえするほどのシンパシーを感じてしまうというのも困った話なのですが、先生にもチャンプにもへこたれることなく自分に正直に生きていただきたいものだとぼこぼこ予備軍の私は思います。私もできるだけぼこぼにされないよう気をつけて生きてゆきたい。
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きのうの朝にはアップデートされていなかった昨日付の新聞記事をひろっておきましょう。むろん先生関連。まず朝日新聞です。
先生の反省の弁は見られますものの、中日新聞の記事と同様に逮捕前の記者会見にかんする言及は見つかりません。 毎日新聞は一問一答を載せているのですが──
なぜ逮捕前の会見で暴力沙汰を全面否定したのか、という質問は見あたりません。「逮捕された瞬間から辞職することを考えていた」というのもにわかには信じられぬ話で、新聞報道によれば逮捕されたのは7月21日金曜日の午後5時50分、先生は当初全面否認を貫き、容疑を認めはじめたのは7月24日月曜日のことであったといいます。辞意の表明が遅れたのは「支えてきてくれた人たちにおわびしてからと考えたから」といういいわけはいいとしても、逮捕された瞬間から辞職を考えていたような人間が、ということは要するに自身の罪を認めてすでに観念していたような人間がわざわざ全面否認なんて面倒なことをするかよ普通。 伊勢新聞は二本立てです。
きついなあ。これは相当にきついぞ。額面どおりに受け取るならば、逮捕前の記者会見の時点で先生には自分が店長にけがをさせたという認識が当然あったはずである。にもかかわらず、店長ではなく店員が告訴したのだと勘違いして「つまようじ一本当たっていない」と強弁した。そんなばかな勘違いがあるとはとても思えませんし、店長と店員のちがいこそあれ、衆人環視の状況で非力な女性に暴行を加えたという負い目のある人間にはたしてかくのごとき強弁が可能なのかどうか。先生はあのときの会見で、 ──はめられたと思わないこともない。 とまでおっしゃっているのである。すぐにばれる大嘘ぶっこくときにここまでのことをいうかよ普通。「無念さをにじませる面もあった」ってのは、いったいどんなことについての無念さであったのかな。インチキのにおい芬々たるものがあり、なんかおかしいことだらけだなとは思いますけれど、きのうも記しましたとおりこれ以上は藪の中、というか三重県政の闇の中ってやつですか。どうもよくわかりませんけど、とにかくこれにて一件落着ということのようです。教訓、気をつけよう暗い夜道と三重県政。 つづきまして「本日のアップデート」とまいりますが、きのう「あすにつづきます」とお約束した小谷野敦さんの新刊『谷崎潤一郎伝』の話題は勝手ながらあすに延期して、おめでたい話題をお届けいたします。
しかしこうなりますと、気になるのはやはり名張まちなか再生プランに加えられた乱歩文学館のことなり。ほんとにどうする気なのかしら。名張まちなか再生委員会のみなさんとしては何でもいいから乱歩の名がつく施設をつくればいいのだ、うわっつらだけを考えたどこにでもあるような月並みきわまりない施設をつくればそれで満足だとお思いなのであろうか。プランとも委員会とも何の関係もない私ではあれど、やはり気にはなるなり。名張市がインチキを重ねたあげくどんな恥をかくことになるのか、それを考えると胸ふさがれる思いなり。 |
はっきりいってこう暑いと毎日なーにやってんだかよくわからなくなってしまいます。先生の話題にも落書の話題にもけりをつけたつもりではいるのですが、ふと思いついて例の落書が投稿された2ちゃんねるのスレッドを覗いてみますと── 8月4日にこんな投稿が。
つい見逃しておりました。というか、先生の話題から落書の話題に移行して以降、あのスレッドにアクセスすることをしていなかったように思います。どこのどなたか存じませんが、気づくのが遅くなって失礼いたしました。ご心配いただいて感謝申しあげます。 しかしまあ、私の功績や知性といったってたいしたものでは全然ありません。功績となるとせいぜい名張市の名誉市民に選ばれるのが関の山、知性といってもたかだか伊賀地域を代表する程度のものでしかありませんから、さほどご心配いただく必要もないであろうと思われます。それにだいたいがあんな落書もどきのお相手をしたくらいで低下してしまうレベルや価値ならば、そんなのはしょせんなじょうことなきものでしかなかったということでしょう。 つづいて「本日のアップデート」とまいりたいところですが、小谷野敦さんの新刊『谷崎潤一郎伝』の話題は勝手ながらまたしてもあすに延期して、きのうが鳥羽ならきょうは立教、この手の情報は手を携えてもたらされるものなのか、ある方からお送りいただいた日本近代文学館の館報にもとづき、二日つづけて乱歩関連施設の話題をお届けすることにいたします。
さてこうなりますと、気になるのはやはり名張まちなか再生プランに加えられた乱歩文学館のことです。気にしたところでいたしかたなきことなれど、鳥羽みなとまち文学館に幻影城がオープンし、立教大学に江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが開設されて、このあと名張市はいったい何をするというのか。乱歩にかんして何をすればいいのか。 私の答えを記しておくならば、べつに特段のことはしなくていい。名張まちなか再生プランについてもまったく同様で、やはり特段のことは必要ない。そもそも再生である。古いまちをどう再生するかという話である。歴史資料もないのに歴史資料館をつくるなどというばかげたことは考えないほうがいい。細川邸を利用するというのなら、そこに名張市立図書館ミステリ分室を開設するだけでいいのである。すでにあるものをどう利用して名張のまちを生活の場として再生させるのか、それに知恵をしぼるべきなのである。そう考えて私は「僕のパブリックコメント」を提出したわけであった。 死児のよわいを数えるようなことにはなるのですが、どうしてあのパブリックコメントが採用されるにいたらなかったのか、私にはいまでも謎である。歴史資料館だの初瀬ものがたり交流館だの、そんな無理やりひねり出したようなインチキプランとは雲泥の差。かりにいまの時点で彼我のプランを公開して市民の投票を募ったら、なんとか交流館なんかより私の構想のほうが抜きん出た支持を集めるのではないかと私は思う。 ご参考までに私のパブリックコメントから引いておきましょう。
コメントに記した以外にもプランにはいろいろと細部があり、人から質問されたらそのつどお答えはしておるのですが(たとえばミステリ分室の記念室長にかんすることとか、名張駅など主要な地点からミステリ分室までの誘導にBDバッジを利用することとか)、コメントに「ミステリ分室の蔵書はインターネット上ですべて公開しましてね」とうたってあるあたりにはミステリ分室のサイトに江戸川乱歩リファレンスブックの全データを掲載し、増補を加えてゆきたいというもくろみがあったことはいうまでもありません。 つまり幻影城なわけです。乱歩の幻影城は地上のどこにも存在していませんでした。そりゃそうだろう幻影だもの。ただしきょうびの感覚では、インターネット上のお城こそが幻影の城であるのかもしれない。名張市立図書館ミステリ分室のサイトに乱歩をメインとしたさまざまなミステリのデータが構築されたならば(私の構想では乱歩の著作権が切れると同時に乱歩作品のすべての初出テキストをネット上で公開することも含まれていたのですが)、それこそが幻影城と呼ばれるにふさわしいものになるのかもしれない。私は江戸川乱歩リファレンスブックのデータをネット上で公開することを二度提案して二時とも却下され、けっ、ばーか、とは思っていたのですけれど最後の最後、このパブリックコメントに幻影城構築の最後の望みを託したのである。 しかしその望みもとうに絶たれた。幻影城の最後のチャンスも、ここにはかなくなりにけり。名張市は乱歩にかんして特段のことをする必要がない。しかしこれまでやってきたことは責任をもってまっとうすべきであろうし、その延長上に有意義な事業を展開することは望まれよう。しかしその望みも、いまや完全に絶たれてしまったのである。余は降参じゃ。ばかには勝てぬ。 |