2006年7月中旬
11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日
 ■ 7月11日(火)
差別表現オンパレード

 脱線に脱線を重ねている観は否めぬものの、名張市に乱歩文学館を建設しようとの野望に燃えていらっしゃるみなさんには恰好の生きた教材(いうことがいいだけ教師根性に汚染されてるな、と自分でも思いますけど)、「孤島の鬼」の差別表現をテーマにつづけます。乱歩文学館を設立し運営してゆくうえで関係各位はいつの日にか、乱歩作品のエログロ表現や差別表現をどう見るのか、どう扱うのかといった問題に直面することになるでしょう。この教材に取り組むことでその日に備えておきましょう。

 あるかなと思って探してみたら出てきました。「朝日」に連載された「孤島の鬼」のコピーです。さっそく昭和4年9月号に掲載された第九回から問題の段落を引いてみます。原文は総ルビなれど略します。

 私の力では、その時の味を出すことが出来ないけれど、十何年ぶりでの、親子の対面は、ざつとこんな風な、誠に変てこなものであつた。不具者と云ふものは、肉体ばかりでなくて、精神的にも、どこか片輪な所があると見えて、言葉や仕草や、親子の情といふ様なものまで、まるで普通の人間とは違つてゐる様に見えた。私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持つてゐるが、この不具老人の物の云ひ方が、何となくその皮屋に似てゐた。

 これがこの世に現れいでた最初の形態です。きのうも記したことですが、これはこのままの形で(むろん仮名遣いなどの表記は改めるにしても)いま出版してもどこにも差し支えはないものと私は判断いたします。きのう引用した山下力さんの『被差別部落のわが半生』の一節に照らしても、「全く問題はない」といえると思います。

 お次はずーっと時代がくだり、1969年6月に刊行された講談社版歿後第一次全集の第三巻『孤島の鬼』。乱歩自身が校訂した桃源社版全集に準じたテキストが収められております。

 私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 初出に比較すると漢字をかなに開いたり仮名遣いを改めたり、「十何年」だったところを「十年」に書き換えたりといった斧鉞のあとが見られますものの、「皮屋さん」のくだりはそのまま生きております。

 つづいては1973年9月刊の角川文庫『陰獣』に収められた「孤島の鬼」。これは上掲の歿後第一次全集とまったくいっしょですから引用は省きます。

 次に控えるのは1987年6月に出た創元推理文庫版『孤島の鬼』と同年9月の講談社江戸川乱歩推理文庫版『孤島の鬼』。これも桃源社版全集にもとづく本文が収録されているのですが、一部削除が見られます。

 私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。

 皮屋さんが消えております。

 おなじく1987年の8月に出た春陽文庫版『孤島の鬼』はどうか。

 わたしの力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことにへんてこなものであった。不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にもどこかかたわなところがあるとみえて、ことばや、しぐさや、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているようにみえた。わたしは以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 春陽文庫独特の改変が加えられておりますけれど、皮屋さんは生きております。

 2000年12月には角川ホラー文庫版『孤島の鬼』が出ました。これは皮屋さんが生きているほうのテキスト。念のために引いておきますか。

 私の力では、そのときの味を出すことができないけれど、十年ぶりでの親子の対面は、ざっとこんなふうな、まことに変てこなものであった。不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 最後は最新版、2003年8月に刊行された光文社文庫版全集第四巻『孤島の鬼』から引用しましょう。214ページに見える段落です。

 私の力では、その時の味を出すことが出来ないけれど、十何年ぶりでの、親子の対面は、ざっとこんな風な、誠に変てこなものであった。肉体ばかりでなくて、精神的にも、どこか片輪な所があると見えて、言葉や仕草や、親子の情という様なものまで、まるで普通の人間とは違っている様に見えた。

 皮屋さんの出てくる文章のみならず、その前のセンテンスにあった「不具者というものは」という主語までが忽然と姿を消しております。

 以下、あすにつづきます。

  本日のフラグメント

 ▼1969年6月

 江戸川乱歩と僕 木々高太郎

 なんたる奇縁か。「孤島の鬼」を引用するために講談社版歿後第一次全集の第三巻『孤島の鬼』をひもとき、何の気なしに月報を手に取ったところこの文章が掲載されていました。

 昭和9年の秋の終わりごろであったという乱歩との初対面にはじまり、戦前における甲賀三郎との、戦後における乱歩との論争を回想して、話は次のように進みます。

 今考えると、そんな論争をつづけている内に、文学作品としての推理小説を志ざす方がよかった。というのは、日本文学叢書、例えば近い例が筑摩書房「現代日本文学大系」全九十七巻の企画をみても、わざと推理小説はのぞいてある。乱歩と松本清張の二人位は入れる可きであるが、いまだに一種の偏見があるのではないか。

 何よりもそういう偏見を打破出来なかったのは文学論を抱く乱歩や僕の怠惰によるものと忸怩たるものがある。

 尤も、それを代償するように、ここには江戸川乱歩全集が刊行されるし、三一書房は近く夢野久作全集を出すそうである。

 なんたる奇縁か。こんなところで現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の名前に遭遇するとは。

 考えてもみなかったことなのですが、現代日本文学大系の刊行開始は1968年8月、講談社版歿後第一次乱歩全集のそれは1969年4月、まったくかぶっていたわけです。すなわち1970年の前夜、旧態依然とした文学的教養の体系として筑摩書房の文学全集の刊行がはじまり、そうした体系から洩れていたものに次々とスポットを当ててゆく試みもほぼ同時にスタートしていたということで、なかなか面白い時代であったと見ることができるでしょう。

 日本の文学全集にどうして乱歩が収録されていないのかという木々高太郎の憤慨は、1969年の時点ではいささか早すぎる指摘だったのではないかと思われますが、現代日本文学大系に松本清張の名が見えないのは私も不審に思いました。水上勉が入っているのですから、清張が収められていないのは片手落ちというものではないか。

 この「片手落ち」というのもかつては差別表現差別用語と見られていたものであったが。


 ■ 7月12日(水)
削除に頭突きは必要か

 名張まちなか再生委員会において乱歩文学館建設の野望に燃えていらっしゃるみなさん。ちゃんとお勉強してくださいましたか。それぞれの結論にたどりついていただけましたか。「孤島の鬼」に見られるこの文章、

 ──私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 これを削除する必要がはたしてあるのかないのか。みなさんのお考えはいかがなものでしょうか。くり返して記すならば私の結論は削除の必要まったくなし、全然大丈夫っすよというものです。

 しかしそういう時代はたしかにあった。いわゆる部落産業である皮屋さんのことを活字にしたり電波に乗せたりはできない時代があったというのはたしかなことで、「孤島の鬼」のテキストでいえば1973年9月の角川文庫『陰獣』と2000年12月の角川ホラー文庫『孤島の鬼』とにはさまれた期間にそうした時代が訪れていたということです。

 それはまあひどいというしかない時代であって、たとえばテレビの時代劇でお白州に引きすえられた悪党が遠山の金さんだか大岡越前様だかに、

 「そのようなお裁きは片手落ちでございましょう」

 などと居直ろうものならさあ大変、再放送では問答無用で「片手落ち」がサイレントになっておりました。みたいな例なら星の数ほどあるけれど、それもいまでは昔の話、いまやそんな時代もあったねと笑って話せる日が来ておるのであると私は認識しております。げんにくだんの文章をそのまま生かした角川ホラー文庫の『孤島の鬼』が糾弾されたなんて話はちっとも耳にしませんし。

 そもそも「孤島の鬼」の問題の箇所は小説のなかで偏見をもった人間がみずからの偏見を語っているというシーンなのであって、そこには何の問題もありますまい。それに偏見というならばそれ以前、

 ──不具者というものは、肉体ばかりでなく、精神的にも、どこかかたわなところがあるとみえて、言葉や仕草や、親子の情というようなものまで、まるで普通の人間とは違っているように見えた。

 という文章にこそ問題があると判断される次第なのですが、そうした問題を無視して「皮屋さん」だけを削除するというのでは「哀しみは歌に託して」にも記しましたとおり「差別表現の階層化とでも称するべき由々しい事態」にほかならず、そうした措置は差別問題の解消とはむしろ逆の方向を向いたものではないかと思われます。

 しかも「皮屋さん」を削除してしまうということは、ややおおげさにいってしまえばその歴史を抹殺してしまうということではないのか。皮屋さんの歴史は山下力さんが『被差別部落のわが半生』にお書きになっていた「カワタ(皮多)」の歴史にさかのぼるものであり、また当節でいえばいわゆる食肉利権の問題にも通底してくるものでもあるのでしょうけれど、一時期の部落解放同盟によるいわゆる言葉狩りとそれに呼応したメディア側の自己規制はそうした皮屋さんにかかわる歴史を隠蔽抹殺する方向に進んでいたというしかありません。

 それにだいいち、小説に書かれた、

 ──私は以前、ある皮屋さんと話をした経験を持っているが、この不具老人の物の言い方が、なんとなくその皮屋に似ていた。

 といった文章がいったい誰の感情を逆撫でするというのか。誰を怒らせるというのか。この文章を読んでいったんは遠ざかりながらくっそーおれのこと差別しやがってとくるりとUターンして相手に歩み寄り、歩み寄りながらその胸にいきなり頭突きをぶちかました仏国代表ジダン選手のごとき感情の暴発をいったい誰が見せるというのか。

 こんなものが差別として成立しているといえるのかと私には思われる次第であり、いやそれ以前に、ところで皮屋さんっていったい誰よ? と首をかしげる世代が増えているであろうことにかんがみるならば、まっとうな歴史認識にいたるためのささやかな呼び水としてもこの文章は削除されるべきではないでしょう。

 以上、僭越ながら名張市の乱歩文学館関係各位によるお勉強のお手伝いをあいつとめました次第です。はたしてお役に立てたかな。

  本日のフラグメント

 ▼1973年1月

 平林初之輔年譜 紅野敏郎

 きのうは時間がなくてオチが中途半端になってしまったのですが、まあいいでしょう。とにかく現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也に水上勉が収録されているのに松本清張の名が見えぬのは片手落ちなのではないかと私には思われます。

 逆にこんな作家が入っていたのかと驚かされるケースもあり、たとえば前田河広一郎がそうでした。第五十九巻『前田河廣一郎・徳永直・伊藤永之介・壺井榮集』を手にとってぱらぱらと眺めれば、6月20日付伝言でご紹介した野崎六助さんの『北米探偵小説論』に出てきた「三等船客」が収録されており、こんな作品が読めるのだからさすがは現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也である、と感動めいたものをおぼえたのではありましたが、あとで調べてみたら平凡社のモダン都市文学というシリーズの第八巻『プロレタリア群像』にしっかり収められていて、なんだか結構がっかりがっくり。

 乱歩ファンの多くは前田河広一郎に対してあまりいい印象を抱いてはいないのではないかと思われるのですが(頭の固いプロレタリアばか、みたいな)、しかし年譜を通覧してみると息子に先立たれ妻にも先立たれ、高血圧で右半身不随になったあげく長女の嫁ぎ先に引き取られて自伝の執筆をはじめたものの完成させることなく逝去したと、相当に不如意な晩年を送ったことが知られますからもういけません。

 悲惨不如意な晩年を日々生きていることが実感されるこの身としては、前田河広一郎のことがもう他人とは思えません。過去に生きた彼はあすの私なのである。なんだかわけのわからないことを考えていよいよ悲惨ますます不如意。とにかく前田河広一郎のことを悪くいうやつはおれが許さない。胸に頭突きを決めてやる。

 みたいなことはどうでもいいのですが、紅野敏郎さんの編になる前田河広一郎の年譜には乱歩の名も見え、大正14年に、

 ──この年「プロレタリア文学小論」「江戸川乱歩論」「プロレット・カルト私観」などの評論を書く。

 とあるのですが、この「江戸川乱歩論」というのはどうもあやしい。昭和5年に大衆公論社から出た前田河の評論集『十年間』に依拠したデータだと推測されるのですが、前田河広一郎は大正14年に「江戸川乱歩論」なる作品を執筆してなどいないのであるというのが現時点での私の認識ですから、この年譜は残念ながら却下いたします。

 ならばと取りいだしましたのは第五十四巻『片上伸・平林初之輔・青野季吉・宮本顯治・蔵原惟人集』。平林初之輔の年譜から引きます。

大正十四年(一九二五)三十三歳
三月、ルソーの『民約論』を訳して人文会より刊行。四月「日本の近代的探偵小説─特に江戸川乱歩氏について」を『新青年』に発表。この年、「探偵趣味の会」に参加、『新青年』の執筆者と交わる。母うめ死去。

 正確に記せば「日本の近代的探偵小説──特に江戸川乱歩氏に就て」なのですが、まあ大丈夫でしょう。頭突きかますほどのことにはあるまじ。


 ■ 7月13日(木)
S は Sealed のS、R は Room の R

 脱線しまくりの毎日ですが、脱線ついでにお知らせをひとつ。SRの会が会報を復刻した CD-ROM 『SR Archives Vol.2』を製作しました。詳細は「番犬情報」でどうぞ。

 その昔、私が漫才作家を志す前途有望な青年であったころ、大阪にSRの会という組織がありました。落語が好きな人たちの集まりで、Sは Short のS、Rは Rakugo のR、つまりごく短い新作落語を創作したり演じたりして興じるのを眼目とした会でしたが、その会が CD-ROM をつくったというわけではありません。

 収録は「SRマンスリー」の五十一号から百号までの全誌面。さーっと眺めてみますと昭和37年9月の54号には乱歩がアンケート「創元社に望む」に回答しており、これは「江戸川乱歩執筆年譜」から洩れておりました。その一か月前の53号では前年刊行の『探偵小説四十年』にふれながら乱歩不木往復書簡集刊行の要を説き、四十二年後の『子不語の夢』を予見していたといっていいような会員の随筆もあるのですが、これは「乱歩文献データブック」から洩れておりました。

 身を削るような思いでじっくり閲読したいと思います。

  本日のフラグメント

 ▼1965年8月

 乱歩の後継者は誰か 大野義昌、島内三秀、島田幾夫、柴田和夫、深川真理、八名八郎、山内悠(司会)

 さっそくですが『SR Archives Vol.2』からおひとつ。

 86号の乱歩追悼特集から座談会の冒頭を引きましょう。鬼と呼ばれたミステリファンによる乱歩逝去直後、正確に記せば1965年7月31日、すなわち逝去の次の次の次の日における貴重な証言です。出席者のお名前と本文中のイニシャルとが照応していない気もするのですけれど(Tさんって誰よ)、よしとしていただければ幸甚です。

T 乱歩が実際の活動から離れて、もうずいぶんになるし、重態説もいままでに何回もあつたわけですが、いざとなればやはりそれぞれ感じるところがあるだろうと思います。まずその辺から……

S 丁度、谷崎潤一郎もなくなつたでしよう〔。〕かたや半世紀以上の大現役、かたやとつくに現役返上の書かざる巨匠というわけで、なにも比較するつもりはないのだけれど、新聞の扱いなど、ちよつと淋しかつたですね。

H 新聞には木々高太郎とか中島河太郎あたりが書いていたね。大谷崎ともなると春川ますみまで登場していたけど。

Y ブームは下火だし、手塩にかけた宝石はポシヤつたし……

K 一方カツパ宝石は盛大に広告をはじめたし。

F さては新宝石のシヨツク死。(笑)

Y 特集号の出るのはSR位じやないのか。

H あとは推理作家協会報、これは大丈夫でしようね。(笑)

S 還暦の時には宝石から別冊記念号が出たんだが。

T しかし三重県名張に行くと駅で「二銭銅貨」という菓子を売つているんだ。探偵作家で土産物に名前が残るのは乱歩ぐらいのものだろう。

H 「点と線」では菓子の作りようがないものな。

T 「零の焦点」もむつかしいよ。

F 「眼の壁」なんて、ちよつと食べてみたい気がしない?(笑)

T まあ、戦前でも森下雨村、小酒井不木、甲賀、横溝、木々、大下、小栗、水谷とか、いろいろ作家はいたけれど、日本の探偵小説を生んだのも育てたのも、これはもう乱歩だね。

Y 戦後の再興もそうだ。

F 社会的影響という点でも彼でしよう。探偵小説という世界をこえて、文壇に影響を与えたというのもね。

Y 「芋虫」が厭戦文学として当時の左翼作家にもてはやされた。

T たゞし、戦后の乱歩はいささか迎合的だつたと思うんだ。

Y というのは?

 すぐに脱線してしまう人間というのは私のほかにもごろごろいるのだということがわかってほっと安心し、乱歩を追悼する座談会に名張名物二銭銅貨煎餅が登場したことに無量の感慨をおぼえた次第ですが、つづきは『SR Archives Vol.2』でとっくりとお読みください。詳細は「番犬情報」でどうぞ。ぜひどうぞ。

 『SR Archives Vol.2』ならびに『SR Archives Vol.1』をご恵投くださいましたSRの会のみなさんに心からお礼を申しあげます。


 ■ 7月14日(金)
全集綺譚

 まずお詫びと訂正です。昨日付「本日のフラグメント」でご紹介しました座談会「乱歩の後継者は誰か」、出席者のお名前に「山内修」とありましたのは「山内悠」の誤りでした。メールでご指摘を頂戴して気がつきました。どうも申しわけありません。お詫びを申しあげます。当該箇所は訂しておきましたが、しかしこれは痛い。

 何が痛いか。昨日掲載した出席者名は当サイト「乱歩文献データブック」のデータをそのままコピー&ペーストしたものであり、するってえと刊本『乱歩文献データブック』もまたおなじ誤りを犯しているということになります。あ痛ッ。あ痛たッ。

 ここでどうしてこんな単純なミスが生じたのか、今後のために襟を正して分析しておきたいと思います。まず考えられるのは、『乱歩文献データブック』を編纂していた当時の私はいまだ漢字の読み書きに慣れていなかった。いやそんなことはないか。当節の高校生にくらべれば結構漢字には強かったと思えます。ならば、SRの会関係者の方から頂戴した「SRマンスリー」当該号のコピーが読みにくかった。しかし判読不能な文字があればその関係者の方にお訊きしていたはずですから、この線もおそらくないでしょう。うーん。なんだかよくはわかりませんけど、重々自壊して、ではなかった自戒して次に進むことにいたします。

 とはいうものの、あちらこちら脱線してどれが本筋であったのかを見失い、それどころか暑さのせいで完全に自分を見失ってすらいる状態でもあるのですが、きょうのところは現代日本文学大系の話題にひとまずけりをつけることにいたします。

 何度も申しておりますがこの全集は全九十七巻です。しかし別冊が一巻あって、正確には現代日本文学大系全九十七巻別冊一巻ということになります。私が金一万九千円也で購入したのは全九十七巻だけですから別冊一巻は手許にないはずなのですが、なんとこれがありました。出てきました。うそではない証拠にほれこのとおり。

 やや薄汚れてはおりますが、まぎれもない本物。いやー、われを忘れて購入してしまったけれど全九十七巻の収納スペースを確保しなければならんではないか、とがさごそ悪戦苦闘している最中に何だこりゃという感じで出てきました。これで全九十七巻プラス別冊一巻イコール九十八巻が知らぬまに揃ったことになります。

 自分でも何が起きたのかよくわからなかったのですけれど、つらつらふり返りますとあれはいつであったか、つい最近もこんな話を蒸しかえしたような気がするのですが、海野十三関係のイベントで日下三蔵さんの講演会を拝聴するため徳島県まで足を運び、日が暮れてからJR徳島駅近くにあった居酒屋でお酒を飲みながらお店のお姉さんを口説いてみたところ、

 「私まだ高校生なんです」

 と打ち明けられつつ振られたあの日、地元の小西昌幸さんにご案内いただいた古本屋さんで購入したものでした。私にはその店で古書を購入する気などなかったのですが、あのときはたしか悪の結社とその名も高い畸人郷の先達おふたりをはじめとしたその道のそれこそ先達のみなさんがごいっしょ。そういえば末永昭二さんなどは見る見るうちにひと抱え以上もの古本の山を積みあげていらっしゃいましたっけ。

 他人の影響を受けやすい私はついふらふらとその気になり、しかも驚いたことに乱歩の随筆を収録した未見の『文芸年鑑』がありましたので『江戸川乱歩著書目録』編纂中の身としてはあわてて購入せざるをえず、ところがよく見てみたらどこのばかの仕業か奥付のページに新聞の切り抜きがべったりと貼りつけてあって発行日がわかりません。家に帰って試行錯誤はしてみたのですが、その切り抜きはどうにもうまくはがせませんでした。

 あれには苦労したなあ国立国会図書館へ行って調べたもののあそこの蔵書にはたぶん納本のさい出版社側がどういう理由からか発行日を粉飾したものがあってその『文芸年鑑』もたまたまその手の本でしたから奥付の発行日には信が置けずそれでどうした結局は版元である新潮社の資料室にご厄介をおかけしたのであったかとにかく手許に本がありながらその発行日を確定するのにえらく苦労した記憶があってもうあんなことは二度とごめんだ。

 そんなことはどうでもいいのですが、その徳島の古本屋さんで購入したのが現代日本文学大系別冊の『現代文學風土記』であったという寸法です。してみるとわざわざ徳島まで出かけて女子高生に振られたあの日から、私はいずれ現代日本文学大系全九十七巻を購入しなければならぬさだめであったと見るべきなのか。奇しきえにしの糸車、阿波の鳴門で眼がまわる。

 さて筑摩書房の現代日本文学大系全九十七巻プラス別冊一巻イコール九十八巻をずらりと揃え、昭和40年代にまとめられた主流文学の体系をつらつら俯瞰してみましたところ、まず懐かしい名前が結構あることに気がつきました。たとえば島崎藤村などというのはまさしく懐かしい。私はたぶん藤村の本など一冊ももっていないのですが(「夜明け前」だけは読んでおかねばなと思いつつ)、昔読んだなあまだあげ初めし前髪のだとか「破戒」だとか。舟木一夫さんが「初恋」に曲をつけて歌っていらっしゃったことまで想起されてきました。

 それからまた武者小路実篤。仲良きことは見苦しき哉。そういえば私は少し以前にインフルエンザが大流行したとき、たしかテレビのニュース番組であったか、このインフルエンザは昔風に表現すればスペイン風邪なのであるという解説を聞いてたちどころに武者小路実篤の名前を思い出してしまいました。「友情」であったか「愛と死」であったか、ヒロインがスペイン風邪であわれはかなくなりにけり、といった小説のことが頭によみがえってきたわけなのですが、高校生時代の読書というのはなかなかに侮りがたきものなりけり。

 けりがつきましたのでまたあした。

  本日のアップデート

 ▼1968年8月

 『現代文学風土記』 奥野健男

 私がどうして徳島県の古本屋さんで『現代文學風土記』なんかを買いこんだのかというと、お察しのとおり乱歩のことが出てきたからです。

 さっそく引くことにいたしますが、本日のところは現代日本文学大系全九十七巻別冊一巻イコール九十八巻コンプリート記念といたしまして、「神宮の地・伊勢商人の地/三重県」と題された三重県篇のうち名張市を含む伊賀地域のパートをすべて引用することにいたします。

 といったってフィーチャーされているのは乱歩のほかには横光利一のみ。しかも横光にかんする記述が長い。ひどく長い。文章量の差が旧上野市と名張市とのあいだの亀裂をさらに深めてしまうほど長い。まあいいけど。

 海と平野の明るく美しい伊勢から、山国の伊賀に入ると風景も風土もさびしい美しさに変わる。伊賀の自然は、いかにも忍者のかくれ住む山里にふさわしく思え、また俳聖松尾芭蕉の生れ故郷ということでいっそうさびしさ、わびしさの念がつのるのかも知れない。伊賀の上野には芭蕉の生家が遺され、俳聖堂が建てられている。

 その上野の近く阿山町東柘植村に横光利一が育った。父は大分県宇佐の人であり土木技師であったため横光は工事先の福島県東山温泉で明治三十一年(一八九八)に生れ、転々としたが、小学校入学の年、母や姉とともに母の故郷柘植に帰りここで育った。横光は伊賀柘植を魂の故郷として愛し、柘植を芭蕉の生地と信じ(芭蕉の父は柘植生れ)母を通して自分に芭蕉の血が流れていることを誇っていたと言う。三重県立三中時代はスポーツマンだったが、早大入学後は作家修業のため意志的に自分の肉体を不健康にする「文学青年的下宿生活」を続け、窮乏に耐えて習作にはげみ、さまざまな同人雑誌に加わった。菊池寛に見出され川端康成らと「文芸春秋」同人になり「日輪」と「蠅」によって新進作家として注目され、震災後の大正十三年、川端らと「文芸時代」を創刊、同年に創刊された「文芸戦線」のプロレタリア文学派に対立、「新感覚派」と呼ばれ、ダダ、シュールなどの流れを汲んで、方法上の革新をめざし、大胆な実験を行い、現代文学の先駆となった。「機械」で作風が新心理主義に転換し、さらに「純粋小説論」を唱え「寝園」「紋章」など懐疑派のインテリと信念派の行動人を対立させ、さらに長篇「旅愁」で東洋と西洋、伝統と科学などを雄大な構想のもとに対決させようとした。が未完に終り、戦後、「夜の靴」などを残して没した横光は戦前その意欲的な作品によって小説の神様、文学の鬼などと呼ばれ、その真率、素朴、熱誠の人柄のため多くの後進が集まり、現代文学の第一人者であったが、戦争期に神秘主義的独断に走ったため、戦後はドン・キホーテ的文学者として反動的に評価が下った。しかし新感覚派当時の斬新な表現、国語への不逞な挑戦、マルキシズムさらには西洋的知性との対決など時代の苦悩を一身に背負って誠実に現代文学の道を模索し、また日本には珍しい思想的対話のある本格小説を産み出すなどその文学的実力とはたした役割はもっと高く再評価すべきだと考える。上柘植の公民館の横の小高い丘の上に「蟻/台上に餓ゑて/月高し」と刻まれた文学碑があり、伊賀の山なみが美しく続き、風が虚空に鳴っていた。横光はヨーロッパに旅し、日本の伝統と美を考えるとき、この伊賀の地や、伊勢・大和の自然を思い浮かべていたに違いない。

 田山花袋の「名張少女」に書かれている伊賀の名張からは明治二十七年(一八九四)わが国の探偵小説の第一人者であり怪奇絢爛たる作品を遺した江戸川乱歩が生まれている。名張は伊賀というよりもう大和国に近い明るい里だが乱歩生誕の地に「幻影城」と刻まれた碑が建ち裏面に「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」という乱歩の内面の生涯を感じさせる印象的な言葉が記されている。


 ■ 7月15日(土)
全集綺譚第二期

 筑摩書房の現代日本文学大系全九十七巻プラス別冊一巻イコール九十八巻をずらりと揃えて感じましたことは、懐かしさのほかにはある種これにて終了みたいな感覚、近代の終焉とでも申しますか、函入りハードカバーでかっちりまとめられた主流文学の体系などというものは、たぶんこの全集を最後にばたばたと絶滅してしまったのであろうな、自分はいま恐竜の骨格標本を眺めわたしているようなものなのであろうな、ということでした。主流文学ったって全然たいしたことねーじゃん、みたいな尊大高慢傲岸不遜なこともちらっと思ってしまいましたし。

 げんに筑摩書房からはその後、より正確に記せば現代日本文学大系の刊行開始から二十三年後の1991年(だと思うのですが)、ちくま日本文学全集という文庫判全集の配本がはじまり、私はぱらぱらとしか所蔵していないのですが、第五十二巻『深沢七郎』巻末のラインアップにはさすがに隔世の感を抱かされます。

 一作家一巻で編成されたその顔ぶれを見るならば、明治から大正にかけての作家はとても目の粗いふるいにかけられていて、森鴎外、正岡子規、夏目漱石、幸田露伴、樋口一葉、意外な感じで岡本綺堂、島崎藤村、泉鏡花、とつづきます。露伴はあっても紅葉はなく、藤村はあっても花袋はない。あるいは、永井荷風はあっても正宗白鳥はない。やや時代がくだりましても、佐藤春夫はあっても室生犀星はなく、川端康成はあっても横光利一はない。むろん宇野浩二なんて全然ない。

 そうかと思うと柳田國男、折口信夫、宮本常一といった民俗学関係、それから夢野久作、白井喬二、江戸川乱歩、海音寺潮五郎といった大衆文学関係(収録作品が不明なので断定はできないのですが、菊池寛や大佛次郎も大衆文学関係と見るべきでしょうか)、はたまた従来の全集では十把ひとからげの扱いだった(この全集はハンディなサイズゆえに少ない作品で一巻が編めるわけなのですが)寺田寅彦、中勘助、内田百、宮沢賢治、稲垣足穂、梶井基次郎、中島敦、おやこんなのがみたいな尾崎翠、木山捷平……

 全巻を列挙してしまいそうですからこのへんまでとしておきますが、このラインアップから見るかぎり、いわゆる主流文学なるものはどうやら完全に命脈が尽きてしまい、自然主義だのプロレタリア文学だのといった文芸潮流も意味のあるものではなくなっていると判断されます。

 むろんあくまでも当代の一般的な読者にとってという限定つきの話ではあるのですが、主流文学や文芸潮流なんてほんとにもうどうだっていいものなのであって、たとえば横光利一が端的にそうなのですれど、主流文学の中心に位置し文芸潮流の最先端に立って同時代との死闘を展開した作家が忘れられ、そうした格闘のさいには田舎に行ってのんびり温泉につかっていたような川端康成が結局は脚光を浴びている(現代日本文学大系の月報のどこかで、おれは最初から横光より川端のほうが才能があるとにらんでいた、みたいなことを稲垣足穂が書いておりましたが)。そしてかわって浮上してきたのが、たとえば乱歩が端的にそうであるごとく、それがうつし世のものであるとそうでないとを問わず、小さな片隅の確乎たる別世界の消息を伝えつづけていた作家なのであるということなのかもしれません。

 私の場合は『江戸川乱歩年譜集成』を編纂するうえで主流文学や文芸潮流のアウトラインを頭に入れておく必要が感じられた次第であったのですが、そうでもなければ文学全集などというもの、何の意味もないものであるということが現代日本文学大系全九十七巻プラス別冊一巻イコール九十八巻によって再確認されたような気がします。いまや体系性なんて妄想のようなものかもしれません。

 とはいえすれっからしのミステリファンのみなさんからは、せいぜいがここ二十年ほどといったところか、いまできの国産ミステリだけを読んでミステリがわかった気になっているお若い衆には困ったものだという嘆きを聞かぬでもありませんから、探偵小説という小さな片隅の確乎たる別世界には体系性もまた厳然として存在しつづけているのでしょう。それともうひとつ、すれっからしのみなさんからはミステリ以外のジャンルにまったく興味を示さないミステリファンにも困ったものだという慨嘆もお聞きいたしますものですから、世の中やはりなかなかに難しいもののようです。

 したがいまして結局のところは、面白い小説が読みたかったらとりあえず手当たり次第に読んでみて、これはという作家が見つかったら徹底的に読みつぶしてゆけばいいのである、といったあたりが夏休みを迎えようとしている高校生諸君へのアドバイスか。

  本日のアップデート

 ▼2006年7月

 「江戸川乱歩傑作選」江戸川乱歩

 時節柄と申しますか、おそらくは夏休みを迎えようとしている高校生諸君あたりをターゲットにしたのであろう新潮社のキャンペーン用無料冊子、文庫本サイズで六十四ページの『2006新潮文庫の100冊』に収録されました。この手の冊子はふだんであれば沿線の小駅のように黙殺してしまうところなのですが、本屋さんで見かけて一冊もらってきました。

 『江戸川乱歩傑作選』が百冊のうちの一冊に選ばれていたからであることはもちろんですが、商業出版社が当節の高校生にどんな文庫本を売りつけようと考えているのか、あるいは、この百冊においていわゆる主流文学はどんなような扱いになっているのか、そういったあたりにひとかたならぬ興味をおぼえたことも理由でした。

 百冊は「名作」「現代文学」「海外文学」「エッセイ ノンフィクション」に分類されているのですが、現代文学は当代人気作家の顔見世、海外文学はアンデルセン、ヴェルヌから『沈黙の春』『海からの贈物』まで、エッセイとノンフィクションはファーストフードのメニューのごとし、といった感じでしょうか。

 『江戸川乱歩傑作選』の紹介文を引用するなどという月並みは避け、記録者としてのセンスのよさを遺憾なく発揮して、同書をふくむ「名作」のラインアップを録しておきたいと思います。

名作
「こころ」夏目漱石
「坊っちゃん」夏目漱石
「伊豆の踊子」川端康成
「阿部一族・舞姫」森鴎外
「羅生門・鼻」芥川龍之介
「蜘蛛の糸・杜子春」芥川龍之介
「人間失格」太宰治
「走れメロス」太宰治
「痴人の愛」谷崎潤一郎
「金閣寺」三島由紀夫
「檸檬」梶井基次郎
「友情」武者小路実篤
「海と毒薬」遠藤周作
「塩狩峠」三浦綾子
「ビルマの竪琴」竹山道雄
「二十四の瞳」壺井栄
「黒い雨」井伏鱒二
「指揮官たちの特攻」城山三郎
「砂の女」安部公房
「八甲田山死の彷徨」新田次郎
「錦繍」宮本輝
「思い出トランプ」向田邦子
「江戸川乱歩傑作選」江戸川乱歩
「砂の器」松本清張
「敦煌」井上靖
「燃えよ剣」司馬遼太郎
「放浪記」林芙美子
「にごりえ・たけくらべ」樋口一葉
「新編銀河鉄道の夜」宮沢賢治
「小川未明童話集」小川未明

 現代文学との仕分けに窮したと見えるものもあり、あれが抜けてるこんなものいらない、読者諸兄姉それぞれにお感じではありましょうけれど、これが当節における商業出版のありようだということでしょう。

 それにしてもこうしてあらためて眺めてみますと、『江戸川乱歩傑作選』はいまや新潮文庫における不動の定番なのだということがよくわかります。欣快欣快大金塊。


 ■ 7月16日(日)
全集綺譚別巻

 全集にもいろいろあります。現代日本文学大系を購入したものかどうかと悩んでいたころの私は、そういえば自分には大衆文学の体系的な知識も全然ないのだから講談社の大衆文学大系を古書で購入して勉強したほうがいいのかも、いやそれよりも東都書房の日本推理小説大系が先かしら、などという悩みをも抱えこんでいたものでしたが、収納スペースのことをまったく考えておらず、またその道の先達の方にお訊きしてみましたところ、日本推理小説大系は書誌や年譜といった資料性の面ではまったくといっていいほどだめである、いちばん頼りになるのはかつて「宝石」に連載された「ある作家の周囲」の島崎博さん作成の書誌ではないか、とのお教えをいただきましたので、日本推理小説大系はむろんのことあの極度に分厚い大衆文学大系もとりあえずスルーしておくことにいたしました。

 大系といえば岩波書店の日本古典文学大系。乱歩がらみでいうと第九十一巻『浮世草子集』に収録された「新色五巻書」は乱歩の蔵書を底本としており、そのことはたしかほりごたつさんにお調べいただいたと記憶するのですが、そのときはいまさら購入するのは不可能だし、とか思って長くそのままにしておりましたところ、最近になって古書なら入手できるではないかと遅ればせながら気がつきました。あるいは「押絵と旅する男」関連の「八百屋お七」は第五十一巻『浄瑠璃集 上』に収められており、これもへー、そーなんやーてなものであったのですけれど、やはり古書なら購入可能ではないかとはたと思いいたったある日の午後、いやもう眼からきれいに鱗が落ちたような気がいたしました。そんなこんなで日本古典文学大系、ほかにも適当に見つくろい、いずれも一巻千円くらいのものなのですが(それを考えると現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也というのは異常なほどの安値だったわけですが)、押さえておくことにいたしました。

 しかしどうもいかんのではないか、と思わぬでもありません。私は新刊で購入できる本は新刊で購入するべきではないかという考えをもっているのですが、眼をしょぼしょぼさせながらウェブサイト「日本の古本屋」で「浄瑠璃集 岩波書店」を検索しておりましたときのこと、新日本文学大系第九十一巻『近松浄瑠璃集 下』がひっかかってきました。そういえば自分は上しかもっていなかったのではないかと書棚を見てみると、案の定『近松浄瑠璃集 上』はあっても下はありません。新しいほうの古典文学大系ですから新刊で購入できる本ではあるのですが、ついでだからいっちまえとばかりに古書の下を注文してしまい、なんだか人として道を踏みはずしてしまったような暗い気分になってしまいました。こんなことではいかんのではないか。

 それにまた暇さえあれば古本屋さんのサイトをのぞいたり、あるいは現代日本文学大系を購入したらおまけで送られてきた分厚い古書目録を隅から隅までじっくりながめたり、こんなことではほんとにいかんのではないか。私はこんなことをする人間ではなかったはずなのであるが。どうもいかん。人生が好ましくない方向へどんどんどんどん押し流されていってるような気がします。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 黄金豹 江戸川乱歩

 ポプラ社の「文庫版 少年探偵・江戸川乱歩」シリーズ、全二十六巻の第十三巻、ようやく半分を消化しました。巻末解説から引いておきます。

解説 読者といっしょになって事件を追う 西本鶏介
 昭和十年代から二十年代に少年時代を送った子どもたちにとって、名探偵明智小五郎とその助手である小林少年は架空のアイドルでなく、現実に存在するかもしれないと思えるアイドルでした。どんな難事件が起きても彼等に頼めばたちまちにして解決できるものと信じきっていたからです。そればかりかBDバッジとあの七つ道具を持つ少年探偵団の一員になれたらと願わない男の子はいませんでした。

 ぼくが初めてこの探偵に出会ったのは小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)の三年生頃でした。一年生の時に始まった戦争はいよいよ激しくなり、スパイという言葉が現実味をもってささやかれていました。どこかに敵国のスパイがかくれているかもしれないから怪しい者には気をつけろというのです。見なれない人が村へやってくると、もしかしてスパイではと、どきどきしながらあとをつけました。懐中電灯はなくても、ナイフと手帳と磁石はいつも身につけていました。いうまでもなく明智小五郎や少年探偵団の影響です。子どもの読む本が少なかった田舎の村にもすっかり手あかのついた『怪人二十面相』や『少年探偵団』『妖怪博士』などの本があって、だれが持ち主かわからないまま本好きの子どもたちの間で廻し読みされていたのです。


 ■ 7月17日(月)
先生方のウェブサイト

 何よこの暑さ。マジ暑い。女子高生がうちわばたばたやりながら唇をとんがらかして天候気象にぶうぶういってる姿がまざまざと眼に浮かんでまいりますが、それでなくても脱線ばかりの毎日、かてて加えてこう暑くっては自分が何をやっているのかいよいよわからなくなってしまいます。そこで整理をしてみますと、問題はもちろん名張まちなか再生プランなのですが、私はこのプランにはいまやいっさい関係がありません。しかしこのような愚劣なプランが二度と策定されることのないように、つまりは名張市の将来のためにいささかを書きつけておきたい。

 たしかそんなことをやっておりましたのですが、そこへもってきて掲示板「人外境だより」にプラン関連のご投稿を頂戴したわけでした。そうでしたそうでした。それでそれに対する回答はこの伝言板に記してもよかったのですけれど、あいにくと乱歩文学館関係各位のために乱歩作品における差別表現についてのレクチャーを展開している最中でしたゆえ、とりいそぎ掲示板に投稿して責をばふさぎました次第。ですからここはひとまず関連投稿の保存をば。

 7月10日のことでした。

愛読者   2006年 7月10日(月) 12時50分  [220.215.61.166]

中さん もともとまちなか再生とか市民公益活動うんぬんは誰が言い始めたのですか。市民ですか 行政ですか 市長ですか 中さんの言う事が本当なら金がないと市民に言っておいて本当に無駄な気がします。それと二十面相をしていた人が選挙にでるそうですが、中さん関係あるのですか


愛読者   2006年 7月10日(月) 15時56分  [220.215.61.216]

遅れまして申し訳有りません。私いつも人外境を拝見させていただいている者です。この町は本当に閉鎖的で、新市民と言われる身には排他的な町の様です。これからも楽しみにしています

 少し前にも名無しさんとおっしゃる名張市民の方からご投稿をいただき、そこにも名張市政への疑問不満不審批判が吐露されておった次第なのですが、これはいったいどういうことか。日本全国どこの自治体にだって行政に対する住民の疑問不満不審批判はかならずや存在していることでしょうから、名張市民のあいだにそれが存在していることじたいは驚くにあたりません。行政当局は聞くべき批判に耳を傾け、不当なそれには反論すればいいだけの話です。問題はどうして私のサイトの掲示板に名張市民のそれが投稿されるのかということです。

 いくらご投稿いただいたところで私は行政の所信所見を代弁できる立場にはなく、それどころかもう色男、金と力はなかりけり、恋にくちなん名こそ惜しけれ、わが身ひとつの秋にはあらねど、とにかく何の力もありませんから私が開設している掲示板にご投稿いただいてもそれによって名張市政にかんして何かが明らかになったり問題が解決されたり、そんなことはいっさいないわけなのですが、これは要するにインターネット上には名張市民が市政にかんする疑問不満不審批判を表明できる場がない、しいて探すならば「人外境だより」くらいしか見あたらない、だからしかたなく私の掲示板をご利用いただいているのであると、そういったことなのかもしれません。

 たとえばこういう電子掲示板があるにはあります。

 しかしこの幼稚さはどうよ。

146 名前: 東海子 投稿日: 2006/06/27(火) 00:36:36 ID:vnNHkXRQ [ i58-93-197-21.s10.a026.ap.plala.or.jp ]
バリ高の女子かわいい娘多いね

 「バリ高」というのは私が週に一度先生を務めている三重県立名張高等学校の略称なのですが、そうか、わが校の女子生徒のかわいさはインターネットでも大評判か。じつに祝着至極である。とはいえこんなところに名張市政がどうのこうのと書きこもうものなら空気嫁、とかいわれてたちどころに話が終わってしまうにちがいありません。

 むろん名張市のオフィシャルサイトにメールを送信して疑問不満不審批判を伝えることも可能なわけなのですが、はたしていったいどの程度のレスポンスがあるものやら。それもどこどこの道路の整備はいつはじまるのでしょうか、みたいなことならばともかくとして、たとえば愛読者さんの「もともとまちなか再生とか市民公益活動うんぬんは誰が言い始めたのですか」みたいな質問に対しては絶対にといっていいほど明確な回答は返ってこないことでしょう。

 となると頼りになるのは名張市議会議員の先生方か。名張市オフィシャルサイトに掲載された議員名簿を掲げておきましょう。

 このうちウェブサイトを開設して市民の声を受け付けておいでなのは、まずこちらの名張市議会公明党議員団の先生方。

 つづきましては日本共産党名張市会議員団の先生方。

 それから個人でウェブサイトを開設していらっしゃる先生方。





 以上のようなところですので、名張市政にかんするご質問やご相談はこれらのサイトにお寄せになられてもよろしいでしょう。しかしこれらのウェブサイトもレスポンスの早さ的確さがどのようなものか、私にはまったくわかりません。

 これは三重県議会の話ですが、三重県が天下に恥をさらした官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」のおり、ご所見をお聞かせいただきたいことがありましたので私は県議会議長をお務めだった先生のオフィシャルサイトにメールを送信いたしました。このサイトです。

 しかしずいぶんとひどい先生であったぞ。一連の事業批判を寄稿した地域雑誌「伊賀百筆」第十三号をひもといて確認するならば、私がメールを送ったのは2003年9月24日で、議長先生の返信が届いたのは10月23日。しかもそのメールは県議会事務局から発信されたものであって、文面も明らかに事務局の手になるものでした。さらに始末の悪いことにはこちらの質問にまともに答えてくれてはありませんでしたから、私はばかかこいつらとか思いながら10月24日に再質問のメールを送信したのでしたが、回答はいまだに頂戴できておりません。ばかかあいつら。

 名張市議会議員の先生方は三重県議会議員の先生方のようなことはないとは思いますけれど、市政にかんする疑問不満不審批判を名張市議会の先生方のオフィシャルサイトに投じても、もしかしたら無視されてしまうのではあるまいか、たとえば「もともとまちなか再生とか市民公益活動うんぬんは誰が言い始めたのですか」なんて質問にはお答えがいただけないのではないかしら、との懸念を抱いていらっしゃる市民の方も少なくないかもしれません。

 その点ブログならレスポンスは確実でしょう。コメントを寄せれば即座に表示されますから、一方的に無視黙殺されることだけはないでしょう。しかしブログを開設していらっしゃる先生はただのひとりも、と考えてみたらいらっしゃいました。6月29日付伝言でもご紹介した元先生ですが、名張市議会議員を辞職して今春の市長選挙にチャレンジされ、残念ながら武運つたなく一敗地にまみれられた元先生のブログがありました。

 あのブログならば名張市政をめぐる応酬がびしばし展開されているのではないか。そんな期待を抱きながらコメントを閲覧してみたのですが、そんなことは全然ないようです。やりとりされているのはたとえばこんなコメントであった次第なのですが、まあざっとごらんいただきましょうか。

 元先生、大丈夫なのでいらっしゃいましょうか。つまりこのブログに匿名の名張市民がコメントをお寄せになったわけです。いわく、元先生は市長選挙に出馬するため市議会議員をおやめになられたとき、議員の席にはもう一生すわることがないとブログで明言されたではないか、にもかかわらずこの8月に実施される市議会議員選挙に出馬されるのはどういうことか。元先生はそれに対して、今後のことは自分ひとりで決めたのではない、後援会や支持者の意見を集約して出馬を決めたのである、私に意見があるのなら会議に出席して述べてほしかった、会議の日程はブログで公表しているのだし、とお答えになった。匿名の市民は、あなたの一生は後援会や支持者によって決定されているのか、と質問。元先生は、最終的に決めたのは私自身であるが、選挙はひとりでは戦えない、たくさんの人に協力してもらっている、ブログは日記であり、そこには私のそのときどきの気持ちが書いてあるのであるが、あなたには過去の日記を読み返して、あのとき自分はこんなことを考えていたのかと思ったことはないのか、と逆質問。市民は「武士の一言金鉄の如し」との言葉を捧げ、しばらくあなたの言動を注視すると宣言。これにてやりとりはうちどめになったようです。

 元先生はちょっとばかり下手を売りすぎていらっしゃるのではないか。これではほんとにまずいのではないか。ひとごとながらお案じ申す。いやまずくてもまずくなくても私にはまったく関係がありませんし、元先生がどんな選挙に出馬されても当方には容喙する気などさらさらなく、また方針を転換するのも全然OK、何の問題もないのであると申しあげたうえでひとこと所見を述べますならば、方針を転換変更したのであればそのよってきたるゆえんを説明するのが筋というものでしょう。かつては市議会議員の席に二度とすわることはないと考え、その旨をこのブログで明言もいたしましたが、これこれこういう考えにいたりましたので前言をひるがえしてふたたび市議会議員をめざすことになりましたと、何よりも先にブログを通じて表明するのが本来ではないか。それをすることなく会議に出て意見を述べよだのたくさんの人に支えられていまの自分があるだのとはぐらかすようなことしかいえないとおっしゃるのであれば、ブログなどさっさとおやめになられてはいかがなものかしら。そんなブログ意味ねーじゃん。

 いやいや、どうぞご心配なく。私は何もその元先生のブログに頭突きをかまそうと考えているわけではありません。どうぞほんとにご心配なく。

 しかしあれですね名張まちなか再生委員会のみなさん。ここにもみなさんのための生きた教材があります。これこそはご町内感覚となあなあ体質の生きた見本であると私は思います。人のふり見てわがふり直せ。もって他山の石とせよ。

 ああ、まーた脱線してしまいました。反省しなければ。

  本日のアップデート

 ▼2006年7月

 家族を愛した〈幻影城〉の主/うつし世の乱歩 平井隆太郎著 郷原宏

 中日新聞に掲載された『うつし世の乱歩』の書評です。

 作家の子供が偉大な父親のことを書くと、読者が鼻白むような自慢話に終始することが多いものだが、本書の著者に限って、その心配はまったくない。心理学者で立教大の社会学部長、総長事務取扱を歴任した人だけに、父親との距離の取り方が絶妙で、在りし日の乱歩の姿を活き活きと描き出している。

 まだお買い求めでない不届きな方は早いとこ本屋さんへどうぞ。

 ちなみに読売の書評はこちらでどうぞ。


 ■ 7月18日(火)
ただ一点の落としどころ

 脱線しているというのか暴走しているというのかどうでも好きにしろというのかどこからでもかかってこいというのか、何がなんだかよくはわかりませんがとりあえずきのうのつづきです。掲示板「人外境だより」に投稿された愛読者さんのご質問への回答を身柄確保。

サンデー先生   2006年 7月11日(火) 8時48分  [220.215.1.211]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  愛読者様
 ご投稿ありがとうございます。本日は時間がありませんのであしたあらためてお答えいたします。どうも申しわけありません

 掲示板のご投稿には有能な司政官のごとく可及的速やかにお答えするよう努めてはいるのですが、この日は時間がありませんでした。焦っていた証拠に文末の句点が抜けております。

サンデー先生   2006年 7月12日(水) 10時 2分  [220.215.1.211]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  愛読者様
 きのうは失礼いたしました。週に一度先生をしております三重県立名張高等学校で一学期最後の授業が一時間目からありましたので時間がなく、愛想も何もなくて申しわけありませんでした。
 私のように名張に生まれ育った人間から見ますと、名張市もこれでずいぶん閉鎖的なところがなくなったなという印象なのですが、愛読者さんがどんな基準でどういった事態や現象を閉鎖的だとお感じになっているのかはわかりませんものの、旧弊なムラ社会というか農村構造というか共同体というか、そういうものは確実に残存しておりますから、都市圏から名張市に越してこられた方が閉鎖性や排他性を肌身にお感じになるのは当然のことだろうと思われます。
 さてお尋ねの件、
 もともとまちなか再生とか市民公益活動うんぬんは誰が言い始めたのですか。市民ですか 行政ですか 市長ですか
 との点に関しては、そもそも私はこのご質問にお答えできる立場にはないのですが、あえてお答えすることにして結論から申しあげますと、「誰が言い始めた」のかは特定できないと思います。お役所というのはひとつの大いなる責任回避システムですから、行政訴訟でも起こさないかぎり、個人の責任を突き詰めるのは至難のことだといっていいでしょう。
 たとえば名張まちなか再生プランにかんしても、細川邸を歴史資料館にするなどというばかなことをいいだしたのはどこのどいつか、みたいなことを私は委員会の事務局で一再ならず質してみたのですが、明快な回答は得られませんでした。むろんひとことでいってしまえば、名張市の最高責任者である市長が決定したということにならざるをえないのですが、そうした紋切り型の認識では決定の背景や経緯が見えてきません。
 プランの背景や経緯にかんして、もとより私の主観にもとづいたものでしかないのですけれど、いささかを補足しておきますと、名張旧町地区、つまりジャスコ新名張店リバーナなんかがある一帯の活性化ないしは再生は、名張市にとって長きにわたる課題でした。私が知っているかぎりでも二十数年、いやもう三十年ほどになるでしょうか、中心商店街活性化の必要性は持続的に叫ばれていましたし、そのための試みも商業者団体などの手で進められはしたのですが、有効な手だては何ひとつ見つかりませんでした。現在では商店街そのものがほぼ壊滅してしまいましたから、商業の活性化など昔の話、いまは名張まちなかとしての再生策が講じられているということになります。
 とくに市役所が旧町地区から鴻之台に移転して以降、国による規制緩和の流れもあって、旧町地区は加速度的に衰退凋落をきわめたように見受けられます。しかし先述のとおり名張市にも名張商工会議所にも打つ手がなく、これまでに眼についた動きといえば、郊外に移転する意向だったジャスコ名張店に旧町地区の核として現在地で継続して営業することを聞き入れてもらったことくらいでしょうか。しかしジャスコもいつまでいまの場所で営業してくれるのか。あまり期待はできないように思います。
 ですから私の見るところでは、名張まちなか再生プランを策定することには何の問題もありません。むしろ着手が遅すぎたというべきなのですが、プランの内容および決定過程がどうにもいただけないということです。問題点や不透明なところはこれまでに伝言板で指摘してきたとおりなのですが、いままで言及しなかった予算面にかんしても実際はどうにも曖昧です。
 昨年2月に市議会の特別委員会を傍聴したときの記憶では、このプランではたしか八億円ほどの予算の枠があって(十億円だったかな、という気もします。かなりあやふやな話だと思ってお読みください)、それはむろん国の補助金を含めての話なのですが、国の意向に添ったかたちでプランがまとまれば補助金がおりるということなのか、要するにここへ来てプランが策定されるにいたった背景には、国の補助を得る見込みが立ったということもあったのではないかと推測される次第です。
 なんとも曖昧な話でほんとに恐縮なのですが、名張まちなか再生プランそのものにはそれなりの経緯や背景が存在しており、したがってちゃんとしたプランが策定されて実施に移されるのは望ましいことです。しかしさきほども記しましたとおり、肝腎のプランが内容も決定過程もどうにもいただけません。
 たとえばプランに盛られていた歴史資料館構想は初瀬ものがたり交流館とかいう構想に差し替えられてしまったのですが、名詮自性とはこのことか、中味の愚劣陳腐さが名前にそのまま表れているような施設だと私は思います。お隣の旧青山町に初瀬街道交流の館たわらやという施設があるのですから、名称のみにもとづいて考えるならば明らかにその二番煎じ、本来であれば名張の風土や歴史にもとづいて地域の独自性を誇れる施設とするべきであろうと私などには考えられる次第で、もう少し頭というものをつかってくれてもいいのではないか。
 つかう頭がないからこんな結果になったのだ、うわっつらのことしか考えられない連中に検討をゆだねたからこんなことになったのだ、といってしまえばそれまでなのですが、なんだかずいぶんひどい話です。しかもここにひとつの難問があって、それはどんなにうわっつらだけの施設であっても実際に完成してしまえば、名張市が名張旧町地区に予算を投じたというそのことだけで喜んでしまう地域住民が少なからず存在するのではないかということです。
 うわっつらのことだけで満足する地域住民が住んでいる地域にうわっつらだけを考えた施設を整備するということになりますと、それはもうなんというのかご町内感覚となあなあ体質にどっぷりつかった人たちのあいだで八方まるく収まってしまうことになり、よその人間からごちゃごちゃいわれる筋合いはないなどと、それこそ閉鎖性や排他性をフル回転させた啖呵が飛んでくることにもなりかねません。あまりのあほらしさにこちらとしてはいうべき言葉を失い、ばーか、というしかなくなってしまうような気もします。
 市民公益活動実践事業のほうは背景も経緯も私にはまったく不明なのですが、これも事業の方向性そのものはまちがっていないと思われます。時代の趨勢というべきか、いわゆる住民自治を手探りする過渡期的段階の試みとして評価されるべき事業であるとは判断されるのですが、実際にはどこが公益かと疑われるプランがまぎれこんでいるのも事実です。たとえば名張のまちにエジプトの絵を掲げることが公益に結びつくなどと、そんなことがよくも考えつけたものだと私は思います。
 つまり結局のところ、名張まちなか再生プランも市民公益活動実践事業も、方向性そのものにはこれといったまちがいが認められないのですけれど、それに携わる関係者がどうにもあれである、あれであると決めつけてしまってはいけませんが、あれな人が多いのであるという結論になってしまうのかもしれません。税金の具体的なつかいみちを決める人たちがあれでは困るわけですが。
 といったところで、時間の都合によりつづきはあしたということにしていただきたいと思います。連日のご無礼、どうも申しわけありません。平身低頭。

 このあたりがじつは落としどころか。落としどころといってしまうのもおかしな話ですけど、「うわっつらのことだけで満足する地域住民が住んでいる地域にうわっつらだけを考えた施設を整備する」というのが現在ただいま名張まちなか再生プランの名のもとに進められている歴史資料館構想、ではなかった初瀬ものがたり交流館とかいう構想の実態なのであり、そんなものは地域社会のアイデンティティの拠りどころにも何もなりゃせんだろうと私には思われるのですが、あえて意味を見いだすとすればまさしく「うわっつらのことだけで満足する地域住民が住んでいる地域にうわっつらだけを考えた施設を整備する」という一点しかないでしょう。

サンデー先生   2006年 7月13日(木) 10時 4分  [220.215.1.211]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  愛読者様
 ぶつぶつとマグロみたいなぶつ切り状態で恐縮ではありますが、きのうのつづきです。
 
金がないと市民に言っておいて本当に無駄な気がします
 との仰せにかんしましては、名張市にお金がないのは本当のことです。当節はどこの地方自治体だってお金がなくてひいひいいってるわけですが、名張市の場合もご多分にもれません。大規模な宅地開発を進めたおかげでデベロッパーから大金が転がりこんできたりなんやかんや、結構お金をもっていた時代もあったのですが、前市長の時代にきれいにつかいはたしてしまいました。たとえば市立病院を建設するとか私立大学を誘致するとか、そういった事業にぽんぽんお金をつぎこんでしまったせいで、前市長が退任した当座はえらいことになっていたらしく、現市長はそのフォローに四苦八苦したと聞き及んでおります。
 むろん市立病院の建設は市民の念願ではあったのですが、もう少し名張市の身の丈にあったものにするべきだったでしょうし、大学を誘致する必要などはまったくなかったと私は思います。などと記すと誤解が生じるかもしれませんが、私はべつに皇學館大学のことをうんぬんしているわけではなく、どこの大学であれ大学を誘致することで地方都市としてのグレードがアップするだの、大学は地方都市にとってのステータスシンボルであるだの、そういったおっそろしく旧弊な価値観しかもちあわせていない人間に市政を牛耳られては困ってしまう、困るというか市民がいい迷惑だということを申しあげているわけです。
 いい迷惑だと思った市民は少なからず存在していたのかして、大学誘致事業は前市長のリコール騒ぎにまで発展し、そのときはあやうく命脈を保ったものの、そのあとの選挙と今年春の選挙、前市長は二度の市長選でつづけて敗れてしまいました。当然の結果だろうと私は思います。
 ともあれ、お金がないのですから一円の無駄づかいもできないのはまちがいのないところなのですが、厳密に見てゆくと無駄づかいの一線をどこに引くかというのも難しい問題です。たとえば市民公益活動実践事業のなかに死ぬほどばかみたいでこんなのを税金で補助するのは無駄づかい以外のなにものでもない、といった事業がまぎれこんでいたのは事実なのですが、まがりなりにも行政サイドの要請に応えて公益のためのプランを提案した市民に対して、あなたがたのプランはあまりにもくだらないから採用いたしません、との断をくだすことは少なくともいまの名張市にはできないように見受けられます。
 角を矯めて牛を殺すことだけは避けるべきでもありましょうから、きのうも記しましたとおりいわゆる住民自治を手探りする過渡期的段階の試みとして、市民公益活動実践事業に税金を投じることは、なかにゃ無駄金もあるけれど総体としては無駄ではないといったふうに考えたうえで、それでも税金の無駄づかいには厳しく眼を光らせるということしか、一般市民にはできないのではないでしょうか。ていうか、そうするべきだと思われます。いずれにせよ名張市民がどれだけ成熟できるか、結局のところポイントはそこになるだろうと考える次第なのですが。
 えー勝手ながら本日はここまで、最後のご質問へのお答えはまたあしたということでお願いいたします。


サンデー先生   2006年 7月14日(金) 8時54分  [220.215.2.225]
http://www.e-net.or.jp/user/stako/

  愛読者様
 いよいよ最後となりました。
 
二十面相をしていた人が選挙にでるそうですが、中さん関係あるのですか
 このご質問にかんしましては、私には何の関係もありません。私はまったくあずかり知りません。もう好きにしていただければいいではないかと、そのように考えております。
 名張市民以外の方にはなんともかんとも意味不明でしょうから、少しだけ説明を加えておきましょう。そもそも淵源をたずねるならば、諸悪の根源はやはり三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」であったということになります。血税三億円をすっぱりどぶに捨て去ったあの事業では全国発信の名のもとにご町内の親睦行事がごちゃまぜ状態で展開されたわけなのですが、その手の行事イベント催しもので乱歩を活用するとなると、このあたりの人たちには怪人二十面相の扮装で、
 「わはははははは明智君。わはははははは明智君。わはははははは明智君。わはははははは明智君。わはははははは明智君」
 と気のふれたオウムのようにくり返すことしか思いつけないということなのか、とにかく怪人二十面相が名張のまちにやたらと出没いたしました。おかげで名張市は二十面相のコスチュームを二十着保有するにいたったそうですが。
 そんな流れでたとえば名張市が怪人二十面相に住民票を交付してみたり、その怪人二十面相が名張郵便局の一日郵便局長を務めてみたり、あるいは豊島区のコミュニティイベントで名張市長の親書を豊島区長に手渡してみたり、みたいなことがずーっと行われてきたのだとお思いください。そして今般、そうしたおりおりに怪人二十面相に扮してくださっていた名張市民が、来たる8月27日に投開票される名張市議会議員選挙に晴れて初出馬されることになったという寸法です。それが愛読者さんのご投稿にあった「二十面相をしていた人が選挙にでるそうですが」との文言の背景です。
 しかし私は、そんなことにはいっさい無関係です。ちなみに申し添えれば、私は怒ってなどおりませんし、キレてもおりません。こんな程度のことで怒ったりキレたりしておっては身がもたんぞ。それにこんなこといってると叱られてしまうことでしょうけど、われらが名張市議会はこの先どう転んでもこれ以上のレベルダウンを見ることはないであろうと思われますゆえ(ほんとに怒られてしまいますけど、お怒りの方はどうぞ怒りのご投稿をお寄せください)、選挙に出たいやつはどんどん出馬すればいいではないかとも思っております。
 ただし、もしかしたらこれをお読みの乱歩ファンのみなさんのなかには、その市民とやらが怪人二十面相に扮したのは市議選出馬をにらんだ売名行為であったのか、選挙に出るために二十面相をいやさ乱歩を利用したのか、そういった憤りをお感じの方がいらっしゃるかもしれません。それは私も名張市民のひとりとして耳の痛いところなのであって、しかし私は名張市内にお住まいの一部のみなさんのご町内感覚となあなあ体質をどうこうすることなんかとてもできないぞとの諦念にいたっており、この件にかんしましてはあらかじめ白旗を掲げておきたいと思います。ほんとに勝てん。逆立ちしたって太刀打ちできぬ。わしゃもう知らん。
 と、当方のお答えは以上のようなことです。回答が何日にもまたがって申しわけありませんでした。ご不審な点はあらためてお尋ねください。あらあらかしこ。

 私にはみずからを甘やかす気など全然ないのですけれど、それでもあほらしさをおぼえたり意気阻喪したり投げやりになったり殺伐としてきたりする自分に対して、なにかしら慰藉の言葉でもかけてやりたいような気がしないでもありません。

  本日のアップデート

 ▼2001年3月

 松田家・野村家旧蔵野村胡堂関係書簡目録 佐藤昭八

 岩手県紫波郡紫波町にある野村胡堂・あらえびす記念館が刊行しました。詳細は東京マイクロサービスセンターのオフィシャルサイトに掲載されている田村毅さんの「松田家旧蔵『野村胡堂関係書簡』─マイクロフィルムと電子画像による資料保存─」でお読みください。

 上掲のページでも「興味深い一例」として乱歩の書簡十通がとりあげられていますが、ここには目録掲載の乱歩書簡全点をリストアップしておきます。

 目録は松田野村両家所蔵分に分類して編纂されているのですが、それは無視して年代順に排列し、冒頭には便宜的に番号をつけておきます。内容の要約は編者の佐藤昭八さん。

野村胡堂宛乱歩書簡
01 大正14年3月11日 乱歩著書の報知紙上での紹介へのお礼と、第三回原稿の送付の知らせ “右写真報知傍々 九月三十日 小林長和様侍史” 封筒発信人は平井太郎(毛筆)
02 発信日不明 封筒なし 本郷大学赤門前伊勢栄旅館 江戸川乱歩病気のため先へ宿かえ静養二三日中決まり次第参上仕候 無罫紙(70×100mm) 胡堂宛?
03 昭和10年12月12日 “御高著、御ハガキ拝受致しました……正常平易の御名文敬服の他ございません……やはりドイルの道を行くもの……″ 封筒発信人は平井太郎
04 昭和14年1月1日 “謹賀新年” 発信人名は平井太郎
05 昭和14年11月18日 “滞京中はお世話になりました.本日当地へ流れて参りました.当分こちらに居ります.山田温泉”
06 昭和?年?月10日 “拝復 御本沢山御送り下され有難御礼申上げます とりあへず御礼のみ 草々”
07 昭和17年4月10日 約束した自著(平凡社全集九冊、新潮社選集十冊)と、その他に自分の気に入っている小説集二冊、随筆集一冊を送った通知.平井太郎
08 昭和17年4月16日 著書受贈の礼と、鏡花・涙香・潤一郎の蒐集の好みの一致していることを愉快に思い、涙香本で二重にあるものを記して入用のものは寄贈するとし……” 平井太郎
09 昭和17年4月22日 涙香著書を列記し“朱丸印の外はどれでもご入用ならば御贈致します……散逸勝ちの涙香本は今にして同好の者がなるべく多く集めて置くべきと存じ、貴書庫にて出来るだけ……” 平井太郎
10 昭和17年4月27日 “……「活地獄」「捨小舟」有難う存じました……「此曲者」は「塔上犯罪」の新聞連載当時の題名です……恐らく珍本、御保存を希望します……” 平井太郎
11 発信日不明 “拝啓御無沙汰いたして居ります.突然ですが探偵小説誌「ロック」お願いの件にて御伺ひ致します、初めてにつき一筆御紹介何分の御高配の程お願ひいたします” 封筒なし
12 昭和23年10月2日 探偵作家クラブ在京幹事懇親会案内。出欠連絡ハガキ同封。
13 昭和24年3月22日 “……捕物作家クラブ成立の機運大慶に存じます……平七塚はいいですね、是非実現して下さい……”
14 昭和26年12月14日 「面会謝絶」受贈の礼
15 昭和29年1月1日 賀春
16 昭和29年2月13日 「平次の横顔」受贈のお礼
17 昭和29年10月13日 還暦の会発起の礼。還暦の会への再録原稿による寄付の礼。
18 昭和29年10月26日 銭形平次全集別巻同光社より送付の礼.小生との対談などものっていて興味あり
19 昭和31年8月10日 小山書店より涙香名作集を出すにつき監修者(4人)に加わってほしい

 『江戸川乱歩年譜集成』を編纂している者として僭越ながらもあえて附記しておきますと、02の「先」は「左記」の誤変換、05は昭和ではなくて大正14年の書簡であると思われます。


 ■ 7月19日(水)
谷崎潤一郎記念館の驚愕

 本日はこちらからとなっております。天城一さんから昨日頂戴したおたよりでご教示いただきました。

  本日のアップデート

 ▼2006年7月

 涙香の人嫌いの理由 伊藤秀雄

 「日本推理作家協会会報」7月号に掲載された「探偵小説史話」の第三十八回。涙香の評伝を執筆するために涙香の姪、鈴木たまから取材して明らかになったエピソードがつづられています。

 「「三筋の髪」(「無惨」改題)という本がありますが、何か髪の毛のことを気にしたのではないでしょうか」との私の質問に、たま女史は「それは三筋の毛の禿になってしようがないため、朝早く起きて、その日の目の醒めないかどうか判らないという時に、風呂場へ行って髪を洗ってくることがあった。それで鼠の腹子を大きな焙烙で蒸し焼きにし、まず大きな焙烙、ちゅうくらいな焙烙(鼠だけにちゅうくらいな焙烙──引用者註。こんな註は不要なれど、鼠だけに思わず註)とだんだん細かに潰しちゃって、胡麻油で溶いて、涙香の脳天からだんだんに周りへと、油が垂れてくるのを真中から下へとすっかり塗り込んでから、タオルを頭に巻いていた。それがいくらか効果が出ると、たいへん喜んでいたですね」

 涙香は有名な人嫌いで、社員以外とはほとんど交際しなかったそうなのですが、再婚して若い奥さんと生活するようになって社交的な人間に変貌したといいます。

 だから仁賀克雄氏が『江戸川乱歩99の謎』に乱歩が戦時下あたりから社交的になり副会長として活動的になったと述べておられるように、頭髪の禿げる五十年配ともなると、珍しいものではなくなるから、それに対するコンプレックスも解消して行ったという事も考えられた。

 こうした説は珍しいものではなく、たとえば山田風太郎も似たような推測を記していましたが、『江戸川乱歩年譜集成』編纂中の身といたしましては、むろんそうした事情も一因としてあずかっていたではあろうけれども、そんな単純なものではなかったのではないかという気がします。

 乱歩自身は戦争中にお酒が飲めるようになったから社交的になったと述べておりますが、これも鵜呑みにはできかねます。ほかにもたとえば6月21日付伝言でご紹介した野崎六助さんの見解、すなわち国民として戦時体制に協力することでそれまでの葛藤が清算され、社交的になったばかりか創作欲もなくなってしまったのだと見る推測などもあって、容易には断じがたい問題であるというしかありません。

 天城さんのおたよりには今月末に第三集、つまり『天城一の密室犯罪学教程』『島崎警部のアリバイ事件簿』につづく第三集ということですが、それが刊行されるとも記されておりましたので、ファンのみなさんはどうぞお楽しみに。

 さるにても、脱線だらけの毎日なれど天城一さんのお名前が出てまいりましたところで一念発起、やはり乱歩文学館のおはなしに突入してみたいと思います。天城さんのことはじつはたいして関係がないのですが、十日ほど前に頂戴したおたよりで天城さんがお住まいの芦屋市もご多分にもれぬ財政難、市立美術館や谷崎記念館も民営化となりにけり、みたいなことをお知らせいただきましたので、これは名張市にも関係のない話ではないであろうと考えました次第。

 ちょっと調べてみましたところ、1991年開館の芦屋市立美術博物館は芦屋ミュージアム・マネジメントというNPOに運営の一部が業務委託されており、1988年にオープンした芦屋市谷崎潤一郎記念館は三有という有限会社が運営を手がけているとのことです。

 谷崎潤一郎記念館のオフィシャルサイトがこれ。

 運営している会社の企業紹介ページがこれなわけですが──

 どうよこれ。

 ──当館お運営している有限会社 三有 についてご紹介致します。

 ってのはいったいどうよ。「お運営」とはなにごとよ。まさか「御運営」のことではあるまい。些細なミスにつけこんでいいだけネタをかましておくならば、この「お運営」こそは文字どおりてにをはもまともにあやつれぬような会社が谷崎記念館を運営しておりますと天下に告げるオウンゴールだと知るがよい。たいしたネタでもなかったことを遺憾といたしますが、それにしても大丈夫か。谷崎が天国で泣いとるぞ。ひとごとながらお案じ申す。

 つまりバブル景気に浮かれまくって美術館だの文学館だののハコモノをつくってはみたけれど、自治体の財政難がいいだけ深刻化したせいでそれをどんどん民間に丸投げすることしか打つ手がなくなっているこのご時世に、地域社会のお荷物になるしかないであろう乱歩文学館をわざわざ建設しようなんてのはいったいどうよというわけよ。

 あすにつづきます。


 ■ 7月20日(木)
松本清張記念館の豪勢

 まずお知らせを一件。

 昨年11月、名張市で江戸川乱歩生誕地碑の建立五十周年を記念してオリジナル劇「真理試験──江戸川乱歩に捧げる」を上演してくださった東京のミステリ専門劇団フーダニットがこの夏、英作家J・B・プリーストリーの「危険な曲がり角」に挑みます。プリーストリーって誰よ? というしかない私がご紹介申しあげるのも僭越至極な話ではあるのですが、公演の案内状にある作品紹介をお読みいただきましょう。

ロンドン郊外の静かな町。時は深夜。鳴り響く銃声。ほんのちょっとした一言が、隠されていた事件を暴き出す。曲がってはいけない曲がり角を曲がってしまったのだ。もうブレーキは効かない! 行き着くところはどこなのか…… 自殺した男が握っていた秘密とは……

 いかにもイギリスの戯曲らしくシニカルで技巧的、繊細でサスペンスフルなお芝居だそうです。訳と演出は劇団代表の松坂晴恵さん。上演は8月11日から13日まで東京は江戸川区のタワーホール船堀で。料金は三千円。詳細はフーダニットのオフィシャルサイトでどうぞ。

 おはなしかわってこちら名張市。乱歩記念館だか乱歩文学館だかの話題に進みます。

 名張まちなか再生委員会の手で進められている初瀬ものがたり交流館とかいう施設の構想は、まあいいとしておきましょう。むろん決定過程がいいだけインチキであり、そもそも内容がいっさい秘匿隠蔽されたままなんですからたしかなことは何もいえないのですけれど、構想そのものがいい加減な思いつきにもとづいたものでしかないことは容易に想像がつきます。ひとことでいえばこんなものは税金の無駄づかいであると私には見えるのですが、先日来指摘しておりますとおりうわっつらのことだけで満足する地域住民が住んでいる地域にうわっつらだけを考えた施設を整備することは、うわっつらのことしかわからない人間にとって税金の無駄づかいには映らないかもしれません。

 難儀な話ではありますが、それが名張市の現実というものでしょう。しかし初瀬ものがたり交流館とやらはまだいい。むろんよくはないのですけれど、乱歩記念館だか乱歩文学館だかにくらべればまだ罪が軽い。なぜかというと、初瀬ものがたり交流館は名張市民以外からは見向きもされない施設ですから(名張市民のなかにだって見向きもしない人が少なからずいることでしょうが)、ご町内感覚となあなあ体質で凝りかたまっていてもなんとか大丈夫ではあるでしょう。しかし乱歩文学館だか乱歩記念館だかとなればそうはまいらぬ。ご町内感覚となあなあ体質だけで運営してゆくのはまず不可能で、

 ──現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない。

 なんて言葉は通用しなくなります。

 たとえば十年近く前、北九州市が松本清張記念館を建設しました。それからしばらくして名張市を訪れてくださった乱歩ファンの方が、

 「清張記念館があるのに乱歩記念館がないのは不思議な話ですね。それじゃ本末転倒でしょう。清張よりも乱歩のほうがはるかに偉大な作家なのに」

 とおっしゃっていたのを私はよく記憶しているのですが、もしも名張市に乱歩記念館だか乱歩文学館だかが完成したとして、それをごらんになったこの方はいったい何とおっしゃることでしょう。

 「清張記念館があんなに立派なのに乱歩記念館はどうしてこんなにしょぼいんですか。名張市は乱歩をばかにしてるんですか」

 こんなふうに名張市が叱られてしまうことだって考えられないでもありません。これが外部というものなわけです。名張まちなか再生委員会のみなさんがいくらご町内感覚となあなあ体質に凝りかたまり、価値観の同質性に依拠してありもしない知恵をしぼってみたところで、名張市の外部に確実に乱歩ファンは存在しているわけですから、ろくに乱歩作品を読んだこともない人間がうわっつらだけの乱歩関連施設をつくってみたところで、へたすりゃ名張市という自治体そのものが軽蔑されてしまうことになるのがオチなのではないかしら。

 名前が出てきましたので松本清張記念館の話題をいささか。ここ十年ほどのあいだにオープンした文学者の関連施設でもっとも話題を集めたのは、私の知るかぎりではこの松本清張記念館でした。1998年の8月に開館し、これはうろおぼえの数字ですからあまり信を置かないようにしていただきたいのですが、総工費はたしか四十億円といわれていたのではなかったか。とりあえずオフィシャルサイトをごらんください。

 私はオープンした年の10月、この松本清張記念館に足を運びました。一度は行っとかないととは思っておりましたし、ちょっとのぞいてきたけどあれは見といたほうがいいよと勧めてくれる人もありましたので、名張市立図書館に北九州市まで出張費が出るかどうかを尋ねてみましたところ、さすが名張市は財政難、そんな予算はありませんとのことでしたからなんだかなあ、何の役にも立ってなさそうな名張市議会の先生だって一人前に視察に行ったり政務調査費をつかったりしてるというのに、天下に冠たるカリスマ嘱託が自腹で出張かよ、とか思いながら身銭を切って行ってまいりました。じつに豪勢壮大な施設でした。

 つづきはあしたとなります。

  本日のアップデート

 ▼2006年8月

 「ミステリー小説」の舞台を歩く 矢島裕紀彦(取材・文)、高橋昌嗣(撮影)

 「サライ」8月3日号に掲載されました。全ページまるごと銀座特集の第五部「映画、小説、路地裏 テーマ別もうひとつの銀ブラ」に三ページにわたって掲載されております。

 主役はどうやら金田一耕助なのですが、むろん乱歩も登場します。

 歌舞伎座の偉容を眺めた後は、銀座松坂屋の前へと歩を進める。江戸川乱歩の『緑衣の鬼』(昭和11年)で、屋上からのサーチライトに映し出された巨大な影が女性に襲いかかるM百貨店前。また、大下宇陀児『銀座綺譚』(昭和4年)の冒頭、新橋方面から歩いてきた主人公が、人間の耳のように見えるものを犬がくわえて走り去る場面に遭遇する、M百貨店前。ともに、この松坂屋を脳裏に思い浮かべて書いたものだろう。

 ピストルをかまえた乱歩の写真にはこんなようなキャプションが。

 ──日本推理小説界の大御所、江戸川乱歩(1894〜1965)。『妖虫』では、銀座の洋服店のショーウィンドーに美女の死体を配してみせた。