2006年10月中旬
11日 お知らせのない水曜日 直木三十五伝
12日 ぼーっとしている木曜日 山田風太郎育児日記
13日 まだ立ち直れない金曜日 横溝正史:草稿5000枚見つかる
14日 もうあとがないきょうは土曜日 路上派遊書日記
15日 妙に肌寒い日曜日 私の一冊 『続・幻影城』江戸川乱歩
16日 田中善助リターンズ 酒井七馬の謎
17日 江戸川乱歩を遠く離れて 下中彌三郎と平凡社の歩み
18日 突然ですが映画祭のお知らせ一件 乱歩の「氷」シベリアで発展
19日 地域社会から乱歩シーンへ 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター
20日 ゴーチエならびに宝塚 怪人二十面相の棲む館 江戸川乱歩
 ■10月11日(水)
お知らせのない水曜日

 本日は何のお知らせもありません。頭がぼーっとしているだけです。中日ドラゴンズファンのみなさんにはお祝いを申しあげます。阪神ファンのみなさんは残念でした。

  本日のアップデート

 ▼2005年6月

 直木三十五伝 植村鞆音

 野村胡堂のあとは直木三十五も拾っておこうか、という気になりました。著者は直木の甥にあたる方ですが、お生まれになったのは直木の歿後。会ったことのない叔父への親愛の情があふれる評伝となっております。

 乱歩はほとんど登場してこないのですが、「一寸法師」の映画化に際して監督の志波西果が逃げ出したというエピソードが記されていて、これは初耳。

 ──撮影中、志波が日本プロダクションに逃亡し、後半を直木が監督した。

 とのことです。直木三十五の監督ぶりはかなり破天荒なものだったようで、小酒井不木原作「疑問の黒枠」のメガホンをとったときには「シナリオもなく直木が掲載誌の『新青年』を片手に、行き当たりばったりの撮影で完成させた」というのですから、乱歩はこういう人種が苦手だったのではないかと推測されます。

 昭和3年の7月から11月まで、直木三十五は「週刊朝日」に「文壇棋術行脚」を連載しました。「囲碁・将棋を嗜む文人たちに直接直木が挑戦して歩き、その棋力を値踏みするという企画」で、泉鏡花や志賀直哉あたりまでがひっぱりだされております。

 乱歩も指名を受けました。

 江戸川乱歩が高田馬場に家を持ったと知らせてきたので、早速挑戦の意を伝えると、「いや、とても、いや、その君、困るよ、人前では指せない将棋で」と声を上ずらせて断る。「よほど拙いにちがいない。将棋は探偵術の推理方法では駄目なのだろう」

 乱歩はこの手のタイプがほんとに苦手であっただろうなと思われる次第なのですが、興味を惹かれた方はお買い求めください。版元は文藝春秋、本体千七百十四円。

 それはそれとして「週刊朝日」に連載されたという直木三十五の「文壇棋術行脚」、いずれ乱歩の出てくる回に眼を通して『江戸川乱歩年譜集成』に書きくわえねばならぬのですが、それはもう気が遠くなるほど先の話なのであろうな。


 ■10月12日(木)
ぼーっとしている木曜日

 本日はきのうに輪をかけてぼーっとしております。

  本日のアップデート

 ▼2006年7月

 山田風太郎育児日記 山田風太郎

 はっきりいって、こんな本まで買わねばならんのか、とは思います。思うけれどもやっぱ買わねばと買いました。

 山田風太郎の日記です。いわく、昭和29年10月11日、長女が生まれた。17日、乱歩から祝電が届いた。そして──

[十月二十一日](木)晴

 江戸川乱歩氏より毛布やら毛糸の洋服やら三箱のお祝い。

 購入してすぐ最後まで走り読みしたのですが、乱歩の名前が出てくるのは結局この年10月の17日と21日だけであったと記憶します。私は山田風太郎の私生活にはまったく興味がないのですが、それでも日記が出たとなれば乱歩の名を求めて眼を通しておかなければなりません。因果な話じゃ。

 あしたは多少すっきりしたいと思います。


 ■10月13日(金)
まだ立ち直れない金曜日

 けさもすっきりしてはおらんのですが、日本ハムファイターズファンのみなさんにお祝いを申しあげます。このところテレビのプロ野球中継につきあってしまうことが多く、しかも最近は(最近、という問題ではないのかもしれませんが)最後まで試合が生中継されますし、ゲームが終われば終わったでニュース番組が待っておりますから、おかげでもうへろへろ。

 しかしさいわいなことにセパ両リーグの優勝が決まりましたので、これでしばらくはプロ野球をテレビ観戦することもなくなり、そうこうしているうちにあすはもう14日。立教大学池袋キャンパスで「読売江戸川乱歩フォーラム2006」が開かれる日なのですが、私は京都に赴いてあす初日を迎える「戸田勝久展 旅の手紙」をのぞいてこようかと考えていたのですが、それもできずに伊賀市の青山ホールというところでさるコンサートのリハーサルに立ち会わねばならなくなりました。本番で司会をやらされることになったからなのですが、本番というのが10月21日。ということは日本シリーズ初戦の日であって、ナゴヤドームで午後6時10分に試合がはじまるころには伊賀市桐ヶ丘にある中華料理屋でコンサートのうちあげか。べろべろのへろへろか。なんかへろへろだらけではないか。しかしそんなことよりあさって15日は伊賀市の大超寺で「寺子屋歴史講座」か。にもかかわらず何をどうおはなしすればいいのかいまだに決まっておらんではないか。それにああいかんいかん。ご来場のみなさんにお配りする資料がまだできておらんではないか。

 毎日なーにやってんだか。ああもうほんとにへろへろである。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 横溝正史:草稿5000枚見つかる 書き直しや加筆、乱歩の添削も 内藤麻里子

 きょうは新聞記事です。毎日新聞の昨日付夕刊に掲載されたもののようで、毎日のサイトにはまったく同内容で「横溝正史:東京都内の旧宅で草稿など5千枚 未発表短編も」との見出しをつけられた記事もあるのですが、当サイト的には「乱歩の添削も」という文言の入った見出しのほうを採用いたしました。

横溝正史:草稿5000枚見つかる 書き直しや加筆、乱歩の添削も
 「犬神家の一族」「獄門島」などで知られるミステリー作家、横溝正史(1902〜81年)の草稿など約5000枚が、東京都世田谷区の横溝の旧宅から見つかった。未発表とみられる短編「霧の夜の出来事(微笑小説)」などがあった。

 当サイト的には、

 ──現在、再映画化で話題の「犬神家の一族」に関しては、書き始めの1行に悩み、4回も書き直してほごにした原稿が残っていたという。他にも映画やテレビドラマ化された作品のシナリオが150種300冊あり、中には師とも呼べる江戸川乱歩が添削した書き込みもある。

 というあたりが気になります。乱歩が正史の「師」にあたるのか、という点ではなくて、正史原作のシナリオをどうして乱歩が添削したのか、その点が非常に気になります。

 あしたの自分がまるで生まれ変わったみたいに立ち直ってすっきりしていますようにと私は天に祈りたい。やれやれ。やーれやれ。


 ■10月14日(土)
もうあとがないきょうは土曜日

 へろへろになりながらもあすに控えた寺子屋歴史講座「田中善助翁と『新しい時代の公』」の資料をつくったのですが、不運というか天罰というか、プリンタのトナーが切れてしまってきれいに印刷できません。まいった。しかたありませんから PDF ファイルにしてこの伝言板に掲載し、どこかよそのパソコンでダウンロードすることにいたしました。うまく行くのかしら。

 そんなこんなでこのへんで。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 路上派遊書日記 南陀楼綾繁

 10月2日付伝言でご紹介申しあげた新刊です。

 三重県が提唱する「新しい時代の公」はなんとも片腹痛いお題目である。三重県知事によって「新しい時代の公」のモデル事業であると位置づけられた官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」は完全なインチキであった。あの事業の惨憺たる失敗が「新しい時代の公」の欺瞞性を証明しているのである。

 といったようなことをあしたの「田中善助翁と『新しい時代の公』」でおはなしすることになるのかどうか、それはそのときになってみないとわからないのですが、三重県および伊賀地域におけるお役所の人たちと地域の人たちの程度の悪さには言及せざるをえないのではないか。とにかくひどいものである。「公」というのがどんなものだか考えてみたこともないのであろう官民双方のうすらばかによって三億円もの公金がどぶに捨てられてしまったのである。

 その三億円のうち五百五十万円を頂戴して出版した『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』がなんと、東京堂書店の10月10日付ベストセラーランキングで堂々第五位に食いこんでいるというこの『路上派遊書日記』に登場してまいります。

 ブログ「ナンダロウアヤシゲな日々」の昨年1月16日付「いろいろと心配」の一部。東京は神田の東京古書会館で行われたトークのレポートです。

 二階に上がり、『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』(皓星社)刊行記念のトークを見る。本多正一(監修)、浜田雄介(編)、阿部崇(翻刻)、村上裕徳(脚注)、末永昭二(索引)の各氏。まず、皓星社の佐藤助教授が挨拶、その後、しばらくはハナシがうまくかみ合わず心配したが、途中からメチャクチャおもしろくなる。村上氏はメールをやらず電話もなく、手紙で連絡つかなければ、電報を打ったのだとか。あの脚注を「軒先借りて母屋をのっとる」と自己分析していた。乱歩のお孫さんの平井憲太郎さん、ミステリ作家の芦辺拓さんなど、フロアからの発言も興味深い。博文館のハナシになったとき、いきなり「それはですね」と後ろで声がして、誰かと思ったら、吉田勝栄さんだった。ツワモノばかりの観客だ。会場で配布した「『子不語の夢』に捧げる」というリーフレットには、多くの人の読後感やスタッフの余滴が入っていて、コレ自体オモシロイ読み物になっている。推理小説史に詳しいわけではないぼくも、助教授に云われてコメントを書いている。以下に引用する。

かゆいトコロに手が届く

 書簡を読み進むうちに、乱歩と不木の親交が葛藤に変わっていく。その過程をたどるのがとてもスリリングだった。「行き過ぎと思われるであろうほどの解釈や推定」にまで踏み込んだ脚注や、詳細な索引、気鋭の研究者による論考が、読書を盛り上げてくれた。封筒の画像まで入れ込んだCD−ROMにも驚嘆。使える資料集のお手本ともいえる本だ。自治体の事業でありながら、乱歩・不木を追いかけてきた在野の研究者やサイト主宰者に編纂を一任している徹底した「適材適所」も、この種の出版物では例がないだろう。まさに「かゆいトコロに手が届く」本なのだ。

 お名前が出てきましたのでお知らせしておきますと、山梨県甲府市中央にある桜座(かつて甲府市にあった桜座という芝居小屋をコミュニティの拠点として現代によみがえらせるべく、閉鎖されたガラス工場を利用して開設された施設のようです。オフィシャルサイトはこちら)の情報誌「桜座スクエア」(発行は NPO 法人街づくり文化フォーラムと甲府商工会議所)の9月号に、なんと脚註王村上裕徳さんのお名前がありました。「文化史家」というどこかいかがわしい肩書で「生誕百周年記念 竹中英太郎とその時代」を連載していらっしゃいます。お元気そうで、というよりはどうにかこうにかご無事そうなのでとても嬉しく思います。

 閑話休題。『路上派遊書日記』の12月28日の日記では、2005年にお読みになった本(というのがそもそも半端な数ではないと推測されるのですが)ベスト12の一冊に『子不語の夢』をあげていただいてありまして、これもまことにありがたく、南陀楼綾繁さんにあらためてお礼を申しあげる次第です。

 ことほどさようにこの『子不語の夢』の出版こそは、従来の自治体にはとても望めなかった「新しい時代の公」を見事に実現した事業なのであって(そんなことさえわからぬあほうがこのへんにゃごろごろしておるわけですが。なーにが「新しい時代の公」だばーか)、三重県知事にもぜひ『路上派遊書日記』をご購入いただいて認識を新たにしていただきたいものだと思います。版元は右文書院、本体二千二百円。


 ■10月15日(日)
妙に肌寒い日曜日

 なんか知らんがあわただしい。などとぼやいておってもどうにもなりませんが、けさはひたすら休養にあてたいと思います。しかし午前中に回復できるのか。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 私の一冊 『続・幻影城』江戸川乱歩 紀田順一郎

 「ミステリー文学資料館ニュース」最新号に掲載されました。

 「私の一冊」のコーナーでは以前、北村薫さんが『幻影城』をあげておいででしたが、今回は『続・幻影城』。

 本書を続編だからと、軽く見る人はあるまい。正篇『幻影城』刊行の三年後、一九五四年に出た。私はピカピカの(?)大学一年生。毎日ミステリ好きの友人とキャンパスで顔を合わすたびに「『続・幻影城』出たか?」「まだだよ。どうしたのかなあ」という会話を交わすのを挨拶がわりとしていた。中島河太郎は講談社版『江戸川乱歩推理文庫』の解説に、「『続』とする必要はなく、新しい題にしてもよかった」という意味のことを記しているが、あの『幻影城』の続編ということで、マニアは無茶苦茶に期待したのである。

 ■10月16日(月)
田中善助リターンズ

 おかげさまで無事に済ませてまいりました。昨日付中日新聞の記事がこれなのですが。

 この寺子屋歴史講座でのおはなし、おかげさまで無事に済ませてまいりました。寺子屋というくらいですから参加者はせいぜい三十人程度だろうと踏んでおりましたところ、大超寺というお寺の本堂いっぱいに聴衆のみなさんがざっと百二十人。私はいささか焦りましたが、二日酔いの勢いですっ飛ばしてまいりました。

 しかし結局のところ、「田中善助翁と『新しい時代の公』」と題してしゃべろうと考えていたことの半分くらいしかおはなしできず(全部しゃべるには三時間ほど必要みたいでした)、せっかくおさらいしていったマックス・ウェーバーにも行基にも出番はまわってきませんでした。

 つい最近刊行された三重県史編さんグルーブの『発見!三重の歴史』(新人物往来社)という本に田中善助が明治25年、帝国議会に提出した風景保護請願のことが紹介されておりましたので、まずそれをとっかかりとすることにして景観保全の問題をしゃべりはじめたのですが、いつのまにか明治時代の自然破壊の問題から南方熊楠による神社合祀反対運動に、さらには西洋人と日本人の世界観の差異の問題から横光利一の「旅愁」に登場する古神道のことにまで話題がおよんでしまい、内心いかんなこれは、お寺へお邪魔して神道の話をしておってはいかんではないかとか思いましたので、とにかくキリスト教的な人間中心主義を相対化できるのがアジアの森の思想なのである仏教なのである21世紀こそ日本人の出番なのであると、なんだか変なことを力説しているうちに時間がどんどん経過してしまいました。

 当初の予定では10月13日付産経新聞三重版に掲載された「景観づくり条例、県が制定へ 平成19年度中に」という記事をとりあげ、田中善助が百年以上も前に訴えた景観保全の重要性にいまごろになって気がついておるのが三重県なのである、ていうかこの国なのである、しかもこの三重県は「新しい時代の公」などと適当なお題目を掲げて何をやっておるのか、「新しい時代の公」のモデル事業であったらしい「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」たらいうあれはいったい何であったのか、みたいな方向に話を進めようかなとも考えていたのですが、プリントアウトして持参した産経の記事を紹介することも忘れてしまい、美しい国がどうのこうのいってるそこらの首相のことはなんとか話題にしたのですけれど、省みますればずいぶん暴走してしまったのかな。しかしとにかく仏罰がくだるほどの内容ではなかったことを素直に喜びたいと思います。

 この講座では伊賀市上野寺町の大超寺に眠る郷土の先人がじゅんぐりに紹介されることになっているのですが、先人をひとわたりめぐり終えたら田中善助リターンズ、私をふたたび講師としてお招きいただくことがきのうの講座の好評を受けて急遽決定いたしましたので、そのときには「田中善助翁と『資本主義の精神』」と題してありがたいおはなしをしてまいりたいと思います。

 大超寺の寺子屋歴史講座、2006年度の予定はかくのごとし。

寺 子 屋 歴 史 講 座

シリーズ:大超寺に眠る先人達

会場大超寺本堂(伊賀市上野寺町)

参加費無料

主催大超寺

第2回 大津事件と津田三蔵

日時11月12日(日)午後1時30分−3時

講師樋爪修さん(大津市歴史博物館学芸員)

第3回 藤堂玄蕃家の人たち

日時2007年1月21日(日)午後1時30分−3時

講師福井健二さん(伊賀文化産業協会専務理事)

 お近くの方はお誘いあわせてお運びください。仏教徒以外にもひろく門戸が開かれております。末筆ながら、あなたにも御仏のご加護がありますように。

  本日のアップデート

 ▼2006年10月

 酒井七馬の謎 中野晴行

 筑摩書房のPR誌「ちくま」に掲載されました。メールでお知らせいただいた方があったのですが、この雑誌は当地の書店には見あたりません。本屋さんに取り寄せてもらいました。

 手塚治虫と「新宝島」を合作したことで知られる漫画家、酒井七馬をとりあげた連載コラムの第三回なのですが、乱歩の名前がちらっと出てきます。

 手塚治虫は自伝『ぼくはマンガ家』(毎日新聞社)の中で酒井の消息を「『新宝島』のあと、たいへんな密画の絵物語を数冊出したきり、ブームに乗ろうともせず引き下がってしまったのである」としているが、ちょっと調べただけでも四八年には八冊以上の単行本を描き、探偵雑誌『真珠』に発表したイラストで江戸川乱歩から高い評価を受けている。四九年には五冊以上。ほかに雑誌『冒険紙芝居』に連載を描いている。単行本はいわゆる赤本マンガだ。

 乱歩の「高い評価」はどこでくだされたものなのか。『幻影城』に附録として収録された「探偵小説雑誌目録」を見てみると、探偵公論社の「真珠」の項に次のような文章がありました。

 ──今から考えて見ると、私はこの雑誌では酒井七馬という人のグロテスク漫画が一番印象に残っている。

 ほかにも乱歩が酒井七馬に言及した文献があるのかどうか、にわかにはわかりませんが、たぶんないのではないかと思われます。

 さて、思い起こせば先月下旬のことです。私は9月22日付伝言で渡辺淳一さんによる直木賞の選評をとりあげたものでしたが、あんなあほみたいな文章よりは乱歩の名前がちらっとでも出てくるだけこっちのほうがまだ重要であろう、とのお叱りとともにメールでお知らせいただいたのがこの「酒井七馬の謎」でした。

 たしかにあの選評はいただけません。私も「トリックか人間描写か」の引用を入力しながらそう思いました。なにしろあの先生はバリアとハードルをまちがえていらっしゃいました。バリアとハードルの区別もつかなくなった人間が直木賞の選考委員をつとめておってはいかんのではないか、ハードルのつもりで誤ってバリアと書かれてあることが明白な原稿をそのまま掲載してしまった「オール讀物」編集部の眼は節穴と呼ぶしかないのではないか、さらにはあの先生、ハードルとバリアをとりちがえる程度ならまだかわいいものであるけれど、しまいにゃキャバクラ行くつもりで鎌倉に行っちゃったみたいな事態にいたってしまうのではないかしら、まあたいへん、と入力しながらいろいろなことを案じてはいたのですが、せめてこのバリアのことだけでも笑いものにしておきたいと一念発起し、「トリックか人間描写か」というタイトルだけ見ても笑える選評を謹んでご紹介申しあげました次第です。どうもご無礼つかまつりました。

 ここでご閲覧の読者諸兄姉にあらためてお願いを申しあげておきましょう。お手近の新聞雑誌書籍その他で乱歩の名前をお見かけになられましたおりには、お手数ながらお気軽にご一報いただければまことにありがたく思います。くすりとも笑えないものであっても差し支えはありません。


 ■10月17日(火)
江戸川乱歩を遠く離れて

 もう火曜日か。火曜といえば学校の先生をつとめねばならぬ日であって、こんなふうに寺子屋の先生になったり高校の先生になったりして地域社会のお役に立っていると自分がどんどん乱歩から遠ざかっているような気がしてぼんやりした不安をおぼえないでもないのですが、まあなるようになるであろう。ていうか授業の準備をいたさねば。

  本日のアップデート

 ▼1974年6月

 下中彌三郎と平凡社の歩み 尾崎秀樹

 『平凡社六十年史』という本に収録されています。

 こういう本が出ているらしいことは聞き及んでいたのですが、眼を通す機会を得ることなく過ごしておりましたところ、『江戸川乱歩年譜集成』編纂の参考資料にと何十枚ものコピーをお送りくださった方がありました。まことにありがたい話です。

 乱歩の名は現代大衆文学全集と江戸川乱歩全集にかかわって出てきますが、記述内容はほぼ全面的に『探偵小説四十年』に依拠しているようです。

 しいていえば──

 宣伝といえば「江戸川乱歩全集」刊行の際のPRもかなり大がかりなものだった。全集の企画が持ち上ったのは昭和五年の末、年があけてまもなく著者との交渉がはじまり、江戸川乱歩はかつて大阪毎日新聞の広告部員だったこともあり、宣伝の方法などについてもみずから具体案を提出するといった形で、急速に全集の企画が煮つまってゆく。

 「全集の企画が持ち上ったのは昭和五年の末」とあるのが唯一、『探偵小説四十年』に記述されていない事実でしょうか。じつに些細なことですが。


 ■10月18日(水)
突然ですが映画祭のお知らせ一件□ 

 またしても地域限定の話題で恐縮なのですが、田中徳三さんの監督作品五本をフィーチャーした映画祭が名張市で開催されます。田中さんのトークもあり。お近くの方はお誘いあわせてお出かけください。

田 中 徳 三 映 画 祭 2006

日本映画の黄金時代を駆け抜けた
名匠・田中徳三の世界

会場名張市青少年センター
三重県名張市松崎町1325-1

入場料前売り2000円/当日2500円
両日共通券 前売り3000円/当日3500円

主催名張市社会教育振興会 名張市教育委員会
田中徳三映画祭2006実行委員会

問い合わせ先名張市青少年センター
電話:0595-64-3478
オフィシャルサイト:田中徳三映画祭2006

第1部 11月2日(木)

□□00分午後6時開場
□□00分午後7時トークショー
□□00分午後7時□田中徳三さん、藤村志保さん
□□00分午後8時「怪談雪女郎」上映

第2部 11月3日(金)

□□0分午前10時開場
□□0分午前11時「悪名」上映
□□午後0時45分トークショー
□□午後0時45分■田中監督、勝新を語る
□□午後1時40分「続・悪名」上映
□□午後3時25分「大殺陣 雄呂血」上映
□□午後5時05分トークショー
□□午後5時05分■田中監督、雷蔵を語る
□□00分午後6時「眠狂四郎 女地獄」上映

 いまや私とおなじく名張市民でいらっしゃる田中徳三監督の作品にかんしましては、日本映画データベースのこのページ、今年3月から4月にかけて映画祭「RESPECT 田中徳三」を開催した映画館シネ・ヌーヴォのこのページ、といったあたりをご閲覧ください。

 なんだかあわただしくて『江戸川乱歩年譜集成』のお仕事にはノータッチな明け暮れがつづいておりますせいで、あの町この町日が暮れる、乱歩がだんだん遠くなる、みたいな感じでしょうか。こんなことではいかんのだが。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 乱歩の「氷」シベリアで発展 佐野洋

 掲載された紙面を宅配便でお送りいただいてご教示にあずかった次第なのですが、朝日新聞に掲載された記事です。より厳密にいうと名古屋本社版の9月19日付夕刊。東京本社版や大阪本社版などの紙面は確認できておりません。

 結構謎めいたタイトルなのですが、鏑木蓮さんの乱歩賞受賞作『東京ダモイ』の書評です。かつて日本兵が抑留され、強制労働に使役されていたシベリアで発生した殺人事件、その真相を六十年後に調査して明らかにする、というのがこの作品のストーリーの骨格らしいのですが、トリックに関連して乱歩の名前が出てきます。

 その調査の動機も納得できるし、手続きにも遺漏はない。乱歩さんのエッセー集『続・幻影城』には、「兇器としての氷」という一項目があって、氷を使った古今東西のトリックが集められており、この小説のトリックは、その中の一つを発展させたものとも言えるが、背景をシベリアに置いたことによって、不自然さは感じられないし、私自身、最後までわからなかった。

 ただこれだけのことなのであって、乱歩の名前をわざわざ見出しに登場させる必要はないように見受けられるのですが、乱歩の名が躍るといわゆるインパクトが格段にちがってくる、一気にキャッチーな感じになるといったことがあるのでしょう。乱歩の偉大さというか存在感をあらためて認識させ、乱歩ファンを喜ばせるのみならず一般読者の眼をも惹きつける見出しであるとは思われるのですが、しかしこれはいわゆるネタバレってやつではないのかしら。


 ■10月19日(木)
地域社会から乱歩シーンへ□ 

 本日はとくに地域限定のお知らせもありません。乱歩の話題に戻りたいと思います。

 といいながらも先日、10月15日に伊賀市上野寺町の大超寺というお寺で寺子屋歴史講座「田中善助翁と『新しい時代の公』」の先生をつとめた話の後日談を記しておきますと、講座を聴講してくださったという方からメールを頂戴しました。その方のおじいさんもお父さんもともに左官屋さんで、善助さんにはたいへん可愛がってもらい、善助さんが携わったさまざまな建築工事にも職人として加わった、祖父と父からは善助さんの話をいろいろ聞かされている、といったことをお知らせいただいたのですが、伊賀上野のまちにはいまでも田中善助という先人のことが懐かしく語り伝えられていることに私は遅ればせながら気がつきました。

 私はあくまでも文献に記された田中善助像しか知らないのですが、まちに語り継がれている生身の善助像といったものにも眼を向ける必要があるだろうなと思い返された次第です。しかしいまの私にはちょっと手がまわりません。いずれの日にか田中善助リターンズ、寺子屋歴史講座で「田中善助翁と『資本主義の精神』」についておはなしをする機会ができたなら、そのときにあらためて眼を向けることにしたいと思います。

 といったところで乱歩シーンに眼を転じましょう。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター

 今年6月に開設された立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターのパンフレットが発行されました。センターからご恵投たまわりましたので、ここに謹んでご紹介申しあげます。

 名張市における『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業は深い霧のなかを手探りで進んでいるような状態なのですが、いっぽうの(と比肩するのもおこがましい話ではあれど)立教大学では乱歩研究の拠点づくりが着々と進行しているようです。

 センターがめざしているところをセンター長でいらっしゃる藤井淑禎先生のご挨拶から引用いたします。

立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター設立にあたって
藤井淑禎
 すでに2004年の「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」においても、乱歩作品の中でも大衆の20世紀と正面から取り組んだ通俗長編ものを再評価するなど、大衆文化という角度からのアプローチは試行ずみである。さいわいそれは斬新な視角として高い評価を得、我々としても、新しい乱歩研究はこの方向を推し進める以外にはないとの確信を持つに至った。

 今後はこうした方向性を、全学的規模での大衆文化研究の大きなうねりへと結びつけるべく、対象も乱歩や近現代のみにとどまらず、時代とジャンルとを超えた幅広い大衆文化研究へと結実させていくことが要請されている。その拠点として、この立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターは機能しなくてはならない。そのためにも学内学外を問わず多くのご支援とご協力とをいただけるよう、お願いする次第である。

 センターにかんするアナウンスは立教大学オフィシャルサイトのこのページでどうぞ。

 センターに足を運んでみたとおっしゃる方から先日メールを頂戴したのですが、それによりますと名張人外境という名前を出すだけで下にも置かぬおもてなし、センタースタッフの方から何かと便宜を図っていただけたそうです。一度お試しください。ただし、まったく逆の結果になっても当方はいっさい関知いたしませんのであしからずご了承ください。

 私も一度この江戸川乱歩記念大衆文化研究センターをば訪れて、胸をときめかせつつ乱歩の蔵書をチェックしたいなと念じてはいるのですが、なかなか機会が得られません。

 『探偵小説四十年』には、初刊時の余白の埋め草として「忘れられない文章」というエッセイが『わが夢と真実』から再録されています。「うつし世は夢、よるの夢こそまこと」とうフレーズのよって来たるゆえんを説いた短いもので、ポーとデ・ラ・メアの文章にもとづいていることが明かされているのですが、ポーの文章が「ベレニス」であることは調べるまでもなく判明しております。海外のサイトには原文を読むことができるところもあって──

 四段落目にある文章がそれなのですが、しかしデ・ラ・メアのほうはとんと不案内。

 近ごろの作家ではイギリスのウォーター・デ・ラ・メイアの次の言葉が、これを継承している。

 「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある。空想的経験こそは現実の経験に比して、さらに一層リアルである」

 乱歩はこれだけしか書いてくれておりません。ですから典拠を調べなければなりません。そこで私は『探偵小説四十年(上)』の358ページで「忘れられない文章」にぶつかったとき、試みにごくちょっとだけ調べてみました。立教のサイトで乱歩の蔵書を検索し、デ・ラ・メアの著作をリストアップしました。手許のメモによると──

 The connoisseur : and other stories(1926)

 Told again : traditional tales(1927)

 On the edge : short stories(1930)

 Best stories of Walter de la Mare(1942)

 これだけありました。普通に考えればこのなかの一冊に「わが望みはいわゆるリアリズム」うんぬんという文章を発見することができるはずなのですが、それは江戸川乱歩記念大衆文化研究センターで現物を閲覧してみなければかなわない。インターネットを利用してこれらの書物を海外の書店あるいは古書店から購入する、という手もあるにはあるのですが、私にはそんな芸当はとてもできません。ていうかそれ以前に、私の英語力でこれだけの本をチェックするのはまず至難、というより不可能と申してよいであろう。

 それにもうひとつ、あれこれ調べているうちに──

 Behold, This Dreamer(1939)

 というデ・ラ・メアの著作がなんかあやしい、という気もしてきましたので(なにしろドリーマーってんですから)、この先いったいどうしたものかと悩みつつ、調査そのものはそのまま中断して現在にいたった次第です。ほんにどうしたものじゃやら。


 ■10月20日(金)
ゴーチエならびに宝塚□ 

 9月25日付伝言でとりあげたテオフィル・ゴーチエの『モーパン嬢』が岩波文庫で気軽に読めるようになりました。10月の新刊です。版元の紹介ページをどうぞ。

 「画家で詩人の青年ダルベールを虜にした騎士テオドールの正体は? 17世紀に実在した男装の麗人をめぐる熱烈な二重の恋の物語」とありますとおり、「リボンの騎士」風というか「ベルサイユのばら」的というか、そのあたりが乱歩をいたく興がらせた百七十年ほど前の作品が現代によみがえります。

 「ベルサイユのばら」といえば宝塚歌劇団、宝塚歌劇団といえば「黒蜥蜴」と来るわけですが、8月19日付伝言でお知らせした来年の花組公演「明智小五郎の事件簿 黒蜥蜴」は──

 宝塚大劇場
 2007年2月9日(金)──3月19日(月)
  一般前売り開始 2007年1月6日(土)

 東京宝塚劇場
 2007年4月6日(金)──5月13日(日)
  一般前売り開始 2007年3月4日(日)

 という日程で上演されます。私はおかげさまできのうになってようやく、宝塚大劇場へ「明智小五郎の事件簿 黒蜥蜴」をいっしょに観にいってくれるお姉さんを確保し、チケットの手配もすべて丸投げすることを得ました。前売り開始は来年1月だからとのんびりしていたのですが、いい席をゲットしようと思ったらいまからあらゆるつてを利用して東奔西走しなければならぬそうです。それぞれの道にはそれぞれの苦労がある、ということでしょうか。

 宝塚歌劇団オフィシャルサイトから年間スケジュールのページをどうぞ。

 チケットの入手その他あれこれ、どうにもよくわからなくてとおっしゃる方はお気軽にご相談ください。

  本日のアップデート

 ▼1992年8月

 怪人二十面相の棲む館 江戸川乱歩 平井隆太郎

 これもまたコピーをお送りいただいてご教示をたまわった一篇。なんですかもういろいろな方から乱歩にかんしてご協力をかたじけなくしておりまして、あちらこちら頭さげまくりの毎日です。

 山河社から出ていた月刊誌「花も嵐も」に掲載されました。

 池袋は関東大震災の直前に住んでいたこともあり、父にとって必ずしも無縁の土地ではなかった。東京で一番空気のきれいなところと云う当時の新聞記事の切り抜きが保存してあったから、これに惚れ込んでのことであったかも知れないが、なによりも立派な土蔵が付属していたのが魅力だったのである。父はこの土蔵を書庫兼用の書斎にしていたが結局は蔵書に追立てられ、洋風の応接間を増築する破目となる。これが父にとって最後の書斎になった。

 父が土蔵書斎を諦めたのは蔵書もさることながら寒さ嫌いも一つの理由であった。土蔵は夏はともかく冬場は生半可な暖房では間に合わなかったからである。昭和三〇年代のはじめ祖先発祥の地であった伊豆の伊東に転居する計画を立てたのも温暖な気候にひかれての事であった。実現していれば四七回目の転居になっていた筈である。伊東の家さがしで泊った宿屋の天井からムカデが降って来たのに恐れをなして取り止めたとは後になって母から聞いた話であった。但し真偽は保証の限りではない。

 晩年の乱歩が伊豆伊東への転居を考えていたというのは初耳で、谷崎潤一郎がやはり晩年になって熱海に住んだことを連想させるエピソードではあります。しかし天井からむかでが降ってきてはなあ。あのあたりはむかでが出るから引っ越すの中止ッ、というのはまたなんだか乱歩らしい話だと思いますけど。