2006年6月上旬
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 ■ 6月1日(木)
トニーが俺を呼んでいる

 6月を迎えました。もう6月かとびっくりしつつ、本日は新刊のご紹介をお届けいたします。

 末永昭二さんの『電光石火の男──赤木圭一郎と日活アクション映画』が出ました。版元はごま書房。同社のオフィシャルサイトを調べてもいまだ紹介されてはおらぬようなので、Google 検索でトップにひっかかってきた本やタウンのこのページをどうぞ。

 とうに知命をすぎているというのに何なんだこの高卒の DQN の自己破産者は、と年甲斐のなさが2ちゃんねるでつかのま話題になって面目すっかり丸つぶれの私ではありますが、さすがに赤木圭一郎の主演作品をリアルタイムで見たおぼえはありません。しかし本書の第一章「ドキュメント──昭和三六年二月」を読み進むうち、子供のころの断片的な記憶が不意によみがえってくることを経験しました。この第一章では昭和36年2月14日、すでに日活の看板スターとなっていた赤木圭一郎が撮影所でゴーカート事故を起こして重傷を負い、2月21日ついに死を迎えるまでの経過が当時の週刊誌の記事やのちに活字になった関係者の証言などで立体的に構成されているのですが、私が思いだしたのはある漫画のことでした。

 ネット検索で調べてみたところ、「少年サンデー」と「少年マガジン」はともに昭和34年の創刊で、ということは赤木圭一郎が死んだときにはもう世に出ていたわけですが、私の記憶にあるのは「少年画報」だか「少年」だか「ぼくら」だか、誌名はよくわからぬもののたしかに月刊誌でした。作者はたぶん堀江卓さんで、その漫画のなかでは赤木圭一郎のゴーカート事故を撮影したフィルムが映写され、登場人物がこの事故には不審な点が多い、赤木圭一郎は事故を装って殺されたにちがいない、といった主旨の謀殺説を展開していた。そんな記憶がいきなりまざまざとよみがえってきたのですけれど、前後の脈絡はまったく不明で漫画のタイトルもきれいに忘れ去っています。

 水面にぽっかり浮かびあがるようにしてこんな記憶がよみがえってきたのは、赤木圭一郎の死とその周辺を日活ニューアクションさながらの乾いたタッチと畳みかけるようなテンポで描きだした第一章がもつ強い喚起力のせいでしょう。ごくわずかにでも昭和36年当時の記憶を有している人間であるならば、つまりは当時の大衆文化なるものをかすかながらも肌身におぼえている人間であるならば、この章はあれよあれよと一気に読み終えてしまうにちがいありません。そして巧みな導入にさそわれるまま最後のページまで読了し、何なんだこの本は、と首をかしげたくなるような気分を抱いてしまう読者もあるのかもしれません。

 サブタイトルからも知られるとおり、これは「赤木圭一郎と日活アクション映画」をテーマにした本です。それにはまちがいありません。げんにこの本では、赤木圭一郎のおいたちから死までが手際よくまとめられ、前史を含めた日活無国籍アクション映画の歴史も簡潔に紹介されていて、それだけで読者を飽きさせることがありません。しかしながら、本書の白眉と呼ぶべきパートはそのあとに、サブタイトルに示されたテーマがまるでノルマをこなすようにしてひととおり語り終えられたあとから、あたかも満を持していたヒーローのように悠然と姿を現してきます。すなわち、著者の領域横断的個性が存分に発揮された赤木圭一郎出演全作のレビューが読者を楽しませてくれるわけなのですが、白眉はそこにさえとどまらないのである。

 どこまで行くのか。驚くべし。なんと拳銃無頼帖シリーズの原作となった木戸禮作品(いわゆる貸本小説なのですが)をひっぱりだし、映画、台本、原作の三者を比較対照しながら赤木圭一郎主演作品の構造と魅力とを分析するという、これはもう日本推理作家協会賞評論その他の部門落選作品『貸本小説』の著者にしかなしえない文字どおりの独擅場、サブタイトルには語られていなかった本書の本質がここにあざやかに際立ち、読者をたっぷり堪能させてくれます。読み終えたあと何なんだこの本は、と思った読者は、やがて自分の首をかしげさせた逸脱にこそ本書の主眼があったという事実に気がつくことでしょう。

 日活無国籍アクション映画と貸本小説とがぴたりとシンクロした地点に見えてくるのは、映画スターなるものの存在を可能ならしめていた大衆と呼ばれるものの存在でしょう。大衆という名の想像力がいきいきと息づいていた時代への遅ればせの挽歌とでも称するべきこの一冊、私が最後にトニーの映画を見たのはもう二十数年も前になるのか、大阪のどこかのビルにできたばかりの小さな映画館でのことであったと(かかっていたのは「拳銃無頼帖 抜き打ちの竜」でした)、そんな思い出も懐かしくよみがえり、じつに素直に楽しめる本であったとお知らせしておきます。気になるお値段は税込み千と五百円。興味を抱かれた向きはぜひお買い求めください。ていうか、電光石火で買いにゆくべし。知命をすぎていなくても全然OKです。

  本日のアップデート

 ▼1928年7月

 大衆談話室 白聞生

 平凡社の「大衆文学月報」第十五号に掲載されました。「大衆談話室」というのは要するに読者投稿欄なのですが、ぶっちゃけていえば現代大衆文学全集の提灯記事のコーナーで、全集そのものや収録作品に対する七人の読者の讃辞がならんでいます。

 もっとも長いのが白聞生と名乗る読者の乱歩讃。この人はなかなかの具眼の士であったようで、これが編集部による仕込みでなかったとしたら、当時の大衆文学読者はわれわれが(というか私が)想像している以上に眼が肥えていたのかもしれません。

 短篇評のあとにつづられた長篇評を引きましょう。〔 〕内は引用に際して補ったもの、〓は判読不能な文字です。冒頭に「同じ満足」とあるのは、乱歩作品を読むことで「変態性慾者と同じ蕩酔を得る事が出来」ることへの満足、といった意味だとお思いください。

 『一寸法師』にも同じ満足を得た〔。〕何うして斯う迄上手に一寸法師の描写が出来るかと作者が憎く感じる程であつた。自分には一寸法師の性格を描くばかりの為にわざわざ此〓事件を作つたとしか考へられなかつた。『一寸法師』の中で主人公の次に山野夫人が自分の気に入つた。探偵小説家殊に乱歩氏程人の性格を凄く描写する人を自分は知らない。乱歩氏の描く恋愛とか殺人とかゞ、真の凄艶、凄絶である。此処に自分の物足らないのは、探偵の性格を今少し凄く鋭いものにして貰ひたい。自分は、頭をゴシヤゴシヤ掻く事より他にしない明智素人探偵の態度に慊らず思つてゐる。『パノラマ島奇談』は真の好ましい幻想曲である。だが一本の髪の毛で切角の夢をぶち壊されたのは面白くなかつた。往生の場は夢想国に似合はしく大いに気に入った。

 野村恒彦さんからご教示をたまわりました。お礼を申しあげます。この手のこまかい同時代評というのは『江戸川乱歩年譜集成』に不可欠のフラグメントでありますゆえ、もっともっとどんどんこちらが泣きたくなるほどにご教示を頂戴したいものだと考えております。よろしくお願いいたします。


 ■ 6月2日(金)
昭和21年の劣等生は探偵小説に逃避した

 そんなこんなで『江戸川乱歩年譜集成』編纂のためのもっともベーシックな作業を鋭意継続しているわけなのですが、『探偵小説四十年(下)』をひらいて「戦災記〔昭和二十年度〕」と「探偵小説復活の昂奮〔昭和二十一年度〕」から必要と思われるデータをアウトラインプロセッサに入力し、乱歩における昭和20年と翌21年とはなんとか年表化することができました。

 昭和20年からデータをとりはじめたのは、まず敗戦という区切りがあること、それからいつかも記しましたとおり、データのなかに反町茂雄の『一古書肆の思い出』に描かれていた昭和20年12月26日の乱歩の姿をフラグメントとしてちりばめてみるとどうなるかという興味もありましたし、さらに昭和22年に入ると「探偵作家クラブ会報」が発刊されており、乱歩をはじめとした探偵作家の動静がかなりくわしく記録されていることから、そのあたりの記述を『探偵小説四十年』にこき混ぜれば面白いのではないかというもくろみもあってのことであったのですが、あちらこちら欲張るのはまさしく二兎を追うことにほかならない、まずは『探偵小説四十年』一本とがっぷり四つに組むべきであると結論いたしました。

 で、やっぱ頭から行ったほうがいいであろうと『探偵小説四十年(上)』の「処女作発表まで」からあらためて着手してみたのですけれど、基本的には砂をかむような作業の連続ですからいやになってすぐ投げだしてしまいます。しかしただ投げだしただけでは自分が意志薄弱でどうしようもない人間に思えてきますから(そうにはちがいないのですけれど)、何かと理由を見つけてほかの作業に逃避してしまうことになります。たとえばどんな作業かというと、これは一か月ほど前のことなのですが、背景となる時代相のことも勉強しておかなければな、とか思って(「勉強」こそは逃避におけるもっとも普遍的な隠れ蓑でしょう)北杜夫さんの『楡家の人びと』を再読しました。

 再読といっても昔読んだ本(新潮日本文学の『北杜夫集』でした)は手許にありませんので、上下二分冊の新潮文庫を購入し、罪悪感めいたものを感じながら(どうしてそんなものを感じなければならんのか)読み進めてみましたところ、じつは内容をすっかり忘れていたことに唖然としてしまったのですけれど、そんなことはともかくとしてとにかく無類に面白い。ほんの端役というしかない登場人物にまで作者の愛情がそそがれているのが好ましく、みずみずしい自然描写、おおどかなユーモア、あくまでも市民の視点に立った歴史観などなどによって、ここには小説、それも長篇小説が本来有しているべき豊かさが確実に実現されているなと実感された次第です。

 ひそかに期していたこともひとつだけあって、もしかしたら作中に乱歩ないしは怪人二十面相の名前が登場するのではないかとそこはかとない期待を抱いていたのですけれど、それはあっさりあてはずれ。ただし物語の終幕には、楡家初代から数えて三代目の周二という劣等生が敗戦の翌年、つまりまさしく昭和21年に図書館を訪れるシーンが描かれており(それは楡家の没落が決定的なものであることを暗示するシーンでもあるのですが)、そこにはこんなふうにして「探偵小説」が登場しておりました。

 周二はこの年の入学試験にも、高校と医専の双方とも落第してしまっていた。第一勉強しようという意欲を持合せないように見えた。予備校へ通わせようとしても、「いいよ、予備校なんか」と言った。いつもふてくされたようにろくろく口もきかず、ぷいと「図書館へ行ってくるよ」と言い捨てて家を出るが、実はその図書館で周二は勉強するのではなく探偵小説を読んでいたのだった。彼は惰性のように、いい加減に、どちらかというとかなり低級な探偵小説を借りだす。席について本をひろげても、実際にはなかなか読みださない。周囲の席から人々が一心不乱に読書している気配が伝わってきて、ただでさえ周二に、「自分には本当はもうなんのやるべきこともないのだ」というじめじめした意識を引き起させるのだった。家が焼けたとき、或いは千葉県で敵の本土上陸に備えて地下陣地を構築していたときは、確かにいきいきとしていたその顔は、今はいつも投げやりに、陰気に曇っていた。なにより彼は、「死に遅れた!」という感情から離れることができなかった。あの豪華な、絢爛とした、壮大な「死」への幻想、それはとうに灰のように崩れ落ちてしまっていた。……彼は無理強いに自分を低級な活字の世界へとおしやる。辛うじて一つの世界が彼の前にひらかれる。陳腐な、愚かしい、ときには扇情的な世界が。そこではたわやすく必然的に殺人が行われる。しばらくの間、周二はその筋を追い、だがやがて目を本から離して心に呟くのだ。「人間を一人くらい殺してそれがどうだというんだ。莫迦々々しい。何にもないのだ。実際この世には何にもないのだ……」

 ここに出てきた「探偵小説」は、そのまま乱歩作品のことであると見なしてもさしたる支障はないでしょう。「かなり低級な探偵小説」は、さしずめ乱歩の通俗長篇か。少なくとも昭和21年の時点では、日本における探偵小説の社会的位置というか一般的認識というか、ひらたくいえば人の見る眼はこういったものであったかと想像される次第です。しかし実際には、作中の周二が思春期に敗戦を迎えた人間の虚無的な心情をもてあまして探偵小説のページをひらいていたのと同じころ、乱歩は探偵小説復活のたしかな予感に欣喜しながら海外作品の紹介などに没頭し、いっぽうでやはり敗戦の報に雀躍した横溝正史は「本陣殺人事件」を連載して乱歩の予感を裏づけていました。そしてその本陣は──

 あすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 灰色の巨人 江戸川乱歩

 ポプラ社の「文庫版少年探偵・江戸川乱歩』シリーズ、数えて第十一巻となります。砂田弘さんの解説から引きましょう。

ぼ・ぼ・ぼくらは少年探偵団
 くず屋さんは、古新聞や古雑誌、古い着物や古い道具など、家庭でいらなくなった物をなんでも買い上げてくれました。そのころはまだ、あらゆる品物が不足していた時代でしたから、新聞や雑誌は袋にしたり、古い着物や古い道具はほしい人に売ったりすることで、買い上げられた物のほとんどは、二度も三度も利用されていました。つまり、くず屋さんはリサイクルというたいせつな仕事を受けもっていたのです。

 このように、ここにえがかれているのは、四十年以上も昔の日本です。しかし、明智小五郎や少年探偵団の活躍ぶりは生き生きとしていて、昔を感じさせません。「少年探偵」シリーズの最大の魅力はそこにあるのです。

 なるほど現代のお子供衆が相手であれば、こうした説明は不可欠であるのかもしれません。それはいいのですが、それにしてもなんか気になる、と妙な違和感をおぼえた私は講談社版江戸川乱歩推理文庫の『灰色の巨人/魔法博士』をひもといてみました。

 すると、ポプラ社版では「くず屋さん」とされているところが講談社版では「くずや」とされていることがわかりました。小見出しも同様で、前者は「ふしぎなくず屋さん」、後者は「ふしぎなくずや」。「少年クラブ」昭和30年9月号の初出ではいうまでもなく「ふしぎなくずや」であったと、これは「江戸川乱歩執筆年譜」で確認できます。

 このシリーズは全巻の巻末に「編集方針について」が掲載されており、

 ──四 原作を重んじて編集しましたが、身体障害者や職業にかかわる不適切な表現については、一部表現を変えたり、けずったりしたところがあります。

 と明記されているのですが、はたして「くずや」を「くず屋さん」にする必要があるのかどうか。どうも微妙な感じです。


 ■ 6月3日(土)
乱歩は本陣のことを書きもらしていた

 『探偵小説四十年』の昭和21年の項には、刊行時に書きくわえられたこんな追記が見られます。この年2月25日、乱歩の家で「宝石」創刊号用の写真撮影が行われたという日記の記事につづく箇所です。

 〔昭和三十五年追記、この創刊号から横溝正史君の「本陣殺人事件」の連載がはじまった。そしてこの一作が戦後の探偵小説界を動かす大きな力となったのである。本稿を印刷するために読み返していると、この大切なことが書きもらされていることがわかったので、一筆書き入れておく。しかし横溝君の本格転向のことは本書の随所に出ているのだし、「幻影城」の中に「本陣殺人事件を評す」という長い文章を収めてあるので、あれに譲って、ここにはこの事実を書き加えるにとどめておく〕

 つまり乱歩は連載時、昭和21年に特記しておくべき「本陣殺人事件」のことをうっかり書きもらしてしまった。だから『探偵小説四十年』を本にするとき、それを正直に打ち明けることにしたというわけです。しかしこの正直さには、どこか不自然なものが感じられると私には思われます。正直なのは正直なのであるけれど、けっしてすべてを語っているわけではない正直さ、みたいな。

  本日のフラグメント

 ▼1975年12月

 横溝正史の秘密 第二部 自作を語る 横溝正史、小林信彦

 「野性時代」に掲載された対談です。小林信彦さんの編による『横溝正史読本』に収められ、角川文庫にも入りました。

 ちょっと長いかなと思いつつ、乱歩正史双方の昭和20年から21年にかけてを物語るフラグメントとして引用しておきましょう。底本は角川文庫。

小林 終戦直後は、とにかく推理作家が解放されたあまり、いろんなことやったでしょう。あれがかえってぼくは、エネルギー的にはすごいマイナスだったと思うんですけどね。先生は岡山にいらっしゃったから……。

横溝 そうそう。乱歩なんか、あれでずいぶん作家としては損してますよ。

小林 そうですね、全然作品はないわけですからね。本当に取りかかったのは二十五、六年ぐらいからですよ。

 だから(戦争が)終わった途端に二作同時に並行して、それで、それが、いままでにない水準の作品だったというのは、それはビックリしますよ。そして、それが終わってすぐ『獄門島』が始まるわけですからね。

横溝 けど、『本陣』の反響ね、それ、田舎にいたから、わかんないですからね。

小林 ぼくは自分でも書いているように、あれは非常にショック受けましたね。だからいま、あのときの『蝶々殺人事件』と『獄門島』とどれかというようなこと、冷静な判断をすればいろいろあると思うんですけれども、読んだときのショックは『本陣殺人事件』が一番大きかったですね。特に完結編が、つまり、それまで、ああいうロジックの小説というのはなかったわけですから、非常にビックリしたですね。それと、あの頃、こちらの生活が転々と変わってますから、読んだ場所が違うわけですよ、「宝石」を。初めのほうは疎開先で読んだ、終わりのほうは東京に帰ってきて読んでるとか、そういうことです。ですから、そういう想い出も非常にあったと思うんですけれども、やっぱり、『本陣』は読んだ時点で非常にショックが大きかったですね。

横溝 そういうこと、田舎にいたもんですからちっとも知らなかったな。知ってたらかえっていけなかったかもしれないね。知らずに、もう自分はこれしか書き様がないんだからって。

小林 あれが終わった号に、すぐ『獄門島』の予告が出ましたですね。あれはビックリしたですね。まったく立て続けに……。

横溝 田舎にいたからでしょう、雑音が入らないから、沈潜できるんですね。

小林 それで、『本陣』は江戸川先生の批評が出ましたね。あれがやっぱりぼくには、非常に印象が強かったですね。これでもう完全なものだという感じがありましたから。あの批評もぼくは、五、六回読んだと思うんですけどね。

横溝 乱歩、あれ発表する前に送ってくれましたよ、原稿を、「こういうものを書くんだが」って。もう、ぼくは異議はないわね。

小林 ですから、『本陣』『蝶々』『獄門島』この三作というのは、ものすごく印象が強いですね、わたくしなんか。つまり中学生で、ずっと連載のときに読んでるわけですから……。

横溝 一番感受性の強い年頃だからね、中学生といえば。

 今年は私のまわりでじつによく人が死ぬ年であるらしく、きのうときょう、私は二日連続でお葬式に列席しなければなりません。そんなこんなで時間がなく、つづきはあしたということにいたします。


 ■ 6月4日(日)
「横溝正史の秘密」の秘密

 きのう引用した対談「横溝正史の秘密」には、じつはカットされた箇所があります。というか、あるそうです。私はいまだ典拠を見つけられずにいるのですけれど、2003年8月に出た篠田秀幸さんの『悪夢街の殺人』(ハルキノベルス)によれば、横溝正史の対談相手だった小林信彦さんが横溝の死後、それを公表したといいます。

 篠田さんの作品はむろん小説なのですが、語り手「私」の視点で記された「プロローグ」には、「本陣殺人事件」をめぐる作者正史と評者乱歩の確執が記されています。「私」は乱歩の「『本陣殺人事件』を評す」に「何やら不気味に冷たい視線」を感じてぞっとしたことを打ち明け、

 ──どのように悪意に読んでも、『本陣殺人事件』は、江戸川乱歩が指摘するところの「不満」とやらを、読者に意識させるような書き方にはなっていない。

 と評して、乱歩の指摘はことごとく「無いものねだり」だと断じます。きのう引いた対談における小林信彦さんの「『本陣』は江戸川先生の批評が出ましたね。あれがやっぱりぼくには、非常に印象が強かったですね。これでもう完全なものだという感じがありましたから」という言葉にも、「完全なもの」に見えた作品に乱歩がないものねだりめいた批判をつらねたことへの驚きや不審が読みとれるように思われます。

 で、『悪夢街の殺人』の「私」はこんなふうに推測します。

 にもかかわらず、江戸川乱歩は何とアリストテレスの『詩学』まで引用して、『本陣』のリアリティの欠如を非難している。横溝正史は乱歩の、この批評文の原稿を眼にした直後に、おそらくや「大乱歩の悪意」をしかと認識して覚悟した。

 生前横溝正史は小林信彦との対談の中で、こう述べている。

 「(小林) それで『本陣』は江戸川先生の批評が出ましたね。あれはやっぱりぼくには、非常に印象が強かったですね。これでもう完全なものだという感じがありましたから。あの批評もぼくは、五、六回読んだと思うんですけどね。

 (横溝) 乱歩、あれ発表する前に送ってくれましたよ。原稿を、『こういうものを書くのだが』って。もう、ぼく異議はないわね」(小林信彦編『横溝正史読本』、角川書店)

 テープ起こしの段階で、この後の正史の発言を敢えてカットした経緯について、小林信彦が明らかにしたのは、大横溝が亡くなって随分してからであった。実のところ最初の原稿では正史の発言はこう続くのである。

 「ナイフを送り付けられたみたいで、ぎくりとしたね……」

 作家という生き物は「虚像」を演ずる。

 大横溝、大乱歩とて例外ではない。いや、両者が巨人であればあるほど、その互いの才能を巡っての内心の軋轢は深刻なものになるに相違ない。

 しかし読者に対しては、「作家としての位置」が確立すればするだけ、〈読者から期待される像〉を演じてみせる。だが、その真の本音は他ならぬ自身の文章の片隅に残る。

 この指摘は傾聴にあたいするでしょう。乱歩が「『本陣殺人事件』を評す」を執筆した時点でそれを認識していたのかどうか、それはわかりません。当人には意識されない悪意であったのかもしれません。しかし『悪夢街の殺人』に記された推測を否定することは、たぶん誰にもできないでしょう。

  本日のフラグメント

 ▼2000年12月

 推理作家の出来るまで 都筑道夫

 乱歩と正史の確執は、都筑道夫の長篇エッセイ『推理作家の出来るまで』にもわずかに録されています。

 都筑道夫が早川書房の編集者として、新しい海外ミステリの翻訳紹介に努めていた当時の話です。新しい翻訳者を増やすこととともに、まともに翻訳のできない古いタイプの翻訳者と縁を切ることも、都筑道夫がこなさなければならない仕事のひとつでした。

 やがて早川書房の社長のもとへ、乱歩から電話がかかってきました。乱歩は、戦前からのベテラン翻訳者が都筑道夫に仕事を断られたことを伝え聞いていました。

 「乱歩さん、かなり怒っているよ。きみ、いちど説明しにいかなければ、まずいだろう」

 と社長にいわれた都筑道夫は、池袋の乱歩邸に赴きます。乱歩は事情を聞かされて納得し、

 「わかった。これじゃあ、やむをえない。ぼくから、うまく話しておこう。そんなことじゃないか、と実は思っていたんだが、横溝君から、ぜひ口をきいてくれ、といわれたんでねえ」

 「申しわけありません。よろしく、お願いします」

 そして──

 乱歩さんが納得してくれれば、私たちにとっては、もう問題は解決したわけだ。けれども、当時の乱歩さんは、横溝正史さんと仲直りしたばかりだった。つまり、それまで不仲だったわけで、おもに横溝さんのほうが、乱歩さんを避けていたらしい。そのころの横溝さんは乗りものぎらいで、会合なぞには出席しなかったから、乱歩さんと外で顔をあわすことはない。だから、訪問しあったり、電話や手紙の交渉が、なかったということだろう。もっとも、昭和二十九年の乱歩さんの還暦パーティには、横溝さんも出席している。顔も見たくない、というほど、はげしい嫌悪では、なかったのかも知れない。それとも、不仲になったのが、還暦パーティ以後なのか。あるいは、周囲がうわさするほど、不仲ではなかったのか。不和の原因は、もっと前に起っているように、私は聞いた。しかし、くわしくは書くまい。(書けよ──引用者思わず註)

 とにかく、昭和三十一年の第二回江戸川乱歩賞の授賞式が、日比谷の松本楼でひらかれたときに、横溝さんが出席して、乱歩さんと廊下で握手をした。私たちがそれを取りまいて、拍手をしたのだから、不和があって、和解があったのは、事実なのだ。還暦パーティのときには、私は受付のデスクにすわっていたが、松本楼では受賞者がわとして、出席していた。第二回の江戸川乱歩賞は、ハヤカワ・ミステリ出版の功績によって、早川清社長がホームズ像をうけたので、田村隆一と私が編集部代表として、社長についていったのである。

 さるにても、乱歩と正史との長きにわたるつきあいを丹念にまとめてゆくだけで、ゆうに一冊の書物ができあがることでしょう。どなたかやってくださらぬものか。


 ■ 6月5日(月)
圭角と妄想の関係

 きょうも横溝正史です。

 私のような世代にはかつて雑誌の誌面や新聞広告、ときには映画のスクリーンにも見ることのできたいかにも好々爺然とした風貌が印象的な横溝正史は、じつはどちらかといえば圭角の多い人間ではなかったかと思われます。何を根拠にそう思うのか、という説明は省略しますが(たとえば乱歩という作家に対して正史がどれほど激越な敵愾心を燃やしていたのかは、横溝亮一さんのエッセイでつぶさに知ることができるわけですが)、とにかくそのように判断されます。そうした人間は他人の言動にも圭角を見いだしてしまいがちなものですから、乱歩から「『本陣殺人事件』を評す」の原稿を送られた正史が「ナイフを送り付けられたみたいで、ぎくりとした」というのも、実際のところは被害妄想のようなものではなかったのかと考えることは可能でしょう。

 しかし「『本陣殺人事件』を評す」という短い批評の紙背に、篠田秀幸さんの『悪夢街の殺人』で指摘されていた「大乱歩の悪意」をうかがうことだってやはり同様に可能であるはずです。もしもそうした悪意が存在していたのであるとすれば、『探偵小説四十年』出版のために雑誌の連載を読み返している最中、昭和21年の項から「本陣殺人事件」のことがすっぽり抜け落ちていることに気づいた乱歩は、執筆時に想起をさまたげた理由に思いをめぐらせ、「本陣殺人事件」に対して抱いたなまなましい感情を思いだし(その感情には悪意のみならず、というか悪意以前に敗北感のようなものが含まれていたのではなかったでしょうか)、そうした感情に無意識の作用が霧のようなベールをかけていたという可能性にフロイディズムの徒として思いあたったのかもしれません。そして追記を書きくわえることで連載時の不備を補いはしたものの、その不備がよってきたったところの心の動きにはいっさいふれることなく……

 いやいや、どうもいけません。妄想に傾きすぎてしまったきらいがあります。私はこのところ猜疑心がいよいよ強くなりまさり、乱歩が述べているすべてのことに意地の悪い視線を投げかけるくせがついてしまっているようです。むろんそれも『江戸川乱歩年譜集成』の編纂にあたって必要なことではあるのですけれど、あまり度がすぎると可愛げというものがなくなってしまいます(可愛くなくたっていいんですけれど、ていうか、むしろ可愛かったりしたら気色が悪いわけなのですが)。どうやら私の圭角も、もしかしたら相当なものなのかしら。

 いやはや。とりあえずお口直しをどうぞ。

  本日のフラグメント

 ▼1948年8月

 田舎者東京を歩かず 横溝正史

 「探偵作家クラブ会報」第十五号に掲載されました。昭和23年8月1日、横溝正史が疎開先の岡山県から東京に戻った日のことが記されています。

 正史は「正直の話、八月一日の朝、汽車が品川から東京へ近づくにつれて、私は腹の底がつめたくなるやうなかんじだつた。なんの因果で、こんなところへかへらねばならなかつたのかと、臍をかむ気持だつた」と記しています。

 なぜか。沿道の風景が「浅間しい」としか感じられなかったからです。のみならず、お茶の水駅の駅前にしばらく立って観察してみると、日本人の表情までもがあさましくなっているように見えたといいます。

 いづれにしても、これやァ助からん、とんだところへかえつて来たものだ、いまに自分もあんな顔つきになるのだらうかと思ふと、浅間しさがいよいよ心魂に徹した。

 だから、その夕方、成城の新しい家へ着いたとき、江戸川乱歩氏がちやんと先に来て待つてゐて下すつたときには、地獄で仏にあつたやうなかんじだつた。少くとも異邦人の心細さからまぬがれることができたからである。そのとき私は江戸川さんにいつた、ここ当分、自分は絶対に都心へ出ない、あんな浅間しい風景や表情を見るのはいやだからと。江戸川さんもそれを諒とされたやうである。

 正史と乱歩それぞれの真情が、つまり作家としてではなくて人間としての真情がよくうかがえて、これはじつにいいエッセイだと私は思っております。

 底本は日本推理作家協会監修『探偵作家クラブ会報(第1号〜第50号)』(柏書房)。


 ■ 6月6日(火)
連想のおもむくままに

 しつこいようですが、きょうも横溝正史です。この手のことは思いついたときにやっておくのが一番であると私の経験が私に告げておりますので、連想のおもむくままに本日はこういったあたりを。

  本日のフラグメント

 ▼1965年10月

 『二重面相』江戸川乱歩 横溝正史

 乱歩が逝去した年の「オール讀物」10月号に掲載されました。長きにわたる乱歩との交友を回想した一篇ですが、

 ──若いころの乱歩を知っている探偵作家のあいだでは、戦後の乱歩の変りかたは驚異だった。

 として昭和22年11月、乱歩がいわゆる探偵小説行脚の途次、岡山県に疎開していた正史を訪ねたときのエピソードが記されています。正史は戦後の乱歩が「おそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり」といったことを伝え聞いていて、乱歩の岡山訪問を知った水谷準や海野十三からは「警告」の手紙も届いていたといいます。

 そしてその日、正史の随筆には昭和22年11月中旬としか記されていませんが、『探偵小説四十年』によれば11月13日のことでした(ご参考までに記しておくと、乱歩の本陣評が「宝石」に発表されたのはこの年2月、正史が東京に戻るのは翌年8月)。

 最初、西田政治を伴ってトヨタ差廻しのトヨペットを、岡山県吉備郡岡田村字桜なる私の疎開先へ乗りつけてきたその瞬間の乱歩は、たしかに変ったかなというような印象を私に与えた。西田政治をまるで秘書かなんぞのごとく扱って、恬として憚らぬ高飛車な態度は昔の乱歩にはなかったものである。トヨペットの運転手に、向うから頼まれもせぬのになにか書いてあたえようという強引さも、かつての乱歩には見られなかった図であった。しかし、それもいっときのことであった。席が落ち着いて一時間も話しこんでいるうちに、強引のメッキは剥げ、高飛車の付焼刃もどこへやら、いつか昔の乱歩にかえっていた。

 だから、三晩うちへ泊って西田政治とともに乱歩が東へ去っていったあと、わたしは故海野十三と水谷準とに手紙を書いたのを憶えている。ご注意ありがとう。乱歩がやってきたときにはたしかにこれはと思った。しかし、三晩泊って岡田を離れていったときには、やっぱり昔の乱歩さんでありました……と。

 では、岡田の乱歩はなぜそうだったのか。この秘密はいまとなっては容易に解けそうである。戦後の乱歩を変ったと指摘した東京の探偵作家たち自身が、やっぱり戦前と多少なりとも変っていたのではあるまいか。戦争末期から戦後へかけて東京に住んでいて、大なり小なり人間が変らなかったといえば嘘であるように思える。そこへいくと岡田村字桜で食糧にもことかかず、いたってノンビリと小説を書いていた私は、人間が変る必要がなかったのである。

 底本は中島河太郎先生の責任編集による『江戸川乱歩ワンダーランド』(沖積舎)。

 『探偵小説四十年』にはこの日のことが、

 ──午後岡山着、本来なれば、ここから支線に乗り替えるのだが、時間が非常にかかるので、名古屋トヨタ本社の山本直一君の好意により、岡山トヨタ自動車の阿部専務に電報で連絡して貰い、六里の道をトヨタの新製車「トヨペット」にのせて貰う。但し乗用車が間に合わず小型トラック。西田君と肩をくっつけて運転台にのる。

 と記されていて、トヨペットといってもトラックだったことがわかり、乱歩が大きなからだをすくめるようにして運転台にすわっているところを想像するとなんだかほほえましい、乱歩が「向うから頼まれもせぬのになにか書いてあたえよう」としたと正史が記している運転手も、

 ──運転してくれた青年社員が探偵小説通で「宝石」と「ロック」の愛読者、車を走らせながら横溝正史を語り木々高太郎を論じ、はなはだ愉快であった。

 といいますから、乱歩がありあわせのプレゼントを贈りたくなったのも無理からぬ話ではなかったでしょうか。


 ■ 6月7日(水)
「大衆文学月報」の謎

 横溝正史の話ばかりではさすがに煮詰まってしまいますから、本日は趣向を変えてみることにいたしました。

  本日のアップデート

 ▼1927年9月

 江戸川乱歩集が有つ賑かな諸名士の好評

 平凡社の「大衆文学月報」第五号に掲載されました。発行は昭和2年9月。6月1日付伝言でご紹介した「大衆談話室」とおなじく、これもぶっちゃけ提灯記事です。

 現代大衆文学全集第三巻『江戸川乱歩集』の収録作品を「諸名士」が絶讃するという内容で、それまでに発表されていた批評から、おそらくは編集部の手で適当に抜粋して短くまとめられたのであろう短評がならんでいます。

 すなわち、「二銭銅貨」は小酒井不木、「屋根裏の散歩者」は平林初之輔、「心理試験」は加藤武雄、「二癈人」は横溝正史、「鏡地獄」は国枝史郎、「白昼夢」は牧逸馬、「踊る一寸法師」は甲賀三郎、「黒手組」は加藤武雄、といったあんばいなのですが、ここには無署名で記された長篇三作品の紹介を引いておきましょう。

闇に蠢く 『苦楽』に連載され同誌の読者が堪らなくなつて一時に歓声を挙げ、同誌の編輯局には投書の山が築かれたもので、江戸川氏がその終末頃伊豆は下田に気分旅行をして、続稿を放てきしたので『苦楽』の記者はまつさおになつて下田まで追つかけたが、つひに書かずにゐたものを、最近漸く書き卸された傑作である。

一寸法師 東京朝日、大阪朝日の両紙に於て満天下の読書子を文字の如くにウナラシた神品で、岩田準一氏の挿絵と相俟つて、独特の妙趣境地が展開されてゐる。

パノラマ島奇談 作者江戸川氏自身が、最も気に入つてゐられる作品といへばそれ以上を言ふ必要を認めない。

 「パノラマ島奇談」に関して乱歩は、

 ──例によって書き出しは大いに好評であったが、全体としてはさしたることもなく、編集部でも、終りの方は余り喜んでもいなかったように思われる。しかし、時がたつにつれて、段々ほめてくれる人も出来、萩原朔太郎氏のように最上級のほめ方をする人もあり、私自身も、連載もののうちでは最も破綻の少ない作と感じるようになった。

 と『探偵小説四十年』に記しているのですが、上掲の引用によれば「作者江戸川氏自身が、最も気に入つてゐられる作品」とのことで、これが編集部によってでっちあげられたものなのか、それとも乱歩の真意が反映されたものなのか、どうにもさっぱりわかりません。世の中というのはじつにわからないことだらけです。

 「大衆文学月報」第五号のことは野村恒彦さんからご教示をたまわりました。お礼を申しあげます。

 ところで、「大衆文学月報」には第五号がふたつ存在しています。そのことを私は、野村恒彦さんから「江戸川乱歩集が有つ賑かな諸名士の好評」が掲載された第五号のコピーをお送りいただいてはじめて知りました。私が知っていた第五号は乱歩の「探偵小説壇繁昌記」が掲載されたもので、ほかにも乱歩の署名入りの「岩田準一君の挿絵」「江戸川乱歩略歴」「探偵作家一本参る話」などが収められています。

 両者を照合してみましょう。かりにこちらをAとし──

大衆文学月報第五号
トップ記事:沢田君に代りて(松崎天民)
発行日(題字下):昭和二年九月十五日
発行日(ヘッダ):昭和二年九月十五日

 こちらをBとする。

大衆文学月報第五号
トップ記事:探偵小説壇繁昌記(江戸川乱歩)
発行日(題字下):昭和二年九月十五日
発行日(ヘッダ):昭和二年十月十五日

 野村恒彦さんにご意見をお訊きしたところ、発行日が二箇所とも9月15日になっているAが第五号、Bは実際には第六号ではないかとのお答えをいただきました。

 なるほど、Aに掲載された松崎天民の「沢田君に代りて」には「大衆文学全集の第五回配本として、『沢田撫松集』を見る」とありますから、そのことからもAは第五回配本の『沢田撫松集』に、そしてBは第六回配本の『江戸川乱歩集』に附された月報であろうという推測が成り立ちます。

 とはいえ、AとBにつづくべきC(たぶん『直木三十五集』の月報です)が第六号とされたのか第七号になったのか、そのへんのことはいまだに不明です。というかこの先もずーっと不明なのかもしれず、世の中というのはじつにわからないことだらけなのですが、当サイト「乱歩文献データブック」ではとりあえずこんなぐあいに処理しておきました。


 ■ 6月8日(木)
彼は如何にして戦闘的人間になりし乎

 本日は『江戸川乱歩年譜集成』がらみの話題です。

 『探偵小説四十年』に記された乱歩の昭和21年をじっくり丹念に眺めてゆくならば、そこには文字どおり「探偵小説復活の昂奮」に明け暮れした乱歩の姿があざやかです。その興奮は乱歩に何をもたらしたのか。

 たとえば6月3日付の伝言に引いた対談「横溝正史の秘密」では、それはこんなぐあいに語られていました。

小林 終戦直後は、とにかく推理作家が解放されたあまり、いろんなことやったでしょう。あれがかえってぼくは、エネルギー的にはすごいマイナスだったと思うんですけどね。先生は岡山にいらっしゃったから……。

横溝 そうそう。乱歩なんか、あれでずいぶん作家としては損してますよ。

 乱歩は小説執筆以外の「いろんなこと」を強いられ、というよりはみずから買って出て、「作家としては損」をする結果がもたらされたということでしょう。

 6月6日付伝言でフラグメントをひろった「『二重面相』江戸川乱歩」では、正史はこんなことも回想していました。6日に引いた「いたってノンビリと小説を書いていた私は、人間が変る必要がなかったのである」につづく箇所です。

 それともうひとつ、戦争中から乱歩はこんどこの国で探偵小説が復活する場合、いちおうはイギリス流の論理的本格探偵小説の道を通らなければならぬという意見を持っていたようである。それが証拠に戦前の乱歩の最後の傑作「柘榴」は、多分にそういう傾向をおびていた。だから戦争というものがこの国で探偵小説を圧殺しなかったら、乱歩は「柘榴」より更に前進して、イギリス流の論理的な本格探偵小説を書いていたかもしれぬ。いや、書いていたにちがいないのである。

 ところが、たまたま戦争が終って雑誌というものが復活しても、都会に住む作家群が食糧事情その他の関係で、創作意欲などとんでもないというその時期に、岡田村字桜という恵まれた環境に住んでいた私がいちはやく書いたものの傾向が、たとえ幼稚ではあったとしても、戦争中から戦後へかけて、乱歩が意図していたものにちかかったらしい。だから岡田村字桜における私は、乱歩にとってはわが党の士だったのである。戦闘的である必要がなかったのも当然であろう。

 この随筆は乱歩の死のすぐあとに書かれたもので、全篇に乱歩追慕の念が底流してはいるのですが、それでもこのあたりのくだりには、「本陣殺人事件」一作によって乱歩を凌駕し去ったという昭和22年11月における正史の自覚、自負、勝利宣言、高らかな凱歌を推測させるに足るものがあるでしょう。乱歩が戦前から志向し「柘榴」の先に夢みていた「論理的本格探偵小説」、それをいちはやく実現したのはほかならぬ自分なのである、という誇らかな謙譲。作家として樋口一葉の「奇蹟の十四か月」にも比すべき期間に身をおいていた昭和22年11月の正史には、そうした思いがたしかにあったと思われます。

 なにしろ乱歩に対する正史の敵愾心というのは相当なものであって、それを物語る疎開時代のエピソードは角川文庫の『姿なき怪人』と『風船魔人・黄金魔人』の巻末に収録されている正史ご遺族の座談で知ることができると記憶しているのですが、よく考えてみると私はこの文庫本を所有しておりませんから話になりません。まいったな実際。

 それはそれとして、ならばいっぽうの乱歩はどんな思いであったのかというと、いやー、なんか横溝君に先を越されちゃってさー、みたいな太平楽なものではけっしてなかったことでしょう。いまや探偵文壇における実作の第一人者は横溝正史なのであるという厳然たる事実を直視した乱歩は、正史をして「ナイフを送り付けられたみたいで、ぎくりとしたね……」といわしめた「本陣殺人事件」評のことは措くとしても、自身が探偵文壇の頂点に君臨しつづけるための方途を見いださねばならぬという焦りを感じていたのではなかったでしょうか。

 なんとも意地の悪い見方ではあるでしょう。当時の乱歩が手を染めていた「いろんなこと」、すなわち海外作品の紹介、探偵雑誌の企画、探偵作家の糾合といったことどもは、もとより「探偵小説復活」にかける無私で純粋な情熱のあらわれであったことはいうまでもありませんが、それでもやはり斯界の第一人者でありつづけるための活動という一面もあったのではないか。私にはそのように見受けられます。つまり乱歩にとって本陣一作こそが自身の喉もとに突きつけられた鋭いナイフなのであり、その切っ先を回避するためにも小説執筆以外の「いろんなこと」にいよいよ情熱を傾けなければならなかったのではないか。

 ともあれここでは、「探偵小説復活の昂奮」とそれにともなう情熱とが、「おそろしく戦闘的になり強引になり、権柄ずくになり」と正史の随筆に記されていた「戦後の乱歩」を生みだしたのであると、とりあえずそんなふうに見ておきたいと思います。

  本日のフラグメント

 ▼1947年1月

 新文学樹立のために 井上友一郎、伊藤整、江戸川乱歩、大林清、木々高太郎、坂口安吾、平野謙、福田恆存、山岡荘八、松本太郎(司会)

 春陽堂発行の「新小説」昭和22年1月号に掲載された座談会です。座談会が開かれたのは前年の11月で、『探偵小説四十年』に引用された「昭和二十年末より二十一年秋までの日記」は昭和21年11月6日で終わっており、そこにはこの座談会のことが記録されていませんから、おそらくそれ以降に催されたものでしょう。

 ただし『探偵小説四十年』にこの座談会が登場するのは昭和21年でも22年でもなく、坂口安吾が探偵作家クラブ賞を受賞した昭和24年の項、「坂口安吾」との小見出しが立てられたパートに言及が見られます。つまりこの座談会は乱歩が安吾にはじめて会い、探偵小説の執筆を勧めたところ間髪を入れず、

 ──坂口 僕は本格小説を一つ書く予定です。読者と競争しようと思つてゐる。犯人をあてつこさせて、誰にも判らない小説を、昔から一度書きたいと思つてゐる。

 と安吾が答えたことで乱歩ファンにも記憶されているあの座談会です。

 ここでまた意地の悪いことを試みておきますと、上に引きました安吾の発言、『探偵小説四十年』には次のとおり引用されております。

 ──坂口 ぼくは本格探偵小説を書く予定です。読者と競争しようと思っている。犯人を当てっこさせても、誰にもわからない小説を昔から一度書きたいと思っている。

 乱歩の随筆評論における引用がかくのごとく独自のアレンジをともなうものであったということは(それはむろんより意を通じやすくしたり読みやすくしたり、おおむねそういった配慮にもとづくものなのですが)、乱歩ファンはあるいは心しておくべきか。

 さて乱歩はこの座談会の記事を読み返し、「こういう場合にいつも無口になる私が、ひどく饒舌に喋っている」と記しているのですけれど、たしかに乱歩は饒舌です。

 めぼしい発言をひろってみると、まず冒頭、平野謙から水を向けられて大衆文学の歴史をふりかえり、それから探偵小説の話題に移って──

江戸川 大正末期に大衆文学といふ名前が出来た。これは白井喬二が言ひ出したのですが、その時大衆作家が二十一日会といふのをつくつた。僕にも入れといふことでしたが、私は探偵小説といふものはちよつと別で、必ずしも大衆小説には限らぬと思つてをつた、その時分はさういふ風に考へてゐたのでこの会に入ることを躊躇したくらゐです。で結局入る時に断り書みたいな随筆を書いて入つた。探偵小説の中には、高いものも、低いものもあるわけで、別に純文学に対する大衆文学といふものではないと思つてゐます。本質的にはさう考へてゐるわけです。

 いまさらこんな話をしなければならんのか、と乱歩は内心うんざりしていたのかもしれませんが、とにかく律儀に説いています。発言中の「断り書みたいな随筆」というのはたぶん「探偵小説は大衆文芸か」のことでしょう。

 いわゆる大衆文学の作者としての矜恃を示したと見える箇所もあります。

江戸川 作者自身のアミユーズメントが丁度大衆にアピールした場合によい大衆小説が出来るのだと思ふ、だからいくら大衆ものでも相手の思惑ばかり気にして書いたのでは、結局駄目です。作者自身として最善を尽したものが百万人にアピールする場合もあり、十人しか分る人がない場合もある。どちらも意味があると思ふ。

 そして最後のほう、全十三ページにわたる座談会の十一ページ目になってとうとうこんな発言が。

江戸川 結局文学なんかは、個性の問題で、作者個人のもので、かういふ会合で純文学と大衆小説を一緒にしようとしてみたつて、それは駄目ですよ。昔は王様や恋人一人の為に小説を書いた作家もある。友人に見せる為に小説を書いた人もある。一人を相手にする場合もあれば、百人を相手にする場合もあり、百万人を相手に書く場合もある。それは作者の勝手でいゝのだと思ふ。純文学と大衆文学の区別をやめようといふことも、いはゞ便宜上の事であつて、本質的には作家各個の問題となる。

 なんかもう座談会の趣旨とか意義とかいうものを、乱歩はひとりで根底から覆してしまっております。「かういふ会合で純文学と大衆小説を一緒にしようとしてみたつて、それは駄目ですよ」などというのはまことに痛快。ほかの箇所では坂口安吾が、

 ──坂口 作家が大衆を説教しようとか、啓蒙しようといふのは、とんでもない根性だよ。

 なんてこといっててこれもなかなか痛快なのですが、乱歩も出席者が「大衆」を扱うに際しての書生っぽさのようなものに辟易して、最後にとうとうこんな座談会なんて意味ねーし、みたいなことを正直に口走ってしまったということなのかもしれません。

 ともあれこの発言、戦後の乱歩が「戦闘的」になったとする伝説の傍証のひとつに数えておきましょうか。


 ■ 6月9日(金)
フラグメント収集者の煩悶

 それにしても私は、乱歩と正史の確執や乱歩におけるタクティシャンとしての側面を強調しすぎてしまったのかもしれません。むろん私がいかに猜疑邪推の限りをつくしてみたところで、両者の関係にしょせん余人には窺いえないものがあることは論をまたないわけですけれど、『江戸川乱歩年譜集成』のためのフラグメントを収集する作業において、収集者が勘ぐりに走ってばかりいてはフラグメントそのものにバイアスがかかってしまうことにもなりかねません。みたいな煩悶も抱きつつ、正史関連のフラグメントはひとまず本日で一段落ということにいたします。

  本日のフラグメント

 ▼1972年6月

 私の推理小説雑感 横溝正史

 講談社の現代推理小説大系第四巻『横溝正史』に収録されました。

 横溝正史のファンであればよりふさわしいエッセイを選択できるところなのでしょうが、とりあえず思いつきましたところから、正史における本格探偵小説志向がどのように熟成され、それに乱歩がどうかかわっていたのかが記された一篇をどうぞ。

 正史は昭和7年夏に博文館を退社、9年7月から信州上諏訪で療養生活を送ったのですが、編集長を務めていた博文館の「探偵小説」が廃刊と決まったとき、それならばと読者受けは考えず自分の好みに徹して海外作品をつぎつぎ掲載していったところ、乱歩から「あんな面白いものがあるなら、なぜもっとはやく紹介しなかったのだ」と叱られたといいます。

 ここで乱歩さんがあのひと一流のネチッコさを発揮しはじめた。さいわい乱歩さんには名古屋に井上良夫君という、海外探偵小説通の友人があり、その友人と文通することによって、乱歩さん自身も啓蒙されると同時に、森下先生とあいむすんで、それらの名作を単行本として出版紹介の労をとられた。そして、その企画に刺戟されて、現代ほどではないにしても、いままで知られなかった英米の本格探偵小説が、他の出版社からもぞくぞくと翻訳出版されはじめ、しだいにかの地の探偵文壇の全貌が、明白になってきたのである。

 その時分私は胸に病いをえて、信州上諏訪で療養中であったが、いまやろくすっぽ読めもしない原書を、字引きと首っ引きで読む必要はなくなった。いまやいながらにして平易な翻訳で、クリスチーやクロフツ、ヴァン・ダインやエラリー・クイーンなどの名作を、つぎからつぎへと手当たりしだいは大袈裟としても、読むことができるようになったのである。乱歩さんはときどきこれはと思う名作を手にいれると、わざわざ原書を送ってくれたりした。いまにして思えばカーだけが、これらの名作発掘者の視点からはずれ、これという翻訳がなかったのがふしぎである。

 いずれにしても私はそのころ、英米探偵文壇ではいまや、百花繚乱として謎と論理の本格探偵小説が咲き匂っていることを知り、大いに刺戟されざるをえなかった。

 だから、これは皮肉な意味ではなしに、私に高木彬光君ほどの才能があれば、そのころすでに本格探偵小説なるものを、書いていなければならなかったはずである。高木君とちがって当時私は三十歳をこえていたのだから。

 しかし、こういうと自己弁護めいてきこえるだろうが、乱歩さんの「二銭銅貨」が現れるまで、日本人には探偵小説の創作はむりであろうと、世間できめてかかっていたように、私にもしこういうスタイルの長篇を書く才能があるとしても(もちろん、そんな自信は毛頭なかったが)日本のジャーナリズムにはとてもうけいれられないだろうと、私はかってにきめていた。

 しかし、私もいちど試みてみたことは試みてみたのである。それが「真珠郎」である。あれはエラリー・クイーンの「エジプト十字架の秘密」からヒントをえて書いてみたのだが、謎と論理の本格探偵小説としては、はなはだお粗末なもので、私の幼時からもっているおどろおどろしき怪奇趣味だけが、いやに浮きあがった作品になってしまった。

 だから、けっきょく、それらしき作品が書けるまでには、戦後まで待つよりほかにしかたがなかったのである。

 いやしかし、しかしこれではむしろ『横溝正史年譜集成』のためのフラグメントではあるまいか。


 ■ 6月10日(土)
宇野浩二と『幻の女』の補足説明二件

 本日は過去にさかのぼって補足説明を二件ほど。

 まず5月16日付伝言。私は次のとおり記しました。

 宇野浩二の作品でもっともよく知られたのは、おそらく「蔵の中」と「子を貸し屋」の二作でしょう。私も高校生のころ、私の家には亡父が購入した新潮社版の日本文学全集、あの赤い函に入った小振りなサイズの全集がありましたから、宇野浩二の巻をひっぱりだして「子を貸し屋」を読んでみたことがあるような気がします。

 集英社版日本文学全集の『宇野浩二集』から、「子を貸し屋」の冒頭一段落を引いてみましょう。

 団子屋の佐蔵が、これまでにどういう経歴を持っていたかは、この物語にそうたいした関係がないが、今でも彼の言葉に多分の上方なまりがあるように、生国は大和で、どちらかというと、彼は若く見える方だが、五十歳をもう半分以上こしていた。その年になるまでに経験してきた商売の数は、彼自身にさえなかなか思いだすのに骨が折れるぐらいであった。が、今の商売の一つ前の商売は、二階の押し入れの隅にある、極大の古ぼけた柳行李の中にいっぱいつめられてあるもので知ることができた。それはラシャの小ぎれをミシンで細工した安物の子供靴であった。──彼が、毎日毎日大きな風呂敷をもって、市内のラシャ屋をまわっては切れ屑を買い集めてくるのである。すると、彼の相棒であるミシン職人の太十が、家にいて、それを無数の靴にぬいあげるのである。佐蔵は、ほかにそれらの切れ屑をすぐにミシンにかけられるように裁つことと、できあがった品物をそれぞれの向きに売りに行くことを受け持っていた。儲けはきわめて少なかったが、それでも二人の者がその日その日の暮らしをして、さて月づきの終りにはほんの少しずつであるが、(それはしかし大の男二人のものとしては、何というわずかな金高だったろう)郵便局に貯金をすることができた。

 なんと古めかしく、かつまた貧乏くさい書き出しであることか。それに何なんだ、このたらたらだらだらとした文体は。高校時代の私はたぶんそんなふうに感じて、宇野浩二という作家への興味を失ってしまったものと思い返されます。なにしろ当時の私にとって、あらまほしき小説の書き出しというのはたとえば、

 ──きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。

 まずはこんなところであったでしょう。高校生であった私には、こんなぐあいに始まる小説こそが超かっけーものでした。あるいは、

 ──六の宮の姫君の父は、古い宮腹の生れだった。が、時勢にも遅れ勝ちな、昔気質の人だったから、官も兵部大輔より昇らなかった。姫君はそう云う父母と一しょに、六の宮のほとりにある、木高い屋形に住まっていた。六の宮の姫君と云うのは、その土地の名前に拠ったのだった。

 みたいなものでもいいのであるが、しかし「子を貸し屋」はいけない。冒頭でいきなり「この物語にそうたいした関係がない」ことを語ってどうする。この宇野という男はいったい何を考えておるのか。私は舌打ちのひとつもしたくなるような思いで、その鶴田浩二と同じ名をもつ宇野浩二という過去の作家におさらばを告げたに相違ありません。ちなみに記しておけば、当時の私は東映やくざ映画で主役を張っていた鶴田浩二という俳優をおおいに贔屓にしておりました。

 これはどうやら勘ちがいというか記憶ちがいというか、適当なこと書いてたらみごとにはずれていたというか、私が高校生のころに読んだ宇野浩二作品は「子を貸し屋」ではなかったみたいです。

 といいますのも、中央公論社の『宇野浩二全集 第十二巻』に収録された「主要著書目録」によれば、私の家にあった新潮社版日本文学全集には宇野浩二単独の巻はなく、第二十一巻が『里見・宇野浩二集』。昭和39年7月20日の発行で、収録の宇野作品は「蔵の中」「枯木のある風景」「終の栖」「思ひ川」の四篇。つまり私が「読んでみたことがあるような気がします」と記した「子を貸し屋」は入っていなかったことになります。

 またずいぶん適当なことを書き散らかしてしまったものですが、それならば(それならばというのもおかしな話ですが)私はたぶん「蔵の中」を読んだのでしょう。ですから上掲の宇野浩二作品の引用を次のとおり「蔵の中」の冒頭に差し替えたいと思います。

 そして私は質屋に行かうと思ひ立ちました。私が質屋に行かうといふのは、質物を出しに行かうといふのではありません。私には少しもそんな余裕の金はないのです。といつて、質物を入れに行くのでもありません。私は今質に入れる一枚の著物も一つの品物も持たないのです。そればかりか、現に今私が身につけてゐる著物まで質物になつてゐるのです。それはどういふ訳かといふと、私はこの著物で既に質屋から幾らかの金を借りてゐるのです。したがつて、私は、外の私の質屋にはひつてゐるもののために、六ケ月に一度づつの利息を払つてゐるほかに、現在身につけてゐるこの著物のためにさへ、これは一月に一度づつ、自分の著物でありながら、損料賃として質屋の定めの利息の三倍を持つて行かなければならぬ身の上なのです。

 以下は上掲の引用のとおり、といいたいところなのですが、高校生であった私は小説の冒頭が「そして」という接続詞ではじめられていることをあるいは面白く思ったのかもしれません。そんなような不確かな記憶がよみがえってきたみたいな気もします。じつは私にはいまでも人の意表に出るこうした小説作法を興がるところがあるようで、最近の作品では、

 ──しかし幸いなことに長く続いた夏の陽射しもようやく翳りを見せてうにやひとでややどかりや小魚たちがめいめいひっそり生きている静かな潮溜まりも薄明薄暗の中に沈みこんでゆくようだった。

 という松浦寿輝さんの「半島」の書き出しにおける「しかし」に少なからぬ興趣を感じたものでしたから、「蔵の中」の「そして」にもあッ、と驚いたり感心したりしていたのではないかと推測される次第です。自分でいうのもあれですけど、結構スタイルというものに敏感な高校生ではありましたから。

 とはいえスタイルに敏感な高校生であるがゆえに、やはり「なんと古めかしく、かつまた貧乏くさい書き出しであることか。それに何なんだ、このたらたらだらだらとした文体は」みたいなことは感じざるをえなかったのではないか。なにしろ当時の私にとって、あらまほしき小説の書き出しというのはたとえば、

 ──コモン君がデンドロカカリヤになった話。

 まずはこんなところであったのであり、高校生であった私にはこんなぐあいに始まる小説こそが超かっけーものでした。あるいは、

 ──冬の太陽は僅かに乏しい光となって、層雲に蔽われたまま、白々と力なく、狭い町の上にかかっていた。破風屋根の多い小路小路はじめじめして風がひどく、時折、氷とも雪ともつかぬ、柔かい霰のようなものが降って来た。

 みたいなものでもいいのであるが、しかし「蔵の中」はいけないと、私はやはりそのように感じて宇野浩二という過去の作家におさらばを告げたに相違ありません。ということにしておきたいと思います。

 補足説明二件目。

 5月29日付伝言から三日間にわたって記しました乱歩と春山行夫の『幻の女』をめぐるあれこれのことですが、乱歩がはじめてこのエピソードを筆にしたのは、「幻の女」が掲載された「宝石」昭和25年5月号に寄せた「『幻の女』について」(「江戸川乱歩執筆年譜」のこのあたり)であろうと思われると、最近なんだかこの伝言板にお名前が頻出している観のある野村恒彦さんからご教示いただきました。野村さんに深甚なる謝意を表しつつ、読者諸兄姉にお知らせ申しあげておく次第です。

 「宝石」の現物はいまだ確認しておらず、というかいずれ『江戸川乱歩年譜集成』のために「宝石」の本誌別冊こき混ぜて全冊ひっくり返してみなければならぬのではあるけれど、それがいったいいつのことになるのかとんと見当もつきません。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 海底の魔術師 江戸川乱歩

 ポプラ社の「文庫版 少年探偵・江戸川乱歩」シリーズです。巻末解説から引きましょう。

解説 沈没船の金塊を探せ! 山前譲
 江戸川乱歩が少年探偵団のシリーズを書きだしたのは昭和十一(一九三六)年、いまからもう六十年以上も前のことです。途中、間のあいたこともありましたが、シリーズは長年にわたって書きつづけられ、最後の作品が書かれたのは昭和三十七年でした。この『海底の魔術師』が月刊誌「少年」に一年間にわたって連載されたのは昭和三十年です。それからもう四十年以上たっていますから、小説の世界は不変でも、わたしたちの生活はずいぶん変わってしまいました。たとえば、『海底の魔術師』での沈没船調査は、いまならもっと違った方法があるでしょう。

 ですが、小林少年を団長とする少年探偵団が忘れさられることはありませんでした。長いあいだ、たくさんの読者を楽しませてきたのです。もちろんそれは、颯爽とした少年探偵団の活躍のせいですが、同時に、推理小説という小説のジャンルがもつ魅力があってのことでしょう。それは簡単にまとめれば、謎めいたことや未知なるものへの興味です。好奇心といってもいいでしょう。

 「海底の魔術師」が執筆された昭和30年は、名張市に江戸川乱歩生誕地碑が建立された年でもあります。半世紀の日月を閲して、生誕地碑の建つ桝田医院第二病棟はいったいどうなることじゃやら。尋常ならざる好奇心をおぼえる次第です。