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2007年3月下旬
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またしてもどえりゃーサボってしまいました。サボるのが癖になってしまいました。こんなことではそこらの女工もつとまりません。なんてこといってると女性差別だ職業差別だと騒ぎだすばかも出てくるのか。騒いでくれ騒いでくれ。好きなだけ騒いでくれ。こちとら女工もつとまらぬぐうたらである。 なーんかやけになってますけど資料整理の作業がどうも横滑り気味です。まっすぐではなく横滑りしながらごくわずかずつ前進している感じです。どうしてこんなことになるのかというと、いろいろあれこれ気にかかっていることがあるからだと思われます。 たとえば、私は直木三十五のことが気にかかっていました。 一昨年のことになりますが、直木の甥にあたる植村鞆音さんの『直木三十五伝』が文藝春秋から刊行されました。直木三十五の破天荒な人となりをよく伝えてくれる興味深い評伝ですが、なかに乱歩のことが出てきます。直木は昭和3年、「週刊朝日」に「囲碁・将棋を嗜む文士たちに直接直木が挑戦して歩き、その棋力を値踏みするという企画」であるところの「文壇棋術行脚」を連載したのですが、直木から電話で挑戦状をつきつけられた乱歩は、 「いや、とても、いや、その君、困るよ、人前では指せない将棋で」 とわけのわかんないいいわけをして対戦を固辞したといいます。 私はこの連載のことが気にかかっていました。ここはひとつ昭和3年の「週刊朝日」を調べてみなければならんわけであって、ああ気にかかる気にかかる、とか思いながらそれっきりになっていた昨年のある日、ある方から思いがけず直木三十五全集のコピーを大量に頂戴しました。直木没後に改造社から刊行された全集の復刻版が示人社なる出版社から出ていたという事実すら私は知らなかったのですが、その復刻版全集に収録された随筆や著作目録などのコピーです。「文壇棋術行脚」もありました。昭和10年12月18日発行の『直木三十五全集第二十一巻』を復刻した1991年7月6日発行の示人社版全集から引きます。
あとまだこの調子でえらく威勢よく、場所が高田馬場だけに堀部安兵衛みたいな勢いで直木三十五は突っ走ってゆきます。なんだかやたらせわしなげで傍若無人な人なのですが、とにかくこの人のことが私は気にかかっていました。 ところで、乱歩ファンなら先刻ご承知のとおり、『探偵小説四十年』は「探偵小説三十年」ならびに「探偵小説三十五年」と題して連載された文章を一巻に編んだ自伝なのですが、雑誌に発表されはしたものの刊行時に省略されてしまったパートというのが存在しています。光文社文庫版全集ではこの省略部分も起こされているのですが、そのひとつが昭和6年の「この年の新聞切抜二三」で、ここに直木三十五の名前が出てきます。乱歩はこのパートで『貼雑年譜』にスクラップされた読売新聞の記事について記し、そのあとやはり読売に直木が書いた「ゴシップ風の」というタイトルのスクラップにも言及しているのですが、1989年に出た講談社版の『貼雑年譜』ではこれらの記事をスクラップしたページが省かれていました。 ですから結果として、『乱歩文献データブック』にこれらの記事は記載されませんでした。私は光文社版全集『探偵小説四十年(上)』で新たに起こされたこのパートを読んで以来、自分の見落としのことがずっと気にかかっていました。2001年に出版された東京創元社版『貼雑年譜』では講談社版で省略されていたページもすべて再現されていますから、この完全版『貼雑年譜』にもとづいて当サイト「乱歩文献データブック」を増補しなければならんなと、そのことがずっと気にかかりながらもずるずると先送りして現在ただいまにいたっていたわけです。 さて、そんな気にかかっていたあれこれに、書庫への便器設置にともなう資料整理の波が押し寄せてきました。それで手許のコピーをほぼ、といっても新聞記事のたぐいはまだなのですが、とにかくほぼ整理して、ようやく直木三十五全集のデータを「乱歩文献データブック」に記載しようかというところまで来たのだとお思いください。待てよ、と私は考えました。それよりもまず東京創元社版『貼雑年譜』から昭和6年の直木三十五関連のスクラップをひろうのが先だろうと思い直しました。そしてまた、待てよ、と思案しました。それならいっそ講談社版『貼雑年譜』で省略されていたスクラップを東京創元社版にもとづいて頭から増補していったほうがいいだろう。どうせいつかは片づけなければならない作業なのだ。 そんなふうに結論した私はできるだけ傷まないようにそーっそーっとページを開いてゆく貧乏性、東京創元社版『貼雑年譜』の第一分冊を机のうえにそーっと開いて、それでも動かすとペシッとかピシッとか音がしますからそのたびに肝が冷えるような思いを味わう貧乏性、とにかく作業を開始してみました。つい先日の話です。スクラップされた予告や広告のたぐいもいちいちひろってゆくわけですから、なんとも面倒な作業になります。 『貼雑年譜』のスクラップにはそれぞれの切り抜きがいつどこに掲載されたのか、乱歩のメモが筆で書き添えられているのですが、それをそのまま鵜呑みにすることはできません。確認しようのないものも少なくないのですが、せめて「新青年」のスクラップくらいは乱歩の記録が正確かどうかを確認しておきたいものだと私は考えました。三重県立図書館には本の友社から出た「新青年」の復刻版が架蔵されていますから、確認は不可能なことではありません。 そしてその「新青年」の復刻版もまた、私にとって長く気にかかっていたあれこれのひとつでした。 私が三重県立図書館に通って「新青年」の復刻版をチェックしたのは『乱歩文献データブック』を編纂していた1996年のことでした。ただし当時はまだ完結しておらず、大正12年から15年にかけての復刻版は出版されていませんでした。しばらくして完結したらしいと聞き及びましたので、いつか県立図書館に足を運んで未見の復刻版をしっかりチェックしたほうがいいだろうなとは思いつつ、機会がなくて先送りになっていたことが私にはやはりずっとずーっと気にかかっていたわけです。 そしてこうなると、「新青年」復刻版のチェックが済まないことにはすべての作業が一歩も前に進まないような気がしてきます。そこで私は二日前でしたか三日前でしたか、昼過ぎに名張を出て約一時間、津市にある県立図書館に赴いて「新青年」復刻版のチェックに時間を費やしました。とても不思議な感じがしました。1996年というのですからもう十一年も前、自分はこの図書館でまったく同じ作業、つまり「新青年」復刻版の昭和2年とか3年とかを地下書庫から出してきてもらって一冊ずつ眼を通し、必要なページに附箋を貼ってコピーを取るという作業をくり返していたのだなと思い返すと、 ──十年以上もたったというのに、おれって全然出世してないじゃん。 という悲痛な思いが胸中にあふれてきて、いやうそうそ、そんなことはまったくなくて私は出世になんか興味がないのですけれど、十年以上前とまるっきりおんなじことやってる堂々めぐりのつらさが身にしみます。こういうことに時間を取られてるから作業が横滑りしてなかなか前に進まないのである。名張市立図書館にもう少し乱歩のための態勢が整えばいいのだが、しょせんは無理な話である。おおそうじゃ。そういえばあのたこはどうしておるのか。 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 というフレーズでいまやすっかりおなじみの教育次長はどうしていらっしゃるのでござろうか。あいかわらず音沙汰のないまま、こちらも忙しさにかまけてメール一本お出ししなかったのでござるが、お達者でござろうか。週明けにでもまた一発、ちょっときついのをかましてさしあげるとするでござるか。ニンニン。 とか思いながら「新青年」の復刻版、乱歩がデビューした大正12年から順に見ていったのですが、驚くべきことに大正15年の分がありません。図書館スタッフに問い合わせると、1998年に刊行されているのだがなぜか所蔵していないとのことでしたので、どこかよその図書館から借りてもらうことにして帰ってきました。帰着時刻は午後7時40分。
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ぱんぱかぱーん、でござる。 ところで拙者どうしてござるござるを連発しておるでござるかというと、もう一か月以上も前、2ちゃんねるのニュース速報+板に「【社会】“忍者”の威信かけ来月勝負─伊賀と甲賀の市長が手裏剣対決[02/17]」というスレッドがあるのを発見したからでござる。その影響なのでござる。それにしてもあれはまことに心温まるニュースでござった。こういうニュースが増えるといまやすっかりすさみきってしまった日本人の心にも少しはなごやかさが戻ってくるのではないかと推測されるでござるが、その手裏剣対決が3月24日に伊賀市で行われたでござる。ぱんぱかぱーん。 朝日新聞オフィシャルサイトでは地域のニュースではなく「暮らし」というカテゴリで大きく報じられたでござる。 引用しておくでござる。
ところで拙者、2月18日付伝言にこんなことを書いたでござる。
手裏剣対決のあとはなんと忍者議会が復活なのでござる。ぱんばかばーん。 引用しておくでござる。
おおいにやればよろしいでござる。忍者議会などというたわけた受け狙いで議会の本質を見失ってまで、さらにまた人の嘲笑冷笑失笑憫笑を一身に買ってまで観光 PR に力を入れたいという心意気、とても名張市のおよぶところではござらぬ。拙者おなじ伊賀地域の住民としてむしろ多といたしたいほどでござる。やりなされやりなされ。きょうびはやりの言葉でいうならば品格などは度外視して、徹底的にわが道を行くがよろしかろう。あっぱれあっぱれでござる。ぱんぱかぱーん。 いやいや、伊賀市はさておき名張市でござる。ぱんぱかぱーん、でござる。 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 の件でござる。もう何本目なのかわからなくなったでござるが、けさもまた矢を放ってさしあげたでござる。
ちなみに添付したスキャン画像はこんな感じでござる。 ぱんぱかぱんをおひとつ、名張市教育委員会の教育次長にお送り申しあげたでござる。あしたはたぶんおふたつめでござろう。
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さあきょうもばんばんぱんぱかぱーんをかましてやるか。 しかし二日もつづけてはかえって逆効果か。相手が消化不良を起こしてしまうことも考えられる。本日のところはインターバルということにしておいてやるかな。 ここで整理しておくと、私は名張市教育委員会の教育次長に、 ──名張市教育委員会は市立図書館の運営における江戸川乱歩の扱いについて、構想や方向性のようなものをおもちなのでしょうか。おもちなのであれば、それを示していただきたく思います。また、これからお考えになるというのであればその時期はいつごろなのか、構想や方向性は存在しないというのであればその旨をお知らせいただきたく思います。 とメールで尋ねた。名張市教育委員会が乱歩のことを本気で考えたことなんかただの一度もない。そんなことは百も承知なのだが、念のために訊いてみた。そのうえで次の手に移ろうと考えていたのだが、いっこうに返事が返ってこない。それなら答えのわかっている質問なんか撤回して、 ──名張市立図書館の乱歩コーナーを閉鎖し、名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館にするためには、どういった手続きを踏めばよいのでしょうか。誰が協議し、どこが決定すれば、名張市立図書館は乱歩から手を引くことができるのでしょうか。 という新しい質問をきのうのメールでぶつけてみた。きのうのきょうだから返事はまだ届かないが、もしかしたらいつまで待っても梨のつぶてかもしれない。そのときには教育委員会に足を運ぶか、教育次長よりさらにうえのポジションに質問を送るか、まあいろいろと手はあるだろう。世にぱんぱかぱんの種は尽きまじ。 名張市立図書館は乱歩から手を引くべきである。それがベターの選択だ。ならぱベストは何か。いうまでもない。開館準備の段階から収集してきた乱歩の関連資料にもとづいて、インターネットも活用しながら質の高いサービスを提供してゆくことである。むろん私だってそれを望んでいる。私の示した方向性に沿って名張市立図書館が進んでいってくれるのであれば、私としてはとても嬉しい。ありがたい。私の個人的な感情を抜きにして考えても、名張市立図書館はそれをつづけてゆくべきなのである。 私は難しいことを要求しているわけではない。図書館としてごくあたりまえのことをつづけるべきだと主張しているだけだ。この名張市とかいう自治体では、乱歩を自己宣伝の素材として利用することしか考えられないあさはかな連中ばかりが幅を利かせている。ところがその自己宣伝は何から何まで滑りっぱなしと来ている。実を結んだものなどただのひとつもない。それはそうだろう。ろくに乱歩作品を読んだこともないような連中がやれ二十面相だからくりだと、愚劣な試みをいくらくり返したところで何の意味もない。 名張市立図書館がそんなばかげた自己宣伝のお先棒をかつぐ必要はまったくない。地に足をつけて、みずからの身の程や身の丈というものをよくわきまえて、うまずたゆまず地道な作業を着実に積み重ねてゆけばそれでいい。目立ちたいとか誉められたいとか名をあげたいとか手柄を立てたいとか、そんな欲念はいっさい無用だ。ただ誠実であればそれでいい。そしてその地道な作業がどんなものであるのか、私はすでに身をもって示している。名張市立図書館はそれをつづけるべきである。図書館としてあたりまえのことをつづけるべきである。 しかしできない。しようとしない。するもしないも、ひたすら乱歩から顔を背けつづけているばかりだ。ならば乱歩からさっさと手を引けばいい。いつまでも半ちくなことやってうじうじしていないで、名張市立図書館にとって最大のお荷物である乱歩という作家からきっぱりと手を引いてしまえばいいのである。だから私は、 ──名張市立図書館の乱歩コーナーを閉鎖し、名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館にするためには、どういった手続きを踏めばよいのでしょうか。誰が協議し、どこが決定すれば、名張市立図書館は乱歩から手を引くことができるのでしょうか。 との質問を教育次長に送った。回答があれば得たり賢しとばかり名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館とするためにかけずり回ることにしたい。かけずり回るといったって、ここ十年ほど乱歩のことでかけずり回ってきた労力その他にくらべれば、そんなもの屁でもねーやばーか。だからこら、 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 とかいわれてもうんともすんとも答えないやつ。どうせ逃げられやしないんですからさっさとお返事してくらはい。
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連日のごとくぱんぱかぱんぱんぱかぱんと騒ぎ立てるのもばかみたいっちゃばかみたいですから、まあ騒ぎ立ててなくたって私の場合いつもばかみたいっちゃばかみたいなんですけど、きょうは寸暇を惜しんで横溝正史の話題に流れます。 次はいつこの話題に立ち戻れるかわかりません。乱歩と正史の関係について結論を記しておくことにいたします。結論というかなんというか、とにかくこのふたりの関係をひとことで表現してしまうならば、月並みながら賢兄愚弟ということでいいのではないでしょうか。 賢兄愚弟。賢はクレバー、愚はナイーブ。クレバーな兄はつねに周到であり、ナイーブな弟はひたすら野放図なのであった。 はじめて会ったときの正史の印象は、「探偵小説四十年」の大正14年度にこんなふうに記されています。
話を正史の「呪いの塔」に戻しますと、あの作品には正史の「突っかかって来るようなところ」が発揮されていたのではないか。どうして突っかからなければならなかったのか。そんなことはわかりませんが、正史は作家専業になろうとしていた時期で、つまり乱歩と対等の立場に立とうとしていた。「相当自尊心も強く」、ということは対抗心や敵愾心も人一倍であったと推測される弟が、昭和7年8月に刊行された書きおろし長篇において、同年5月には平凡社版全集を完結させて大衆文壇の花形作家となっていた兄にひとりの探偵作家として突っかかっていった。それは考えられないことでもないのではないか。背景にはたぶん編集者時代に蓄積されていた鬱屈があったのではないかと想像されるのですが、これは根拠のない想像に過ぎません。 いっぽう兄のほうはというと、むろん「呪いの塔」を読んでいい気はしなかった。内心怒りをおぼえたであろうと推測されるのですが、だからどうこうということもない。それまでもそうであったとおり、「突っかかって来るようなところ」が「全くの親しみに変った」というその「親しみ」の範囲内に、正史が「呪いの塔」にこめた敵愾心もまたやわらかく取り込まれてしまったのではなかったか。 つまり弟がいくら突っかかってみたところで、この一組の賢兄愚弟の関係において、弟は結局のところ独り相撲を取りつづけていただけではなかったかと私には推測される。終生そうであったということではなく、弟が昭和21年に「本陣殺人事件」を発表するまでは。 どうもぶつぶつと細切れになって困ったものだが、きょうはこのへんで。以下には『呪いの塔』刊行から一年ほどたったころのエピソードを。
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本日は自殺サイト連続殺人事件の判決の話題です。 まず全国紙のオフィシャルサイトから紙名の五十音順で一段落ずつ引用。
次は通信社。
次は当地のブロック紙から三段落。
こうして記事をスクラップしているだけで、なんとも暗澹たる気分にうちひしがれてしまいます。たとえば先日千葉県で発生した駅前英会話教室英国人女性講師暴行殺人死体遺棄事件でも、口や鼻をふさがれたことによる窒息死の疑いがあるという司法解剖の結果が報じられていますけれど、これなどはごくわかりやすい。ブルック・シールズ似、とかいわれていたらしい若い白人女性を見かけてついふらふらとなってしまい、自制の利かぬばかがとんでもないことをやらかしたのだなと理解はできます。自制の利かぬばかがとんでもないことをやらかしたという点では自殺サイト連続殺人事件もおなじようなものなのですが、しかしこれには理解が届きません。ただの性欲ではなく、人を窒息させることでしか満足しない性欲というものに理解が届かない。だから不気味である。「例がないほど残酷で凶悪」な犯行ではあるけれど、犯人自身もまた生まれもった特異な性癖、なんとも得体の知れぬ不気味な欲望の犠牲者であるという気がしてきて、じつは私は犯人への同情を禁じえない。それゆえなんとも暗澹たる気分にうちひしがれてしまう次第です。 これらの記事には、むろん乱歩の名前はまったく出てきません。しかし、2月24日付伝言に記したところから引くならば──
これが私の結論であって、だからよけいに暗澹たる気分になってしまう。
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きのうの夜、酔っぱらってテレビを見てたらどっかのチャンネルで「あしたのジョー」をやってました。ずいぶん昔に放送されたアニメなのですが、それをもうばかみたいに何本もまとめて放送してるわけです。ウイスキー飲みながらずーっとおつきあいしてたらすっかりべろんべろんになってしまい、大きくなったら力石徹になりたいものだなどとわけのわかんないことを考えてしまいました。 そんなこんなでけさは東京創元社版『貼雑年譜』にもとづいて「乱歩文献データブック」の昭和7年をメンテナンス。ひいひい。
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そーいやいたなーウルフ金串、とか思いつついっぽうでプロ野球セリーグ開幕戦に意を用いながらゆうべも「あしたのジョー」を見て一夜明けたらきょうは土曜日か。お役所はお休みか。となるとそろそろきょうあたり、 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 の件でまたきつーいぱんぱかぱんをと考えていたのであるけれど、まあお休みとしておいてやるか。 それにしても馴れというのはなかなかに侮りがたいものです。私はもう机のうえに東京創元社版『貼雑年譜』本体価格三十万円を開いてペシッとかピシッとかいくら音がしたって全然へっちゃらになってしまいました。最近ではたまにメリッとかいう音もするのですが、へへッ、へへへッ、とあしたのジョーみたいに笑って済ますことのできる人間になりました。 それでけさは「乱歩文献データブック」の昭和6年のメンテナンスに精を出したのですが、この年5月に刊行が開始された平凡社版乱歩全集のそれをはじめとして広告のたぐいが多くスクラップされており、それがまた講談社版『貼雑年譜』では少なからず省略されておりましたので、その省略分をひろってゆかねばなりません。なにしろ『乱歩文献データブック』は刊本『貼雑年譜』に収録されている広告や予告のたぐいをすべて記載することを基本として編纂いたしましたので、メンテナンスも当然その方針にしたがって進められることになります。ひいひい。 たとえば新聞広告には紙名や日付もいっしょに切り抜かれているのがあって、これは問題ないのですが、広告だけが切り抜かれてその横に乱歩が紙名と日付を書き込んでいるようなものは、そのデータをそのまま鵜呑みにするのはいささか危険なのですが鵜呑みにしなければしかたありません。平凡社版全集の広告では、切り抜きそのものに「東朝六年五月二十六日」などといったたぶん鉛筆書きのメモが残されているものがあり、講談社版ではそれを判読することができなかったのですが、ていうかそんなメモがあることはわからなかったのですが、東京創元社版ではちゃんと読めますからそういうところにも注意しなければなりません。 メモも説明も何もなく、ただぺったりと貼ってあるだけという切り抜きも多いのですが、私はできることならそれが何月のものかということくらいは知りたいとぞ思う。たとえば「盲獣」が掲載された「朝日」の新聞広告がある。昭和6年の何月号の広告かはわからない。しかし仔細に見てみると、 ──「いけないッ、畜生、畜生」彼女はまるで犬か猫でも追ひ払ふやうに、もがきに、もがいたが…………………… というどうやらその号に掲載された「盲獣」からの引用とおぼしい文章が眼にとまる。 年季の入った乱歩ファンであれば、この彼女というのはおそらく水木蘭子だと察しがつくであろう。そこで光文社文庫版全集『押絵と旅する男』を手に取って「盲獣」を頭から走り読みしてゆく。案の定、江川蘭子が、 「いけないッ。畜生、畜生」 と叫んでいる。そのパートには「天地晦冥」という中見出しが立てられている。今度は当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」で昭和6年のページを開く。雑誌に連載された長篇は掲載号ごとに章題を明記してある懇切さである。「天地晦冥」が発表されたのは昭和6年の4月号であることがたちどころに判明する。4月号ったって実際に発売されたのは3月であろうから、昭和6年3月にこの新聞広告のことを記載する。一件落着。 みたいな作業に朝っぱらから没頭してみてごらんなさい。ふと顔をあげて、自分はどうしてこんなことをしているのだろうという根源的な疑問が胸を鳥の影のようによぎるのをおぼえたりもするのですが、私はまた顔を伏せ、へへッ、へへへッ、と矢吹丈のように笑いながら作業に戻るのである。 そしてぎゃーッと叫んだのである。平凡社版全集の広告をようよう片づけたと思ったら、その次の見開きにはロシア語の新聞の切り抜きがぺたぺたぺたぺたと貼っつけられているのではないか。読めるわけがない。適当に当たりをつけて見出しを入力するだけでも大変な作業である。ぎゃーッ、と叫んで私は『貼雑年譜』を閉じてしまった。ペシッ。ピシッ。ミリッ。 だから昭和6年のメンテナンスはまだ終わっていないのである。きょうはこれくらいで勘弁しておいてやるのである。あしたはどっちだ。 へへッ。 へへへッ。
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