2007年3月下旬
25日 ずっと気にかかっていたあれこれ 編輯局より
26日 教育次長に捧げるぱんぱかぱんおひとつ 江戸川乱歩と横溝正史
27日 ぱんぱかぱーんインターバルの弁 横溝正史館が完成
28日 寸暇を惜しんで横溝正史 続文壇友情物語
29日 自殺サイト連続殺人事件版貼雑年譜 犯行・探偵小説の筋書……
30日 われわれはきのうの力石徹である 私の一九三二年/本格的な探偵小説
31日 きのうの力石徹のあしたはどっちだ 売れる書棚作って36年
 ■3月25日(日)
ずっと気にかかっていたあれこれ 

 またしてもどえりゃーサボってしまいました。サボるのが癖になってしまいました。こんなことではそこらの女工もつとまりません。なんてこといってると女性差別だ職業差別だと騒ぎだすばかも出てくるのか。騒いでくれ騒いでくれ。好きなだけ騒いでくれ。こちとら女工もつとまらぬぐうたらである。

 なーんかやけになってますけど資料整理の作業がどうも横滑り気味です。まっすぐではなく横滑りしながらごくわずかずつ前進している感じです。どうしてこんなことになるのかというと、いろいろあれこれ気にかかっていることがあるからだと思われます。

 たとえば、私は直木三十五のことが気にかかっていました。

 一昨年のことになりますが、直木の甥にあたる植村鞆音さんの『直木三十五伝』が文藝春秋から刊行されました。直木三十五の破天荒な人となりをよく伝えてくれる興味深い評伝ですが、なかに乱歩のことが出てきます。直木は昭和3年、「週刊朝日」に「囲碁・将棋を嗜む文士たちに直接直木が挑戦して歩き、その棋力を値踏みするという企画」であるところの「文壇棋術行脚」を連載したのですが、直木から電話で挑戦状をつきつけられた乱歩は、

 「いや、とても、いや、その君、困るよ、人前では指せない将棋で」

 とわけのわかんないいいわけをして対戦を固辞したといいます。

 私はこの連載のことが気にかかっていました。ここはひとつ昭和3年の「週刊朝日」を調べてみなければならんわけであって、ああ気にかかる気にかかる、とか思いながらそれっきりになっていた昨年のある日、ある方から思いがけず直木三十五全集のコピーを大量に頂戴しました。直木没後に改造社から刊行された全集の復刻版が示人社なる出版社から出ていたという事実すら私は知らなかったのですが、その復刻版全集に収録された随筆や著作目録などのコピーです。「文壇棋術行脚」もありました。昭和10年12月18日発行の『直木三十五全集第二十一巻』を復刻した1991年7月6日発行の示人社版全集から引きます。

 都の西北

 江戸川乱歩こと平井太郎が、高田の馬場へ家をもつたと知らせてきたので、こいつよからうと、電話をかけたら、いや、とても、いや、その君、困るよ、人前で指せない将棋でねと、声が変つてくるから、よほど拙いにちがひ無い。将棋は探偵術の推理方法では駄目なのだらう。

 この辺の省線沿線にはまだまだゐるから、順につかまへてやれと、高円寺の佐佐木味津三を訪ふと、これが、同駅より中野駅で降りる方が近い。阿佐ヶ谷の安成二郎の所を車夫に聞くと八九町あるといふので、車に乗るとこれが四町。金子洋文が西荻窪にゐるが「俺ん所へ、車に乗るなんていつたらな車夫が笑つて乗せないよ。駅を出たらすぐそこだ」と、いふので聞いた通り探すと、小一町あつて、汗をかいてしまつた。どいつもこいつも田舎者のぞろつぺいで、可成りまごつかされてしまふ。

 あとまだこの調子でえらく威勢よく、場所が高田馬場だけに堀部安兵衛みたいな勢いで直木三十五は突っ走ってゆきます。なんだかやたらせわしなげで傍若無人な人なのですが、とにかくこの人のことが私は気にかかっていました。

 ところで、乱歩ファンなら先刻ご承知のとおり、『探偵小説四十年』は「探偵小説三十年」ならびに「探偵小説三十五年」と題して連載された文章を一巻に編んだ自伝なのですが、雑誌に発表されはしたものの刊行時に省略されてしまったパートというのが存在しています。光文社文庫版全集ではこの省略部分も起こされているのですが、そのひとつが昭和6年の「この年の新聞切抜二三」で、ここに直木三十五の名前が出てきます。乱歩はこのパートで『貼雑年譜』にスクラップされた読売新聞の記事について記し、そのあとやはり読売に直木が書いた「ゴシップ風の」というタイトルのスクラップにも言及しているのですが、1989年に出た講談社版の『貼雑年譜』ではこれらの記事をスクラップしたページが省かれていました。

 ですから結果として、『乱歩文献データブック』にこれらの記事は記載されませんでした。私は光文社版全集『探偵小説四十年(上)』で新たに起こされたこのパートを読んで以来、自分の見落としのことがずっと気にかかっていました。2001年に出版された東京創元社版『貼雑年譜』では講談社版で省略されていたページもすべて再現されていますから、この完全版『貼雑年譜』にもとづいて当サイト「乱歩文献データブック」を増補しなければならんなと、そのことがずっと気にかかりながらもずるずると先送りして現在ただいまにいたっていたわけです。

 さて、そんな気にかかっていたあれこれに、書庫への便器設置にともなう資料整理の波が押し寄せてきました。それで手許のコピーをほぼ、といっても新聞記事のたぐいはまだなのですが、とにかくほぼ整理して、ようやく直木三十五全集のデータを「乱歩文献データブック」に記載しようかというところまで来たのだとお思いください。待てよ、と私は考えました。それよりもまず東京創元社版『貼雑年譜』から昭和6年の直木三十五関連のスクラップをひろうのが先だろうと思い直しました。そしてまた、待てよ、と思案しました。それならいっそ講談社版『貼雑年譜』で省略されていたスクラップを東京創元社版にもとづいて頭から増補していったほうがいいだろう。どうせいつかは片づけなければならない作業なのだ。

 そんなふうに結論した私はできるだけ傷まないようにそーっそーっとページを開いてゆく貧乏性、東京創元社版『貼雑年譜』の第一分冊を机のうえにそーっと開いて、それでも動かすとペシッとかピシッとか音がしますからそのたびに肝が冷えるような思いを味わう貧乏性、とにかく作業を開始してみました。つい先日の話です。スクラップされた予告や広告のたぐいもいちいちひろってゆくわけですから、なんとも面倒な作業になります。

 『貼雑年譜』のスクラップにはそれぞれの切り抜きがいつどこに掲載されたのか、乱歩のメモが筆で書き添えられているのですが、それをそのまま鵜呑みにすることはできません。確認しようのないものも少なくないのですが、せめて「新青年」のスクラップくらいは乱歩の記録が正確かどうかを確認しておきたいものだと私は考えました。三重県立図書館には本の友社から出た「新青年」の復刻版が架蔵されていますから、確認は不可能なことではありません。

 そしてその「新青年」の復刻版もまた、私にとって長く気にかかっていたあれこれのひとつでした。

 私が三重県立図書館に通って「新青年」の復刻版をチェックしたのは『乱歩文献データブック』を編纂していた1996年のことでした。ただし当時はまだ完結しておらず、大正12年から15年にかけての復刻版は出版されていませんでした。しばらくして完結したらしいと聞き及びましたので、いつか県立図書館に足を運んで未見の復刻版をしっかりチェックしたほうがいいだろうなとは思いつつ、機会がなくて先送りになっていたことが私にはやはりずっとずーっと気にかかっていたわけです。

 そしてこうなると、「新青年」復刻版のチェックが済まないことにはすべての作業が一歩も前に進まないような気がしてきます。そこで私は二日前でしたか三日前でしたか、昼過ぎに名張を出て約一時間、津市にある県立図書館に赴いて「新青年」復刻版のチェックに時間を費やしました。とても不思議な感じがしました。1996年というのですからもう十一年も前、自分はこの図書館でまったく同じ作業、つまり「新青年」復刻版の昭和2年とか3年とかを地下書庫から出してきてもらって一冊ずつ眼を通し、必要なページに附箋を貼ってコピーを取るという作業をくり返していたのだなと思い返すと、

 ──十年以上もたったというのに、おれって全然出世してないじゃん。

 という悲痛な思いが胸中にあふれてきて、いやうそうそ、そんなことはまったくなくて私は出世になんか興味がないのですけれど、十年以上前とまるっきりおんなじことやってる堂々めぐりのつらさが身にしみます。こういうことに時間を取られてるから作業が横滑りしてなかなか前に進まないのである。名張市立図書館にもう少し乱歩のための態勢が整えばいいのだが、しょせんは無理な話である。おおそうじゃ。そういえばあのたこはどうしておるのか。

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 というフレーズでいまやすっかりおなじみの教育次長はどうしていらっしゃるのでござろうか。あいかわらず音沙汰のないまま、こちらも忙しさにかまけてメール一本お出ししなかったのでござるが、お達者でござろうか。週明けにでもまた一発、ちょっときついのをかましてさしあげるとするでござるか。ニンニン。

 とか思いながら「新青年」の復刻版、乱歩がデビューした大正12年から順に見ていったのですが、驚くべきことに大正15年の分がありません。図書館スタッフに問い合わせると、1998年に刊行されているのだがなぜか所蔵していないとのことでしたので、どこかよその図書館から借りてもらうことにして帰ってきました。帰着時刻は午後7時40分。

  本日のフラグメント

 ▼1925年3月

 編輯局より 雨村生

 「新青年」復刻版からひろっておく。大正14年3月号の森下雨村による編集後記。復刻版は1999年3月10日、本の友社発行。

 この「編輯局より」の存在は以前から知っていて、当サイト「乱歩文献データブック」にも記載してあったのだが、ようやくコピーすることを得た。

◆江戸川乱歩君の上京を機とし、一月十六日の晩に、江戸川の橋本に探偵小説同好者の集りを催した。会する者、田中早苗、延原謙、春田能為、長谷川海太郎、松野一夫の諸君、それに編輯同人の神部君と自分、全部で八人の小さい集りであつた。(星野、浅野、妹尾、坂本の諸君は通知が間に合はず、或は事故のため欠席)

◆皆が気心を知り合つた仲とて、打寛いで探偵小説や犯罪に関する歓談に時を移した。殊に最近外遊から帰つたばかりの春田君の土産話は、大変に面白かつた。席上、たまたま暗号に関する話が出て、読者諸君から暗号を募集して、同人で解いてみようではないか、同時に同人からも暗号を提出して、読者諸君の解答を求めてみてはと云ふことになつた。次号から実行することにしたい。読者からも同人を懊悩呻吟せしむるやうな暗号の提出を希望する。面白いものは、これを解答と共に誌上に掲載したい。

 大正14年1月の乱歩の上京は、『探偵小説四十年』では「中旬」のこととしか記されていない。

 乱歩はまず博文館を訪れ、森下雨村と初対面、その夜は森下邸で馳走になって、

 ──翌晩か翌々晩には、「新青年」の寄稿家を集めて、今の江戸川アパートの川向うあたりにあった鰻料理屋で、歓迎の小宴を催して下さった。

 という。

 その小宴が催されたのは1月16日の夜であった。その事実をこの「編輯局より」から知ることができる。『江戸川乱歩年譜集成』のための些細だが貴重な資料である。


 ■3月26日(月)
教育次長に捧げるぱんぱかぱんおひとつ 

 ぱんぱかぱーん、でござる。

 ところで拙者どうしてござるござるを連発しておるでござるかというと、もう一か月以上も前、2ちゃんねるのニュース速報+板に「【社会】“忍者”の威信かけ来月勝負─伊賀と甲賀の市長が手裏剣対決[02/17]」というスレッドがあるのを発見したからでござる。その影響なのでござる。それにしてもあれはまことに心温まるニュースでござった。こういうニュースが増えるといまやすっかりすさみきってしまった日本人の心にも少しはなごやかさが戻ってくるのではないかと推測されるでござるが、その手裏剣対決が3月24日に伊賀市で行われたでござる。ぱんぱかぱーん。

 朝日新聞オフィシャルサイトでは地域のニュースではなく「暮らし」というカテゴリで大きく報じられたでござる。

 引用しておくでござる。

伊賀・甲賀の市長が手裏剣対決 「くノ一」も参加
 忍者の里として知られる三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の市長らが24日、忍者装束に身を包み、手裏剣の腕を競って対決した。伊賀市で始まった「伊賀上野NINJAフェスタ」の開幕行事。勝負は小差で伊賀勢に軍配が上がった。

 1組7人が的に手裏剣を投げて得点を競った。土壇場の市長同士が対決する頭領戦で甲賀勢が追いついたものの、延長戦で今岡睦之・伊賀市長が的をとらえ、突き放した。敗れた甲賀市は向こう1年間、市役所に伊賀の観光宣伝コーナーを設けるなどの「ノルマ」を課せられる。

朝日新聞 asahi.com 2007/03/24/19:49

 ところで拙者、2月18日付伝言にこんなことを書いたでござる。

 伊賀市というか旧上野市には、忍者にちなんでこの手のくだらない企画を考えさせたらほとんど天才的なものがある。このスレッドにも「忍装束で市議会とかやってんだっけ?」というレスが見えるが、忍者装束で市議会を開くなどというたわけたことは、とても名張市には真似ができない。いくらばかにされても伊賀市はこの路線をひた走るべきだろう。ばかではあるが人の心を温かくする自治体、伊賀市。なかなかいいではないか。

 手裏剣対決のあとはなんと忍者議会が復活なのでござる。ぱんばかばーん。

 引用しておくでござる。

【伊賀】 忍者議会「復活でござる」 来月2日、伊賀市が臨時会
 伊賀市の安本美栄子議長は、4月2日に予定している臨時会を、議員や、市長ら市側の出席者が忍者衣装を着る“忍者議会”にすることにし、20日の議員全員懇談会で議員に協力を求めた。

 初めて忍者議会が開かれたのは2001年4月12日の上野市(現伊賀市)の市議会臨時会。当時、市内で展開中の観光イベント「伊賀上野NINJA(にんじゃ)フェスタ」に合わせ、忍者の里PRの話題づくりにと着用した。

 おおいにやればよろしいでござる。忍者議会などというたわけた受け狙いで議会の本質を見失ってまで、さらにまた人の嘲笑冷笑失笑憫笑を一身に買ってまで観光 PR に力を入れたいという心意気、とても名張市のおよぶところではござらぬ。拙者おなじ伊賀地域の住民としてむしろ多といたしたいほどでござる。やりなされやりなされ。きょうびはやりの言葉でいうならば品格などは度外視して、徹底的にわが道を行くがよろしかろう。あっぱれあっぱれでござる。ぱんぱかぱーん。

 いやいや、伊賀市はさておき名張市でござる。ぱんぱかぱーん、でござる。

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 の件でござる。もう何本目なのかわからなくなったでござるが、けさもまた矢を放ってさしあげたでござる。

 ご多用のところ申しわけありません。2月28日付メールでお送りした質問へのご回答の件ですが、まだ頂戴できておりません。3月8日付のメールでは、お答えをいただけないのであればその旨をお伝えいただきたいと、むろんこちらから勝手にメールを送りつけておいてそんなことを申しあげる失礼は重々承知いたしつつ、無理なお願いを申しあげた次第です。

 ご回答をいただけないのは当方の説明不足のせいかとも思われますので、私の考えるところをもう少しお知らせすることにいたします。公務ご繁多とは拝察いたしますが、お読みいただければ幸甚です。

 私が名張市立図書館の嘱託を拝命したのは1995年10月のことでした。こちらから望んだことではありません。図書館側の要請を受けた結果でした。ややくわしく述べますと、私はある年、当時の図書館長から乱歩作品の読書会の講師を務めてくれないかと依頼を受けました。お断りしました。名張市立図書館が乱歩作品の読書会を開かねばならぬ理由などどこにもありません。

 いくら乱歩が名張に生まれたからといって、名張市民が乱歩作品に親しまねばならないという法はありません。あくまでも個人の趣味嗜好の問題です。名張市立図書館が市民に対してなすべきサービスは、乱歩作品を架蔵していつでも読めるようにしておくことでしょう。市立図書館が乱歩作品の読書会を開くというのであればそれを止めるつもりはないけれど、私が講師を務めねばならぬ理由はどこにもない。それが私の考えでした。

 それから一年ほど経過したころでしょうか。図書館長から再度同様の依頼がありました。しかたないかと私は考えました。乱歩の生誕百年を控えた時期でしたから、図書館としては乱歩の読書会でも開いていわゆる恰好をつけたいのだろうということは理解されました。ですから生誕百年にあたる1994年とその前年の1993年、両年度にわたって私は読書会の講師を担当しました。

 ところが1995年度もひきつづいて読書会が開かれるということが、私の知らないところで決定されていました。二年だけという約束です。三年目も継続して講師を務めるつもりは私にはまったくありませんでした。しかし1995年度の予算を獲得してあるから読書会を開かないわけにはゆかない、というのが図書館側のいいぶんでした。知ったことではありません。図書館職員が私の家まで足を運んで説得にかかってくれたのですが、私はいよいよ腹立たしい気分になり、おまえたちはどうしていつもそうなのか、と質問しました。市民相手の読書会などといううわっつらのことでお茶を濁してばかりいないで、乱歩に関して本来なすべき仕事をすればいいではないか。

 何をすればいいのかわからない、というのが図書館側のいいぶんでした。思わず天を仰いでしまうようないいぶんではありますが、お役所というのはそんなところだろうとも思いました。いずれにせよ私には関係のない話です。知ったことではないと告げると、乱歩に関して手がけるべきことをやってくれないかとの申し出がありました。私は結局それを受けることにして、何か立場を与えてくれと依頼しました。その答えが市立図書館の嘱託という立場でした。

 乱歩に関して何をすればいいのかわからない、というのはじつに笑止千万な話で、名張市立図書館は開館準備の段階から乱歩の著作や関連書籍を集めていたのですから、そうした収集資料にもとづいてサービスを提供することを考えればいいだけの話です。乱歩の関連資料を専門的に収集している図書館は全国で名張市立図書館だけであり、乱歩ファンは全国に存在しているわけですから、サービスの対象を名張市民に限定する必要はありません。

 1995年10月に嘱託を拝命した私は、『乱歩文献データブック』の編纂に着手しました。手許に読売新聞のコピーがあります。1996年5月の伊賀版の記事ですが、日付は不明です。この年の3月議会で正式に『乱歩文献データブック』の予算が認められ、上京して平井隆太郎先生と中島河太郎先生にご挨拶も申しあげましたので、名張市立図書館が『乱歩文献データブック』の編纂に着手したということを記者クラブのみなさんにお願いして記事にしていただきました。お役所が市民の税金でどんなことをしようとしているのか、新聞記事のかたちで市民に報告したいと考えたからです。その記事に、私のこんなコメントが掲載されています。

 「文献をリストアップするだけではなく、豊富なデータで乱歩の作家像を明らかにしたい。集まった資料は、将来的にはインターネットでだれもが気軽に検索できるようになれば」

 これが普通のやり方でしょう。偉そうなことを申しあげるようですが、ものごとというのはこうやって進めるものでしょう。公共図書館という施設の普遍的な本質と、乱歩生誕地の図書館であるという独自性とにもとづき、そのうえで五年、十年、二十年という将来を見通して、現在ただいまどんなことをすればいいのかを考える。1996年5月の時点で私はまだインターネットに手を染めていませんでしたが、インターネットが図書館のサービスに大きな役割を果たすようになるだろうことは予測されましたから、上に引いたようなことを述べた次第です。ご参考までに、この記事のスキャン画像を添付ファイルでお送りいたします。

 お知らせすべきことはまだいろいろとありますが、とにかく私はもう十年以上、私なりの考えに立って、名張市立図書館が乱歩に関して質の高いサービスを提供するための、おおげさにいえば道を開いてきたつもりです。道はたしかに開かれたという自負もあります。しかしながら、名張市立図書館にはそうしたサービスを継続するつもりはないらしいというのが、少し以前から私が肌身に実感していることでもあります。

 ですから私は、3月1日付メールにも記しましたとおり、2003年10月の時点で市立図書館が乱歩コーナーを閉鎖して乱歩とは無縁な図書館になるべきだという進言を行い、当時の教育長から「またあらためてみんなで検討してみましょう」とのお答えをいただいた次第です。しかし検討などはただの一度も行われず、念のため貴職に、

 ──名張市教育委員会は市立図書館の運営における江戸川乱歩の扱いについて、構想や方向性のようなものをおもちなのでしょうか。おもちなのであれば、それを示していただきたく思います。また、これからお考えになるというのであればその時期はいつごろなのか、構想や方向性は存在しないというのであればその旨をお知らせいただきたく思います。

 とメールでお尋ねしてもいっこうにお答えをいただけません。熟慮しようともしなければ決断しようともせず、思考停止状態を持続してすべてを先送りにしてしまうのがお役所の体質であるとしても、乱歩に関してはそろそろ結論を出さなければいけない時期であると私は考えます。

 私は名張市教育委員会に、乱歩についてどう考えているのかをお訊きしているのではありません。何か考えをもっているのか、それともまったくもっていないのか。それをお訊きしているだけです。むろん考えなど何もないというのは、いちいちお訊きするまでもないことです。ですからメールでお送りした私の質問は無意味なものでしかありません。そこで先の質問は撤回し、別のことをお訊きすることにいたします。

 名張市立図書館の乱歩コーナーを閉鎖し、名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館にするためには、どういった手続きを踏めばよいのでしょうか。誰が協議し、どこが決定すれば、名張市立図書館は乱歩から手を引くことができるのでしょうか。

 以上です。ご多用中恐縮ですが、よろしくご教示をたまわりますようお願いいたします。

2007/03/26

 ちなみに添付したスキャン画像はこんな感じでござる。

 ぱんぱかぱんをおひとつ、名張市教育委員会の教育次長にお送り申しあげたでござる。あしたはたぶんおふたつめでござろう。

  本日のアップデート

 ▼2007年1月

 江戸川乱歩と横溝正史──「本陣殺人事件」評を中心に 落合教幸

 乱歩と正史の話題がどこかへ行ってしまったが、いずれまた立ち戻るはずである。きょうのところは、私見のかぎりで乱歩と正史の関係について論じた最新の論考をご紹介しておく。立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターの「センター通信」創刊号に掲載された。

 冒頭、乱歩の蔵書であった「探偵趣味」昭和2年1月号には、乱歩の作とされている「ある談話家の話」に「準の代作也」という書き込みのあることが紹介されている。そこで当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」の「ある談話家の話」にもこれが水谷準の代作である旨を追記した。

 論考全体では、乱歩の探偵小説観の変遷をたどり、「乱歩が批評において語ってきた探偵小説を正史が実作で表現したという雰囲気がつくりだされることになった」プロセスが跡づけられる。

 以下、結びに近いあたりを一段落だけ。

 このように見ると、「本陣殺人事件」の乱歩による批評は、突然現れたものではなく、戦前の乱歩の探偵小説論と正史評価に強くつながりを持つものであることがわかる。「本陣」が探偵小説として優れたものであることはいうまでもないが、それが単にカーのインパクトのもとに生まれたという点だけを重視するのではなく、戦前の正史作品や探偵小説をとりまく状況を考慮に入れることで、「本陣」という作品を再評価してみることも必要なのではないだろうか。

 全文は「センター通信」創刊号でお読みいただきたい。入手方法は「番犬情報」に記してある。


 ■3月27日(火)
ぱんぱかぱーんインターバルの弁 

 さあきょうもばんばんぱんぱかぱーんをかましてやるか。

 しかし二日もつづけてはかえって逆効果か。相手が消化不良を起こしてしまうことも考えられる。本日のところはインターバルということにしておいてやるかな。

 ここで整理しておくと、私は名張市教育委員会の教育次長に、

 ──名張市教育委員会は市立図書館の運営における江戸川乱歩の扱いについて、構想や方向性のようなものをおもちなのでしょうか。おもちなのであれば、それを示していただきたく思います。また、これからお考えになるというのであればその時期はいつごろなのか、構想や方向性は存在しないというのであればその旨をお知らせいただきたく思います。

 とメールで尋ねた。名張市教育委員会が乱歩のことを本気で考えたことなんかただの一度もない。そんなことは百も承知なのだが、念のために訊いてみた。そのうえで次の手に移ろうと考えていたのだが、いっこうに返事が返ってこない。それなら答えのわかっている質問なんか撤回して、

 ──名張市立図書館の乱歩コーナーを閉鎖し、名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館にするためには、どういった手続きを踏めばよいのでしょうか。誰が協議し、どこが決定すれば、名張市立図書館は乱歩から手を引くことができるのでしょうか。

 という新しい質問をきのうのメールでぶつけてみた。きのうのきょうだから返事はまだ届かないが、もしかしたらいつまで待っても梨のつぶてかもしれない。そのときには教育委員会に足を運ぶか、教育次長よりさらにうえのポジションに質問を送るか、まあいろいろと手はあるだろう。世にぱんぱかぱんの種は尽きまじ。

 名張市立図書館は乱歩から手を引くべきである。それがベターの選択だ。ならぱベストは何か。いうまでもない。開館準備の段階から収集してきた乱歩の関連資料にもとづいて、インターネットも活用しながら質の高いサービスを提供してゆくことである。むろん私だってそれを望んでいる。私の示した方向性に沿って名張市立図書館が進んでいってくれるのであれば、私としてはとても嬉しい。ありがたい。私の個人的な感情を抜きにして考えても、名張市立図書館はそれをつづけてゆくべきなのである。

 私は難しいことを要求しているわけではない。図書館としてごくあたりまえのことをつづけるべきだと主張しているだけだ。この名張市とかいう自治体では、乱歩を自己宣伝の素材として利用することしか考えられないあさはかな連中ばかりが幅を利かせている。ところがその自己宣伝は何から何まで滑りっぱなしと来ている。実を結んだものなどただのひとつもない。それはそうだろう。ろくに乱歩作品を読んだこともないような連中がやれ二十面相だからくりだと、愚劣な試みをいくらくり返したところで何の意味もない。

 名張市立図書館がそんなばかげた自己宣伝のお先棒をかつぐ必要はまったくない。地に足をつけて、みずからの身の程や身の丈というものをよくわきまえて、うまずたゆまず地道な作業を着実に積み重ねてゆけばそれでいい。目立ちたいとか誉められたいとか名をあげたいとか手柄を立てたいとか、そんな欲念はいっさい無用だ。ただ誠実であればそれでいい。そしてその地道な作業がどんなものであるのか、私はすでに身をもって示している。名張市立図書館はそれをつづけるべきである。図書館としてあたりまえのことをつづけるべきである。

 しかしできない。しようとしない。するもしないも、ひたすら乱歩から顔を背けつづけているばかりだ。ならば乱歩からさっさと手を引けばいい。いつまでも半ちくなことやってうじうじしていないで、名張市立図書館にとって最大のお荷物である乱歩という作家からきっぱりと手を引いてしまえばいいのである。だから私は、

 ──名張市立図書館の乱歩コーナーを閉鎖し、名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館にするためには、どういった手続きを踏めばよいのでしょうか。誰が協議し、どこが決定すれば、名張市立図書館は乱歩から手を引くことができるのでしょうか。

 との質問を教育次長に送った。回答があれば得たり賢しとばかり名張市立図書館を乱歩と無縁な図書館とするためにかけずり回ることにしたい。かけずり回るといったって、ここ十年ほど乱歩のことでかけずり回ってきた労力その他にくらべれば、そんなもの屁でもねーやばーか。だからこら、

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 とかいわれてもうんともすんとも答えないやつ。どうせ逃げられやしないんですからさっさとお返事してくらはい。

  本日のアップデート

 ▼2007年3月

 横溝正史館が完成 西村悠輔

 きょうも横溝正史の話題。山梨市の横溝正史館がこの25日にオープンした。

 朝日新聞オフィシャルサイトでは山梨県の地域ニュースの扱い。

 引用しておこう。

横溝正史館が完成
 24日は完成式があり、正史の長男で音楽評論家の横溝亮一さん(76)ら関係者約40人が祝った。亮一さんは「よみがえった書斎を見て、思わず涙が出た。机に向かって、紅茶を飲みながら小説を書いていた父の後ろ姿が目に浮かぶよう」と喜びを語った。昨年5月、東京・成城の旧宅を取り壊した後は「会えなくなったみたいで寂しかった」という。

 「将来は街おこしや市民の文化活動の拠点に役立ててほしい。ファンは日本全国だけでなく、翻訳された本を通じ世界各国にいる。多くの人に来て頂きたい」と話した。

 書斎は庭付き72平方メートルの木造平屋建て。正史が晩年まで執筆の場としていたという。生前に愛用した朱塗りの座卓や火鉢などが、当時を再現して展示されている。柱や板張りの廊下、朱色の瓦屋根、庭石に至るまで多くの部材を再利用した。

 老朽化で処分されるはずだったが、山梨出身の東京・神田の古書店主が亮一さんと親交があり、移築を提案して山梨市寄贈が決まった。

 毎日新聞オフィシャルサイトでは「今日の話題」というカテゴリで報じられた。こちらの記事には乱歩の名は見えないが、ついでに引用。

横溝正史館:書斎を移築し、山梨市に25日オープン
 山梨市は、正史が中央線で長野県の療養先に向かう途中、気分転換のため下車し、市内を流れる笛吹川周辺を散策したという。移築先は同川を一望できる県笛吹川フルーツ公園(同市江曽原)の西側とした。8畳間には愛用の文具などを置き、書庫には正史の代表作の「犬神家の一族」「獄門島」などの直筆原稿や映画ポスターなどを展示する。移築費などは約2200万円。

 まずはご同慶のいたりである、と記しておこう。東京にあった横溝正史の書斎が正史とは無縁な山梨市に移築され、山梨市の手で管理運営されるにいたったことはまずめでたい。関係者の尽力と英断に敬意と謝意を表する。私は心からそう思う。

 そのうえで少しだけものを申しておくならば、なんなんだこの地域のアイデンティティなどまったく関係なしに一流ブランドならなんでもありがたがってハコモノつくってしまうぱんぱかぱんな世の流れは。書斎移築して遺品展示してそれでおしまいかよ。うわっつらだけかよ。山梨市よ、おまえはもしかして名張市か。ぱんぱかぱーん。


 ■3月28日(水)
寸暇を惜しんで横溝正史 

 連日のごとくぱんぱかぱんぱんぱかぱんと騒ぎ立てるのもばかみたいっちゃばかみたいですから、まあ騒ぎ立ててなくたって私の場合いつもばかみたいっちゃばかみたいなんですけど、きょうは寸暇を惜しんで横溝正史の話題に流れます。

 次はいつこの話題に立ち戻れるかわかりません。乱歩と正史の関係について結論を記しておくことにいたします。結論というかなんというか、とにかくこのふたりの関係をひとことで表現してしまうならば、月並みながら賢兄愚弟ということでいいのではないでしょうか。

 賢兄愚弟。賢はクレバー、愚はナイーブ。クレバーな兄はつねに周到であり、ナイーブな弟はひたすら野放図なのであった。

 はじめて会ったときの正史の印象は、「探偵小説四十年」の大正14年度にこんなふうに記されています。

横溝君は紺飛白を着た書生っぽ、たしか当時大阪の薬専を出たばかりの薬屋さんの若主人であった。同君はそのころは一面不良青年を気取るようなところもあったが、一面では妙に人見知りをするたちで、三白眼でジロッジロッと相手の顔を盗み見るという気味の悪い癖があり、又、相当自尊心も強く、こちらが年上なので、突っかかって来るようなところもあり、(尤もこれは二三度会っているうちに、全くの親しみに変ったが)何となくうちとけにくい感じであった。

 話を正史の「呪いの塔」に戻しますと、あの作品には正史の「突っかかって来るようなところ」が発揮されていたのではないか。どうして突っかからなければならなかったのか。そんなことはわかりませんが、正史は作家専業になろうとしていた時期で、つまり乱歩と対等の立場に立とうとしていた。「相当自尊心も強く」、ということは対抗心や敵愾心も人一倍であったと推測される弟が、昭和7年8月に刊行された書きおろし長篇において、同年5月には平凡社版全集を完結させて大衆文壇の花形作家となっていた兄にひとりの探偵作家として突っかかっていった。それは考えられないことでもないのではないか。背景にはたぶん編集者時代に蓄積されていた鬱屈があったのではないかと想像されるのですが、これは根拠のない想像に過ぎません。

 いっぽう兄のほうはというと、むろん「呪いの塔」を読んでいい気はしなかった。内心怒りをおぼえたであろうと推測されるのですが、だからどうこうということもない。それまでもそうであったとおり、「突っかかって来るようなところ」が「全くの親しみに変った」というその「親しみ」の範囲内に、正史が「呪いの塔」にこめた敵愾心もまたやわらかく取り込まれてしまったのではなかったか。

 つまり弟がいくら突っかかってみたところで、この一組の賢兄愚弟の関係において、弟は結局のところ独り相撲を取りつづけていただけではなかったかと私には推測される。終生そうであったということではなく、弟が昭和21年に「本陣殺人事件」を発表するまでは。

 どうもぶつぶつと細切れになって困ったものだが、きょうはこのへんで。以下には『呪いの塔』刊行から一年ほどたったころのエピソードを。

  本日のフラグメント

 ▼1935年4月

 続文壇友情物語 大潟若郎

 東京創元社版『貼雑年譜』にもとづいて「乱歩文献データブック」をメンテナンスする日々がつづいております。ひいひい。きょうは昭和9年と10年のあたりをやっつけました。

 『貼雑年譜』の昭和10年度には「江戸川と横溝」という中見出しのあるページが一枚スクラップされていて、「文芸通信」の4月号に掲載されたとの書き込みが添えられています。誰が書いた文章なんだかどんなタイトルなんだか、なんにもわかりゃしません。『乱歩文献データブック』をつくったときに調べてみたら、大潟若郎というライターによる「続文壇友情物語」の一ページであることが知れました。

 乱歩によって「コレハ事実ニ近イ」という註記も添えられた「江戸川と横溝」、引いてみましょう。

 昭和八年の秋である。雑誌「日の出」では、その小説をかいてもらうために、当時芝の車町に住んでゐた江戸川乱歩のところへ記者をやつた。ところが、乱歩は一ケ年執筆休止等を宣言したりしたあとのことで、新らしく稿を起さうといふ考へなどはまつたくなかつた。四度行つた。五度行つた。しかし、結果は同じ「かけない。」である。が、記者の方も根気よく、十数回足を運んだ。

 すると、乱歩は、

 「いや、君の方でほんとうに僕の原稿を要求してゐてくれるといふことがよく判つた。で、かかしてもらふことにする。が、こゝに一つおねがひがある。それは、交換条件といふのもおかしいが、君の社で横溝正史の本を出版してくれまいか。彼はいま病気で困つてゐるから、本でも出ればいくらか気も晴れよう。だから、このことを君から社の方へ相談してみてくれたまへ。」

 記者が新潮にかへつてこの相談をすると、社でも出版していゝといふことになつた。で、記者がふたゝび江戸川のところへ報告に行くと、非常によろこんで乱歩が、

 「それは有難う。だが、もうひとつおねがひがある。それは、君の方から横溝のところへ交渉に行く時、僕のことなどは絶対に伏せておいてもらひたい。あくまで新潮社対横溝の取引でやつてもらひたい。」

 これは、乱歩の、自分の推薦で新潮社が無理に出したのではないかといふひけ目を、横溝に感じさせないためのこまかい心づかひであつた。その結果、出版されたのが、横溝正史の「塙侯爵一家」である。横溝正史は、いま信州上諏訪で静かに病気を養つてゐるが、最

 「最」という字でこのページはおしまい。その横に乱歩が「ウラヘ」と赤い字で註記を入れています。つまりそのスクラップはページの上部を糊づけしてあるだけで、ひらりと裏返せば裏も読めるようになっているわけです。講談社版の『貼雑年譜』は台紙と切り抜きとをいっしょに撮影したものでしたから裏も表もなかったのですが、東京創元社版は切り抜きを別に印刷して台紙に貼りつけるという芸の細かいことをしておりますから、「ウラヘ」という乱歩の指示にも喜んで従うことができます。

 そんなことはともかく、周到な兄の面影はこのエピソードからも端的にうかがうことができます。


 ■3月29日(木)
自殺サイト連続殺人事件版貼雑年譜 

 本日は自殺サイト連続殺人事件の判決の話題です。

 まず全国紙のオフィシャルサイトから紙名の五十音順で一段落ずつ引用。

「特異な性癖を満たすため」に3人を殺した、と死刑判決
 インターネットの自殺サイトを悪用した男女3人連続殺人事件で、殺人や死体遺棄などの罪に問われた無職前上(まえ・うえ)博被告(38)の判決が28日、大阪地裁であった。水島和男裁判長は「自らの特異な性癖を満たすため、4カ月で3人の尊い命を奪った残忍、冷酷な犯行だ。更生の可能性も極めて乏しい」と述べ、求刑通り死刑を言い渡した。弁護側は即日控訴した。
朝日新聞 asahi.com 2007/03/28/12:40

死刑判決の被告、大学教授に手紙 幼稚園の頃に性的興奮
 長谷川教授は前上被告と昨年12月から計8回面会を重ねた。被告はその際、幼稚園の頃に郵便局員がかぶった「白いヘルメット」に性的興奮を覚えたことなど裁判で明かさなかった話もしたという。同教授は死刑判決を受け、「人格形成過程などを分析する情状鑑定を実施するなど、審理をもっと尽くすべきだった」と語った。
朝日新聞 asahi.com 2007/03/28/12:43

自殺サイト連続殺人で死刑判決「快楽殺人だ」と大阪地裁
 検察側は論告で「快楽殺人だ」と指摘。「例がないほど残酷で凶悪。倒錯した性的衝動の抑止は不可能で再犯の恐れは高い」と死刑を求刑。弁護側は「賢明な判断を」と死刑回避を主張した。
産経新聞 Sankei Web 2007/03/28/11:35

自殺サイト殺人に死刑・大阪地裁判決「残虐極まりない」
 前上被告は初公判で起訴事実を認め「死刑を覚悟している」と述べた。公判では、人が窒息する姿を見て興奮を得るために殺害を繰り返したとされる前上被告の刑事責任能力の有無が争点となった。
日本経済新聞 NIKKEI NET 2007/03/28/15:01

自殺サイト殺人:3人殺害、38歳被告に死刑 「完全な責任能力」−−大阪地裁判決
 その上で「人を窒息させることに性的興奮を覚えるという特異な性癖を備えたこと自体は、被告にとっても不幸だった。しかし、性欲を満足させるために他人の生命をいとわないという、余りにも自己中心的で身勝手な動機に酌量の余地は皆無だ」と被告を厳しく指弾した。

自殺サイト悪用連続殺人、前上被告に死刑判決
 弁護側は同被告が責任能力を欠いていたと主張したが、判決で水島裁判長は精神鑑定結果を踏まえ、「犯行の違法性や重大性を十分に認識し、被害者とのメールの送受信記録を削除するなど、責任能力は明らか」とした。
読売新聞 YOMIURI ONLINE 2007/03/28/13:01

 次は通信社。

前上被告に死刑判決=「特異な性癖、改善困難」−自殺サイト殺人・大阪地裁
 さらに「自己の性欲を満たすための犯行で、動機はあまりに自己中心的で身勝手」と指摘。「3人は自殺願望を抱いていたが、克服する可能性は十分あった。心の弱みに付け込まれ、希望する『安らかな死』の対極にある地獄を味わわされ、想像を絶する苦痛を受けながら無念の死を遂げた」と述べた。
時事通信社 jijicom 2007/03/28/12:29

 次は当地のブロック紙から三段落。

自殺サイト 3人殺害男に死刑 大阪地裁判決
 「犯行を思い出してむらむらすることはある」。逮捕から1年半以上たったことし2月、法廷でこう供述した前上博被告。28日、覚悟したとおり言い渡された死刑判決に、寝ぐせがついたままの頭で小さくうなずいた。人が息を詰まらせ苦しむ姿に興奮する特異な嗜好(しこう)に、司法は極刑で応じた。

 弁護側は控訴したが、前上被告は取り下げる意向を示している。

 昨年2月の公判。事件を再現した証拠写真を見て「興奮した」と告白。性的な衝動を抑えられないことに「裁判の場にもかかわらず自分は何なんだ、と落ち込んだ」とも吐露した。

 こうして記事をスクラップしているだけで、なんとも暗澹たる気分にうちひしがれてしまいます。たとえば先日千葉県で発生した駅前英会話教室英国人女性講師暴行殺人死体遺棄事件でも、口や鼻をふさがれたことによる窒息死の疑いがあるという司法解剖の結果が報じられていますけれど、これなどはごくわかりやすい。ブルック・シールズ似、とかいわれていたらしい若い白人女性を見かけてついふらふらとなってしまい、自制の利かぬばかがとんでもないことをやらかしたのだなと理解はできます。自制の利かぬばかがとんでもないことをやらかしたという点では自殺サイト連続殺人事件もおなじようなものなのですが、しかしこれには理解が届きません。ただの性欲ではなく、人を窒息させることでしか満足しない性欲というものに理解が届かない。だから不気味である。「例がないほど残酷で凶悪」な犯行ではあるけれど、犯人自身もまた生まれもった特異な性癖、なんとも得体の知れぬ不気味な欲望の犠牲者であるという気がしてきて、じつは私は犯人への同情を禁じえない。それゆえなんとも暗澹たる気分にうちひしがれてしまう次第です。

 これらの記事には、むろん乱歩の名前はまったく出てきません。しかし、2月24日付伝言に記したところから引くならば──

 さるにても、理解しがたい事件であり、性癖ではある。しかし実際に事件は起きた。そして犯人として逮捕された人間の供述を仔細に読んでみると、これまで述べてきたとおり、彼が少年時代に読んで性的興奮をおぼえたのはポプラ社版の少年探偵江戸川乱歩全集第二十巻『魔人ゴング』なのであろうと結論せざるを得ない。花崎マユミさんが口を押さえられて誘拐されるシーンの挿絵と、それからおそらくは小林少年がブイのなかに閉じこめられて窒息死しそうになるときの描写とが、彼の尋常ではない性癖に強く訴えかけたと見ることができる。もとより推測の域を出るものではないが、伝言録の2005年8月中旬あたりに記した見解は撤回しておくことにする。

 これが私の結論であって、だからよけいに暗澹たる気分になってしまう。

  本日のアップデート

 ▼1933年5月

 犯行・探偵小説の筋書……/映画館の前……

 昭和8年、乱歩もまた暗澹としていました。『貼雑年譜』にはこの年、

 ──「屋根裏の散歩」を/地で行く怪盗/空家伝いに隣家を荒す

 とか、

 ──実話/屋根裏の散歩者

 とかいった新聞記事がスクラップされており、乱歩はこんなふうな説明を書き込んでいます。

 ──コレハ何モ犯人ガ私ノ小説ヲ真似タノデハナイ、新聞記者ガ私ノ小説ヲヒキアヒニ出シテ読者ノ興味ヲソソツタノニスギナイ。

 ところがおなじ昭和8年には、乱歩が、

 ──コレハ私ノ悪影響ト云ハレテモ致方ナキ事件デアツタ。

 と記している新聞記事もあります。時事新報5月10日付の記事です。このスクラップは講談社版『貼雑年譜』では省かれていたのですが、東京創元社版から引用。

警視庁捜査一課石沢巡査部長は八日夜芝区桜田本郷町日比谷日活館前から短刀、合鍵、懐中電灯、探偵小説を持つた

少年を引致取調べ中であるが、右は愛知県渥美郡二川町生れ芝区田村町四の一五家具商円次長男川江清夫(一九仮名)と云ひ、愛宕高等小学校を卒業後芝区兼房町家具職小沢新太郎方に雇はれたが不良で解雇され、自宅で江戸川乱歩の「一寸法師」、野崎三郎の「エログロ艶魔兇盗ざんげ」等探偵小説を愛読する中実地にやつて見たくなり怪盗で身を立てようと昨年十二月十九日

母校愛宕高等小学校職員室に忍入り合鍵で金庫をあけて、月給百九十五円六十五銭、

 以下略。

 家具職人なんだからおとなしく人間椅子でもつくっていればよかったものを、この少年は「一寸法師」を読んで怪盗として身を立てようと考えたそうです。どうして「一寸法師」から怪盗が発想されたのかよくわかりませんが、とにかく『一寸法師』を所持していたそうですから(昭和7年4月に刊行された春陽堂の日本小説文庫『一寸法師』か)乱歩の影響がうんぬんされるのはいたしかたのないところか。

 この記事に書き添えられた乱歩の文章からも引いておきます。光文社文庫版全集『探偵小説四十年(上)』の543ページに引用された文章につづくものです。

右ノ作家野崎三郎トハ何者カ少シモ知ラヌガ、私ノ小説ノ主人公ニ野崎三郎ナルモノアリ、ソノ名ヲ襲ツタ通俗赤本作家カ。

 吐き捨てるように書かれています。

 といったところでちょっと検索してみたところ、「日本の古本屋」で野崎三郎の『艶魔兇盗ざんげ』が見つかりました。昭和6年、二松堂発行。「エログロ叢書」というシリーズの一冊で、お値段は二万円ちょい。どんな内容かはまったくわかりませんが、『艶魔兇盗ざんげ』を読んで怪盗を志したというのであれば話の筋はつながるでしょう。だからこれは少年がこの本といっしょに『一寸法師』を所持していたというだけの話であって、乱歩にとってはとんだとばっちり、みたいなことではなかったのかと思われます。


 ■3月30日(金)
われわれはきのうの力石徹である 

 きのうの夜、酔っぱらってテレビを見てたらどっかのチャンネルで「あしたのジョー」をやってました。ずいぶん昔に放送されたアニメなのですが、それをもうばかみたいに何本もまとめて放送してるわけです。ウイスキー飲みながらずーっとおつきあいしてたらすっかりべろんべろんになってしまい、大きくなったら力石徹になりたいものだなどとわけのわかんないことを考えてしまいました。

 そんなこんなでけさは東京創元社版『貼雑年譜』にもとづいて「乱歩文献データブック」の昭和7年をメンテナンス。ひいひい。

  本日のアップデート

 ▼1932年1月

 私の一九三二年/本格的な探偵小説/江戸川乱歩氏

 東京日日新聞に掲載された。記者が乱歩邸を訪れ、いわゆる新年の抱負を取材している。当時の乱歩がどのような探偵小説観を抱き、どういった方向性を志向していたのかがうかがえて興味深い。

 「これまで、探偵小説は、どうも、トリツクの問題で行きつまつてゐた〔。〕

 私なんかも、それで、いろいろ目あたらしいトリツクといふものを考へたけれど、結局、同じ事です。数学のコンビネーシヨンとか何とかいふ奴で、いくら工夫したつて、このトリツクには制限がある。

 最近、アメリカでも、日本でも新らしいといはれてゐるヴアンダインのものなどを読んで見ても、トリツクはちつとも新らしくない、組み立て方も新らしくない、ドイルなんかとあまりちがはない、が、この人は哲学者みたいな人で、その経験や学識などを盛んに作品の中にとり入れて、それで面白く見せてゐる。

 そこで、私も考へた。トリツクを使はないといふ人もあるが、私は使つてもいゝと思ふ。だが、そのトリツクが新しくつても古くつても、そんなことにかまはないで、トリツクで見せるのではなしに外のもので見せる──例へば、筋の組立てとか、性格とか、心理を深くつゝ込んで書くとか、題材を大きくするとか、これからは、そんな方面に大いに力を入れて書いて見ようと思つてゐる。

 これは、私一人の考へだけれど、外の人たちの考へもこんな風になつて来てゐるようで、今年は大いに、みんなやるだらうと思つてゐます。

 「これまでは、いろいろ金が欲しかつたり何かして、註文されゝば何でも書くといつたのだつたが、これからは、まじめな、本格的な探偵小説──つまり玄人受けのするものを書く訳ですが、素人読者といふものは、私は、結局、玄人に引つぱられると思ふ。

     ◆

 「一時、探偵小説は明るくなくてはいけないといふ説があつて、私など、随分、困つたが、これからは、また昔のようにもつと暗いものも書いて行かうと思つてゐる。ドストイエフスキーのような行き方をとり入れる一方、フロイドの精神分析などからもヒントを得て、これはまたこれで、シユールレアリズムなどとはちがつて、探偵小説には探偵小説としての取り入れ方があると思つてゐます。

 古い仕事が、まだいくらか残つてゐるので、二月か三月一杯にそいつを片づけて、それからは大いに、探偵小説の本道に立ち返つて見るつもりです。」

 昭和7年1月といえば、乱歩は「盲獣」「恐怖王」「白髪鬼」と長篇連載三本を抱え、平凡社からは全集を刊行中。しかし3月には、

 ──昨年ヨリノ連載小説ノ執筆ヲ悉ク終リタレバ当分休筆スルコトニシ、ソノ印刷ハガキヲ出ス。

 と『貼雑年譜』に記されているとおり休筆に入ってしまう。

 昭和7年8月には横溝正史の『呪いの塔』が刊行され、11月には作家専業となった正史の首途を励ます会が乱歩らの肝煎りで開かれた。翌8年5月に正史は喀血し、7月から三か月、富士見高原療養所で療養生活を送った。この年秋、休筆中だった乱歩は正史の著書の刊行を条件として新潮社に小説の執筆を約束し、昭和9年1月から「日の出」に「黒蜥蜴」を連載。ほかにも8年11月から「新青年」に「悪霊」、12月から「キング」に「妖虫」を執筆したが、「悪霊」は昭和9年1月で中絶。乱歩は「新青年」4月号に「『悪霊』についてお詫び」を発表。正史は同じ号に「江戸川乱歩へ」を寄稿して乱歩を批判し、7月に信州上諏訪へ転地、闘病生活に入った。

 賢兄愚弟物語はともかくとして、昭和7年1月の時点で乱歩が「まじめな、本格的な探偵小説──つまり玄人受けのするもの」をめざしていたのはおそらく事実で、その志向が昭和8年の「悪霊」や翌9年の「石榴」につながっていったと見ることが可能だろう。しかし結果は惨憺たるもので、『貼雑年譜』の昭和9年度、新聞に掲載された「石榴」評がスクラップされたページには、

 ──「石榴」悪評ノ数々

 と自虐的なフレーズが見出しめいて躍っている。そして次のページにはこんな文章も。

 ──前頁ノ新聞悪評ナドハ、黙殺ヨリハマダシモ賑カナ感ジデ、ソレボト気ニシナカツタガ、従来 私ノ作ガ出レバ必ズ問題ニシテクレタ探偵作家仲間ガ今度ハ全ク黙殺シタノデ、私ハ既ニシテ私ノ時代ガ去ツテヰルコトヲハツキリ感ジタノデアル。「石榴」以上ノ何カ新シイモノヲ含ンダ作ノ創作慾ガ起ルニアラザレバ、モウ真面目ナモノハ書ケナイ、書ク気ガシナイトイフ考ヘニナツタ。

 念のために記しておくと、文中の「ソレボト」は「ソレホド」の誤記であろう。


 ■3月31日(土)
きのうの力石徹のあしたはどっちだ 

 そーいやいたなーウルフ金串、とか思いつついっぽうでプロ野球セリーグ開幕戦に意を用いながらゆうべも「あしたのジョー」を見て一夜明けたらきょうは土曜日か。お役所はお休みか。となるとそろそろきょうあたり、

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 の件でまたきつーいぱんぱかぱんをと考えていたのであるけれど、まあお休みとしておいてやるか。

 それにしても馴れというのはなかなかに侮りがたいものです。私はもう机のうえに東京創元社版『貼雑年譜』本体価格三十万円を開いてペシッとかピシッとかいくら音がしたって全然へっちゃらになってしまいました。最近ではたまにメリッとかいう音もするのですが、へへッ、へへへッ、とあしたのジョーみたいに笑って済ますことのできる人間になりました。

 それでけさは「乱歩文献データブック」の昭和6年のメンテナンスに精を出したのですが、この年5月に刊行が開始された平凡社版乱歩全集のそれをはじめとして広告のたぐいが多くスクラップされており、それがまた講談社版『貼雑年譜』では少なからず省略されておりましたので、その省略分をひろってゆかねばなりません。なにしろ『乱歩文献データブック』は刊本『貼雑年譜』に収録されている広告や予告のたぐいをすべて記載することを基本として編纂いたしましたので、メンテナンスも当然その方針にしたがって進められることになります。ひいひい。

 たとえば新聞広告には紙名や日付もいっしょに切り抜かれているのがあって、これは問題ないのですが、広告だけが切り抜かれてその横に乱歩が紙名と日付を書き込んでいるようなものは、そのデータをそのまま鵜呑みにするのはいささか危険なのですが鵜呑みにしなければしかたありません。平凡社版全集の広告では、切り抜きそのものに「東朝六年五月二十六日」などといったたぶん鉛筆書きのメモが残されているものがあり、講談社版ではそれを判読することができなかったのですが、ていうかそんなメモがあることはわからなかったのですが、東京創元社版ではちゃんと読めますからそういうところにも注意しなければなりません。

 メモも説明も何もなく、ただぺったりと貼ってあるだけという切り抜きも多いのですが、私はできることならそれが何月のものかということくらいは知りたいとぞ思う。たとえば「盲獣」が掲載された「朝日」の新聞広告がある。昭和6年の何月号の広告かはわからない。しかし仔細に見てみると、

 ──「いけないッ、畜生、畜生」彼女はまるで犬か猫でも追ひ払ふやうに、もがきに、もがいたが……………………

 というどうやらその号に掲載された「盲獣」からの引用とおぼしい文章が眼にとまる。

 年季の入った乱歩ファンであれば、この彼女というのはおそらく水木蘭子だと察しがつくであろう。そこで光文社文庫版全集『押絵と旅する男』を手に取って「盲獣」を頭から走り読みしてゆく。案の定、江川蘭子が、

 「いけないッ。畜生、畜生」

 と叫んでいる。そのパートには「天地晦冥」という中見出しが立てられている。今度は当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」で昭和6年のページを開く。雑誌に連載された長篇は掲載号ごとに章題を明記してある懇切さである。「天地晦冥」が発表されたのは昭和6年の4月号であることがたちどころに判明する。4月号ったって実際に発売されたのは3月であろうから、昭和6年3月にこの新聞広告のことを記載する。一件落着。

 みたいな作業に朝っぱらから没頭してみてごらんなさい。ふと顔をあげて、自分はどうしてこんなことをしているのだろうという根源的な疑問が胸を鳥の影のようによぎるのをおぼえたりもするのですが、私はまた顔を伏せ、へへッ、へへへッ、と矢吹丈のように笑いながら作業に戻るのである。

 そしてぎゃーッと叫んだのである。平凡社版全集の広告をようよう片づけたと思ったら、その次の見開きにはロシア語の新聞の切り抜きがぺたぺたぺたぺたと貼っつけられているのではないか。読めるわけがない。適当に当たりをつけて見出しを入力するだけでも大変な作業である。ぎゃーッ、と叫んで私は『貼雑年譜』を閉じてしまった。ペシッ。ピシッ。ミリッ。

 だから昭和6年のメンテナンスはまだ終わっていないのである。きょうはこれくらいで勘弁しておいてやるのである。あしたはどっちだ。

 へへッ。

 へへへッ。

  本日のアップデート

 ▼2007年3月

 となりの達人:売れる書棚作って36年 ジュンク堂書店・田口久美子さん/下 小林理

 掲示板「人外境だより」で閑人亭さんからご教示いただきました。毎日新聞の記事です。毎日のサイトでも読めるようになっておりますので、そちらから引用をば。

となりの達人:売れる書棚作って36年 ジュンク堂書店・田口久美子さん/下
 「ハリマゼネンプ……ですかあ?」。ジュンク堂書店池袋本店の3階カウンターで、客を前に若い従業員が首をかしげている。やりとりを聞いていた副店長の田口久美子さん(59)はピンときた。「その本なら、日本の幻想文学のコーナーですよ」

 江戸川乱歩の「貼雑年譜」(講談社)のことだ。乱歩が日記やイラスト、新聞の切り抜きなどをスクラップしたものの復刻版である。マニアックな本だが、田口さんは書棚に並べる時に頭に刻み込んでいた。

 乱歩が生きていたらこの記事の切り抜きを嬉々としてスクラップしていたことでしょう。三回連載のこれは「下」ですが、「上」にも乱歩の名前が出てきます。ページはこちら

 もうひとつ、こちらはご丁寧にスキャン画像を添えたメールでお知らせいただいたのですが、日本経済新聞には乱歩の名前は見えないけれど明智小五郎の出てくる「春秋」が。調べてみたらこれも日経のサイトで読むことができます。

春秋(3/26)
 戦前の麻布区龍土町といえば探偵小説ファンにはなじみの地名だ。新婚の名探偵明智小五郎が自宅兼事務所としたのが東京・六本木交差点に近い同町に立つ洋館だった。寂しいお屋敷町は少年探偵団と怪人による捕物の舞台にもなった。

▼考現学の創始者、今和次郎が昭和4年に編纂(へんさん)した『新版大東京案内』は「明治時代のように軍人も巾(はば)がきかなくなった」昭和初期の東京で、複数の連隊が拠点を置き「今でも兵隊気分を起こさせる」のがこの辺りだと紹介する。兵舎と高級邸宅が主役だった六本木を拠点に選んだ明智探偵もまた、陰で軍の仕事を請け負っていたとされる。

 なんかもう明智小五郎が実在の人物ででもあったかのような扱いですが、乱歩ならこの記事もやはり嬉々としてスクラップしていることでしょう。

 ここでおねがいおひとつ。当地はなにしろ夕刊が存在しないという草深い土地ですので、当代版『貼雑年譜』づくりに適した土地柄とはいえないように思われます。ご購読の新聞で乱歩の名前をお見かけになられましたら、お手数ながらご一報いただければ幸甚です。