2007年2月中旬
11日 乱歩狂言福岡版のお知らせ 黒蜥蜴
12日 いと穉き黒蜥蜴予告篇 『明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴』座談会
13日 いと穉き黒蜥蜴 明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴
14日 いと穉き黒蜥蜴続篇 「本陣殺人事件」生んだ倉敷市真備町岡田地区
16日 いと穉き黒蜥蜴補遺 ニヒルで人間味も…名探偵春野
17日 土曜日だからお休みとする 大天狗之碑に寄せる
18日 伊賀市には負けるでござるの巻 推理小説ブーム
19日 2005年度の経過でござるの巻 『探偵怪奇恐怖小説名作集』について
20日 きょうは2006年度でござるの巻 作品解説
 ■2月11日(日)
乱歩狂言福岡版のお知らせ 

 きのうの朝、この伝言をほぼ書き終えて手を入れているとき、いきなり大工さんがやってきて工事がはじまりました。書斎と書庫兼トイレに換気扇を設置する工事です。きのうの伝言は最初おれという一人称で記したのですが、内容からいえばむしろ私のほうがふさわしかったものですから、文中のおれを私に書き替えていたところでした。すべて書き替えたつもりでアップデートしたのですが、さっき読み返したらおれがひとつだけ残っていましたのでこっそり私に直しておきました。

 本当は、

 ──混雑のピークは過ぎていたが、行きかう人はみな柔和で、どこか幸福そうな表情をしていた。

 といった記述のあと、自分がトニオ・クレーゲルみたいな気分でお祭りの雑踏を歩くシーンを挿入しようかとも考えていたのですが(女子高生といっしょに八日戎のにぎわいを体験したことで高校生だったころトニオ・クレーゲルのような気分でお祭りの雑踏を歩いた記憶に私が思いあたったのかもしれないなと、鋭敏な読者ならそんなふうに察知してくれるかもしれないなと、私はそんなふうに考えた次第だったのですが)、そんな余裕はとてもなくなり、「本日のアップデート」の説明文もごく素っ気ないものとなってしまいました。まあしかたありません。

 それで大工さんに書斎を明け渡して工事をしてもらったところ、書庫兼トイレの換気扇はこんなぐあいになりました。

 これは文庫版全集を集めたコーナーで、いちばん高い棚には光文社から寄贈していただいて保存用とした乱歩全集が著者名五十音順という基本を無視し帯は捨てるという原則も踏みにじって鎮座していたのですが、換気扇が割り込んだ結果こんなようなことになってしまいました。便所の換気扇を挟んで乱歩全集を並べているとなると、天国の乱歩から叱られてしまうかもしれません。てゆーか自分のサイトに便所の換気扇の写真を掲載して喜んでるトニオ・クレーゲルっていったいどうよ。

 話題が変わります。2月17日の土曜日、九州は福岡県糟屋郡新宮町の新宮コミュニティセンターそぴあしんぐうで、2004年11月14日に名張市青少年センターで初演された乱歩狂言「押絵と旅する男」が上演されます。出演は茂山七五三さん、茂山宗彦さんら。詳細はこのページでどうぞ。

 いつかも記しましたけれど狂言であるにもかかわらず笑いを取ることを初手から放棄している点が私にはいささか不満なのですが、伝統芸能というものの奥深さを実感できる舞台です。お近くの方はお暇でしたらぜひどうぞ。

 こんなページもありました。

 それでは私は宝塚に赴いて「黒蜥蜴」を観劇してまいります。

  本日のフラグメント

 ▼1961年12月

 黒蜥蜴 三島由紀夫

 そんなこんなですから本日は三島版黒蜥蜴からの引用としゃれ込みます。

 第二幕第二場、おのおのの事務所と隠れ家というへだたった場所にいる明智小五郎と黒蜥蜴が、舞台でそれぞれに独白します。歌舞伎の割台詞を踏襲したシーンだとお思いください。

明智 この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴 あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智 あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴 あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智 追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴 そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智 人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴 人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智 いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴 法律が私の恋文になり

明智 牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴・明智 そして最後に勝つのはこつちさ。

 なんかかっけー。


 ■2月12日(月)
いと穉き黒蜥蜴予告篇 

 「いと穉き黒蜥蜴」の「穉き」は「いとけなき」とお読みいただきたい。稲垣足穂の「美しき穉き婦人に始まる」という小説を読むまで、私は「穉」という漢字が存在することなどまるで知らなかったのだが。

 さて宝塚に行ってきた。はじめてのことだ。阪急宝塚線終点の宝塚という駅で降りたことさえ、私にはなかった。午後2時半ごろ、その宝塚駅で降りて、花の道と呼ばれるらしい遊歩道を宝塚大劇場までたどりはじめると、一回目の公演がはねたのだろう、大勢の人波が駅に向かって寄せてくる。

 宝塚歌劇というものにまったく無関心に生きてきた私には、それでも、あるいはそれゆえにこそ宝塚なるものについての先入観があった。そのひとつは、宝塚歌劇の観客というのはフリルなんかがひらひらしている可愛いお洋服を一着におよんだ夢見がちな少女たちばかりなのであろうというものであった。しかしこうしてすれ違ってみると、それがまったくの誤解であったことがよくわかる。彼らは宝塚歌劇というよりは、むしろ松竹新喜劇の客層であるように見受けられた。いったいに年齢が高く、ある程度裕福そうで、それゆえにかごてごてとした派手な服装を好む。しかし松竹新喜劇の客層と決定的に異なっているのは、女性客ばかりが異様に多いということだ。

 だから私は恥ずかしかった。どうなることかと思った。舞台自体がつまらなかったらどうしようという不安もあったが、いかにも場違いな場所にいるようで、いや実際にいたわけだが、どこにも身の置きどころがないような不安をおぼえた。じき宝塚大劇場に到着した。エントランスには入らず、喫煙コーナーを見つけて煙草をふかしていると、そこに煙草を喫いにくるのもみな女性である。毛皮のコートを羽織ったりしている。私はとても気恥ずかしく、肩身の狭い思いをした。この先どうなることかと本気で案じた。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 花組宝塚大劇場公演『明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴』座談会 木村信司、甲斐正人、高田健司、夏美よう、梨花ますみ、高翔みず希、春野寿美礼、真飛聖、壮一帆、桜一花、桜乃彩音、野々すみ花

 「明智小五郎の事件簿 黒蜥蜴」が終わったあと、宝塚の駅で梅田行きの電車を待っているとき、売店の雑誌スタンドに「歌劇」という雑誌を見つけました。そこに掲載されていた座談会です。

 脚本と演出を担当した木村信司さんの弁をどうぞ。

木村 昨晩、今日の座談会でどこから話そうかと考えていたら、眠れなくなってしまい、すっかり寝不足なんですけれども(笑)。明智小五郎を舞台化した経緯についてですが、宝塚入団前に遡ります。学生時代から、自分の中からどうしようもなく湧き出る“ロマン”を、どのように世の中に表現すれば良いか何年も考えていました。その突破口は、多分モノを書く事にあるだろうと思い、色々と作品を書いていたのですが、それが当時の文学界や演劇界に受け皿があるとは、とても思えなかったんです。友人からも、“信ちゃんは余りにもロマンティスト過ぎる。モノを書くのは決して止めないだろうけど、新宿で詩集を売る人とかになって、きっと野垂れ死にするんじゃないか”と言われていた位でした。そんな僕が大学卒業の時に偶々宝塚歌劇団の入団試験を受ける事になり、ある原作台本を書くようにと課題を与えられた。宝塚については殆ど予備知識がなかったのですが、どうやら女性が理想の男性を演じるらしい。理想の男性なら、きっとロマンティストだろう。彼は恋をして、事件に巻き込まれていくだろう。そんなふうに自分の中で一つの形になった瞬間、ロマンを世に発表出来る場所がようやく見つかったと感じたんです。その時の試験台本が、デビュー作となった「扉のこちら」です。そして「第二作目を何にしますか?」と問われたら答えようと考えていたのが明智小五郎でした。近代文学の作家の中で、ロマンを感じる数少ない作家が江戸川乱歩だったのです。そのときから、まず「黒蜥蜴」をやりたいという気持ちはあったのですが、三島由紀夫さんの本がある以上、当時の自分の力量からいっても難しいだろうと思い、第二作目には「黄金仮面」を題材に作品を創りました。それが『結末のかなた』です。その後、大劇場で現代物、スーツ物をする事を意識的に避けていた時期もあり、なかなか機会がなくて…。ですから、考えてみると10年越しどころではなく、20年越しの思いが今回叶ったと言っても過言ではないんです。

 ロマンという言葉を読んで気恥ずかしさをおぼえたり鼻白んだり変に冷笑的になったりしているあなたには、宝塚歌劇というのはロマンという言葉を誰もがそのまま素で受け容れることのできるきわめて特殊な場なのであるということをお知らせしておきましょう。私にはそのことがよく理解できました。


 ■2月13日(火)
いと穉き黒蜥蜴 

 宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」全十二場のチケットは、宝塚ファンにつてがあるという知人に手配をまかせてあった。エントランスで落ち合ってチケットを受け取り、実際にすわってみると前から六列目だ。特等席といっていい。最前列から五列目までが SS 席で一万円、六列目からが S 席になって七千五百円だという。

 チケットの入手を依頼したとき、宝塚とはいったいどんな世界なのか、私はこの知人に尋ねてみた。

 「とても大がかりな学芸会」

 というのが答えだった。その学芸会の幕があがった。第一場の梗概はパンフレットにこう記されている。

 銀座のクラブのマダムである緑川のもとへ、突然、元ボクサーの雨宮が金を貸して欲しいと訪ねて来る。殺人を犯した彼は、どこかへ高飛びしようと考えていたのだ。かつて恩を受けた雨宮に、緑川は身の安全を確保するから私にまかせて欲しいと言い、店が終わった頃もう一度来るよう指示する。やがて、クラブには大勢の客が集まり、緑川はトカゲの刺青の入った背中をさらして踊り始める。そんな中、彼女は一人の男性客に目を留め名前を尋ねる。明智小五郎と名乗るその男は、あなたを迎えにきたと緑川に話しかけ、宝石商岩瀬氏の令嬢の早苗が、あなたにそばにいてほしがっているので一緒に来てもらいたいと告げるのだった…。

 不自然なエロキューションや尋常とは見えない所作は、驚くほど短い時間で気にならなくなった。宝塚には宝塚だけの文法があり、文体があるということだろう。そして学芸会なのだとすれば、これは疑いもなく正しい学芸会だ。装置や衣装が贅沢で、しかも優秀な指導者がついている。

 第一場のクラブのシーンを見るだけでそれがわかった。演出はきわめてテンポがよく、脚色も気が利いている。そのせいで不自然がたちまち不自然でなくなってしまう。時代は敗戦からまもないころで、戦争のもたらした傷痕がまだなまなましく残されている、といった伏線も黒蜥蜴とクラブの客たちとの陽気な歌に暗示されている。

 白のスーツ姿で登場した明智小五郎には、すらりとした長身という紋切り型がそのままあてはまる。いわゆる耽美系の漫画同人誌から抜け出てきたような、と表現してもいい。まるでホストのようだといってもいいのだが、それでは宝塚ファンの顰蹙が待っていよう。

 板つきで出ていた黒蜥蜴は、しかしやや違和感を感じさせた。これまでに黒蜥蜴を演じた役者にくらべるとあきらかに華奢で、いたいけでさえあった。だが終幕にいたって、観客はこの黒蜥蜴がそうでなければならなかった理由に気づかされる。

 そのあたりの事情は、スタッフによってこんなぐあいに明かされている。パンフレットから引用しよう。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴 木村信司

 「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」のパンフレットに掲載されました。きのうにつづいて脚本と演出を担当した木村信司さんによる作品紹介。

 明智と黒トカゲの関係ですが、男性と女性というだけでなく、新たに脚本化・演出するにあたって実に興味ぶかく思われました。ひとつの捉え方として、黒トカゲの奥底に「男性」を見る切り口があります。女賊の内面には、女性のなかの男性が潜んでおり、だからこそ男性、とりわけ理想の男性像である名探偵とは、どれほど愛そうとも永遠に結ばれないのだ、と。

 しかし今回の公演では、黒トカゲを「少女」だと捉えました。その自己演出、行動の大胆さに、むしろ処女性を感じとったのです。実は少女こそ、少年と同じく残酷さを秘めているものですから。この処女性を、明智小五郎が一枚ずつ衣服をはぐように追いつめてゆく。名探偵も自分のなかに少年を見いだすかもしれません。少年と少女は春の、花咲く丘で愛し合うかもしれません。二人がたがいに自分をさらけだすとき、そこにはいかなる結末が待っているのか…。

 そして事件の、本当の犯人は何なのか。

 大阪へ戻る阪急電車の車内でこの文章を読み、これこそが宝塚の文法というものだろうと私は納得した。すでに存在しているストーリーから意想外な少女性を読み取ってしまう文法。その文法はたしかに、まったく新しい黒蜥蜴の像を魔法のように鮮やかに浮かびあがらせていた。不自然は不自然ではなくなっていた。私はほとんど驚嘆した。

 ともあれここに、わが国の演劇と映画の歴史上もっとも穉い黒蜥蜴が誕生したのだ。「穉い」は「いとけない」とお読みいただきたい。

 ところできのうの公演で、宝塚大劇場は停電に見舞われたらしい。毎日新聞のオフィシャルサイトにこうある。

宝塚大劇場:停電で公演30分間中断 兵庫
 12日午後3時40分ごろ、兵庫県宝塚市内で数分間の停電があり、影響で同市の宝塚大劇場で公演中の「明智小五郎の事件簿−黒蜥蜴」が舞台装置の点検などのため約30分間、中断した。同歌劇団によると、停電で5〜10分間ほど中断することはまれにあるが、30分間も中断するのは珍しいという。

 停電の当時、同劇場は全2550席が満席。停電後は補助灯が点灯し、事情説明の場内アナウンスもあり、観客に混乱はなかった。数秒の停電の場合には復旧に時間はかからないが、今回は数分間の停電だったため、点検などに時間を要したという。公演は30分後に、停電で中断した場面から再開した。

 お見舞いを申しあげておきたい。


 ■2月14日(水)
いと穉き黒蜥蜴続篇 

 去年の11月から12月にかけて、三島由紀夫版の「黒蜥蜴」が東京で公演されていたらしい。インターネットを検索していて気がついた。オフィシャルページを掲げておく。

 黒蜥蜴を演じたのは宝塚出身の麻実れいさんで、いくら宝塚歌劇にくわしくない私だって、麻実さんがあの「ベルサイユのばら」のアンドレ役で一世を風靡したことくらいは知っている。しかし、黒蜥蜴に扮した役者のなかに麻実さんを含めて考えたとしても、史上もっとも穉い黒蜥蜴が宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」のそれであることには変わりがない。

 黒蜥蜴の少女性を際立たせるために、原作にはアレンジが加えられている。原作至上主義者には容認しがたい改変かもしれないが、私はいと穉き黒蜥蜴の誕生を喜ばしいものに思う。そうした改変こそが宝塚歌劇の生命を支えているにちがいないのだ。そのアレンジがいかなるものであったのか、これから観劇する人もあるだろうからここには記さない。ただし、思いがけずというか、あるいは予想どおりというか、原作には出てこない少年探偵団が登場して観客を楽しませてくれることくらいは書いておいてもいいだろう。

 少年探偵団の団員たちが元気よく歌ったり踊ったりするシーンを眺めながら、私には卒然として了解されたことがあった。知人は「とても大がかりな学芸会」と説明してくれたが、舞台をまのあたりにした実感にもとづいて表現するならば、宝塚歌劇というのはお稽古ごとの絶巓なのである。小さいころからピアノやバレエを習っていたのであろう少女たちが、お稽古ごとの頂点を極めてこのステージに立っている。私は彼女たちの、おそらくはハードなものだったのであろう練習や、宝塚歌劇というシステムに身を置く人間としての苦労といったものにまでぼんやりと思いを馳せた。

 そしてそのことで、自分がいつのまにかお稽古ごとの絶巓にまちがいなく立ち会っているのだという事実に気づいた。舞台には子供たちがおり、その裏には指導者がいる。そして客席には親がいる。親というのが極端ならば、保護者か庇護者でいいだろう。驚くべきことに私は、彼女たちの保護者か庇護者ででもあるような気分になって、彼女たちがずっと夢見ていたのであろう絶巓のステージを見守っていた。

 明智小五郎を演じた春野寿美礼さんは立ち姿がまことに美しく、歌唱も圧巻だった。パンフレットに掲載された稽古風景の写真を見るとかなり精悍な顔つきで、若いころの松田優作に肖ている。黒蜥蜴の桜乃彩音さんは逆にひたすら可憐で、やはり宝塚出身の涼風真世さんに似た印象がある。それが穉い黒蜥蜴などという複雑な役どころを懸命に演じているものだから、私はまさに庇護者のような心境になって肩入れしてしまった。宝塚歌劇というのはじつに端倪すべからざるものなのだ。

 2月11日付伝言で引いた三島版黒蜥蜴の割台詞、あれに似た趣向もあった。ただし宝塚だから二台の自動車によるカーチェイスとして演じられ、割台詞もすべて歌によって構成される。これもかなり心躍る演出で、大都会を描いた書き割りに二か所、自動車のボンネットが顔を出し、それぞれに明智と浪越、黒蜥蜴と雨宮というふたつのコンビが乗り込んで追跡劇をくりひろげる。むろん自動車が動くことはないのだが、そのボンネットが漫画のような描線で描かれて笑いを誘うものであることも手伝って、停止したままのカーチェイスはおおいに客席の喝采を博した。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 「本陣殺人事件」生んだ倉敷市真備町岡田地区 /岡山 石戸諭

 宝塚から倉敷に飛びます。といっても倉敷市になったのはいわゆる平成の大合併以後のことで、正史ファンにはかつての吉備郡岡田村字桜という地名のほうが馴染みは深いでしょう。

 毎日新聞オフィシャルサイトに掲載された「おかやま大研Q」というシリーズの一本。

「本陣殺人事件」生んだ倉敷市真備町岡田地区 /岡山
 正史は神戸市生まれ。薬屋を営む両親は岡山出身で、子どものころから推理小説が好きだったようだ。19歳の時、雑誌に初めての作品を発表するが、同じ年に薬学校にも入学し、親の跡を継いで薬剤師になった。こんな“アマチュア作家”正史を、本格的に推理小説の世界に誘い出したのが巨匠・江戸川乱歩(1894〜1965)だった。

 「横溝正史 自伝的随筆集」(角川書店)など正史の著作によると、1923年ごろ大阪毎日新聞(現毎日新聞)の社員だった乱歩は、大毎記者を中心に「関西探偵趣味の会」を結成。推理小説雑誌に寄稿経験のある正史を知り、誘いにきた。正史は「乱歩の人柄に魅了」され、大阪府守口市の乱歩宅に頻繁に通うようになる。その後、2人は相次いで上京し、作家として出発。正史は「乱歩がいなければ作家になることは無かった」と言う。

 宝塚大劇場の客席で、「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」が開演する一分ほど前、徳間文庫の横溝正史『呪いの塔』を読み終えました。これはなんだかずいぶんな小説で、横溝というのはなんともいやなやつだな、という感想を抱いたのですが、「乱歩文献データブック」に記載しなければなりませんから「呪いの塔」の出版履歴をある先達にメールでお訊きしました。

 けさその返信が届いていたのですが、そこには石上三登志さんの『名探偵たちのユートピア』に「呪いの塔」のことが出てくると記されていて、私はいささか驚きました。2月10日付伝言に書いたことですが、『名探偵たちのユートピア』は買ったまま開きもせずに積んである乱歩関連書籍の一冊です。これはさっそく読んでみなければなりません。


 ■2月16日(金)
いと穉き黒蜥蜴補遺 

 どうも身辺があわただしくっていけない。きのうの朝もサイトを更新できなかった。やや間が抜けることにはなるが、宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」の話題をつづける。

 ネタを割ることは禁物だが、恐怖美術館の話題はどうだろう。乱歩が、

 ──すばらしくはなくって? 若い美しい人間を、そのまま剥製にして、生きていれば段々失われて行ったに違いないその美しさを、永遠に保って置くなんて、どんな博物館だって、真似も出来なければ、思いつきもしないのだわ」

 と怯えに裏打ちされた夢想を託し、三島由紀夫が顫えるようにそれに共振して、

 ──きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心から思ふの。年をとらせるのは肉体ぢやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……

 と見果てぬ夢を舞台に実現してみせた、そして上演にあたっては壮麗な宮殿のような装置で表現されることもある恐怖美術館は、しかし宝塚歌劇のステージには影も形もなかった。たしかに終幕、黒蜥蜴の隠れ家は登場する。だがそれは少女たちの楽園とでも呼ぶべき明るい場所で、乱歩ファンならあるいはパノラマ島を連想するかもしれないのだが、とにかくその楽園には生身の少女たちしか存在していない。剥製などというまがいものは存在しない。必要がない。

 それが宝塚というものだろう。恐怖美術館の出てこない「黒蜥蜴」。私はそのことに感じ入った。乱歩と三島の怯えなどどこか他界の消息に過ぎず、この不思議な舞台には美がかくのごとく現前している。しかもそれは、まさしく十年たっても二十年たっても、永久機関のように次から次へと無尽蔵に補充されつづけるのだ。そのことに思いあたって、私はなんだか爽快な気分になった。それから三島版黒蜥蜴のこの台詞を思い出した。

 ──そして最後に勝つのはこつちさ。

 上演時間一時間半。手際よくまとめられた舞台の幕が降りた。カーテンコールがあるものだと思い込んでいたら、これから幕間に入ると事務的な口調のアナウンスが流れる。私は立ちあがったのだが、隣にすわったふたり連れの婦人客が動こうとしない。しばらく待ってみても動きそうな気配がないので、彼女たちの前をすり抜けるようにして通路に出た。そのとき見ると、年配のほうの女性、もう老婦人といっていい年代の女性が、片手で眼鏡を押しあげ、もう片方の手でハンカチを眼に押し当てているのがわかった。

 私は驚いた。見終わって落涙しなければならぬ芝居ではなかった。こんな特等席にすわっているのだから、彼女はもしかしたら出演者の血縁なのかもしれない。孫娘の晴れ舞台に感極まったのかもしれない。だが、と私は考えた。彼女は心からなる宝塚歌劇の庇護者であり保護者であるのかもしれない。このとても大がかりな学芸会、お稽古ごとの絶巓たる発表会に欠かすことのできない人間のひとりだ。舞台の緊張感を客席で共有し、それから開放されたとたんにわれ知らず涙が出てきたのだろう。だとすれば彼女は、じつにあっぱれで正しい宝塚の観客だというしかないではないか。

 劇場内の食堂でビールを飲み、外に出てみると気持ちのいい夕方だった。花の道を宝塚駅まで歩く。大型犬を連れて散歩する老人の姿が眼につく。宝塚というのは意外に山深いところにあって、まちのすぐむこうには低い山が迫っている。盆地に生まれ育った私にとって、それは心の安らぐ景観だ。私は名張まで帰るのがどうにも億劫になり、宝塚駅前あたりのマンションに住んで、宝塚歌劇の台本を書くとかバンフレットを編集するとか、そんな仕事で日々を送れたらどんなに幸福なことだろうか、とばかみたいなことを考えながらゆっくりと歩いた。おや、今度はボルゾイを連れたおじいさんだ。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 ニヒルで人間味も…名探偵春野 「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」大劇場で開幕 薮下哲司

 横溝正史の話題に移行するつもりだったのだが、宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」の劇評があった。拾っておく。

ニヒルで人間味も…名探偵春野 「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」大劇場で開幕
 「−黒蜥蜴」は、江戸川乱歩の同名原作を、基本的なストーリーはそのままに宝塚的というより木村信司的に大幅にアレンジした舞台で、原作を知らなければそれなりに楽しめるできばえ。原作を知っていると、これはかなり賛否両論に分かれるだろう。

 物語は原作よりかなり現代に近い1950年代後半という設定。クラブ黒トカゲのマダム、緑川こと怪盗黒トカゲ(桜乃彩音)が、兄とはぐれてしまった空襲の夢からさめるところから始まる。

 「原作を知らなければそれなりに楽しめる」という文言にまず異議を申し立てておく。私は原作を知っているからこそこの舞台を楽しめた。宝塚歌劇の本質をかいま見たような気さえした。原作至上主義を否定するつもりはないけれど、「賛否両論」の「否」の側に立つのは贅沢ということを理解できない人間なのではないか。

 1950年代後半という設定には、じつはかなりの無理がある。2月13日付伝言に記したごとく、舞台上では「時代は敗戦からまもないころで、戦争のもたらした傷痕がまだなまなましく残されている」という時代背景が描かれるのだが、パンフレットに掲載された梗概には「先の大戦から十数年ほど経った銀座」と明記されている。こんな明記は不要だろう。

 しかし黒蜥蜴の少女性を際立たせるためのアレンジ、やや具体的にいえば原作に加えられた設定の変更にもとづいて計算すれば、時代は1950年代の後半になってしまわざるを得ない。「もはや戦後ではない」と宣言したのは1956年の経済白書だが、そんな時代に戦争のなまなましい傷痕をもちだしてくることには無理がある。

 だが、かなたに三島由紀夫の「黒蜥蜴」という高峰を仰ぎ見ながら、宝塚歌劇という不思議な場で乱歩の「黒蜥蜴」を舞台化するというのであれば、それくらいの無理や強引さ、あえていえば不自然は私には気にならない。宝塚というのはそもそもそういう場であるはずだ。かりに自分が劇評の担当者であったなら、宝塚は「黒蜥蜴」を見事に自家薬籠中のものにしたと記しているにちがいない。いつのまにか宝塚歌劇の庇護者になった気でいるらしい私はそう思う。

 身辺のあわただしさには一連の工事も含まれていて、便器、換気扇のあとは洗面台の工事がきのう終了し、私の書斎に隣接するトイレつき書庫はこんなあんばいになった。

 ひとことお知らせしておく次第である。


 ■2月17日(土)
土曜日だからお休みとする 

 もう2月も17日だ。

 2月1日に名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会。その報告をつづけているところへ三重大学で開かれた高校生フォーラムが出てきたり名張まちなかがにぎわった八日戎が出てきたり宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」が出てきたり、トイレつき書庫がついに竣工したという話題もあったりして肝心の報告がなかなか進まない。

 そういえば掲示板「人外境だより」にこんな投稿も寄せられた。

策定委員会にかかわった人間   2007年 2月 4日(日) 10時37分  [60.238.181.249]

中様 いつも、楽しく拝見していました。まちなかナビもたいへん感心し、作って戴いた事を感謝します。ただ官設民営の件ですが策定委員ではそんな言葉は聞いたこともありません。策定委員会の批判は私もいろいろありますが、議論どころか言葉もなかったと記憶します。中様の言葉に「批判対称のことを知ろうともせず〜恥をしれ」は策定委員会ででなかった事を批判する今の貴方も同じです。公設民営は突然市長行政側から言い出したと聞きました。別に擁護する義理もないのですが、三重大の教授の策定委員長も知らなかったとおもいます。浅はかで感情的な批判はよく調べてからにしてください。今後も楽しみに拝見しています。私は生粋の名張人ではないですが、もっとなばりを楽しくしましょうよ、またそうして下さい。中様の意見や力を町に生かしてください。


貝になれない、こくま@真市民   2007年 2月 9日(金) 22時46分  [60.238.181.249]

策定‘委員会‘にかかわった人間は限定されるのですから中さんのネットワークで聞き込みされたら、内容がわかるでしょう。聞いてきたらしゃべりやすいものですか。

 しかしこれだけでおしまいだ。なんのことだか理解が届かぬ。いったいこいつはなんなんだというしかない。

 私としては2月5日付伝言に記したところの、

 ──それにしても、おれのことを排他的だとはよくぞ申した。いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。まあ不憫といえば不憫なわけであるけれど、この職員の方のご発言には思わず耳を疑ってしまうものが含まれており、それは名張まちなか再生プランとは直接関係のないものでしたからその場では不問に付しておきましたけれど、といって聞き捨てにはできないものでありましたのであらためてメールをさしあげてご存念をお聞かせいただくことになるでしょう。なんか不憫だ。しかしいたしかたありません。発言には責任ってものがつきまとうわけなんですから、なあなあの通じる仲間うちでならいいけれど、おれみたいな外部の人間、しかも口舌の徒と口を利くときはもう少し言葉に気をつけたほうがいいと思うぞ。

 といったあたりの問題に早く決着をつけたい。とはいえきょうは土曜日だからお役所もお休みだ。だからこちらもお休みとしておく。

  本日のアップデート

 ▼1958年4月

 大天狗之碑に寄せる 江戸川乱歩

 横溝正史の話題に移行するつもりだったのだが、トイレつき書庫の工事が終わったのを機に片づけものを再開したら、またしてもコピーが出てきた。その記載を優先させる。

 こみいった話になる。名古屋で「寸鉄」という雑誌が出ていた。『探偵小説四十年』巻末の「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」から拾うと、同誌に掲載された乱歩作品はこれだけある。

昭和三十三年度
【随筆・評論】○名古屋と探偵小説(「寸鉄」十月号)
【座談会・対談会】○名古屋よいとこ(名古屋の雑誌「寸鉄」八月号、大下、戸川貞雄、山岡荘八、田中御幸、岡戸武平、吉田栄一、寸鉄主幹山内の諸氏と)

昭和三十四年度
【随筆・評論】○推理小説ブーム(名古屋の「寸鉄」一月号)

 「名古屋と探偵小説」は講談社版江戸川乱歩推理文庫60『うつし世は夢』に収められているが、ほかの二点は単行本にも全集にも収録されていない。

 『江戸川乱歩執筆年譜』を編纂したとき、「寸鉄」のことが最後までわからなかった。愛知県の図書館や名古屋市にお住まいの研究者の方にも問い合わせたのだが、甲斐がなかった。それが2001年5月になって、「寸鉄」に掲載された二作品のコピーを手に入れることができた。

 2001年5月12日付伝言から引く。

 「月刊寸鉄」という雑誌の昭和33年5月号に、乱歩の「大天狗之碑に寄せる」という短い文章が掲載されていることがわかりました。愛知県の斎藤亮さんからご教示をいただきました。
 乱歩は「月刊寸鉄」の昭和34年1月号に「推理小説ブーム」という随筆を寄せていて、『江戸川乱歩執筆年譜』をつくるとき、この雑誌のことをちょこっと調べたのですが、名古屋にあった寸鉄社が発行していたことまではわかったものの、愛知県や名古屋市の図書館で調べてもらっても現物を確認することができませんでした。
 地元の斎藤さんにもお尋ねしたのですが、当時は判明せず、それが先日になって、当方がなかば忘れていた「月刊寸鉄」を見つけてくださったとのお知らせを頂戴しましたので、さっそくコピーをおねだりいたしましたところ、「推理小説ブーム」のほかに、これまで知られていなかった「大天狗之碑に寄せる」までおまけにお送りいただいたという次第です。お礼を申しあげます。
 といったわけですので、『江戸川乱歩執筆年譜』では「推理小説ブーム」を昭和34年1月に記載しておりましたが、下記のとおり増補訂正いたします。

昭和33年/1958年
 04月 大天狗之碑に寄せる 月刊寸鉄5月号(33号)25日
 12月 推理小説ブーム   月刊寸鉄1月号(41号)25日

 「大天狗之碑に寄せる」は、「大山・天狗祭」という特集の一篇。古来、天狗の来住する神山として崇められてきた大山に、「このたびも我ら天狗講の一同はこの大天狗の精神を具象化し、その利益を更に偉大なものとするために、ここ仙地大山阿夫利神社の庭に、大天狗の碑の鎮座式を催すことになつた」と、碑の建立にあたって何かの縁で肝煎りの一人を務めたらしい乱歩は、妙にノリのいい筆致で記しています。

 虚空 おほそら を天狗と来ぬる国いくつ(百万)

 乱歩の場合、少年を拐かす天上的存在と見れば、天狗はそのまま怪人二十面相のイメージに重なります。この大山もまた、謡曲「花月」において花月少年が天狗に導かれて経巡った「取られて行きし山々」のひとつであったのかもしれません。
 大山阿夫利神社は神奈川県伊勢原市に鎮座しております。お近くの方は乱歩ゆかりの大天狗の碑を探訪されるのもご一興。きっと大天狗様のご利益があることでしょう。

 この時点では当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」に昭和33年のページがいまだ誕生していなかったため、遅れに遅れていまごろ記載する仕儀となった。

 しかしこの「大天狗之碑に寄せる」は、乱歩自身が編んだ「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」から洩れている。しかも上に引いたごとく「妙にノリのいい筆致」だ。実際に乱歩が書いたものかどうか、おおいに疑わしい。

 つづいて講談社版江戸川乱歩推理文庫65『乱歩年譜著作目録集成』の「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」を見てみる。「寸鉄」関連分はこうなる。

昭和三十三年度
【随筆・評論】○名古屋と探偵小説(名古屋・寸鉄、十月、60)
【座談会・対談会】○名古屋よいとこ(大下、戸川貞雄、山岡荘八、田中御幸、岡戸武平、吉田栄一、寸鉄主幹山内と)(名古屋の雑誌・寸鉄、八月)

昭和三十四年度
【随筆・評論】○推理小説ブーム(代作)(名古屋・寸鉄、一月)

 「推理小説ブーム」が「代作」とされている。中島河太郎先生によって加えられた註記だ。ただし中島先生が何を根拠に代作と断定されたのか、それはわからない。

 「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」のもとになった乱歩の手書き目録では、代作であることが明かされている作品もある。たとえば昭和9年の「春宵つむぎ談」は、「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」では「口述」とされているが、手書き目録では「岡戸君代筆」と明記されている。しかしその手書き目録を確認してみても、「寸鉄」の「推理小説ブーム」には書き込みがいっさい見られない。

 乱歩が残した記録にもとづけば代作とは考えにくく、中島先生の註記に信を置くならば代作ということになる。

 かりに「推理小説ブーム」が代作であるのなら、乱歩が録してもいなかった「大天狗之碑に寄せる」はどうなるのか。引いてみよう。

 天と地の間にそびえる大山は、古来全国民の尊崇の的であつた。

 しかし現代に於ては、われわれは主神とともに大天狗が、更に我々が日ごろ理想として常にその提唱につとめてきた人類の恒久平和の民族融合の精神を具現したものである事を知り、その宏大無辺なる利益に驚嘆し、讃仰し、之をわれわれの念願を主体化した神仙であると、全世界への普遍化を希い、はれやかに運動を続けてきた。

 このあと2001年5月12日付伝言に引いた箇所につづくのだが、おわかりのとおりおよそ乱歩らしくない文章だ。乱歩が大天狗碑の鎮座式という慶事に際してなにやらしゃちほこ張ったような妙なノリの文章を書いてみせたと考えられぬこともないが、乱歩はそもそもそうしたノリのできない生真面目で不器用な人間であったと考えるべきだろう。

 「推理小説ブーム」がなんらかの根拠にもとづいて「代作」とされているのであれば、乱歩の手書き目録に見ることさえできないこの「大天狗之碑に寄せる」こそはまぎれもない代作ということになるはずだが、「江戸川乱歩執筆年譜」に記載するにあたっては「代作か」との註記を附すにとどめた。


 ■2月18日(日)
伊賀市には負けるでござるの巻 

 心温まるニュースというやつがある。身辺が妙にあわただしかったり、世の中がどうにも殺伐としていて不快なニュースばかりが報じられたり、そんなときに思いがけず接した心温まるニュースというやつは、素直に感謝したくなるほどありがたいものだ。

 2ちゃんねるのニュース速報+板に「【社会】“忍者”の威信かけ来月勝負─伊賀と甲賀の市長が手裏剣対決[02/17]」というスレッドが立っていた。下の画像をクリックすればお読みいただける。

 「三重県伊賀市の今岡睦之市長(67)と滋賀県甲賀市の中嶋武嗣市長(59)が3月24日、手裏剣対決をすることになった」という冒頭の一文から心が温まってくる。あまり関係のないことだが、このニュースが痛いニュース+板ではなくニュース速報+板で扱われたことにも心温まるものを感じてしまう。

 2ちゃんねらーの食いつきもすこぶるよろしく、「四方や八方じゃないのなら結構すごい」「わざわざ自分たちの貴重な観光資源に誤解を与えるイベントやってどうすんだ?」「なんだこりゃ」「くだらなすぎてワラタ」「負けたほうは市長辞職するくらいの覚悟でやれ」「こいつら本物のアホだな」「こういう町おこしは好きだな」「これでめちゃめちゃ投げるの上手かったらそれはそれで面白いな」「お前ら今岡市長を知らな杉だろ、奴は速いよ」「日本中こんなニュースで溢れかえればいいのに」などと好意的だ。

 伊賀市というか旧上野市には、忍者にちなんでこの手のくだらない企画を考えさせたらほとんど天才的なものがある。このスレッドにも「忍装束で市議会とかやってんだっけ?」というレスが見えるが、忍者装束で市議会を開くなどというたわけたことは、とても名張市には真似ができない。いくらばかにされても伊賀市はこの路線をひた走るべきだろう。ばかではあるが人の心を温かくする自治体、伊賀市。なかなかいいではないか。

 本日もなにやらあわただしいゆえこれにておしまいでござるの巻、であった。ニンニン。

  本日のアップデート

 ▼1958年12月

 推理小説ブーム 江戸川乱歩

 きのうにつづいて「寸鉄」に発表された乱歩名義の文章をとりあげる。昭和33年12月に発行された翌年1月号の「推理小説ブーム」だ。

 きのうも記したとおり、中島河太郎先生によって「代作」と註記された一篇だが、その根拠は不明だ。

 探偵小説ということばに取つて代って、推理小説ということばがつかわれるようになつた。おかしなもので、今では探偵小説なぞというと古臭い語感をあたえる。推理小説というと、少し固苦しいが、どこかインテリ好みで、純文学偏重の文学青年たちにも、コンプレツクスを感じさせないようだ。そんなせいからでもあるまいけれど、純文学畑の若い作家たちも、自らすすんで推理小説を書くようになつた。

 これはよろこばしい傾向で、いわゆる文芸的に観賞眼のレベルの高い、つまり、常識的にいつて高級な読者層の批判に堪え、魅力をもつことのできる作家が、近ごろ続々とあらわれている事実は世間周知の通りである。ここにいちいち名まえはあげないが、たとえばベスト・セラーになつた松本清張の作品だとか、スリラー小説として一生面をひらいた有馬頼義、菊村到の作品だとか、推理小説の分野がひろく且つ深みを加えてきたといつてよかろう。この分でゆけば、この新しいブームはつづき、新しい作家の登場も期待してよいのではなかろうかと思う。

 代作だという指摘があることを知ったうえで読むと、どうも乱歩の文章ではないような感じがしてくる。確たる根拠はない。表記や語彙をほかの随筆と仔細に照合すれば確たるところが判明するのかもしれないが、一読しただけの印象で述べるなら、乱歩の文章とはどこか肌ざわりがちがう。

 引用した文章から拾ってみると、「探偵小説なぞ」の「なぞ」がひっかかる。乱歩が「なぞ」という副助詞を使用した例は、たちどころには思い浮かばない。「ベスト・セラー」という言葉も、乱歩はナカグロなしでつかっていたような気がする。引用していない箇所には「ホンヤク」という表記が見えるが、乱歩はつねに「飜訳」と書いていたはずだ。だから違和感が拭えない。

 内容からいっても、前年の8月号から編集を手がけていた「宝石」のことにふれていないのはやや不自然ではあるまいか。ただし、まったくのでたらめが記されているというわけでもない。だからこれは、口述筆記によるものと見ておくのが妥当なのではないか。

 むろん実際に乱歩が書いたのかもしれないし、中島先生の指摘どおり代作であるのかもしれない。即断はできない問題だ。とりあえず「江戸川乱歩執筆年譜」に記載するにあたっては、「代作か」との註記を附しておいた。


 ■2月19日(月)
2005年度の経過でござるの巻 

 いまさらの観がなきにしもあらずなのですが、2月1日に名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会に関する報告をつづけます。

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 というしかない名張市教育委員会へのご挨拶はもう少し先のことになりましょうか。関係各位はしばらく顫えておりなさい。

 さて、2月1日の委員会で配付された資料のうちの「桝田医院第2病棟跡地活用に関するこれまでの協議経過」から引きましょう。名張まちなか再生委員会がもう少し公開性というものに配慮してくれていさえすれば、私がいまごろになって自分のサイトでこんなことをする必要なんか全然なかったわけなのですが、まあいたしかたありません。

 ここであらためてしつこくも指摘しておきますならば、以下に紹介する「協議経過」はいっさい無効です。理由はいうまでもないでしょう。名張まちなか再生プランには桝田医院第二病棟に関する記述が片言隻句も見られないからです。名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の活用策を協議することにはかけらほどの正当性も認められません。まったくのインチキです。連中は勝手にやっているだけなのさ。このことは2月1日の委員会でも厳しく指摘しておきました。

 まず2005年度を見てみます。

これまでの経緯(平成17年度)
第1回:平成17年7月4日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
プロジェクトの進め方
→細川邸検討班と桝田医院第2病棟検討班を設置。
2、
桝田医院第2病棟活用方針
→桝田医院第2病棟の利活用にあたっては、江戸川乱歩をテーマとする必要がある旨の共有。
3、
その他
→桝田医院第2病棟から桝田医院通抜路地を通り細川邸を結ぶ動線の確保が有効である旨を確認。
第2回:平成17年7月29日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
桝田医院第2病棟活用方針
→乱歩生誕地碑を残し(敷地内移設は可)、既存建物は撤去したうえ、(仮称)乱歩資料館を整備する。
→江戸川乱歩生家復元の可能性についても検討していく。
2、
その他
→名張図書館の江戸川乱歩コーナーの資料の扱いについても検討する。
→(仮称)乱歩資料館の維持管理・運営に関しても研究していく(市としては民営が望ましい)。
第3回:平成17年8月30日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
桝田医院第2病棟活用方針
→江戸川乱歩記念館・生家(案)と記念公園(案)を示し、乱歩蔵びらきの会代表から、乱歩生家を復元するとともに、長屋のイメージを活かし2棟(1棟は生家、1棟は資料館)が連なるものとするとの提案がなされた。
2、
その他
→資料館は通常行政が管理している場合が多いため、整備する施設の内容とも調整を図りながら、今後検討していく必要性が示された。
第4回:平成17年9月14日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
桝田医院第2病棟活用方針
→第3回での提案内容を踏まえ、長屋だったと思われる生家のイメージを活かし2棟が連なるものとする案が協議用として提示された。
2、
その他
→公設民営における民側の組織設立にむけた、研究会準備会の必要性を共有した。
第5回:平成18年3月20日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
桝田医院第2病棟活用方針
→長屋(案)に関しては本 PJ で十分協議したものではないため、跡地活用にむけた専門協議組織の設置及び基本計画案検討の必要性を共有した。
2、
その他
→専門協議組織の設置にあたっては、行政と民間側でその枠組みを検討することとした。
第6回:平成18年3月23日
名張まちなか再生委員会役員会
今後の活動
→(仮称)乱歩文学館整備にむけた専門協議組織を設置し迅速に基本計画案の検討を行う必要性を確認した。

 驚くべき無能ぶりというしかありません。ほとんど言葉を失います。2005年度に六回の会合が開かれていったい何がどうなったのか。乱歩資料館ないしは乱歩文学館、それから乱歩の生家や記念公園などに関する検討が必要であるということが確認されただけの話であったみたいです。検討することが必要だってそんなあーた、あーた方は検討するために集まっておるのではなかったのかしら。しっかりしろばーか。

 ツッコミどころは気が遠くなるほども多けれど、こんな無効な協議にいまからツッコミを入れることには毛筋ほどの意味も見いだせません。すべてスルーしてやることにいたしますけど、ひとつだけ附言しておくことにしましょうか。

 この年7月1日に私は名張まちなか再生委員会の事務局を訪れました。委員会の名簿を一覧し、乱歩関連資料が展示されるという歴史資料館の検討を担当するメンバーが乱歩のらの字も歴史のれの字もご存じない方ばかりでありましたゆえ、驚きあきれ正気の沙汰かと疑いもし、せめて基本的な知識だけでも教えてやるからそのための場を設けろと提案いたしましたところ、上の引用にあります第二回、7月29日の歴史拠点整備プロジェクトでそのことが検討されまして、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 との結論を出していただいた次第でした。ばーか。眼にしみるほどのばかである。いいかばか。2005年度の結論として結局は「専門協議組織」が必要だということになっておるではないか。そんなのは最初からわかりきったことではないか。だからおれは乱歩のらの字も歴史のれの字もわきまえぬうすらばかに基本的なことだけでも教えてやろうと申し出たのだ。むろん基本的な知識を身につけたところでばかはばか、名張まちなか再生委員会のみなさんにまともな協議検討などできるはずがないのであるが、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 なんていってるようなやつは委員としてすでに失格である。ばかはばかでしかたがないけど、それならばせめてもう少し謙虚になりなさい。他人から寄せられた助言には虚心坦懐に耳を傾けなさい。ばかが寄り集まって誰のいうことも聞いてなんかやらないぞ、などと力み返ってるなんてまるでばかみたいだぞ。いやまあばかではあるのだけれど。

 といったところで2006年度はまたあしたの巻、でござった。ニンニン。

  本日のアップデート

 ▼1952年9月

 『探偵怪奇恐怖小説名作集』について 江戸川乱歩

 「寸鉄」のあとは横溝正史の話題に移行するつもりだったのだが、トイレつき書庫の片づけものにともなって出てきたコピーの話題をつづける。

 とうの昔にコピーをお送りくださっていた方には合わせる顔がない。おとといきのうの「寸鉄」のコピー同様、お送りいただいたときにはいまだ当サイト「江戸川乱歩執筆年譜」に記載できる状態ではなかったのかもしれないが、いずれにせよ当方の怠慢がしからしめたところである。

 「探偵実話」の特別増刊に掲載された。特集の序文のようなものだとお思いいただきたい。冒頭二段落を引く。

 日本の探偵小説の半分は、怪奇恐怖小説の部類に属している。探偵小説が今日の隆盛を見るに至つた一つの理由は、本格探偵小説以外に、この怪奇恐怖小説が多くの読者に歓迎されたからである。

 本誌がこの度、谷崎氏の名作『人面疽』を始め、二十五篇の名作異色作を集めて、『探偵怪奇恐怖小説名作集』を発行したことは、日本では始めての企てで、少くとも日本探偵小説の半分の歴史が、こゝに集約されているといつても過言ではあるまい。

 二十五作の全容をお知らせしたいところだが、手許にある目次のコピーで確認できるのは以下の十作。

探偵怪奇恐怖小説最高傑作全集
人面疽 谷崎潤一郎
十四人目の乗客 大下宇陀児
処女水 香山滋
面(マスク) 横溝正史
階段 大坪沙男
瓶詰地獄 夢野久作
逗子物語 橘外男
その暴風雨 城昌幸
塗込められた洋次郎 渡辺啓助
柘榴病 瀬下耽

 乱歩作品では「芋虫」が採られ、松野一夫が挿画を担当している。

 二十五作品の選出は「探偵実話」編集部によるものらしい。巻末の「編集余白」には、

 ──今までこうした怪奇探偵小説の傑作を一本にまとめたものが、単行本にも雑誌にも現ていない。

 とあり、乱歩も「日本では始めての企て」としているが、なるほど前例には思いあたらない。鮎川哲也が編んだ「怪奇探偵小説集」の先蹤というべきか。

 ちなみに特集のタイトルは、乱歩が「探偵怪奇恐怖小説名作集」と書き、目次には「探偵怪奇恐怖小説最高傑作全集」とあり、ご丁寧なことに表紙には「探偵怪奇恐怖小説名作二十五人集」と大書されていて、なんだか錯乱状態を呈している。「江戸川乱歩執筆年譜」に記載するにあたっては表紙に掲げられたタイトルを採用した。


 ■2月20日(火)
きょうは2006年度でござるの巻 

 きのうにひきつづき、「桝田医院第2病棟跡地活用に関するこれまでの協議経過」から引きます。2006年度です。

これまでの経緯(平成18年度総会まで)
第7回:平成18年5月18日
名張まちなか再生委員会役員会
平成18年度活動
→(仮称)乱歩文学館整備にむけた基本計画・実施設計を継続的に行っていく旨を確認した。
→桝田医院第2病棟の解体除却を行う旨を確認した。
第8回:平成18年5月25日
再生整備プロジェクト合同会議
歴史拠点整備 PJ 活動
→平成18年度の歴史拠点整備 PJ の活動は、NPO なばり実行委員会との連携活動と乱歩検討会の運営の2つを柱に進める旨を確認した。
第9回:平成18年6月2日
歴史拠点整備プロジェクト
1、
桝田医院第2病棟活用目的
→桝田医院第2病棟は、江戸川乱歩生誕地碑のある敷地という好立地条件を活かして、江戸川乱歩に関係する施設に建て替え、細川邸とネットワークさせるなど、まちなか再生に関し、より効果の高い連携手法を検討していくことを確認した。
2、
平成18年度事業計画
→(仮称)乱歩文学館整備検討組織の設置及び基本計画・実施設計を行う旨を確認した。
→桝田医院第2病棟の解体除却を行う旨を確認した。
第10回:平成18年6月6日
名張まちなか再生委員会役員会
1、
桝田医院第2病棟活用目的
→桝田医院第2病棟は、江戸川乱歩生誕地碑のある敷地という好立地条件を活かして、江戸川乱歩に関係する施設に建て替え、細川邸とネットワークさせるなど、まちなか再生に関し、より効果の高い連携手法を検討していくことを確認した。
2、
平成18年度事業計画
→(仮称)乱歩文学館整備検討組織の設置及び基本計画・実施設計を行う旨を確認した。
→桝田医院第2病棟の解体除却を行う旨を確認した。
第11回:平成18年6月18日
名張まちなか再生委員会総会
1、
桝田医院第2病棟活用目的
→桝田医院第2病棟は、江戸川乱歩生誕地碑のある敷地という好立地条件を活かして、江戸川乱歩に関係する施設を整備し、細川邸とネットワークさせるなど、まちなか再生に関し、より効果の高い連携手法を検討していく旨を確認した。
2、
平成18年度事業計画
→乱歩関連施設の整備にむけた専門的検討組織の設置及び維持管理・運営方針の検討を行っていく旨を確認した。基本計画・実施設計を行う旨を確認した。
→桝田医院第2病棟の解体除却を行う旨を確認した。
3、
名張まちなか再生プランの時点更新
→桝田医院第2病棟については、「また所有者より寄贈のあった乱歩生誕地碑に隣接する桝田医院第2病棟は、江戸川乱歩に関係の深い資料を展示できるよう、適正な施設の更新を行い、『初瀬ものがたり交流館』との相乗効果を図ります。」との記述を追記する旨を確認した。

 似たようなことがくり返されていますけれど、「検討していくことを確認した」みたいなことばかりです。肝心の検討はいつまでたっても始まりません。なぜか。検討する能力がないからです。乱歩のらの字も知らぬ人間が何十人と集まってみたところで検討などできるわけがないでござる。あまりにも愚かでござる。

 ところで上の引用にあります第十一回、昨年6月18日の総会に見える「時点更新」とは何か。あらためて確認しておきますと、名張まちなか再生委員会事務局に対し、名張まちなか再生プランに記されていない桝田医院第二病棟のことをおまえらが検討しているのは絶対おかしい、ルールや手続きを無視した話である、と私は詰め寄りました。もしも検討するのであればプランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集してプランを練り直し、桝田医院第二病棟のことを新たに盛り込むのが筋であろう、再招集するのかしないのか、その返答をいただきたい、と事務局に申し入れたのは、当サイト「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」によれば2006年1月27日のことでござった。

 ずいぶんのんびりした話でござるが、5月23日になってようやく、名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集することはできないとの結論が伝えられました。ではいったい、どうすればいいのか。私は事務局に宿題を出しました。5月25日付伝言から引きましょう。

 ではいったい、どうすればいいのか。そこで出番なわけです。行政の主体性ってやつの出番なわけです。そもそも名張まちなか再生プランはいったいどこが決めたものなのか。名張市ではないか。名張市が決めたものではないか。策定の実務を名張地区既成市街地再生計画策定委員会が担当し、まとめられた素案を市議会がチェックし、公開されたプランを読んだ市民がパブリックコメントを寄せ、つまりは所定のルールを守り必要な手続きを踏んだそのうえで、ほかならぬ名張市がみずからの主体的な判断としてあのプランを正式決定したのではないか。だとすれば、行政の主体的な判断にもとづいてあのプランに変更を加えることはいくらだって可能なはずである。だったらそれをすればいいだけの話である。

 行政が主体性を発揮し、名張まちなか再生プランに遅ればせながらみずからの手で修正を加える。それが私のいう光明です。不可能なはずはありません。むろんそのためにはなんらかの手続きが要請されるでしょうし、桝田医院第二病棟の整備構想がそうしたハードルをいっさいクリアすることなく進められてきたところの、議会のチェックやパブリックコメントの募集も必要になってくるかもしれません。それは当然のことでしょう。当然のことは当然のこととして受け容れるしかありません。で、名張まちなか再生プランに名張市みずからが変更を加えるためのもっとも合理的な手法を考える。それを名張市サイドの宿題にしていただいて、おとといの会見はつつがなく終了した。私はそのように理解しております。

 それから一か月以上経過した6月26日、宿題の答えが伝えられました。「時点更新」というシステムを考えついていただいたそうです。しかしそんなものはインチキにインチキを重ねるものでしかありませんでした。私はあきれ返ってしまいました。6月28日付伝言から引きましょう。

 そもそも私は私は名張まちなか再生委員会における桝田医院第二病棟の整備構想にかんして、それが議会のチェックを経ることもなければ市民に公表してパブリックコメントを募集することもなく、完全なノーチェックのままいつのまにか検討されていることがおかしいと批判してきたわけです。名張まちなか再生プランに片言隻句も記されていなかった構想を名張まちなか再生委員会が検討するというのであれば、その構想もプランと同様のハードルをクリアすることが必要であろうと、だから必要な手順を踏んでプランを変更するべきであろうと、しごくあたりまえでこのうえなくまっとうなことをずーっとばかみたいに主張してきたわけです。委員会と市という当事者だけで好きなように更新ができる、ありていにいえば自由にプランを変更してしまえるというのでは、私の批判はこれっぽっちも生かされていないことになります。むしろもっとも望ましくない方向へ向けて制度化が進められつつあるといってもいいでしょう。

 しかし、しかしそんなこと以前にもっと重要な問題がここには存在しています。それは、いくらフィードバックシステムを確立したとしてもフィードバックできないものはフィードバックできない、ということです。プランに記されていた細川邸の問題をプランにフィードバックすることは可能であっても、プランに記されていない桝田医院第二病棟の問題はいったいどこにフィードバックさせるというのか。そんなものはどこにもできない。できるはずがないではないか。まったく困った話である。

 まあ無茶苦茶なわけである。もうこいつらには何いったってだめだろう。話にならん。ていうか話が通じない。宇宙人と会話をしているような気さえしてきた。ですから私はこの日、2006年の6月26日に名張まちなか再生委員会の事務局で、えーいもうわしゃ知らん、好きにしろ、わしゃもう何もいわんし協力もせん、おさらばである達者で暮らせ、と長いお別れを告げてきたのでござった。

 ですからあーこれこれ名張まちなか再生委員会のみなさんや。みなさんには私の協力を要請することなんかできないでござる。どのつらさげてそんなことがいえるでござるか。拙者はいやになるくらい協力したでござる。名張まちなか再生プランが公表されればその不備をパブリックコメントで指摘し、歴史資料館に乱歩の資料を展示するのであれば乱歩に関する知識も必要だろうからそれを教えて進ぜようと申し出たでござる。それをおのおの方、

 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」

 とはそもなにごとぞ。それでも拙者は事務局に足を運び、名張まちなか再生プランに関していろいろと助言をしてきたでござる。それをいっさい無視して知らぬ顔を決め込んでおられたおのおの方が、この期におよんで拙者の協力をお求めになるのは虫がよすぎるでござるぞ。とか思いながらも足を運んだ名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会に関する報告はあしたもつづくでござる。ニンニン。

  本日のアップデート

 ▼1952年9月

 作品解説 中島河太郎

 きのうとりあげた「探偵実話」には乱歩の「芋虫」が採られていて、その冒頭には中島河太郎先生による作品解説が附されている。一段落だけ引く。

 探偵小説と江戸川乱歩とは表裏一体で、氏こそ日本探偵小説の生みの親であり、育ての親であつた。氏ほど長い間探偵小説に烈しい愛情を懐き続けた人はないし、どの一篇をとつても読者の魂をゆすぶらないものはない。