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2007年2月中旬
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きのうの朝、この伝言をほぼ書き終えて手を入れているとき、いきなり大工さんがやってきて工事がはじまりました。書斎と書庫兼トイレに換気扇を設置する工事です。きのうの伝言は最初おれという一人称で記したのですが、内容からいえばむしろ私のほうがふさわしかったものですから、文中のおれを私に書き替えていたところでした。すべて書き替えたつもりでアップデートしたのですが、さっき読み返したらおれがひとつだけ残っていましたのでこっそり私に直しておきました。 本当は、 ──混雑のピークは過ぎていたが、行きかう人はみな柔和で、どこか幸福そうな表情をしていた。 といった記述のあと、自分がトニオ・クレーゲルみたいな気分でお祭りの雑踏を歩くシーンを挿入しようかとも考えていたのですが(女子高生といっしょに八日戎のにぎわいを体験したことで高校生だったころトニオ・クレーゲルのような気分でお祭りの雑踏を歩いた記憶に私が思いあたったのかもしれないなと、鋭敏な読者ならそんなふうに察知してくれるかもしれないなと、私はそんなふうに考えた次第だったのですが)、そんな余裕はとてもなくなり、「本日のアップデート」の説明文もごく素っ気ないものとなってしまいました。まあしかたありません。 それで大工さんに書斎を明け渡して工事をしてもらったところ、書庫兼トイレの換気扇はこんなぐあいになりました。 これは文庫版全集を集めたコーナーで、いちばん高い棚には光文社から寄贈していただいて保存用とした乱歩全集が著者名五十音順という基本を無視し帯は捨てるという原則も踏みにじって鎮座していたのですが、換気扇が割り込んだ結果こんなようなことになってしまいました。便所の換気扇を挟んで乱歩全集を並べているとなると、天国の乱歩から叱られてしまうかもしれません。てゆーか自分のサイトに便所の換気扇の写真を掲載して喜んでるトニオ・クレーゲルっていったいどうよ。 話題が変わります。2月17日の土曜日、九州は福岡県糟屋郡新宮町の新宮コミュニティセンターそぴあしんぐうで、2004年11月14日に名張市青少年センターで初演された乱歩狂言「押絵と旅する男」が上演されます。出演は茂山七五三さん、茂山宗彦さんら。詳細はこのページでどうぞ。 いつかも記しましたけれど狂言であるにもかかわらず笑いを取ることを初手から放棄している点が私にはいささか不満なのですが、伝統芸能というものの奥深さを実感できる舞台です。お近くの方はお暇でしたらぜひどうぞ。 こんなページもありました。 それでは私は宝塚に赴いて「黒蜥蜴」を観劇してまいります。
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「いと穉き黒蜥蜴」の「穉き」は「いとけなき」とお読みいただきたい。稲垣足穂の「美しき穉き婦人に始まる」という小説を読むまで、私は「穉」という漢字が存在することなどまるで知らなかったのだが。 さて宝塚に行ってきた。はじめてのことだ。阪急宝塚線終点の宝塚という駅で降りたことさえ、私にはなかった。午後2時半ごろ、その宝塚駅で降りて、花の道と呼ばれるらしい遊歩道を宝塚大劇場までたどりはじめると、一回目の公演がはねたのだろう、大勢の人波が駅に向かって寄せてくる。 宝塚歌劇というものにまったく無関心に生きてきた私には、それでも、あるいはそれゆえにこそ宝塚なるものについての先入観があった。そのひとつは、宝塚歌劇の観客というのはフリルなんかがひらひらしている可愛いお洋服を一着におよんだ夢見がちな少女たちばかりなのであろうというものであった。しかしこうしてすれ違ってみると、それがまったくの誤解であったことがよくわかる。彼らは宝塚歌劇というよりは、むしろ松竹新喜劇の客層であるように見受けられた。いったいに年齢が高く、ある程度裕福そうで、それゆえにかごてごてとした派手な服装を好む。しかし松竹新喜劇の客層と決定的に異なっているのは、女性客ばかりが異様に多いということだ。 だから私は恥ずかしかった。どうなることかと思った。舞台自体がつまらなかったらどうしようという不安もあったが、いかにも場違いな場所にいるようで、いや実際にいたわけだが、どこにも身の置きどころがないような不安をおぼえた。じき宝塚大劇場に到着した。エントランスには入らず、喫煙コーナーを見つけて煙草をふかしていると、そこに煙草を喫いにくるのもみな女性である。毛皮のコートを羽織ったりしている。私はとても気恥ずかしく、肩身の狭い思いをした。この先どうなることかと本気で案じた。
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宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」全十二場のチケットは、宝塚ファンにつてがあるという知人に手配をまかせてあった。エントランスで落ち合ってチケットを受け取り、実際にすわってみると前から六列目だ。特等席といっていい。最前列から五列目までが SS 席で一万円、六列目からが S 席になって七千五百円だという。 チケットの入手を依頼したとき、宝塚とはいったいどんな世界なのか、私はこの知人に尋ねてみた。 「とても大がかりな学芸会」 というのが答えだった。その学芸会の幕があがった。第一場の梗概はパンフレットにこう記されている。
不自然なエロキューションや尋常とは見えない所作は、驚くほど短い時間で気にならなくなった。宝塚には宝塚だけの文法があり、文体があるということだろう。そして学芸会なのだとすれば、これは疑いもなく正しい学芸会だ。装置や衣装が贅沢で、しかも優秀な指導者がついている。 第一場のクラブのシーンを見るだけでそれがわかった。演出はきわめてテンポがよく、脚色も気が利いている。そのせいで不自然がたちまち不自然でなくなってしまう。時代は敗戦からまもないころで、戦争のもたらした傷痕がまだなまなましく残されている、といった伏線も黒蜥蜴とクラブの客たちとの陽気な歌に暗示されている。 白のスーツ姿で登場した明智小五郎には、すらりとした長身という紋切り型がそのままあてはまる。いわゆる耽美系の漫画同人誌から抜け出てきたような、と表現してもいい。まるでホストのようだといってもいいのだが、それでは宝塚ファンの顰蹙が待っていよう。 板つきで出ていた黒蜥蜴は、しかしやや違和感を感じさせた。これまでに黒蜥蜴を演じた役者にくらべるとあきらかに華奢で、いたいけでさえあった。だが終幕にいたって、観客はこの黒蜥蜴がそうでなければならなかった理由に気づかされる。 そのあたりの事情は、スタッフによってこんなぐあいに明かされている。パンフレットから引用しよう。
大阪へ戻る阪急電車の車内でこの文章を読み、これこそが宝塚の文法というものだろうと私は納得した。すでに存在しているストーリーから意想外な少女性を読み取ってしまう文法。その文法はたしかに、まったく新しい黒蜥蜴の像を魔法のように鮮やかに浮かびあがらせていた。不自然は不自然ではなくなっていた。私はほとんど驚嘆した。 ともあれここに、わが国の演劇と映画の歴史上もっとも穉い黒蜥蜴が誕生したのだ。「穉い」は「いとけない」とお読みいただきたい。 ところできのうの公演で、宝塚大劇場は停電に見舞われたらしい。毎日新聞のオフィシャルサイトにこうある。
お見舞いを申しあげておきたい。 |
去年の11月から12月にかけて、三島由紀夫版の「黒蜥蜴」が東京で公演されていたらしい。インターネットを検索していて気がついた。オフィシャルページを掲げておく。 黒蜥蜴を演じたのは宝塚出身の麻実れいさんで、いくら宝塚歌劇にくわしくない私だって、麻実さんがあの「ベルサイユのばら」のアンドレ役で一世を風靡したことくらいは知っている。しかし、黒蜥蜴に扮した役者のなかに麻実さんを含めて考えたとしても、史上もっとも穉い黒蜥蜴が宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」のそれであることには変わりがない。 黒蜥蜴の少女性を際立たせるために、原作にはアレンジが加えられている。原作至上主義者には容認しがたい改変かもしれないが、私はいと穉き黒蜥蜴の誕生を喜ばしいものに思う。そうした改変こそが宝塚歌劇の生命を支えているにちがいないのだ。そのアレンジがいかなるものであったのか、これから観劇する人もあるだろうからここには記さない。ただし、思いがけずというか、あるいは予想どおりというか、原作には出てこない少年探偵団が登場して観客を楽しませてくれることくらいは書いておいてもいいだろう。 少年探偵団の団員たちが元気よく歌ったり踊ったりするシーンを眺めながら、私には卒然として了解されたことがあった。知人は「とても大がかりな学芸会」と説明してくれたが、舞台をまのあたりにした実感にもとづいて表現するならば、宝塚歌劇というのはお稽古ごとの絶巓なのである。小さいころからピアノやバレエを習っていたのであろう少女たちが、お稽古ごとの頂点を極めてこのステージに立っている。私は彼女たちの、おそらくはハードなものだったのであろう練習や、宝塚歌劇というシステムに身を置く人間としての苦労といったものにまでぼんやりと思いを馳せた。 そしてそのことで、自分がいつのまにかお稽古ごとの絶巓にまちがいなく立ち会っているのだという事実に気づいた。舞台には子供たちがおり、その裏には指導者がいる。そして客席には親がいる。親というのが極端ならば、保護者か庇護者でいいだろう。驚くべきことに私は、彼女たちの保護者か庇護者ででもあるような気分になって、彼女たちがずっと夢見ていたのであろう絶巓のステージを見守っていた。 明智小五郎を演じた春野寿美礼さんは立ち姿がまことに美しく、歌唱も圧巻だった。パンフレットに掲載された稽古風景の写真を見るとかなり精悍な顔つきで、若いころの松田優作に肖ている。黒蜥蜴の桜乃彩音さんは逆にひたすら可憐で、やはり宝塚出身の涼風真世さんに似た印象がある。それが穉い黒蜥蜴などという複雑な役どころを懸命に演じているものだから、私はまさに庇護者のような心境になって肩入れしてしまった。宝塚歌劇というのはじつに端倪すべからざるものなのだ。 2月11日付伝言で引いた三島版黒蜥蜴の割台詞、あれに似た趣向もあった。ただし宝塚だから二台の自動車によるカーチェイスとして演じられ、割台詞もすべて歌によって構成される。これもかなり心躍る演出で、大都会を描いた書き割りに二か所、自動車のボンネットが顔を出し、それぞれに明智と浪越、黒蜥蜴と雨宮というふたつのコンビが乗り込んで追跡劇をくりひろげる。むろん自動車が動くことはないのだが、そのボンネットが漫画のような描線で描かれて笑いを誘うものであることも手伝って、停止したままのカーチェイスはおおいに客席の喝采を博した。
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どうも身辺があわただしくっていけない。きのうの朝もサイトを更新できなかった。やや間が抜けることにはなるが、宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」の話題をつづける。 ネタを割ることは禁物だが、恐怖美術館の話題はどうだろう。乱歩が、 ──すばらしくはなくって? 若い美しい人間を、そのまま剥製にして、生きていれば段々失われて行ったに違いないその美しさを、永遠に保って置くなんて、どんな博物館だって、真似も出来なければ、思いつきもしないのだわ」 と怯えに裏打ちされた夢想を託し、三島由紀夫が顫えるようにそれに共振して、 ──きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心から思ふの。年をとらせるのは肉体ぢやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら…… と見果てぬ夢を舞台に実現してみせた、そして上演にあたっては壮麗な宮殿のような装置で表現されることもある恐怖美術館は、しかし宝塚歌劇のステージには影も形もなかった。たしかに終幕、黒蜥蜴の隠れ家は登場する。だがそれは少女たちの楽園とでも呼ぶべき明るい場所で、乱歩ファンならあるいはパノラマ島を連想するかもしれないのだが、とにかくその楽園には生身の少女たちしか存在していない。剥製などというまがいものは存在しない。必要がない。 それが宝塚というものだろう。恐怖美術館の出てこない「黒蜥蜴」。私はそのことに感じ入った。乱歩と三島の怯えなどどこか他界の消息に過ぎず、この不思議な舞台には美がかくのごとく現前している。しかもそれは、まさしく十年たっても二十年たっても、永久機関のように次から次へと無尽蔵に補充されつづけるのだ。そのことに思いあたって、私はなんだか爽快な気分になった。それから三島版黒蜥蜴のこの台詞を思い出した。 ──そして最後に勝つのはこつちさ。 上演時間一時間半。手際よくまとめられた舞台の幕が降りた。カーテンコールがあるものだと思い込んでいたら、これから幕間に入ると事務的な口調のアナウンスが流れる。私は立ちあがったのだが、隣にすわったふたり連れの婦人客が動こうとしない。しばらく待ってみても動きそうな気配がないので、彼女たちの前をすり抜けるようにして通路に出た。そのとき見ると、年配のほうの女性、もう老婦人といっていい年代の女性が、片手で眼鏡を押しあげ、もう片方の手でハンカチを眼に押し当てているのがわかった。 私は驚いた。見終わって落涙しなければならぬ芝居ではなかった。こんな特等席にすわっているのだから、彼女はもしかしたら出演者の血縁なのかもしれない。孫娘の晴れ舞台に感極まったのかもしれない。だが、と私は考えた。彼女は心からなる宝塚歌劇の庇護者であり保護者であるのかもしれない。このとても大がかりな学芸会、お稽古ごとの絶巓たる発表会に欠かすことのできない人間のひとりだ。舞台の緊張感を客席で共有し、それから開放されたとたんにわれ知らず涙が出てきたのだろう。だとすれば彼女は、じつにあっぱれで正しい宝塚の観客だというしかないではないか。 劇場内の食堂でビールを飲み、外に出てみると気持ちのいい夕方だった。花の道を宝塚駅まで歩く。大型犬を連れて散歩する老人の姿が眼につく。宝塚というのは意外に山深いところにあって、まちのすぐむこうには低い山が迫っている。盆地に生まれ育った私にとって、それは心の安らぐ景観だ。私は名張まで帰るのがどうにも億劫になり、宝塚駅前あたりのマンションに住んで、宝塚歌劇の台本を書くとかバンフレットを編集するとか、そんな仕事で日々を送れたらどんなに幸福なことだろうか、とばかみたいなことを考えながらゆっくりと歩いた。おや、今度はボルゾイを連れたおじいさんだ。
身辺のあわただしさには一連の工事も含まれていて、便器、換気扇のあとは洗面台の工事がきのう終了し、私の書斎に隣接するトイレつき書庫はこんなあんばいになった。 ひとことお知らせしておく次第である。 |
もう2月も17日だ。 2月1日に名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会。その報告をつづけているところへ三重大学で開かれた高校生フォーラムが出てきたり名張まちなかがにぎわった八日戎が出てきたり宝塚花組公演「明智小五郎の事件簿─黒蜥蜴」が出てきたり、トイレつき書庫がついに竣工したという話題もあったりして肝心の報告がなかなか進まない。 そういえば掲示板「人外境だより」にこんな投稿も寄せられた。
しかしこれだけでおしまいだ。なんのことだか理解が届かぬ。いったいこいつはなんなんだというしかない。 私としては2月5日付伝言に記したところの、 ──それにしても、おれのことを排他的だとはよくぞ申した。いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。まあ不憫といえば不憫なわけであるけれど、この職員の方のご発言には思わず耳を疑ってしまうものが含まれており、それは名張まちなか再生プランとは直接関係のないものでしたからその場では不問に付しておきましたけれど、といって聞き捨てにはできないものでありましたのであらためてメールをさしあげてご存念をお聞かせいただくことになるでしょう。なんか不憫だ。しかしいたしかたありません。発言には責任ってものがつきまとうわけなんですから、なあなあの通じる仲間うちでならいいけれど、おれみたいな外部の人間、しかも口舌の徒と口を利くときはもう少し言葉に気をつけたほうがいいと思うぞ。 といったあたりの問題に早く決着をつけたい。とはいえきょうは土曜日だからお役所もお休みだ。だからこちらもお休みとしておく。
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心温まるニュースというやつがある。身辺が妙にあわただしかったり、世の中がどうにも殺伐としていて不快なニュースばかりが報じられたり、そんなときに思いがけず接した心温まるニュースというやつは、素直に感謝したくなるほどありがたいものだ。 2ちゃんねるのニュース速報+板に「【社会】“忍者”の威信かけ来月勝負─伊賀と甲賀の市長が手裏剣対決[02/17]」というスレッドが立っていた。下の画像をクリックすればお読みいただける。 「三重県伊賀市の今岡睦之市長(67)と滋賀県甲賀市の中嶋武嗣市長(59)が3月24日、手裏剣対決をすることになった」という冒頭の一文から心が温まってくる。あまり関係のないことだが、このニュースが痛いニュース+板ではなくニュース速報+板で扱われたことにも心温まるものを感じてしまう。 2ちゃんねらーの食いつきもすこぶるよろしく、「四方や八方じゃないのなら結構すごい」「わざわざ自分たちの貴重な観光資源に誤解を与えるイベントやってどうすんだ?」「なんだこりゃ」「くだらなすぎてワラタ」「負けたほうは市長辞職するくらいの覚悟でやれ」「こいつら本物のアホだな」「こういう町おこしは好きだな」「これでめちゃめちゃ投げるの上手かったらそれはそれで面白いな」「お前ら今岡市長を知らな杉だろ、奴は速いよ」「日本中こんなニュースで溢れかえればいいのに」などと好意的だ。 伊賀市というか旧上野市には、忍者にちなんでこの手のくだらない企画を考えさせたらほとんど天才的なものがある。このスレッドにも「忍装束で市議会とかやってんだっけ?」というレスが見えるが、忍者装束で市議会を開くなどというたわけたことは、とても名張市には真似ができない。いくらばかにされても伊賀市はこの路線をひた走るべきだろう。ばかではあるが人の心を温かくする自治体、伊賀市。なかなかいいではないか。 本日もなにやらあわただしいゆえこれにておしまいでござるの巻、であった。ニンニン。
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いまさらの観がなきにしもあらずなのですが、2月1日に名張市役所で開かれた名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会に関する報告をつづけます。 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 というしかない名張市教育委員会へのご挨拶はもう少し先のことになりましょうか。関係各位はしばらく顫えておりなさい。 さて、2月1日の委員会で配付された資料のうちの「桝田医院第2病棟跡地活用に関するこれまでの協議経過」から引きましょう。名張まちなか再生委員会がもう少し公開性というものに配慮してくれていさえすれば、私がいまごろになって自分のサイトでこんなことをする必要なんか全然なかったわけなのですが、まあいたしかたありません。 ここであらためてしつこくも指摘しておきますならば、以下に紹介する「協議経過」はいっさい無効です。理由はいうまでもないでしょう。名張まちなか再生プランには桝田医院第二病棟に関する記述が片言隻句も見られないからです。名張まちなか再生委員会が桝田医院第二病棟の活用策を協議することにはかけらほどの正当性も認められません。まったくのインチキです。連中は勝手にやっているだけなのさ。このことは2月1日の委員会でも厳しく指摘しておきました。 まず2005年度を見てみます。
驚くべき無能ぶりというしかありません。ほとんど言葉を失います。2005年度に六回の会合が開かれていったい何がどうなったのか。乱歩資料館ないしは乱歩文学館、それから乱歩の生家や記念公園などに関する検討が必要であるということが確認されただけの話であったみたいです。検討することが必要だってそんなあーた、あーた方は検討するために集まっておるのではなかったのかしら。しっかりしろばーか。 ツッコミどころは気が遠くなるほども多けれど、こんな無効な協議にいまからツッコミを入れることには毛筋ほどの意味も見いだせません。すべてスルーしてやることにいたしますけど、ひとつだけ附言しておくことにしましょうか。 この年7月1日に私は名張まちなか再生委員会の事務局を訪れました。委員会の名簿を一覧し、乱歩関連資料が展示されるという歴史資料館の検討を担当するメンバーが乱歩のらの字も歴史のれの字もご存じない方ばかりでありましたゆえ、驚きあきれ正気の沙汰かと疑いもし、せめて基本的な知識だけでも教えてやるからそのための場を設けろと提案いたしましたところ、上の引用にあります第二回、7月29日の歴史拠点整備プロジェクトでそのことが検討されまして、 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」 との結論を出していただいた次第でした。ばーか。眼にしみるほどのばかである。いいかばか。2005年度の結論として結局は「専門協議組織」が必要だということになっておるではないか。そんなのは最初からわかりきったことではないか。だからおれは乱歩のらの字も歴史のれの字もわきまえぬうすらばかに基本的なことだけでも教えてやろうと申し出たのだ。むろん基本的な知識を身につけたところでばかはばか、名張まちなか再生委員会のみなさんにまともな協議検討などできるはずがないのであるが、 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」 なんていってるようなやつは委員としてすでに失格である。ばかはばかでしかたがないけど、それならばせめてもう少し謙虚になりなさい。他人から寄せられた助言には虚心坦懐に耳を傾けなさい。ばかが寄り集まって誰のいうことも聞いてなんかやらないぞ、などと力み返ってるなんてまるでばかみたいだぞ。いやまあばかではあるのだけれど。 といったところで2006年度はまたあしたの巻、でござった。ニンニン。
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きのうにひきつづき、「桝田医院第2病棟跡地活用に関するこれまでの協議経過」から引きます。2006年度です。
似たようなことがくり返されていますけれど、「検討していくことを確認した」みたいなことばかりです。肝心の検討はいつまでたっても始まりません。なぜか。検討する能力がないからです。乱歩のらの字も知らぬ人間が何十人と集まってみたところで検討などできるわけがないでござる。あまりにも愚かでござる。 ところで上の引用にあります第十一回、昨年6月18日の総会に見える「時点更新」とは何か。あらためて確認しておきますと、名張まちなか再生委員会事務局に対し、名張まちなか再生プランに記されていない桝田医院第二病棟のことをおまえらが検討しているのは絶対おかしい、ルールや手続きを無視した話である、と私は詰め寄りました。もしも検討するのであればプランを策定した名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集してプランを練り直し、桝田医院第二病棟のことを新たに盛り込むのが筋であろう、再招集するのかしないのか、その返答をいただきたい、と事務局に申し入れたのは、当サイト「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」によれば2006年1月27日のことでござった。 ずいぶんのんびりした話でござるが、5月23日になってようやく、名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集することはできないとの結論が伝えられました。ではいったい、どうすればいいのか。私は事務局に宿題を出しました。5月25日付伝言から引きましょう。
それから一か月以上経過した6月26日、宿題の答えが伝えられました。「時点更新」というシステムを考えついていただいたそうです。しかしそんなものはインチキにインチキを重ねるものでしかありませんでした。私はあきれ返ってしまいました。6月28日付伝言から引きましょう。
まあ無茶苦茶なわけである。もうこいつらには何いったってだめだろう。話にならん。ていうか話が通じない。宇宙人と会話をしているような気さえしてきた。ですから私はこの日、2006年の6月26日に名張まちなか再生委員会の事務局で、えーいもうわしゃ知らん、好きにしろ、わしゃもう何もいわんし協力もせん、おさらばである達者で暮らせ、と長いお別れを告げてきたのでござった。 ですからあーこれこれ名張まちなか再生委員会のみなさんや。みなさんには私の協力を要請することなんかできないでござる。どのつらさげてそんなことがいえるでござるか。拙者はいやになるくらい協力したでござる。名張まちなか再生プランが公表されればその不備をパブリックコメントで指摘し、歴史資料館に乱歩の資料を展示するのであれば乱歩に関する知識も必要だろうからそれを教えて進ぜようと申し出たでござる。それをおのおの方、 「現段階では乱歩に関して外部の人間の話を聴く考えはない」 とはそもなにごとぞ。それでも拙者は事務局に足を運び、名張まちなか再生プランに関していろいろと助言をしてきたでござる。それをいっさい無視して知らぬ顔を決め込んでおられたおのおの方が、この期におよんで拙者の協力をお求めになるのは虫がよすぎるでござるぞ。とか思いながらも足を運んだ名張まちなか再生委員会の第一回乱歩関連施設整備事業検討委員会に関する報告はあしたもつづくでござる。ニンニン。
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