2006年2月中旬
11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日

● 2月11日(土)

 さてしかし、おまえはそうやって『江戸川乱歩年譜集成』をつくるのだとひとり勝手におだをあげておるけれど、はたして予算の裏づけはとれておるのかと疑問にお思いの方もいらっしゃることでしょう。その点はご安心いただいていいように思います。江戸川乱歩リファレンスブックの第四巻を出すくらいのお金なら、名張市にだってあるはずです。なくてどうする。リフォーム詐欺と呼ぶしかない歴史資料館の整備にはお金を出す。名張のまちを書き割り一枚で覆い隠してエジプトやニューヨークに偽装しようという団体にもお金を出す。にもかかわらず……

 いやいや、いつまでこんなこといってても益はありません。とにかくお役所というのは封建時代さながらの前例墨守社会なんですから、過去三巻の前例あるいは実績のうえに江戸川乱歩リファレンスブックの四巻目をつくるということになれば、たかが三百万円程度の予算、捻出することは容易なはずです。出ないとなればえらいことになります。名張市は嗤われてしまいます。いまでも結構嗤われているようではあるのですが。

 それに私は、何も2006年度の予算で『江戸川乱歩年譜集成』をたったかたったか刊行しようと考えているわけではありません。山前譲さんによれば四十年かかっても不可能かもしれない事業に挑戦しようというのですから、とりあえず一年ほどは下調べにあてるつもりでおります。刊行予定はいまだ定かならず。

 そんな悠長なことをいっておって、おまえのクビのほうは大丈夫なのか、とお思いの方もいらっしゃるのかもしれませんが、こればっかりは私にもわかりません。ただし名張市役所に私のことを目障りだとか邪魔だとか煙たいとかウザイとか早くやめさせろとか、いやもうこれは市役所にかぎらず名張市内の官民双方にそんなふうに思っていやがる方が少なからずいらっしゃるであろうことはほぼ確実で、私の身分には例によって何の保証もありません。

 私は昨年の7月2日、この伝言板で名張まちなか再生委員会の批判を開始するにあたって、お役所ハードボイルド「アンパーソンの掟」にこう記しました。

 俺は名張市立図書館の乱歩資料担当嘱託。嘱託というのはいつクビが飛んでも不思議ではないポジションだが、いまのところは現役だ。名張市教育委員会と半年単位で契約を交わしている。九月末日には契約が切れることになるが、それから先も嘱託でいられるという保証はどこにもない。

 これはまったくこのとおりの意味で、しかも当時の私はかなり投げやりな気分になっていて、名張まちなか再生プランというインチキプランを正面から叩くのであるからもしかしたらクビかもしんないな、いーもんね、もういいんだもんね、インチキプランみちづれにして自爆してやるもんね、と本気で考えないでもありませんでした。むろん現在ではそれが短慮であったと自省している次第で、どうしてこのおれがあんなたわけたプランと心中しなければならんのか。

 しかし実際、こんな茶番はもううんざりだと私は思いました。名張まちなか再生委員会が組織されたときのことです。これは「アンパーソンの掟」にも縷々記したところですけれど、まーた「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」と同じ茶番を眼にしなければならんのか。私は暗然としてそう思いました。あの事業といいこのプランといい、その本質は何かといえば、無定見きわまりない行政が主体性を放棄し、不見識このうえない地域住民がそれにつけこんで……

 いや、いやいや、こんなこといってたってほんとに益はありません。明るく前向きな話題に移りたいと思います。

 明るく前向きな『江戸川乱歩年譜集成』の構想は、もとよりほとんど白紙の状態です。レイアウトのプランも浮かんでいないのですが、たぶん三段組みになるのではないかと思います。小学館の日本古典文学全集みたいな感じでしょう。

 いったい何年からスタートするのかというと、もしかしたら文化7年、西暦でいえば1810年ということになるかもしれません。乱歩のおじいさんが生まれた年です。去年であったかおととしであったか、私は池内紀さんの手になるカフカの評伝をひもといたのですが、カフカのおじいさんに関する記述から書き起こされていたのをすこぶる面白く思いましたので、乱歩の年譜もやっぱ二代さかのぼったあたりからはじめることで興趣が深まるのではないかしら。それに乱歩だって三人称の自伝「彼」には祖父母のことまで記しているのですから、こちらの年譜にも当然それを反映させる必要があります。負けてなんかはいられません。

 いやべつに勝ち負けの問題ではないのですけれど、とにかく私は『探偵小説四十年』には負けたくないなと思っており、分量的にもこれを圧することが念願である。敵は本文五百二十九ページ、索引三十三ページ、総五百六十二ページの大冊ですから、『江戸川乱歩年譜集成』は一ページでもいいからそれを上回る本にしたい。そんなことは無理か。だいたいが江戸川乱歩リファレンスブックは一巻ほぼ三百ページであるから、五百六十ページ以上となるとざっと二巻分。うーん。うーん。

 明るく前向きな話題がどこかしら悪夢めいてきましたので、本日はここまでといたします。

  本日のアップデート

 ▼1976年9月

 不気味な童謡のこと 澁澤龍彦

 毎日新聞に連載された「東西不思議物語」の第四十回。これも大江十二階さんから教えていただきました。澁澤龍彦の著作にはかなり眼を通しているつもりなのですが、見落としが出てくるのは致し方のないところです。と開き直っておきましょう。

 江戸川乱歩の『白昼夢』という短編の冒頭に、晩春の生暖かい風の吹く午後、ほこりっぽい場末の街で、お下げ髪の女の子たちが、道のまん中に輪をつくって、
 アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……
 と歌っている場面が出てくる。意味のない童謡の文句だが、いかにも次に起こる惨劇を予想させるような、なにか不気味な雰囲気を醸成するのに、このナンセンスな歌詞は役立っているように思われる。さすがに乱歩は心得たものである。

 たしかにこの「アップク、チキリキ、アッパッパア……アッパッパア……」、前後に見える場末の街の描写をより印象的なものにするうえでも効果を発揮しているのですが、この呪文が乱歩の創作なのか、それともどこかで実際に歌われていたものなのか。以前からちょっとだけ気にかかっております。


● 2月12日(日)

 不吉じゃ。なんとも不吉じゃ。

 私はつい昨日、『江戸川乱歩年譜集成』の予算のことは心配いりませんから、みたいなことを記した次第であったのですが、昨日付毎日新聞伊賀版にはじつに不吉な記事が掲載されておりました。熊谷豪記者の記事をどうぞ。

名張市:最新の成果など報告 「名張市史だより」発行−−編さん室 /三重
 名張市市史編さん室は、市史編さんの進ちょく状況や研究成果を知らせる「名張市史だより」第1号(A4判、6ページ)を発行した。市史(全11巻)は当初、今年度から順次発刊する予定だったが、財政難のため延期し08年度からになっている。市民からは「いつになるのか」といった問い合わせもあるため、まずは市史だよりで知らせることにした。

 市は97年に市史編さん室を、02年には有識者らで「編さん委員会」を組織し、本格的に史料収集を始めた。だが財政難で、十分な職員配置も、発刊する予算もなく、先延ばしされている。現在の予定は「08〜11年度に毎年1巻ずつ発刊し、残り7巻は未定」という。

 いやどうもお恥ずかしい。以前からお伝えしておりますとおり名張市には全然お金がなく、

 ──名張市にはお金がありませんので乱歩の著作や関連文献などのデータをネット上で公開することができません。

 といったなさけないありさまなのですが、市史の刊行が先送りになっていたとは知りませんでした。財政難のせいで職員も満足に配置できず、発刊する予算も捻出できない。こんな状態ですからネット上の幻影城たる「江戸川乱歩アーカイブ」の実現など夢のまた夢というしかありません。しかし、それはいい。それはいいんです。市史のことにしても、

 ──名張市にはお金がありませんので全十一巻の市史を刊行することができません。

 というのであれば、それじたいは致し方のないところでしょう。

 しかし、

 しかーし、

 しかーしそうであるならば、

 リフォーム詐欺にすぎぬ歴史資料館の整備にだってびた一文も出せる道理はないであろう。

 むろん名張市役所の内部には名物のいいわけがいくらでも転がっていることでしょうけれど、はたしてそんなものが市民に通用するのかな。市民の眼にいまや明らかに映じているのは、1997年以来準備を重ねてきた市史全十一巻が刊行されるにいたらず、いっぽうではただの思いつきでプランニングされた歴史資料館が整備されるというにわかには信じがたい事実である。同じく歴史を扱いながら、必要な事業には金を出さず、不必要な事業に予算をつけようとする。予算の出どころがどうの担当セクションがこうのというのはお役所の内部でしか通用しないいいわけであって、市民の眼には名張市の歴史関連事業におけるバランス感覚の決定的な欠如がくっきりと映じているはずです。

 市史も出せない自治体がインチキ歴史資料館を整備する。こんな世迷い言を飽きもせずに並べ立てておっては、名張市はほんとに嗤われてしまうことでしょう。悪いこたいわない。整備構想を白紙に戻してしまいましょう。それがいちばん。

  本日のアップデート

 ▼1930年5月

 江戸川乱歩論 前田河広一郎

 昭和5年5月、大衆公論社から発行された『評論集 十年間』に収録。読んで字のごとく過去十年のあいだに発表した論文を集成した一巻です。「江戸川乱歩論」の末尾には(大正一四・三)という註記が見られるのですが、しかしこの論文が大正14年3月に発表されたとは考えられません。文中に、

 ──彼れの二つの著作『心理試験』と『屋根裏の散歩者』との内容を、

 という記述があるからで、乱歩ファンならよくご存じのことですが、『心理試験』は大正14年7月、『屋根裏の散歩者』は翌15年1月の発行です。

 前田河広一郎(まえだこう・ひろいちろう)は明治21年、宮城県生まれ。乱歩より六つ年上で、いわゆるプロレタリア文学を信奉した作家にして評論家。昭和32年歿。乱歩ファンのあいだでは、なんとも大上段で杓子定規な原則論をふりかざしてデビューまもない乱歩を辟易させた評論家、といった印象で記憶されているのではないかと思われます。

 大正14年3月といえばまさしく、前田河が「新潮」3月号に「白眼録」を発表し、乱歩を名指しして自説を展開したときにあたりますから、文末の(大正一四・三)はそのあたりに関連したメモであるかと考えられるのですが、それ以上のことは何も想像できません。

 この新進作家に、消すことの出来ない他人の影響があるとすれば、最も粗雑な定義は谷崎潤一郎君であらう。悪魔主義──とか仰曰つたね、あの悪魔主義でも何でもない一種のスタイルである。官能的に普通人が保健の意味から、無意識に忌避する廃物や排泄物を、好んで逆に使用して、その汚感のうちに惑溺する。気の利いた悪魔なら御免を蒙る、不良少年主義のその影響が多い。しかし、影響だけでは、江戸川乱歩は生れない。彼をして悪魔を出でて悪魔よりも濃からしむるものは、猜疑の本能である。世界にスパイ性を帯びた国民は日本人である、と、或るフランス人が云つたといふ言葉そのもののやうな猜疑の本能を、彼は巧に谷崎君のエスプリと鋳金して一つの文芸道を成就してゐる。彼に従へば、世の中の現象は、大半以上も悪の本能から、美と善とをわざわざ避けて、廻り廻つて、馬鹿々々しい悪行に沈淪してゐるものだ、といふ哲学を得る。しかもそのへんな哲学を、知らず識らずのうちに毒素を注入するやうに我々の血管へ漲らしてしまふのは彼れの小説家としての妙技である。

 彼れの技巧は、病弱な病むことに於て強い病人の意志のやうな感覚から直に生れる。彼れの理知は不健康な人間が、自分の不治の病を癒さうとする本能から、知らず識らずのうちに理化学研究所の図書館の大棚を全部読みつくしてしまつたやうな理知である。統計がないからわからないが、かういふ種類の、社会の不良分子的なルンペン・インテリゲンツイアは、現下の日本の社会に、随分と多いことであらう。つまり、江戸川乱歩君とその作物はさういふ社会的寄生生活者の、宏大な瓦斯気層の余噴であり、そこに必然性もあるわけである。

 頭が痛くなった、と仰せの向きもおありかもしれませんが、じつに異色の、思いもつかぬ視点からの乱歩論として珍重するに足りるのではないかとも思われます。

 『評論集 十年間』のことは藤原正明さんからご教示をいただきました。お礼を申しあげます。というか、教えていただきながら長いことほったらかしにしてあったお詫びを申しあげねばなりません。しかしまあ、刊本『乱歩文献データブック』のこうした増補がようやく可能になったわけなんですから、個人的にはそれが喜ばしい。どうぞ長い目でご覧ください。とともに、ご教示ご叱正のほうもよろしくお願いいたします。


● 2月13日(月)

 不吉なことばかり書き散らしてるってえと読者諸兄姉まで不安な気分におなりかもしれません。名張市の財政状況はいかようにもあれ、ちゃんと原稿がまとまりさえすれば『江戸川乱歩年譜集成』はまちがいなく公刊されます。そのことをここに明記しておきましょう。

 これまでの三巻は純然たる目録でしたが、四巻目は同じリファレンスブックといいながら内容がかなり異なり、読んで面白いものになりますから、商品としても充分に通用しましょう。名張市にお金がないとなれば、組版まで終えたデータを用意したうえで、うちから出してやろうという出版社を見つければいいだけの話です。信のおける出版社しか相手にしませんけど。

 とにかく心配はご無用。勝手に心配させておいて心配無用もないものですが、乱歩ファンのみなさんには大船に乗った気でいていただきたいと思います。

 さるにても、名張まちなか再生プランの歴史資料館整備構想は、いよいよもってけしからんという事態に立ちいたりました。徹底した批判の論陣を張ってやろうかとも考えますものの、とりあえず模様ながめとまいりましょう。

 『江戸川乱歩年譜集成』が完成するまでは名張市立図書館の嘱託でいたいものだと発起し、そのためにはいっそう身を慎まねばならんなと決意したその矢先、

 ──名張市にはお金がありませんので全十一巻の市史を刊行することができませんが、名張まちなか再生プランのインチキ歴史資料館整備構想にはお金を出すことができます。

 などというべらぼうな状況が明らかになり、えーい何をやっておるのかといったんは殺気立ってしまったこの私。

 思い出されるのはちょうど四年前、当時の名張市長が乱歩のことで大嘘をかましてくださったものですから私はすっかり殺気立ち、あの市長だけは堪忍がならぬ、ぼこぼこにしてやると息巻きましたところ、当時の教育委員長であったいまはなき辻敬治さんから、

 ──おまえはこれからも図書館嘱託として仕事をつづけていかなければならんのだから、市長を叩いて自分の身を危うくするような真似は控えるように。こちらがはらはらするではないか。

 とありがたいお叱りを頂戴したものでしたっけ。そういえばあの前市長、四年前の市長選挙で新人に敗れて野にくだられたのですけれど、四年間の雌伏をへて今年4月の市長選挙に勇躍出馬されると聞き及びます。聞き及ぶというか、当地のメディアでいっせいに報じられております。

 へー、

 そーなんやー。

 上等ではないか。面白いではないか。

 いや、

 いやいや。

 そんなことはどうだっていいのである。紅旗征戎わがことにあらず。市長選挙のことなんて、一介の市立図書館嘱託には何の関係もありません。

 とにもかくにも、インチキ歴史資料館の整備構想は名張地区既成市街地再生計画策定委員会を再招集して再審議してもらうよう名張まちなか再生委員会の事務局にお願いしてあるのですし、委員長さんのお口添えもいただいているのですから、あとはいわゆる前向きな善処を期待しつつ、こちらは『江戸川乱歩年譜集成』の構想をじっくり練りあげることにいたしましょう。

  本日のアップデート

 ▼1969年12月

 人形の世界をひろげる 古賀伸一

 1969年12月26・27両日、東京は新宿の紀伊國屋ホールで指座という人形劇団の旗揚げ公演が行われました。上演作品は、飯沢匡の作・演出による「赤・白・黒・黄」(二幕七場)と乱歩原作の「芋虫」(一幕)の二本。

 1969年、昭和44年の12月といえば、歿後最初の乱歩全集が刊行されつつあったころです。乱歩再評価の機運が人形劇の世界にも影響をおよぼしていたと見るべきでしょうか。

 公演パンフレットに掲載された演出家の弁から引用。

 人間の意識下の世界に、もっと入り込んだ人形劇をやってみたいと考えていた。「芋虫」をやってみてはどうかと筒井先生から話があったとき、だから飛びついた。

 そこには日の丸と奇型にとぢ込められて、性が破壊されてゆく姿があった。女主人公の性の内部世界がいたいたしく描写されていた。

 原作使用のお願いにあがったとき乱歩未亡人が「どうぞもの悲しくおやり下さいませ」とおっしゃったそうだが、たしかにこのもの悲しさは明治の女性の性の悲しさであり、しかし本質的にはまだ今日のわれわれの性のもつ悲しさであり、充分意欲をそそられた。

 「芋虫」の公演データを拾っておきます。

芋虫 江戸川乱歩氏原作から人形笑劇として再構成
脚本 筒井敬介
演出 古賀伸一
出演 古賀伸一、星野サエ、宮崎雅代

 このパンフレットのことも藤原正明さんから教えていただきました。重ねてお礼を申しあげます。


● 2月14日(火)

 紅旗征戎わがことにあらず、ではあるのですが、ネット上の新聞記事を検索していたら2月11日付毎日新聞に、

 ──歴史を大事にしない街に、未来はない。

 と書かれておりましたので、ちょこっと尻馬にのってみます。詳細は「なんくるないさ:「大阪を舞台に、歴史を掘り起こして… /大阪」でお読みください。記事のなかで芦辺拓さんが、

 「いくら大阪の歴史を発掘しても、市民が歴史に関心がない」

 と嘆いていらっしゃいますが、大阪のみならず名張市もまた、いずこもおなじあほのきまぐれ、なんとも致し方ありません。

 自分が住んでる地域の歴史に関心をもとうがもつまいが本人の勝手だ、とばかはいうでしょう。それはそうだと認めてやってもよろしい。ばかが考えるのはその程度のことであろう。しかし、歴史のれの字もわきまえず、それを知ろうとつとめることもないようなとんちきが、えらっそーに名張まちなか再生委員会の歴史拠点整備プロジェクトに所属して歴史資料館構想に携わっているというのはどう考えてもおかしい。歴史を大事にするまちは、まちがったってそんなことはしないしさせない。しないさせない飲酒運転。

 いやまったく冗談ではありません。これはまさしく飲酒運転のようなものでしょう。そもそものスタートであった名張地区既成市街地再生計画策定委員会でさえ、ぶっちゃけていえば歴史のれの字もご存じない方のあつまりでしかなかったのであり、それがまた地域史の宝庫である名張市立図書館に足を運ぶことすらなぜかせず、つまりは歴史のれの字もご存じないまま歴史資料館でもつくりましょうかと名張まちなか再生プランを策定してくださった。こんなのは明らかに酔っ払いの所業でしょう。

 それを受けて発足したのが名張まちなか再生委員会なのですが、この委員会はいまさら喋々するまでもなくご存じのとおりのていたらく。もっと具体的なことを記してしまえば、これは先日名張市役所で生活環境部の部長さんから教えていただいたところにもとづいて結論いたすことなのですが、名張市が誇る天下御免の偽装団体、写したくなる町名張をつくる会のメンバーには名張まちなか再生委員会のメンバーもしっかり含まれているようで、名張のまちをエジプトにしよう、みたいなノリでインチキ歴史資料館の整備構想をこねくりまわされては困るのよな実際。困るけれどもそんなことしかできないのよな。歴史を知らず、知ろうともしない連中には。

 ここまで歴史を大事にしないまちには、当然のことながら未来はないでしょう。歴史を大事にできないというのなら、せめて乱歩が愛したミステリ小説を大事にするまちになってはどうなのか。私は例のパブリックコメント「僕のパブリックコメント」でそんなふうにアドバイスしてやりもした次第なのですが、それも当事者のみなさんにはどこまで理解されておるのやら。まーったくまあどいつもこいつも、いずこもおなじあほのきまぐれかよ。

 いや、いやいや、そんなことはどうだっていいんです。紅旗征戎わがことにあらず。いつまでも同じことばっかりぼやいてないで、私はひたすら『江戸川乱歩年譜集成』の構想を練ることにいたましょう。名張地区既成市街地再生計画策定委員会再招集の件がどうなったのか、その連絡を待ちながら。

  本日のアップデート

 ▼2001年7月

 満州の霧、いまだ晴れやらず……(2) いなばさがみ

 SRの会の機関誌である「SRマンスリー」の317号に掲載されました。昭和5年に満州に渡り、満州日報記者として活躍した経歴をもつ島田一男の大陸時代を追跡した不定期連載です。調査の余沢というべきか、乱歩作品に関するデータも報告されているのがありがたい。

 今回新たにミステリ関係では次のようなことが確認できた。

・江戸川乱歩と横溝正史の合作「女妖」は本土では昭和五年二月一日から連載(九州日報)であるが、満州日報では一月二十八日から連載開始。

 短い文章ですが、新たな発見です。いささかを補足しておきますと、「女妖」は最初、A・K・グリーンの作品を乱歩と正史のコンビが「訳補」したという体裁で発表されました。実際には正史の単独執筆であったようですが。

覆面の佳人──或は「女妖」
 アンナ・キャサリン・グリーン
訳補 江戸川乱歩、横溝正史
掲載紙 北海タイムス
連載期間 昭和4年5月21日から12月28日まで(百七十六回)

 これが乱歩と正史の合作小説として、まず満州日報に。

女妖
 江戸川乱歩、横溝正史
掲載紙 満州日報
連載期間 昭和5年1月28日から

 そして本土の九州日報に連載されました。

女妖
 江戸川乱歩、横溝正史
掲載紙 九州日報
連載期間 昭和5年2月1日から8月14日まで(百七十六回)

 北海タイムスと九州日報の連載は乱歩ファンには周知の事実でしたが、満州日報にも発表されていたことは知られておりませんでした。ご教示いただいたやよいさんにお礼を申しあげます。


● 2月15日(水)

 本日は都合によりあっというまにお別れいたします。

  本日のアップデート

 ▼1930年12月

 『五中会名簿』

 本日もあれこれアップデートいたしましたが、こちらも短くすませます。

 愛知県熱田中学校五中会発行の同窓会名簿です。乱歩の名前は「ヒ之部」に見られ(当然ながら本名で記載されています)、職業欄には、

 ──日本工人倶楽部書記長(江戸川乱歩)

 とあります。表紙には「昭和五年十一月現在」とあるのですが、データには古いものもまじっているようで、乱歩の住所は大正15年から昭和2年にかけてのそれが記されています。


 ■ 2月16日(木)
新パソコンにてご挨拶を申しあげます

 私はどちらかといえば完全主義者気味の人間ですから、そういう人間のつねとして、何かしら新しくものごとを始めるにあたってはツールのたぐいを吟味することから手をつけます。『江戸川乱歩年譜集成』を編むとなれば、その一次資料となる『探偵小説四十年』の光文社文庫版上下巻、酷使に耐えるようしっかり補強しましたことは先日お知らせしたとおりなのですが、それもむろんその一例。

 そのあと書棚を見廻して、ずーっと買いそびれていた岩波書店の『日本近代総合年表』をこの際だから買っとこうかと思いつき、ネットで検索してみたら2000年まで増補された第四版が出ていて、しかし一万円以上もするのかと思案投げ首。そういえば『精選版日本国語大辞典』の第二巻が出たのにまだ買いに行ってないんだし。あれは一万五千円ほどするんだし。

 いろいろと悩ましいことではありますが、当節の書斎における最高のツールとなると、もしかしたらパソコンということになってしまうのかもしれません。私のパソコンはアップル社のいわゆるマックという製品なのですが、このアップル社というのが最近ひどい仕打ちに出て、CPUをインテル社製のものにすっかり入れ替えることになりました。インテルインサイドの新製品も先日発売されました。インテルマックになってしまうと困ったことに、私が現在常用しているアプリケーションソフトはいっさい使用できません。日本語入力ソフトから買い揃えなければなりません。

 それならば、いま使用しているパソコンがあまりご機嫌のいい日ばかりではないことにも鑑みて、インテルインサイドでない最新の(最後の、というべきですが)機種を購入しておくのがよかろうと意を決し、しかし私は自己破産しておりますからすっからかんのからっけつ。パソコン買い換えるだけでおろおろとパニック状態を呈してしまうありさまで、オンラインショッピングに際して注文のボタンをクリックするときなどほとんど意識が飛んでいたのですが、とにかく新しいパソコンがおととい届きました。

 新パソコンで名張人外境の更新を手がけるのは本日が最初なのですが、新しいパソコンというのはなるほど快適なものであって、旧いのに較べればほとんどストレスがない感じで作業が進みます。きれいで大きな20インチワイドスクリーン液晶モニタだし。

 これを機会にソフトもいくつかバージョンアップしたのですが、以前からつかってみたいと考えていたアウトラインプロセッサもついでに導入しようかしら、などとツールの準備も結構たいへん。こうまでしていわゆるモチベーションを高めなければ、『江戸川乱歩年譜集成』の調査編纂にはなかなかとっかかることができないということなのかもしれません。なんとも物入りなことでっせ。

  本日のアップデート

 ▼1988年8月

 名探偵のもうひとつの顔 奏利郎

 「月ノ光」というカルトマガジン(と表紙に書いてあります。東京デカド社発行)の殺人を特集した号に掲載されました。

 あるライターが麻布にある古い洋館を訪ね、そこに住む老探偵からインタビューするという体裁の記事。東西の探偵小説史や老探偵の探偵小説観などが語られたあと、終盤にいたってタイトルにある「名探偵のもうひとつの顔」が明らかにされます。

 それでは、なぜ推理小説の話をうかがう相手に先生を選んだか、お話いたしましょう。先生はデビュー作『D坂の殺人事件』では容疑者の側だったくらいで、もともと危険な匂いを漂わせる探偵でした。それが乱歩が昭和四年に発表した『蜘蛛男』からキャラクターが一変しますね。『蜘蛛男』は初めは別の探偵が手がけていたのが小説の半ばで突然、先生が現れ、それまでの探偵役こそ蜘蛛男の正体だと喝破して自殺に追い込んでしまう。

 翌五年発表の『魔術師』『吸血鬼』では文代夫人という良き伴侶を得て小市民的な生活に入り、昭和十年代からは『怪人二十面相』などのジュブナイルを中心にご活躍されることになる。乱歩はあえて先生の秘める危険な側面を封印し、健全なイメージを作り上げて隠れ蓑にしようとしたのではないのですか。

 私にとって先生のキャラクターは最大の謎でした。本格推理向けの知的探偵であるといわれながら、その実際の登場作品の多くが謎解きの要素が稀薄な冒険小説風のものであるという矛盾、それは先生ご自身が乱歩という鬼才がはらんでいた矛盾をそのまま反映していたからではないでしょうか。本格推理作家であることを望みつつ、殺人美学の追求の方に情熱を傾けてしまった乱歩が両者を止揚するために描きだした人物、それが先生のように推理小説史上、稀にみる特異な探偵となったのではないですか。そしてそれ故に先生はあらゆるタイプの探偵のステロタイプたりうることになった。先生にお目にかかることは推理小説のあらゆる可能性と向き合うことだと考えたのですよ。

 しかし、私の考えが正しければ先生こそは乱歩が生涯をかけた殺人美学の真の理解者であり続けたということになります。あるいは先生のもう一つのお名前は……「蜘蛛男」というのではないですか?

 一篇のキモでありオチである箇所をこんなふうにあっけらかんと引用してしまっていいものかどうか、という批判もあるでしょうけれど、カルト系雑誌に掲載されただけで埋もれてしまった文献ゆえ、肝要なところをあえてご紹介申しあげました次第です。


 ■ 2月17日(金)
『江戸川乱歩年譜集成』の暗澹

 本日は順序を逆にいたします。

  本日のアップデート

 ▼1998年9月

 一古書肆の思い出 3 反町茂雄

 反町茂雄の『一古書肆の思い出』全五巻は、古書ファンならば一度は手に取ったことのある本なのかもしれません。しかしながら、古書に興味のない私には完全に無関係。1988年に出た第三巻には乱歩が登場していたのですが、恥ずかしながら『乱歩文献データブック』から漏らしてしまう結果となりました。「古典籍の奔流横溢」との副題がつけられたこの第三巻、1998年に平凡社ライブラリーに入っております。

 昭和20年12月26・27日、空襲にも焼けなかった西神田倶楽部で戦後初の古書展が開かれました。新興古書会による第一回新興古書展です。昭和17年以来三年間、古書展と名のつくものは一度も開催されていなかったそうで、本文十二ページ、謄写版刷りの目録を千部発送してPRしたところ、初日午前8時の開場とともに続々とお客さんがやってきます。

 十時ころに、狭い会場内を忙しく動いて居る私の肩を、背後からポンとたたいて、

 「おい君、これを預ってくれ給え。暑いねえ」

という人。冬のさ中なのに! ふり返って見ると、五十前後の男性。小ぶとり、頭は丸刈り、地味な大島がすりの羽織と着物の対のを、暖か相に着こんだ人。二重廻し〔インバネス〕を脱いで、私の前につき出す。田舎の物持ちのような印象、見知らぬお顔です。すぐに受け取る。

 「失礼ですが、お名前を」

 だまって名刺入れを取り出して、一枚下さる。中央に「江戸川乱歩」と五文字、左下に池袋○丁目云々と印刷してある。ああ、あの有名な探偵小説家はこの人か。廻しと名刺を持って、帳場の方へ三,四歩行きかけると、又、うしろから声がかかりました。

 「君、これを」

 つき出された本は「卜養狂歌集」。宝永頃の大阪の柏原与一版、合本一冊。売価は三百五十円、相当な珍本です。ホホー、江戸川乱歩さんという人は、こんな本を買う人か、と、やや意外な感じ。これが『二銭銅貨』『陰獣』『探偵小説四十年』などの作家と、お馴染みになった最初でした。後に知った事ですが、仲々の愛書家、元禄頃の浮世草子がお好きで、西鶴の作品など、随分の高価をいとわず、よく買われました。小説の材料にでも使われるのか、男色ものの古版本を、熱心に集められました。

 横柄なといえば横柄な印象なのですが、むしろ大人の風格が漂っていると表現しておきましょう。ついこのあいだまで戦争があり、そのせいで疎開まで経験した人間であるとはとても信じられない感じです。私もいつまでもひらひらしていないで、こういった悠揚迫らぬものごしで買いものができる人間になりたいものだと思います。

 いつの日にか世に出るであろう『江戸川乱歩年譜集成』の昭和20年の項には、12月26日の午前10時ごろ、乱歩が第一回新興古書展に姿を現したという歴史的事実が記されているはずです。むろん反町茂雄の『一古書肆の思い出』という典拠も明示され、それが平凡社ライブラリーに入っていることも情報として提供されます。そうでなくてはリファレンスブックを名乗ることができません。

 と記すだけでも有用さや面白さがおわかりいただけるのではないかと自負する名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブック4『江戸川乱歩年譜集成』は、むろんいつか、いつの日にか上梓の運びとなるはずなのですが、本としてまとめるためには時空を超えて乱歩を追跡し、目撃情報をかき集める作業を重ねなければなりません。これは大仕事です。

 そのわりにはなんかモチベーションがなあ、と思った私は昨日、やはりこの際だからとアウトラインプロセッサを導入することにして、オムニアウトライナーというソフトを購入しました。いわゆるインターネットショッピング、悠揚迫らぬどころか注文のクリックに際してはてのひらに汗までかきながら、それでも手続きが終わればすぐにダウンロードして使用できます。

 私はさっそく、わりと嬉々として「江戸川乱歩年譜集成」とタイトルをつけたファイルをつくり、『貼雑年譜』をひもときながら文化7年に祖父平井杢右衛門陳就が誕生、天保11年に祖母和佐が誕生、慶応3年に父繁男が誕生、そうか、繁男は漱石と同じ年の生まれか、しかしおれはまたなんだってよそんちの家系をこそこそ調べたりしてるんだろう、みたいな感じで年表づくりを開始したのですが、こういった作業がこれから果てしないほどつづくのかと思うと、なにやら暗澹たるものをおぼえないでもありません。

 話は変わりますが、『一古書肆の思い出』には第一回新興古書展の目録が出てきました。表紙の写真も収録されていて、「復興/第一回」と角書きされた下に「新興古書展出品略目」と手書きの太い明朝体で記されています。戦後初の古書展の目録ですから、これがすなわち戦後初の古書目録であるのかというと、どうもそうではないようです。

 谷沢永一さんの『紙つぶて』から、1969年9月12日の読売新聞に掲載された「埋もれた名著発掘」の一節をどうぞ。

▽文車の会の調査によると、戦後に全国最初の目録を出したのは、二十年十二月、伊賀上野市の沖森書店で、A5判三十二頁活版印刷、当時としては堂々たるものであった。沖森直三郎は、明治大正期を通じて全国屈指の大古書店だった大阪の鹿田松雲堂出身、戦後の再起に当って大阪商人の根性を見せた快挙ともいえる。

 どちらも昭和20年の12月、ほとんど同時期に発行されたもののようですが、新興古書展の目録は謄写版刷り十二ページ、沖森書店の目録は活版印刷三十二ページ。沖森書店の完勝のようです。

 さるにても、旧上野市にも昔はこの沖森直三郎のような気骨のある人間がいたらしいのですが、現代の惨状はいったいどういうことなのでしょう。いやまあ名張市だってひどいものですが、私が住んでいるおかげで名張市はまだ救われているといっていいでしょう。


 ■ 2月18日(土)
『乱歩と名張』の憂愁

 本日もこちらからまいります。

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 ▼2006年3月

 江戸川乱歩

 隔月刊雑誌「自遊人」の3月号に掲載されました。特集「神田神保町」のうち「文士の愛した神田神保町」の一篇。いくら古書に興味のない私でも、表紙にでかでかと「神田神保町」と印刷されていればさすがに気あたりがし、手に取ってそこに「江戸川乱歩」という五つの漢字が見つかれば、これはもう購入しないわけにはまいりません。

 「文士の愛した神田神保町」は、文士が通った飲食店の紹介記事。飲食店、といってしまうと風情も趣も何もない感じですが、私は古書同様に美酒美食にも関心がないせいか、たかが飲み食いではないかとぶっちゃけたような表現になってしまいます。

 乱歩がひいきにしたのは「神田はちまき」という天麩羅屋さんで、「お酒は召しあがりませんでしたが、陽気な酒席を楽しんでいらっしゃいました」という店主青木文雄さんのコメントが見出し風に紹介されています。

 “神田の親父”と呼ばれ、町内の発展に尽力していた先代の青木寅吉さんが、昭和6年、神田駅前に創業。今の場所へ移ってきたのは戦時中のことだ。そして戦後、懇意にしていた俳優・佐野周二の義兄にあたる作家・笹本寅を介し、「東京作家クラブ」の面々をはじめとした、さまざまな文人が出入りするようになったという。さらに寅吉氏の提案により、2階の座敷が「東京作家クラブ」の定期親睦会の会場になった。毎月27日に開かれる「廿七日会」には、江戸川乱歩をはじめ、佐野周二、佐藤和夫などが名を連ね、文学談義を交わしていたという。

 あッ。

 あッ、と私は叫びました。「自遊人」3月号の記事に「廿七日会」という言葉を発見したときのことです。

 ──そうか。廿七日会というのは東京作家クラブの定例親睦会か。

 乱歩の随筆「生誕碑除幕式」にこんな一節があります。

 祝電が九十何通来ていて、その披露もあった。川崎厚生大臣、三重県知事、野村捕物作家クラブ会長、廿七日の白井喬二、三重出身作家丹羽文雄、田村泰次郎の諸君のほか、探偵作家クラブ大下、木々、角田、城の諸君や、廿七日会の諸作家などが主な人々であった。角田喜久雄君の祝電はなかなか凝っていて「故郷に錦を飾る人は多し、されど石を飾る人は稀なり、人徳のゆえん」というので、これ以上長文のものも幾つかあったが、一番目立っていたと見えて、除幕式を報じた新聞記事の中にも引用されたほどである。

 この「生誕碑除幕式」はいつの日にか刊行されるはずの『乱歩と名張』に脚註つきで収録されるのですが、「廿七日会」の脚註だけが「不詳」という状態でした。その道の専門家の方にもお訊きしたのですが、どんな会なんだかなかなか明らかになりません。それが思いがけないところで判明いたしましたので、私はお礼の意味をこめていつかこの天麩羅屋さんに足を運び、一番人気だという天麩羅定食特上二千五百円也のひとつも注文してやろうかという気分になりました。

 ところで、『乱歩と名張』はいったいいつ出るのか。これは私にもわかりかねます。問題はむろん名張まちなか再生プラン。名張まちなか再生委員会という歴史のれの字にも乱歩のらの字にも縁なき衆生によって計画がまとめられたあげく、たとえば乱歩記念館などという施設ができてしまうのか、あるいはそうではないのか。要するに名張市が乱歩をこれからどのように扱うのか、それが明確にならなければ乱歩と名張のガイドブックはいつまでたっても体をなしません。

 それに私はもう、名張市民のためのガイドブックをつくることにあまり興味がもてなくなっているのかもしれません。本を読まない連中相手に本を出したって意味などないではないか、名張のまちの人間なんてもしかしたらあの怪人19面相みたいに手ひどく無教養な手合いばかりなのであって、どうしておれがわざわざそんなのを相手にしなければならんのかと、とくに去年あたりからそんなことを考えるようになってしまった私は、なんだかとっても絶望的。

 いやいかんいかん。こんな不景気なことばかり書いておっては、せっかく『江戸川乱歩年譜集成』の刊行を決意したというのにモチベーションがさがるばかりではないか。しかし不景気なといえば、けさの中日新聞にはこんな記事が。

2013−14年度に大量定年74人 多額な退職金、名張市「困った」
 名張市は、二〇一三年度から一四年度にかけて市職員が大量に定年退職を迎えるため、多額の退職金をどう確保するのか、今から対応に苦慮している。急激な宅地開発に伴う人口増などで、行政需要が増えた時期に大量採用した職員が一度に退くのが理由。「二〇〇七年問題」ならぬ「二〇一三年問題」が今後、苦しい財政に一層重くのしかかる。 (伊東 浩一)

 まーったく不景気な話だ。名張市職員などというあんな連中の退職金のために市の財政が逼迫するというのは本末転倒した話ではないか。いやまあお役所というのは何よりお役人のためのものであるというのが実情であるからして、これも致し方のないことなのかもしれませんけど。

 いやいかんいかん。こんなことばかり書いておってはほんとにいかん。モチベーションを高めるべく、新しいパソコンのためにフォントを新規購入してツールの充実を図ることにするか。しかしこれではほとんど買いもの依存症ではないか。


 ■ 2月19日(日)
ツール依存症

 きのうは「しかしこれではほとんど買いもの依存症ではないか」と記した次第だったのですが、より正確にはツール依存症と呼ぶべきなのかもしれません。ついふらふらとフォントセットを注文してしまいました。『江戸川乱歩年譜集成』の組版に備えて、という大義名分はしっかり自分にいいきかせたのですが、そんな作業はいったいいつのことになるのやら。ツール依存症かと自身を疑うゆえんです。

 人がなぜ依存するのかというと、人間というのはもともと依存するようにできていて、他人に依存することで人間関係をつくったりひろげたりするものなのですが、人間相手の依存がうまくいかないと物質や行為に依存する、依存すればするほどその対象なしにはいられなくなる、まるはだかの自分にまったく自信がもてなくなる、ああ地獄じゃ地獄じゃと思いながらどんどん深みにはまってゆく、みたいなことであるらしく、私のようにアルコールやニコチンに依存してしまいがちな人間は他人への依存が充分に満たされなかったなれの果てなのじゃとも説かれるようなのですが、そんなことは大きなお世話だ。

 とはいえこれで、必要不可欠であるかどうかは別にして、思いついたツールはほぼそろったということになるようですから、あとはいよいよ、

 ──乱歩にどっぷり依存する明け暮れか。

 みたいなことになりましょうか。

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 ▼2002年8月

 蔵の中──うつし世は夢 久世光彦

 戯曲に分類しましたが、より厳密にいえば舞踊劇の台本。名古屋市にある西川会という財団法人が出版した『日本舞踊舞踊劇選集』に収録されました。

 名古屋には西川流という日本舞踊の流派があって、毎年9月、中日劇場で、舞踊にしては長期となる十日間の公演「名古屋をどり」を開催しています。先代家元の西川鯉三郎が昭和20年にスタートさせ、現在は三代目家元にして西川会理事長でもある右近さんの主宰。

 舞踊劇というのはこの公演の呼びもので、ひとつのストーリーを舞踊で表現する試み。台本の作者には川端康成、有吉佐和子、川口松太郎、司馬遼太郎、さらには谷崎潤一郎が「盲目物語」を、三島由紀夫が「橋づくし」を、といったあんばいに錚々たるところが名を連ねているのですが、その台本のアンソロジーが『日本舞踊舞踊劇選集』全一巻です。

 久世さんの台本は乱歩の「人でなしの恋」にもとづくもので、

 ──私はいままで、何度かこの「人でなしの恋」の映像化を考えて、その度にあきらめた。レンズを通したとき、乱歩の不思議が一瞬にして霧散してしまいそうで怖かったのである。レンズでは夢は描けない。舞踊でこれをやろうと思ったのはそのためである。

 という作者の弁も添えられています。

 公演データは次のとおり。

蔵の中──うつし世は夢 江戸川乱歩作「人でなしの恋」より
第47回名古屋をどり公演
1994年9月3日−14日 中日劇場
脚本 久世光彦
作舞演出 西川右近
 西川右近
 遠藤真理子
人形 西川千雅

 それではさわりのあたりをどうぞ。

狂乱の舞の末、短刀で我と我が胸刺しつらぬく夫。妻の悲鳴〜。

夫の胸から噴きだした血糊が人形の残骸を染め、夫の体はその上に覆いかぶさるように崩れる。どこからか流れてきた夜霧が辺りを包み、すべての音が消えた秋の夜が永遠につづくかと思われたそのとき、中天の月の色が見る見る変わりはじめ、それはやがて清澄の白銀の光に輝く。

深い霧の中から、抱き合うようにして立ち上がる、夫と人形。二人は見つめ合い、お互いの頬を撫で合い、やがて手をとり合って舞いはじめるのだった。

夫の流した血によって、人形には再び永劫の命が蘇り、夫もまた永遠の人形の国へ旅立っていくのだろう。

二人の至福のとき〜銀色の月へ駈け昇っていく幸福な踊り。

 『日本舞踊舞踊劇選集』のことは小西昌幸さんから教えていただきました。毎度ありがとうございます。


 ■ 2月20日(月)
どっぷりできない

 さていよいよ、

 ──乱歩にどっぷり依存する明け暮れか。

 とは思うのですが、このところ雑用が多くてなかなかどっぷりできません。本日もそそくさと。

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 ▼2005年12月

 とりとめのない話 秋田稔

 秋田稔さんの不定期刊個人誌「探偵随想」の九十号に掲載されました。

 「探偵随想」は昭和38年2月の創刊。B5サイズで、九十号は十二ページ。タイトルどおり、乱歩風に探偵趣味とでも呼べばいいのでしょうか、狭義の探偵小説にはとどまらず古典文学や映画から片々たる新聞記事まで、探偵趣味の琴線にふれたさまざまな話題を熟練の筆で描いた随想が掲載されています。

 創刊が乱歩存命中のこととて、創刊号を謹んで献呈したところ乱歩から著書をまとめて寄贈された、というエピソードが同年6月に出た第三号の「江戸川先生から御著書贈らる/全集ものなど三十余冊」に記されています。著書に添えられた乱歩の書状は、病気療養中のゆえをもって夫人が代筆したものであったとか。

 ごく短い随筆を一本にまとめた体の「とりとめのない話」では、伊賀市は橋本酒店の黒蜥蜴と名張市は木屋正酒造の幻影城、当地の銘酒もご紹介いただいているのですが、ここには「熊野灘」と題された一篇から引用いたします。

 ししがゑぼしをかぶるときからすのあたまの、で始まる暗号を明智小五郎は熊野灘の岩屋島(仮名)で解く。名作「大金塊」の舞台となった島である。

 この島の獅子岩、烏帽子岩、烏岩のヒントとなった岩は、熊野七里御浜の獅子岩や、瀞峡の奇岩怪石群だったのではないかと、短絡きわまりない想像だが、ひょくっと思うことがある。下瀞には烏帽子岩、上瀞には獅子岩があり、「紀伊名所図会」に〈其形状ゑぼうしに似たる故にこの名あり〉、〈恰も大獅子の頭を擡げて咆吼する如き姿態をなす巨大〓〔「山」の下に「品」〕なり〉などとしるしてある。渓谷には鶏冠、亀、天狗、仔獅子、こま犬と呼ぶのもあるから、カラスともとれる巨岩があるかもしれない。

 乱歩は若いころの一時期、南紀はすぐそこという鳥羽にいた。串本の荒船海岸、橋杭岩、海金剛にもふしぎな形をしたものや峨々たる岩がある。そうした風景が、作者の眼底につよくのこっていたような気がする。のちの「怪奇四十面相」にも森戸崎が出てくる。