2006年3月下旬
21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日
 ■ 3月21日(火)
またしても話芸の伝統に立ちて思う

 人生には連鎖反応とでも呼びたくなることが起きるものです。シンクロニシティというほどのものではないけれど、さりとてまったくの偶然とも思えない。何かしら見えない脈絡の糸が存在していて、ひとつのことと別のことがひそかに呼応して起きたように感じられる。そういった事態のことです。

 1月下旬に大阪で思いがけず大阪シナリオ学校関係者の方にお会いして、それからまもなくのことでした。雑然と積みあげてあった中綴じの雑誌のたぐいを整理していたら、えらく古い「平凡パンチ」が出てきました。当時はまだ平凡出版という社名だったマガジンハウスの週刊誌で、1960年代に一世を風靡した若者向けメンズマガジンであるといっておきましょう。出てきたのは1978年10月2日号です。

 古い新聞や雑誌をひっくり返して調べものをしていると、目的の記事以外の記事や広告が面白くてついつい時間をとられてしまうことになりがちなのですが、この「平凡パンチ」にもそぞろ懐かしさをおぼえさせられました。

 カバーガールは根本由美という女の子なのですが、タレントなんだかモデルなんだか女優なんだか、とにかくまったく記憶がありません。表紙に印刷されたいちばん大きな見出しは、

 ──ブルック・シールズで爆発 !! /男にとって…少女 NUDE 考

 その横が、

 ──オレこそは絶対…/日本のトラボルタ集合★/IT'S FEVER

 ブルック・シールズが十二歳の娼婦を演じた「プリティ・ベビー」、ジョン・トラボルタはご存じ「サタデー・ナイト・フィーバー」、そんな映画が当たりをとっていたころに出た雑誌です。

 「秋を超える行動派8人集」という見出しもあって、八つの名前が列記されています。

 ──ブリニア・ウイリス★オスギ&ピーコ★マリア茉莉★岡田正泰★清水美子★石井隆★大橋純子★二藤規朗

 心当たりがあったのはオスギ&ピーコ、石井隆、大橋純子という三つの名前のみ、あとは記事を読んで思い出したり、あるいはそれでも思い出せなかったり。

 巻頭のグラビアはむろん女性ヌードなのですが、ヘアヌード解禁以前のこととてかわいいもので、「ニーナ・シモンはお好き? 岡本ひろみ」など三本立て。つづいて「現代を疾走する若き棋界のプリンス 真部一男六段」、そのあとが広告で、

 ──この秋をゆさぶる2大アーティスト来日決定 !!

 来日アーティストは誰であったのかというと、ポール・アンカとデビッド・ボウイー。いや懐かしいなあ「ジギー・スターダスト」。

 みたいな感じで誌面につきあってゆくとなかなか前に進みません。たーっとすっ飛ばして「TALKING PLAZA〈人間〉」という連載のページ。

 ──藤本義一村長と上方若手漫才師たち

 という見出しが躍っています。記事は座談会。リード全文を引きましょう。

 『笑(しょう)の会』の若手漫才師・台本作家は、これまでの“しゃべくり漫才”の形式を乗り越えようと暗中模索している。『会』の顧問は、作家の藤本義一サン。新しい上方の芸と笑いが出現すると確信し、温かい眼差しで彼らを見守っている。若くて無名の『笑の会』メンバーは11月に25年ぶりの上方漫才東京進出を実現する。明日の漫才が、大阪から、「笑の会」から生まれようとしている。

 座談会に入る前には簡単な説明が記されていますので、その最初の段落も引用しておきます。

 『笑の会』が、若手漫才師と若い漫才作家の交流を兼ねた勉強会として発足したのは昭和50年10月である。昨年10月に他界した“漫才の父”秋田實が、低迷する漫才界を憂えて結成、晩年の情熱を傾けた会である。今春4月、作家の藤本義一サンが顧問を引き継いで就任(もっとも藤本サンは、自らを村長と名乗っている)。この3年足らずの間に『笑の会』に名をつらねた若手コンビは、延べ14組。オール阪神・巨人、日米漫才で売った浮世亭ジョージ・ケンジ(解散)なども、この会から巣立って行った。

 浮世亭ジョージ・ケンジなんて全然知らない、とおっしゃる方がほとんどでしょう。ご常連の読者諸兄姉はご記憶かどうか、私には三年前の夏、新宿は花園神社ちかくにあるスナックでたまたま隣りあわせた早稲田大学出身、自称作家、子持ちバツイチのお姉さんをかき口説いてあっさりふられた苦い経験があるのですが、そのおりいささかたちの悪い酔っぱらいが横からからんできましたので、不本意ながらごく軽微なチョークスリーパーホールドをお見舞いする羽目になってしまった、その酔っぱらいというのが浮世亭ケンジのなれの果てでした。2003年8月2日付伝言から引いておきましょう。

 それからどれくらいの時間が経過したのでしょうか。ふと気がつくと私は、椅子に坐った男性客の背後に立ち、右腕を男性客の喉に差し入れてチョークスリーパーを軽く決めながら、
 「こら。たこ食う人は他国の人やとかゆうてしょうもない漫才かましとったジョージケンジのかたわれかおのれは。こら。どや」
 「なッ、なんでそんなことをッ」
 「相方のあいのこはどないした」
 「わッ、悪いクスリでぼろぼろにッ」
 みたいなやりとりをかわしておりました。仔細はかなり不明です。

 ケンジもばかだが私もばかである。

 そんなことはともかく、たまたま発見した「平凡パンチ」を手にとって、

 ──こんなものが残っていたのか。

 と私はつかのまの感慨にふけりました。処分したおぼえがありませんから残っているのはあたりまえなのですが、大阪シナリオ学校のことが酒席の話題になったすぐあとにこんな雑誌が出てきたのですから、何かしら連鎖反応のようなものが起きたようにも思いなされた次第でした。

 座談会「藤本義一村長と上方若手漫才師たち」の話題はあすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼1970年11月

 乱歩の世界 (戸川安宣)

 立教ミステリクラブの機関誌「みすてりあーな」4号に掲載されました。戸川安宣さんご執筆の無署名記事です。

 今朝丸真一さんからお教えいただいたもので、さっきから必死になってさがしているのですが、目次のコピーしか出てきません。そういえば本文のコピーは頂戴していなかったか、と思いあたりました。

 しかたありませんから「卒業生特集」の内容を引き写しておきましょう。

卒業生特集
ゴキブリと女中 須長哲夫
自殺室 戸川安宣
世界で最も怖い話 戸川安宣
日没 村山康夫
白雪姫 杉本英三

 「巻頭言」は平井隆太郎先生が執筆していらっしゃいます。


 ■ 3月22日(水)
さらにまた話芸の伝統に立ちて思う

 記憶とはまったくあてにならぬものだということがあらためて実感されます。「平凡パンチ」に掲載された「藤本義一村長と上方若手漫才師たち」という座談会は、リードに記されていた「若くて無名の『笑の会』メンバーは11月に25年ぶりの上方漫才東京進出を実現する」という東京公演のいわばパブリシティだったのですが、私はこの公演に浮世亭ジョージ・ケンジも帯同していたものと思いこんでおりました。しかるに、きのう引いた記事には「浮世亭ジョージ・ケンジ(解散)」とありましたから、解散していたのであれば東京公演に参加できたはずがありません。私の記憶には錯誤があったということになります。

 錯誤といえば、私はそもそもこの座談会、藤本義一さんと漫才作家予備軍だけで行われたものだというふうにも勘違いしておりました。よく考えてみれば、いやよく考えてみなくたって、名もない漫才作家を何十人集めてみたところで週刊誌のネタになるはずがありません。したがいましてタイトルからも知られるとおり「藤本義一村長と上方若手漫才師たち」がメインになった座談会だったことは明白で、げんに収録された座談会の写真には演者と作家の双方が写っていますから、私の錯誤はいまや火を見るよりも明らかではあるのですが、だとすれば私の記憶ちがい勘違いはどういった心の作用によるものか。

 ちなみに座談会に出席したコンビは、B&B、ザ・ぼんち、青芝まさお・あきらの三組。BBとぼんちはのちに大ブレイクして瞬間最大風速めいたものながら全国的な人気を獲得しましたが、まさおあきらはどうしたのかなと思ってネット検索を試みてみましたところ、この座談会の翌年、つまり1979年にコンビを解消してふたりとも芸能界から引退してしまったそうです。

 そのころの上方芸能界における芸人の学歴は、落語家は高卒、漫才師は中卒、といったところが通り相場でした。その点まさおあきらのコンビは大学を出ていて(検索によって知ったところでは龍谷大学の落語研究会出身で、そういえばそうであったと思い出しました)、舞台衣装はアイビーリーガーズ風、ネタにもあえて知的な諧謔を織りまぜる芸風であったと記憶するのですが、ほとんど思い出せません。わずかにひとつ、ちょうど「ルーツ」というアメリカのドラマが日本で放送されて高視聴率を獲得していたころのことで、それはアフリカからアメリカにつれてこられたクンタキンテという奴隷の子孫がみずからのルーツすなわち祖先をたずねもとめるいったようなドラマであったのですが(私は一度も視聴したことがないのですが)、その「クンタキンテ」という名前を「金太君て」と間違えるという、こう書いてしまうとどこが知的かと思われるギャグをやっていたようなかすかな記憶がないでもないのですが、ともあれもう少し我慢辛抱をしておればあの空前の漫才ブームの波に乗ることができたかもしれぬものを。というか、大学まで出ていてつぶしが効く場合にはある程度才能のあるコンビでもさっさと見切りをつけてばたばたやめてゆくほど上方漫才界の低迷凋落はすさまじいものであったということなのかもしれません。

 さて、察しのいい読者は先刻お気づきのことでしょうが、この「藤本義一村長と上方若手漫才師たち」には新進気鋭の、というよりは新進気鋭になるかもしれない若手漫才作家のひとりとして私も出席しておりました。いったいどんなことを発言しているのかといいますと、いきなり名前が誤植されていてなんだかあれなんですが、ともあれ引いてみましょう。

 僕が漫才書き出していちばん新しいんですけど。本当は自分で漫才をやってみたかったけど、顔が良すぎるんで書き手にまわったほうがえぇと考えて……。

おさむ ほんなら僕らは顔悪いんか。

まさと ほんならエェんか。

藤本 まあまあ、ここで漫才せんでもえぇねん。おさえておさえて……。

 どうしておれがこんなところでぼんち相手に漫才をしておらねばならんのか。ゆうとらんゆうとらん。おれはこんなこと絶対にゆうておらんぞ。

  本日のアップデート

 ▼1975年10月

 江戸川乱歩と本格推理小説──「三角館の恐怖」とその執筆の背景 山村正夫

 青山学院大学推理小説研究会の機関誌「A. M. Monthry 臨増」に掲載されました。これも今朝丸真一さんからご教示をたまわったものなのですが、やはり目次のコピーしか頂戴していないようです。

 この号は乱歩の特集号で、「江戸川乱歩全長篇解題」「推理研の選んだ乱歩短篇小説ベスト10」などが目白押し。その「巻頭特別エッセイ」として配されたのが山村正夫さんの随筆なのですが、サブタイトルにある「執筆の背景」などというフレーズを見ると「江戸川乱歩年譜集成』編者としては血がうずくのをおぼえます。いずれ本文のコピーを入手しなければなりません。

 本文が手許にありませんから引用のしようがなく、目次によればこの号にはなぜか萩原朔太郎の詩が収録されているようですから、それを全文ご紹介して責をふさぎます。

干からびた犯罪
どこから犯人は逃走した?
ああ、いく年もいく年もまへから、
ここに倒れた椅子がある、
ここに兇器がある、
ここに屍体がある、
ここに血がある、
さうして青ざめた五月の高窓にも、
おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、
さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。

 ともあれ、今朝丸真一さんにお礼を申しあげます。私は今朝丸さんにはお会いしたことがないのですが、『乱歩文献データブック』をお送りしたところ、この「A. M. Monthry 臨増」をはじめとした遺漏のご指摘を頂戴いたしました。ずいぶん遅くはなりましたけれど、ここにご教示を反映させることができ、『乱歩文献データブック』編者としてはそのぶん肩の荷がおりたような気分です。


 ■ 3月23日(木)
しつこくも話芸の伝統に立ちて思う

 雑誌や新聞などの印刷メディアで座談会を活字化するに際しては、出席者がしゃべったままを文章に書き起こしてもそれだけではとても読めたものにはなりませんから、編集部によって多かれ少なかれ手が加えられるのが普通です。「平凡パンチ」に掲載された「藤本義一村長と上方若手漫才師たち」もその例に洩れず、ライターによって大幅に潤色された内容でした。

 むろん私だって二十八年も前の座談会で自分が何をしゃべったのか、そんなことをいちいち記憶しているわけではないのですが、掲載誌が発行されて座談会を一読したときに、

 ──あちゃー、こら全部古川さんの創作やがな。

 と思った、ということを思い出しました。古川さんというのは記事の末尾に、

 【構成・古川嘉一郎】

 と記されている古川嘉一郎さんのことで、じつはこの方も大阪シナリオ学校の一期生、笑の会の東京公演を成功させるべく読者に知らせたいことアピールしたい点を要領よく盛りこみ、さらにはさすが先輩というべきか上方漫才のノリによる受けねらいのくだりまでちゃんと織りこんで(その素材として私がお役に立ったわけですが)、ここに一篇の座談会をよくお仕立てになったという寸法です。

 しかしこうしてふり返ってみますと、上方漫才界のいかなる低迷混迷苦境逆境衰微衰退凋落没落に遭遇しようとも節を屈することなく斯道を邁進してさえいれば、私もいまごろは関西の放送界演芸界において大家とかドンとか巨匠とかボスとか大御所とかゴッドファーザーとか闇将軍とか、そんなような称号をたてまつられる存在になっていたのかもしれません。いやきっとそうなっていたであろうものを。じつに残念なことをした。

  本日のアップデート

 ▼1995年4月

 現実喪失者のめまいの論理  和田茂俊

 本日は昨日からなぜか萩原朔太郎つながりということで。

 中村三春さんの編による『ひつじアンソロジー 小説編1』に収録されました。泉鏡花から天沢退二郎まで十作家の十五篇、乱歩作品では「火星の運河」「踊る一寸法師」「白昼夢」が収められたアンソロジーで、乱歩作品三篇に附された解説がこれです。

 それまでの自然主義文芸とは一線を画し、「様式の革命」を担ったモダニズム文芸は「〈関係〉を生きる都市生活者の生の実感を、あるいは実感のなさを、その生理的感覚に基づいて表現する、新しいことばを手に入れていた」という指摘のあたりから引用いたしましょう。

 たとえば、視覚のとらえかたに注目すると、「江戸川乱歩」は「萩原朔太郎」とよく似ている。二人とも望遠鏡だとか映画だとかパノラマ(建物の中などに観客をとりまくように絵画を配置し、実物そっくりの景色を再現した見世物)だとかが大好きだったことも興味深い。萩原は立体写真に凝ったし、乱歩は自分用の映写機まで購入していた。彼らが表現したのは、視覚を通して世界を認識しようとする〈私〉の感覚だった。「屋根裏の散歩者」は、退屈病にかかった郷田三郎が、天井裏から他人の部屋を覗き見しているうちに殺人を犯してしまうという物語だが、見るという行為そのものに胚胎する、魅惑と恐怖が鮮やかに描かれる。天井裏に隠れる郷田には、他者の視線に対する怖れがあり、他人に見られずに見てやりたいという欲望があったのだと思われるが、萩原の「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」(『ARS』大4・6)にも、同様の感覚が描かれている。

それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。
なんだつてそんなに薄気味わるく笑つてゐる。
おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、
そのへんがはつきりしないといふのならば、
いくらか馬鹿げた疑問であるが、
もちろん、つまり、この青白い窓の壁にそうて、
家の内部に立つてゐるわけです。

 他者の視線に脅かされ、自己の存在の確かさが信じられない。誰かに見られているのではないかという意識は、行動を保証する脚の自由を奪ってしまう。だからこそ、「腰から下」が「はつきりしない」のだ。視線への恐怖は、他者と関わることへの恐怖だといってよい。「わたしは手に遠めがねをもつて」いて、「ずつと遠いところを見て」いる。望遠鏡を介して世界を覗き見ることしかできない主体の感覚は、自らの身体を隠しつつ天井から部屋を覗き見る、郷田のそれに重なってくる。「江戸川乱歩」と呼ばれる文芸は、「萩原朔太郎」と相似形であり、〈関係〉を生きる〈私〉の感覚を、〈心〉という主体の側から表現する、新たな様式を獲得している。乱歩が「私の夢」の「散文詩」と呼ぶ「火星の運河」(『新青年』大15・4)もその一つである。

 ■ 3月24日(金)
記述者の意図の問題

 さてきのうまで、おそらくはそのかみの神事に発してもいるのであろう話芸の伝統に立ってかしこくも鋭い考察をめぐらせながら(何を考察していたんだか判然とはしませんが)、私はひとつの実験を試みてもおりました。ちょいと乱歩になってみる、あるいは『探偵小説四十年』を書いてみる、そういった実験です。

 『探偵小説四十年』の原型となった「探偵小説三十年」の連載がはじまったのは昭和24年のことでした。その連載において大正12年のデビュー当時が回想されたのは昭和25年の「新青年」1月号あたり、つまり乱歩は1950年の時点で1923年のあれこれを述懐していたわけで、記述者と対象とのあいだには二十七年間もの時間のへだたりが横たわっていたことになります。そして私もまた、乱歩が「貼雑年譜』をそうしていたごとくたまたま出てきた一冊の「平凡パンチ」を座右におき、自身の過去を追想するという苦々しい行為にあえて挑んでみた次第です。

 その結果、体験的に実感としてわかったのは、人は二十何年も前のことなんか明瞭に記憶しているものではない、記憶していたとしても修正や歪曲がほどこされている可能性が高い、といったこととあともうひとつ、いくら二十何年も前のことであっても恥ずかしいことは恥ずかしい、彼は昔の彼ならずなんてことなど全然なくて、いまの私は昔の私、自我の連続性はゆるぎなく一貫している、ということです。

 さらに依拠した資料に関していうならば、活字になって残された文献にだって十全な信をおけるわけではありません。「平凡パンチ」の座談会における私の発言は、いやもうあれではなんだか藤本義一さんならびにザ・ぼんちのご両人をまきこんで単にぼけまくっているばかとしか見えぬ次第なのですが、もとより私はあのようなことを口にしたわけではなく、それでもいまあの記事を読んだ人がいたとしたら、

 ──あのばかは昔っから場所柄もわきまえず受けねらいに走ってしまういちびりであったか。

 とあっさり納得してしまうかもしれません。すなわち記述者側の何らかの意図に基づいて記述対象者本人には身におぼえのないことが記されていたり(私の場合でいいますと、上方漫才関係者が集まった座談会をいかにもそれらしい一篇の読みものに仕立てるために、という意図を構成者たる古川嘉一郎さんが有していらっしゃったということなのですが)、あるいは記述者の勘違いをはじめとした何かしらのミスによって事実とは異なる情報が録されていたり(これも私の場合でいいますと、私の姓が「仲」と誤植されていたことがそれに該当するでしょう)、そんなこんなで活字として残された資料も全面的に信用するわけにはとてもまいりません。

 したがいまして結論としては、『探偵小説四十年』という長大浩瀚な一巻の自伝にはやはり相当に心して向き合う必要がありそうだなと、私は今回の試みを通じてあらためてそのように感じた次第です。そして乱歩自身の記憶の問題や乱歩のことを記録した記述者の意図の問題と同様に、いやそれ以上に大きな壁となって私の前にそびえ立っているのが乱歩その人の意図の問題です。

 この点に関しては小説の形をかりた乱歩論でもある小林信彦さんの「半巨人の肖像」に克明に記されておりますので、それを引用しておきましょう。底本は1994年10月30日メタローグ発行の『回想の江戸川乱歩』。文中の「この一冊」は『探偵小説四十年』のこと、「鬼道」は乱歩のこと、「今野」は小林さんご自身のことであるとお思いください。

 ともかく、この一冊には、鬼道の生い立ちから最近に至るまでの生活の変化、同時に彼によって創造された日本の推理小説の変遷が、おそるべき克明さをもって記録されている。戦前版の鬼道全集の第一回配本が何部印刷され、最終巻は何部だったか。鼻茸の手術をいつ行なったか。戦時中に町会副会長としていかなる行動をとっていたか。そういった外面的な事柄に関しては、ふつうの作家がまず筆にしないと思われる、収入とそれに伴う暮しぶりまで、微に入り細を穿つ筆で、年度別に記載されている。かりに後世において鬼道の伝記を書こうと思い立つ人があるとしたら、その人は自分の調査すべく残されている部分があまりにも少いのに絶望するにちがいないと想像される。

 自己に関する記録について鬼道が偏執的情熱をもっていたのは、まぎれもない事実である。だが、この一巻に溢れんばかりの記録群には、その価値自体とは別に、さらにほかの目的があるのではないかという気が今野にはしてならないのだった。すなわち、これらの夥しい記録群と解説とほどほどの〈自慢と卑下〉的感想の洪水によって、ここに記してあるより深く他人が立ち入り、穿鑿するのを拒否しようと著者は意図したのではないか。それほどまでにして守るべき内面の秘密を鬼道はいまだに保持しているのではないだろうか。

 たとえば、鬼道について伝説的にさえなっている homosexuality であるが、ここにはそうした文献の蒐集家としての一面しか書かれていない。そのような告白をしなければならぬことは必ずしもないにせよ、かつて、ジイドの「一粒の麦」に触発されて書かれ、中絶した告白的エッセイをもつ鬼道だけに、その空白が気にならずにはいられないのだった。

 かくのごとく『探偵小説四十年』には乱歩自身の意図という越えがたい壁が存在しているわけなのであって、さすれば私はマルセル・エイメの小説の主人公か、でなければ中国の壁抜け少女にでもならなければなりません。

  本日のアップデート

 ▼1991年6月

 ミステリーと化学 今村壽明、山崎昶

 ミステリ作品に描かれた科学的事象を検証する、とでもいった内容の一冊。乱歩作品からは「毒草」が選ばれ、作中で「××××」と伏せ字にされている「毒草」はいったいどんな植物であったのか、前後の記述を手がかりに推理が展開されています。答えを引いておきましょう。

少し調べるとすぐわかるのは,麦角と酸漿(ホオズキ,乱歩の時代は旧仮名遣いだったから「ホホヅキ」)である.とくにホオズキは四文字でもあり,葉が丸く茎が太く,秋には花は咲かないが,おなじみの赤い大きな袋に入った実がなる.

 ちなみに光文社文庫版全集第三巻『陰獣』に収録された「毒草」を見てみると、平山雄一さんによる「××××」の注釈には容疑者ならぬ容疑草三種があげられています。どうぞご覧あれ。

 『ミステリーと化学』のことはもうずっと以前にたぶん(たぶんではいかんのだが)末永昭二さんからお教えいただきました。お礼を申しあげます。


 ■ 3月25日(土)
脚註王の呪いの言葉

 3月も25日を迎えました。本日、大阪では田中徳三さんの「RESPECT 田中徳三」が開幕、東京では石塚公昭さんの「夜の夢こそまこと」が最終日を迎えます。可能であればぜひどうぞ。

 さて、『探偵小説四十年』に秘められた乱歩の意図、ということになると、ここまでは公開、ここから先は非公開、という線引きの問題以外に、公開された事実における粉飾や潤色の可能性も念頭におかなければなりません。

 たとえば、1月13日付「本日のアップデート」に記した高木彬光の「刺青殺人事件」にまつわるエピソードがあります。乱歩に原稿を送ってみたところ「十日ほどのうちに必ず読む」という返事が届いたのだが、その十日が過ぎても音沙汰がなかったのでおおいにむかっ腹を立てた、というのが高木彬光の回想するところなのですが、『刺青殺人事件』に収録された乱歩の「序」には「私は直ちに三百余枚の原稿を一読した」と書かれてあって、両者が記している事実には齟齬が見られます。光文社文庫版『刺青殺人事件』の解説で山前譲さんは、

 ──このあたりの食い違いは、よりデビューをドラマチックにしようとした乱歩による脚色だろう。

 と推測していらっしゃるのですが、そういった「脚色」のたぐいはおそらく『探偵小説四十年』にもまぎれこんでいることでしょう。このケースにおける高木彬光の証言のような物証がない場合、読者は乱歩の自己演出をひとまずそのまま受け容れるしかありません。乱歩は演出なんかせずごくあけすけに書いてたんじゃないの、とお考えのあなた、あなたにはきっと洞察力というものが不足している。相手は乱歩です。タクティクスに長けたタクティシャンです。あの「陰獣」という乾坤一擲の自己劇化小説を書いた男です。かなり手強かろうて。ていうか、手強すぎるぞ。

 やれやれ、考えれば考えるほど滅入ってしまって困ったものですが、そもそも私が毎日いったい何をあーでもないこーでもないと苦悩しているのかといいますと、もとをただせば脚註王のこのひとこと、

 ──もしかしたら、もとの文体に戻れんかもしれません。

 これがそれまで不定形だった私の不安をまばたきするあいだに結晶させ、私の心に雨雲のように黒い影を押しひろげていったのでした。私にはいまや、この言葉は脚註王から投げかけられた呪いの言葉であるようにも思いなされる次第です。

 脚註王と同様の「話すように書く」文章作法に親しんでしまったいまの自分に、はたして『江戸川乱歩年譜集成』が綴れるものかどうか。それを確認するために私は苦悩し、煩悶し、助けを求めでもするように自身の文章を点検し、そこに抜きがたく話芸の伝統が存在していることを再確認しました。

 ここで打ち明けてしまうならば私の文章上の師は安岡章太郎さんなのですが、安岡さんにもまた師にあたる存在があり、そのひとりである井伏鱒二は私にはあまり縁がありませんから、やはり梶井基次郎あたりか、おれは梶井安岡ラインか、安岡章太郎の弟子にして梶井基次郎の孫弟子なのかと、私はかねてそのように信じこんでいたのですが、どうやら梶井基次郎ではなくて太宰治であったか、というのも太宰治こそは傑出して話芸の伝統に立つ作家なのであって(そのあたりのことは三浦雅士さんの『青春の終焉』で的確に考察されていたと記憶します。興味をおぼえられた方はご一読ください)、しかしそうなるとおれは梶井じゃなくて太宰の孫弟子かよ、なんかかっこわりーなー太宰の孫弟子なんてなー、なーにが苦悩の年鑑か、と私はもうさっきから自分が何をいってるんだかよくわからないほどに苦悩の色を深めている。

 その苦悩のついでに(どんなついでか)、いささか唐突なようではあれど、一冊の本を話題にすることをお許しいただきたいと思います。連想のおもむくまま話題が右往左往してしまうのが「話すように書く」文章作法の特色なのですが、作家の自己演出や自己劇化といったものを考えているうちにふと、私は最近読んだ西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』を思い出してしまいました。今年の1月29日、講談社から出版された本です。表題作が芥川賞にノミネートされましたから、そのニュースに接して西村賢太という名前をご記憶の方もおありかもしれません。

 といったところで、文字どおり右往左往しながらあすにつづきます。

  本日のアップデート

 ▼2005年6月

 3日で読む世界文学1000人の物語 神山重彦

 ちょいと本屋さんを覗いてごらんなさいな。店内のいずれかのコーナーには、あらすじで読む世界の名作、みたいな本がごろごろしています。短い時間で内外の名作を知ることができます、みたいな本が掃いて捨てるほど出版されています。名作の知識を身につけて何になるというのか。少なくとも教養なんて毛筋ほども身につかんぞ。

 そういったたぐいのブックガイドを私はもちろん思いきりばかにしているのですが、なかにゃ乱歩作品がとりあげられていることもありますから始末が悪い。眼につけば手にとって、この本のどこにも乱歩の名前が出てきませんように、出てきたら買わなきゃならないんだもん、と七夕さまに願いをかけるわらべのごときピュアな心でページをくってみるのがならわしです。しかしばかな本というのはどこまでもばかなもので、索引くらいつけておけこのばか、みたいな本が圧倒的に多い。ばかというのはどうしてここまで手がかかるのか。

 さて、この本もそのたぐいかとげんなりしながら立ち読みしてみた私は、しかしたちまちのうちに自分の勘違いに気づかされました。この本が秘めている百科全書派的とでも形容すべき気宇壮大な試みを、たちどころに見てとることができたからです。

 巻頭の「はじめに」から引きましょう。

 ──本書では、世界文学の断面を見るための一つの軸を設定する。それは、日本および外国のすぐれた文学作品群に現れる登場人物1000余人の、誕生から成長、結婚、老い、死そして転生にいたるまでの人生の軸である。この軸をたどる過程で、外国と日本、古代と近代のさまざまな作品を、相互に対比させ合い、それによって世界文学の多様性、あるいは、国や時代の違いを越えた類同性などを、見てゆこうとするのである。世界文学のある局面を見るにすぎないものではあるが、これは将来、より総合的な・包括的な視野から世界文学全体を展望するための、予備的な作業である。

 ここには世界文学なるものにアプローチするうえでのまったく新しい視点が設定されているといっていいでしょう。私にはそれがすこぶる面白いものに思えます。

 たとえば「主人公たちの子供時代」と題された第一章は「不思議な赤ん坊」という小見出しではじまり、まず出てくるのは三島由紀夫の「仮面の告白」。誕生時のことを記憶している主人公が紹介され、その同類としてギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」の主人公であるオスカルの名前が出てきます。

 そんな程度では驚きもしませんが、やがて「天才バカボン」が登場するにおよんで私はびっくりいたしました。バカボンの弟のハジメちゃんもまた生後三週間で言葉をあやつりはじめた天才児であったのだ。

 乱歩作品では「妖虫」と「一人二役」が、前者は第五章の「近すぎる結婚・遠すぎる結婚」、後者は第九章の「生きての別れ・死しての別れ」に登場します(ということを巻末の索引で簡単に知ることができます。だから索引は必要なのだ)。

 「妖虫」のほうを引いておきましょう。「醜貌の女」という小見出しが立てられた界隈にある文章です。

 江戸川乱歩『妖虫』(一九三三〜三四年)になると、相当に深刻な事態になる。殿村京子の母は醜婦ゆえ離縁され、縊死した。京子も醜貌であり、母から「お前は結婚するでない。この母が良い見せしめだ」と言われて育つ。周囲の嘲笑の中で成長した京子は、浮浪者と関係して不具の女児を産み落とし、その浮浪者にさえ捨てられる。京子は美しい顔の女を呪い、ミス・ニッポンの女優、ミス・トウキョウの女学生を殺すのである。

 この著者名には見おぼえがあるけれど、と思いながら奥付の著者紹介を見てみると、ウェブサイト「物語要素事典」を開設していらっしゃる方でした。なーるほど、さもありなん。


 ■ 3月26日(日)
藤澤清造は四文字とも旧字である

 まず告白しておくならば、私は当今のいわゆる純文学作品にほとんど接することのない人間です。どうしてそうなのかと尋ねられたら、いま世上にあふれているその手の小説はどれもこれも、網野善彦が「優等生」という言葉にネガティブな意味あいをこめて使用していた顰みにそのまま倣えば、まさしく優等生によって書かれた小詰まらぬものばかりではないのかという思いこみがあるからだ、と返答することになるでしょう。読みもしないでそんなことがどうしてわかるのか、といわれればそれはまったくそうなのですが、とにかくそんな気がするわけです。

 で、西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』。書店で手にとってみたところ、少なくとも優等生が書いた小説ではないらしいことが即座に知れました。実際に読んでみるとまさにそのとおり、それどころか劣等生、ていうかばか、こんなばか久しぶりで見たぞ、なんとも見あげたばかではないか、とうれしくなってくるくらい優等生から遠くへだたった書き手によって書かれた小説であったということをまずお知らせしておきます。

 私がこの本を買った理由はふたつほどあって、ひとつには帯に配された久世光彦さんの作品評にそそのかされたのと、もうひとつは巻末の著者略歴に、

 ──刊行準備中の、『藤澤清造全集』(全五巻別巻二)を個人編輯。

 という一文を見つけたことでした。私はこの西村賢太なる作家が芥川賞にノミネートされたという事実は新聞記事で読んでおりましたが、個人全集の編纂を手がけていることまでは知りませなんだ。ついでに記しておきますと、少し前に金沢にある出版社から藤澤清造の作品集が出版されたことも耳にしてはいたのですが、作品はいずれも悲惨悽愴な私小説であるらしいとも聞き及び、そんなものいまさら読みたくもねーやと思って買い求めることはいたしませなんだ。

 ここで附言しておくならば、藤澤清造という名前の表記において「清」は旧字が使用されています。つくりの「月」が「円」になった字です。いやいや、しかのみならずよく見てみれば「藤」も「造」も旧字であって、しかしネット上で使用できる漢字には制約がありますから「澤」以外は新字とするしかありません。その点をお断りしておきます。なぜかというと、この西村賢太という作家はそのあたりにすごくうるさい人間だという気がするからです。

 久世光彦さんの作品評を帯から引いておきしょう。

久世光彦氏評(「週刊新潮」〇五年九月二二日号)

西村賢太という人の「どうで死ぬ身の一踊り」という小説を読んだ。凄い小説だった。私の体の揺れが止まらないのは、この小説の後遺症もあるのかもしれない。

……貧困に喘ぎ、同棲している女に暴力を揮い、愛想を尽かした女が逃げ出すと、その前に土下座して涙を零して復縁を哀願する──西村のその姿は「根津権現裏」の藤澤清造に瓜二つである。つまり、西村は〈現代〉の実人生で、藤澤と同一化しようとしているとしか思えない。西村の文学は、身も世もなく悶える文学であり、その魂の姿勢は、いまは忘れられた〈文芸の核〉なのではないかと思われる。

……何はともあれ、欺されたと思って読んでもらいたい。あまりに暗くて、惨めで、だから可笑しくて、稲光が目の前に閃く。

 『どうで死ぬ身の一踊り』一巻を読み終えた私は、久世さんのこの文章に微妙な違和感をおぼえました。この批評からは何かが欠落しているという気がしました。むろん小説の読後感など人によってそれぞれでしょうし、久世さんの批評眼に異を唱えるつもりも毛頭ないのですが、とにかく私にはそのように思われました。

  本日のアップデート

 ▼1993年6月

 不木と乱歩の幻想都市

 名古屋市が発行するところの「なごや発掘・発信マガジン」である「Nagoya 発」の24号に掲載されました。特集「都市とイメージ」の一篇。タイトルの「幻想都市」には深い意味はないようで、

 ──日々刻々と変ぼうしつつあった都市名古屋は、探偵小説家たちに鮮やかな幻想都市のイメージを吹き込んだ。彼らの筆にかかると、名古屋の町が途端に猟奇的で、享楽的で、退廃的な様相を帯びてくる。

 というとってつけたような結びにひっかけたものでしょう。あるいは「幻想都市」という言葉が先にあって、結びをそれにひっかけたか。いずれにせよ、不木および乱歩と名古屋とのかかわりが結構くわしく紹介されております。

 お役所の発行物にしてはえらくスマートな雑誌だなと思って裏表紙を見てみると、小さく「編集・(株)電通」と印刷されています。なるほど。天下の電通ならばこの程度の雑誌は朝飯前のお茶の子さいさい。無署名記事ながら「不木と乱歩の幻想都市」も、資料をよく読みこんで手堅くまとめた仕上がりです。めったに眼にすることのない乱歩の『彼・幻影の城』からも引用がなされているのですから、資料の博捜ぶりはなかなかのものであるといわざるを得ません。

 なれど、しっかし電通かよ、と私は思いました。電通ということになると、名古屋市は結構ぼったくられているのであろうな。名古屋市は自己宣伝のための雑誌づくりを電通に丸投げし、その結果として名古屋市民は電通にいいだけ税金をぼったくられているのであろうな。

 よろしい。江戸のかたきは長崎ですが、名古屋のかたきは名張におまかせ。名張市立図書館にその人ありとうたわれたカリスマが名古屋市民になりかわって天下の電通に一矢むくいてさしあげましょう。

 乱歩の子供時代が説かれた箇所から引きます。

 そのころの乱歩は家庭以外の世界をほとんど意識しておらず、外にいる同年配の子供たちが自分と同類であることを知らなかった。『彼』という自伝の冒頭にアンドレ・ジードの『一粒の麦若し死せずば』から「僕は皆と同じでないんだ、僕は皆と同じでないんだ』十一歳のアンドレ・ジードは母の前に啜り泣きながら絶望的に繰り返した」という一文を引用しているのが象徴的だ。

 このジードの引用には同性愛のほのめかしがあります。ジード少年の欷歔慟哭は自分が周囲の少年たちの「同類」ではないことを思い知ったからこそのものであり、乱歩もその点に鋭く激しく共鳴したがゆえにわざわざエピグラフとして引用したのでしょう(例によって正確とはとてもいいがたい引用ですけど)。したがいまして「外にいる同年配の子供たちが自分と同類であることを知らなかった」というのはいささか的をはずした記述である、ということになってまうだがや。

 電通、敗れたり。

 優等生なんてしょせんこの程度のものだなも。やっとかめ。

 「Nagoya 発」のことはほりごたつさんから教えていただきました。お礼を申しあげます。しかし名古屋市もどうせ財政難なんだからこんな雑誌に予算をつぎこんでかっこつける必要なんかないのに、と思ってオフィシャルサイトをよく見たら、「Nagoya 発」は昨年2月に出た69号で廃刊になっておりました。

 電通、ふたたび敗れたり。


 ■ 3月27日(月)
月曜の朝やってくる

 このところ月曜日の朝には頭がずきずきしたり世界がぼーっとしたりということがつづいているようで、本日もその例に洩れません。ではまたあした。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 地底の魔術王 江戸川乱歩

 きょうのような朝はこのシリーズを紹介することになっております。

 ポプラ社編集部にお勤めだった秋山憲司さんによる解説から引用いたします。

乱歩先生のこと
 私が江戸川乱歩先生に初めてお会いしたのは一九五二(昭和二十七)年、先生が五十八歳のときです。その年に少年雑誌「探偵王」に、おとな向きに書かれた乱歩先生の『黄金仮面』を、武田武彦さんが子ども向きに書き直して連載を始めました。これをポプラ社から出版させてもらえないかと、東京・池袋駅西口、立教大学の裏の乱歩邸を訪れたのです。乱歩邸は改築する前で木造平屋建て、玄関は格子戸という古風な家でした。敷地が三百五十坪もあって庭が広く、庭の奥に伝説の土蔵がありました。

 その頃、ポプラ社から乱歩先生の本は一冊も出版されていませんでした。乱歩先生の子ども向きの本は、光文社から『少年探偵・江戸川乱歩全集』として『怪人二十面相』『少年探偵団』『妖怪博士』など八冊が出版されていて、これがみなよく売れていました。

 乱歩先生は突然の訪問にもかかわらず会ってくれましたが、

 「子どもの本は光文社に任せてあるので、他者から出すわけにはいかない」

と断られてしまいました。

 子どもの本専門のポプラ社としては、どうしても乱歩先生の本を出版したかったので、それからは一週間に一度くらいのわりで訪ねて懇願しました。乱歩先生は最初に会ってくれただけで、あとは隆子夫人から、「何度きてもだめなものは、だめです」と断りを言われるのでした。

 ところが連載が終わりになるころ、乱歩先生が出てこられて、

 「きみの熱心さには負けた、『黄金仮面』はポプラ社から出していいよ」

と言われ、さらに『黄金宮殿(新宝島)』の出版も許可して下さいました。あとで聞いたのですが、断られても断られても訪ねてくる編集者に、隆子夫人が同情して口添えしてくれたそうです。


 ■ 3月28日(火)
主人公への共感を表明する

 『どうで死ぬ身の一踊り』には「墓前生活」「どうで死ぬ身の一踊り」「一夜」の三篇を収録。いずれも主人公イコール作者と見做しうる体の小説で、貧窮と錯乱のうちに芝公園で凍死した藤澤清造なる作家を鑽仰する主人公の日常が描かれます。日常ったって同棲相手をそこらのスーパーで働かせ、自身はいうならば藤澤清造オタクと化してほとんど信仰生活とも呼べる明け暮れ、その小心卑屈なるがゆえの尊大傲慢が「同棲している女に暴力を揮い、愛想を尽かした女が逃げ出すと、その前に土下座して涙を零して復縁を哀願する」結果を招いてしまうのは久世光彦さんの批評にあったとおりで、

 ──西村のその姿は「根津権現裏」の藤澤清造に瓜二つである。つまり、西村は〈現代〉の実人生で、藤澤と同一化しようとしているとしか思えない。

 と久世さんがおっしゃったのも、私は藤澤清造作品を読んだことがありませんから曖昧なものいいしかできないのですけれど、たぶんそのとおりではあるのでしょう。

 早い話、「墓前生活」は『石川県人名事典 現代編八』に収められた「藤澤清造」の項目(執筆は西村賢太さん、つまり作家自身)の引用からはじまっており、そのおしまいのほうには、

 ──長年の放埒な悪所通いによる精神の破綻が言行に表われ、警察に勾留、内縁の妻への暴行などがくり返されたのち失踪。芝公園内のベンチにて凍死体となっているのが通行人により発見される。

 などと見えるのですが、ひきつづく作品の冒頭で藤澤清造の墓を訪れた主人公がいきなり過去を回想して、酔っぱらったあげく桜木町駅前近くの舗道の植え込みに全裸でぶっ倒れているところを巡邏中のパトカーに発見され、留置場にぶちこまれてさてそれからという主人公の経験が読者に提示されるあたり、ここに事典の記述と主人公の日常とを照応させようとする作者の意図を見出すのはじつに容易なことです。

 主人公はいうまでもなく(ぬかりなく、というべきか)酒癖が悪く、「どうで死ぬ身の一踊り」では主人公の発起によって営まれた清造忌法要のあとの酒席において、心地よい酔いに包まれながらも副住職が洩らした「この『清造忌』も、もう少し人が集まるといいですね」という言葉を聞きとがめ、「でもこちとらは別に、名所づくりのイベントとしてやってるわけじゃないんだからなあ」とうっかり失言してしまいます。副住職が怒りをこめてそれに反論すると、主人公は内心「しまった」と思いながらも「ヘタに取り繕うよりは」と自説を述べ立てて──

 「いや、無論、お寺がそんな風に考えてるわけでないことは充分承知しています。でも一方で、今おっしゃったような考えには、その、清造忌を広く知らしめたいと云う考えには、ぼくは根本的に反対ですね。『清造忌をやってます』、と云うその意識が根本的に慊らないんです。なぜなら、その意識の実体は思い上がりだからです。鏡花や犀星と比べて清造さんは知られていない、と言われましたけど、それも根本的に間違ってますね。知ってる人は知ってるし、それはぼくが見本みたようなもんですけど、何より知らない人は清造さんも鏡花も犀星も全く知らないですよ。小説なんかに興味のない人には、どんな作家の名前だって何んの意味も持たないもんです。だから犀星みたいに有名じゃないから、我々の手によって広く知らしめよう、なぞ云うのは、やはりぼくに言わせれば無意味なことだし、それを意義あるもののようにするのは、まるで行政レベルの、どこぞの教育委員会並みの意識ですよ。その作家に興味を持つ人は、黙ってたって勝手に興味を持ちますって」なぞ、まくし立てると、副住職の顔から怒気が去り、こちらの狙い通り、ちょっと煙にまかれたような顔付きになった。

 主人公の卑屈な計算は私にはよく納得できるものですし、ここに述べられた見解にはおおいなる共感さえおぼえます。実際、「まるで行政レベルの、どこぞの教育委員会並みの意識」ほど名張市立図書館のカリスマたる私にとって鼻持ちならないものはなく、しかも当地ではそうした「思い上がり」にすぎぬものが官民双方に悪質なウィルスのごとく蔓延しているのですからたまりません。

 ところでどこぞの教育委員会といいますと、われらが名張市教育委員会はレベルだの意識だのということになるとてんでお話にならぬのですが、それでも流行を追うことにかけては敏であるらしく、個人情報の流出という当節のトレンドには遅れることなくついていってくれてるみたいです。

児童名や保護者名などの個人情報が流失 名張市教委
 名張市教委は3月27日午後2時から市役所で記者会見を開き、名張小学校に勤務していた男性教諭(41)の個人用パソコンから同小児童らの名前など延べ約390人分の個人情報がファイル交換ソフト「Winny(ウイニー)」を通じて、インターネット上に流失したと発表しました。
伊賀タウン情報 YOU 2006/03/27/18:20:51

 みんなしっかりしましょーねー。

  本日のアップデート

 ▼1997年5月

 怪人二十面相とモンゴル絵画 南伸坊

 朝日文庫『モンガイカンの美術館』に収録されました。元版は1983年、情報センター出版局発行。「みづゑ」に連載された美術評論です。

 南さんの文筆活動における最初期の著作とのことですが、栴檀は双葉よりかんばし、変装術の精髄を究めた『本人の人々』のいちはやい萌芽というべきか、南さんは東京国際美術館のモンゴル絵画展で突如として怪人二十面相になりきってしまいます。

 二十面相は、鑑識眼を持った怪盗なのだった。二十面相が狙うのは、「芸術的価値の高い」つまり値段の高い作品なのであった。そういうものでなくては、世間が「アッ」といわないのであった。世間はつまり、値段の高いものに「アッ」というのであった。

 二十面相は考えてしまった。

 「私は芸術の鑑識眼をもっていたのか、それとも値段の鑑識眼をもっていたのか」

 ここにある蒙古の絵には、その値段の背景というものが不明である。プライスカードもついていないし、どういう対象に向けて、どういう思想のもとに描かれているのか、不気味なくらいわからないのである。

 モンゴル人民共和国は共産主義政体である。共産主義の絵は、資本主義の怪盗には理解できないのだろうか? 芸術とはつまり経済なのであろうか? 怪盗はフラフラと立ち上がり一枚の絵の前に立ち止まったのだった。そこには色とりどりの蒙古人が、お祭りに集まっている様子が描かれてあった。民族楽器の馬頭琴をかきならす男、笛を吹くおじさん、縄とびをする少女、相撲する子供、焚火する人、羊を追っかける者、馬に乗るダンナ、牛乳しぼっているオネーサン、そういうものがもうびっっっっっっっっっっっっっっっっっしり描いてある。

 モンゴルの絵画を鑑賞しているうちにこの内省的な二十面相は蒙古人になってしまい(二十面相は「そういうカラダになっている人」なのだそうです)、やがて「なるほど、こんなものかなあ」と納得して、絵の値段や背景などといったものは、

 ──蒙古人になって、ただ素直になつかしく眺めるとそんなことは関係なくなってしまったのであった。

 という境地に立ち至ります。批評の骨法を会得したというべきでしょうか。

 『モンガイカンの美術館』のことは閑人亭さんからご教示いただきました。のみならず、文庫版を二冊もってるから、とそのうちの一冊をご恵投たまわりました。深謝いたします。ありがたやありがたや。


 ■ 3月29日(水)
作者への共感を表明する

 読者諸兄姉はご存じないことでしょうが(私にしたところできのうの夜、名古屋ローカルのテレビニュースで知らされたのですが)、昨28日はいわゆる名張毒ぶどう酒事件が起きた日でした。いまから四十五年前、昭和36年のことでした。これも私は知らなかったのですが、事件の発生現場では3月25日、奥西勝さんの弁護団や支援者による現地調査が行われていました。Yahoo! ニュースに掲載された共同通信の記事をどうぞ。

毒ぶどう酒事件で現地調査 奥西勝元被告の支援者ら
 三重県名張市で1961年、ぶどう酒に農薬が混入され女性5人が死亡した「名張毒ぶどう酒事件」で、死刑判決が確定し再審開始決定の是非が審理されている奥西勝元被告(80)の弁護団や支援者が25日、判決の事実認定の矛盾点を検証するため、現場の同市葛尾などで調査を行った。

 主催した日本国民救援会などの呼び掛けで、9都府県から約80人が参加。奥西元被告が農薬の瓶を捨てたと自白した川を訪れ「瓶の破片すら見つかっておらず、自白は裏付けがない」との弁護団の説明を受けながら、現場の集落をめぐった。

YAHOO! NEWS 2006/03/25/19:15

 この記事には記されておりませんが、テレビのニュース映像では弁護団側と地域住民側との押し問答というか小競り合いというか、おだやかならぬやりとりも映し出されていました。平和な山村に昔の悪夢をよみがえらせてくれるな、よそから来た人間に地域の安寧をかき乱す権利はない、といったあたりが地域住民のみなさんの主張なのでしょう。そしてくり返されるのは、

 「奥西勝が犯人でないというのなら、いったい誰がやったのか」

 という言葉です。テレビニュースでは、地域住民に阻止されたせいで弁護団や支援者が集落内を歩くことはできなかった、とも伝えられていたような気がするのですが、私はすでにして素面ではなかったせいでやや曖昧。それにしても、見あげたものだぜ農村構造、みたいなことは1月11日付伝言に記しましたのでこのあたりをどうぞ。事件のことは2月21日付伝言にも出てきますので、お暇でしたらこのあたりを。

 ちなみに事件発生当時、現場にもっとも近い場所で開業していたお医者さんは往診中とあって連絡がとれず、名張警察署は管内の警察医に応援を要請しました。この警察医というのが誰あろう、乱歩生誕地碑建立に際して土地を提供し、除幕式の夜の宴席では乱歩の前で裸踊りを披露したといわれる桝田敏明先生でした。「迎えのパトカーを待たず、桝田は病院の救急車に乗り込んだ」と江川紹子さんの『名張毒ブドウ酒事件 六人目の犠牲者』にはあるのですが、桝田医院が救急車を所有していたという事実はありませんから、この記述はちょっとおかしい。

 いやいや、そんなことはどうだってよろしい。重箱のすみをつっついてなんかいないで、見あげたものだぜ農村構造のあとは読んだことないぜ藤澤清造の話題だぜ。

 『どうで死ぬ身の一踊り』を読んで私の頭に浮かんだのは、歴史はくり返す、というよく知られた言葉でした。

 ──歴史はくり返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。

 久世光彦さんによれば「西村は〈現代〉の実人生で、藤澤と同一化しようとしているとしか思えない」わけで、それはたしかにそうなのですが、むしろこの西村賢太なる作家において重要なのは、彼が自身の喜劇性を明確に認識している点であるでしょう。藤澤清造は悲劇の主人公であったが、他人がそれを再現しようとしても喜劇にしかなり得ない。そのあたりの事情をこの西村賢太なる作家は知りつくしていて、自分の役どころをよくわきまえたうえで自己劇化を進めている。私にはその点がおおいに面白く、また好ましく思われる次第です。

  本日のアップデート

 ▼2006年2月

 美は乱調にあり、生は無頼にあり 備仲臣道

 サブタイトルは「幻の画家・竹中英太郎の生涯」。英太郎の生誕百年を記念して出版された評伝です。著者名は「びんなか・しげみち」とお読みください。

 著者は昭和16年生まれ。山梨時事新聞の記者にして労働組合書記長だった当時から英太郎との親交があり(月刊誌「新山梨」を主宰していらっしゃった当時には英太郎の逆鱗にふれた経験もおありのようですが)、英太郎晩年の肉声をとくによく伝える内容となっております。

 とはいえ、戦前のことは先行資料にもとづいて記述するしか方途がなかったらしく、乱歩とのかかわりにおける新知見といったものは見当たりません。竹中労の編による画集『百怪、我ガ腸ニ入ル』では「乱歩は激怒して、以後終生、竹中英太郎について語ろうとしなかった」と断定的に記されていた英太郎と乱歩との確執も、それを裏づける資料がなかったのでしょう、いっさいふれられてはおらず、英太郎の「『陰獣』因縁談」あたりに依拠して「大江春泥作品画譜」の成立過程が淡々と記されるにとどまっています。

 昭和10年、英太郎が挿絵との訣別を決意したころのことは──

 こうして、二十九歳の英太郎はついに自ら絵筆を折らざるを得なかったけれど、その時、彼は考えた。江戸川乱歩が自身の作品に嫌気が射していったんは投げ出しながらも、「陰獣」によって復活をとげたように、もし竹中英太郎が画家として復活する時があるとすれば、それは、少なくとも怪奇画家ではない英太郎でありたい。自身の思想を作品の中に反映させていけるような、そういう存在でありたい。

 これはどうでしょうか。当時の英太郎にとって乱歩はただの流行作家、撃つべきエスタブリッシュメントの一員でしかなかったと推測されますから、英太郎が自身の復活を乱歩にたぐえて夢想することはなかったのではないか。私はそのように思います。


 ■ 3月30日(木)
大賢は愚なるがごとくなのかしら

 西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』では主人公と同棲相手の女性との格闘乱闘激闘がくり返し描かれ、しかもそれらはおおむね食いもののことに端を発してゴングが鳴らされるのですから、他愛ないといえば他愛なく、笑えるといえばおおいに笑えます。けちな喜劇を愚直に生きるという作者の自覚が、そこには見まがいようもなくうかがえます。

 「どうで死ぬ身の一踊り」から引きましょう。

 「おい、それより何か。おまえは今夜、ぼくを干乾しにするつもりか。一向にお茶一杯出てこないようだが」

 「……今日はもう、なにも作らない。作る気なくなった」

 「ああ、またお得意を始めやがったなあ。いいよ、いいよ。どうでそうくるとは思ってたんだ。どれ、下に行ってケチな弁当でも買ってくるか。そんな弁当だって、不貞腐れた女が不貞腐れて料理したものよりかは、いくらかうまいだろうからな」

 立ち上がると玄関の方に歩いたが、ふいと小便がつまっていたのを思いだし、後架の電灯のスイッチを入れた。扉を開くと、そこはまた便座が下がっている。何度も注意してきたことなので、これには噴き上がる怒りに余裕がなく、すぐさまリビングに取って返すと、

 「便座上げとけって言ってんだろがっ!」

 頭ごなしの大声で怒鳴りつけた。

 ばかなのかこいつらは、と私は思ったものでしたが、作者の周到な計算にも思いあたりました。そもそもこの作品には地の文と会話に明白なトーンのちがいがあり(たとえていえば、地の文は昭和、会話は平成、といった印象でしょうか)、その齟齬はもとより主人公のアナクロニズムを際立たせるために仕組まれたものなのでしょうけれど、その主人公に「便座上げとけって言ってんだろがっ!」と、つまり「だろうが」ではなしに「だろがっ!」と口走らせてしまう喜劇性の徹底ぶりに(いやこうなると、喜劇性というよりはコント性と呼ぶべきか。コントというのはもちろんそこらのテレビ番組で演じられている寸劇のことで、実際このへんのくだりはカンニングあたりがコントとして演じても面白いのではないかとすら思われます。読み進むうち私には、主人公と相手の女性とが息のあった漫才コンビであるようにさえ思いなされてきたほどでした)、私は作者の覚悟や面目といったものを見る気がいたします。

 筒井康隆さんがどこかに、巧まざるユーモアなどというものは存在しない、という意味のことをお書きであったと記憶しますが、それはまさしくそのとおり。練りに練り、巧みに巧み、企みに企みぬいて仕掛けてみたところで、十ほど仕掛けたうちわずかひとつでも笑いがとれれば御の字であるというのがわれわれの世界なのであって(われわれというのが誰のことなのか、私にももうひとつ分明ではないのですが)、悲惨悽愴なはずの私小説を自覚的な喜劇性で裏打ちしてゆく作者の小説作法には、やはり侮りがたいものがあるように見受けられます。

 今度は「一夜」から、ずわい蟹と鯖寿司に端を発した一戦をば。

 「こんな夜中に鯖寿司なんか食べられないわよ、気持ちの悪い。蟹だって、外で殻から出して食べるからおいしいんでしょ。そんなフザけたみたいな蟹の死体食べるぐらいなら、カニかま食ってたほうが全然ましだよ」

 「……何んてひどいことを言うんだ、おまえは。きっとよろこんでくれるだろうと、みっともない思いまでして買ってきたのに……くだらねえことをいつまでも根に持ちやがって。さっきあれだけ謝まっただろ」

 いつものことだがこのとき私は、頼むからおまえも謝まってくれ、と祈りたい気持ちになる。今、謝まってくれればまだ間に合うんだから、と。しかし、今夜もその祈りが女に届くことはなかった。

 「そんなの、いちいち覚えてないわよ。あたし、バカなんだから。何よ、男のくせにネチネチ恩着せがましいことばっか言って。そんなの買うお金があるんだったらあたしんちの借金、少しでも返しなさいよ。それ買った金も、誰が稼いできたものなのよっ」

 もはや取り返しがつかないことを承知で言っているらしい、女の追いつめられた表情に、一瞬憐憫めいた情が起こってきたが、すぐにそれには屈折したまがまがしい感情が絡んで、縺れる。

 「そうか。おまえは口で言ってもわからないか。あれほど謝まったのになあ。どうして口で言ってわからないかなあ」

 咄嗟に身がまえようとする女より早く、その横顔に平手を放った。

 こんな程度の痴話げんかやドメスティックバイオレンスなら、じつは当節どこにでも転がっていることでしょう。しかし作者にとってはこうした卑小な日常の作品化こそ、おそらくみずからの喜劇性を確認することによって憧憬の(あるいは、信仰の)対象である藤澤清造なる作家の悲劇性を高める行為にほかならないと推測されます。愚かといえば愚かな話ではあるのですが、珍とするに足る姿勢であることはたしかで、それどころかもしかしたら大賢は愚なるがごとし、この西村賢太なる作家はおおきに風変わりではあるけれど名のとおりの賢者なのではないかとさえ思われてくる次第です。

  本日のアップデート

 ▼2006年2月

 美は乱調にあり、生は無頼にあり 備仲臣道

 きのうにつづいてこの本の話題です。

 昨日この欄に「『陰獣』因縁談」と記しましたのは、正しくは「『陰獣』因縁話」でした。「談」ではなくて「話」です。閲覧者の方からご叱正をいただきましたので、ご指摘に深甚なる謝意を表しつつ、ここにお詫びして訂正いたします。

 「『陰獣』因縁話」は平凡社版名作挿画全集の月報「さしえ」四号に掲載されたもので、英太郎の次女でいらっしゃる金子紫さんにお願いしてお送りいただいたじつに由緒正しいコピーが手許にあるのですが、それを確認することなく『美は乱調にあり、生は無頼にあり』の本文をそのまま引き写してしまったというのが誤記のゆくたて。怠慢を恥ずかしく思います。

 それともうひとつ、この『美は乱調にあり、生は無頼にあり』に関して、上記の誤記のようなミスや間違いが散見されることから、こうしたぶっちゃけ程度のよろしからぬ本を紹介するよりはほかの乱歩関連情報に注力したほうがいいのではないかとのご忠言も頂戴したのですが、これはやや筋違いなお申し出というべきでしょう。

 私には英太郎ファンのセンチメントにおつきあいする気はありませんし(むろん乱歩ファンのセンチメントにだって同断ですが)、たとえば『美は乱調にあり、生は無頼にあり』という一冊の本を手にしてその優劣を自身の主観で判断し、それにもとづいて「RAMPO Up-To-Date」への採否を決定するような真似は慎むべきだとも考えております。私は批評家でも研究者でもなくて基本的に図書館の人間なのですから、かりにここに一冊の新刊があってそのなかに乱歩のことが記されているとすれば(乱歩との関係性の濃淡はむろん勘案いたしますが)、乱歩が時代にどのように受容されているのかを示す資料として記録してゆくだけの話です。

 とはいえ、記録はともかく紹介となると、私自身の主観は抜きがたく入りこみます。きのう記したところでいえば次のごとく。

 これはどうでしょうか。当時の英太郎にとって乱歩はただの流行作家、撃つべきエスタブリッシュメントの一員でしかなかったと推測されますから、英太郎が自身の復活を乱歩にたぐえて夢想することはなかったのではないか。私はそのように思います。

 まず「これはどうでしょうか」と備仲臣道さんの記述に異を唱え、自身の見解を記して「私はそのように思います」と明記してあるのですから、これが私の主観であることは明々白々。したがって私の述べるところに異を唱えたいという方がいらっしゃるのも当然のことで、くだんの閲覧者の方からは上の引用にある「撃つべきエスタブリッシュメントの一員」という点への疑義も呈していただいたのですが(このあたりにはレトリックの問題がからんできますから話がいささかややこしいのですが)、要するに私はそのように考えているということなのであって、きのう書きつけたところを訂正する要は認められませんし、私のものと異なる見解を否定しようとも思いません。

 以上、訂正とお詫びと所信の一端とを記しました。

 ともあれ、今後ともよろしくご批判ご叱正をたまわりますようお願いいたします。


 ■ 3月31日(金)
鳴り響く鐘の音を聴きながら

 まずお知らせです。作品社から『国枝史郎歴史小説傑作選』が出ました。

 あ。画像がちょっと大きすぎるか。しかしまあこの大きさは、五百ページを軽くオーバーする大冊のボリュームを二次元的に表現したものだとお思いいただきましょう。

 昨年8月に出た『国枝史郎探偵小説全集』につづいて、単行本未収録の国枝作品が一巻にまとめられました。編者は末國善己さん。本体6800円。詳細は作品社オフィシャルサイトのこのページでどうぞ。

 さて私は、西村賢太さんの『どうで死ぬ身の一踊り』を題材として作家の自己演出や自己劇化といったものを考察してきた次第なのですが、結論としてはどうもよくわからないということになります。早い話、私は西村作品における喜劇性の自覚とその実践について精緻な分析を試みたわけではあるのですが、そしてそれはそれで全然OK、ひとたび発表された作品は作者のみならず読者のものでもあり、それをどう読もうがそんなことは読者の勝手だ、森鴎外の昔から小説なんて何をどう書いてもいいんだというのが通り相場であるのだとすれば、それと同じ道理で小説なんて何をどう読んだってかまわないということにもなりましょうから、私が『どうで死ぬ身の一踊り』をどう読もうと全然OKではあるのですが、しかし私の心に一抹の不安があるのもたしかなことで、それはひとことでいえば、

 ──もしかしたらこの作者、いわゆる天然なのではないかしら。

 という一事です。私の眼には計算と映ったものが、じつはすべていわゆる天然の所産であったとしたらどうだろう。自己演出も自己劇化もまるで関係なく、作者は童子のごとくただ生き、ただ書いているだけなのだとしたら。

 がーん。

 がーん。がーん。

 がーん。がーん。がーん。

 私の頭にはいまや知恩院の鐘の音にも似た幽玄な響きがこだましている次第なのですが、いわゆる私小説でさえこのありさま、作品内に当然存在しているはずの自己演出や自己劇化の問題は畢竟、

 ──どうもよくわからない。

 という結論に逢着してしまわざるを得ないありさまなのですから、事実を淡々と記して所見感想を書き継いだだけに見える『探偵小説四十年』にどんな自己演出や自己劇化が秘められているのか、それを明らかにするのは至難でしょう。しかしそれがまちがいなくそこに秘められているということだけは、光文社文庫版全集『探偵小説四十年(上)』ではじめて明らかにされた草稿、

 ──私の探偵趣味は「絵探し」からはじまる。

 といきなり打ち明けられ、乱歩自身の手で筐底深く秘められてしまった草稿を知ってしまったいまとなっては、私にはすでにして自明であると思われます。みたいなあたりのややくわしいことは伝言録のこのあたりでどうぞ。

  本日のアップデート

 ▼2006年3月

 5 俳人二十面相の挑戦 新保博久

 扶桑社文庫『5分間ミステリー 容疑者は誰だ』に収録されました。1991年に出たワニ文庫『推理の達人』のリニューアル版で、さらにさかのぼれば1981年の角川文庫『3分間探偵ゲーム』がそもそもの淵源です。

 探偵小説仕立ての問題と解答を収録したクイズ本ですが、1981年には三分間でよかった所要時間が四半世紀を経て五分間に引き延ばされている点にこそ、それを懸念する声が当節かまびすしい学力の低下、いやもう国力の低下そのものが端的に示されているのかもしれません。

 問題は古今東西の名探偵のパロディの体裁となっており、論より証拠、明智小五郎と怪人二十面相ならぬ赤字小下太(あかじこげた、とお読みください)対俳人二十面相の対決はこんなぐあいです。

 「あの泥棒が羨ましい」

 と言ったところで、必ずしも貧乏しているとは限らない。なにしろ、あの泥棒とは、そのころ東京中を騒がせていた二十面相なのだから。

 二十面相は高価な美術品、宝石、貴金属しか狙わない。おまけに盗み去った現場には、いつも俳句(もちろん盗作)を書きつけていった。「私は大怪盗、俳句でも何でも盗むんだ」と大見栄を切っていた。

 しかし、二十面相の宿敵赤字小下太の場合、本当に二十面相を羨むほどに落ちぶれていたのだ。

 零落した赤字は二十面相から挑戦を受けます。俳句を素材にした暗号です。懸賞金は千円札一枚。赤字は首尾よく暗号を解読できるのかどうか。

 ごく軽いタッチのクイズですが、乱歩の「二銭銅貨」が典型的にそうであるとおり、暗号解読というもののいかがわしさを衝いた一篇ともなっておりますので、この手の遊びに眉をひそめる向きにもひもといてみられることをお勧めいたします。乱歩ファンなら思わずにんまりとしてしまうであろうオチもついております。

 さあ、五分間で解けるかな。

 さて、3月も本日でおしまいです。

 私はこれでもう三か月、つまりは年が明けて以来艱難辛苦をものともせず連日のアップデートに憂き身をやつしてまいりましたが、勝手ながらあしたからお休みをいただきます。期間としては、まあ一週間といったところでしょうか。遅くとも来週の土曜日、お釈迦様のお誕生日にあたる4月8日には復帰が果たせる見込みです。もうちょっと早くなるかもしれませんけど。

 それではしばしのお別れですが、みなさんどうぞお元気で、天上天下唯我独尊。