2007年4月上旬
3日 ひさかたの鬼の気合のあさぼらけ 一転機にある探偵小説
4日 一転機をめぐる驚愕の朝 一転機にある探偵小説(下)
5日 へんてこなお天気の翌朝に 探偵小説の悪傾向
6日 住民監査請求への遠い道のり 1930 大衆文芸
7日 メンテナンスはお休みです ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス
8日 まーた県立へ行ってまいりました Object glass 12
9日 『貼雑年譜』はいま…… 「家」を守る江戸川乱歩氏夫人
10日 低調だった知事選挙を振り返りつつ ミステリ十二か月
 ■4月3日(火)
ひさかたの鬼の気合のあさぼらけ 

 あしたはどっちだとかばかなこといってるあいだにいつのまにか4月になっておりました。私は何をやっておったのか。先日、三重県立図書館に赴いて「新青年」の復刻版をチェックしたところ大正15年の復刻版だけが架蔵されておらず、ためにどっかよその図書館の蔵書を借りてくれるよう依頼してきたことは3月25日付伝言に記したとおりなのですが、よその図書館から借りたものが届きましたとメールで連絡が入りましたので、3月31日土曜日の午後、私はふたたび県立図書館へ足を運びました。片道は一時間十五分。

 借りてくれてあったのは岐阜県図書館の蔵書でした。税金ちょろまかしてしこたま裏金つくったうえ図書館には「新青年」の復刻版まで完備しているというのだから、岐阜県ってのはよっぽど景気がいいのだろうなとか思いながら「新青年」の復刻版、チェックとコピーをくり返し、すべての作業を終えて帰宅したのは午後7時30分のことでした。45分からはお酒飲みながらテレビで「あしたのジョー」。

 翌日は朝っぱらから「乱歩文献データブック」の大正15年、「新青年」復刻版のデータにもとづいて一生懸命メンテナンスに励んだのですが、1月からはじめた作業が12月になったとき、12月号のコピーを一ページだけ取り忘れていたことに気がつきました。それがないとメンテナンスできません。しかも岐阜県図書館の蔵書なんですから返却されてしまったらまたちょっと面倒。県立図書館の開館時間を待ちかねるようにして電話を入れてみると4月24日まで借りてあるとのことだったのでひと安心はしたものの、しかしものごとには勢いというものがありますからえーいとばかりその日すなわち4月1日の日曜日にも県立図書館へまっしぐら。取り忘れていたコピーを取り、ついでだからと昭和2年から3年、4年あたりもつぶしてやることにして申し込んでみたところ、昭和4年以降はほかの入館者が閲覧しているとのことでした。

 へーッ、とか思いました。私以外に「新青年」の復刻版をチェックする人間が存在していようとは。しかしほんとに存在していたのであって、年配の男性がテーブルに陣取り、復刻版の群青色の背をずらりと並べて調べものに没頭していらっしゃいます。やがて私はコピーを取るためにテーブルを離れました。県立図書館にはコピー機が二台並んでいて、そのうち一台を占拠して大量にコピーを取っておりますと、その男性もまた復刻版を手にコピー機の前へ。二台のコピー機でどちらも「新青年」の復刻版をコピーしているという、これはたぶん三重県立図書館開館以来はじめての珍事でしょう。こうなるとさすがに黙ってもいられません。何をお調べかとお訊きしてみると、

 「辰野九紫です」

 「あ。はあはあ。新聞で拝見しました」

 「ええ。あれです」

 辰野九紫は戦前に活躍したユーモア作家で、乱歩とも親交がありました。戦後は三重県の桑名市に住んでいたのですが、地元にゆかり深い辰野九紫の作品集刊行をめざして資料を集めている人がいると、そういった内容の新聞記事のことを私は記憶しておりました。そんなこんなで立ち話をしておりますと、

 「江戸川乱歩も桑名に来てるんですよ」

 「え」

 「もういっぺん東京に出てこいゆうて、乱歩が辰野九紫を迎えに来てるんです」

 「それは新聞記事か何かで文献的に証明することができるんですか」

 「いやそれがねえ」

 みたいな話も出たのですが、私は『乱歩文献データブック』を持参しておりましたので索引を頼りに辰野九紫が記した乱歩文献のことをお知らせし、その日は日が暮れるまでに帰宅して、翌日も朝っぱらからメンテナンスに励んだのですがこれがいっこうに終わらない。その翌日、つまりけさになってようやくひととおり終わったのですけれど、なんかひさしぶりで鬼の気合を全開にしてしまいました。どんなぐあいの気合だったか。「最新情報」でメンテナンスの内容を概観していただければと思います。

  本日のフラグメント

 ▼1926年3月

 一転機にある探偵小説 森下雨村

 『探偵小説四十年』の大正15年度、「森下雨村の所説」に乱歩はこう記している。

 ──私の貼雑帳に大正十五年三、四月ごろ? として「読売新聞」文芸欄にのった森下雨村氏の「一転機にある探偵小説」という評論が貼りつけてある。この評論は、上、下、或いは上、中、下と分載されたものであるが、貼ってあるのはその(上)だけである。この評論は当時の探偵小説の様子がわかって面白いし、また本格論、文学論とも関係があるので、その一部を写しとって見る。

 「一転機にある探偵小説」がスクラップされたページは講談社版では省かれていたため、東京創元社版の『貼雑年譜』によってはじめて紙面そのままの文章を読むことができるようになった。本来であれば『乱歩文献データブック』をつくったとき記事のコピーくらいは入手しておかねばならなかったのだが、どうにも調べがつかなかった。

 東京創元社版『貼雑年譜』をひもとくと、乱歩のいうとおり大正15年度のページにこの記事がスクラップされ、台紙には「三四月頃カ」との註記が見られる。しかし切り抜かれた記事そのものには、「一転機にある探偵小説」という見出しのうえの空白に「十五?」という書き込みを認めることができる。ふつうに考えれば「十五」は大正15年のことだから、この切り抜きに「十五?」というメモを書き入れた時点で、乱歩にはそれが大正15年のものかどうかがわからなくなっていたということだろう。

 しかし記事はたしかに大正15年度のページに貼りつけられ、「三四月頃カ」という説明が添えられている。『貼雑年譜』を作成したとき、乱歩はこれを大正15年の3月か4月の記事だと推断するに足る何らかの根拠を手にしていたと考えられないでもないが、その可能性はきわめて低いだろう。

 こうなると疑念が生じる。これは本当に大正15年の記事なのか。大正15年といえば1月に『屋根裏の散歩者』が刊行され、10月に「パノラマ島奇談」、12月に「一寸法師」の連載がスタートした年なのである。そして疑念を抱いて雨村の文章を読んでみると、疑わしさは募るばかりだ。 

 論より証拠、お読みいただこう。『探偵小説四十年』の引用では冒頭が省かれているのだが、ここには省略なしで引く。引用中、この色で示したのが『探偵小説四十年』の省略部分である。「最も主も原因」は誤植、原文のまま。

 昨年から今年へかけて華々しく狼火の手を挙げた創作探偵小説界も、こゝ暫く落ち着きの色を見せて来たやうだ。一二年以前の如く一作が発表される毎に、喧々囂々と論議しつくされるといふやうな事は、最近ではもう見られなくなつた。

 これは併し、探偵小説の衰退を意味するものではなくて、反対にもはや議論の余地なきまでに、一般的になつたことを意味してゐるのである。尤も日本の探偵小説といふものが、今一転機に立つてゐる事は確であるし、その作家達がある種のヂレンマに陥つてゐる事も明かな事実である。その動機には種々あらう、結局日本の作家たちには、未だ探偵小説的素質といふものが充分でなかつたせゐもあるかも知れない。が、私の思ふのに、かくも速かに、産れてから未だ数年にもならないのに、早くも一種のヂレンマに陥らなければならなくなつた最も主も原因は作家たちが、あまりにも、所謂芸術なる言葉に禍されて、その為には、探偵小説の本質であるべき面白味をさへ犠牲にして顧みなかつたせゐではなからうか。

 この点、創作探偵小説の創造者江戸川乱歩とともに、雑誌『新青年』もその罪の一半を負ふべきであるかも知れない。併し乱歩氏の探偵小説は、芸術的であると同時に、必ずしも、探偵小説的興味を犠牲にしてはゐないと思ふのである。無論アメリカあたりに流行してゐる、所謂探偵小説の面白味とは、やや種類を異にしてゐるものの、氏の作品には、常にある種の探偵小説的面白味が附纏つてゐる。でなければ氏があれだけの流行作家にはなれなかつた筈である〔。〕それだのに、氏に追従して輩出した、多くの若い作家たちが、唯氏の、芸術的方面をのみ模倣しようとして、つひに探偵小説が結局探偵小説であるべきを失念して了つたのは、まことに残念であると言はなければならない。

 これははたして大正15年のことなのか。都合四冊刊行されることになる探偵趣味の会のアンソロジー『創作探偵小説選集』の一冊目が刊行されたのは大正15年2月のことなのだが、おなじ年の3月か4月に、

 ──昨年から今年へかけて華々しく狼火の手を挙げた創作探偵小説界も、こゝ暫く落ち着きの色を見せて来たやうだ。

 という状況分析はあまりにもそぐわない。

 大正15年の「新青年」1月号、つまり乱歩の「踊る一寸法師」が掲載された号の投稿欄「マイクロフォン」から引用してみる。まず角田喜久雄の弁。

 ──我々の愉快でたまらないのは、数年前まで、探偵小説等てんで見向きもしなかつた連中が昨今、とや角問題にする様になつた事で、それ丈勢力の広がつて来た事は明かです。その功績の大半は本誌によるものでせう。

 つづいて牧逸馬。

 ──近頃探偵小説が流行り出したことは何うだ。しかも短い創作にいゝものがあるのは、近代人の神経が針でさすやうなぴりゝとしたものを求めてゐることを完全に示してゐて、面白い。

 当の森下雨村にしたって、この年2月に出た「新青年」新春増刊の編集後記「編輯局から」にえらく威勢のいいことを記している。

◆近頃「探偵小説時代」といふ言葉を聞く。江戸川乱歩兄が読売新聞の文芸欄で、さういふ題下で探偵小説の流行を説けば、それと前後して春日野緑君が、大阪の社交クラブでやはり「探偵小説時代」といふ講演をせられたさうである。

◆「探偵文芸」「探偵趣味」「映画と探偵」それに本誌も仲間に入つて、何時の間にか四種の専門雑誌が出来た上に読物本位の各雑誌や婦人雑誌までが、競うて探偵小説をのせ、時好におくれざらんことにつとめてゐる。探偵小説と銘を打つて新年の各種雑誌に発表された読物を拾ひ上げてみれば、恐らく数十篇にも上るであらう。「探偵小説時代」の言ある宜なりといふべきであらう。

◆創作にしろ、飜訳にしろ、探偵小説がかうまで盛んに発表されるといふことは、一般読書界がだんだんと探偵小説を理解して来たことを裏書きするもので、同時に、数の上からばかりでなく、ほんたうに探偵小説を理解する人々の期待に添ふだけの立派な創作や飜訳が提供されてゐることを証明するものである。本誌新年号創作欄を見てもこの言の当れるを諸君は認められるであらう。

 この雨村が一か月か二か月あとに、

 ──昨年から今年へかけて華々しく狼火の手を挙げた創作探偵小説界も、こゝ暫く落ち着きの色を見せて来たやうだ。

 などと書きつけるとは考えられない。つまり乱歩が勘違いしていたのだろう。『探偵小説四十年』に「一転機にある探偵小説」を引いた乱歩は、上の引用でいえば二段落目の最後、「探偵小説の本質であるべき面白味をさへ犠牲にして顧みなかつたせゐではなからうか」につづけてこんな註記を添えている。

 〔註、このことは当時の私の状態に最もよくあてはまるのだが、森下さんは私だけを責めないで、一般的傾向として論じている。このころ、私は「新青年」にしばらくごぶさたになっていた。専門誌に発表するようなものが生れて来なかったのである〕

 乱歩はこの年、1月に「踊る一寸法師」、3月に「マイクロフォン」、4月に「火星の運河」、5月に「五階の窓」、6月に「当選作所感」と「『遺書』を推す」、9月に「浅草趣味」と「近来の珍味」、10月に「パノラマ島奇談」、11月に「パノラマ島奇談」と「『五階の窓』所感」と「十月号其他」、12月に「印象に残れる作品」を発表しており、「新青年」に「しばらくごぶさた」という状態ではなかったと思われるのだが、それはともかく、乱歩の勘違いの原因は註記にある「一般的傾向」であるだろう。

 森下雨村が一般的な傾向として記した状況を、乱歩はみずからのものとして理解した。『貼雑年譜』をつくったとき、「十五?」とメモされた「一転機にある探偵小説」を見て、探偵小説の転機をみずからのそれとして認識した。つまり自分が大正15年の春にひとつの転機を経験しつつあったという認識が、乱歩にはあったのではなかったか。「産れてから未だ数年にもならないのに、早くも一種のヂレンマに陥らなければならなくなつた」という雨村の指摘が、ただちに自身のジレンマの記憶と結びつき、「一転機にある探偵小説」が大正15年の3月か4月の記事だと結論づけられたのではなかったか。探偵小説界のパイオニアでありリーダーであったこのミスター探偵小説には、探偵文壇の趨勢と自身の創作活動とを関連づけ照応させて考える傾向があったとおぼしい。

 しかしどう考えても、大正15年春の時点で乱歩はまだ「氏があれだけの流行作家」などと呼ばれる存在ではなかっただろうし、「多くの若い作家たちが」「氏に追従して輩出した」ということもなかったのではあるまいか。

 まあそんなぐあいに私には考えられるのだが、これまで記してきた私の所説にはひとつ弱点がある。それは森下雨村が「一転機にある探偵小説」のなかに、

 ──「新青年」としても、これ迄、どちらかと言へば、興味中心の物よりも、所謂附きであつても、芸術的匂ひのする物を、多く掲載する方針を採つて来た。併し、これはこれで私として一種の信念があつたからである。

 と記していることで、これを読むかぎり雨村は「新青年」の編集者である。雨村は昭和2年の5月号から「文芸倶楽部」の編集担当となり、「新青年」との縁は切れてしまうから、かりに「新青年」の現役編集者として「一転機にある探偵小説」を書いたのだとしたら、その時期は昭和2年4月ごろまでに限定されてしまう。かりに昭和2年4月だと考えても、そのときが、

 ──昨年から今年へかけて華々しく狼火の手を挙げた創作探偵小説界も、こゝ暫く落ち着きの色を見せて来たやうだ。

 という状況だったのかどうか。私は「一転機にある探偵小説」が大正15年の3月か4月の発表とは思えない理由を上に記してきたのであるが、昭和2年4月になっても状況にさしたる変化はなかったのではないか。もう少しあとの時代のものであればもっとすっきりするような気もするのだが、あいにくとそうは問屋が卸さないだろう。そうして考えてくるとあるいはこの文章は、雨村が「新青年」を去るにあたって過去七年の編集者生活を振り返る含みもこめてつづったものかもしれない。つまり転機とは雨村自身のそれでもあったのかもしれない。

 いや困った。さらに困ったことが出来した。『貼雑年譜』の「一転機にある探偵小説」をもう一度よく見てみたら、見出しの余白に書かれた「十五?」の「?」がなんだかクエスチョンマークに見えないような気がしてきた。どういう文字かはわからない。しかし「?」ではないのではないかという不安がいまや私の胸をしきりとさいなんでいる。なんかもうばかみたいである。


 ■4月4日(水)
一転機をめぐる驚愕の朝 

 与太も飛ばしてみるもので、きのう森下雨村の「一転機にある探偵小説」について記しましたところ、おふたりの方からメールでご教示をいただきました。『貼雑年譜』にスクラップされた「上」は大正15年11月30日、つづく「下」は12月1日の読売新聞に掲載されたものであるとのことです。おひとりからは紙名と日付を含む紙面のスキャン画像をお送りいだきましたので、レギュラー枠での放送が終わってからこんなフレーズを使用するのもなんだかあれなのですけれど、これはもう完全無欠なファイナルアンサーだということになります。

 さらにまた、「『新青年』趣味」第十一号に発表された湯浅篤志さんの「森下雨村と『新青年』編集局のストラテジー」にも「一転機にある探偵小説」が引用され、そこには掲載日が明示されているとのお知らせもいただいて、えッ、とびっくりした私はゆくりなくも驚愕の朝を迎えてしまいました。「『新青年』趣味」第十一号といえば昨年、2006年12月15日付伝言に私はこんなことを記しております。

 11月23日、ある方からメールで中井英夫にかんするご教示をたまわりました。つまりその時点で12月10日にはこのネタで行こうと考えたわけなのですが、そんなことはともかくとしてどんなことをお知らせいただいたのか。

 『新青年』研究会の「『新青年』趣味」第十一号は中井英夫と森下雨村の特集でした。発行は三年前、2003年の12月31日。むろん私も所有しております。ていうか、お休み中に資料を整理していたら段ボール箱のなかから何冊かまとまってどさどさ出てきました。

 この号には私の「中井英夫という名前」という駄文が掲載されているのですが、それを読んで気がついたことがあるから教えてあげよう、というのが11月23日に頂戴したメールの用件でした。

 私という名の愚か者は表紙をスキャンしてこんなことを書き記していた時点でもまだ気がついていなかったのですが、不意の不安をおぼえてついさきほど「RAMPO Up-To-Date」の2003年のページを閲覧し、この年12月31日に発行された「『新青年』趣味」第十一号のことがどこにも記載されていないという事実をようやくにして知りました。つまり驚愕の朝になったわけです。

 第十一号に急いで眼を通してみました。この号には湯浅さんの論考をはじめとして三点の乱歩文献が収められており、それらは当然「RAMPO Up-To-Date」に記載されていなければならぬのですが、私はその作業をなぜか放棄してしまっていた。上に引いた昨年12月の伝言には「お休み中に資料を整理していたら段ボール箱のなかから何冊かまとまってどさどさ出てきました」とありますから、なんだかごちゃごちゃとそこらにほっぽり出してあったようである。考えられる理由はただひとつしかありません。上の引用にもありますとおりこの号には私の駄文が掲載されていて、私はそのなんというか誌面の汚れでしかないような腰折れがなんとも恥ずかしく、ためにこの号を開くのがなんかいやだな、ほんっといやだな、とかうじうじしているうち「RAMPO Up-To-Date」に記載する機会を失してしまったというところであろうといまは振り返られる次第です。

 ですから私は遅れに遅れてついさっき、「RAMPO Up-To-Date」の2003年12月31日に「『新青年』趣味」第十一号のデータを冷や汗かきながら記録いたしました。三年以上もほったらかしにしてあったわけで、『新青年』研究会の関係各位には心からお詫びを申しあげます。私という名の愚か者はほんとにまあどうしようもありません。今後ともよろしくご高誼をたまわれれば幸甚です。

  本日のアップデート

 ▼1926年12月

 一転機にある探偵小説(下) 森下雨村

 さて、お送りいただいた読売新聞のスキャン画像にもとづいて、きのうのつづきを引用する。この記事には乱歩の名前は出てこないが、せっかくご教示いただいたデータなのだから、資料性という点にも配慮して「乱歩文献データブック」の大正15年12月に記載した。

 それでは12月1日付の「下」、記事の冒頭から五段落。

 一方に相当、或は相当以上の上品さを保ちながら、他方に於て、充分に興味中心であるもの、さう言つたものが、将来の探偵小説を占領するだらう。そしてそれが当然の成行である。

 一見これは作家として甚だしく困難なことであるやうだが、必ずしもさうではない。現在の日本の作家たちには、如何に奨めても俗悪なる小説は書けつこない筈である。彼等は意を安んじて、興味中心の物に想を走らせて然るべきである。

 その意味で「新青年」新年号より連載される、小酒井不木氏の「疑問の黒枠」を私は大いに推賞したいと思ふ。これは日本に産れた最初の長篇探偵小説であつて、それだけでも、既に充分一読の価値あるものであるが、私の更にこの作品に敬服する所以は、氏が敢然として、その構想、形式を、通俗物らしくとられたところにある。おそらく読者は数ケ月間、その興味に引摺られて行く事であらうがその興味たるや、所謂芸術的なる物でもなく、と言つて俗悪低級なるアメリカあたりの探偵小説的興味でもない。

 そこに溢れ出てゐるある種の気品は、この作品をして、何人に読ませても危険性のないものにしてゐる。

 私の思ふのに、かういふ作品こそ、現在やゝ沈滞の気味にある探偵小説界の空気を、一新するものであると同時に、将来の探偵小説の行き方を暗示してゐるものである。最近一向振はなくなつた新進作家たちは、この作品から必ず何物かを得る事が出来るに違ひないと思ふ。

 あとまだつづくが驚くべし。まるで手品みたいに最終的には小酒井不木「疑問の黒枠」の連載がはじまる「新青年」新年号の宣伝に収斂している。その一点から逆算するならば、つまり「現在やゝ沈滞の気味にある探偵小説界の空気を、一新するものである」ところの「疑問の黒枠」を画期的な作品であると強力にプッシュするために、森下雨村には「上」の冒頭にあった、

 ──昨年から今年へかけて華々しく狼火の手を挙げた創作探偵小説界も、こゝ暫く落ち着きの色を見せて来たやうだ。

 にはじまる状況分析を示すことが必要であったのかもしれない。ただし私には、この文章が大正15年11月に発表されたものであると知ったいまでも、というよりは知ったいまだからこそ、これは雨村によるやや恣意的な分析ではないのかという気がしてならない。

 「新青年」の編集後記を一覧してみると、森下雨村が「雨村生」という名義で執筆したのは大正15年の9月号までで、10月号からは「横溝生」の横溝正史が担当し、12月号は「一記者」。明けて昭和2年1月号は横溝正史、2月号は不明(コピーを取ってないからである。この手の記事は乱歩のことが書かれてなくても資料としてコピーしておかなくっちゃなッ、と私という名の愚か者はいま舌打ちしながら痛感している)、3月号は横溝正史と「渡辺生」つまり渡辺温。そして4月号が横溝正史で、そこにはこんなことが書かれている。

 ──森下雨村氏が文芸倶楽部をやられるやうになつて、まあお前やつて見ろと、新青年を一任されてからこれが第二冊目である〔。〕

 つまり「新青年」は昭和2年の3月号から横溝正史が単独で編集していたわけで、5月号には雨村のこんな「御挨拶」が、編集後記ではなく本文の埋め草めいた扱いで、それでも本文より大きな活字で掲載されている。

 前号で横溝君が御披露下さつたとほり、今度文芸倶楽部の方に転じ、五月号から同誌を編輯することゝなりました。創刊以来七年、まことに長い御縁故でした。皆様の御後援御同情に厚く御礼申上げますと同時に、今後も相不変皆様が本誌を御愛顧下さいますやうに、また一方では、小生主宰の文芸倶楽部をも御愛読下さいますやう、慾深い申分ながら、御挨拶に兼ねてお願ひ申上げます。

 きのう記したところに固執するようだが、大正15年の11月から12月にかけて、森下雨村自身もまた大きな転機を迎えていた。「一転機にある探偵小説」の「転機」とは、直接的には「新青年」を離れるにあたって雨村が「疑問の黒枠」を宣伝するために、おそらくはいささかの過剰さもまじえて当時の状況を表現した言葉であると見るべきだろう。しかしこの言葉には、雨村自身が大きな転機を迎えていたという事実も確実に反映されていたはずであり、あとになってその切り抜きを眼にした乱歩もまた確実に、その言葉から大正15年の春に経験しつつあったみずからの転機を想起したのではなかったか。

 私にはどうもそういうことだったのではないかと推測される。


 ■4月5日(木)
へんてこなお天気の翌朝に 

 きのうの当地はじつにへんてこなお天気で、晴れたり曇ったりそうかと思うと横殴りの雨が降ったりうっそーといいたくなりましたけど雪までちらついたり、そんな悪天候のなか私は某テレビ局の取材におつきあいして乱歩生誕地碑のあたりを中心にまちなかをさまよったり、あるいは名張のまちを一望できる場所はないかとのお尋ねをいただきましたので名張市民にもあまり知られていないであろうとっておきの遥拝スポットである黒田の勝手神社まで道案内を務めたり、おかげさまで無事に撮影を終えていただくことができました。このあと東京でも取材があって、放送予定は5月16日とのことでしたけれど、名張のまちも十秒くらいは画面に登場するのではないでしょうか。詳細はまた追ってお知らせいたします。

 けさは「乱歩文献データブック」の昭和4年をメンテナンスいたしました。

  本日のアップデート

 ▼1929年7月

 探偵小説の悪傾向 林房雄

 森下雨村の「一転機にある探偵小説」にもう少しこだわってみますと、「上」のほうに記されていた、

 ──でなければ氏があれだけの流行作家にはなれなかつた筈である

 ──氏に追従して輩出した、多くの若い作家たちが、唯氏の、芸術的方面をのみ模倣しようとして、つひに探偵小説が結局探偵小説であるべきを失念して了つた

 といった指摘は昭和4年あたりにふさわしいのではないかと私は考えていた。「あれだけの流行作家」というのであれば、東京と大阪の両朝日新聞で連載を終え、「陰獣」で大当たりを取ったあと「朝日」に連載をもっていたころの乱歩が連想される。また、大正15年に乱歩の模倣者として若い作家が登場していたと考えることは私にはできなかった。

 それならどうして昭和4年なのか。たとえばこの年の「文学時代」7月号は探偵小説を特集していて、その一篇である中村武羅夫の「現下文壇の諸相と諸作家」には、

 ──最近、勃然として勢力を得て来たのは、探偵小説である。

 との指摘が見られる。つまり探偵小説がいわゆる大衆文学として急速に大量の読者を獲得しつつあったわけで、だとすれば探偵小説のプロパーの眼にはそうした状況がある種の危機感を抱かせる「転機」と映じたとしても不思議ではないだろう。私にはそんなふうに推測された。

 それで本日は昭和4年の7月、読売新聞に掲載された文芸時評。「改造」に発表された「虫」の批評が記されている。

 江戸川乱歩の変態性は、例によつて例の如しで今更いふのも野暮だが「新青年」の新作家による五篇特に松谷、岡戸、中島の諸君の三作悉く完全に乱歩のエピゴーネンでそれこそ腐つた臓腑のやうな人物が、同じやうな澱みきつた環境で蛆のやうにうごめいてゐる、さうした世界の相も変らぬ繰り返しにすぎない。「文学時代」の五篇も、それ程には退廃的ではないといふものゝ、それが近代の活動性と甚だ遠い、といふ点では全く乱歩派と五十歩百歩である。かのドイル、ルブラン、フリーマン等の作家をあれ程にポピユラーならしめた真の近代性は、我国の探偵小説には全然含まれてゐない、と断言していゝ位だ。そこにあるものは活動性ではなくて頽廃性だ。機械と科学ではなくて、遊食と無為、そこから生れる不健康な好色と、変態趣味ばかりだ。

 何が彼女──我国の探偵小説を、さうさせたか?

 乱歩はこの記事に添えて、

 ──大キナオ世話デアル。

 と書いたりはしておらず、

 ──当時林房雄ハ社会主義作家デアツタ

 と無愛想に記している。社会主義作家というのはこんなことしか書けない連中なのである、まったくうんざりである、とでもいいたげに。

 ここに出てきた「新青年」の「新作家による五篇」は、7月号に掲載された角田喜久雄「死体昇天」、松谷蒼生「傷痕の秘密」、城昌幸「都会の怪異」、岡戸武平「五体の積木」、中島輝雄「臓腑の壁」のことだと思われる。私は雨村が記していた「氏に追従して輩出した、多くの若い作家たち」という言葉からなんとなく岡戸武平を連想し、そのせいもあって「一転機にある探偵小説」は昭和4年ごろのものではないかと睨んでいた次第であった。


 ■4月6日(金)
住民監査請求への遠い道のり 

 まったくまあ毎朝毎朝『貼雑年譜』と首っ引きになってあっちこっちペシッとかピシッとかときにメリッとか音をさせながら大正末や昭和初年の新聞記事なんぞに眼を凝らしていると自分がいつの時代の人間なのかがわからなくなる。息抜きに本屋を覗いて「魔術師」が載ってる「講談倶楽部」でも買ってこようかという気になってくる。いかんいかん。こんなことではいかん。いまは2007年の4月なのだとみずからにいいきかせる。そして『貼雑年譜』に眼を戻す。スクラップされた新聞記事の、

 ──行李詰事件の張本人/清作はどうしてゐる?/生か死か凶行の原因その他/探偵小説家の観測

 という見出しが眼につく。昭和5年の清作とやらのことなどどうでもいいのだが、2007年のこの相作は毎朝いったい何をしておるのかといっそ不思議な感じがしてくる。

 そんなこんなで息抜きというわけでもないけれど、私はきのう名張市役所に行ってきた。行ってから思いあたったのだが、きのうは市役所全体が悄然としているはずの日であった。なぜかというと新年度早々、おとなりの伊賀市では腹から笑えるこんなニュース(4月3日付朝日新聞)があったというのに、わが名張市ではまったく無関係な市民でも粛然とせざるを得ないこんなニュース(4月3日付伊勢新聞)があり、そのニュース関連の葬儀が営まれたのがきのう5日のことだったからである。紋切り型の表現を用いるならば、名張市役所は深い悲しみに包まれていたといったところになるだろう。にしても行ってしまったものはしかたがない。用件を済ませてきた。

 まず行ったのは三階である。などと書き記すと早とちりの向きは、おお、

 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。

 の件でとうとう教育委員会に怒鳴り込みやがったかあのばか、とお思いかもしれない。そんな事態にいずれ逢着する可能性もないではないが、きのうはそうではなかった。おあいにくである。私が足を運んだのは教育委員会とおなじ三階にある監査委員・公平委員会事務局だ。住民監査請求についてアドバイスを仰いできた。

 住民監査請求は地方自治法によって定められた制度で、同法第二百四十二条にこうある。

(住民監査請求)

第二百四十二条  普通地方公共団体の住民は、当該普通地方公共団体の長若しくは委員会若しくは委員又は当該普通地方公共団体の職員について、違法若しくは不当な公金の支出、財産の取得、管理若しくは処分、契約の締結若しくは履行若しくは債務その他の義務の負担がある(当該行為がなされることが相当の確実さをもつて予測される場合を含む。)と認めるとき、又は違法若しくは不当に公金の賦課若しくは徴収若しくは財産の管理を怠る事実(以下「怠る事実」という。)があると認めるときは、これらを証する書面を添え、監査委員に対し、監査を求め、当該行為を防止し、若しくは是正し、若しくは当該怠る事実を改め、又は当該行為若しくは怠る事実によつて当該普通地方公共団体のこうむつた損害を補填するために必要な措置を講ずべきことを請求することができる。

 以下、九項までの詳細は「法令データ提供システム」のこのページでお読みいただきたい。名張市オフィシャルサイトには「監査委員事務局の概要」というページがあって、そこでは住民監査請求のことがこのように説明されている。

 住民が、監査委員に対して、名張市の執行機関又は職員について財務会計上の違法・不当な行為又は怠る事実があるとして、必要な措置を講じるよう求める監査で、法廷要件を満たすものについて監査を実施します。

 要するに、こんなぐあいに税金つかったのはちょっと変じゃね? とか思った市民が監査委員に対してこれどうよ? とか監査を求めるシステムだ。私は一度でいいからこの住民監査請求というやつをやってみたくてしかたがない。おととしの3月に提出した渾身のパブリックコメント「僕のパブリックコメント」にはその悲願をこう記してある。

「いったいどないなるんですかね」
「何の話ですねん」
「日本中の注目を集めてるライブドア対フジテレビの仁義なき戦い」
「堀江社長と日枝会長のニッポン放送株争奪戦ですか」
「近来になく景気のええ話でして」
「そらもう何百億ゆう単位でお金が動いてる話ですから」
「テレビのニュースで見てる分にはこっちの腹は全然痛みませんし」
「君の腹なんか痛んでも知れてるがな」
「最近では金額の大きさにもすっかり慣れっこになってしまいましてね」
「そんなこともあるかもしれません」
「三億やそこらのことはどうでもええやないかゆう気になったりもしますし」
「三億やそこらといいますと」
「そんなもん君『生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき』事業の話に決まってますがな」
「君まだそれゆうてますのか」
「あれほどゆうたったのに事業関係者は僕の忠告にまったく耳を傾けることなく三億三千万円の税金をどぶに捨ててしまいやがりましてね」
「どぶに捨ててしもたゆうたら語弊があるでしょうけど」
「けど僕は何も難しいことゆうてるわけではないんです。やってることがあまりにも不透明ですからせめて事業個々の予算額ぐらい明らかにしたらんかと」
「たしかにあの事業にはかなり問題があるゆう話はいろいろと聞きますけど」
「問題なんかあり過ぎるほどあるんですけど僕は予算の透明性という一点にしぼって問題を掘りさげてるわけでして」
「掘りさげてどないしますねん」
「三月二十三日に第五回『生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき』事業推進委員会があるんですけど」
「例の三重県の知事さんが会長を務めてはる委員会ですか」
「決算が報告されるはずなんです」
「最終的に事業の予算がどうつかわれたかゆうことが報告されるわけですな」
「これが君もしもええ加減な報告やったら僕としては黙ってられませんからね」
「どんな手ェ打ちますねん」
「ことと次第によっては県の監査委員に住民監査請求をしたろかしらと」
「そんなことしたら君また一段と嫌われ者ですがな」
「それは想定の範囲内です」
「そんな堀江社長みたいなことゆうとってええんですか」

 2004年度に実施された三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」では、予算の明細がいっさい発表されぬまま半年間にわたるロングランの事業に突入するという異常事態が堂々とまかり通った。しかも関係者全員がばかだったから誰ひとりその異常さに気がつかない。私ひとりがぎゃあぎゃあ騒いでいたら三重県知事もさすがにことの重大さに気がついたのか、事業途中に開かれた事業推進委員会で八百万円の専決処分を承認する際、内容をもっと詳細に報告しなければ県民に対する説明責任が果たせないと事務局を叱責するにいたった。ために事務局職員が会合を中座し、青い顔して専決処分の明細を調べに走り回るというシーンが展開されることになった。事務局乙。

 しかしそんなのはどう見ても手遅れというものなのであって、知事はもう少し謙虚に県民(つまり私のことだ)の声に耳を傾けていればよかったのである。それをまあ真摯な県民の声を「雑音」と決めつけて排除してしまうのだから始末が悪い。知事といえば現在ただいま三重県ではまさに知事選挙が展開されている最中なのだが、これがまたえらく低調な選挙である。盛りあがりというものがどこにも見られない。ブログ「三重県よろずや」に引用されていたので衆議院議員小選挙区三重県第二区選出の中川正春議員のオフィシャルサイトを見てみたら、このページの4月3日にこんなことが書かれていた。中川議員乙。

知事選挙については、国会議員は、および無しという事になっているようです。知事が街宣車で赴いたところで、街頭演説をやっているようですが、通りすがりの人でさえ立ち止まることのない姿は、知事としては、値打ちを落としている事になると、番記者の一人が心配していました。民主推薦、自民相乗りの構図と、相手が共産党だけという選挙だから、政党色をなるべく出さずに運動を進めるという野呂知事の意向が働いているようです。私たちとしても、静観するしかないということです。しかし、ここまで周りをしらけさしてしまうのも、残念な事です。

 たしかにブンヤさんもしらけているらしく、けさなど中日新聞オフィシャルサイトには「'07 みえ知事選 名言、珍言集」という記事が掲載された。テレビ番組でいえばプロ野球の名プレー珍プレー集に相当しよう。要するに色ものだ。しらけぶりが如実に伝わってくる。ブンヤさん乙。

 閑話休題。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の決算は結構怪しい点も少なからず見受けられたものの一応のものが報告されたので、残念ながら住民監査請求を起こすにはいたらなかった。そして二年後、ふたたび住民監査請求のチャンスがめぐってきたというわけだ。私は雪辱を期すエースピッチャーのような心境で監査委員・公平委員会事務局を訪れた。

 とはいえ、いきなり住民監査請求を行おうというのではない。私はこの制度について一知半解の知識しかもちあわせていないから確認しなければならぬこともあり、それ以前に自分が問題にしようとしていることがはたして住民監査請求の対象になるのかどうか、それすらよくわからなかった。だから事務局スタッフからアドバイスを仰いだのである。スタッフはじつに懇切にアドバイスしてくれた。スタッフ乙。

  本日のアップデート

 ▼1930年11月

 1930 大衆文芸 甲賀三郎

 けさのメンテナンスは昭和5年。11月、読売新聞の文芸欄に掲載された記事が『貼雑年譜』にスクラップされている。昭和5年の大衆文芸を回顧する内容である。

 ──一九三〇年の大衆文芸は沈滞したとまでは行かなくとも、何等の新味を加へる事なく、旧態依然たるものであつた。

 と書き出され、次の段落では大衆文芸の読者層をふたつに分ける説が展開される。ひとつは、ほかのジャンルの読書に飽きて中休み的に大衆文芸を手に取る読者。もうひとつは大衆文芸しか読まない読者。前者は大衆文芸に娯楽しか求めず、後者は娯楽以外のものも求める。前者は娯楽として大衆文芸を読んでいるにもかかわらず大衆文芸への批判をくりひろげる。その批判に応えようとした大衆文芸は本来の持ち味をいちじるしく失ってしまう。だからもう一般文芸を基準にした大衆文芸批判に重きを置く必要なんか全然ないんじゃね? といかにも甲賀三郎らしい所説が述べられるのだが、引用箇所にも関連があるので少しくご紹介した次第。

 終りに探偵小説壇について一言したいが、大衆文芸中特殊の位置を占める探偵小説も、一九三〇年に於ては旧態依然乃至不振であつた。探偵小説が大衆文芸中特殊の位置を占めると云ふのは、先に大衆文芸読者を二分したが、探偵小説の読者は正に前者即ち大衆文芸を中間的休養的読物として読む読者に限られてゐるのであつて、その為に探偵小説は非常に窮屈を感じるのである。と同時に、探偵小説は必ずしも楽天的或ひはナンセンス的の要素を必要としない。之が大衆文芸中全く特殊の位置を占める所以である。

 探偵小説に大衆文芸的要素を加味して、それを大衆読物化する事は江戸川乱歩氏に依つて企てられ成功した。之が一九三〇年の所得である。来るべき一九三一年には更に他の作家、例へば大下宇陀児横溝正史等の諸氏に依つて、更にその領域が拡げられるだらう。

 「探偵小説も、一九三〇年に於ては旧態依然乃至不振であつた」というのはむろん甲賀三郎の主観にもとづいた判断であって、これをそのまま一般化することはできないが、『探偵小説四十年』を本邦探偵小説の通史ないしは正史と思い込んでしまいがちなわれわれにとって、これは乱歩の記述を相対化するうえで貴重な資料のひとつとなるだろう。

 ちなみに、『探偵小説四十年』の昭和5年度には「探偵小説流行の余波」と題されたパートがあって、それはこんなぐあいにはじめられている。

 ──流行といっても、私のエログロものが流行したので、正しい意味の探偵小説が流行したのではない。仲間内からはヒンシュクされながらの流行ではあったが、私の名は、ともかく、思いがけずポピュラーになった。

 自身の小説の流行を説くにあたってついつい「探偵小説流行の」といった見出しを立ててしまうあたりにも、このミスター探偵小説が探偵文壇の趨勢と自身の創作活動とを関連づけ照応させて考える傾向を有していたことがうかがえる。


 ■4月7日(土)
メンテナンスはお休みです 

 けさは東京創元社版『貼雑年譜』にもとづいた「乱歩文献データブック」のメンテナンスをお休みする。本来であれば昭和6年に進むところなのだが、3月31日付伝言に記したとおり、いったん手をつけた昭和6年はロシア語の新聞のスクラップに怖気をふるって投げ出したままである。まあきょうくらいはいいだろう。住民監査請求の話題もまたあすにでも。

  本日のアップデート

 ▼2007年2月

 ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス 平野嘉彦

 みすず書房の「理想の教室」の一冊。このシリーズ、当地の書店では扱っていないようだったので取り寄せてもらったのですが、巻末のシリーズ一覧を見てみると、

 『サルトル『むかつき』 ニートという冒険』

 『カミュ『よそもの』 きみの友だち』

 といった書名が並んでいます。何なんだこれは。ああそうか。「むかつき」は「嘔吐」で「よそもの」は「異邦人」か。ロカンタンはニートだったのか。「嘔吐」ってのはいい年したニートがくっそー、木の根っこ見てもむかつくぜッ、とやたらむかつきまくってる小説だったのか。あるいはそうかもしれません。

 ことほどさように、これはお若い衆を対象としてもはや読まれなくなっているのかもしれぬ文学作品を新しい視点から紹介するシリーズらしいのですが、この一冊だけはやや趣がちがっているのか、タイトルからも知れるとおりホフマンの「砂男」と乱歩の「押絵と旅する男」の二作が並べて論じられています。つまり「嘔吐」や「異邦人」、あるいはやはりこのシリーズにとりあげられている「悪霊」や「ロミオとジュリエット」や「白鯨」や「動物農場」や「断食芸人」に比較して、「砂男」や「押絵と旅する男」にはそれを新しい視点から覆すべき古典としての定まった評価というのがいまだ存在していないように思われます。そんなことはないのかもしれませんが。

 そんな問題はまあどうだってよろしく、ふたつの作品があわせて論じられているのはサブタイルからも知れるとおり人形と光学器械という共通項があるからですが、のみならず語り手の述べるところが妄想なのか事実なのかが判然としないという構成上の類似点なども指摘されます。なるほど。

 で、論述は「砂男」を精緻に分析したフロイトへの疑問も呈しながら、それでもやっぱり精神分析を基軸のひとつとして進められます。そのあたりをお知りいただくために、第三回(「理想の教室」というシリーズタイトルどおり、この本では講座の形式が採用されていて第三回は最終講座)の「照合・比較・敷衍」にある「いまひとつの『隠喩的連関』」から引いてみましょう。文中の「私」は「押絵と旅する男」の語り手である「私」のことで、兄の悲劇を語る弟の「私」ではありません。

 「私」は「プリズム双眼鏡」の「形」を「異様」であると形容しています。それが「異国」からもたらされた「舶来品」であるから、その「形」が「異様」であるというのでしょうか。それがもういまは眼にすることもない、古びた商品だから、ということでしょうか。それもあるかもしれません。しかし、「無気味な(unheimlich)」という形容詞に「家、家庭(Heim)」という名詞が含まれているように、「無気味なもの」とは、元来はなじみ深いものが抑圧されて、転化された所産であるとする、かのフロイトの教説にしたがうならば、「異様な形のプリズム双眼鏡」もまた、なじみ深いものでありながら、抑圧されているがゆえに「異様」なのではないかと憶測することができます。そして、さらにそれが抑圧されたのは、「形」の「類似性」の、「隠喩的連関」のゆえであると、推論することができます。そうだとすれば、それは、すなわち睾丸ではないでしょうか。さらにいえば、望遠鏡ではなくて、双眼鏡であるかぎりにおいて、この男根には、ペニスが欠落しています。つまるところ、それは、なかば去勢された男根なのです。

 ナターナエルは、コッペリウスによる、一人の〈父親〉による去勢の脅威に、意識下で怯えながら、しかし、まだしもコッポラから買いとった望遠鏡を、もう一人の〈父親〉から継承した男根を、勃起させるかのように、まっすぐ前方にむけていました。それがきわめて困難な営為であって、彼を狂気に導いた所以であったとしても。しかし、『押絵と旅する男』に登場する「兄」は、弟に双眼鏡を、すでになかば去勢された男根を、さらに「さかさ」に持ちかえるようにもとめたのです。しかし、それにしても、そうすることによって獲得されたエロスとは、いったい何だったのでしょうか。

 乱歩が精神分析に深く傾倒していたのは知られた事実ですが、ひとことでいってしまえば乱歩はフロイトの思想に探偵趣味を発見したということでしょう。乱歩のいう探偵趣味とは、それまで隠されていた秘密を世界が突如あらわにする、その一瞬に立ち会おうとする憧れのことで(といまは仮定しておきます。これはまだ結論と称すべきものではないように思われます)、まさしくフロイト的な隠喩的連関、アナロジーの連鎖を張り渡してゆくことで眼前の世界からまったく別の意味を読み取ってしまうその醍醐味が、乱歩が精神分析に発見した探偵趣味だったのではないかと推測されます。

 上の引用からもおわかりのとおり、フロイディズムを批判的に継承しながら「押絵と旅する男」から思いもかけぬ意味を、あるいは物語を紡ぎ出してゆく探偵趣味がこの一冊にはあふれていて、上の引用のあとは「父」「呉服商」「緋鹿の子の振袖に黒繻子の帯」「当時としてはとびきりハイカラな、黒ビロードの洋服」「外国船の船長」といった言葉を手がかりに、「〈近代〉の不能」という隠された意味が浮かびあがる仕掛けになっています。乱歩ファンならぜひご一読を。気になるお値段は本体千と五百円。

 ところで著者は結びの部分で、「押絵と旅する男」が「砂男」から影響を受けたと考えていいのかどうかという問題をとりあげ、乱歩が「怪談入門」で、

 ──拙作「人でなしの恋」は「砂男」を読む以前に書いたのだが、あとになってはこの着想の模倣と云われても仕方がないようである。

 と明かしていることにふれてこう記してします。

 ──『人でなしの恋』が発表されたのは一九二六年で、一九二九年に公にされた『押絵と旅する男』より以前のことです。その後、乱歩がホフマンのこの作品を読んだのがいつのことか、特定できないので、『押絵と旅する男』に影響を与えたのかどうか、とりあえずは判断を留保しておきます。

 そこで私は考えてみました。乱歩が訳者ということになっている改造社版世界大衆文学全集第三十巻『ポー、ホフマン集』は昭和4年4月の刊行で、ここには「砂男」が収録されています。「押絵と旅する男」は同年6月の発表なのですが、乱歩はかなり以前から腹案を温めていたようですから、『ポー、ホフマン集』の「砂男」は関係がないと見ていいでしょう。それとは別に、昭和2年8月に出た「新青年」夏期増刊《探偵小説傑作集》に「砂男」が掲載されており、これは「人でなしの恋」発表からほぼ十か月後の発行ですから、乱歩が「砂男」を読んだのはこの「新青年」においてではなかったかと私には推測されます。ただし「押絵と旅する男」に「砂男」からの直接的な関係を認めるべきかどうか、これはまた別の問題であろうと思われます。


 ■4月8日(日)
まーた県立へ行ってまいりました 

 きのうはまたしても三重県立図書館であった。「新青年」復刻版の昭和3年と4年のあたりを念のためにチェックして、けさは当然のことながら「乱歩文献データブック」のメンテナンスである。ひいひい。

 県立図書館は津市にある。津市はきのうのお天気があまりよろしくなかった。それでも津市内の桜の名所として知られる偕楽公園はほぼ見ごろといったあんばいだったのか、自動車で通りかかると無駄に嬉しげな花見客の姿が眼についた。私はウインドウ越しに彼らを黙殺して図書館を目指した。さらば凡愚よ、幸福そうな人たちよ。私には花見もくそもないのである。私の眼の前にはただ荒涼たる枯れ野がひろがっているばかりなのである。とはいえきょうあたり、せめて名張市夏見の中央公園へお花見に行ってみたいな、とは思っているのであるけれど。

 さて「新青年」の話です。復刻版を手にとって順に眺めてゆくだけで、それまで見えていなかった脈絡のようなものが浮かびあがってきて腑に落ちるということを経験します。たとえば大正14年、前田河広一郎は「新潮」3月号に「白眼録」を寄せ、そのなかの「探偵物の究明」で「D坂の殺人事件」とオルツィの「スカレット・ピムパーネル」(つまり「紅はこべ」です)を並び叩いているわけなのですが、どうしていきなり「紅はこべ」が出てくるのか、それが私には疑問といえば疑問であった。しかし復刻版をひっくり返していて疑問は氷解した。「D坂の殺人事件」が掲載された号に「紅はこべ」もまた訳載されていたというそれだけの話だったのである。そんな事実が判明したからといってどうということもないのだけれど、私にとって前田河の「白眼録」がよりアクチュアルなものになったような気がするとだけはいっておこう。

 昭和3年から4年にかけてとなると例の賢兄愚弟物語、乱歩と正史の微妙な関係もなんだか気になるところです。読者諸兄姉はそんなことないのかもしれませんが、私個人は非常に気になる。それできのうのところでは、昭和3年の7月号に正史が川崎七郎名義で「桐屋敷の殺人事件」を発表し、挿絵は竹中英太郎が担当していて「陰獣」のそれとまったくおなじタッチ、そしてこの正史作品は末尾に「つゞく」とあるにもかかわらずなぜか一回だけで中絶し、ほぼ一か月後の8月増刊で「陰獣」がスタート、挿絵はむろん英太郎、それから昭和4年2月の新春増刊号には、

 ──A sequ(e)l to the story of same subject by Mr. Rampo Edogawa.

 とタイトルの横に記された正史の「双生児」が発表されるにいたる、といったあたりまでの流れを知ることができました。

 むろんこれらは、「桐屋敷の殺人事件」のことは「彷書月刊」昨年12月号に掲載された堀江あき子さんの「竹中英太郎と『新青年』の挿絵画家」で、また「双生児」のことは昨年11月25日に神戸市で行われた神戸探偵小説愛好会の野村恒彦さんによる発表「横溝正史の作品と挿絵──『新青年』を中心に」でそれぞれ教えられてはいたのですが、「新青年」の誌面という一本の線上の事象としてあらためて眺めてみると、それまで気がつかなかった脈絡のようなものがたしかに見えてくるように思われます。

 そのあたりはまたいずれということにして、さあお花見の準備でもしてみるか。

  本日のアップデート

 ▼2007年4月

 Object glass 12 石塚公昭

 きょうも新刊のお知らせです。まずは書影をどうぞ。

 作家ないしは文士の人形を制作し、その写真を撮影しつづけてちょうど十年。石塚公昭さんの作品が一冊にまとめられました。版元は風濤社。

 「人形+写真」ならば作品展などですでにおなじみでしょう。しかし一冊に編まれたこれは「人形+写真+文」という構成になっており、くつろいだスタイルで制作の舞台裏や作家への偏愛がつづられて読者を飽きさせません。

 一例。谷崎忌で京都に赴いた著者、同行者にそそのかされてかの渡辺千萬子さんに谷崎の人形を披露することになった。人形を一瞥した千萬子さんは開口一番、

 「アラ、似てないわね」

 それを聞いた著者は、

 ──私はその一撃にジンと痺れていた。

 と、いきなり谷崎その人が乗り移りでもしたかのようにマゾヒスティックな快感をおぼえてしまうあたりがいとおかし。とはいえ、人形作家がモデルとなった作家と主客未分離な状態になってしまうというのはよく考えてみれば結構危ない境地なのか、あるいは主客未分離の危なさゆえに至高の境地と称するべきなのか。人形づくりというのはじつに奥の深い営為であるようです。

 われらが乱歩のエピソードでは、乱歩の人形と平井隆太郎先生とのツーショット写真をものすべく、ある小道具を携行して乱歩邸に赴いたものの最後まで先生にその小道具を手渡せなかったというおはなしは、ご本人から直接お聞きしたようなおぼえもあるのですがやはりいとおかし。

 著者がオマージュを捧げた綺羅星のごとき十二人を列記しておきましょう。

Object glass 01 澁澤龍彦
Object glass 02 稲垣足穂
Object glass 03 泉鏡花
Object glass 04 村山槐多
Object glass 05 谷崎潤一郎
Object glass 06 中井英夫
Object glass 07 江戸川乱歩
Object glass 08 永井荷風
Object glass 09 夢野久作
Object glass 10 ジャン・コクトー
Object glass 11 寺山修司
Object glass 12 三島由紀夫

 乱歩ファンなら必読必携。気になるお値段は本体二千円です。


 ■4月9日(月)
『貼雑年譜』はいま…… 

 けさもけさとて「乱歩文献データブック」のメンテナンスである。『貼雑年譜』の昭和6年度、ロシア語の新聞記事も意味不明のままに記載した。だからもう気になるお値段が本体三十万円であった東京創元社版『貼雑年譜』もいまじゃこんな状態っすよったく。

 椅子の横に適当なラックをもってきて、そのうえに置いた『貼雑年譜』は机と書棚のあいだに翼をひろげた鳥みたいな感じで開きっぱなしのほったらかしなのである。もういい。もういいのだ。傷みのことなんかもう気にならない。なーんにも気にならないんだから。

  本日のアップデート

 ▼1931年

 「家」を守る江戸川乱歩氏夫

 何月号かはわかりませんが、昭和6年の「婦女界」に掲載されました。上の『貼雑年譜』の写真、左側のページにスクラップされた二本の記事のうち、右側の大きい記事がこれです。

 ちなみに左側の小さいほうは、平井隆子が「婦人倶楽部」に寄せた「先づ一人前の女になること」という文章。当時の女性セレブのひとりとして、「男子に対する心得」を諄々と説いております。

 いっぽうこちらの記事では糟糠の妻の苦労話が淡々と。

 ある時、かういふ事がありました。

 鳥羽時代からの親友二山久氏(現報知新聞記者)が、その時明治座にかゝつてゐた沢正の『大菩薩峠』がいゝから是非行つてみろといふ話を持ちだされたのです。前々から沢正を軽蔑してゐた乱歩氏は、初めのうちは見たくもない風でしたが、盛んに勧められるので、それならと行く気になりました。

 が、恰度貧窮時代の事とて、切符も買へません。遂に、奥さんや子供さんの着物まで質に入れて、やつと出かけられたといふ事です。そんな時、奥さんはいつもおとなしく唯目を泣きはらしておいでだつたさうですが、それほど何事にも熱心で、貧乏など事ともしない乱歩氏の毅然たる態度には、奥さんも心中御満足だつたのでせう。

 さうでせうか。まあ婦人雑誌の記事ですからそれなりの潤色もあるのでしょうが、これもまた『江戸川乱歩年譜集成』の貴重なデータのひとつではあります。


 ■4月10日(火)
低調だった知事選挙を振り返りつつ 

 きょうは住民監査請求の話題である。4月6日付伝言のつづきである。関係各位は心して読まれよ。さのよいよい。

 4月5日木曜の午後、名張市役所三階にある監査委員・公平委員会事務局。私は住民監査請求ってどうよ? と尋ねにいった。先日も記したとおり、これから問題にしようとしていることが住民監査請求の対象になるのかどうか、それすら私にはわかっていなかった。何を問題にするのかというと、そんなものは名張まちなか再生プランに決まっておるであろうが。当サイト「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」で確認すると昨年の6月26日、私は名張市役所四階の名張まちなか再生委員会事務局を訪れて絶縁を宣してきた。おまえらもう好きにしろと、おまえらには何いったってなーんにも通用しないということがよくわかったと、わしゃもう何も知らんと、そのように告げて名張まちなか再生プランとは完全に無縁な人間になってきた。

 だからもうプランに対して私は何もいわぬ。うすらばかども好きにするがよい。したがってこのプランに関してはうすらばかどもによるインチキがすらすらまかり通ってしまうのであるけれど、こげなことはこれでおしまいにしなければならんばい。税金の具体的なつかいみちがここまで手ひどいインチキによって決められてはたまったものではない。わかっておるのかこら、と尋ねてもどうせわかってはおらぬのであろう。学習能力皆無だもんな。三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」とまったくおんなじことやってるんだもんな。

 そういえば、あたかも葬礼のごとき盛りあがりのなさを見せていた三重県知事選挙は8日投開票が行われ、いうまでもなく現職が圧勝した。同日夕刻にちょっとした用事があって拙宅にやってきたある老婆は開口一番、きょうは投票に行かなかった、選挙で棄権するのは長い人生ではじめての経験であると、選挙戦の低調さにあきれ返ったのか漂白された六尺ふんどしのようにしらけきった顔で話していたものであったが、名張市オフィシャルサイトのこのページによれば名張市の投票率はなんと34.05%。日刊各紙地方版の伝えるところによればこれは県内全市町中トップの低投票率であるらしく、名張市においては県議会議員選挙が無投票になるというまったりぶりであったから知事選の投票率が伸びなかったのも無理はないのだが、それにしてもトップとはでかした。何であれ一番を目指すのはいいことである。この次は思わず夢の20%台をめざしたくなるほど多くの名張市民から相手にされていないというしかない知事ではあるけれど、ここは素直に祝意を表しておきたい。しかしあの知事はまーだ「新しい時代の公」とかなんとかおっしゃっているのであろうか。あんなモデルが無効であることはとっくに証明されておるはずなのだが。

 少なくとも名張市においてはすでに無効である。名張まちなか再生プランのどたばた騒ぎを思い返してみるだけでも、協働だのなんたらかんたらの公だのというお題目の無効性は泣きたくなるほどよくわかる。なんたらかんたらの公とやらの主人公は多様な主体であるなどとわけのわかんないこといったって、それなら名張まちなか再生プランをつくった名張地区既成市街地再生計画策定委員会はどんなような多様な主体によって構成されていたのよと見てみれば、名張市オフィシャルサイトの「第1回名張地区既成市街地再生計画策定委員会」に掲載されているところを転載した「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」からさらに引いてみるとこうである。

井内 孝太郎
(社)名張青年会議所 理事長
浦山 益郎
国立大学法人三重大学工学部教授
岡田 かる子
名張市老人クラブ連合会 副会長
岡村 信也
名張文化協会 理事
勝林 定義
名張地区まちづくり推進協議会 会長
川上 聰
川の会・名張 顧問
辰巳 雄哉
名張商工会議所 会頭
西 博美
名張市社会福祉協議会 会長
西川 孝雄
国土交通省近畿地方整備局
木津川上流河川事務所 所長
早川 正美
(欠席) 三重県伊賀県民局 局長
福田 みゆき
名張市 PTA 連合会 会長
柳生 大輔
名張市議会議員
山崎 雅章
名張市区長会 会長
山村 博亮
名張市議会議員
(事務局) 西出・朝野・永岡・深井

 どこが多様な主体か。どこが新しい時代のなんたらかんたらか。そこらの各種団体から肩書だけで適当に人を集めてきてどこが多様かというのだ。そんな手法のどこが新しいかというのだ。やることなすこと硬直しておるではないか。もしかして死後硬直なのかな。いやそんなこともあるまいけれど、とにかくこういうのを旧態依然というのである。因循姑息というのである。アンシャンレジームというのである。さのよいよい。

 であるがゆえに住民監査請求なのである。2006年度が終わるのを待って、私は住民監査請求という手段に訴えることにしたのである。しかしいったい何を請求の対象にすればいいのであろうか。それがまずわからない。私は監査委員・公平委員会事務局のスタッフに説明した。細川邸がいずれ公的施設として整備されたとする。つまり税金が投じられたわけである。それは税金の無駄づかいであると私は判断する。明らかな無駄である。しかしそれは単に私の認識であるにすぎない。認識というよりはただの印象であり感想であり思い込みであるといったほうが正確だろう。細川邸整備に投入された税金が無駄であったということを何を基準にして証明すればいいのか。どのように証拠だてればいいのか。どんな手段を用いれば名張市に総額何円の財産的損害が発生していると明確に指摘できるのか。そんなことは不可能であろう。とてもできない相談であろう。私はみずからの考えるところをそんなぐあいに説明した。

 そしてそのうえで、だから細川邸をこんなぐあいに整備しましたという結果をではなく、その結果にいたったプロセスを住民監査請求の対象にすることは可能なのであろうか、とスタッフに質問した。

 つづきはあしたである。何の関係もないことなれど、『新青年』研究会の末永昭二さんによる講演会のお知らせを「番犬情報」に掲載いたしました。ぜひご一読ください。さのよいよい。

  本日のアップデート

 ▼2004年10月

 ミステリ十二か月 北村薫

 こういう本が出ていることを私はまったく知らず、当地の書店に一冊だけ並んでいるのを発見して購入してきました。

 発行日は2004年の10月25日。ということは『子不語の夢 江戸川乱歩小酒井不木往復書簡集』ときびすを接して(奥付の発行日でいえばわずか四日の差)出版されていたのですが、私は全然気がつかなかった。まああの当時はいろいろと忙しく、しかし個人的には乱歩に関するあれこれのモチベーションがいちじるしく低下していた時期でもあったから、見逃していたのも無理はないかもしれない。

 読売新聞の連載をまとめたうえに対談や書きおろしも加えて編まれた人気作家による絶好のミステリ入門書。乱歩の名前も随所に散見されるのですが、引用するとなれば私の場合ここしかありません。名張市立図書館の『江戸川乱歩著書目録』が登場するパートです。

 『黄金虫』の話が、もう少し続きます。では、ベストセラーとなり、多くの人の頭に《おうごんちゅう》という読みを定着させた、『少年少女世界文学全集』(講談社)の訳者は誰か。

 ──江戸川乱歩。

 講談社版の児童向け全集としては、それ以前に、広く読まれた『世界名作全集』があります。『図説 子供の本 翻訳の歩み事典』(柏書房)によれば、この五十九巻が、『黄金虫』(昭和二十八年)。乱歩訳のポー短編集です。『少年少女世界文学全集』の『黄金虫』(昭和三十六年)は、ここから持って来たのでしょう。

 大乱歩の登場に、思わず、《江戸川屋っ!》と、声をかけたくなります。しかし、乱歩の翻訳というのは、名前だけを提供したもので《いずれも代訳》(『江戸川乱歩著書目録』名張市立図書館)のようです。ただ、他人がやると、余計に、らしくなるということはあります。

 子供向け読み物にする時、章分けをして、それぞれに題を付けることがあります。『少年少女世界文学全集』などは、この辺りが、いかにも《乱歩的》です。こうなっています。

骸骨の絵─黄金の妖虫─ふしぎな探検─ゆりのきの巨木─骸骨の左の目─黄金虫の手引き─鉄の輪─大宝庫─羊皮紙のひみつ─きみょうな暗号─すばらしい推理─あくまのいす

 そのまま、『少年探偵団シリーズ』の目次になりそうです。《骸骨の左の目》などというところは、『怪奇四十面相』に出て来る暗号の言葉──《どくろの左眼をさぐれよ》を連想させます。『黄金虫』は乱歩の愛した、まさに《どくろの左眼をさぐ》る小説です。そう考えると、あの言葉は、乱歩から、暗号小説で胸をおどらせてくれた大先達ポーへの、敬意のこもった挨拶のようにも思えます。

 そんな必要はないのではないかとも見受けられるのですが、わざわざ『江戸川乱歩著書目録』をひきあいに出していただいたのはまことにありがたいことです。この本のことを知らなかった不明を、私はあらためて恥じねばなりません。

 この引用の前後では、ポーの「黄金虫」は「おうごんちゅう」なのか「こがねむし」なのかというテーマが追究されています。そういえば以前、名張市恒例ミステリ講演会の講師として名張にいらっしゃったとき、北村さんは市立図書館にもお立ち寄りくださって、乱歩コーナーに展示された世界名作全集の『黄金虫』も手に取っていらっしゃいました。そしていきなり私に、おまえはこれを「おうごんちゅう」と読むか「こがねむし」と読むか、とのご下問をたまわりました。

 この手の問題には私も日ごろ頭を悩ませておりますので(たとえば「双生児」は「ふたご」か「そうせいじ」か、「一人二役」は「ひとりふたやく」か「いちにんにやく」か)、それまでの長きにわたる考察にもとづいて「おうごんちゅう」であろうとの見解を申し述べました。理由は、

 「こがねむしと読んでしまうとなんや金蔵とか蔵を建ててしまいそうでスケールが小さくなります」

 といったものだったと記憶しているのですが、こうやってあらためて書き記してみるとなんともまぬけな見解ではないか。