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2007年4月上旬
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あしたはどっちだとかばかなこといってるあいだにいつのまにか4月になっておりました。私は何をやっておったのか。先日、三重県立図書館に赴いて「新青年」の復刻版をチェックしたところ大正15年の復刻版だけが架蔵されておらず、ためにどっかよその図書館の蔵書を借りてくれるよう依頼してきたことは3月25日付伝言に記したとおりなのですが、よその図書館から借りたものが届きましたとメールで連絡が入りましたので、3月31日土曜日の午後、私はふたたび県立図書館へ足を運びました。片道は一時間十五分。 借りてくれてあったのは岐阜県図書館の蔵書でした。税金ちょろまかしてしこたま裏金つくったうえ図書館には「新青年」の復刻版まで完備しているというのだから、岐阜県ってのはよっぽど景気がいいのだろうなとか思いながら「新青年」の復刻版、チェックとコピーをくり返し、すべての作業を終えて帰宅したのは午後7時30分のことでした。45分からはお酒飲みながらテレビで「あしたのジョー」。 翌日は朝っぱらから「乱歩文献データブック」の大正15年、「新青年」復刻版のデータにもとづいて一生懸命メンテナンスに励んだのですが、1月からはじめた作業が12月になったとき、12月号のコピーを一ページだけ取り忘れていたことに気がつきました。それがないとメンテナンスできません。しかも岐阜県図書館の蔵書なんですから返却されてしまったらまたちょっと面倒。県立図書館の開館時間を待ちかねるようにして電話を入れてみると4月24日まで借りてあるとのことだったのでひと安心はしたものの、しかしものごとには勢いというものがありますからえーいとばかりその日すなわち4月1日の日曜日にも県立図書館へまっしぐら。取り忘れていたコピーを取り、ついでだからと昭和2年から3年、4年あたりもつぶしてやることにして申し込んでみたところ、昭和4年以降はほかの入館者が閲覧しているとのことでした。 へーッ、とか思いました。私以外に「新青年」の復刻版をチェックする人間が存在していようとは。しかしほんとに存在していたのであって、年配の男性がテーブルに陣取り、復刻版の群青色の背をずらりと並べて調べものに没頭していらっしゃいます。やがて私はコピーを取るためにテーブルを離れました。県立図書館にはコピー機が二台並んでいて、そのうち一台を占拠して大量にコピーを取っておりますと、その男性もまた復刻版を手にコピー機の前へ。二台のコピー機でどちらも「新青年」の復刻版をコピーしているという、これはたぶん三重県立図書館開館以来はじめての珍事でしょう。こうなるとさすがに黙ってもいられません。何をお調べかとお訊きしてみると、 「辰野九紫です」 「あ。はあはあ。新聞で拝見しました」 「ええ。あれです」 辰野九紫は戦前に活躍したユーモア作家で、乱歩とも親交がありました。戦後は三重県の桑名市に住んでいたのですが、地元にゆかり深い辰野九紫の作品集刊行をめざして資料を集めている人がいると、そういった内容の新聞記事のことを私は記憶しておりました。そんなこんなで立ち話をしておりますと、 「江戸川乱歩も桑名に来てるんですよ」 「え」 「もういっぺん東京に出てこいゆうて、乱歩が辰野九紫を迎えに来てるんです」 「それは新聞記事か何かで文献的に証明することができるんですか」 「いやそれがねえ」 みたいな話も出たのですが、私は『乱歩文献データブック』を持参しておりましたので索引を頼りに辰野九紫が記した乱歩文献のことをお知らせし、その日は日が暮れるまでに帰宅して、翌日も朝っぱらからメンテナンスに励んだのですがこれがいっこうに終わらない。その翌日、つまりけさになってようやくひととおり終わったのですけれど、なんかひさしぶりで鬼の気合を全開にしてしまいました。どんなぐあいの気合だったか。「最新情報」でメンテナンスの内容を概観していただければと思います。
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与太も飛ばしてみるもので、きのう森下雨村の「一転機にある探偵小説」について記しましたところ、おふたりの方からメールでご教示をいただきました。『貼雑年譜』にスクラップされた「上」は大正15年11月30日、つづく「下」は12月1日の読売新聞に掲載されたものであるとのことです。おひとりからは紙名と日付を含む紙面のスキャン画像をお送りいだきましたので、レギュラー枠での放送が終わってからこんなフレーズを使用するのもなんだかあれなのですけれど、これはもう完全無欠なファイナルアンサーだということになります。 さらにまた、「『新青年』趣味」第十一号に発表された湯浅篤志さんの「森下雨村と『新青年』編集局のストラテジー」にも「一転機にある探偵小説」が引用され、そこには掲載日が明示されているとのお知らせもいただいて、えッ、とびっくりした私はゆくりなくも驚愕の朝を迎えてしまいました。「『新青年』趣味」第十一号といえば昨年、2006年12月15日付伝言に私はこんなことを記しております。
私という名の愚か者は表紙をスキャンしてこんなことを書き記していた時点でもまだ気がついていなかったのですが、不意の不安をおぼえてついさきほど「RAMPO Up-To-Date」の2003年のページを閲覧し、この年12月31日に発行された「『新青年』趣味」第十一号のことがどこにも記載されていないという事実をようやくにして知りました。つまり驚愕の朝になったわけです。 第十一号に急いで眼を通してみました。この号には湯浅さんの論考をはじめとして三点の乱歩文献が収められており、それらは当然「RAMPO Up-To-Date」に記載されていなければならぬのですが、私はその作業をなぜか放棄してしまっていた。上に引いた昨年12月の伝言には「お休み中に資料を整理していたら段ボール箱のなかから何冊かまとまってどさどさ出てきました」とありますから、なんだかごちゃごちゃとそこらにほっぽり出してあったようである。考えられる理由はただひとつしかありません。上の引用にもありますとおりこの号には私の駄文が掲載されていて、私はそのなんというか誌面の汚れでしかないような腰折れがなんとも恥ずかしく、ためにこの号を開くのがなんかいやだな、ほんっといやだな、とかうじうじしているうち「RAMPO Up-To-Date」に記載する機会を失してしまったというところであろうといまは振り返られる次第です。 ですから私は遅れに遅れてついさっき、「RAMPO Up-To-Date」の2003年12月31日に「『新青年』趣味」第十一号のデータを冷や汗かきながら記録いたしました。三年以上もほったらかしにしてあったわけで、『新青年』研究会の関係各位には心からお詫びを申しあげます。私という名の愚か者はほんとにまあどうしようもありません。今後ともよろしくご高誼をたまわれれば幸甚です。
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きのうの当地はじつにへんてこなお天気で、晴れたり曇ったりそうかと思うと横殴りの雨が降ったりうっそーといいたくなりましたけど雪までちらついたり、そんな悪天候のなか私は某テレビ局の取材におつきあいして乱歩生誕地碑のあたりを中心にまちなかをさまよったり、あるいは名張のまちを一望できる場所はないかとのお尋ねをいただきましたので名張市民にもあまり知られていないであろうとっておきの遥拝スポットである黒田の勝手神社まで道案内を務めたり、おかげさまで無事に撮影を終えていただくことができました。このあと東京でも取材があって、放送予定は5月16日とのことでしたけれど、名張のまちも十秒くらいは画面に登場するのではないでしょうか。詳細はまた追ってお知らせいたします。 けさは「乱歩文献データブック」の昭和4年をメンテナンスいたしました。
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まったくまあ毎朝毎朝『貼雑年譜』と首っ引きになってあっちこっちペシッとかピシッとかときにメリッとか音をさせながら大正末や昭和初年の新聞記事なんぞに眼を凝らしていると自分がいつの時代の人間なのかがわからなくなる。息抜きに本屋を覗いて「魔術師」が載ってる「講談倶楽部」でも買ってこようかという気になってくる。いかんいかん。こんなことではいかん。いまは2007年の4月なのだとみずからにいいきかせる。そして『貼雑年譜』に眼を戻す。スクラップされた新聞記事の、 ──行李詰事件の張本人/清作はどうしてゐる?/生か死か凶行の原因その他/探偵小説家の観測 という見出しが眼につく。昭和5年の清作とやらのことなどどうでもいいのだが、2007年のこの相作は毎朝いったい何をしておるのかといっそ不思議な感じがしてくる。 そんなこんなで息抜きというわけでもないけれど、私はきのう名張市役所に行ってきた。行ってから思いあたったのだが、きのうは市役所全体が悄然としているはずの日であった。なぜかというと新年度早々、おとなりの伊賀市では腹から笑えるこんなニュース(4月3日付朝日新聞)があったというのに、わが名張市ではまったく無関係な市民でも粛然とせざるを得ないこんなニュース(4月3日付伊勢新聞)があり、そのニュース関連の葬儀が営まれたのがきのう5日のことだったからである。紋切り型の表現を用いるならば、名張市役所は深い悲しみに包まれていたといったところになるだろう。にしても行ってしまったものはしかたがない。用件を済ませてきた。 まず行ったのは三階である。などと書き記すと早とちりの向きは、おお、 ──いいかこら教育次長だかなんだか知らんがろくに経緯や事情もわきまえぬ人間が横からしゃしゃり出てきて人に偉そうな説教かましてんじゃねーぞたこ。 の件でとうとう教育委員会に怒鳴り込みやがったかあのばか、とお思いかもしれない。そんな事態にいずれ逢着する可能性もないではないが、きのうはそうではなかった。おあいにくである。私が足を運んだのは教育委員会とおなじ三階にある監査委員・公平委員会事務局だ。住民監査請求についてアドバイスを仰いできた。 住民監査請求は地方自治法によって定められた制度で、同法第二百四十二条にこうある。
以下、九項までの詳細は「法令データ提供システム」のこのページでお読みいただきたい。名張市オフィシャルサイトには「監査委員事務局の概要」というページがあって、そこでは住民監査請求のことがこのように説明されている。
要するに、こんなぐあいに税金つかったのはちょっと変じゃね? とか思った市民が監査委員に対してこれどうよ? とか監査を求めるシステムだ。私は一度でいいからこの住民監査請求というやつをやってみたくてしかたがない。おととしの3月に提出した渾身のパブリックコメント「僕のパブリックコメント」にはその悲願をこう記してある。
2004年度に実施された三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」では、予算の明細がいっさい発表されぬまま半年間にわたるロングランの事業に突入するという異常事態が堂々とまかり通った。しかも関係者全員がばかだったから誰ひとりその異常さに気がつかない。私ひとりがぎゃあぎゃあ騒いでいたら三重県知事もさすがにことの重大さに気がついたのか、事業途中に開かれた事業推進委員会で八百万円の専決処分を承認する際、内容をもっと詳細に報告しなければ県民に対する説明責任が果たせないと事務局を叱責するにいたった。ために事務局職員が会合を中座し、青い顔して専決処分の明細を調べに走り回るというシーンが展開されることになった。事務局乙。 しかしそんなのはどう見ても手遅れというものなのであって、知事はもう少し謙虚に県民(つまり私のことだ)の声に耳を傾けていればよかったのである。それをまあ真摯な県民の声を「雑音」と決めつけて排除してしまうのだから始末が悪い。知事といえば現在ただいま三重県ではまさに知事選挙が展開されている最中なのだが、これがまたえらく低調な選挙である。盛りあがりというものがどこにも見られない。ブログ「三重県よろずや」に引用されていたので衆議院議員小選挙区三重県第二区選出の中川正春議員のオフィシャルサイトを見てみたら、このページの4月3日にこんなことが書かれていた。中川議員乙。
たしかにブンヤさんもしらけているらしく、けさなど中日新聞オフィシャルサイトには「'07 みえ知事選 名言、珍言集」という記事が掲載された。テレビ番組でいえばプロ野球の名プレー珍プレー集に相当しよう。要するに色ものだ。しらけぶりが如実に伝わってくる。ブンヤさん乙。 閑話休題。「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」の決算は結構怪しい点も少なからず見受けられたものの一応のものが報告されたので、残念ながら住民監査請求を起こすにはいたらなかった。そして二年後、ふたたび住民監査請求のチャンスがめぐってきたというわけだ。私は雪辱を期すエースピッチャーのような心境で監査委員・公平委員会事務局を訪れた。 とはいえ、いきなり住民監査請求を行おうというのではない。私はこの制度について一知半解の知識しかもちあわせていないから確認しなければならぬこともあり、それ以前に自分が問題にしようとしていることがはたして住民監査請求の対象になるのかどうか、それすらよくわからなかった。だから事務局スタッフからアドバイスを仰いだのである。スタッフはじつに懇切にアドバイスしてくれた。スタッフ乙。
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けさは東京創元社版『貼雑年譜』にもとづいた「乱歩文献データブック」のメンテナンスをお休みする。本来であれば昭和6年に進むところなのだが、3月31日付伝言に記したとおり、いったん手をつけた昭和6年はロシア語の新聞のスクラップに怖気をふるって投げ出したままである。まあきょうくらいはいいだろう。住民監査請求の話題もまたあすにでも。
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きのうはまたしても三重県立図書館であった。「新青年」復刻版の昭和3年と4年のあたりを念のためにチェックして、けさは当然のことながら「乱歩文献データブック」のメンテナンスである。ひいひい。 県立図書館は津市にある。津市はきのうのお天気があまりよろしくなかった。それでも津市内の桜の名所として知られる偕楽公園はほぼ見ごろといったあんばいだったのか、自動車で通りかかると無駄に嬉しげな花見客の姿が眼についた。私はウインドウ越しに彼らを黙殺して図書館を目指した。さらば凡愚よ、幸福そうな人たちよ。私には花見もくそもないのである。私の眼の前にはただ荒涼たる枯れ野がひろがっているばかりなのである。とはいえきょうあたり、せめて名張市夏見の中央公園へお花見に行ってみたいな、とは思っているのであるけれど。 さて「新青年」の話です。復刻版を手にとって順に眺めてゆくだけで、それまで見えていなかった脈絡のようなものが浮かびあがってきて腑に落ちるということを経験します。たとえば大正14年、前田河広一郎は「新潮」3月号に「白眼録」を寄せ、そのなかの「探偵物の究明」で「D坂の殺人事件」とオルツィの「スカレット・ピムパーネル」(つまり「紅はこべ」です)を並び叩いているわけなのですが、どうしていきなり「紅はこべ」が出てくるのか、それが私には疑問といえば疑問であった。しかし復刻版をひっくり返していて疑問は氷解した。「D坂の殺人事件」が掲載された号に「紅はこべ」もまた訳載されていたというそれだけの話だったのである。そんな事実が判明したからといってどうということもないのだけれど、私にとって前田河の「白眼録」がよりアクチュアルなものになったような気がするとだけはいっておこう。 昭和3年から4年にかけてとなると例の賢兄愚弟物語、乱歩と正史の微妙な関係もなんだか気になるところです。読者諸兄姉はそんなことないのかもしれませんが、私個人は非常に気になる。それできのうのところでは、昭和3年の7月号に正史が川崎七郎名義で「桐屋敷の殺人事件」を発表し、挿絵は竹中英太郎が担当していて「陰獣」のそれとまったくおなじタッチ、そしてこの正史作品は末尾に「つゞく」とあるにもかかわらずなぜか一回だけで中絶し、ほぼ一か月後の8月増刊で「陰獣」がスタート、挿絵はむろん英太郎、それから昭和4年2月の新春増刊号には、 ──A sequ(e)l to the story of same subject by Mr. Rampo Edogawa. とタイトルの横に記された正史の「双生児」が発表されるにいたる、といったあたりまでの流れを知ることができました。 むろんこれらは、「桐屋敷の殺人事件」のことは「彷書月刊」昨年12月号に掲載された堀江あき子さんの「竹中英太郎と『新青年』の挿絵画家」で、また「双生児」のことは昨年11月25日に神戸市で行われた神戸探偵小説愛好会の野村恒彦さんによる発表「横溝正史の作品と挿絵──『新青年』を中心に」でそれぞれ教えられてはいたのですが、「新青年」の誌面という一本の線上の事象としてあらためて眺めてみると、それまで気がつかなかった脈絡のようなものがたしかに見えてくるように思われます。 そのあたりはまたいずれということにして、さあお花見の準備でもしてみるか。
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けさもけさとて「乱歩文献データブック」のメンテナンスである。『貼雑年譜』の昭和6年度、ロシア語の新聞記事も意味不明のままに記載した。だからもう気になるお値段が本体三十万円であった東京創元社版『貼雑年譜』もいまじゃこんな状態っすよったく。 椅子の横に適当なラックをもってきて、そのうえに置いた『貼雑年譜』は机と書棚のあいだに翼をひろげた鳥みたいな感じで開きっぱなしのほったらかしなのである。もういい。もういいのだ。傷みのことなんかもう気にならない。なーんにも気にならないんだから。
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きょうは住民監査請求の話題である。4月6日付伝言のつづきである。関係各位は心して読まれよ。さのよいよい。 4月5日木曜の午後、名張市役所三階にある監査委員・公平委員会事務局。私は住民監査請求ってどうよ? と尋ねにいった。先日も記したとおり、これから問題にしようとしていることが住民監査請求の対象になるのかどうか、それすら私にはわかっていなかった。何を問題にするのかというと、そんなものは名張まちなか再生プランに決まっておるであろうが。当サイト「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」で確認すると昨年の6月26日、私は名張市役所四階の名張まちなか再生委員会事務局を訪れて絶縁を宣してきた。おまえらもう好きにしろと、おまえらには何いったってなーんにも通用しないということがよくわかったと、わしゃもう何も知らんと、そのように告げて名張まちなか再生プランとは完全に無縁な人間になってきた。 だからもうプランに対して私は何もいわぬ。うすらばかども好きにするがよい。したがってこのプランに関してはうすらばかどもによるインチキがすらすらまかり通ってしまうのであるけれど、こげなことはこれでおしまいにしなければならんばい。税金の具体的なつかいみちがここまで手ひどいインチキによって決められてはたまったものではない。わかっておるのかこら、と尋ねてもどうせわかってはおらぬのであろう。学習能力皆無だもんな。三重県の官民合同事業「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」とまったくおんなじことやってるんだもんな。 そういえば、あたかも葬礼のごとき盛りあがりのなさを見せていた三重県知事選挙は8日投開票が行われ、いうまでもなく現職が圧勝した。同日夕刻にちょっとした用事があって拙宅にやってきたある老婆は開口一番、きょうは投票に行かなかった、選挙で棄権するのは長い人生ではじめての経験であると、選挙戦の低調さにあきれ返ったのか漂白された六尺ふんどしのようにしらけきった顔で話していたものであったが、名張市オフィシャルサイトのこのページによれば名張市の投票率はなんと34.05%。日刊各紙地方版の伝えるところによればこれは県内全市町中トップの低投票率であるらしく、名張市においては県議会議員選挙が無投票になるというまったりぶりであったから知事選の投票率が伸びなかったのも無理はないのだが、それにしてもトップとはでかした。何であれ一番を目指すのはいいことである。この次は思わず夢の20%台をめざしたくなるほど多くの名張市民から相手にされていないというしかない知事ではあるけれど、ここは素直に祝意を表しておきたい。しかしあの知事はまーだ「新しい時代の公」とかなんとかおっしゃっているのであろうか。あんなモデルが無効であることはとっくに証明されておるはずなのだが。 少なくとも名張市においてはすでに無効である。名張まちなか再生プランのどたばた騒ぎを思い返してみるだけでも、協働だのなんたらかんたらの公だのというお題目の無効性は泣きたくなるほどよくわかる。なんたらかんたらの公とやらの主人公は多様な主体であるなどとわけのわかんないこといったって、それなら名張まちなか再生プランをつくった名張地区既成市街地再生計画策定委員会はどんなような多様な主体によって構成されていたのよと見てみれば、名張市オフィシャルサイトの「第1回名張地区既成市街地再生計画策定委員会」に掲載されているところを転載した「名張まちなか再生プランの真実、ていうかインチキ」からさらに引いてみるとこうである。
どこが多様な主体か。どこが新しい時代のなんたらかんたらか。そこらの各種団体から肩書だけで適当に人を集めてきてどこが多様かというのだ。そんな手法のどこが新しいかというのだ。やることなすこと硬直しておるではないか。もしかして死後硬直なのかな。いやそんなこともあるまいけれど、とにかくこういうのを旧態依然というのである。因循姑息というのである。アンシャンレジームというのである。さのよいよい。 であるがゆえに住民監査請求なのである。2006年度が終わるのを待って、私は住民監査請求という手段に訴えることにしたのである。しかしいったい何を請求の対象にすればいいのであろうか。それがまずわからない。私は監査委員・公平委員会事務局のスタッフに説明した。細川邸がいずれ公的施設として整備されたとする。つまり税金が投じられたわけである。それは税金の無駄づかいであると私は判断する。明らかな無駄である。しかしそれは単に私の認識であるにすぎない。認識というよりはただの印象であり感想であり思い込みであるといったほうが正確だろう。細川邸整備に投入された税金が無駄であったということを何を基準にして証明すればいいのか。どのように証拠だてればいいのか。どんな手段を用いれば名張市に総額何円の財産的損害が発生していると明確に指摘できるのか。そんなことは不可能であろう。とてもできない相談であろう。私はみずからの考えるところをそんなぐあいに説明した。 そしてそのうえで、だから細川邸をこんなぐあいに整備しましたという結果をではなく、その結果にいたったプロセスを住民監査請求の対象にすることは可能なのであろうか、とスタッフに質問した。 つづきはあしたである。何の関係もないことなれど、『新青年』研究会の末永昭二さんによる講演会のお知らせを「番犬情報」に掲載いたしました。ぜひご一読ください。さのよいよい。
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